ショスタコーヴィチ(1906-1975)

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CD 輸入盤

交響曲第4番、第5番、第7番、第8番、第10番 ギュンター・ヘルビヒ&ザールブリュッケン放送交響楽団(5CD)

ショスタコーヴィチ(1906-1975)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
BC0303304
組み枚数
:
5
レーベル
:
:
Germany
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


実演の迫力が素晴らしいショスタコーヴィチ名演集

ショスタコーヴィチ:交響曲第4、5、7、8、10番(5CD)
ギュンター・ヘルビヒ指揮ザールブリュッケン放送響


ヘルビヒは1966年から1972年にかけて、ショスタコーヴィチと親しかったクルト・ザンデルリングと共にベルリン交響楽団を指揮しており、ショスタコーヴィチをレパートリー化。
  ここでの演奏は、2000年から2005年にザールブリュッケン放送響を指揮したもので、第4、5、7、10番は、間接音がほどよく残されたライヴ録音のため臨場感も豊か。スタジオ録音の第8番と音質的な遜色がなく、実演の迫力を十分なクオリティで味わえます。
  ヘルビヒのショスタコーヴィチは、いろいろなパートがよく聴こえるので、レニングラード交響曲のエンディングのブラスがブルックナー8番第1楽章第1主題のオマージュであることもよくわかります。

ドイツの名匠、ギュンター・ヘルビヒ
かつて東ドイツで活躍した指揮者には実力派が揃っていますが、ギュンター・ヘルビヒもそのひとりです。ヘルビヒはヘルマン・アーベントロートに師事し、最初の仕事もアーベントロートが音楽監督を務めていたワイマール国民劇場で得ています。

1956〜1966 劇場指揮者
1956年、ワイマール・ドイツ国民劇場の指揮者として契約。1948年に戦後ドイツで最初に再建された劇場。1962年にはベルリン郊外のポツダムにあるハンス・オットー劇場の音楽監督に就任。ヘルビヒは劇場指揮者を10年ほど務める一方で、ヘルマン・シェルヘン、アルヴィド・ヤンソンス、ヘルベルト・フォン・カラヤンの指導を受け、コンサート指揮者に転向することになります。

1966〜1972 ベルリン交響楽団 指揮者
35歳の年に着任したベルリン交響楽団では、首席指揮者のクルト・ザンデルリング[1912-2011]と共に6年間働いています。ザンデルリングは、ショスタコーヴィチの友人で、1960年に東ドイツに来てからも親交が続いていたほか、マーラーの権威としても知られていたので、ヘルビヒにとっては得難い先輩同僚でした。

1972〜1977 ドレスデン・フィル 芸術監督
クルト・マズアの後任としてドレスデン市の音楽総監督&ドレスデン・フィルの芸術監督に就任。毎年、オーケストラと共に世界各地にツアーをおこなっており、日本にも来ています。また、クレンペラーの補佐としてニュー・フィルハーモニア管弦楽団の首席客演指揮者になっていたザンデルリングの誘いで、ヘルビヒも1973年にニュー・フィルハーモニア管弦楽団に客演しており、以後、BBCとも仕事をするきっかけになっています。

1977〜1983 ベルリン交響楽団 首席指揮者
ザンデルリングが定年になったため、ベルリンから市の音楽総監督&ベルリン交響楽団首席指揮者として迎えられます。首席指揮者退任後のザンデルリングも頻繁に客演していたため、ベルリン交響楽団のコンサートはとても充実していました。

1977 新ホール建設の決定
戦争被害のため廃墟と化していたベルリンの演劇用ホール「シャウシュピールハウス」を、コンサート用のホールとして新たに建て替えることがに政府により決定し、1979年に工事が開始。ヘルビヒは喜び、ベルリン交響楽団が最優先で使えるよう政府との約束をとりつけ、1981年には工事中のホールで「工事現場コンサート」も開催。ヘルビヒがホールの使用条件にこだわった背景には、ドレスデン・フィル時代の苦労がありました。

1983 約束反故に対し抗議の辞任
10月、翌年に開場予定のシャウシュピールハウスの優先使用の約束が取り消され、単なる本拠地としての使用となったことに抗議してヘルビヒは辞任。これにより、SED(ドイツ社会主義統一党)から睨まれ、翌年、東ドイツを去ることになります。ちなみにベルリン交響楽団がシャウシュピールハウスを優先使用できるようになるのは、ドイツ再統一から2年が経過した1992年のことでした。

1984 アメリカに移住
ドラティの後、空席が3年間続いていたデトロイト交響楽団の音楽監督に就任。ミシガン州に居を構え、以後、トロント交響楽団、ハーグ・レジデンティ管弦楽団、ボルティモア交響楽団、ザールブリュッケン放送交響楽団、台湾フィルハーモニック、グラン・カナリア・フィルを中心に、世界各地のオーケストラを指揮。40年を経た今も現役です。

 ギュンター・ヘルビヒ 3タイトル同時発売

マーラー:交響曲第5、6、9番、他(3CD+ボーナスCD)
◆ ショスタコーヴィチ:交響曲第4、5、7、8、10番(5CD)
ブラームス:交響曲全集、ベートーヴェン「英雄」、他(5CD)


 目次

◆ トラック・リスト (楽曲 & 演奏時間情報)
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番 ザールブリュッケン放送交響楽団(2005)
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 ザールブリュッケン放送交響楽団(2005)
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番 ザールブリュッケン放送交響楽団(2000)
ショスタコーヴィチ:交響曲第8番 ザールブリュッケン放送交響楽団(2004)
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番 ザールブリュッケン放送交響楽団(2005)


◆ ヘルビヒ年表
193119321933193419351936193719381939194019411942194319441945194619471948194919501951195219531954195519561957195819591960196119621963196419651966196719681969197019711972197319741975197619771978197919801981198219831984198519861987198819891990199119921993199419951996199719981999200020012002200320042005200620072008200920102011201220132014201520162017201820192020202120222023

◆ ショスタコーヴィチ年表
前史  1906  1907  1908  1909  1910  1911  1912  1913  1914  1915  1916  1917  1918  1919  1920  1921  1922  1923  1924  1925  1926  1927  1928  1929  1930  1931  1932  1933  1934  1935  1936  1937  1938  1939  1940  1941  1942  1943  1944  1945  1946  1947  1948  1949  1950  1951  1952  1953  1954  1955  1956  1957  1958  1959  1960  1961  1962  1963  1964  1965  1966  1967  1968  1969  1970  1971  1972  1973  1974  1975 

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 トラック・リスト (楽曲 & 演奏時間情報)

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 ショスタコーヴィチ:交響曲第4番 ハ短調 Op.43 (56:19)

【関連時系列】

1928年 (21〜22歳)

◆ ガヴリール・ポポフ[1904-1972]が、交響曲第1番の作曲に着手。ポポフはレニングラード音楽院在学中でショスタコーヴィチの学友。


1932年 (25〜26歳)

◆ 9月、モスクワのボリショイ劇場とプラウダ紙が主催する十月革命15周年記念作曲コンクールに、ポポフが大編成オーケストラを用いた3楽章構成の作品、交響曲第1番を出品し、ピアノ版を試演。審査員はグネーシン、ゴロワノフ、ゴリデンヴェイゼル、ミャスコフスキー等。

◆ ショスタコーヴィチ、作曲家同盟レニングラード支部の運営委員に選出。


1933年 (26〜27歳)

◆ 10月14日、作曲コンクールの審査結果が発表され受賞者は賞金を獲得。1位:該当なし。2位:ポポフ、シャポリーン[1887-1966]の交響曲第1番、シェバリーン[1902-1963]の交響曲「レーニン」 (マヤコフスキーの詩による)。ポポフの作品は賛否両論。


1934年 (27〜28歳)

◆ 1月、ショスタコーヴィチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」初演。ロシア帝国時代の階級社会問題を、殺人や性的な描写も盛り込んで表現したこともあって大成功を収め、ほぼ2年もの間、ショスタコーヴィチに月額1万〜1万2千ルーブル前後という巨額の収入をもたらします (一般労働者の30〜60倍ほど)。

◆ 春、ショスタコーヴィチ、作曲家同盟レニングラード支部で、交響曲第4番のコンセプトが「祖国防衛」であると発表。

◆ ショスタコーヴィチ、交響曲第4番の曲想を練るために巡洋艦オーロラに乗船し、第1楽章のラフ・スケッチを書いたりしますが、なかなか捗らなかったため、その後、「祖国防衛」コンセプトは破棄。スケッチは6分ほどの断章として現存。

◆ ショスタコーヴィチ、レニングラード市の区議会議員に選出。

◆ ポポフが交響曲第1番を改訂し最終版を完成。

◆ 12月1日、セルゲイ・キーロフ、レニングラードで暗殺。

◆ 12月末、ショスタコーヴィチ、レニングラード・プラウダ紙に「我々は大いなる時代のトランペッターにならなければならない」と題する論説を寄稿。交響曲第4番が大きな理念と大きな情熱をもったモニュメンタルで綱領的な作品になるだろうとし、キーロフへの弔意を示すと共に、キーロフの記憶にふさわしい作品を書くことがすべての作曲家に求められるとしていました。トランペッターは、黙示録のラッパ吹きではなく、進軍ラッパ吹きを意味すると考えられます。


1935年 (28〜29歳)

◆ 3月、レニングラードの文化行事レパートリー管理局の局長オブノルスキーがポポフの交響曲第1番を演奏しないよう指示。

◆ 3月、レニングラードのレパートリー委員会が、ポポフの交響曲第1番に対する局長の指示を拒否。

◆ 3月22日、ポポフの交響曲第1番が初演。演奏はフリッツ・シュティードリー指揮レニングラード・フィル。ショスタコーヴィチと親友ソレルチンスキーらも出席。シュティードリーはマーラーの弟子で、シェーンベルクと非常に親しく十二音作品のソ連初演も指揮。語学も含めて博覧強記な教育者のソレルチンスキー[1902-1944]はフィルハーモニー協会でも活動。大のマーラー好きでもあり、ショスタコーヴィチにマーラーの魅力を伝えています。

◆ 3月23日、ポポフの交響曲第1番に演奏禁止令。オーケストラ作品としてはソ連初の禁止措置。「我々に敵対する階級のイデオロギー」という理由。

◆ 4月、ショスタコーヴィチ、交響曲第4番のためにシンプルで表現力豊かな音楽語法を模索していると発表。

◆ 9月13日、ショスタコーヴィチ、交響曲第4番の作曲を開始。年末までの約3か月で第1楽章と第2楽章を完成。ポポフの交響曲第1番が禁止措置を受けた直後の4月には、シンプルな音楽語法を模索していると発表していたショスタコーヴィチですが、離婚の危機も去って安心したのか、まるでポポフへの連帯を示すかのように、複雑な音楽語法のポポフの交響曲第1番と同じアウトラインを設定。

  ● 3楽章構成の大作。
  ● 大編成オーケストラを使用。
  ● マーラーやロシア・アヴァンギャルドなど他作品の要素をオマージュ的に投入。

当時のショスタコーヴィチは人気絶頂だったため、自分なら大丈夫だろうと考えていた可能性があります。

◆ 「ムツェンスク郡のマクベス夫人」、アメリカ初演後、その内容が不道徳であるとして、アメリカでは「ポルノフォニー」などと揶揄する批評も登場。

◆ 夏頃まで親しくしていた通訳のエレナ・コンスタンティノフスカヤ[1914-1975]が、何者かの告発により逮捕され収監。


1936年 (29〜30歳)

◆ 1月28日、プラウダ紙が社説で「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を荒唐無稽と批判。2年ものあいだ大人気を容認していたにも関わらず突然の方向転換でした。ショスタコ―ヴィチは、数か月前まで親しくしていたエレナが少し前に逮捕・収監されていたことから動揺。

◆ 2月5日、プラウダ紙が論説「バレエの偽善」で、集団農場「明るい小川」を扱ったバレエの台本を批判。背景には、反ソ連プロパガンダとして非難されたりしていたミハイロフスキー劇場の関係者問題 (=台本作者)があったと考えられます。

◆ 収監されていたエレナ・コンスタンティノフスカヤが釈放。

◆ ショスタコーヴィチの収入が激減。「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の上演自粛により、収入が月額2千〜3千ルーブルほどに減少 (一般労働者の7〜15倍ほど。モスクワ音楽院教授たちの5〜6倍相当)。

◆ 5月20日、ショスタコーヴィチ、交響曲第4番を完成

◆ 5月30日 (第1子ガリーナ誕生の日)、ショスタコーヴィチ、自宅で交響曲第4番をピアノ試演。完成間もない総譜を置いたテーブルには、クレンペラー、シュティードリー、ガウク、グリークマン、ソレルチンスキーらが同席して鑑賞。グリークマンによると総譜の正面にはクレンペラーが着席 (クレンペラーは前年にはポポフの交響曲第1番を国外初演すべく動いていましたが演奏禁止措置により頓挫)。

◆ 8月、エジョフ率いるNKVDが大粛清を開始。

◆ 前年まで親しくしていたエレナ・コンスタンティノフスカヤが、ソ連使節団の一員として、内戦中のスペインで通訳として活躍。1937年8月から1938年2月までは、スペイン第22旅団司令官と第13国際旅団司令官の上級軍事顧問を務めるヴラジーミル・コルパクチ[1899-1961]の通訳を務め、帰国後、「赤旗勲章」を授与され、ほどなくレニングラード音楽院で外国語部門の教職を拝命。ちなみにスペインでは、ソ連から撮影に来ていたロマン・カルメン[1906-1978]という特徴的な名前のドキュメンタリー映画監督(既婚)と親しくなっており、このことがショスタコーヴィチの「カルメン」引用と関連付けられることもあったようです。

◆ 12月、交響曲第4番の初演 (12月11日)に向けてリハーサル開始。ポポフの交響曲第1番と同じく、フリッツ・シュティードリー指揮レニングラード・フィルの演奏。

