「当たり連発のBBC」

2007年3月20日 (火)

連載 許光俊の言いたい放題 第104回

「当たり連発のBBC」

 この前はBBCライヴのシルヴェストリを取り上げた。超ジトジト風味の「ドン・ファン」、先週のカルチャーセンターで聴かせてみたら、意外にも人気があった。クラスの半分くらいの人が、ケンペよりこっちのほうがいいと言うのだ。これは想像以上だった。そうそう、カルチャーセンターと言えば、最近お気に入りの成田為三「君が代変奏曲」にはみんな「美しい!」と感動していた。
 で、BBCのシリーズだが、演奏も音質もかなり玉石混淆の印象を抱いていたのだけれど、最近は満足できるものを連発している。
 たとえば、ロジェストヴェンスキーがBBC交響楽団を指揮した「くるみわり人形」第2幕。第1曲からしてまさにメルヘンチックとしか言いようがない柔らかい響きで、夢見るように奏される。ゆっくりした部分のあとで、テンポが上がってからも、いい感じでリズムが刻まれ、しかも各楽器が生彩に富んでいる。だいたいイギリスのオーケストラは腕はあっても味わいには乏しいのだが、さすがロジェストヴェンスキーがまじめにやると、途端に色彩が変わる。この1曲だけでロジェストヴェンスキーがどれほどすぐれた音楽家だったかがわかるだろう。力んだり、過度に意識的な様子はまったくない。ごく当たり前のようにきわめて美しい音楽が次から次へと湧き上がってくるのだ。常に微笑んでいるかのような余裕綽々の贅沢な芸で、品がいい。ロジェストヴェンスキーは時々、こうやって「くるみわり」第2幕だけをコンサートで取り上げていて、東京でも違うオーケストラとやっていたけれど、これは特にすばらしいできばえなのではないか。私はまったく使わない表現だが、本来はこういうものこそを「円熟の境地」と呼ぶはずだ。
 ショスタコーヴィチの「ボルト」は、ロジェストヴェンスキーお得意のアンコール・ピース。

   同じシリーズのストコフスキー集では、クレンペラーのワルツが演奏されているのが目を引く。もちろんストコフスキーだから、いかにも屈託なく楽しげだ。辛辣なクレンペラーはこの演奏を聴いたら、何と言ったのだろう? クレンペラー没後一年の記念コンサートの記録らしい。
 ラヴェルの「スペイン狂詩曲」は、繊細でキラキラした響きというよりは、量感や厚みがある響きのマスで組み立てられているのが普通と違う。この演奏の最大の魅力は、ミステリアスな雰囲気。隠微な弱音のパレットを駆使して聴かせるあたり、さすがだ。90歳以上とは思えない丁寧な仕事ぶりである。なんだかアラビアみたいな匂いもしておもしろい。あるいは怪奇映画か。近頃は子供も夜更かしするようになったし、終夜営業のコンビニなどで道も明るくなってしまったが、そんなのではなくて、もっと暗くて得体の知れない、昔の深夜の匂いがする。久しぶりでアダルトな気配が漂う音楽を聴いた。
 それと、ヴォーン・ウィリアムスの「タリスの主題による幻想曲」がいい。ストコフスキーらしい、耽美的、神秘的な弦楽器の響きがすばらしい。私はストコフスキーの熱心な聴き手ではないけれど、これはたいへん好感がもてる1枚である。

