ド・モンジュルー、エレーヌ(1764-1836)

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CD 輸入盤

ピアノ・ソナタ全集 シモーネ・ピエリーニ(フォルテピアノ)(3CD)

ド・モンジュルー、エレーヌ(1764-1836)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
BRL96247
組み枚数
:
3
レーベル
:
:
Holland
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


フランス革命の激動を生き抜いた女性作曲家の逞しい音楽

エレーヌ・ド・モンジュルー:ピアノ・ソナタ全集(3CD)
シモーネ・ピエリーニ(フォルテピアノ)

パリ音楽院創設時の試験に合格して男性教授と同じ待遇を獲得したエレーヌ・ド・モンジュルーは、遺したピアノ・ソナタも力強く親しみやすい傑作揃い。
  この全集では、イタリアの鍵盤楽器奏者シモーネ・ピエリーニが、ヨハン・ハーゼルマンのフォルテピアノで歯切れの良い演奏を聴かせています。

波乱万丈の生涯
最初の夫モンジュルー侯爵が交戦国オーストリア兵に違法に殺されたこともあり、公安委員会はエレーヌのパリ居住を許可。続いてエレーヌは政府系機関紙の編集者と子供をもうけて再婚するものの5年で離婚。
  18年後の1820年、55歳のときには、ナポレオンの百日天下後に失脚していた36歳のシャルナージュ伯爵と再婚しますが6年後に夫が急死。以後、エレーヌの健康状態は悪化し、最晩年2年間は息子が軍を辞め同居してイタリア各地に居住。フィレンツェで72歳で亡くなるとサンタ・クローチェ教会の回廊に埋葬されています。

夫が殺されエレーヌも収監されたオーストリア兵の暴挙
1793年7月、モンジュルー夫妻は、ナポリ王国に赴任が決まった友人マレ大使らの旅に同行。途中、中立地域のスイスを通過中、メッツォーラ湖の近くでオーストリア軍兵士が国際法を無視して使節団を略奪・拉致し、一行を対岸のオーストリア支配地域であるロンバルディアに船で移送し、刑務所に10日間収監するという暴挙に出ます。エレーヌなど多くの者はそこで釈放されますが、夫モンジュルー准将と大使2人の拘束は継続。やがて夫は殺害され、大使2人はオーストリアの要塞に幽閉。2年後の1795年12月、フランスで3年4か月ものあいだ監禁されていたマリー・テレーズ(ルイ16世とマリー・アントワネットの娘)と人質交換されています。下の画像は拉致される様子を描いた絵に着色したものです。


大富豪
エレーヌは結婚持参金20万リーヴル(当時の司祭の年収の約286倍)という富裕な土地貴族の出身で、夫のモンジュルー侯爵が植民地セネガルのアラビアゴム独占貿易会社への投資で稼いだ遺産もあったためその資産は莫大でした。そしてその夫と共に交戦国オーストリアの兵に中立地スイスで拉致され、さらに夫が違法に暴行・殺害されたこともあって、当時、多くの貴族をパリから追放していた公安委員会も、1794年にエレーヌのパリ居住を特別に許可すると裁定。
  続く総裁政府は私有財産の不可侵も掲げる1795年憲法によって成立しており、以後の政府も同様に恐怖政治や略奪とは無縁だったため、エレーヌの財産は亡くなるまで40年以上も維持。不動産取引が巧みだったようで、革命時の激しいインフレなど経済の荒波も見事に乗り切っています。
  遺産を相続した息子は、イタリアで美術に開眼して美術コレクター「オラス・イス・ド・ラ・サル」として知られるようになり、ルーヴル美術館に21点の絵画と450点の素描を寄贈したほか、コレクションの大部分をフランスの美術館に贈ってもいました。

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 目次

【各種情報】
数々の逸話
収録作品について
トラックリスト
演奏者について

年表
1763  1764  1765  1766  1767  1768  1769  1770  1771  1772  1773  1774  1775  1776  1777  1778  1779  1780  1781  1782  1783  1784  1785  1786  1787  1788  1789  1790  1791  1792  1793  1794  1795  1796  1797  1798  1799  1800  1801  1802  1803  1804  1805  1806  1807  1808  1809  1810  1811  1812  1813  1814  1815  1816  1817  1818  1819  1820  1821  1822  1823  1824  1825  1826  1827  1828  1829  1830  1831  1832  1833  1834  1835  1836

【その他リンク】
年表付き商品説明ページ一覧


 数々の逸話

エレーヌ・ド・モンジュルーについては、同時代人や後世の人々によっていろいろな逸話が伝えられています。当時の政治経済状況や、時系列と通常の論理なども考慮すると、少し不自然なものが多いようにも思えますが、目立つ話によって書き手や語り手が利益を得るというのは古今東西、どの業界でも一般的なことなので、とりあえずここでは気になる点を簡単に記しておきます。
【ラ・マルセイエーズをピアノで弾いてギロチン刑を回避】

「ラ・マルセイエーズ」を即興で弾いて死刑判決が回避されたという説ですが、公安委員会の判決を言い渡す場にピアノがあったというのも不思議な話ですし、そもそも死刑求刑の容疑が不明です。
  実際の公安委員会の動きとしては、恐怖政治下の1794年4月に、貴族および交戦国の外国人が、パリと要塞都市、海上都市に出入りすることを禁止する法令が発令されたという事実がありますが、それでは経済活動などに不都合が生じることも多いことから、公安委員会は数千に及ぶ例外を認め、エレーヌについても下記のような文面でパリ滞在を許可しています。

「市民ゴーティエ=モンジュルー、芸術家。その夫はオーストリア軍によって卑劣にも殺害。彼女の才能を愛国的な祝典に役立てるため。」

なお、この件については、のちにパリ音楽院院長になるベルナール・サレットが公安委員会に働きかけてエレーヌを助けたという説もありますが、エレーヌのパリ滞在審議がおこなわれた時期には、サレットは公安委員会によって2か月ほど投獄されていたことからかなり無理があります。
【ロンドン滞在が国家の密命によるもの】

1792年7月からのロンドン滞在が国家の密命によるものだったという説がありますが、実際には暴徒による略奪対策として、モンジュルー城を売却しての国外退避だったと考えられます。5か月後の12月に、外国滞在貴族の財産を革命政府が略奪する予定と知るとモンジュルー夫妻はすぐに帰国していますし。
  この話はおそらく、モンジュルー夫妻の友人であるユーグ=ベルナール・マレ[1763-1839]が、イギリスのウィリアム・ピット首相と12月に交渉するために外務省から派遣されたことと混同されたものと思われます。
【イタリア行きの旅がマリー・アントワネット助命工作】

