「あなたはこの第9を許せるか?」
Friday, November 17th 2006
連載 許光俊の言いたい放題 第94回「あなたはこの第9を許せるか?」
目下来日中のアーノンクールは、私の知人の間でも賛否両論である。ある者はウィーン・フィルがあんなに汚い音を出すのに驚いたと言い、ある者はあまりにきれいで驚いたと言う。そんな情報を聞いていると、どうやら曲目、そしてホールの音響によってかなり印象が違うようだ。
それはともかく、今度出るケーゲルのライヴ盤はすばらしい。強烈な順に述べていこう。
ベートーヴェンの第9は、この曲が大好きな人、聴くと感動する人、いつの間にか感情移入して拳を握りしめてしまう人は要注意である。「さあ、ここで盛り上がるぞ」といった箇所で肩すかしを食らわされ、逆に思いがけぬ場所で「えっ」と驚かされる。第9には数え切れないほどCDがあるが、もっとも個性的な演奏であることは間違いない。ケーゲルのベートーヴェンとしては、あまりにも異常な第5、第6の日本ライヴが発売されているが、あれと同じくらい突き抜けてしまっている。
第1、2楽章はモノマニアックなリズムと音型のしつこい組み合わせ。ベートーヴェンがミニマル音楽みたいに聞こえてくる。ケーゲルならではの20世紀的解釈だ。
第3楽章は一転、寂しげ、はかなげな情緒の世界。密度は非常に高く、ついつい堪能しながら聴いてしまうが、油断ならない。後半になると途端にやる気がなくなったみたいに脱力してしまうのだ。何だこれは・・・。
その秘密はフィナーレに隠されていたのである。開始早々、例の「喜びの歌」のメロディが出てくるまで、普通ならこれでもかと劇的な展開が続くが、なんとケーゲルはその当たり、ほとんど思い入れがないのだ。完全に白けた雰囲気。しかし、それにしてもここまでやるか・・・。
「喜びの歌」の旋律も、そっけなく登場する。そうか、全部そっけなくやっちゃうのかと思うと、違うのだ。主題が楽器を替えて繰り返されるごとにどんどん表情が軟らかく豊かになってくる。美しさを増す。まるで最初は白黒で表示されたものが、だんだん総天然色になってくるというぐあい。レガートはカラヤンみたいだ。うーん、これはすごい。
そして最大の衝撃は合唱。なんと、普通みたいに「さあ、みんな!」、ドカーンと力強くいかないのである。バッハの受難曲みたいに荘重だ。特にトルコ風行進曲のあと、「抱き合え」からは、完全に宗教音楽のような厳粛で神秘的な空気が流れ出してびっくりさせられる。そう、愚かな人間たちが和解し、抱き合うという歌詞のところをケーゲルは全曲のピークと考えているのだ。なるほど、鋭い!
これほどまでに真剣に第9を考え抜いた演奏もたぶん珍しいだろう。その結果生まれてきたものは非常にユニークなものになった。あちこちで耳慣れぬ解釈に遭遇する。私も何度もCDプレーヤーを止めて確認してしまったほどだ。第9をもう筋書きのわかっているドラマのように思っている人には、許せないだろう。だが、この奇抜さは必然性あってのことだ。このような演奏に出会うことがクラシック音楽を聴き続ける理由でなくて何であろう。
「巨人」も実にいい。ほぼ同時期のスタジオ録音とは別人のようなのだ。はるかに自由自在で、陰影が濃い。そして、ものすごく暗く、不気味である。ケーゲルもまたテンシュテット同様、「巨人」の中に第9番や「大地の歌」の予兆を見て取っているようだ。詳細はCD解説に書いたが、同じことをやっていても、スタジオ録音とはリアルさ、説得力があまりに違う。そしてフィナーレの最後は、信じられないような疾駆を見せるのだ。この最後、開放感はまるでない。私はベルリオーズ「幻想交響曲」の断頭台への行進を連想した。別のライヴも発売されていて、そちらも魅力的だが、私は今度の演奏のほうを高く評価する。
ブラームスの第2番は、第9、「巨人」とは全然違って、ひたすら陶酔的で美しい演奏だ。とはいえ、決して明るくはない。常に崩壊の予感がする。この甘美さは崩れる一歩手前のような甘さなのだ。第1楽章の終わりのほうをこんなにも悲しげに演奏した例はあるまい。第2楽章も格別。この曲のもっとも美しい演奏のひとつだ。
この演奏から3年後、ケーゲルは死んだ。やはり晩年ならではの音楽なのである。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)
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