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最大級の衝撃「君が代変奏曲」

Monday, February 26th 2007

連載 許光俊の言いたい放題 第101回

「最大級の衝撃『君が代変奏曲』」

 2007年が始まって2ヶ月が過ぎようとしているが、このところ、驚くようなことが多かった。
 個人的には何が驚いたと言って、納豆が食べられるようになったことが一番かも。これまで「嫌いなものは?」と尋ねられると「まずいもの」と答えていたくらい、基本的にはほとんどのものは食べられたのだが、ほとんど唯一の例外が納豆だった。不気味な糸を引く得体の知れない食品だと思っていたのである。
 しかし、毎日納豆を食べているという女子学生2人に「先生も肉ばっかりじゃなくて、納豆を食べたほうがいいですよお」としつこく言われてその気になり、今や健康増進のため、肉食を減らすまでになった。ついこの前までは自他共に認める大の肉食人間だっただけに、われながらショックなのである。まったく人生、何が起きることやらわからないものである。

 というのは冗談にしても、音楽面でもよい意味で驚かされることが数度あった。詳細はまたにするが、ひとつだけ挙げれば先月行われた来日公演のポゴレリチ。このピアニスト、このところ「人間が壊れている」とまで言われているだけに、楽しみにして出かけたのが、これが期待を上回る狂気の世界。あのアファナシエフが常識人に思えてしまったほどなのだ。たとえば、ショパンの有名な第2ソナタは彼がずっと弾いてきた作品だけれど、最初の音がバーンと鳴ったあと、次の音が全然出てこない。「えー、えー、えー」とこっちが不安になった頃、やっと次へと進む。どの曲でも、かつてのテンシュテットを思わせるような狂気の地獄絵図が繰り広げられる。試みに、家にあるポゴレリチのCDをあれこれ聴き直したが、どれも物足りない。芸術の階段を一挙に数歩駆け上がってしまったように思われる。これでも前回の公演に比べればよくなかったという話を聞いて、また驚いた次第だ。

   そして、数日前、またもや最大級の強烈な衝撃に襲われた。成田為三の「君が代変奏曲」だ。
 成田は1893年に生まれ、1945年に死んだ作曲家。「浜辺の歌」は有名だが、本格的な作品はまず知られていない。それも当然、多くの作品が戦災で焼けてしまったのだという。かろうじて残っているピアノ向きの作品で編んだのがこのCDである。
 最近でこそナクソスのシリーズなどで日本の作曲家が親しまれ始めたが、私とてその分野では素人。「結構おもしろいじゃん」的な楽しさは感じるが、夢中になるというほどではない。ところが、この作品集だけは違うのだ。最初は何の気なしに車の中で流し始めたのだが、徐々に作品の質が上がっていき、「ピアノソナタ」あたりから、ただならぬ密度になってきたのには驚いた。そして、「君が代変奏曲」に至って、これはとんでもないCDが出たものだと超真剣モードで聴きたくなったのである。
 で、その変奏曲だが―最初はごくシンプルな和声で「君が代」が提示される。当然、何らかの感情なりを引き起こさないではすまないはずの旋律だけれど、まるでドビュッシーやラヴェルが書いた東洋風の旋律みたいな色合いがある。まあ、彼らが東洋風の音階などを利用しているのだから当たり前だと言えばそうなのだが、それだけではない。まるで滅んでしまって今はない王国の旋律であるかのような、古風でエキゾチックで静謐な美しさがあるのだ。この不気味なまでに落ち着いたたたずまいは、ただものではないと、ピンときた。
 そのあと、「君が代」の旋律を元にした変奏が続いていくが、何が驚いたといって、この作曲家には、音楽がただの物理的な時間でなくて、精神的な時間だという理解がハッキリあるのだ。実はこれこそがクラシック音楽のもっとも大事なキモである。たとえば、私たちはベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタやムソルグスキーの「展覧会の絵」を聴くと、なんだかものすごく濃い時間的経験をしたかのような気がする。ただの感覚の世界ではなくて、言葉にはしにくいけれど、不思議な異次元に連れていかれた感じがする。曲を聴いている間、普段とは別の人生を生きていたような錯覚がする。この変奏曲は、まさにそうした音楽のひとつなのである。精神の運動そのもののような音楽と言ってもよい。だから、バッハ、ベートーヴェン、あるいはシューベルトの後期ソナタ等になじんでいる人なら、何の抵抗もなく受け入れることができるだろう。
 この作品が作られたのは、太平洋戦争のまっただ中。つまり、「君が代」が今よりずっと生々しく強い意味を持っていた時代。だが、成田は、そんな意味をはるかに飛び越え、抽象的な音楽美のために「君が代」を利用していたのである。なんという大胆な企てだろう。これは「君が代」という旋律を素材にして作られた純粋に音楽的な思考の結実だ。私はいったい次の変奏はどうなるのかとドキドキしながら聴いた。最後、なんと「展覧会の絵」の「キエフの大門」のような、壮大かつ幻想的な世界が目の前に開けたときには、くらくらした。
 あるいは、成田は、素材としては日本のものを選び、技法を西洋のものとすることで何らかの意味合いを持たせたのか。それはわからない。だが、そんなことに関係なく、この曲はすごい。