イタリア行きの旅の途中、スイス通過中にオーストリア軍に拉致。夫モンジュルー侯爵が殺され、マレ大使とスモンヴィル大使の2人が2年半も監禁されたという事件が実はマリー・アントワネット助命工作が目的だったという説ですが、行先としていた「ナポリ王国」はすでに「第一次対仏大同盟」に参加しており、「トスカーナ大公国」も間もなくフランスとの局所的な戦いが始まる状況だったので、王妃助命嘆願というよりも、単に恐怖政治下の物騒なパリを離れるのが目的だったとも考えられます。あるいは2人の大使の人質交換相手がマリー・アントワネットの娘だったので、それが勘違いされて広まった説かもしれません。
  また、最近では、オーストリア軍のケール軍曹らによる拉致についても2人の大使が仕組んだものという説まで出てきています。もしそうであれば、獄死したモンジュルー侯爵(准将)は不運というほかないですが、真相はどうやら闇の中のようです。
【没落貴族の出身】

エレーヌが没落貴族の出身だったというのもよく見かける説ですが、1784年にモンジュルー侯爵と結婚した際の持参金は20万リーヴルだったので、もし本当に没落していたら無理な金額です。ちなみに当時は革命前の非インフレ期で、庶民の年収は数十から数百リーヴルであり、20万リーヴルはかなりの巨額であったことがわかります。
  この話はおそらく3度目の結婚相手であるエドゥアール・ソフィー・デュノ・ド・シャルナージュ伯爵が、ナポレオン百日天下後に失脚した没落貴族だったので、そのことと混同されたものと考えられます。
【イギリスのコンサートで稼いで金持ちになった】

モンジュルーは没落して貧しかったものの、イギリスのコンサートで稼いで金持ちになったという説もありますが、貴族なので基本的に劇場出演はしませんし、仮にコンサートを開催してもイギリスで無名の貴族のコンサートには誰も来ないので稼げないでしょう。
  モンジュルーがイギリスで稼げるとすれば、夫が投資していたセネガルのアラビアゴム独占貿易の会社の証券の売却などが考えられます。フランスとイギリスはセネガル利権をめぐっていろいろありましたし。
【パリ音楽院で長年に渡って多くの学生を指導】

エレーヌはパリ音楽院開校時に第1級教師として採用されていたので、長年に渡って多くの学生を指導していたという説もありますが、資産家とはいえ幼い子供を抱えたシングルマザー状態では身が持たなかったのか、開校から2年で体調不良を理由に退職しています。強烈な女性差別の時代でもありましたし、何より当時のパリ音楽院の土台は軍楽学校であり、軍楽好きの音楽愛好家で、軍楽学校創設者でもあったサレットの尽力で開校した学校だったことも影響しているかもしれません。

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 収録作品について

◆ ソナタ ヘ短調 Op.5 No.2(CD1 トラック1〜3)

26分36秒。ソナタ集 Op.5は、1811年にエラールから出版。パリ音楽院を健康問題で辞めてからのモンジュルーは、自邸で「モンジュルー夫人の月曜日」というサロン・コンサートを定期的に開催しており、この曲もそうした用途のために書かれたと思われます。
  急・緩・急の楽章順で、第1楽章は13分20秒(呈示部反復実施)を超えてモンジュルーのソナタでは最大規模ですが、ロマン派的な美しい音楽でのちのシューベルトを思わせるような雰囲気もあって魅力的。第2楽章は訥々としたフレーズによる抒情が独特です。第3楽章はベートーヴェンも真っ青の攻撃的な音楽で迫力があります。
◆ ソナタ ヘ長調 Op.1 No.1(CD1 トラック4〜5)

14分27秒。ソナタ集 Op.1は、1795年にパリ音楽院に導入された印刷機で出版。この年のエレーヌは2月11日に出産し、8月にパリ音楽院の教師募集に応募、11月22日にパリ音楽院の教授に任命され、その直後に出版したことになるため、作曲したのはこれより前の年ということになりそうです。1789年にフランス革命が勃発してから1794年にエレーヌのパリ在住が認められるまでの間は余裕があまりなさそうなので、1788年に書き始めた「初歩から最大の難関まで段階的に導くフォルテピアノ教育全課程」と近い時期の作品ではないかと考えられます。
  第1楽章は、ウィーン古典派を思わせる主題を使用。第2楽章は名技的なタランテラです。
◆ ソナタ 変ホ長調 Op.1 No.2(CD1 トラック6〜7)

12分25秒。ソナタ集 Op.1の2曲目は1曲目と同じく速い2つの楽章で構成。同じくウィーン古典派の影響を感じさせる曲調です。
◆ ソナタ ヘ短調 Op.1 No.3(CD1 トラック8〜9)

13分50秒。ソナタ集 Op.1の3曲目も速い2つの楽章で構成されていますが、ここではシンコペーションが用いられるなどの工夫も見られます。第1楽章では重みのある表現と軽やかさのコントラストも明確。第2楽章では力強い低音パートが非常に印象的です。
◆ ソナタ 嬰ヘ短調 Op.5 No.3(CD2 トラック1〜3)

21分8秒。第1楽章はアレグロ・スピリトーゾは文字通り機知に富む曲調で、あの手この手で素材を駆使して表情を変化させる手法が手が込んでいて見事。第2楽章は対話風な部分が印象的な音楽。第3楽章は快適なプレストで、心地良い疾走感が楽しめます。
◆ ソナタ ニ長調 Op.5 No.1(CD2 トラック4〜7)

27分12秒。モンジュルー唯一の4楽章構成。第1楽章は行進曲調に始まるという機知が示されるまさにスピリトーゾな音楽。展開部(7分52秒〜8分24秒)は32秒と短いですが凝縮感がすごいです。第2楽章はモンジュルーの常で、主部は訥々として、副次部で歌わせるという手法。独特の味わいがあります。第3楽章はコンパクトにまとまったスケルツォ。第4楽章は快適なプレストで3分8秒からの展開部が面白い効果を上げています。また、呈示部には反復記号がある様式ながら4分29秒からの再現部はかなり変容されているという変わりだねで、もしこの後のモンジュルーの作品が遺っていたら面白そうと思わせます。
◆ ソナタ ト短調 Op.2 No.1(CD3 トラック1〜2)

13分56秒。3曲から成るソナタ集 Op.2は、1800年にパリで出版され、1803に再度出版されているので人気があったようです。1曲目はソナタ集 Op.1と同じく速い2つの楽章で構成されていますが、書法は洗練されており、第1楽章では緩急強弱の交錯に加え、低音動機の使用も効果的。第2楽章も切迫した表現がトッカータ風に示された完成度の高い音楽です。低音動機も存在感があります。
◆ ソナタ ハ長調 Op.2 No.2(CD3 トラック3〜5)