◆ 12月、交響曲第4番初演中止。レニングラード地区の作曲家同盟書記が同地区の党幹部を伴ってレニングラードの演奏会事業を運営するフィルハーモニー協会事務局を訪問。同協会監督でショスタコーヴィチのピアノ・デュオ仲間でもあるピアニストのイサイ・ミハイロヴィチ・レンジン[1903-1969]に対し、ショスタコーヴィチに自発的に初演撤回させるよう要請。2回目のリハーサル後にショスタコーヴィチは初演中止を発表。名目は終楽章を完成させるというものでした。


1946年 (39〜40歳)

◆ ショスタコーヴィチ、交響曲第4番の2台ピアノ編曲版を作成。自筆総譜は、指揮者のガウクが旅行中に紛失していたため、ショスタコーヴィチ自身がスケッチから編曲。ソ連作曲家同盟用にごく少数が作成された編曲譜。


1961年 (54〜55歳)

交響曲第4番の総譜が復元。レニングラード・フィルでライブラリアンとして働いていたシャルマンが、書庫に保管されていた全楽器のパート譜を集め、ショスタコーヴィチの友人で作曲家のレヴォン・アトヴミャン[1901-1973]の主導で総譜化。アトヴミャンは当時、モスクワの国立映画交響楽団の芸術監督兼指揮者を務めていました。

交響曲第4番の初演に向け、演奏会事業を運営するモスクワ・フィルハーモニー協会のモイセイ・グリンベルク監督が、モスクワ・フィル音楽監督のキリル・コンドラシンに初演を打診。コンドラシンはピアノ編曲譜を見て承諾。

◆ 12月30日、交響曲第4番が初演。演奏はキリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィル。

1962年 (55〜56歳)

交響曲第4番の管弦楽総譜が出版。ソ連作曲家同盟が運営するモスクワの「ソヴィエツキー・コンポジートル」からの出版。

CD1 Track 1
第1楽章 Allegretto poco moderato-Presto (27:19)
00:00〜12:52 呈示部 (12:52)
  00:00 序奏
  00:14 第1主題
  01:09 マーラー2番第1楽章254小節から変形引用
  02:02 抒情的エピソード (対旋律で第2主題を予告)
  03:23 第1主題 (トランペットで第2主題を予告)
  05:10 スケルツォ風エピソード
  05:45 マーラー7番第3楽章から変形引用
  06:24 第1主題
  07:03 第2主題
  08:19 「ボリス・ゴドゥノフ」プロローグの合唱「お慈悲を」の変形引用
  09:28 スケルツォ風エピソード
  09:46 抒情的エピソード + チェレスタ
  10:10 第2主題 (ホルン) + カッコー動機
  10:44 第2主題 + 運命動機 (マーラー3番第1楽章から変形引用)
  11:47 「ボリス・ゴドゥノフ」プロローグの合唱「お慈悲を」の変形引用
  12:08 第2主題 (チューバ) + カッコー動機

12:52〜20:52 展開部 (08:00)
  12:52 第1主題
  14:47 弦フガート (第1主題)レオノーレ序曲風
  16:31 金管打楽器参加 (第1主題 + 序奏)
  07:17 ワルツ風 (第1主題)第2楽章第1主題暗示
  19:28 序奏

20:52〜23:26 再現部 (02:34)
  20:52 序奏
  20:59 第2主題 + 第1主題
  21:41 第2主題 + 「ボリス・ゴドゥノフ」プロローグの合唱「お慈悲を」の変形引用 (イングリッシュホルン)
  22:59 第2主題 + カッコー動機

23:26〜27:19 終結部 (03:53)
  23:26 ヴァイオリン・ソロ
  24:54 第1主題 + マーラー9番第1楽章から変形引用


CD1 Track 2
第2楽章 Moderato con moto (09:10)

00:00〜02:34 第1部 (02:34)
  00:00 主題A1
  01:22 主題A2
  01:44 主題A1

02:34〜04:15 中間部 (01:41)
  02:34 主題B。交響曲第5番第1楽章第1主題に類似。

04:15〜07:12 主部 (02:57)
  04:15 主題A1の弦楽による対位法的展開
  06:27 主題A1の木管による対位法的展開

07:12〜08:40 中間部 (01:28)

08:40〜09:10 終結部 (00:30)

CD1 Track 3
第3楽章 Largo - Allegro (19:50)
00:00〜06:26 第1部 (A) (06:26)

06:26〜10:17 第2部 (B) (03:51)

10:17〜19:50 第3部 (A) (09:33)

  ザールブリュッケン放送交響楽団
  ギュンター・ヘルビヒ (指揮)

  録音:2005年3月5日、ザールラント州、ザンクト・イングベルト、インドゥストリーカテドラーレ (ライヴ)
  プロデューサー:マルクス・ブレンドレ
  エンジニア:トーマス・ベッヒャー

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 ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 ニ短調 Op.47 (49:01)


CD2 Track 1
第1楽章 Moderato (17:13)
00:01〜08:12 呈示部 (08:11)
  00:01 序奏主題
  00:30 第1主題
  04:55 第2主題 (「カルメン」〜「ハバネラ」のラムール)

08:12〜11:52 展開部 (03:40)

11:52〜15:31 再現部 (03:39)
  11:52 第1主題
  13:24 第2主題

15:31〜17:14 終結部 (01:43)

CD2 Track 2
第2楽章 Allegretto (05:24)
00:00〜01:51 第1部 (A) (主部) (01:51)

01:51〜03:23 第2部 (B) (中間部) (01:32)

03:23〜05:09 第3部 (A) (主部) (01:46)

05:09〜05:24 終結部 (B) (00:15)

CD2 Track 3
第3楽章 Largo (14:30)
00:00〜03:12 第1部 (A) (03:12)

03:12〜04:05 第2部 (B) (00:53)

04:05〜06:00 第3部 (A) (01:55)

06:00〜08:17 第4部 (C) (02:17)

08:17〜10:01 第5部 (A) (01:44)

10:01〜11:48 第6部 (C) (01:47)

11:48〜12:48 第7部 (A) (01:00)

12:48〜13:47 第8部 (B) (00:59)

13:47〜14:30 終結部 (C) (00:43)


CD2 Track 4
第4楽章 Allegro non troppo (11:54)
00:00〜02:22 第1部 (A) (02:22)

02:22〜03:11 第2部 (B) (00:49)

03:11〜03:41 第3部 (A) (00:30)

03:41〜05:51 第4部 (B) (02:10)

05:51〜08:02 第5部 (A) (02:11)

08:02〜11:54 終結部 (03:52)

  ザールブリュッケン放送交響楽団
  ギュンター・ヘルビヒ (指揮)

  録音:2005年9月9日、ザールブリュッケン、コングレスハレ (ライヴ)
  プロデューサー、エンジニア:マルクス・ブレンドレ

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 ショスタコーヴィチ:交響曲第7番 ハ長調 Op.60 (68:39)


CD3 Track 1
第1楽章 Allegretto (25:19)
00:00 〜05:50 呈示部 (05:50)
  00:00 第1主題群
  01:57 第2主題群

05:50〜18:13 展開部 (12:33)
  05:50 第1変奏(第2主題群)
  06:32 第2変奏(第2主題群)
  07:10 第3変奏(第2主題群)
  07:49 第4変奏(第2主題群)
  08:59 第5変奏(第2主題群)
  09:38 第6変奏(第2主題群)
  10:15 第7変奏(第2主題群)
  10:54 第8変奏(第2主題群)
  11:33 第9変奏(第2主題群)
  12:10 第10変奏(第2主題群)
  12:50 第11変奏(第2主題群)
  13:27 第12変奏(第2主題群)
  14:02 第13変奏(第2主題群)
  14:33 第14変奏(第2主題群)
  14:47 第15変奏(第2主題群)
  15:07 第16変奏(第2主題群)
  15:22 第17変奏(第2主題群)
  15:32 第18変奏(第2主題群)
  15:59 第19変奏(第1主題群)
  16:27 第20変奏(第1主題群)
  17:34 第21変奏(第1主題群)

18:13〜22:02 再現部 (03:49)
  18:13 第2主題群
   19:42 ファゴット・ソロ

22:02〜25:19 終結部 (03:17)
  22:02 第1主題群
  23:20 第2主題群
  24:34 結尾

◆ 展開部の主題
かつてテレビCMでも使われていた展開部のコミカルな旋律について、後半の下行部分は、ヒトラーが好きな作品だったからという理由で「メリー・ウィドウ」由来とも言われています。

◆ 包囲下でも上演されたオペレッタ
しかし、「メリー・ウィドウ」や「伯爵夫人マリツァ」、「小鳥売り」をはじめとする独墺オペレッタは、包囲下のレニングラードでもほかのオペレッタや演劇と同じく上演を継続していました。大規模な劇場やレニングラード・フィルは、ドイツ軍の攻撃が激化すると疎開しましたが、広大なレニングラードには、残って働く歌手や劇団員、放送オケなどの音楽家も数多くおり、ソ連最大の軍需工場地域に勤めるレニングラードの人々や軍人、市民などを過酷な環境の中で支えています。

◆ 第2主題からの生成
そうした多くの人々が楽しみとしているものを、ショスタコーヴィチが悪者仕立てにするとはとても思えないことから、広く流布している「メリー・ウィドウ」由来説には無理があります。第2主題群から生成された旋律であると思われます。

CD3 Track 2
第2楽章 Moderato (poco allegretto) (10:54)
00:01〜04:45 第1部 (A) (主部) (04:44)
  00:01 主題A1 (第1楽章第1主題変形)
  01:29 主題A2
  04:14 主題A1 (第1楽章第1主題変形)

04:45〜07:05 第2部 (B) (中間部) (02:20)
  04:45 主題B1
  05:46 主題B2 (交響曲第5番第4楽章冒頭変形)
  06:19 主題B1

07:05〜09:47 第3部 (A) (主部) (02:42)
  07:05 主題A1 (第1楽章第1主題変形)
  07:37 主題A2

09:47〜10:55 終結部 (A) (01:08)

CD3 Track 3
第3楽章 Adagio (16:35)
00:01〜06:47 呈示部 (06:46)
  00:01 第1主題
  00:30 第2主題
  01:11 第1主題
  01:42 第2主題
  02:58 第3主題 (フルート)
  05:31 第2主題

06:47〜09:18 展開部 (02:31)
  06:47 第3主題
  08:34 第1主題
  08:58 第2主題

09:18〜13:10 再現部 (03:52)
  09:18 第1主題
  09:40 第2主題
  10:14 第1主題
  10:56 第3主題 (ヴィオラ)

13:10〜16:36 終結部 (03:26)
  13:10 第1主題
  13:46 第2主題

◆ ストラヴィンスキーとブラームスへのオマージュ?
この美しいエレジー楽章には、いくつかのオマージュ的な要素が感じられます。第1主題は、ストラヴィンスキーの管楽器のための交響曲や、「ラ・フォリア」を思わせる音楽。第2主題はブラームスの交響曲第1番第2楽章の感傷的な部分、第3主題は同曲第4楽章序奏部の前半ピツィカートと後半フルートといった具合で、展開部もどこかブラームスのハンガリー舞曲風です。


CD3 Track 4
第4楽章 Allegro non troppo (16:08)
00:01〜06:02 第1部 (A) (06:01)
  00:01 主題A1
  01:22 運命動機
  01:33 主題A2
  04:00 ギャロップ風(主題A2)
  04:52 軍楽風(主題A1)
  05:22 ブリッジ(主題A2)

06:02〜09:33 第2部 (B) (03:31)
  06:02 主題B(サラバンド風)

09:33〜16:09 第3部 (C) (06:36)
  09:33 主題C1(ベートーヴェン7番 第3楽章トリオ主題風)
  09:40 主題C2(ブルックナー8番 第1楽章第1主題風)
  10:58 運命動機
  11:07 主題C1(ベートーヴェン7番 第3楽章トリオ主題風)
  11:19 主題C2(ブルックナー8番 第1楽章第1主題風)
  11:43 運命動機
  12:01 主題C2(ブルックナー8番 第1楽章第1主題風)
  12:21 主題C1(ベートーヴェン7番 第3楽章トリオ主題風)
  12:37 第1楽章第1主題後半変形
  14:08 主題C2(ブルックナー8番 第1楽章第1主題風)
  14:32 主題C1(ベートーヴェン7番 第3楽章トリオ主題風)
  14:54 第1楽章第1主題再現
  15:28 主題C2(ブルックナー8番 第1楽章第1主題風)

ベートヴェンは革命の音楽
ベートーヴェンの音楽はロシア帝国時代からロシア音楽協会と各支部の活動によって全国で演奏され、民衆をたのしませるだけでなく鼓舞する音楽としても普及。帝政打倒後はさらに好まれ、革命の音楽として位置づけられています。ここでは長丁場の曲の終盤での注意喚起的な効果を発揮。

ブルックナーは巨大さの象徴
ソ連ではブルックナーについては1920年代からアーベントロートやクレンペラーによって演奏会で紹介されるようになり、1930年代からはムラヴィンスキーも参入して4番と9番などを指揮。戦時中もブルックナー演奏はおこなわれており、1944年7月にはムラヴィンスキーにより、ブルックナー7番第1楽章、ショスタコーヴィチ5番第2楽章、モーツァルト協奏交響曲K.364第2楽章とチャイコフスキー5番第4楽章というプログラムでも演奏。
  ソ連では文化については「有害」という概念はあっても、「敵性」という概念は無かったようで、このレニングラード交響曲でのブルックナー引用も、なにか巨大なものを象徴させることが目的とも考えられます。
  ちなみにブルックナー8番は、1927年4月にクレンペラーがレニングラード・フィルとソ連初演していました。
  ザールブリュッケン放送交響楽団
  ギュンター・ヘルビヒ (指揮)

