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2006年9月11日 (月)

特別寄稿 許光俊の言いたい放題 第16回

『これまで書き漏らした名演奏』

 昨日、一昨日と深夜になると珍しい相手とデートしている。どういう風の吹き回しか、向こうから寄ってくるのだもの、無視する理由もない。
 その相手とは火星。夢野久作の作品に『火星の女』(『少女地獄』)というグロテスクかつ切ない話があるが、この場合、火星の女ではなく、正真正銘、天体の火星である。小学生の時は天文少年だったので、大接近と聞いて血が騒ぎ、四半世紀も前の望遠鏡をかつぎ出してみれば、なんと口径6センチの小型機なのに、極冠も、地表の大地状上の模様もくっきりと見えるではないか。こんなもの、子供のときには見えなかった。本当に大接近だと驚嘆。
 ジントニックなどちびちびとやりながら、秋の夜風に吹かれつつ、火星を眺める。実に風流でいい。そういえば、私が指揮者テンシュテットに興味を抱いたのも、彼がインタビューで趣味は天体観測と言っていたからだったと思い出した。月を望遠鏡で見ていると、何とも言えない不思議な気分になる。

 と珍しくのんびりと書き出したわけは、ようやく最新刊を仕上げ(タイトルは現在検討中)、ほっとひと息ついているから。昨年『世界最高のクラシック』というのを出したら大好評だったので、その続編とも言うべき新書を書いたのだ。『世界最高のクラシック』では取り上げられなかった指揮者たちを選び、今度は前よりも少しばかりディープに書いた。

 この私のコラムが「言いたい放題」と称しているように、私はきわめてわがままだが、読者もまたわがままである。前回は一般向けを意識して書いたら、「あれはジジイババア向きでまったりしていますね」と生意気な学生に言われたり、カルチャーセンターの生徒さんからは「もっと一部の人にしかわからないものを書いてほしい」と言われたり、「高くてもいいからコレクター・エディション的な本を出してほしい」と言われたり・・・。残念ながら年間数冊を書くだけの余裕も力もないのだが。
 それはともかく、本の執筆で忙殺されていたので、このコラムに取りかかる暇がなかった。そこで今回は、新しい本にはマニアックすぎて載せられなかったCDについてまとめてコメントしよう。

 まず、前に「残りは別の機会に」と言って、放っておいたケーゲルのライヴ盤。マーラー第1,2番については本に書いたのでそちらを見ていただくとして、他ではモーツァルトの40番がおもしろい。第1楽章ではヴァイオリンの旋律線が鋼鉄製のように強靭。そしてバス声部の動きがやたらと強調されている(音質のせいもあるとは思う)。結果として異様に執拗な表現になる。ケーゲルには異常なヴィヴァルディのCDがあるが、あれと似ている。第3楽章は憑かれたように突進していく。これほど腸から口、違った、超辛口の40番も稀有。

 あと、バルトークの「オケコン」。第1楽章の始まり方からして、じっとりとしている。怨念がこもっているというか、ただならぬ雰囲気だ。この曲、もちろん誰が指揮しても暗鬱の色は濃いのだけど、この演奏はその点で最右翼だろう。第3楽章は、この楽章だけで1曲になるほど密度が高い。一編のドラマのようだ。第4楽章では、皮肉や空虚感を強く出しておいてから、例の有名な民謡調のメロディがきわめてテンポを落として奏される(チェリビダッケはそんなことをしてはいけないと言っているが)。非常に効果的だ。そして、ひとりつぶやくがごとき音楽になる。この楽章の稀に見る濃密でかつ説得力がある演奏。ショスタコーヴィチ「レニングラード」もそうだったけれど、ケーゲルで聴くと、必ず発見があって、曲に対する理解が深まるところがありがたい。
 「カンタータ・プロファーナ」の合唱は、あの「カルミナ・ブラーナ」みたいで、「やってるやってる」とニンマリした。

 ブリュッヘンのメンデルスゾーン交響曲第1番。ハ短調の曲ではあるけれど、それにしても不吉な暗い音色が気味が悪い。1992年、ブリュッヘンが乗りに乗っていた時期だけに、張りつめた演奏だ。繊細さと大胆さのギリギリのせめぎあい。きわめてドラマティック。この曲がこれほど生々しい情念の音楽となっているのは聞いたことがない。メンデルスゾーンというと良家のお坊ちゃんのイメージが強いが、これで聴くと、どうして、とても危ない領域に踏み込んでいたように思える。ちょっとシューベルトみたいな危うさ。
 交響曲第4番「イタリア」のフィナーレは、「はげ山の一夜」みたいで妖気が漂う。「疾風怒濤時代」という文学の用語であるが、荒れ狂う暗い力はそれを思い出させる。

 これまた書くと言って延び延びになっていたが、大量に出たバティスでは、スペイン、南米ものを。

 アルベニスの「スペイン組曲」とヒナステラ「ハープ協奏曲」の1枚。特に後者は鮮烈で、イケイケ。オーケストラがシャープで見事だ。バティスが荒っぽいだけの指揮者でないことがよくわかる。何しろ、ちょっと驚くくらい暗鬱な響きも作ったり、真面目な話、この指揮者を見直してしまうような演奏なのだ(と、私が言っていたら世話ないか)。
 チャベス「共和国序曲」は、いかにも祝典的というか、早い話が運動会的に開始され、南国ムード満点。ほのぼの具合が実にいい。40年くらい前の日本映画で、男たちが集まって「おい、ビールでも飲むか!」というあの雰囲気である。いちおう盛り上がるが、意外とあっけなく終わるところがかわいい。
 ポンセの「市の立つ日」は題名からするとのどかそうだが、ちょっとばかり不気味に開始されるのが妖しい。怪獣に戦いを挑む自衛隊という感じなのだ。こちらも映画的とも言える雰囲気が魅力である。

 もっともその手でいくなら、レブエルタスの「マヤ族の夜」がまた楽しい。題名からしてそそられてしまうが、頭を聴くと案の定予想通りなので、笑えてしまう。しかもフィナーレ楽章は、怪しい魔法儀式を描写している、と言えば、もう十分だろう。なお、この演奏、以前クラウンから国内盤が出ていたのだ。そこに濱田滋郎センセが力作の解説を書いていらっしゃる。レブエルタスは、センセによると「野人」「熱血漢」「アルコールで短命」だったそうだ。おまけにこの人、「人にものを考えさせるような音楽は僕はいやだ、我慢できない」と言っていたとか。なお、この音楽、期待通りのいかがわしい匂いを放つ作品だが、「どうだ、グロテスクだろー、笑えるだろー」という押しつけがなくていい。あくまで自然なのだ。バティスもなぜか妙に取り澄ましている。でもこの作品、一度マゼールで聴いてみたい。フェドセーエフでもいい。絶対に踊りながら指揮してくれるはずだ。

 小澤征爾+ワイセンベルクのガーシュイン「ラプソディ・イン・ブルー」。とにかくワイセンベルクのピアノに高級感があって猛烈にきれいなのだ。冷たいエロティシズム。オーケストラの管楽器もめちゃくちゃ巧い。指揮者の個性は薄いけれど、ピアノと管楽器ゆえに聴く価値は大いにある。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学助教授) 

※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

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