20分9秒。急・緩・急の3楽章構成。第1楽章はパワフルになったモーツァルトという印象の音楽で、低音動機の活躍はモンジュルーならでは。モンジュルー初の緩徐楽章となった第2楽章アンダンティーノ・アレグレットはサロン風な上品な仕上がり。第3楽章も各素材が表情豊かで楽しく生き生きとした音楽となっています。
◆ ソナタ イ短調 Op.2 No.3(CD3 トラック3〜5)

18分42秒。急・緩・急の3楽章構成。元はヴァイオリン伴奏つきということですが、ここではフォルテピアノのみで演奏。第1楽章は文字通りアジタートな興奮を伝えるハイテンションな音楽。第2楽章は穏やかなアダージョで、モノローグ的な音楽。第3楽章は進んでは止まるを繰り返す独特の音楽。

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 トラックリスト(収録作品と演奏者)

エレーヌ・ド・モンジュルー [1764-1836]
ピアノ・ソナタ全集

CD1
◆ ソナタ ヘ短調 Op.5 No.2  26:36
1. 第1楽章 アレグロ・モデラート・コン・エスプレッシオーネ 13:20
2. 第2楽章 アリア・コン・エスプレッシオーネ 6:33
3. 第3楽章 アレグロ・アジタート・コン・フオーコ 6:43

◆ ソナタ ヘ長調 Op.1 No.1  14:27
4. 第1楽章 アレグロ・コン・スピリトーゾ 6:33
5. 第2楽章 プレスティッシモ 4:54

◆ ソナタ 変ホ長調 Op.1 No.2  12:25
6. 第1楽章 アレグロ・コン・モート 7:43
7. 第2楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ 4:42

◆ ソナタ ヘ短調 Op.1 No.3  13:50
8. 第1楽章 マエストーゾ・コン・エスプレッシオーネ 6:04
9. 第2楽章 アレグロ・アジタート 7:46

CD2
◆ ソナタ 嬰ヘ短調 Op.5 No.3  21:08
1. 第1楽章 アレグロ・スピリトーゾ 10:13
2. 第2楽章 アダージョ・ノン・トロッポ 4:54
3. 第3楽章 プレスト 6:01

◆ ソナタ ニ長調 Op.5 No.1  27:12
4. 第1楽章 アレグロ・スピリトーゾ 12:30
5. 第2楽章 アダージョ・ノン・トロッポ 7:01
6. 第3楽章 アレグロ・アッサイ 1:52
7. 第4楽章 プレスト 5:49

CD3
◆ ソナタ ト短調 Op.2 No.1  13:56
1. 第1楽章 アレグロ・コン・モート・エスプレッシオーネ 8:18
2. 第2楽章 プレスト 5:38

◆ ソナタ ハ長調 Op.2 No.2  20:09
3. 第1楽章 アレグロ・モデラート 9:48
4. 第2楽章 アンダンティーノ・アレグレット 5:24
5. 第3楽章 アレグロ・コン・ブリオ・ヴィヴァーチェ 4:57

◆ ソナタ イ短調 Op.2 No.3  18:42
6. 第1楽章 アジタート 8:01
7. 第2楽章 アダージョ 7:34
8. 第3楽章 ヴィヴァーチェ・コン・エスプレッシオーネ 3:07
  シモーネ・ピエリーニ(フォルテピアノ)
  使用楽器:ヨハン・ハーゼルマン[19世初頭]
  ピッチ:A=430 Hz、調律:トーマス・ヤング[1773-1829]の調律理論「ヤング・テンペラメント(ヤングII)」[1800]を採用

  録音:2021年6月15-17日、イタリア、モンテ・コンパトリ、アンニバルデスキ
  録音&編集:マルコ・ヴィターレ

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 演奏者情報

シモーネ・ピエリーニ(フォルテピアノ)

1996年、ローマで誕生。フル・ネームは、シモーネ・エル・ウーフィル・ピエリーニ。8歳でピアノを始め、18歳で高校を卒業後、ローマ聖チェチーリア音楽院でマウラ・パンシーニに師事してピアノのディプロマを取得。その後、フィエーゾレ音楽院でエリソ・ヴィルサラーゼに師事し、ボリス・ベルマン、ニコライ・デミジェンコ、パーヴェル・ギリロフらのマスタークラスにも参加。
 その後、アレクセイ・リュビモフ、アンドレアス・シュタイアー、トビアス・コッホ、コスタンティーノ・マストロプリミアーノ、ステファノ・フィウッツィの講座やマスタークラスに参加したほか、FIMA(イタリア古楽財団)で、アンドレア・コーエンにチェンバロと歴史的鍵盤楽器奏法を、ジョヴァンニ・トーニに通奏低音を師事。
 CDは、Brilliant Classicsからケルビーニのフォルテピアノ・ソナタ集、ティナッツォリの鍵盤楽器作品全集、Da Vinci Classicsからメンデルスゾーンのヴァイオリンとフォルテピアノのためのソナタ全集がリリースされていました。



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 年表

黒文字=音楽関連、グレー文字=社会関連

 前史

◆ 中世から続くド・ネルヴォ家(エレーヌの先祖)
ド・ネルヴォ家は古い家柄で、姓のスペルは、13〜14世紀「De Nervauz」、14〜16世紀「De Nervaux」、16〜17世紀「De Nervoz」、17世紀以降「De Nervo」と移り変わっています。
  曽祖父のバルテレミー・ル・ジュヌ・ド・ネルヴォ[1677-1756]は、金細工職人として財を成し、男爵の称号を取得。通貨管理者、国王秘書官の官職も得ています。
  祖父のジャン・ジョゼフ・ド・ネルヴォ男爵[1708-1739]は、造幣局顧問、国王秘書官を世襲するものの31歳で死去。

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 1763年/宝暦13年

◆ 2月、パリ条約締結
2月10日、イギリスとフランスの北米インド植民地戦争、および、ヨーロッパの七年戦争終結のため、イギリス、フランス、スペインが条約を締結。イギリスの海外覇権が拡大。

