パリ音楽院創設時の試験に合格して男性教授と同じ待遇を獲得したエレーヌ・ド・モンジュルーは、遺したピアノ・ソナタも力強く親しみやすい傑作揃い。
この全集では、イタリアの鍵盤楽器奏者シモーネ・ピエリーニが、ヨハン・ハーゼルマンのフォルテピアノで歯切れの良い演奏を聴かせています。
波乱万丈の生涯
最初の夫モンジュルー侯爵が交戦国オーストリア兵に違法に殺されたこともあり、公安委員会はエレーヌのパリ居住を許可。続いてエレーヌは政府系機関紙の編集者と子供をもうけて再婚するものの5年で離婚。
18年後の1820年、55歳のときには、ナポレオンの百日天下後に失脚していた36歳のシャルナージュ伯爵と再婚しますが6年後に夫が急死。以後、エレーヌの健康状態は悪化し、最晩年2年間は息子が軍を辞め同居してイタリア各地に居住。フィレンツェで72歳で亡くなるとサンタ・クローチェ教会の回廊に埋葬されています。
夫が殺されエレーヌも収監されたオーストリア兵の暴挙
1793年7月、モンジュルー夫妻は、ナポリ王国に赴任が決まった友人マレ大使らの旅に同行。途中、中立地域のスイスを通過中、メッツォーラ湖の近くでオーストリア軍兵士が国際法を無視して使節団を略奪・拉致し、一行を対岸のオーストリア支配地域であるロンバルディアに船で移送し、刑務所に10日間収監するという暴挙に出ます。エレーヌなど多くの者はそこで釈放されますが、夫モンジュルー准将と大使2人の拘束は継続。やがて夫は殺害され、大使2人はオーストリアの要塞に幽閉され、2年後の1795年12月、フランスで3年4か月ものあいだ監禁されていたマリー・テレーズ(ルイ16世とマリー・アントワネットの娘)と交換されています。
大富豪
エレーヌは結婚持参金20万リーヴル(パリ音楽院教授の年俸の80倍)という富裕な土地貴族の出身で、夫のモンジュルー侯爵が植民地セネガルのアラビアゴム独占貿易会社への投資で稼いだ遺産もあったためその資産は莫大でした。そしてその夫と共に交戦国オーストリアの兵に中立地スイスで拉致され、さらに夫が違法に暴行・殺害されたこともあって、当時、多くの貴族をパリから追放していた公安委員会も、1794年にエレーヌのパリ居住を特別に許可すると裁定。
続く総裁政府は私有財産の不可侵も掲げる1795年憲法によって成立しており、以後の政府も同様に恐怖政治や略奪とは無縁だったため、エレーヌの財産は亡くなるまで40年以上も維持。不動産取引が巧みだったようで、革命時の激しいインフレなど経済の荒波も見事に乗り切っています。
遺産を相続した息子は、イタリアで美術に開眼して美術コレクター「オラス・イス・ド・ラ・サル」として知られるようになり、ルーヴル美術館に21点の絵画と450点の素描を寄贈したほか、コレクションの大部分をフランスの美術館に贈ってもいました。
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