  録音:2000年9月8日、ザールブリュッケン、コングレスハレ (ライヴ)
  プロデューサー:トーマス・ライジヒ
  エンジニア:エーリヒ・ハイゴルト

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 ショスタコーヴィチ:交響曲第8番 ハ短調 Op.43 (62:59)

栄誉と悲しみの中で作曲
1941年に作曲した交響曲第7番「レニングラード」が、1942年に各国で成功を収めたことで、ショスタコーヴィチは米ライフ誌の表紙を消防訓練姿で飾るなど国際的な知名度を獲得。
  国内でも1941年と1942年にスターリン賞第1席を続けて受賞 (賞金計20万ルーブル、現在換算で約3,800万円)、「ロシア共和国功労芸術家」の称号も授与されたことで地位を一気に高め、芸術問題委員会顧問と全ソ文化連絡協会、作曲家同盟の仕事も任され、モスクワの演奏を管理する団体「フィルハーモニー」での発言力も増していました。
  そして翌1943年の1月末には、ソ連政府によってスターリングラードの解放宣言とレニングラードの勝利宣言がおこなわれ、その約5か月後の1943年7月にはショスタコーヴィチは交響曲第8番の作曲に取りかかっています。
  しかしレニングラードが完全に解放されるのはさらに1年後の1944年1月の終わりのことですし、1943年2月中旬に食料や燃料の配給がおこなわれるようになって餓死・凍死の恐怖は去ったとはいえ、逃げ惑う人々を虐殺するドイツ軍とフィンランド軍、スペイン義勇部隊による砲撃と爆撃、機銃掃射はショスタコーヴィチの故郷ではまだ続けられていたのです。

作曲風景
じっくり構想して一気に書くというショスタコーヴィチのことなので、着想時期はわかりませんが、実際の記譜作業はモスクワの自宅で1943年7月に開始され、月末に第1楽章を完成。モスクワの南約500キロのクルスクで戦いが始まった8月には、反対側のモスクワの北東約200キロのイヴァノヴォの保養施設「作曲家の創造と休息の家」に移り、第2楽章から第5楽章までを9月中に完成させています。
  「作曲家の創造と休息の家」は、ソ連作曲家同盟が貴族の大きな館を宿泊施設に改造したもので、近くには養鶏場や農園もあって食事に困らないことから、ハチャトゥリアン、プロコフィエフ、グリエール、そしてムラデリらも滞在しており、夕方には皆でバレーボールに興じたりするような余裕のある状態だったため、ショスタコーヴィチの心身も健康だったと考えられます。
  また、ハチャトゥリアンによると、ショスタコーヴィチの書斎からはピアノの音が聴こえなかったということなので、まさに、じっくり構想していたものを一気に外に出していたということなのでしょう。
  ちなみにクルスクの戦いでは、3週間ほどでティーガーやパンターなど最新戦車を大投入していたドイツ軍が敗走しています。
  なお、同じ頃、妻のニーナは旧知の間柄の物理学者、アルチョム・アリハニアンから共同研究に誘われ、アルメニアのアラガツ山の標高3,250m地点で宇宙線を調査する高地探検隊に参加。アリハニアンと女性科学者のティナ・アサティアニと共に、空気シャワーの構造研究で新たな発見をおこなっています。この驚きの出来事により、以後、ニーナはモスクワの南約2千キロのエレヴァン (とアラガツ山)に何度も長期出張して共同研究をおこない、やがて1954年12月、実験に伴う放射線障害により45歳で急死するまでの11年間、モスクワとの二重生活を送ることになります。そしてニーナの葬儀の時にポータブル・レコード・プレーヤーで流していたのがこの交響曲第8番でした。

作曲時期の戦争犠牲者
戦局は確かにソ連優勢に転じてはいましたが、一方でドイツ軍とフィンランド軍、スペイン義勇部隊によるレニングラード攻撃はまだ続いており、同所での累計死者数はソ連側戦闘員が約40万人、レニングラード市民が少なくとも包囲下で60万人以上餓死させられており、避難時にもドイツ軍などの砲撃や爆撃で約40万人が虐殺されていました。
  1939年の国勢調査ではレニングラード市の人口は約319万人で、1944年1月解放宣言時の人口は約60万人。徴兵と疎開、移住で多くが不在だったとはいえ、まさにジェノサイドです。

レニングラード大虐殺とは無関係だった第7番「レニングラード」
交響曲第7番はレニングラードの犠牲者がまだあまり多くない1941年9月末までにレニングラードで第1・2・3楽章を作曲しており、しかも構想そのものは戦前だったという話も複数の人間によって証言されています。また、10月にはショスタコーヴィチ家に避難命令が出たことからレニングラードを後にすることになり、第4楽章が完成したのは遷都先のクイビシェフで12月のことでした。
  つまり第7番の作品構想にレニングラードの地獄絵図のイメージは含まれておらず、しかもレニングラード界隈はソ連最大の軍需工場地帯で、各地の赤軍部隊に兵器を送り出していたことから、戦意高揚的な音楽になったのは自然な成り行きだったということになりそうです。
  もっとも、第1楽章についてはいわゆる「侵略の主題」が、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」 (ショスタコーヴィチは前年に半年かけて改訂版を作成していました)のプロローグで民衆が廷吏に無理やり歌わされる新皇帝ボリスを待望する合唱「我らの父よ! 我らを誰の手におまかせなさるのか?」に似ていることや、構想が戦前ということを考慮すれば、スターリンと秘密警察NKVDと官僚らによる大粛清を暗に描いたものと見ることもできそうです。

レニングラード大虐殺との関係性が濃厚な第8番
1943年の交響曲第8番は、有史以来、最大の都市犠牲者を現在進行形で生み出し続けていた故郷レニングラードの戦いのさなかに作曲されているのですから、ショスタコーヴィチに明るい曲を期待する方が不自然というものです。
  そして、じっくり構想して一気に書くというショスタコーヴィチの創作スタイルや、第7番との共通の動機の使用なども考慮すれば、この交響曲第8番こそレニングラードの戦いから受けた印象を反映させたものと考える方が時系列的には筋が通ります。


CD4 Track 1
第1楽章 Allegro energico,ma non troppo. Heftig aber markig (26:12)
0:01〜10:57 呈示部 (10:56)
  00:01 序奏主題
  00:59 第1主題
  05:28 第2主題
  08:50 第3主題

10:57〜16:53 展開部 (05:56)
  15:58 トルコ行進曲

16:53〜24:08 再現部 (03:15)
  16:53 序奏主題
  17:55 第3主題(イングリッシュホルン)
  21:36 第2主題

24:08〜26:13 終結部 (02:06)
  24:08 序奏主題
  24:40 第1主題
  25:17 序奏主題
イングリッシュホルンの虚無とかすかな安息
第1楽章展開部最後のトルコ行進曲と再現部の凄絶なトゥッティ、およびそれに続くイングリッシュホルンの3分を超える長大なソロの部分が有名です。
  これはレニングラード市民を死に追いやるドイツ軍をトルコ行進曲で描き、そのドイツ軍に対して1943年1月に大量の砲弾を撃ち込んだ赤軍のイスクラ作戦を描いたものとも見ることができ、戦闘後の虚無の中に響くイングリッシュホルン・ソロは、あまりの悲惨さに泣くこともできないレニングラード市民のようにも思えます。
  実際、レニングラードがドイツ軍の攻撃から解放されるのは、1944年1月に赤軍がドイツ軍陣地に対して2時間30分で約50万発の砲弾を撃ち込んで無力化した作戦でのことなので、それまでは市民の苦難は続いており、それが戦時に書かれた交響曲第8番の悲しみや奇想に繋がっているとも考えられます。


CD4 Track 2
第2楽章 Scherzo Wuchtig (06:16)
00:00〜01:46 第1部 (A) (主部) (01:46)

01:46〜03:46 第2部 (B) (中間部) (02:00)

03:46〜04:37 第3部 (A) (主部) (00:51)

04:37〜06:16 終結部 (01:39)

CD4 Track 3
第3楽章 Andante moderato (06:05)
00:00〜03:17 第1部 (A) (主部) (03:17)

03:17〜04:24 第2部 (B) (中間部) (01:07)

04:24〜06:05 第3部 (A) (主部) (01:41)


CD4 Track 4
第4楽章 Finale. Allegro moderato (10:32)
  00:00〜00:16 前奏 (00:16)
  00:16〜01:09 主題 (00:53)
  01:09〜01:54 第1変奏 (00:45)
  01:54〜02:46 第2変奏 (00:52)
  02:46〜03:41 第3変奏 (00:55)
  03:41〜04:33 第4変奏 (00:52)
  04:33〜05:35 第5変奏 (01:02)
  05:35〜06:16 第6変奏 (00:41)
  06:16〜07:14 第7変奏 (00:58)
  07:14〜08:05 第8変奏 (00:51)
  08:05〜08:53 第9変奏 (00:48)
  08:53〜09:43 第10変奏 (00:50)
  09:43〜10:32 第11変奏 (00:49)


CD4 Track 5
第5楽章 Finale. Allegro moderato (13:54)
00:00〜04:31 第1部 (A) (04:31)
  00:00 主題A1
  01:21 主題A2
  01:55 主題A3
  02:51 主題A1

04:31〜09:37 第2部 (05:06)
  04:31 主題A1展開
  08:06 第1楽章冒頭動機再現

09:37〜13:54 第3部 (A) (04:17)
  09:37 主題A1
  10:21 主題A3
  10:45 主題A1

マーラー尽くしな音楽
第5楽章の主要主題と副次主題は、素材的にはマーラーの交響曲第9番第3楽章でのロンド主題とアダージョ予告部分を思わせるので、オマージュ的な要素も含意されていそうで、特に展開部最後はかなり露骨にマーラー・オマージュ風になっているのが興味深いところです。
  マーラーは交響曲第9番で第3楽章の後に美しいアダージョを置いていますが、ショスタコーヴィチの場合は、戦況が好転したとはいえまだまだ凄惨な戦いが続いていたこともあり、複雑で落ち着きのない音楽の中に、明るい方向性だけを示すのがやっとのような雰囲気です。

  ザールブリュッケン放送交響楽団
  ギュンター・ヘルビヒ (指揮)

  録音:2004年2月17日、ザールブリュッケン、ハルベルク・フンクハウス、音楽スタジオ1
  プロデューサー、エンジニア:マルクス・ブレンドレ

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 ショスタコーヴィチ:交響曲第10番 ハ短調 Op.43 (55:26)


CD5 Track 1
第1楽章 Allegro energico,ma non troppo. Heftig aber markig (24:53)
00:01〜10:09 呈示部 (10:08)
  00:01 序奏主題
  02:38 第1主題
  06:57 第2主題

10:09〜14:15 展開部 (04:06)

14:15〜21:38 再現部 (07:23)
  14:15 第1主題
  18:21 第2主題

21:38〜24:54 終結部 (03:16)
「怒りの日」の変形?
主要素材はグレゴリオ聖歌「怒りの日」が変形されたものという見方をすると、序奏主題も第1主題も第2主題もその範疇に収まって来るので、単一の主題による巨大なモニュメントのような楽章と捉えることも可能です。

「あなたにとって私の名前は何ですか」の変形?
また、曖昧な部分もある素材なので、前年の1952年10月に書かれた「プーシキンの詩による4つのモノローグ」の第2曲「あなたにとって私の名前は何ですか」の引用とみることもできます。

ウストヴォリスカヤ
「プーシキンの詩による4つのモノローグ」は、親しかったウストヴォリスカヤに献呈した作品で、その第2曲は少しクヨクヨ系の未練がましいような印象もある曲です (ちなみに第1曲はユダヤ人家族のもとを深夜に訪れて重々しくノックする巡礼者の不気味さを描いていますが、巡礼者=ロシア帝国の秘密警察、オフラーナのことかもしれません)。
  また、ショスタコーヴィチは前年の弦楽四重奏曲第5番では、自分の名前を示すDSCH音型の変形と共に、ウストヴォリスカヤの「クラリネット、ヴァイオリン、ピアノのための三重奏曲」の旋律をそのまま組み込んでもいました。
  要するに第1楽章にはショスタコーヴィチの個人的な気持ちも関わっている可能性が高いということになりますが、ウストヴォリスカヤ作品の直接引用ではないのと、DSCH音型の変形使用も少ないことから、前年の弦楽四重奏曲第5番に較べれば、ウストヴォリスカヤへの思いは吹っ切れた状況と見ることもできます。

マーラー第9番第1楽章の影響
第1楽章は重々しくシリアスでモニュメント的な音楽ではありますが、マーラーの交響曲第9番第1楽章の第1主題も「怒りの日」の変形であることや、その第1楽章の巨大なフレームの影響を感じさせるところなども含めて、ショスタコーヴィチの音楽の多義性について改めて考えさせられるユニークな音楽に仕上がっていると思います。

CD5 Track 2
第2楽章 Scherzo Wuchtig (04:17)
00:00〜01:22 第1部 (A) (主部) (01:22)
  00:04 主題A1 (ボリス・ゴドゥノフ風)
  00:14 主題A2
  00:25 主題A1 (ボリス・ゴドゥノフ風)
  00:34 主題A2
  00:47 主題A3

01:22〜02:27 第2部 (B) (中間部) (01:05)
  01:22 主題B1
  01:41 主題B2 (「怒りの日」の変形)
  01:47 主題B1
  02:11 主題B2 (「怒りの日」の変形)

02:27〜04:17 第3部 (A) (主部) (01:50)
  02:27 主題A1 (ボリス・ゴドゥノフ風)
  03:24 主題A2
  03:57 主題A3