◆ 4月、貴族の結婚(エレーヌの両親)
エレーヌの父になるジャン=バティスト・ド・ネルヴォ子爵[1735-1822]は、祖父が早く亡くなっていたため、若くして代々継承されたリヨン近郊のボジョレー、オワン、テゼの土地を持ち、テゼには城も所有しており、造幣局参事官、国王秘書官も世襲。
  エレーヌの母になるアンヌ・マリー・サビーヌ・メイユーヴル・ド・シャンヴュー[1745-1823]は、銀行家、地主で貴族の称号を取得したドミニク・メイユーヴル・ド・シャンヴュー[1706-1771]の娘。
  2人は1763年4月12日に結婚。父27歳5か月、母18歳1か月でした。

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 1764年/宝暦14年/明和1年 (0歳)

◆ 3月、エレーヌ誕生
約10か月後の1764年3月2日、エレーヌ・アントワネット・マリア・ド・ネルヴォは、リヨン2区のラ・シャリテ通りにあるオテル・ド・ネルヴォでド・ネルヴォ子爵の第1子として誕生。リヨンはパリの南東約400kmに位置するフランス第2の都市。

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 1765年/明和2年 (0〜1歳)

◆ 生後間もなくパリに転居
ド・ネルヴォ家は翌1785年にパリ中心部のエシキエ通りに転居。同年9月には弟のオラン・クリストフ・ロザリオ・ド・ネルヴォ[1765-1835]が誕生。
  その後、エレーヌは弟と共に、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの弟子でアルザス人のニコラ=ジョゼフ・ユルマンデル[1756-1823]にピアノを師事。

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 1766年/明和3年 (1〜2歳)

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 1767年/明和4年 (2〜3歳)

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 1768年/明和5年 (3〜4歳)

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 1769年/明和6年 (4〜5歳)

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 1770年/明和7年 (5〜6歳)

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 1771年/明和8年 (6〜7歳)

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 1772年/明和9年/安永1年 (7〜8歳)

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 1773年/安永2年 (8〜9歳)

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 1774年/安永3年 (9〜10歳)

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 1775年/安永4年 (10〜11歳)

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 1776年/安永5年 (11〜12歳)

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 1777年/安永6年 (12〜13歳)

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 1778年/安永7年 (13〜14歳)

◆ 2月、フランスがアメリカ独立戦争に参戦
ルイ16世の反対が好戦派に押し切られた格好での参戦。戦費の財源として、ネッケル財務長官は人気も意識して増税をおこなわず、大規模な国債発行によって賄うことを決定。これによりパリに投資ブームが起こり、地方のマネーも集まり出したことから、通貨不足もあって地方経済の衰退も招いています。

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 1779年/安永8年 (14〜15歳)

◆ 王立盲学校誕生
ルイ16世、王立盲学校を認可し資金を拠出。世界初の大規模な盲学校。以後、200年以上に渡って優れたオルガニストや作曲家を輩出。フランス革命の際には革命政府によって過酷な扱いを受け、多くの学生が死に追いやられていましたが、革命が終わってしばらくすると改善されています。

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 1780年/安永9年 (15〜16歳)

◆ 農奴廃止
8月、ルイ16世、農奴廃止令を発布。

◆ 拷問廃止
8月、ルイ16世、拷問廃止令を発布。

◆ アメリカ独立戦争に出兵
フランス、アメリカ独立戦争に出兵し、アメリカを支援。巨額の出費となります。

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 1781年/安永10年/天明1年 (16〜17歳)

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 1782年/天明2年 (17〜18歳)

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 1783年/天明3年 (18〜19歳)

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 1784年/天明4年 (19〜20歳)

◆ 1月、「王立歌唱・朗誦学校」が設立
1月3日、ルイ16世の勅令によりパリ中心部のベルジェール通りに設立。校長はフランソワ・ジョゼフ・ゴセック[1734-1829]。パリ音楽院の前身。
◆ エレーヌ最初の結婚、持参金は20万リーヴル
4月12日、20歳のエレーヌは、47歳のアンドレ・マリー・ゴーティエ・ド・モンジュルー侯爵[1736-1793]とパリで結婚。モンジュルー侯爵は約3か月前の1783年12月19日にサン・ルイ騎士勲章をヴェルサイユで授与されていたほか、植民地セネガルでアラビアゴム貿易を独占的に扱っていた「コンパニー・デュ・セネガル」へも投資していました。
  住居は、パリ近郊ヴァル・ドワーズのモンジュルー城と、パリ中心部のフォブール・サントノーレの家、パリ郊外のモンモランシーの家の3か所。
  ちなみに当時の庶民の年収は数十から数百リーヴルだったので、20万リーヴルは非常に高額です。

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 1785年/天明5年 (20〜21歳)

◆ エレーヌの演奏活動が本格化
侯爵夫人でピアニストのエレーヌは、パリのマダム・ヴィジェ=ルブラン、ロシュシュアール家、マダム・ド・スタール、マダム・ド・ジェンリスなどの有名なサロンで数多く演奏。貴族ゆえに市中の劇場での演奏はおこなわず、エレーヌは次第に自宅での演奏・作曲に没頭するようになります。
◆ 11月、エレーヌ、ヴィオッティと交流
1785年11月にはヴァイオリニストのジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ[1755-1824]とも親しく交流。ヴィオッティは1782年から1792年までパリに滞在し、王政復古後の1818年には再びパリに戻って5年間滞在。エレーヌは、ヴィオッティの協奏曲をピアノ協奏曲第1番として改作しています。

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 1786年/天明6年 (21〜22歳)

◆ エレーヌ、デュセクと交流
エレーヌは、パリに腰を落ち着けた作曲家でピアニストのジャン・ラディスラヴ・デュセク[1760-1812]と交流し、デュセクからソナタ3曲を献呈されます。デュセクはこの年から没年までパリを拠点に暮らしていたのでフランス語読みとしておきます。

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 1787年/天明7年 (22〜23歳)

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 1788年/天明8年 (23〜24歳)

◆ エレーヌ、「フォルテピアノ教育全課程」作曲開始
ヨハン・バプティスト・クラーマー[1771-1858]を指導するなど教育にも熱心だったエレーヌは、この年、「初歩から最大の難関まで段階的に導くフォルテピアノ教育全課程」の作曲を開始。何年もかけて取り組み、1820年に出版された際には、972の演習素材と114の練習曲で構成される大規模なものとなっていました。
  内容はかなり凝ったもので、練習曲第62番はシューベルトの即興曲、練習曲第107番はショパンの第12番、練習曲第104番はブラームスの間奏曲を思わせるというような先進性には驚くべきものがあります。

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 1789年/天明9年/寛政1年 (24〜25歳)

