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エロスと残酷の「ドン・ファン」

2007年3月12日 (月)

連載 許光俊の言いたい放題 第103回

「エロスと残酷の『ドン・ファン』」

 クリストフ・エッシェンバッハとコンスタンティン・シルヴェストリというきわめて特色ある指揮者の新譜が出た。
 エッシェンバッハのほうは、前にこのコラムでも書いたように、基本的には下手くそな指揮者である。CDはいろいろ工夫しているのだろうが、生で聴くと、「うわっ」と思わず悲鳴が出そうな瞬間すらある。本当に指揮というのは不思議なもので、ちゃんとできる人で聴いていると、アンサンブルを整えることなど何の造作もないように思える。ところが、このエッシェンバッハをはじめとして、まずい人がやるととにかく危なっかしい。改めて、指揮とはやさしくない仕事なのだと思わされるのだ。
 何を隠そう、私が聴いたエッシェンバッハのもっともきちんとした演奏は、パリ管との「ボレロ」である。実はこのとき、彼はうんと終わりのほうになるまで、ほとんど指揮しなかったのだ。奏者はみな小太鼓を頼りに演奏していたのである。まったく恐ろしく皮肉な正確さであった。
 にもかかわらずエッシェンバッハが各地で活躍しているのは、いろいろ裏事情もあろうが、彼の演奏に他では聴けない何かがあることも理由のひとつ。その理由の一片がこの「オルガン付き」を聴けば理解できるだろう。
 曲頭からきわめてゆっくりしたテンポで、宗教音楽のような神秘的雰囲気が漂う。アメリカのオーケストラにありがちな「どうだ、きれいな響きだろう?」という押しつけがましさがまったくない。単にきれいな弱音が出てくるだけではなくて、そこにドイツのオーケストラみたいな精神性が感じられる。これには驚いた。主部になってもテンポをあまり速めず、じっくりと進めていく。音の動きや、微妙な気分の変化が、ブラームスのようだ。
 アダージョの部分は、もちろんアリが這うように超遅いが、緊張は途切れない。ヴァイオリンは異様に耽美的で、妖しい。
 曲の後半になると、なぜか音楽が軽くなってしまうのが惜しい。ただし、有名な壮大なオルガン登場の手前の静かなところは、はかなげな風情が実にいい感じだ。
 最後のアレグロ部分は、野蛮な爆発を期待すると、意外にもおとなしめで肩すかしを食らう。力感よりも繊細な味が勝るのだ。暗くてジクジクした音楽をやりたがるエッシェンバッハと、ハデめ美女のようなフィラデルフィア管弦楽団の組み合わせは、どう見てもミスマッチに思われたが、どうして、うまくつき合っているようだ。ご同慶の至りである。
 実はエッシェンバッハの「オルガン付き」としては、かつてバンベルク交響楽団を指揮したものがBMGから発売されていた。これが知る人ぞ知るなかなかの演奏だった。がっしりしたバスの動きといい、渋い音色といい、まるでドイツ音楽のようなのだ。バンベルクのほうがアダージョの部分はなんとさらにいっそう遅く、最後のアレグロはずっと速い。今回久しぶりに聴き比べてみたら、20年の歳月は伊達ではなかった。エッシェンバッハの表現はいっそう緻密になっていた。とはいえ、たとえオケの力量はフィラデルフィアが上ではあっても、ドイツの楽団ならではのハーモニーの作り方とかはさすがだし、フーガの剛性感もフィラデルフィアを上回る。おのおのによさがあるということだ。