大胆すぎるスケルツォ
第2楽章はスケルツォですが、本来の「主部・トリオ・主部」の3部構成ではなく、最初の「主部」のみの構成で、なおかつテンポが速いため、豊富な情報量にも関わらず時間が非常に短くなっています。その強烈なスピード感とダイナミズムはインパクト絶大で、第1楽章の重さから一気に気分転換を図る効果も十分です。

ボリス・ゴドゥノフの引用とスターリン
この楽章では「ボリス・ゴドゥノフ」の冒頭主題に似た旋律が使われていることからスターリンを描いたものとも言われてきました。ショスタコーヴィチは「ムツェンスク郡のマクベス夫人」では舅ボリスを毒殺した直後にカテリーナが嘆いているふりをする歌に「ボリス・ゴドゥノフ」の民衆の合唱の旋律を引用していたほか、交響曲第7番第1楽章の侵略の主題でも同じ旋律を変形使用していたので、プーシキンの描いた「ボリス・ゴドゥノフ」が悪玉だったことからもその素材が「悪の主題」という認識だったと考えられます。しかしどちらの場合も滑稽味を含んでいたことを考えると、このスケルツォ楽章での勇ましさと格好の良さは不思議ではありますが、実際にはスターリンはナチス・ドイツに打ち勝つなど悪い面ばかりでもなかったことから抽象化・圧縮して表現しているのかもしれません。

「怒りの日」の変形使用
第1楽章に続いて、ここでも「怒りの日」の変形素材が使用されています。最初は控えめに、次は力強く登場し、まるで「審判」をめぐる戦いの様相ですが、続く再現でのボリス・ゴドゥノフ風の主題はかえって強大なものとなっているのがなんとも皮肉です。


CD5 Track 3
第3楽章 Andante moderato (13:01)
00:00〜03:48 第1部 (A) (主部) (03:48)
  00:00 主題A1
  01:10 主題A2 (+ DSCH音型)
  02:37 主題A1 (+ DSCH音型)

03:48〜06:55 第2部 (B) (中間部) (03:07)
  03:48 主題B (エリミーラ音型)

06:55〜11:04 第3部 (A) (主部) (04:09)
  06:55 主題A1
  08:18 主題A2 (+ DSCH音型)
  08:54 主題A1 (+ DSCH音型)

11:04〜13:01 終結部 (B + A + DSCH音型) (01:57)
マーラーへのオマージュ
ホルンが活躍するマーラーの交響曲第5番第3楽章や、「大地の歌」第1楽章へのオマージュのような音楽。主題A1には第2楽章スケルツォの冒頭動機の変形が含まれ、主題A2にはDSCH音型が含まれるという構造で、その後、ホルンの特徴的な音型が12回も登場して目立ちますが、それはショスタコーヴィチの知人エリミーラを表していると考えられています。

エリミーラ
1947年からモスクワ音楽院で作曲を学んでいたユダヤ系アゼルバイジャン人のエリミーラ・ナジーロヴァ[1928-2014]への指導は、1948年9月にジダーノフ批判でショスタコーヴィチが解雇されたことで終わっており、その年にエリミーラは同郷のアゼルバイジャン人医学生と結婚してバクーに戻ってバクー音楽院で勉強を続け、やがてピアニスト、作曲家として活動を開始。

実際の関係
ショスタコーヴィチは1952年にバクーを2度訪れたほか、エリミーラもモスクワに仕事で何度も出向いていますが、2人の手紙のやりとりが頻繁だったのは1953年の夏から秋にかけて交響曲第10番を作曲していた時くらいなので、単にショスタコーヴィチのイメージ上のミューズだったのかもしれません。ともかく第3楽章でのホルンのエリミーラ音型にアプローチするDSCH音型は非常に情熱的で合体までしています。


CD5 Track 4
第4楽章 Finale. Allegro moderato (13:15)
00:01〜04:56 序奏部 (04:55)
  00:01 動機1 (低弦)
  00:25 動機2 (オーボエ)
  01:12 動機3 (オーボエ、フルート)
  01:58 動機1 (低弦)
  02:14 動機2 (ファゴット)
  03:07 動機3 (オーボエ、フルート)
  03:41 第1主題予告

04:56〜06:50 呈示部 (01:54)
  04:56 第1主題
  06:12 第2主題

06:50〜10:57 展開部 (04:07)
  06:50 第1主題
  07:56 第2主題
  08:21 第1主題
  08:42 第2楽章素材
  09:11 DSCH音型
  09:24 序奏部素材 + 第1主題

10:57〜12:08 再現部 (01:11)
  10:57 第1主題 (+ DSCH音型)
  11:48 第2主題

12:08〜13:16 終結部 (01:08)
「怒りの日」も効果的
マーラーの交響曲第5番第5楽章へのオマージュのような音楽。序奏部は悲し気な美しさが印象的で、「怒りの日」の変形使用も効果的。じらしにじらされてから登場する第1主題はとても快活で第2主題はとてもワイルドでコミカル。

スターリニズムからの解放
展開部では第2楽章スケルツォの猛烈な音楽が再現されるものの、DSCH音型が最後にさえぎって打ち克ち、エネルギッシュな再現部へと繋げ、DSCH音が盛大に演奏される中、喜びのエンディングを迎えます。

  ザールブリュッケン放送交響楽団
  ギュンター・ヘルビヒ (指揮)

  録音:2005年4月10日、ザールブリュッケン、コングレスハレ (ライヴ)
  プロデューサー、エンジニア:トーマス・ライジヒ

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 ヘルビヒ年表

 1931年/昭和6年 (0歳)

◆ 11月30日、ギュンター・ヘルビヒ、ドレスデンの南南東約48kmに位置する工業と農業の盛んな都市アウシヒ(チェコ語でウスティ)で誕生。同地は400年近くオーストリア領土だったことから、約5万人の住民の多くはオーストリア人やドイツ人で、ヘルビヒの両親もオーストリア人。略さない場合はドイツ語で「アウシヒ・アン・デア・エルベ」、チェコ語で「ウスティ・ナド・ラベム」となりますが、通常は略称が使用されていました。
  長くオーストリア領だっただけに、同地には劇場などの文化施設も数多くありました。


◆ オーストリア=ハンガリー帝国は1918年に崩壊し、1920年にはチェコスロヴァキア共和国が誕生。ズデーテン地方もチェコスロヴァキア領有となって11年目を迎えていました。

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 1932年/昭和7年 (0〜1歳)

◆ チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。

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 1933年/昭和8年 (1〜2歳)

◆ チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。
◆ コンラート・ヘンラインにより「ズデーテン・ドイツ郷土戦線」がチェコスロヴァキアのアシュで創設。アシュはバイロイトの北東約55km、アウシヒの南南西約150kmに位置する標高666mの国境の町。

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 1934年/昭和9年 (2〜3歳)

◆ チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。

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 1935年/昭和10年 (3〜4歳)

◆ チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。
◆ アウシヒの議会選挙で、投票者の約60パーセント「ズデーテン・ドイツ人党」(旧称:ズデーテン・ドイツ郷土戦線)を選択。

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 1936年/昭和11年 (4〜5歳)

◆ チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。

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 1937年/昭和12年 (5〜6歳)

◆ チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。

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 1938年/昭和13年 (6〜7歳)

◆ チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。
◆ 10月、ミュンヘン協定により、ズデーテン地方はドイツに割譲。ズデーテンラント帝国大管区が設置。
◆ ドイツ、アウシヒ在住。
◆ アーベントロートがアウシヒに客演。

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 1939年/昭和14年 (7〜8歳)

◆ ドイツ、アウシヒ在住。
◆ 3月、ドイツによりチェコスロヴァキア占領。

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 1940年/昭和15年 (8〜9歳)

◆ ドイツ、アウシヒ在住。
◆ ピアノ、チェロ、フルートのレッスンを開始。

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 1941年/昭和16年 (9〜10歳)

◆ ドイツ、アウシヒ在住。
◆ ピアノ、チェロ、フルートのレッスン。

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 1942年/昭和17年 (10〜11歳)

◆ ドイツ、アウシヒ在住。
◆ ピアノ、チェロ、フルートのレッスン。

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 1943年/昭和18年 (11〜12歳)

◆ ドイツ、アウシヒ在住。
◆ ピアノ、チェロ、フルートのレッスン。

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 1944年/昭和19年 (12〜13歳)

◆ ドイツ、アウシヒ在住。
◆ ピアノ、チェロ、フルートのレッスン。

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 1945年/昭和20年 (13〜14歳)

◆ ドイツ → チェコスロヴァキア、アウシヒ在住。
◆ 4月、アメリカ軍の爆撃により、アウシヒ住民500人以上が殺害。
◆ 5月、赤軍がアウシヒに到着。親衛隊は逃げていたためほとんど戦闘はおこなわれませんでした。
◆ 7月31日、列車でプラハから動員された囚人約300人や兵士たちが、エルベ橋などでドイツ系民間人を虐殺。犠牲者数は被害者団体によれば最大4千人、チェコ側情報では40〜100人と大きな開きがあります。

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 1946年/昭和21年 (14〜15歳)

◆ 4月、「ドイツ社会主義統一党(SED)」が成立。前年に設立された「ドイツ共産党(SPD)」と「ドイツ社会民主党(KPD)」が合体。
◆ 4月、「自由ドイツ青年同盟(FDJ)」創設。「ドイツ社会主義統一党(SED)」の下部組織で、ソ連の「コムソモール」に相当。
◆ ドイツのソ連占領地域で、教育制度改革実施。これにより、8年間の共通教育の後、2年間の職業教育コースと大学進学コースへの準備期間が設定。
◆ チェコスロヴァキア政府により、ズデーテン地方在住のドイツ民族約300万人を、土地・家屋没収のうえで追放する過酷な政策が実施。ドイツ東部の国境はすぐ近くですが、目的地は様々だったため、移動手段は貨物列車や荷車、自転車、徒歩などでした。



◆ アウシヒ在住のドイツ民族のうち約5万3千人が1946年4月までに追放。なお、アウシヒは工業の盛んな町だったので、工場稼働に必要なドイツ民族は残されています。

◆ ドイツ在住。

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 1947年/昭和22年 (15〜16歳)

◆ ドイツ在住。

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 1948年/昭和23年 (16〜17歳)

◆ ドイツ在住。
◆ 6月20日、米英仏占領区域で通貨改革。これによりベルリンは経済的に分断。
◆ 6月24日、ソ連軍政局がベルリンを封鎖(1949年5月12日まで)。

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 1949年/昭和24年 (17〜18歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ 4月、北大西洋条約機構(NATO)発足。
◆ 10月、ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。

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 1950年/昭和25年 (18〜19歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ 10月、東ドイツ、第一回人民議会選挙。でSED70%の議席獲得。

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 1951年/昭和26年 (19〜20歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール国立音楽大学でアーベントロートに師事。


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 1952年/昭和27年 (20〜21歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール国立音楽大学でアーベントロートに師事。


◆ 2月、国家保安省(シュタージ)設置。
◆ 5月、東ドイツと西ドイツの間に国境が設定。国境から500m以内に居住する者は、強制的に退去。

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 1953年/昭和28年 (21〜22歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール国立音楽大学でアーベントロートに師事。


◆ 6月、東ベルリン暴動発生。東ベルリンの「スターリン通り」建設に際し、労働者が厳しいノルマに対して反発。これをきっかけに東ドイツ各地で蜂起が発生するものの、ソ連の武力介入により鎮圧。死者は民衆側と政府側を合わせて数百名規模。


◆ 3月5日、スターリン死去。

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 1954年/昭和29年 (22〜23歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール国立音楽大学でアーベントロートに師事。


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 1955年/昭和30年 (23〜24歳)

◆ ワイマール国立音楽大学でアーベントロートに師事。


◆ 5月6日、西ドイツがNATOに加盟。
◆ 5月14日、NATOに対抗するためワルシャワ条約機構が設立。
◆ 11月、西ドイツが再軍備を開始。

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 1956年/昭和31年 (24〜25歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール国立音楽大学でアーベントロートに師事。


◆ ワイマール・ドイツ国民劇場 指揮者。


◆ 1月、東ドイツがワルシャワ条約機構に加盟。
◆ 3月、東ドイツが再軍備を開始。志願制の人民軍を創設。
◆ 5月29日、アーベントロート、イェーナで客死。

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 1957年/昭和32年 (25〜26歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール・ドイツ国民劇場 指揮者。


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 1958年/昭和33年 (26〜27歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール・ドイツ国民劇場 指揮者。


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 1959年/昭和34年 (27〜28歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール・ドイツ国民劇場 指揮者。


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 1960年/昭和35年 (28〜29歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール・ドイツ国民劇場 指揮者。


◆ 夏、ヘルマン・シェルヘンがワイマール国際音楽セミナーでマスタークラスを開催したため受講。
◆ 9月、ドイツ社会主義統一党(SED)の中央委員会第一書記であるヴァルター・ウルブリヒト[1893-1973]が、初代の「国家評議会議長」に就任。ウルブリヒトは、党の第一書記は1971年に健康問題を理由に辞任させられるものの、「国家評議会議長」には1973年に亡くなるまで留まっています。

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 1961年/昭和36年 (29〜30歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ワイマール・ドイツ国民劇場 指揮者。
◆ ワイマール・ドイツ国民劇場。スパルタカス。ギュンター・イェーツラウ振付。


◆ 7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定。
◆ 8月、ホーネッカーの指揮により「ベルリンの壁」建設開始。

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 1962年/昭和37年 (30〜31歳)

◆ 東ドイツ在住。 ◆ ハンス・オットー劇場 音楽監督に就任。ポツダムの劇場。


◆ 10月、キューバ危機。

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 1963年/昭和38年 (31〜32歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ハンス・オットー劇場 音楽監督。

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 1964年/昭和39年 (32〜33歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ハンス・オットー劇場 音楽監督。
◆ 11月、東ドイツ、退職年齢者(男65歳・女60歳)のみ西ドイツ訪問を許可。