◆ 7月、フランス革命勃発
7月14日、民衆がパリの廃兵院に押し寄せ、約32,000丁のライフルと27門の大砲、弾薬などを略奪。


続いてバスティーユを襲撃。バスティーユは牢獄としてはほとんど使われておらず、大砲を備えた武器弾薬庫となっていたので、略奪のための襲撃でした。


◆ エレーヌと夫、ジャコバン派やフイヤン派の会合に出席
モンジュルー夫妻は、立憲君主制樹立を支持した穏健派の革命家や、ジャン=シルヴァン・バイイ[1736-1793]など当時の重要な政治家と交流があり、一時はジャコバン派やフイヤン派の会合にも出席していました。また、のちにスイスで共に拉致されることになるユーグ=ベルナール・マレは当時弁護士でジャーナリストでフイヤン派の会員でもありました。
◆ 11月、教会財産を国有化
11月、政府により教会財産の国有化が決定。民衆による略奪も激化。


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 1790年/寛政2年 (25〜26歳)

◆ 7月、聖職者基本法が制定
7月、教会財産と聖職者が国有となったことから、聖職者俸給は国庫支払いとし人選も選挙制に変更。宮廷貴族相当だった司教俸給は4分の1に減額し、司祭と助祭はインフレを加味して大幅な俸給引き上げを実施。これにより全国の聖職者が、宣誓者と拒否者に2分され、信徒にも影響が出て混乱を招き不穏要因となっています。

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 1791年/寛政3年 (26〜27歳)

◆ 3月、夫モンジュルーが准将に
3月1日、アンドレ・モンジュルーは、陸軍准将に任命。この軍人としての出世が2年後の悲劇に繋がったかもしれません。

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 1792年/寛政4年 (27〜28歳)

◆ 4月、「フランス革命戦争」勃発
4月20日、ジロンド派内閣がオーストリアに宣戦布告。オーストリアはマリー・アントワネットの故郷。

◆ 7月、「軍楽学校」が設立
7月2日、ベルナール・サレット[1765-1858]の働きかけにより、政府の後援で公的行事での活動などを前提に無料学校として設立。教職者は国民衛兵音楽隊員で、サレットは事務局長、「王立歌唱学校」校長のゴセックが芸術監督を務めています。
  サレットはボルドーの靴職人の息子で、パリに出て会計士として就労。革命勃発により1789年に中産階級民兵組織である「国民衛兵」に入隊。音楽好きだったサレットは、軍楽隊の結成を提案して認められます。背景には、国王軍所属の「フランス衛兵」が、寝返って革命に参加して解散させられ、軍楽隊メンバーも職を失っていたという事情がありました。サレットはすぐに元フランス衛兵45名を中心とした軍楽隊を組織し、行事や街頭での演奏活動など展開。ほどなく活動実績が認められ、1790年5月、政府はメンバーを78名に増員することを決定。
  しかしやがて政府は財政難に陥り、軍楽隊への支払いを停止。サレットは諦めず、音楽家たちの雇用の場をつくるべく、音楽学校設立に向けて奔走して開校に漕ぎつけたのがこの「軍楽学校」です。教育機関という看板のおかげで政府も支援することが可能になり、無償での学生受け入れを実現することになります(王立学校で教えている「声楽」についてはカリキュラムから除外)。パリ音楽院の前身。
◆ 7月、エレーヌと夫、城を売却し渡英
モンジュルー夫妻はモンジュルー城を売却し、7月に渡英。
◆ 9月、第一共和政の開始
9月、王政廃止と共和政の宣言。10月には保安委員会が設置。

◆ 秋、ユーグ=ベルナール・マレが渡英
英仏関係の悪化により駐ロンドン公使館が撤退することになったため、8月に外務省に入省していたユーグ=ベルナール・マレが、ウィリアム・ピット首相と12月22日に交渉するため渡英。しかしその後、ルイ16世死刑判決などにより英仏関係がさらに悪化したことで帰国させられます。
◆ 12月、エレーヌと夫、イギリスから帰還
12月、パリに帰還。政府が外国滞在者の財産を略奪するとしたため。

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 1793年/寛政5年 (28〜29歳)

◆ 1月、ルイ16世、大観衆の前で公開斬首
1月21日、ルイ16世(38歳)が2万人の大観衆の前で見せしめ目的で公開斬首され、集団墓地に埋葬。

◆ 2月、30万人募兵令
2月24日、国民公会によって制定。貴族は半数近くが国外退去し、残されたものも代理人制度で金銭によって徴兵を免れることができるなど不平等な徴兵制度だったため、重い徴税にも耐えていた農民の怒りが爆発。


◆ 3月、ヴァンデーの反乱
不公平な徴兵に怒った人々が蜂起して「カトリック王党軍」と名乗り、共和国軍と戦って内戦に発展。1796年7月まで続き、犠牲者の数は30〜40万人と言われています。



◆ 3月、革命裁判所がパリに設置
3月10日に設置。半年後には左派の台頭により恐怖政治&財産略奪の最重要機関となりますが、当初は将軍や議員は優遇されるなど緩やかな運用でした。4月には公安委員会が設置。

◆ エレーヌと夫、パリ郊外に転居
モンジュルー夫妻、パリ郊外のエピネー・シュル・セーヌに転居。パリ中心部からは10kmほどの距離。

◆ 7月、イタリアへの旅と拉致
7月、モンジュルー夫妻は、ナポリ王国に大使として赴任することが決まった友人マレの旅に同行。途中、前年に駐コンスタンティノープル大使に任命されていたものの未着任だったシャルル=ルイ・ユーグ・ド・スモンヴィル[1759-1839]とその妻、および護衛から成る外交使節団と合流。
  しかし、中立地域のスイスを通過中、メッツォーラ湖の近くでクリスティアン・ケール[1755-1807]軍曹率いるオーストリア軍部隊が国際法を無視して使節団を略奪・拉致し、一行を対岸のオーストリア支配地域であるロンバルディアに船で移送し、グラヴェドーナ刑務所に10日間収監するという暴挙に出ます。エレーヌなど多くの者はそこで釈放されますが、夫モンジュルー准将と大使2人の拘束は継続。