   次に入っている「浜辺の歌変奏曲」もいい。最初はいかにも普通っぽい変奏曲で冴えないように思われる。だが、よく聴きたまえ。モーツァルトのような変奏には、これもモーツァルトのような微妙な悲しみのニュアンスがあるではないか。しかも、およそ4分の地点からは、まったく思いがけないことに、シューベルトのようなあまりにも暗鬱なドス黒い絶望が流れ出すのだ。そして徐々に密度が高まり、さまざまな風景を経たのち、静かで儚さが漂う曲尾を迎える。「君が代変奏曲」もだが、とにかく余韻が長く、深い。こういう余韻が残せる作曲家は、なかなかいない。
 私は、このCDを聴いて本当に驚き、また感銘を受けた。成田は1945年、終戦の年に死んだから、このふたつは晩年の作品ということになろう。確かに、晩年ならではの気配が濃厚に感じられる。もう下らないこの世にはいっさいの興味を失い、邪念のない境地で自由に遊んでいるような。
 今更だが、白石光隆の演奏が非常にいい。緊張感と熱気に溢れた演奏が、ことに変奏曲に圧倒的な説得力を与えていると思う。「ピアノソナタ」のパセティックな迫力にも圧倒される。小手先で楽譜を音にしているのではなく、作品の精神を伝える。すばらしいCDを作ってくれたものだ。

   私にはこの作曲家が日本の音楽の歴史の中でどの程度の位置や重要性を占める人なのかはわからない。それでも、この人は別格の人だと思う。他の作曲家とは明らかに次元が違う精神世界に住まっていたことは間違いない。
 実は作品や演奏があまり魅力的だったので、解説書をなかなか読まなかった。開けてみてまたびっくり。なんと17ページ、細かい字がびっしり。変な話、これは原稿料がかかっていると思った。
 しかし、矛盾するようだが、この解説を読む必要はない。それほどまでに作品と演奏がすごい。もしあなたがクラシックが好きなら、ピアノ曲が好きなら、何の説明もいらないはずだ。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 