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 1965年/昭和40年 (33〜34歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ハンス・オットー劇場 音楽監督。
◆ 夏、アルヴィド・ヤンソンスがワイマール国際音楽セミナーでマスタークラスを開催したため受講。

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 1966年/昭和41年 (34〜35歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ハンス・オットー劇場 音楽監督退任。
◆ ベルリン交響楽団 指揮者。

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 1967年/昭和42年 (35〜36歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ベルリン交響楽団 指揮者。

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 1968年/昭和43年 (36〜37歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ベルリン交響楽団 指揮者。

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 1969年/昭和44年 (37〜38歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ベルリン交響楽団 指揮者。

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 1970年/昭和45年 (38〜39歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ベルリン交響楽団 指揮者。

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 1971年/昭和46年 (39〜40歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ベルリン交響楽団 指揮者。
◆ 10月、ベルリン音楽祭のオープニングで、シュターツカペレ・ベルリンを指揮。
◆ 10月、ベルリン交響楽団。チェコ・ツアーを指揮。

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 1972年/昭和47年 (40〜41歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ベルリン交響楽団 指揮者。
◆ 6月、ドレスデン市議会が、ドレスデン市の「音楽総監督」にヘルビヒを任命。
◆ 6月、ドレスデン市議会が、ドレスデン・フィルの「芸術監督」にヘルビヒを任命。
◆ シュターツカペレ・ベルリン。
◆ 11月、ドレスデン・シュッツ音楽祭。
◆ 東ドイツ建国記念日記念演奏会で、クルト・ハーガー人民教育委員会委員長(≒文化大臣)の要請により、ドレスデン・フィルとショスタコーヴィチの交響曲第15番を演奏。これは同年1月にモスクワで初演されて明るい作品として紹介されていた新聞記事を鵜呑みにしたハーガーの勘違いに端を発する珍事でした。
  ハーガーは式典用公演の演目がいつも「エグモント」「レオノーレ3番」「運命」といったプログラムであることに疑義を呈し、モスクワで評判となっていたショスタコーヴィチの交響曲第15番に変更するべきだと力説。指揮予定だったクルト・ザンデルリングは、葬送の音楽だから式典には向かないと答えると、ザンデルリングとベルリン交響楽団は式典用公演から外されて、代わりにヘルビヒとドレスデン・フィルが呼ばれています。ヘルビヒはザンデルリングに対して、自分はあなたと違ってオーケストラをプレゼンする必要があるからと引き受けた理由を説明。
  急な変更だったため、直前のリハーサルにSED(ドイツ社会主義統一党)のメンバーら10人が列席しましたが、明るい曲を期待していた彼らの反応は当然ながら冷淡で、リハーサル終了後、全体を速く演奏することはできないかという要望まで出る始末でしたが、ヘルビヒは本番でも通常のテンポで演奏。式典はテレビとラジオでも中継されていました。
  ちなみにハーガーは、1960年にスイトナーがドレスデン国立歌劇場音楽総監督、及びシュターツカペレ・ドレスデン首席指揮者に就任する際に反対派のクルト・ボークらを抑えた人物。
◆ ドレスデン・フィル。ルーマニア、ユーゴスラヴィア・ツアーを指揮。
◆ 6月、「ベルリン協定」が発効。前年に連合国4各国の外相らにより同意されていたもので、西ドイツとベルリンの間の交通・通信の十分な確保と、西ベルリンから東ドイツへの入国も認めるというソ連の決定、および米英仏による西ドイツと西ベルリンの連携が決定。四半世紀以上に渡って東西緊張の場となっていたベルリンの状況が改善した通過交通協定です。

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 1973年/昭和48年 (41〜42歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ドレスデン・フィル 芸術監督。
◆ 3月、ドレスデン・フィル。オーストリア、スイス・ツアーを指揮。
◆ 6月、ベルリン交響楽団。
◆ シュターツカペレ・ベルリン。
◆ 11月、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団。ブリテン:4つの海の間奏曲、シベリウス:ヴァイオリン協奏曲(ミリアム・フリード)、ブラームス1番。ロイヤル・フェスティヴァル・ホール・デビュー。
◆ 6月、「東西ドイツ基本条約」発効。緊張の緩和。
◆ 9月、東西ドイツ、国際連合に加盟。

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 1974年/昭和49年 (42〜43歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ドレスデン・フィル 芸術監督。
◆ ドレスデン・フィル。西ドイツ・ツアー。第2指揮者ヘンヒェンと2人で指揮。
◆ ドレスデン・フィル。ポーランド・ツアー。ヘンヒェンと2人で指揮。
◆ ドレスデン・フィル。イギリス・ツアー。ヘンヒェンと2人で指揮。
◆ 10月7日、東ドイツ、建国25周年を機に憲法を改正。

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 1975年/昭和50年 (43〜44歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ドレスデン・フィル 芸術監督。
◆ ドレスデン・フィル。ソ連ツアー。ヘンヒェンと2人で指揮。
◆ ドレスデン・フィル。チェコスロヴァキア・ツアー。ヘンヒェンと2人で指揮。
◆ ドレスデン・フィル。スペイン・ツアーを指揮。
◆ ドレスデン・フィル。イタリア、オーストリア、スイス・ツアー。ヘンヒェンと2人で指揮。

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 1976年/昭和51年 (44〜45歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ドレスデン・フィル 芸術監督。
◆ ドレスデン・フィル。日本ツアー。ヘンヒェンと2人で指揮。
◆ シュターツカペレ・ベルリン。
◆ BBC交響楽団。
◆ 10月、ソ連国立交響楽団。モスクワ。

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 1977年/昭和52年 (45〜46歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ドレスデン・フィル。ショスタコーヴィチ7番で大成功。
◆ ドレスデン・フィル。ブルガリア・ツアーを指揮。
◆ ドレスデン・フィル。日本ツアーを指揮。
◆ ドレスデン・フィル。エルンスト・ヘルマン・マイヤー:管弦楽のためのシンフォニア「コントラステ・コンフリクテ」初演。
◆ ドレスデン・フィル。お別れ演奏会。ベートヴェン2番、ショスタコーヴィチ5番。
◆ ドレスデン市音楽総監督とドレスデン・フィル芸術監督を退任。後任はヘルベルト・ケーゲル[1920-1990]。
◆ ミラノ・イタリア放送管弦楽団。
◆ 廃墟となっていたベルリンのシャウシュピールハウスを、コンサート・ホールとして新たに建設することが政府により決定。当初はモダンなデザインにすることが求められましたが、最終的に外観は以前と同じにすることとなり、1979年に工事が始まります。
◆ 8月、ベルリン市音楽総監督に就任。
◆ 8月、ベルリン交響楽団 首席指揮者に就任。前任のクルト・ザンデルリングの定年退職に伴う人事。ヘルビヒは1966年から1972年までベルリン交響楽団の指揮者として首席指揮者のザンデルリングと共に働いていたので、オーケストラとは旧知の間柄。
◆ 11月、ベルリン交響楽団。チェコスロヴァキア、ルーマニア・ツアーを指揮。

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 1978年/昭和53年 (46〜47歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ベルリン交響楽団 首席指揮者。
◆ ベルリン交響楽団。ハンガリー・ツアーを指揮。
◆ 10月、ベルリン交響楽団。スペイン・ツアーを指揮。

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 1979年/昭和54年 (47〜48歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ベルリン交響楽団 首席指揮者。
◆ 2月、ベルリン・ビエンナーレ国際現代音楽祭。ベルリン交響楽団、クレーメル、他。
◆ 6月、ベルリン交響楽団、ベルマン。
◆ ダラス交響楽団 首席客演指揮者に就任。
◆ BBCノーザン交響楽団。
◆ シュターツカペレ・ベルリン。

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 1980年/昭和55年 (48〜49歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ベルリン交響楽団 首席指揮者。
◆ 1月、ベルリン交響楽団。アダム。マットゥース「ヒペリオン」断章。
◆ ベルリン交響楽団。リヒター=ハーザー。ベートーヴェン4,5番。
◆ ダラス交響楽団 首席客演指揮者。
◆ 読売日本交響楽団。

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 1981年/昭和56年 (49〜50歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ベルリン交響楽団 首席指揮者。
◆ ベルリン交響楽団。工事中のシャウシュピールハウスのホールで、「工事現場コンサート」を開催。
◆ ベルリン交響楽団 イタリア・ツアーを指揮。
◆ ダラス交響楽団 首席客演指揮者を退任。

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 1982年/昭和57年 (50〜51歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ ベルリン交響楽団 首席指揮者。
◆ 4月、読売日本交響楽団。
◆ トロント交響楽団。ブルックナー8番。
◆ 9月、ベルリン音楽祭のオープニングで、シュターツカペレ・ベルリンを指揮。
◆ BBCフィルハーモニー管弦楽団 首席客演指揮者に就任。BBCフィルはこの年、マンチェスターの「BBCノーザン交響楽団」が大規模化して誕生したオーケストラ。公演数が増やされたことで、ヘルビヒが首席客演指揮者に任命。首席指揮者はエドワード・ダウンズ[1624-2009]。

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 1983年/昭和58年 (51〜52歳)

◆ 東ドイツ在住。
◆ 2月14日、東ドイツのドレスデンで10万人規模の平和デモ。

◆ 10月1日、ベルリン交響楽団 首席指揮者を辞任。コンサートホールとして新たに建設され、翌年に開場予定のシャウシュピールハウスを、単なる本拠地ではなく、優先使用できるはずの約束が、政府の意向で反故にされたため抗議の辞任。これによりヘルビヒは、SED(ドイツ社会主義統一党)から睨まれ、翌年、東ドイツを去ることになります。ちなみにベルリン交響楽団がシャウシュピールハウスを優先使用できるようになるのは、ドイツ再統一から2年が経過した1992年のことでした。
◆ BBCフィルハーモニー管弦楽団 首席客演指揮者。
◆ 読売日本交響楽団。

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 1984年/昭和59年 (52〜53歳)

◆ 10月、BBC交響楽団。ルプー。ベートーヴェン。
◆ BBCフィルハーモニー管弦楽団 首席客演指揮者を退任。
◆ デトロイト交響楽団 音楽監督に就任。
◆ アメリカに移住。デトロイトのあるミシガン州を拠点に、世界各地のオーケストラへの客演を開始。2023年現在もミシガン州に自宅があります。
◆ ニューヨーク・フィル。

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 1985年/昭和60年 (53〜54歳)

◆ デトロイト交響楽団 音楽監督。

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 1986年/昭和61年 (54〜55歳)

◆ デトロイト交響楽団 音楽監督。
◆ ボストン交響楽団。ブルックナー4番。
◆ ニューヨーク・フィル。
◆ フィラデルフィア管弦楽団。
◆ ワシントン・ナショナル交響楽団。

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 1987年/昭和62年 (55〜56歳)

◆ デトロイト交響楽団 音楽監督。

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 1988年/昭和63年 (56〜57歳)

◆ デトロイト交響楽団 音楽監督。
◆ ボストン交響楽団。
◆ ワシントン・ナショナル響。
◆ トロント交響楽団 芸術顧問に就任。

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 1989年/昭和64年/平成元年 (57〜58歳)

◆ デトロイト交響楽団。クレーメル。ヨーロッパ・ツアーを指揮。
◆ ニューヨーク・フィル。
◆ デトロイト交響楽団 音楽監督を退任。
◆ トロント交響楽団 音楽監督に就任。

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 1990年/平成2年 (58〜59歳)

◆ トロント交響楽団 音楽監督。
◆ イェ―ル大学指揮科教授に就任。
◆ 5月、トロント交響楽団。日本ツアーを指揮。
◆ ハーグ・レジデンティ管弦楽団 首席客演指揮者に就任。

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 1991年/平成3年 (59〜60歳)

◆ トロント交響楽団 音楽監督。
◆ イェ―ル大学 指揮科教授に就任。
◆ トロント交響楽団。ヨーロッパ・ツアーを指揮。
◆ ハーグ・レジデンティ管弦楽団 首席客演指揮者。

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 1992年/平成4年 (60〜61歳)

◆ トロント交響楽団 音楽監督。
◆ イェ―ル大学 指揮科教授。
◆ ハーグ・レジデンティ管弦楽団 首席客演指揮者。

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 1993年/平成5年 (61〜62歳)

◆ トロント交響楽団 音楽監督。
◆ イェ―ル大学 指揮科教授。
◆ ハーグ・レジデンティ管弦楽団 首席客演指揮者。

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 1994年/平成6年 (62〜63歳)

◆ トロント交響楽団 音楽監督を退任。
◆ イェ―ル大学 指揮科教授。
◆ ハーグ・レジデンティ管弦楽団 首席客演指揮者。

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 1995年/平成7年 (63〜64歳)

◆ イェ―ル大学 指揮科教授。
◆ ハーグ・レジデンティ管弦楽団 首席客演指揮者。

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 1996年/平成8年 (64〜65歳)

◆ イェ―ル大学 指揮科教授。
◆ ハーグ・レジデンティ管弦楽団 首席客演指揮者。
◆ パリ管弦楽団。
◆ ハレ管弦楽団。

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 1997年/平成9年 (65〜66歳)

◆ イェ―ル大学 指揮科教授を退任。
◆ ボルティモア交響楽団。

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 1998年/平成10年 (66〜67歳)

◆ ボルティモア交響楽団。

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 1999年/平成11年 (67〜68歳)

◆ ボルティモア交響楽団。
◆ 日本フィルハーモニー交響楽団。ブルックナー9番、他。

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 2000年/平成12年 (68〜69歳)

◆ ボルティモア交響楽団。

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 2001年/平成13年 (69〜70歳)

◆ ザールブリュッケン放送交響楽団 首席指揮者に就任。
◆ グルベンキアン管弦楽団。
◆ シアトル交響楽団。
◆ ボルドー・アキテーヌ管弦楽団。
◆ ドレスデン・フィル。
◆ 日本フィルハーモニー交響楽団。ブルックナー8番、他。