◆ イタリアへの旅の理由
スモンヴィルの先任で、1784年から駐コンスタンティノープル・フランス大使を務めていたショワズール伯爵[1752-1817]は、1792年にフランス革命下で発足した国民公会を承認しなかったため解任され、ギロチンを恐れてパリ召喚にも応じなかったことから財産没収。
  1792年1月に露土戦争の講和を終え、オデッサやオチャコフから沿ドニエストルに至る領土をロシア帝国に割譲したばかりのオスマン帝国のセリム3世は、後任フランス大使の就任を拒否して1792年12月までショワズール伯爵をフランス大使館に置いています。
  その後、エカチェリーナ2世、パーヴェル1世と交流のあったショワズール伯爵はロシアに移住し、サンクトペテルブルクで公共図書館建設などで活躍。1802年のナポレオンによる亡命貴族恩赦で帰国。
  スモンヴィルがコンスタンティノープルに着任できなかった背景には上記のようなものでしたが、ではなぜこの時期に彼がトスカーナ大公国を目指していたのかについてははっきりしていません。
  かつてはマレとスモンヴィルの2人は、共にマリー・アントワネットの助命工作に向けて旅していたとも言われており、そのため同行していたモンジュルーについても同じように語られていましたが、ナポリ王国はすでに第一次対仏大同盟に参加しており、トスカーナ大公国も間もなくフランスとの局所的な戦いが始まる状況だったので、王妃助命嘆願というよりも、恐怖政治下のパリを離れるのが目的だったと考えられます。
  また、最近では、オーストリア軍のケール軍曹らによる拉致についても2人が仕組んだものという説まで出てきています。もしそうであれば、獄死したモンジュルー侯爵(准将)は不運というほかないですが、真相はどうやら闇の中のようです。

◆ 8月、国家総動員令
8月、軍事関係者2名が公安委員会に加わり、18歳から25歳までの独身男性を徴兵できる国家総動員令を発令。これは4月の公安委員会改選で、交戦国との和平も提唱する寛容派のダントンが落選させられていたことにも示されているように、フランスの軍事的先鋭化を象徴するものでした。

◆ 8月、リヨン大虐殺
8月、工業の発達したリヨンでは貴族やブルジョワジーの王党派、穏健派と、貧民のサンキュロットが対立しておりそれが拡大して、パリの急進派が5万人の軍を派遣し2か月に渡って町を包囲。兵士や逃げ遅れた市民を虐殺して住宅も略奪・破壊。市の名前も「リヨン」から「ヴィラフランシー(解放都市)」と変更。市民約2千人の虐殺にあたっては、広場に大勢並べて至近距離から大砲で「葡萄弾(元祖クラスター弾)」を撃つなど残虐な手段を採用。リヨンはエレーヌの生まれたところで、破壊された邸宅の所有者にはネルヴォ姓もあったので親族かもしれません。



◆ 9月、夫モンジュルー、オーストリア兵による暴行で獄死
スイスで拉致された夫モンジュルーと大使2人は、続いてマントヴァ公爵の宮殿に連行されて拘留。そしてオーストリア兵の暴力により、夫モンジュルーは9月2日に56歳で亡くなっています。
  大使2人はオーストリアのインスブルックとザルツブルクの間にあるクーフシュタイン要塞に幽閉され、2年後の1795年12月16日、フランスで3年4か月ものあいだ監禁されていたマリー・テレーズ[1778-1851](ルイ16世とマリー・アントワネットの娘)と交換されて2年半ぶりに自由の身となります。

◆ 9月、恐怖政治が激化
9月17日、「反革命容疑者法」が成立。より簡単に処刑ができるようになったものの、見世物を兼ねたギロチン刑では効率が悪いため、フランス全土で銃殺による大量処刑が増加。処刑した貴族や資産家の財産を略奪できることから人気が出て死刑判決が過熱します。

◆ 10月、マリー・アントワネット、大観衆の前で斬首刑
10月16日、急進左派エベールの捏造証拠により処刑が決まったマリー・アントワネット(37歳)は、市中引き回しの上、大観衆の前で公開斬首。遺体は集団墓地の草むらに野ざらし廃棄。

◆ 11月、エレーヌの生還
オーストリア軍から釈放後、エレーヌたちの一行はスイス山間部のヴィコゾーフラーノに避難し滞在。29歳のエレーヌは、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ミラノ、フィレンツェの知己を頼るべく手紙を書きますが、それらはヴェネツィア共和国の検閲機関によって押収。
  エレーヌは駐スイス全権公使で、スイスのバーデン在住のフランソワ・バルテルミー[1747-1830]を頼って保護されることとなり、10月23日まで同地に滞在。

◆ 11月、パリに国立音楽院が誕生
11月、サレットの「軍楽学校」(1792年開校)と、ゴセックの「王立歌唱学校」(1784年開校)が合併し、「国立音楽院」が誕生。パリ音楽院の前身。

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 1794年/寛政6年 (29〜30歳)

◆ 1〜5月、地獄部隊がヴァンデで無差別大虐殺
すでに反乱が鎮圧されていたヴァンデ地域にルイ・マリー・チュロー[1756-1816]率いる「地獄部隊」が派遣され、乳幼児から子供、女性など無差別に2万人から5万人を凌辱、拷問、大虐殺、焼却し、住居や農場、工場なども略奪したのち放火して破壊。主に剣と炎を駆使して焼野原にするという凄惨な手口から、それまで反乱に加わっていなかった人々の怒りまで買い、12月にヴァンデの反乱が再燃する事態も招いています。チュローの作戦は史上稀な残虐な犯罪でしたが、服役したのは僅か1年で、ほとぼりが冷めると駐アメリカ大使を8年務め、その間、1804年にはレジオンドヌール勲章のグラントフィシエを授与、1812年には男爵に叙爵されて貴族の仲間入りを果たし、さらにパリの凱旋門にも軍事功労者660人のひとりとして名前が刻まれ称えられています。


◆ 3月、恐怖政治を激化させたエベールが斬首
3月24日、恐怖政治を激化させ、捏造証拠によってマリー・アントワネットを処刑に追い込んでいた急進左派のエベール(36歳)が、実際には数々の汚職で私腹を肥やしていたことが発覚し、しかも逃れるために蜂起によるロベスピエールとダントンらの殺害まで企てたことで斬首刑となります。恐怖政治下では裁判だけで約2〜4万人が殺害され、多くの財産も略奪されていました。

◆ 3月、サレットが投獄
3月25日、のちにパリ音楽院院長になるベルナール・サレットが公安委員会により投獄され5月10日に釈放。サレットが公安委員会に働きかけてエレーヌを助けたという説は、エレーヌのパリ滞在審議がサレットの投獄中であることからかなり無理があります。


◆ 4月、ダントンが斬首
4月5日、ダントン(34歳)は急進左派による虐殺略奪と非キリスト教化を終わらせようとしていたものの、対外戦争推進派にとって都合が悪い存在ということもあり、デムーラン(34歳)ら同志と共に、捏造証拠で斬首刑に。



◆ 4月、エレーヌのパリ在住が許可
4月、恐怖政治下の法令により、貴族および交戦国の外国人が、パリと要塞都市、海上都市に出入りすることが禁止されます。しかしそれでは不都合が生じることも多かったので、公安委員会は実に数千の例外を認め、エレーヌについても下記のような文面でパリ滞在を許可しています。