 他方、シルヴェストリは、常軌を逸した演奏で有名な人。できふできと言うか、当たりはずれはかなりあるが、このライヴは当たりである。1960年代半ばなのにモノラル。しかも、決してキレのある音質とは言い難い。だが、演奏のほうは、マニアの期待に応えるシルヴェストリ節満開だ。
 「王宮の花火の音楽」は、第1曲こそ意外に普通だが、第2曲は、蜜のようにトロリとした、粘り着くような音楽でニンマリさせられる。終曲も、まるで蛮族の祭典だ。酔っぱらうような強弱、下品な小太鼓と煽りに煽る。ところが、途中優雅な舞曲になると、突然艶めかしい女官が続々登場といった雰囲気に一変する。まさに「美女と野獣」的演奏で、「何かおもしろい演奏ないかな」と退屈しているマニアなら大喜び間違いなし。
 「海」は、シルヴェストリらしいウネウネした演奏だが、常軌を逸した迫力という点では、トランペットが狂ったように咆哮するスタジオ録音には及ばない。
 ラフマニノフの第3交響曲は期待通り、最初から血湧き肉躍る。そして、抒情的な旋律はとろけるように美しい。
 しかしこれらにもまして最高の聴きものは「ドン・ファン」だ。なんと演奏時間は20分近い。ケンペとドレスデンに比べればほとんど4分遅いのだ。もちろん、時間がかかっているのはラブシーンに決まっている。時間が止まったかのような、ドロドロ濡れ濡れの音楽が続くのだ。まるで底なし沼から足が抜けないかのような粘り方がすごい。いくらシルヴェストリといえど、ここまでやってしまった例は少ない。このやりたい放題の演奏を聴いていると、もう録音がモノラルだろうが何だろうがどうでもよいという気になってしまう。そこまで強烈なのだ。しかも、その直後、「ああ、この女にも満足できなかった」とばかりに、続く弱音部分が暗く絶望的な表情で奏される(4分48秒あたりから)。これには参った。
 そして、2つめの恋愛は、やはり信じがたく遅いテンポで進められるのだが、ひとつめほど情熱的でも無我夢中でもなく、諦念がにじみ出ている。ふたつのラブシーンをこれほどまでに描き分けた指揮者は他にいない。この解釈は実に鋭く、説得力がある。この演奏ほど、ドン・ファンの内面を生々しく見せてくれた例は他にない。それ以外の箇所もこのテンポでやってみると、恐ろしいまでの不気味さが表れてくる。
 今まで「ドン・ファン」に満足できなかった人は一度聴いてみるといい。私もついでだからとケンペとドレスデンのCDを取り出して聴いてみた。溌剌とした生命感が溢れる見事な演奏だが、シルヴェストリの妖気漂う解釈を知ってしまうと、一抹の物足りなさを覚えた。これまたついでにインバルとスイス・ロマンドの演奏も聴いてみると、確かに18分もかけているだけあって、遅いところはぐっと腰を落として官能的な響きを作り出しているし、あちこちで冷たい冬の月みたいな美しさが楽しめる。だが、精神の暗部にまでは届かない。今度はチェリビダッケとシュトゥットガルトを聴いてみたら、さすがチェリ、ツボを押さえた深い読みを感じさせる表現だが、シルヴェストリの人目を気にしない愛欲地獄に比べれば、きれいごとに感じられてしまう。今後、このシルヴェストリは「ドン・ファン」を語るうえではずせない演奏になるだろう。少なくとも私の場合は間違いなく、そうだ。
 それにしても、こんなユニークな演奏を行う指揮者を一度生で聴いてみたかったものだ。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 