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 2002年/平成14年 (70〜71歳)

◆ ザールブリュッケン放送交響楽団 首席指揮者。
◆ モネ交響楽団。
◆ ベルリン交響楽団。
◆ スイス・ロマンド管弦楽団。
◆ フランス放送フィル。
◆ モンテカルロ・フィル。
◆ BBCフィル。

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 2003年/平成15年 (71〜72歳)

◆ ザールブリュッケン放送交響楽団 首席指揮者。
◆ ドレスデン・フィル。日本ツアー。

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 2004年/平成16年 (72〜73歳)

◆ ザールブリュッケン放送交響楽団 首席指揮者。

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 2005年/平成17年 (73〜74歳)

◆ ザールブリュッケン放送交響楽団 首席指揮者。
◆ ドイツ政府によりすべての放送オーケストラへの補助金が大幅に削減。

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 2006年/平成18年 (74〜75歳)

◆ ザールブリュッケン放送交響楽団 首席指揮者を退任。
◆ ボルティモア交響楽団。

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 2007年/平成19年 (75〜76歳)

◆ ボルティモア交響楽団。

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 2008年/平成20年 (76〜77歳)

◆ 台湾フィルハーモニック 音楽監督に就任。
◆ 日本フィルハーモニー交響楽団。シューベルト「グレート」、他

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 2009年/平成21年 (77〜78歳)

◆ 台湾フィルハーモニック 音楽監督。

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 2010年/平成22年 (78〜79歳)

◆ 台湾フィルハーモニック 音楽監督を退任。
◆ 台湾フィルハーモニック 桂冠指揮者。
◆ ボルティモア交響楽団。

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 2011年/平成23年 (79〜80歳)

◆ 台湾フィルハーモニック 桂冠指揮者。
◆ ボルティモア交響楽団。

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 2012年/平成24年 (80〜81歳)

◆ トロント交響楽団。
◆ 台湾フィルハーモニック 桂冠指揮者。
◆ ボルティモア交響楽団。

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 2013年/平成25年 (81〜82歳)

◆ 台湾フィルハーモニック 桂冠指揮者。

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 2014年/平成26年 (82〜83歳)

◆ 台湾フィルハーモニック 桂冠指揮者。

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 2015年/平成27年 (83〜84歳)

◆ 台湾フィルハーモニック 桂冠指揮者。
◆ ボルティモア交響楽団。

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 2016年/平成28年 (84〜85歳)

◆ 台湾フィルハーモニック 桂冠指揮者。

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 2017年/平成29年 (85〜86歳)

◆ 台湾フィルハーモニック 桂冠指揮者。

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 2018年/平成30年 (86〜87歳)

◆ 台湾フィルハーモニック 桂冠指揮者。
◆ グラン・カナリア・フィル 名誉指揮者。

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 2019年/平成31年/令和元年 (87〜88歳)

◆ 台湾フィルハーモニック 桂冠指揮者。
◆ グラン・カナリア・フィル 名誉指揮者。
◆ トロント交響楽団。ブルックナー9番。
◆ グラン・カナリア・フィル。ブルックナー8番。

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 2020年/令和2年 (88〜89歳)

◆ 台湾フィルハーモニック 桂冠指揮者。
◆ グラン・カナリア・フィル 名誉指揮者。

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 2021年/令和3年 (89〜90歳)

◆ 台湾フィルハーモニック 桂冠指揮者。
◆ グラン・カナリア・フィル 名誉指揮者。

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 2022年/令和4年 (90〜91歳)

◆ 台湾フィルハーモニック 桂冠指揮者。
◆ グラン・カナリア・フィル 名誉指揮者。

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 2023年/令和5年 (91〜92歳)

◆ 台湾フィルハーモニック 桂冠指揮者。
◆ グラン・カナリア・フィル 名誉指揮者。
◆ グラン・カナリア・フィル。ブルックナー6番。


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 ショスタコーヴィチ・ファミリー前史

曽祖父(父方)
ピョートル・ミハイロヴィチ・ショスタコーヴィチ
1808-1871 Peter Mihailovich Szostakowicz

1808


◆ ロシア帝国、シェメトヴォ(現ベラルーシ)で誕生し、科目等履修生としてヴィルナ(現リトアニア、ヴィルニュス)の医科外科アカデミーを卒業

1830


◆ ポーランドの反乱勢力側に参加 

1831


◆ 11月蜂起に参加
◆ ロシア帝国軍に捕らえられ、妻のマリア・ヨセファ・ヤシンスカとともにウラルのペルミに追放。家ではポーランド語を喋り、外ではロシア語を使用 
1830年代


◆ ウラルのエカテリンブルクに転居

1845


◆ 長男ボレスラフ=アルトゥール・ペトロヴィチ・ショスタコーヴィチ誕生

1849


◆ 次男ヴィトルト・ペトロヴィチ・ショスタコーヴィチ誕生
1850年代
 

◆ ロシア市民階級第8等に昇進

1858


◆ カザンに転居
1860年代

◆ トムスクに転居

1871


◆ エカテリンブルクで死去

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祖父(父方)
ボレスラフ=アルトゥール・ペトロヴィチ・ショスタコーヴィチ
1845-1919 Boleslav-Artur Petrovich Szostakowicz

1845


◆ 2月8日(1月27日)、ロシア帝国、エカテリンブルクで誕生

1858


◆ カザンに転居。第1カザン・ギムナジウムに編入

1861


◆ 第1カザン・ギムナジウム在学中に革命結社「土地と自由」の幹部らと交流

1862


◆ モスクワに行き、ニジニ・ノヴゴロド鉄道の管理に従事

1863


◆ ポーランド蜂起に参加

1864


◆ ヴァルバラ・ガヴリロヴナ・シャポシニコワらと共に、のちにパリ・コミューンの英雄となる革命家ヤロスラフ・ドンブロフスキーの脱獄に関与

1865


◆ ヴァルバラと共にカザンに帰還

1866


◆ ロシア皇帝アレクサンドルU世暗殺未遂事件の共謀者ヤクブ・ポプワフスキーを匿った容疑でカザンで逮捕、モスクワに護送され、政治犯としてペトロパブロフスク要塞に収監(ポプワフスキーはポーランドのショスタコーヴィチ研究者クシシュトフ・メイエルの祖先)。取り調べの際に1863年の革命家ドンブロフスキー脱獄幇助事件に関わっていたことが発覚
◆ 9月24日、最高裁で強制労働の判決ののち、シベリア、ノヴォシビリスクの北東約320kmのところにあるマリインスクへの居住という強制措置に減刑
◆ マリインスク居住開始。しかし3か月後にポーランド人とロシア人により、蜂起を企てたことが発覚

1867


◆ 蜂起計画の容疑で裁判にかけられることになり、ノヴォシビリスクの西約600kmのオムスクに移送
◆ 指定居住地がマリインスクからトムスクに変更。トムスクはノヴォシビリスクの北東約210kmのところにある皇帝ボリス・ゴドゥノフの創った町
◆ 春、トムスク居住開始。ベレストフ将軍の推薦でトムスク州政府の事務職に採用

1869


◆ ヴァルヴァラ・ガヴリロヴナ・シャポシニコワと結婚。トムスクで2人の子供が誕生。

1872


◆ 国家犯罪人ピョートル・ウスペンスキーとの交流が発覚したため指定居住地が変更。トムスクの北西約340kmのナリムに居住開始。同地では5人の子供が誕生し計7人に。ボレスラフは狩猟や漁に従事し、ヴァルヴァラは菜園を営んだほか、蜂蜜や酒を作って売り、パンも焼いていました

1876


◆ ボレスラフは、政治経済、地理、植物学、会計学を勉強。石炭や金の鉱脈があるという情報を確かめるために、ヴァシュガン川とチズハプカ川を訪れて調査し、ナリュムスコエ地方に関する論文を執筆

1877


◆ 4月、トムスクに戻ることが許可
◆ ペトロフ・ミハイロフ商会で会計士として働き、同時にトムスク市議会の公選議員、町議会議員として地方行政に参画し活動 

1887


◆ イルクーツクのシベリア貿易銀行の地方支店のマネージャーに就任

1892


◆ 世襲名誉市民となり居住の自由を与えられますが、シベリアにとどまります。

1902


◆ イルクーツク市長に選出(1903年まで)。

1919


◆ イルクーツクで死去。

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祖父(母方)
ヴァシリー・ヤコヴレヴィチ・コクーリン
1850-1911 Vasily Yakovlevich Kokoulin

1850


◆ 東シベリア、キレンスクで誕生

1860年代前半


◆ 東シベリア、キレンスクの市立学校を卒業

1860年代後半


◆ キレンスクの約400キロ東のボダイボに転居。当時「ゴールドラッシュ」に沸いていた地
◆ ボダイボ、レナ川の金採掘場の管理事務所に事務員として就職

1872


◆ ヤーコフ誕生

1878


◆ ソフィア誕生

1889


◆ ボダイボ、レナ川の金採掘場の管理事務所の所長に昇格

1890年代


◆ 労働者のために保険や医療を導入し、暖かいバラックを建設
◆ 妻のアレクサンドラ・ペトロブナ・コクリナが労働者の子供たちのための学校を開設
◆ 妻のアレクサンドラが、ボダイボでアマチュア・オーケストラを組織

1898


◆ 管理事務所の所長を辞任し、クリミアに転居

1905


◆ 妻アレクサンドラが亡くなったため、ボダイボに帰還

1907

● ロシア帝国とイギリスの間で英露協商が締結

1910


◆ サンクトペテルブルクの実業家や貴族が所有するレナ金鉱組合が一帯の鉱山を買収し、ロンドン、パリ、サンクトペテルブルクでも株式の取引が開始

1911


◆ 死去

1912


◆ レナ川虐殺事件発生

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ドミトリー・ボレスラヴォヴィチ・ショスタコーヴィチ
1875-1922 Dmitri Boleslavovich Shostakovich

1875


◆ 10月11日、ロシア帝国、シベリア、トムスクのナリムで誕生。両親の強制移住先でした

1880年代


◆ トムスクに転居
◆ イルクーツクに転居

1890年代半ば


◆ イルクーツクの実家を出てサンクトペテルブルクに転居

1897


◆ サンクトペテルブルク大学に入学(物理数学部自然学科)

1900


◆ 同大学卒業
◆ 化学者ドミトリー・メンデレーエフ[1834-1907]が創設して間もない度量衡局に採用

1902


◆ 度量衡局の検証主任

1903


◆ 2月、同級生の妹で音楽家のソフィア・ヴァシリエヴナ・コクーリナと結婚

1905


◆ 1月22日、「血の日曜日事件」のデモ隊に参加

1906


◆ 検証室長に就任

1907


◆ 2月、メンデレーエフ局長が死去
◆ 度量衡局を退職し、レンネンカンプ地所の泥炭採取業を監督する総支配人に就任。高給だったため、ショスタコーヴィチ家は、夏の休暇では郊外のラドガ湖畔のイリノフカに滞在

1914


◆ 軍需産業に投資する会社に管理職として転職

1917


◆ 10月革命後の産業国有化に際し、国営企業に就職。ほどなく度量衡局に戻り、副局長に就任

1922


◆ 47歳で死去

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ソフィア・ヴァシリエヴナ・ショスタコーヴィチ(旧姓:コクーリナ)
1878-1955 Sofiya Vasilievna Shostakovich (Kokoulina)

1878


◆ 3月10日、シベリアのボダイボで誕生。6人兄弟の3番目

1880年代


◆ 母親のアレクサンドラ・ペトロヴナ・コクーリナからピアノのレッスン

1890


◆ イルクーツク高等女学校に入学

1896


◆ イルクーツク高等女学校を卒業
◆ イルクーツクでピアニスト、合唱指揮者として活動

1898


◆ 一家のクリミアへの転居を機に、兄の住んでいたサンクトペテルブルクに妹と共に転居
◆ サンクトペテルブルク音楽院に入学、S.A.マロゼモワ、A.A.ロザノワに師事
◆ シベリア生まれで音楽愛好家のドミトリー・ボレスラヴォヴィチ・ショスタコーヴィチと知り合い交際

1903


◆ 2月、ドミトリー・ボレスラヴォヴィチ・ショスタコーヴィチと結婚
◆ 10月、長女マリア・ドミトリエヴナ(フレデリクス)[1903-1973 ピアニスト]、誕生

1906


◆ 9月、長男ドミトリー・ドミトリエヴィチ、誕生

1909


◆ 次女ゾーヤ・ドミトリエヴナ(フルシチョワ)[1908.08.21-1990.11.16 科学者]、誕生

1955


◆ 死去

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◆=ショスタコーヴィチ関連 ●=社会関連 ★=区切り


 ショスタコーヴィチ年表



ロシア帝国 [1906-1917] (0〜11歳)
 1906年/明治39年 (0歳)

◆=ショスタコーヴィチ関連 ●=社会関連 ★=区切り


◆ 9月25日、ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ、ロシア帝国首都、サンクトペテルブルク、ポドルスカヤ通り2番地で誕生。建物は元素周期表で有名なメンデレーエフ[1834-1907]が、市の度量衡局のために賃借していた物件で、ショスタコーヴィチ家では頻繁に両親や両親の友人たちによる演奏がおこなわれていました。
  ドミトリーの名付け親は有名な児童文学作家のクラウディア・ヴラジミロヴナ・ルカシェヴィチ[1859-1937]。ルカシェヴィチは1885年から1890年にかけて夫の仕事の都合でイルクーツクに滞在し、そこで創作しながら教育者としても活動。ショスタコーヴィチの父ドミトリーと母ソフィアも1880年代から90年代までイルクーツクに居住。
◆ ニコラエフスカヤ通りの物件の5階に転居
◆ 父ドミトリー、度量衡局検証室長に就任