「市民ゴーティエ=モンジュルー、芸術家。その夫はオーストリア軍によって卑劣にも殺害。彼女の才能を愛国的な祝典に役立てるため。」

つまり恐怖政治の過酷な時期に、公安委員会から滞在と公共の場での演奏を認められていたことになるので、エレーヌ・モンジュルーのエピソードとして最も有名な「ピアノでラ・マルセイエーズにもとづく即興演奏をしてギロチン刑から逃れることができた」という話の信憑性は非常に低そうです。

◆ 7月、ロベスピエール、サン=ジュストら斬首
7月28日、失脚したロベスピエール(36歳)、ド・サン=ジュスト(26歳)らの斬首刑により、1年4か月ほど続いた恐怖政治と略奪がテルミドールのクーデターで終了。これにより王党派が国民衛兵を統率することになります。



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 1795年/寛政7年 (30〜31歳)

◆ 2月、エレーヌが出産
2月11日、エレーヌの唯一の子である、エメ・シャルル[1795-1878]が誕生。エメ・シャルルは軍人になりますが、晩年の母と2年間イタリアで過ごしたことで美術に魅せられ、相続財産を生かして美術コレクター「オラス・イス・ド・ラ・サル」として有名になります。
  誕生日から逆算すると、公安委員会によって貴族エレーヌの自由を認める例外措置が確定してまもなくの時期の子供ということになります。
  エメ・シャルルの父親は、政府機関紙「ガゼット・ナシオナル・ウ・ル・モニトゥール・ユニヴェルセル」の編集者、シャルル・アントワーヌ・ヤサント・イス[1769-1851]で、2年後の1797年5月31日に結婚しますが、その5年後の1802年に離婚しています。
  機関紙「ガゼット・ナシオナル・ウ・ル・モニトゥール・ユニヴェルセル」は、エレーヌの友人の外交官ユーグ=ベルナール・マレによる国民議会議事録の新聞掲載というアイデアを元に生まれたもので、当初は官報のような存在でしたが、1799年12月からは政府公式新聞として発行されるようになります。


◆ 8月、パリ音楽院の開校準備開始
8月、教師の募集を開始。パリ音楽院(当時は単に「音楽院」)は、1792年にサレットが開校させた軍楽学校「国民衛兵音楽学校」と、1784年にルイ16世が創った声楽学校「王立歌唱・朗唱学校」が合併した組織。要は木管楽器と声楽の学校だったので、教師の募集は弦楽器と鍵盤楽器が中心になり、鍵盤楽器は6名が採用されることになります。

◆ 10月、ヴァンデミエールの反乱
10月5日、前年に国民衛兵を指揮下に置いていた「王党派」が「総裁政府」の成立を武力で阻止しようとするものの、26歳のナポレオン率いる砲兵部隊が市街地で葡萄弾(元祖クラスター弾)を用いるなどして鎮圧。ナポレオンは国民衛兵を武装解除しますが組織は解散せずに温存し、のちに役立てます。



◆ 11月、総裁政府樹立
11月2日、
私有財産の不可侵も掲げる1795年憲法によって正式に成立。政府は5人の総裁から成る集団指導体制となり、1799年11月まで継続。第一共和政の後半。
◆ 11月、エレーヌ、パリ音楽院に就職
11月22日、試験を経てエレーヌが第1級教師(クラヴサン男子上級クラス担当)に任命。同時採用者の中には19歳のヤサント・ジャダン(クラヴサン女子クラス担当)の名も。

◆ ピアノ・ソナタ集 Op.1を出版
パリ音楽院に導入された印刷機によって出版。

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 1796年/寛政8年 (31〜32歳)

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 1797年/寛政9年 (32〜33歳)

◆ 5月、エレーヌ、2度目の結婚
5月31日、シャルル・ヤサント・イス[1769-1851]とパリで結婚。住居はパリ中心部、サン・ラザール通り54番地。子供は2年前の1795年2月に生まれていました。

◆ 夏、エレーヌ、「シャトー・ド・ラ・サル」を購入
パリの南南西100kmほどのところにあるスノンシュに別宅「シャトー・ド・ラ・サル」を購入。主に夏に過ごしています。

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 1798年/寛政10年 (33〜34歳)

◆ 1月、エレーヌ、パリ音楽院を退職
1月22日、パリ音楽院を健康上の問題で退職。

◆ エレーヌ、ド・トレモン男爵と親交
熱烈な音楽愛好家でパトロンとしても知られるルイ・ド・トレモン男爵と親しく交流。男爵は絵を描くのも趣味で、自画像と同じポーズのエレーヌの肖像画を描いてもいました。


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 1799年/寛政11年 (34〜35歳)

◆ 12月、ナポレオンが第一統領に就任
12月、統領政府が樹立され、ナポレオンの権限が強化。フランス革命終結。



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 1800年/寛政12年 (35〜36歳)

◆ 9月、ジャダンが死去
9月27日、パリ音楽院の元同僚ヤサント・ジャダンが結核により24歳で死去。

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 1801年/寛政13年/享和元年 (36〜37歳)

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 1802年/享和2年 (37〜38歳)

◆ 10月、エレーヌ、離婚
10月2日、シャルル・ヤサント・イスと離婚。

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 1803年/享和3年 (38〜39歳)

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 1804年/享和4年/文化元年 (39〜40歳)

◆ 5月、第一帝政開始
5月、国民投票によりナポレオン1世が皇帝に即位。



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 1805年/文化2年 (40〜41歳)

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 1806年/文化3年 (41〜42歳)

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 1807年/文化4年 (42〜43歳)

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 1808年/文化5年 (43〜44歳)

◆ エレーヌ、パリ中心部、コーマルタン通りに転居
オペラ座に近い通りの住居に転居しています。

◆ エレーヌ、パリ近郊の「ラ・ソリチュード」を購入
エレーヌは、パリ近郊のサンプリに美しい別宅「ラ・ソリチュード」を購入。主に夏に滞在しています。

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 1809年/文化6年 (44〜45歳)

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 1810年/文化7年 (45〜46歳)

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 1811年/文化8年 (46〜47歳)

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 1812年/文化9年 (47〜48歳)

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 1813年/文化10年 (48〜49歳)

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 1814年/文化11年 (49〜50歳)

◆ 4月、ルイ18世即位
4月、第六次対仏大同盟軍はパリ入城を果たし、23年間亡命生活を送っていたルイ18世[1755-1824](ルイ16世の弟)を即位させます。



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 1815年/文化12年 (50〜51歳)

