「空前絶後のエルガー」
Wednesday, February 22nd 2006
連載 許光俊の言いたい放題 第74回「空前絶後のエルガー」
2005年の最後に出かけたコンサートは、ジャン・フルネ指揮東京都交響楽団だった。いやあ、がっかり。実にがっかり。フルネはこれが最後だから、特別な何かが起きるコンサートになるかと少しは期待していたのだが・・・。甘かった。これについては今年中に出す本の中で詳しく書こうと思う。
今年の最初のコンサートは、チョン・ミュンフン指揮東京フィルだった。ある日はシューベルトの交響曲第8番、9番。別の日はマーラーの交響曲第9番。最近のチョン指揮東フィルを聴いていない人は、早く行ったほうがいいと思う。この指揮者はバスティーユ時代にあまりに全力投球しすぎたのか、そのあとは力が抜けてしまってスランプのようだった。ハデで盛り上がる音楽ゆえ、素朴なお客は大喜びするのだが、単なるお祭り男に堕落してしまい、音楽にいっそうの複雑な味わいや精神性を求める人にとっては、よくいるバカ指揮者のひとりみたいになってしまったのだ。私も、この人はもうダメだとさじを投げていた。
ところが、最近いよいよそのスランプを脱したようで、音楽は以前よりはるかに味わいや陰影を増している。しかも、東フィルの変身ぶりがすごい。今まで日本のオーケストラの弱音は音量が小さいだけで、表情も色もあったものではなく、味気なさは砂を噛むようだったが、チョンが振っているときは、ちゃんと音楽表現になっているのだ。それに響きやリズムも、ウィーン風、チェコ風、ドイツ風、とにかくヨーロッパの楽団みたいになってきた。とにかく、このやかましい私がじっと目をつぶって音楽を堪能できるのだ。これまで海外のいい指揮者が日本のオケを振るときは、インバルであれベルティーニであれロジェストヴェンスキーであれ、必ずや「これがドイツやフランスの楽団だったらなあ」などと考えてしまったものだ。が、チョンと東フィルは、そう思わせないのである。実に大したことではないか。
さて、今回は珍しくコリン・デイヴィスについて書こう。たぶん私がこの人について書くのは、このコラムに限らず、初めてだ。
デイヴィスはバイエルン放送響、ドレスデン・シュターツカペレと、ドイツの最高峰の楽団を率いてきた。その点では立派なキャリアの持ち主である。ところが、ではミュンヘンやドレスデンで評判や評価が高かったかと言うと、決してそうではない。ミュンヘンではオケともお客ともうまくいかなかったらしいし、ドレスデンでも今ひとつ冴えない。だいたい、どういうわけかイギリスの指揮者は大陸ではうまくいかないことが多い。プレヴィンは実力者だし、いい演奏をしているが、人気はそれほどでもない。ラトルは本当に珍しい例外だ。
デイヴィスに関して私が無視を決め込んでいた理由は簡単、生やCDでいい記憶がないからだ。特に生のほうは、音が全部ぐちゃぐちゃに混じり合って濁ってしまう傾向があり、粗雑な印象を受けていた。まるでボクシングのような激しい指揮も、繊細さが感じられず、とてもじゃないが、好感を抱けなかった。だから、さして期待もせずに、新譜のエルガーを聴き始めたのだが、ところがどっこい、これが実に強烈な演奏なのだ。私は特にイギリス音楽に興味を持っているわけではないから、日頃エルガーを聴くことはあまりないし、別に好きな作曲家でもない。しかし、こればかりは立て続けに2回聴いてしまった。
第1楽章最初の息の長い、いかにもエルガーらしい主題は曇ったような音色で意外。まだ手探り状態だ。が、約2分の地点からだんだん音楽が膨れあがり、ものすごい音が鳴り出す。何だこれはと驚くこと請け合いだ。戦艦部隊が衝突する大海戦の予感。この重量感はただものではない。シュターツカペレ、まさに恐るべし。
そのあともオケの表現力の大盤振る舞い。イギリスの楽団だと、もっと明るくて、あっけらかんとして、湿度が低くて、あっさりしてて、こぎれい、しかしちょっと聴くと飽きてしまうのだけど、さすがシュターツカペレは繊細で多彩なパレットを持っている。岩の塊が次々に落下してくるような異様な迫力から、ミクロの世界まで、表現の幅は極度に広い。リヒャルト・シュトラウスあるいは新ウィーン楽派っぽく聞こえなくもないが、音楽の豊かさには圧倒されるのみ。特に微妙な陰影の交錯は、この曲の他の演奏では聴いたことがないもの。デイヴィスはオケを駆り立てて熱っぽい時に特に粗さが目立つのだが、さすがにシュターツカペレだと大丈夫だ。
第3楽章のヴァイオリンの歌は、まるで名歌手の声のようだ。弱音のささやきから、しっとりした歌、粘る歌、かすみがたなびくような響き・・・変幻自在である。その背景に現れるホルンや木管楽器のニュアンスもすばらしい。ウィーン・フィルやベルリン・フィルが世界一だと思っている人は、これを聴けば認識を新たにするはずだ。
ホルン・セクションのド迫力といい、うなる弦楽器といい、フィナーレの鳴りっぷりも、まるで暴風雨のようなすさまじさ。生で聴けば響きの混濁は免れないかもしれないが、録音ではありがたいことに細部まで聞こえる。
どこまでが指揮者の功績なのか判然としないとはいえ、これほどまでに劇的で大きな起伏、たくましさから繊細さまで表現の振幅を持った密度の高いエルガー演奏は空前絶後なのではないか。論より証拠、ぜひとも自分の耳で確かめてみてください。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)
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