● ロシア帝国で飢饉、農村部中心に人口の約22%が飢餓状態に
● 6月、ロシア帝国領ベロストーク(ポーランドのビャウィストク)でポグロム発生。ポーランド人らによりユダヤ人80人が虐殺
● 7月、サンクトペテルブルク近郊のクロンシュタットで武装蜂起

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 1907年/明治40年 (0〜1歳)

◆ 2月、父ドミトリーの上司であるメンデレーエフ局長が死去
◆ 父ドミトリー、度量衡局を退職し、レンネンカンプ地所の泥炭採取業を監督する総支配人に就任。高給だったため、ショスタコーヴィチ家は、夏にはサンクトペテルブルク郊外のラドガ湖畔、イリノフカで休暇を過ごすようになります

● 6月、ロシア第一革命、ロシア帝国政府に鎮圧されて終結
● ロシア帝国で飢饉発生
● ロシア帝国と大英帝国の間で英露協商が締結。100年近く続いたロシア帝国と大英帝国の中央アジア地域での地政学的対立「グレート・ゲーム」が終了

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 1908年/明治41年 (1〜2歳)

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 1909年/明治42年 (2〜3歳)

◆ 8月21日、妹ゾーヤ・ドミトリエヴナ・ショスタコーヴィチ(フルシチョワ)[1908-1990]、誕生

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 1910年/明治43年 (3〜4歳)

● サンクトペテルブルクの実業家や貴族が所有するレナ金鉱組合が一帯の鉱山を買収し、ロンドン、パリ、サンクトペテルブルクでも株式の取引が開始

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 1911年/明治44年 (4〜5歳)

◆ 母方祖父ヴァシリー、死去

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 1912年/明治45年(〜7月30日)大正元年(7月30日〜) (5〜6歳)

● 4月17日、レナ川虐殺事件発生。イギリス系企業「レナ金鉱株式会社」の鉱山労働者のストライキが3千人の規模に達したため、ロシア帝国軍がボダイボとキレンスクに派兵され労働者に発砲、170人を殺害し、200人以上を負傷させてストライキを終わらせた事件。株主にはロシア帝国の王室や政治家、官僚が名を連ねていました。これにより抗議ストライキが全国に波及

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 1913年/大正2年 (6〜7歳)

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 1914年/大正3年 (7〜8歳)

◆ 父ドミトリー、軍需産業に投資する会社に管理職として転職

● 7月、金本位制の停止
● 8月、ドイツがロシアに宣戦布告。ロシア帝国が第1次大戦に参戦
● 8月、サンクトペテルブルクがペトログラードに改名
● 8月、ドイツがオスマン帝国に巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウを売却。ドイツ人乗員はそのまま残り、ロシア攻撃に向けて待機


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 1915年/大正4年 (8〜9歳)

◆ 春、初めてのオペラ鑑賞。「サルタン皇帝の物語」
◆ 夏、母によるピアノのレッスン開始
◆ マリア・シドロフスカヤ商業ギムナジウムに入学
◆ ピアノ曲「兵士」

● ロシア帝国、第1次大戦継続

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 1916年/大正5年 (9〜10歳)

◆ マリア・シドロフスカヤ商業ギムナジウム在学
◆ グリャッセル音楽学校に入学

● 7月、中央アジアで民族主義者の反乱
● ロシア帝国、第1次大戦継続

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 1917年/大正6年 (10〜11歳)

◆ マリア・シドロフスカヤ商業ギムナジウム在学
◆ グリャッセル音楽学校在学
◆ 3月、「2月革命」の犠牲者184名を追悼するペトログラード市民約1万人が「同志は倒れぬ」を唱和する葬送行進に参加。この経験をもとに「革命の犠牲に捧げる葬送行進曲」を作曲。1938年の映画音楽「偉大なる市民」のラストを飾る曲としても使用

● 3月8日(ユリウス暦:2月23日)、「2月革命」がペトログラードで勃発。市民革命
● 3月12日、ロシア臨時政府、ペトログラードで樹立。ロシア社会民主労働党内のメンシェヴィキ主導による政府。ニコライ2世退位。ロシア帝国崩壊
● 3月14日、ウクライナ中央議会成立
● 6月、第1回全ウクライナ人極東会議が開催
● 7月17日、「7月蜂起」。ペトログラードでレーニン率いる約50万人のデモ隊が行進したため、ケレンスキー率いるロシア臨時政府が数千人の警察官と兵士を派遣して鎮圧


● 11月6日、「10月革命」がペトログラードで勃発


レーニン体制 [1917-1924] (11〜17歳)

◆ 父ドミトリー、「10月革命」後の産業国有化に際し、国営企業に就職。ほどなく度量衡局に戻り、副局長に就任
◆ 「10月革命」後、ソヴィエト政府が紙幣を乱発したおかげでハイパーインフレが引き起こされ、ショスタコーヴィチ家では使用人を解雇
◆ ショスタコーヴィチ家ではクリミアのアルシタの不動産を売却することでハイパーインフレに対応

● 11月7日(ユリウス暦:10月25日)、10月革命。ロシア社会民主労働党内のボリシェヴィキ主導による「ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国(RSFSR、以下、ソヴィエトと略)」政権樹立
● 11月、ドイツ帝国とソヴィエトが停戦協定
● 11月、ウクライナ人民共和国(首都キーウ/キエフ)、成立。1920年11月まで存在。公用語はウクライナ語。反ソヴィエト派
● 12月、ウクライナ=ソヴィエト戦争勃発。ソヴィエト側は内戦と第1次大戦との同時進行
● 12月、ブレスト・リトフスクで講和条約締結に向けての交渉が開始。ドイツは引き延ばしを図り、ソヴィエト側は、推進派のレーニンと打ち切り派のトロツキーが対立するなど交渉は難航
● 12月、ウクライナ人民共和国(首都ハルキウ/ハリコフ)、成立。1918年3月まで4か月間存在。公用語はウクライナ語とロシア語。親ソヴィエト派
● 12月16日、婚姻解消令

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 1918年/大正7年 (11〜12歳)

◆ マリア・シドロフスカヤ商業ギムナジウム在学
◆ 第13中学校に転校
◆ グリャッセル音楽学校を退学
◆ シンガリョーフとココーシキンに捧げる葬送行進曲

● 1月、立憲民主党幹部ので元ロシア臨時政府閣僚のシンガリョーフとココーシキンが水兵らによるリンチで殺害
● 2月9日、ブレスト=リトフスク条約により、西ウクライナがドイツの保護領に。 中央同盟国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン、ブルガリア)とウクライナ人民共和国西部の中央議会が単独講和。西ウクライナの中央議会が、ドイツとオーストリア=ハンガリーに穀物100万トンを提供することでソヴィエトから守られるという安全保障条約
● 2月18日、ブレスト・リトフスク条約により、西ウクライナを保護領としたドイツが、ソヴィエトとの停戦協定を一方的に破棄、西ウクライナ軍と共に、ソヴィエトを攻撃。レーニンは講和条約締結を決断
● 3月3日、ブレスト・リトフスク条約。中央同盟国とソヴィエトが単独講和。この条約により、ソヴィエトは第1次大戦から離脱し、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナなどの権利を放棄しドイツに割譲
● 4月29日、ウクライナでクーデター発生。ドイツ占領軍の支援を受けて、スコロパドスキーが政権を掌握。ドイツ軍がウクライナ中央議会を排除したため、ウクライナ人民共和国は独裁国家化。スコロパドフスキーはロシア帝国時代の将軍でウクライナの地主。極右のスコロパドフスキーは、首都キエフを反ユダヤ主義者の拠点としたため、ロシア全土から反ユダヤ主義政治家や軍人たちが結集
● 5月17日、「ロシア内戦」勃発。チェコスロヴァキア軍団の反乱。ソヴィエト当局による武装解除に反発した約5万人規模のチェコスロヴァキア人部隊によるもの。ヴォルガ、ウラル、シベリア、極東で蜂起
● 6月、チェコスロヴァキア軍団がサマーラを占領し、「憲法制定議会議員委員会」を設立
● 8月、「シベリア出兵」。チェコスロヴァキア軍団の救出を名目とし、白軍と共に赤軍と戦う部隊を日本、アメリカ、イギリス、フランスなどが極東のウラジオストクに派兵した「シベリア干渉戦争」勃発
● 9月16日、家族法成立
● 10月、西ウクライナ人民共和国(首都リヴィウ/リヴォフ)、成立。1919年1月まで存在。公用語はウクライナ語。反ソヴィエト派
● 11月3日、オムスクで「臨時全ロシア政府」が樹立。誕生間もないシベリア共和国を吸収。イギリスの後援による反ソヴィエト政権
● 11月3日、ドイツで革命が勃発。ドイツ帝国の崩壊
● 11月11日、ポーランド独立宣言
● 11月13日、中央同盟国の降伏により、ソヴィエトがブレスト=リトフスク条約を破棄
● 11月、「ウクライナ・ポーランド戦争」勃発。西ウクライナの独立宣言を受けて、ポーランドがガリツィア(ウクライナ南西部)に侵攻。フランスがポーランドを支援

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 1919年/大正8年 (12〜13歳)

◆ 第13中学校に転校在学
◆ 疎開地レスノエ(リトアニア近くの海岸)のペンションに3週間滞在。10歳のナターリャ・クーベとクルイローフの2つの寓話を演じ合うなどして親交(翌年作曲)
◆ ペトログラード音楽院に入学。和声と管弦楽法をシテインベルクに、対位法をソコロフに師事したほか、指揮も勉強。入学の際、院長のグラズノフの前で「N.K.(ナターリャ・クーベ)に捧げる前奏曲」を演奏。
◆ スケルツォ第1番(管弦楽版)
◆ 祖父ボレスラフ、イルクーツクで死去
◆ クレンペラーの指揮でベートーヴェンの交響曲第9番を鑑賞。クレンペラーはソ連に数多く客演。ショスタコーヴィチはのちにピアノで交響曲第4番を披露

● 1月、ウクライナ人民共和国(首都キーウ/キエフ)が、西ウクライナ人民共和国を併合
● 2月、「ソヴィエト・ポーランド戦争」勃発。「ソヴィエト&ウクライナ人民共和国(首都ハルキウ/ハリコフ)」と、「ポーランド&ウクライナ人民共和国(首都キエフ/キーウ)」の戦争。ソヴィエト側は「ロシア内戦」、「シベリア干渉戦争」との同時進行
● 3月、レーニンがポグロム反対を表明
● 6〜10月、キエフ・ポグロム発生。白軍(白衛軍)の義勇部隊による大規模なポグロム。白軍司令部は非難するものの義勇部隊はそのまま継続。周辺にも拡大し、1921年にかけてウクライナで合計1,326件のポグロムが発生し、少なくとも3万人から7万人以上のユダヤ人が虐殺され、約50万人のユダヤ人が家を失っています
● 7月、「ウクライナ・ポーランド戦争」の終結。ポーランドが勝利
● 10月、「ソヴィエト・ポーランド戦争」でポーランド側のウクライナ人民共和国(首都キーウ/キエフ)の軍でチフスが大流行し、兵力の70%を喪失。ウクライナ民族主義者、シモン・ペトリューラ大統領はポーランドに亡命
● 12月、ウクライナの大規模なポグロムに抗議するデモがニューヨークで実施。デモではウクライナのユダヤ人犠牲者は12万人に達したと非難
● 「シベリア干渉戦争」継続
● 「ロシア内戦」継続

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 1920年/大正9年 (13〜14歳)

◆ ペトログラード音楽院ピアノ科でニコラーエフに師事。ユージナ[1899-1970]やソフロニツキー[1901-1961]がクラスに在籍
◆ 8つの前奏曲
◆ メヌエット
◆ 前奏曲と間奏曲
◆ ムルジルカ
◆ クルイローフの2つの寓話

● 4月、ワルシャワ条約調印。ポーランドとウクライナ人民共和国(首都キエフ)は、ズブルチ川を両国間の国境とする事を決定。これによりガリツィア地方東部をポーランドが領有。同地に住むウクライナ人が失望
● 7月、「ウクライナ軍事組織」がプラハで結成。メンバーは、ウクライナ・ガリツィア軍の兵士等。テロ行為を推奨し、ポーランドとウクライナの要人を何度も暗殺したほか、詩人などの有名人も殺害。爆弾テロや交通機関の破壊、郵便局強盗、警察署の爆破、通信網の破壊などを実施
● 「ソヴィエト・ポーランド戦争」継続
● 「シベリア干渉戦争」継続
● 「ロシア内戦」継続

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 1921年/大正10年 (14〜15歳)

◆ ペトログラード音楽院在学
◆ 5つの前奏曲
◆ R=コルサコフ「私は洞窟で待っていた」をオーケストレーション
◆ シューベルト:軍隊行進曲のオーケストレーション
◆ シューマン:東洋の絵のオーケストレーション

● 3月、「ソヴィエト・ポーランド戦争」終結。リガ平和条約締結。ポーランド側の勝利
● 3月、新経済政策「ネップ」開始
● 10月13日、カルス条約により、1878年にオスマン帝国から割譲されたカルス州とバトゥム州がオスマン帝国に返還
● 10月、ソヴィエト政府により、クリミア自治ソヴィエト社会主義共和国が設立。26,860平方キロメートル、人口は約72万人で、首都はシンフェロポリ。自治共和国内では、20の居住区別の自治もおこなわれ、1930年代には、6地区がクリミア・タタール人、2地区がドイツ人、2地区がユダヤ人、1地区がウクライナ人という構成。それぞれの居住区での活動が成功し、1937年には、クリミアは先進工業農民国家に変貌したと評されてもいます。ユダヤ人の多く携わる金融、貿易、職人という職業は、ソヴィエトではブルジョアの仕事として非難の対象になっており、当時約65,000人いたクリミアのユダヤ人のうち、約20,000人が集団農業に転業
● 11月、ソヴィエト政府、1万分の1の通貨切り下げを実施
● 「シベリア干渉戦争」継続
● 「ロシア内戦」継続

