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2006年9月6日 (水)
連載 許光俊の言いたい放題 第33回「種村季弘氏を悼む」
まったく今年は何という年だろう。カルロス・クライバーの訃報が伝えられたばかりなのに、今度は種村季弘氏が亡くなった。
新聞などでは、「ドイツ文学者」とされている。が、これでは氏の仕事を十分に語ったことにはまったくならない。氏は単なる文学者だけでもなければ、研究者だけでもなかった。でなければ、どうしてあの痛快な『詐欺師の楽園』『ぺてん師列伝』といった書物が生まれることができただろう。
私が氏の本に触れたのは大学生のときだったと思う。最初は、そのクールさにちょっと違和感を持った。氏は、おもしろおかしいことを、「どうだ、おもしろいだろう」という書き方はしなかった。「どうだ、こうしなくちゃダメなんだぞ」というお説教、啓蒙口調になることも、まったくなかった。あらゆることからちょっと身をひいて、笑いながらも醒めている。そういういう感じが、大学生あたりの若者にとっては、煮え切らなく思えたのだ。
だが、魅了されるのに時間はかからなかった。あげく、氏が翻訳しまた評伝を書いたマゾッホという作家が特におもしろかったので、結局はこれを大学院の論文のテーマにするに至った。
当時、種村氏は國學院大學で教えていた。私は面識はなかったけれど、渋谷のキャンパスに出かけて行って、面会を申し込んだ。氏の本を読んでマゾッホを研究したいと言うと、今度家に来なさい、資料を貸してあげようという思いがけずも非常にありがたい言葉をいただいた。
まったく、何という博識! 酒を飲みながら、氏はとにかく最初から最後までさまざまなことを語り続けた。その知識、記憶力といったら、唖然とするほかなかった。私はただ「はあ、はあ」と聞いていた。いろいろな人に出会ったけれど、「ああ、いくら自分ががんばってもこの人にはかなうまい」と溜息をつかされたのはごく少数であり、そのひとりが種村氏だった。やはり博学で鳴る英文学者の高山宏氏が種村氏に心酔したのも当然だ。
意外だったのは、氏のマゾッホ論は三島由紀夫の自殺に動機を得ているという話だった。そんなことは、確か本のあとがきやまえがきには何も書かかれていなかった。書き手は時に、執筆の理由をあえて書かないものなのだと教えられた。
もし、氏の本が存在しなかったら、私の人生もいくぶん、あるいは相当違ったことになったかもしれない。氏はみかん山のてっぺんに住んでいることで知られていたが、やはり私が今みかん山のてっぺんに住んでいるのも、おそらく無意識のうちに氏の影響があるはずだ。
世の中には主流というものがある。本物とされるものがある。氏は、確固たるものに見える主流や本物がその実どれほど微妙で、危うくて、欺瞞に満ちているかを、主流や本物でないものを見つめることで、明らかにした。主流や本物に翻弄される人間たちの滑稽や悲哀を描いた。
氏は壮大なものや、立派なものや、一見正しそうなことに対して、「でも、ほんとかね」と醒めた感覚で対した。そんな氏を悼むとしたら、おおげさで深刻な音楽や演奏は向かない。そういえば、氏はドイツ文学畑の人にしては珍しくクラシック音楽にあまり関心を持たないようだったけれど、おそらくクラシック音楽、特に古典派からロマン派にかけての作品は感情移入、つまり一体化を聴き手に求めるからに違いない。
知性的で、乾いていて、しかし辛辣な皮肉など言わず、「でも、俺にはわかっているよ」という顔をした音楽はあるだろうか。私はラヴェルの「クープランの墓」を聴くことにした。ラヴェルのわざとらしい復古調は、偽物にこだわった種村氏を偲ぶのにふさわしい。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学助教授)
⇒評論家エッセイ情報
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