   リヒテルがソロを弾いて、伴奏をブリテンが指揮したモーツァルトのピアノ協奏曲も強烈だ。特におもしろかったのは、第22番。第1楽章はリヒテルとブリテンの呼吸が合わず、まるで男女が別々の方向を向いてしゃべっているみたいだ。互いに相手と会わせようというつもりはほとんどないらしく、リヒテルは自分流を押し通すし、ブリテンも同様。微妙に崩壊したまま進んでいく。これにいらだっているのか、ピアノは妙に不安定だし、ブリテンのほうも、ところどころ凶暴な顔つきを見せ、変に攻撃的、威圧的な響きを出す。不穏な空気が漂う。やがて、ブリテンが書いたカデンツァとなるが、なんとリヒテルは、これまでの欲求不満を吹き飛ばすがごとく、いきなり「やってやるぜ! おまえは黙っていろ!」とばかりにガンガン弾き出すのだ。ここは有無を言わさぬすばらしい演奏である。するとブリテンも負けじと、ムキになったようにオーケストラを駆り立ててこの楽章を閉じるのだ。まるで子供の喧嘩である。
 フィナーレにもびっくりである。なんと12分をかけた異常な演奏だ。リヒテルはすっかり調子に乗り、第1楽章とは別人のようだ。快活なロンドは異様に巨大で、完全にベートーヴェンのスケルツォ状態。象さんが踊っているみたいだ。そして、ゆっくりした部分は、アンダンティーノどころか、止まりそうなアダージョ。やたらとしみじみしている。この楽章でも、ブリテン作のカデンツァがちょっと病的で怪しい。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 