【許光俊の言いたい放題】
第1回「謎の指揮者エンリケ・バティス」
第2回「残酷と野蛮と官能の恐るべき《ローマの祭》」
第3回「謎の指揮者コブラ」
第4回「快楽主義のベートーヴェンにウキウキ」
第5回「予想を超えた恐るべき《レニングラード》《巨人》」
第6回「必見! 伝説の《ヴォツェック》名画がDVD化」
第7回「ついに発売。ケーゲル最後の来日公演の衝撃演奏」
第8回「一直線の突撃演奏に大満足 バティス・エディション1」
第9回「『クラシックプレス』を悼む」
第10回「超必見、バレエ嫌いこそ見るべき最高の『白鳥の湖』」
第11回「やっぱりすごいチェリビダッケ」
第12回「ボンファデッリはイタリアの諏訪内晶子か?」
第13回「アルトゥスのムラヴィンスキーは本当に音が悪いのか?」
第14回「ムラヴィンスキーの1979年ライヴについて」
第15回「すみません、不謹慎にも笑ってしまいました」
第16回『これまで書き漏らした名演奏』
第17回「フレンニコフの交響曲」
第18回「驚天動地のムラヴィンスキー!」
第19回「ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番」
第20回「クーベリックのパルジファル
第21回「『フィガロ』はモーツァルトの第9だ」
第22回「デリエ演出による《コジ・ファン・トゥッテ》」
第23回「美女と野獣〜エッシェンバッハ&パリ管のブルックナー」
第24回「無類の音響に翻弄される被征服感〜ムラヴィンスキー・ライヴ」
第25回「クーベリックのベートーヴェン(DVD)」
第26回「ある異常な心理状況の記録〜カラヤン、驚きのライヴ」
第27回「これはクレンペラーか? スヴェトラの『オルガン付き』」
第28回「トルストイのワルツは美しかった」
第29回「カルロス・クライバーを悼む」
第30回「スヴェトラーノフの『ペトルーシュカ』はすごい」
第31回「『展覧会の絵』編曲の傑作」
第32回「ケーゲル、悲惨な晩年の真実〜写真集について」
第33回「種村季弘氏を悼む」
第34回「今度のチェリビダッケはすごすぎ!」
第35回「世界一はベルリン・フィル? ウィーン・フィル?」
第36回「シュトゥットガルトの《ラインの黄金》は楽しい」
第37回「小泉首相なら「感激した!」と絶叫間違いなし」
第38回「平林直哉がここまでやった!〜『クラシック100バカ』」
第39回「まさしく大向こうをうならせる見せ物!」
第40回「日本作曲家選輯〜片山杜秀氏のライフワーク」
第41回「こんなすごいモーツァルトがあった!」
第42回「秋の甘味、レーグナーのセットを聴く」
第43回「ヴァントとライトナーに耳を洗われた」
第44回「ギレリスのベートーヴェン・セットはすごいぞ」
第45回「これは・・・思わず絶句の奇書〜宮下誠『迷走する音楽』」
第46回「青柳いづみこ『双子座ピアニストは二重人格?』」
第47回「あのラッパライネンが遂に再来日〜今度も...」
第48回「テンシュテットのプロコフィエフはトリスタンみたいだ」
第49回「テンシュテットのブルックナーは灼熱地獄」
第50回「もしクラシックが禁止されたら? リリー・クラウスについて
第51回「ケーゲルのパルジファル」
第52回「ベルティーニの死を悼む」
第53回「残忍と醜悪とエクスタシー、マタチッチのエレクトラ」
第54回「マルケヴィッチの『ロメジュリ』は実にいい」
第55回「ジュリーニを悼む」
第56回「こいつぁあエロい『椿姫』ですぜ」
第57回「ヴァントとベルティーニ」
第58回「夏と言えば・・・」
第59回「ライヴ三題〜ジュリーニ、ヴァント、テンシュテット」
第60回「困ったCD」
第61回「秋は虫の音とピアノ」
第62回「真性ハチャトゥリアンに感染してみる」
第63回「フェドセーエフでスッキリ」
第64回「シーズン開幕に寄せて」
第65回「あまりにも幸福なマーラー」
第66回「これが本当にギーレンなのか?」
第67回「バーンスタインでへとへと」
第68回「今年のおもしろCD」
第69回「やったが勝ちのクラシック
第70回「正月の読書三昧」
第71回「レーゼルのセット、裏の楽しみ方」
第72回「実はいいムーティ」
第73回「フォークトのモーツァルト」
第74回「空前絶後のエルガー」
第75回「爆笑歌手クヴァストホフ」
第76回「ギーレンのロマンティックなブラームス」
第77回「エッシェンバッハとバティス」
第78回「ネチネチ・ネトネトのメンデルゾーンにびっくり」
第79回「暑くてじっとりにはフランス音楽」
第80回「ジュリーニ最高のモーツァルト」
第81回「1970年代の発掘2点」
第82回「ヤンソンスは21世紀のショルティ?」
第83回「アーノンクールと海の幸」
第84回「なんと合唱も登場〜ケーゲルの『音楽の捧げ物』」
第85回「ヴァントとミュンヘン・フィル」
第86回「テンシュテットのライヴはすごすぎ」
第87回「8月も終わり」
第88回「激安最高のヴィヴァルディ」
第89回「ジュリーニ最晩年のブルックナー第9番」
第90回「激安セットで遊ぶ」
第91回「分厚い響きが快適」
第92回「極上ベヒシュタインを聴く」
第93回「繰り返し聴きたくなる長唄交響曲」
第94回「あなたはこの第9を許せるか?」
第95回「モーツァルト年」
第96回「実相寺監督を悼む」
第97回「シュヴァルツコップのばらの騎士」
第98回「今見るべきDVDはこれ」
第99回「年末のびっくり仰天」
第100回「チェリビダッケ没後10年が過ぎて」
第101回「最大級の衝撃「君が代変奏曲」
第102回「コンセルトヘボウVSドレスデン」

【番外編】
「ザンデルリング最後の演奏会」
「真に畏怖すべき音楽、ケーゲルの《アルルの女》」
「ケーゲルのブルックナー、ラヴェル、ショスタコーヴィチ」
「ケーゲルとザンデルリンクのライヴ」
「聖なる野蛮〜ケーゲルのベト7」
「ヴァント、最後の演奏会」
「バティス祭りに寄せて」
「ベルティーニ / マーラー:交響曲全集」
「ギレリス、ケーゲル、コンヴィチュニーほか」
⇒評論家エッセイ情報
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