【成田為三について】
成田為三 (1893-1945)は〈浜辺の歌〉〈かなりや〉等のシンプルな叙情歌で有名ですが、ソナタを含むピアノ曲も残していました。彼はドイツ仕込みの理論家で、西欧作曲家にひけをとらぬ大規模な交響曲やソナタの創作に心血を注ぎつつも、時代に先んじすぎたため省みられることもないまま大半が戦争で焼失しました。当アルバムは現存する成田の全ピアノ曲を集めた史上初の試み。
 大正時代のソナタはクラシック作曲の黎明期とされる当時の日本で、かくも充実した楽曲が作られていたことは驚異的。このほか超絶技巧が要求される大規模な〈君が代変奏曲〉、叙情的な歌曲からは想像できないほど前衛的な〈秋〉、成田のトレードマークに基づく最晩年の〈浜辺の歌変奏曲〉まで、白石光隆が完璧な技巧と美音を駆使し、これまでの成田為三観を一新させます。どの曲も感動的で、何故これまで誰も演奏しなかったのか不思議なほどです。
【白石光隆プロフィール】
1964年生まれ。89年東京藝術大学大学院を終了後、ジュリアード音楽院へ進む。高度の技巧と抜群のリズム感に加え、「絹のタッチ」と称される驚くべき美音を駆使し、清潔で説得力あふれる演奏を展開。日本のピアノ界の将来を担う逸材と期待される。ピアノを金澤桂子、高良芳枝、伊達純、小林仁、マーティン・キャニオン、室内楽をフェリックス・ガリミヤ、伴奏法をジョナサン・フェルドマンに師事。現在、東京藝術大学ピアノ科非常勤講師。
【曲目&データ】
成田為三:ピアノ曲全集
・メヌエット (1916)
・さくら変奏曲
・秋〜月を仰ぎて (1923頃)
・ピアノソナタ 第1楽章 (1923頃)
・ロンド (1923頃)
・フーゲ(フーガ) (1923頃)
・君が代変奏曲 (1942)
・浜辺の歌変奏曲 (1942)
 白石光隆(ピアノ)