【許光俊の言いたい放題】
第1回「謎の指揮者エンリケ・バティス」
第2回「残酷と野蛮と官能の恐るべき《ローマの祭》」
第3回「謎の指揮者コブラ」
第4回「快楽主義のベートーヴェンにウキウキ」
第5回「予想を超えた恐るべき《レニングラード》《巨人》」
第6回「必見! 伝説の《ヴォツェック》名画がDVD化」
第7回「ついに発売。ケーゲル最後の来日公演の衝撃演奏」
第8回「一直線の突撃演奏に大満足 バティス・エディション1」
第9回「『クラシックプレス』を悼む」
第10回「超必見、バレエ嫌いこそ見るべき最高の『白鳥の湖』」
第11回「やっぱりすごいチェリビダッケ」
第12回「ボンファデッリはイタリアの諏訪内晶子か?」
第13回「アルトゥスのムラヴィンスキーは本当に音が悪いのか?」
第14回「ムラヴィンスキーの1979年ライヴについて」
第15回「すみません、不謹慎にも笑ってしまいました」
第16回『これまで書き漏らした名演奏』
第17回「フレンニコフの交響曲」
第18回「驚天動地のムラヴィンスキー!」
第19回「ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番」
第20回「クーベリックのパルジファル
第21回「『フィガロ』はモーツァルトの第9だ」
第22回「デリエ演出による《コジ・ファン・トゥッテ》」
第23回「美女と野獣〜エッシェンバッハ&パリ管のブルックナー」
第24回「無類の音響に翻弄される被征服感〜ムラヴィンスキー・ライヴ」
第25回「クーベリックのベートーヴェン(DVD)」
第26回「ある異常な心理状況の記録〜カラヤン、驚きのライヴ」
第27回「これはクレンペラーか? スヴェトラの『オルガン付き』」
第28回「トルストイのワルツは美しかった」
第29回「カルロス・クライバーを悼む」
第30回「スヴェトラーノフの『ペトルーシュカ』はすごい」
第31回「『展覧会の絵』編曲の傑作」
第32回「ケーゲル、悲惨な晩年の真実〜写真集について」
第33回「種村季弘氏を悼む」
第34回「今度のチェリビダッケはすごすぎ!」
第35回「世界一はベルリン・フィル? ウィーン・フィル?」
第36回「シュトゥットガルトの《ラインの黄金》は楽しい」
第37回「小泉首相なら「感激した!」と絶叫間違いなし」
第38回「平林直哉がここまでやった!〜『クラシック100バカ』」
第39回「まさしく大向こうをうならせる見せ物!」
第40回「日本作曲家選輯〜片山杜秀氏のライフワーク」
第41回「こんなすごいモーツァルトがあった!」
第42回「秋の甘味、レーグナーのセットを聴く」
第43回「ヴァントとライトナーに耳を洗われた」
第44回「ギレリスのベートーヴェン・セットはすごいぞ」
第45回「これは・・・思わず絶句の奇書〜宮下誠『迷走する音楽』」
第46回「青柳いづみこ『双子座ピアニストは二重人格?』」
第47回「あのラッパライネンが遂に再来日〜今度も...」
第48回「テンシュテットのプロコフィエフはトリスタンみたいだ」
第49回「テンシュテットのブルックナーは灼熱地獄」
第50回「もしクラシックが禁止されたら? リリー・クラウスについて
第51回「ケーゲルのパルジファル」
第52回「ベルティーニの死を悼む」
第53回「残忍と醜悪とエクスタシー、マタチッチのエレクトラ」
第54回「マルケヴィッチの『ロメジュリ』は実にいい」
第55回「ジュリーニを悼む」
第56回「こいつぁあエロい『椿姫』ですぜ」
第57回「ヴァントとベルティーニ」
第58回「夏と言えば・・・」
第59回「ライヴ三題〜ジュリーニ、ヴァント、テンシュテット」
第60回「困ったCD」
第61回「秋は虫の音とピアノ」
第62回「真性ハチャトゥリアンに感染してみる」
第63回「フェドセーエフでスッキリ」
第64回「シーズン開幕に寄せて」
第65回「あまりにも幸福なマーラー」
第66回「これが本当にギーレンなのか?」
第67回「バーンスタインでへとへと」
第68回「今年のおもしろCD」
第69回「やったが勝ちのクラシック
第70回「正月の読書三昧」
第71回「レーゼルのセット、裏の楽しみ方」
第72回「実はいいムーティ」
第73回「フォークトのモーツァルト」
第74回「空前絶後のエルガー」
第75回「爆笑歌手クヴァストホフ」
第76回「ギーレンのロマンティックなブラームス」
第77回「エッシェンバッハとバティス」
第78回「ネチネチ・ネトネトのメンデルゾーンにびっくり」
第79回「暑くてじっとりにはフランス音楽」
第80回「ジュリーニ最高のモーツァルト」
第81回「1970年代の発掘2点」
第82回「ヤンソンスは21世紀のショルティ?」
第83回「アーノンクールと海の幸」
第84回「なんと合唱も登場〜ケーゲルの『音楽の捧げ物』」
第85回「ヴァントとミュンヘン・フィル」
第86回「テンシュテットのライヴはすごすぎ」
第87回「8月も終わり」
第88回「激安最高のヴィヴァルディ」
第89回「ジュリーニ最晩年のブルックナー第9番」
第90回「激安セットで遊ぶ」
第91回「分厚い響きが快適」
第92回「極上ベヒシュタインを聴く」
第93回「繰り返し聴きたくなる長唄交響曲」
第94回「あなたはこの第9を許せるか?」
第95回「モーツァルト年」
第96回「実相寺監督を悼む」
第97回「シュヴァルツコップのばらの騎士」
第98回「今見るべきDVDはこれ」
第99回「年末のびっくり仰天」
第100回「チェリビダッケ没後10年が過ぎて」
第101回「最大級の衝撃「君が代変奏曲」
第102回「コンセルトヘボウVSドレスデン」
第103回「エロスと残酷の『ドン・ファン』」

【番外編】
「ザンデルリング最後の演奏会」
「真に畏怖すべき音楽、ケーゲルの《アルルの女》」
「ケーゲルのブルックナー、ラヴェル、ショスタコーヴィチ」
「ケーゲルとザンデルリンクのライヴ」
「聖なる野蛮〜ケーゲルのベト7」
「ヴァント、最後の演奏会」
「バティス祭りに寄せて」
「ベルティーニ / マーラー:交響曲全集」
「ギレリス、ケーゲル、コンヴィチュニーほか」


⇒評論家エッセイ情報
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