「なんと合唱も登場～ケーゲルの音楽の捧げ物」

2006年7月20日 (木)

連載　許光俊の言いたい放題　第84回

「なんと合唱も登場～ケーゲルの『音楽の捧げ物』」

　もう次の号に替わってしまったのかどうか、どういうわけか先月発売された文芸誌「すばる」（集英社）が妙にクラシックづいていた。
　第一に、なんと軽く９０才を超えた吉田秀和の新連載。内容や文体はいつもの通りだが、いよいよ枯淡、悠々の趣は強い。この人は新聞やクラシック雑誌にもたくさん執筆しているが、文芸誌がいちばんお似合いのように感じられる。
　第二に大江健三郎の文章。サイードとバレンボイムについて述べている。私は大江が知人・友人について述べるときの、いかにも身内といったベタベタ感は大嫌いだが、バレンボイムについてのできごとはおもしろかった。バレンボイムはイスラエルでワーグナーを演奏しようとして騒ぎになったり、なかなか政治的関心の強い人間らしいけれど、ここではちょっとしたスパイ的エピソードが披露されていて一読の価値あり。
　ちなみに「すばる」には中沢新一が頻繁に登場するが、その号でも、私はテレビにうといのでよく知らないけれど、どうやら有名らしい芸人と宮沢賢治について対談を行っている（余談だが、宮沢賢治は相当変な人である。押野武志『童貞としての宮沢賢治』（ちくま新書）は非常におもしろい。あちこちで吹き出します）

　さて、もうじき発売されるケーゲル指揮のバッハ「音楽の捧げ物」は実に意表をついた演奏で驚いた。何しろ、冒頭の鍵盤楽器からして常識を覆すのだが、そんなのは序の口。金管楽器、木管楽器を駆使して、２０世紀的音楽美、音響美を追究してしまうのである。言ってしまったほうがいいのか悪いのか、特に、最後のほうで思いがけず合唱が現れるに至っては呆然。この箇所は時間的には短いけれども、強烈な印象を残す。
　「６声のリチェルカーレ」がウェーベルン編曲版なのは、現代音楽好きのケーゲルからすれば予想されなくもないが、他にもパウル・デッサウ編曲が一部含まれている。まるでわびしい工場街の夕暮れといった雰囲気が漂う編曲で、なんとも言えない。４０年前の映画を見ているような切なさがある。
　前半の演奏はケーゲルらしい厳格さが目立つし、楽器編成も小さい。が、後半は、デッサウやウェーベルンが入ってくることもあって、体温が上がってくる。ソロ、室内楽、さらには大オーケストラも登場するこうした演奏は、現代の、特にコンサートでは不可能だろう。
　シェーンベルクやウェーベルンがバッハに興味を示したように、シェルヒェンやケーゲルも特にバッハの音の建築としての抽象的美に感じるところがあったように推測される。ケーゲルのこの演奏の場合、バッハは見事に２０世紀風の衣装を着せられている。ともかく、おもしろいという点ではこれ以上はなかなか望めない「音楽の捧げ物」だ。私はケーゲルもバッハもウェーベルンも好きなので、大喜びで聴いた。

（きょみつとし　音楽評論家、慶応大学教授）　

・ヨハン・セバスチャン・バッハ：音楽の捧げ物
　王の主題による５つのカノン（デッサウによる編曲版）
　６声のリチェルカーレ（ヴェーベルンによる編曲版）

　ジェルジ・ガライ（Vn）
　ヘルガ・ロッチャー（Vn）
　ペーター・クリュグ(Vc)
　ハインツ・フグナー(Fl)
　フリッツ・シュナイダー(オーボエ・ダモーレ)
　エルヴィン・クレツマー(Fg)
　トーマス・ヴュンシュ(ヴィオラ・ダモーレ)
　エルノ・クレポク(ヴィオラ・ダモーレ)
　ハイニ・フォーグラー(ヴィオラ・ダ・ガンバ)
　ベルトラム・バルト(ヴィオラ・ダ・ガンバ)
　ウォルフガング・ウェーバー(Vc)
　ハンス・ヴェルナー(Vc)
　ディーター・ツァーン(Bs)
　アマデウス・ヴェーバージンケ（フリューゲル・ピアノフォルテ、通奏低音）
　ライプツィヒ放送響
　ヘルベルト・ケーゲル(指揮)

　録音時期：1972年5月24日、6月5日（ステレオ）
　録音場所：ライプツィヒ・ベタニア教会

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