 録音時期:2006年10月27日、12月8日
 録音場所:キング関口台スタジオ(東京都文京区)
【許光俊の言いたい放題】
第1回「謎の指揮者エンリケ・バティス」
第2回「残酷と野蛮と官能の恐るべき《ローマの祭》」
第3回「謎の指揮者コブラ」
第4回「快楽主義のベートーヴェンにウキウキ」
第5回「予想を超えた恐るべき《レニングラード》《巨人》」
第6回「必見! 伝説の《ヴォツェック》名画がDVD化」
第7回「ついに発売。ケーゲル最後の来日公演の衝撃演奏」
第8回「一直線の突撃演奏に大満足 バティス・エディション1」
第9回「『クラシックプレス』を悼む」
第10回「超必見、バレエ嫌いこそ見るべき最高の『白鳥の湖』」
第11回「やっぱりすごいチェリビダッケ」
第12回「ボンファデッリはイタリアの諏訪内晶子か?」
第13回「アルトゥスのムラヴィンスキーは本当に音が悪いのか?」
第14回「ムラヴィンスキーの1979年ライヴについて」
第15回「すみません、不謹慎にも笑ってしまいました」
第16回『これまで書き漏らした名演奏』
第17回「フレンニコフの交響曲」
第18回「驚天動地のムラヴィンスキー!」
第19回「ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番」
第20回「クーベリックのパルジファル
第21回「『フィガロ』はモーツァルトの第9だ」
第22回「デリエ演出による《コジ・ファン・トゥッテ》」
第23回「美女と野獣〜エッシェンバッハ&パリ管のブルックナー」
第24回「無類の音響に翻弄される被征服感〜ムラヴィンスキー・ライヴ」
第25回「クーベリックのベートーヴェン(DVD)」
第26回「ある異常な心理状況の記録〜カラヤン、驚きのライヴ」
第27回「これはクレンペラーか? スヴェトラの『オルガン付き』」
第28回「トルストイのワルツは美しかった」
第29回「カルロス・クライバーを悼む」
第30回「スヴェトラーノフの『ペトルーシュカ』はすごい」
第31回「『展覧会の絵』編曲の傑作」
第32回「ケーゲル、悲惨な晩年の真実〜写真集について」
第33回「種村季弘氏を悼む」
第34回「今度のチェリビダッケはすごすぎ!」
第35回「世界一はベルリン・フィル? ウィーン・フィル?」
第36回「シュトゥットガルトの《ラインの黄金》は楽しい」
第37回「小泉首相なら「感激した!」と絶叫間違いなし」
第38回「平林直哉がここまでやった!〜『クラシック100バカ』」
第39回「まさしく大向こうをうならせる見せ物!」
第40回「日本作曲家選輯〜片山杜秀氏のライフワーク」
第41回「こんなすごいモーツァルトがあった!」
第42回「秋の甘味、レーグナーのセットを聴く」
第43回「ヴァントとライトナーに耳を洗われた」
第44回「ギレリスのベートーヴェン・セットはすごいぞ」
第45回「これは・・・思わず絶句の奇書〜宮下誠『迷走する音楽』」
第46回「青柳いづみこ『双子座ピアニストは二重人格?』」
第47回「あのラッパライネンが遂に再来日〜今度も...」
第48回「テンシュテットのプロコフィエフはトリスタンみたいだ」
第49回「テンシュテットのブルックナーは灼熱地獄」
第50回「もしクラシックが禁止されたら? リリー・クラウスについて
第51回「ケーゲルのパルジファル」
第52回「ベルティーニの死を悼む」
第53回「残忍と醜悪とエクスタシー、マタチッチのエレクトラ」
第54回「マルケヴィッチの『ロメジュリ』は実にいい」
第55回「ジュリーニを悼む」
第56回「こいつぁあエロい『椿姫』ですぜ」
第57回「ヴァントとベルティーニ」
第58回「夏と言えば・・・」
第59回「ライヴ三題〜ジュリーニ、ヴァント、テンシュテット」
第60回「困ったCD」
第61回「秋は虫の音とピアノ」
第62回「真性ハチャトゥリアンに感染してみる」
第63回「フェドセーエフでスッキリ」
第64回「シーズン開幕に寄せて」
第65回「あまりにも幸福なマーラー」
第66回「これが本当にギーレンなのか?」
第67回「バーンスタインでへとへと」
第68回「今年のおもしろCD」
第69回「やったが勝ちのクラシック
第70回「正月の読書三昧」
第71回「レーゼルのセット、裏の楽しみ方」
第72回「実はいいムーティ」
第73回「フォークトのモーツァルト」
第74回「空前絶後のエルガー」
第75回「爆笑歌手クヴァストホフ」
第76回「ギーレンのロマンティックなブラームス」
第77回「エッシェンバッハとバティス」
第78回「ネチネチ・ネトネトのメンデルゾーンにびっくり」
第79回「暑くてじっとりにはフランス音楽」
第80回「ジュリーニ最高のモーツァルト」
第81回「1970年代の発掘2点」
第82回「ヤンソンスは21世紀のショルティ?」
第83回「アーノンクールと海の幸」
第84回「なんと合唱も登場〜ケーゲルの『音楽の捧げ物』」
第85回「ヴァントとミュンヘン・フィル」
第86回「テンシュテットのライヴはすごすぎ」
第87回「8月も終わり」
第88回「激安最高のヴィヴァルディ」
第89回「ジュリーニ最晩年のブルックナー第9番」
第90回「激安セットで遊ぶ」
第91回「分厚い響きが快適」
第92回「極上ベヒシュタインを聴く」
第93回「繰り返し聴きたくなる長唄交響曲」
第94回「あなたはこの第9を許せるか?」
第95回「モーツァルト年」
第96回「実相寺監督を悼む」
第97回「シュヴァルツコップのばらの騎士」
第98回「今見るべきDVDはこれ」
第99回「年末のびっくり仰天」
第100回「チェリビダッケ没後10年が過ぎて」

【番外編】
「ザンデルリング最後の演奏会」
「真に畏怖すべき音楽、ケーゲルの《アルルの女》」
「ケーゲルのブルックナー、ラヴェル、ショスタコーヴィチ」
「ケーゲルとザンデルリンクのライヴ」
「聖なる野蛮〜ケーゲルのベト7」
「ヴァント、最後の演奏会」
「バティス祭りに寄せて」
「ベルティーニ / マーラー:交響曲全集」
「ギレリス、ケーゲル、コンヴィチュニーほか」

⇒評論家エッセイ情報

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