◆ 3月、ナポレオン百日天下
3月、エルバ島を脱出してナポレオン1世が復位。しかし6月に「ワーテルローの戦い」で敗北して退位。



◆ 7月、ルイ18世復位
6月のワーテルローの戦いでの敗北によりナポレオンが失脚。ルイ18世が復位。



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 1816年/文化13年 (51〜52歳)

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 1817年/文化14年 (52〜53歳)

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 1818年/文化15年/文政元年 (53〜54歳)

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 1819年/文政2年 (54〜55歳)

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 1820年/文政3年 (55〜56歳)

◆ 1月、エレーヌ、3度目の結婚
1月19日、55歳のエレーヌは、36歳のエドゥアール・ソフィー・デュノ・ド・シャルナージュ[1783-1826]と結婚。エドゥアールは伯爵の家系の出身で、軍人、政治家として活躍。ナポレオンの百日天下時代に知事を務めたため、ナポレオン失脚後に引退を命じられ、エレーヌと出会った当時は、政治関係の執筆をおこなっていました。

◆ エレーヌ、「フォルテピアノ教育全課程」出版
1788年から取り組み、数年前に完成していたと思われる「初歩から最大の難関まで段階的に導くフォルテピアノ教育全課程」を出版。972の演習素材と114の練習曲で構成される大規模なものです。

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 1821年/文政4年 (56〜57歳)

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 1822年/文政5年 (57〜58歳)

◆ 1822年、エレーヌ、パリ中心部、クリシー通りに転居
コーマルタン通りから数百メートル離れた通りに転居しています。

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 1823年/文政6年 (58〜59歳)

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 1824年/文政7年 (59〜60歳)

◆ 9月、シャルル10世即位
9月、シャルル10世[1757-1836]即位。旧体制への揺り戻し。



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 1825年/文政8年 (60〜61歳)

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 1826年/文政9年 (61〜62歳)

◆ 4月、エレーヌ、夫と死別
4月6日、結婚6年目の夫が42歳で死去し、エレーヌは未亡人に。

◆ エレーヌ、健康状態が悪化
この年からエレーヌの健康状態が悪化しています。

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 1827年/文政10年 (62〜63歳)

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 1828年/文政11年 (63〜64歳)

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 1829年/文政12年 (64〜65歳)

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 1830年/文政13年/天保元年 (65〜66歳)

◆ 七月革命
7月、シャルル10世の「7月勅令」に怒り狂った民衆がルーブル宮殿を襲撃。翌月シャルル10世は亡命生活に入り6年後にゲルツで死去。



◆ 8月、ルイ・フィリップ1世即位
8月、21年間亡命生活を送っていたルイ・フィリップ1世[1773-1850]が即位。市民王。



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 1831年/天保2年 (66〜67歳)

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 1832年/天保3年 (67〜68歳)

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 1833年/天保4年 (68〜69歳)

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 1834年/天保5年 (69〜70歳)

◆ エレーヌ、息子と共にイタリアに移住
健康状態が悪化したエレーヌは、軍人だった息子のエメ・シャルルと共にイタリアに行き、ロンバルド=ヴェネト王国のパドヴァ、トスカーナ大公国のピーザ(ピサとも)、同国首都のフィレンツェと移り住みます。

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 1835年/天保6年 (70〜71歳)

◆ エレーヌ、息子と共にイタリアに居住
息子のエメ・シャルルと共にイタリアで暮らします。

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 1836年/天保7年 (71〜72歳)

◆ 5月、エレーヌ、死去
5月20日、フィレンツェで72歳で死去。サンタ・クローチェ教会の回廊に埋葬。息子のエメ・シャルルは2年間のイタリア暮らしで美術に開眼、やがて美術コレクター「オラス・イス・ド・ラ・サル」として知られるようになり、ルーヴル美術館に21点の絵画と450点の素描を寄贈したほか、コレクションの大部分をフランスの美術館に贈っています。

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 年表付き商品説明ページ

【作曲家(生年順)】

  バロック
カッツァーティ [1616-1678]
ルイ・クープラン [1626-1661]
ダンドリュー [1682-1738]

  古典派&ロマン派
モンジュルー [1764-1836] (ピアノ系)
ベートーヴェン [1770-1827]
ジャダン [1776-1800] (ピアノ系)
リース [1784-1838]

  近現代
レーバイ [1880-1953] (ギター系)
ショスタコーヴィチ [1906-1975]
ラングレー [1907-1991] (オルガン系)
アンダーソン [1908-1975]
デュアルテ [1919-2004] (ギター系)
ヘンツェ [1926-2012]
坂本龍一 [1952-2023]

【指揮者(五十音順)】

アーベントロート (ベートーヴェンシューマンブルックナーブラームスモーツァルトチャイコハイドン)
アルヘンタ
アンセルメ
エッシェンバッハ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クナッパーツブッシュ (ウィーン・フィルベルリン・フィルミュンヘン・フィル国立歌劇場管レジェンダリー)
クラウス
クリップス
クレツキ
クレンペラー (VOX&ライヴザルツブルク・ライヴVENIASボックス
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スイトナー (ドヴォルザークレジェンダリー)
スラトキン(父)
セル
ターリヒ
チェリビダッケ
トスカニーニ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベーム
ベイヌム
ペトレンコ
マルケヴィチ
ミトロプーロス
メルツェンドルファー
メンゲルベルク
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー (ブルックナーマーラーヨーロッパドイツ)
ロスバウト

【鍵盤楽器奏者(楽器別・五十音順)】

  チェンバロ
ヴァレンティ
カークパトリック
ランドフスカ

  ピアノ
ヴェデルニコフ
カサドシュ
キルシュネライト
グリンベルク
シュナーベル
ソフロニツキー
タマルキナ
タリアフェロ
ティッサン=ヴァランタン
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
ノヴァエス
ハスキル
フェインベルク
モイセイヴィチ
ユージナ
ロン

【弦楽器奏者(楽器別・五十音順)】

  ヴァイオリン
オイストラフ
コーガン
スポールディング
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヘムシング
リッチ
レビン

  チェロ
カサド
シュタルケル
デュ・プレ
ヤニグロ
ロストロポーヴィチ

【管楽器奏者(楽器別)】

  クラリネット
マンツ

  ファゴット
デルヴォー(ダルティガロング)

  オーボエ
モワネ

【歌手】

ド・ビーク (メゾソプラノ)

【室内アンサンブル(編成別・五十音順)】

  三重奏団
パスキエ・トリオ

  ピアノ四重奏団
フォーレ四重奏団

  弦楽四重奏団
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
ズスケ四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
フランスの伝説の弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団

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