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 1922年/大正11年 (15〜16歳)

◆ ペトログラード音楽院在学
◆ 父ドミトリー、47歳で死去
◆ 家計の為、映画館で無声映画上映に合わせて即興でピアノ演奏する仕事を開始
◆ グラズノフがショスタコーヴィチの窮状を見かねて個人的な奨学金で支援
◆ 肺リンパ腺結核に罹患し頸部リンパ節腫脹
◆ グラズノフの斡旋でクリミアのサナトリウムで療養
◆ クリミアで初ピアノ・リサイタル
◆ クリミアのサナトリウムに療養に来ていたタチアーナ・グリヴェンコと知り合い交際開始
◆ 5月、ピアノのための3つの幻想的な舞曲をフルシタツカヤ通りの学校の卒業式で初演。名づけ親ルカシェヴィチの依頼によりショスタコーヴィチが演奏。
◆ 主題と変奏(管弦楽版、Pf版)
◆ クリローフの2つの寓話(合唱・管弦楽版、Ms・Pf版)
◆ 2台のピアノのための組曲
◆ ピアノ三重奏曲第1番
◆ 初めに言葉ありき(断片。4重唱、または合唱)

● 10月、ソヴィエト政府、100分の1の通貨切り下げを実施
● 10月、「シベリア干渉戦争」終結。ソヴィエトの勝利
● 11月、「ロシア内戦」終結。ソヴィエトの勝利
● 12月、ソヴィエト社会主義共和国連邦成立宣言(以下、ソ連と略)
● 12月16日、レーニン、2度目の脳梗塞発作。右手の麻痺はあるものの仕事は口述で遂行
● モスクワ放送局、ラジオ放送開始。3月に完成した高さ150mの鉄塔から電波を送信。


● 12月30日、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国、ソ連に参加

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 1923年/大正12年 (16〜17歳)

◆ ペトログラード音楽院在学
◆ ピアノのための7つのフーガ(未完)。ロ短調ミサの引用など含む作品
◆ 12月、バレエ「人魚姫」の作曲を中止。1926年にスコアを破棄

● 3月10日、レーニン、3度目の脳梗塞発作。回復せず10か月後に死去。その間、スターリンが実権掌握
● 11〜12月、紙幣の種類に、10,000ルーブルと15,000ルーブルが追加
● ソ連政府、コレニザーツィヤ(現地化)政策の実施を共産党大会で決定。これにより、ロシア語以外の地区における摩擦や緊張を和らげ、政治や行政の円滑な運用を想定

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 1924年/大正13年 (17〜18歳歳)

◆ ペトログラード音楽院在学

● 1月21日、レーニン、死去


スターリン体制T(大粛清前) [1924-1936] (17〜29歳)

◆ レニングラード音楽院在学
◆ スケルツォ第2番(管弦楽版→交響曲第1番の最初の第3楽章、Pf版)
◆ チェロとピアノのための3つの小品

● 1月22日、スターリンが最高指導者に選出
● 1月、ソ連憲法制定
● 1月、ペトログラード、レニングラードに改名
● 3月、ソ連政府、通貨改革実施。旧紙幣50,000ルーブル=1924年度紙幣1ルーブルという基準。ソヴィエト以後の切り下げは、これで500億分の1になった計算
● 2月、紙幣の種類に、25,000ルーブルが追加
● 8月、ソ連政府、酒類販売を許可。10年間の酒類販売禁止期間中に、モルヒネやコカインなど麻薬中毒患者が増えすぎたため。一方でアルコール中毒患者も増加するものの、麻薬中毒よりは社会的影響が少ないという判断
● ソ連政府、麻薬販売を違法とし、違反者には懲役10年の刑。これにより麻薬使用者が激減

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 1925年/大正14年 (18〜19歳)

◆ レニングラード音楽院卒業
◆ レニングラード音楽院大学院に進学
◆ ◆ 交響曲第1番作曲
◆ 弦楽八重奏のための前奏曲とスケルツォ

● 1月、ソ連労働者階級ユダヤ人農業組織化協会設立。ウクライナへのユダヤ人入植を奨励・支援

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 1926年/大正15年(〜12月26日)昭和元年(12月26日〜) (19〜20歳)

◆ レニングラード音楽院大学院在学
◆ 5月、交響曲第1番初演成功
◆ 夏、恋人のタチアーナ・グリヴェンコと共に黒海リゾートに数か月滞在
◆ ピアノ・ソナタ第1番

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 1927年/昭和2年 (20〜21歳)

◆ レニングラード音楽院大学院在学
◆ 第一回ショパン・コンクールにソ連代表者としてオボーリンと共に選出。オボーリン第1位、ショスタコーヴィチ特別賞
◆ 交響曲第2番「10月革命に捧ぐ」
◆ 弦楽八重奏のための2つの小品
◆ ピアノのための10の格言集

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 1928年/昭和3年 (21〜22歳)

◆ レニングラード音楽院大学院在学
◆ ニーナ・ワルザールと交際開始
◆ オペラ「鼻」
◆ タヒチ・トロット
◆ 吹奏楽のためのスカルラッティの2つの小品

● 第1次5か年計画(スターリン体制の本格始動)

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 1929年/昭和4年 (22〜23歳)

◆ レニングラード音楽院大学院卒業
◆ メイエルホリド劇場音楽部長(3か月間)
◆ 交響曲第3番「メーデー」(合唱・管弦楽版、独唱・Pf版)
◆ 劇音楽「南京虫」
◆ 同「射撃」
◆ 映画音楽「新バビロン」
◆ E.ドレッセルのオペラ『コロンブス』ための2つの小品(管弦楽)

● 2月、「ウクライナ民族主義者組織(OUN)」がウィーンで結成。反ポーランド、反ソ連の組織で、当初は要人暗殺などを実施
● 世界大恐慌

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 1930年/昭和5年 (23〜24歳)

◆ タチアーナ・グリヴェンコの婚約を聞きレニングラードに来るよう懇願
◆ バレエ「黄金時代」
◆ 劇音楽「処女地」
◆ ストラヴィンスキー「詩篇交響曲」(2台ピアノ編曲)

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 1931年/昭和6年 (24〜25歳)

◆ タチアーナ・グリヴェンコが結婚
◆ タチアーナに対して、夫と別れてレニングラードに来るよう懇願
◆ 弦楽四重奏のための2つの小品
◆ バレエ「ボルト」
◆ 映画音楽「ひとり」
◆ 同「黄金の丘」
◆ 劇音楽「条件付の死者」

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 1932年/昭和7年 (25〜26歳)

◆ 4月、タチアーナ・グリヴェンコが出産。ショスタコーヴィチはタチアーナを諦めます
◆ 5月、ニーナ・ワルザール[1909-1954]と結婚。ニーナは結婚しても旧姓を使用
◆ 作曲家同盟レニングラード支部の運営委員に選出
◆ 12月、オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」完成
◆ 日本の詩人の詩による6つの歌(テノール・管弦楽、テノール・Pf)
◆ 劇音楽「ハムレット」
◆ 映画音楽「呼応計画」

● 12月、ソ連国内パスポート制度導入

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 1933年/昭和8年 (26〜27歳)

◆ 24の前奏曲
◆ ピアノ協奏曲1番
◆ ヴァイオリン協奏曲1番

● ソ連・ポーランド不可侵条約締結
● カガノーヴィチによる民族主義運動抑圧政策でウクライナ国境封鎖。ソ連の輸出を支えていたウクライナ農作物の過剰な収奪により、人工的な大飢饉(ホロドモール)となり、栄養失調により免疫機能の衰えたウクライナの農民たちは、翌年にかけてチフスなどで多くの人が犠牲になります

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 1934年/昭和9年 (27〜28歳)

◆ 1月、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」初演。大成功
◆ 春、レニングラード国際音楽祭で通訳を務めたコムソモールの20歳の学生、エレーナ・コンスタンチノフスカヤと知り合い、自宅での英語のレッスンをきっかけに交際開始
◆ 妻ニーナに対し、離婚を求める手紙を出すものの、ニーナは田舎に行き返信無し
◆ 8月、妻ニーナから離婚の申し出
◆ レニングラード市の区議会議員に選出
◆ マクベス夫人が興行的に大成功し印税収入でサッカーチームに長期同行開始
◆ チェロ・ソナタ
◆ ジャズ組曲1番
◆ 映画音楽「僧侶と労働者バルダの物語」
◆ 同「愛と憎しみ」
◆ 劇音楽「人間喜劇」

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 1935年/昭和10年 (28〜29歳)

◆ 春、妻ニーナと離婚手続きを開始するものの土壇場で中止
◆ ニーナとよりを戻します
◆ バレエ「明るい小川」
◆ 映画音楽「マキシムの少年時代」
◆ 同「幼なじみ」

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 1936年/昭和11年 (29〜30歳)

◆ 1〜2月、プラウダ批判でマクベス夫人の評価が一転
◆ 明るい小川も批判
◆ 5月、長女ガリーナ誕生
◆ 5月、交響曲第4番完成
◆ 劇音楽「スペインに敬礼」

● 4月、ソ連政府、1ルーブル=4.25フランス・フランに設定。フランス・フランの切り下げにより


スターリン体制U(大粛清以降) [1936-1953] (29〜46歳)

◆ 9月、姉マリアの夫で物理学者のフセヴォロド・フレデリクスが告発され、NKVDにより逮捕。10年の刑となりコミ共和国で技術者として強制労働
◆ 12月、交響曲第4番リハーサル中止、初演取りやめ
◆ プーシキンの詩による4つのロマンス

● 8月、ニコライ・エジョフ[1895-1940]率いるNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)による「大粛清」の開始。多くの政府関係者と軍関係者を手早く処刑し、さらにそこに国民による爆発的な数の「密告」も加わって、2年間で60万人以上とも言われる膨大な犠牲者を生み出すことになります
● 11月、スターリン憲法制定。官僚制を強化

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 1937年/昭和12年 (30〜31歳)

◆ レニングラード音楽院講師
◆ 11月、交響曲第5番初演大成功
◆ 国歌「インターナショナル」のオーケストレーション
◆ 映画音楽「マキシムの帰還」
◆ 同「ヴォロチェーエフの日々」

● 大粛清継続
● モスクワ放送でテレビ放送開始
● ソ連政府、通貨の基準を仏フランから米ドルに変更(フランスの金本位制離脱の為)。対米ドル相場は1米ドル=5.3ルーブルと決定

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 1938年/昭和13年 (31〜32歳)

◆ 5月10日、長男マクシム誕生
◆ 弦楽四重奏曲第1番
◆ ジャズ組曲2番
◆ 映画音楽「ヴィボルグ地区」
◆ 同「友人」
◆ 同「偉大なる市民」
◆ 同「銃を持つ人」

● 8月、ベリヤがNKVDの議長代理に就任し、エジョフの権限を奪うことで大粛清終了。ベリヤはスターリンと同じくグルジア正教の家庭の出身
11月には内務人民委員に選出

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 1939年/昭和14年 (32〜33歳)

◆ レニングラード音楽院教授に昇格
◆ レーニン交響曲(未完、素材は6番に転用)
◆ 交響曲第6番
◆ アニメ映画音楽「愚かな小ねずみ」
◆ フィンランドの主題による組曲(7つのフィンランド民謡)

● 8月、モスクワで独ソ不可侵条約締結(秘密議定書では東欧分割も策定)
● 9月、ドイツとスロヴァキアがポーランドに侵攻(第2次大戦開戦)
● 9月、ソ連がポーランドに侵攻
● 10月、ポーランド降伏。ドイツとソ連に分割占領。。ソ連はウクライナとベラルーシに、領有したポーランドを割り振り、1941年7月のバルバロッサ作戦敗退までの約2年間、領有を継続
● 11月、ソ連がフィンランドに侵攻
● クリミア自治ソヴィエト社会主義共和国の人口は国勢調査により約112万6千人と発表。内訳は、ロシア人が49.6%(約55万8千人)、クリミア・タタール人が19.4%(約21万8千人)、ウクライナ人が13.7%(約15万4千人)、ユダヤ人が5.8%(約6万5千人)、ドイツ人が4.6%(約5万2千人)等

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 1940年/昭和15年 (33〜34歳)

◆ 労働赤旗勲章
◆ ピアノ五重奏曲
◆ 劇音楽「リア王」
◆ ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」(オーケストレーション)
◆ J.シュトラウス「ウィーン気質」「観光列車」(オーケストレーション)
◆ 映画音楽「コルジンキナーの冒険」

● ポーランド東部を、ソ連が領有。ポーランド東部の人口は約1,350万人
● 2月、大粛清実行責任者エジョフとその部下たちが処刑
● 2月、メイエルホリド処刑
● 3月、フィンランドが敗北し、ソ連とモスクワ平和条約に調印。約42万人が住むカレリア地方などをソ連に割譲
● 5月、ドイツがオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻
● 7月、ドイツがイギリスを攻撃
● 8月、ソ連がバルト3国を併合
● ポーランドの内務大臣暗殺により1935年から終身刑でワルシャワの刑務所で服役していたウクライナの民族主義者、ステパン・バンデラ[1909-1959]をドイツ軍が釈放。バンデラはウクライナ民族主義者組織に戻ってリーダーとなります

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 1941年/昭和16年 (34〜35歳)

◆ ピアノ五重奏曲でスターリン賞(第1席、賞金10万ルーブル)
◆ 7月、ショスタコーヴィチ、レニングラードで交響曲第7番作曲に着手
◆ 9月、交響曲第7番第1楽章、レニングラードでスケッチ完成
◆ 9月、交響曲第7番第2楽章、レニングラードでスケッチ完成。放送で談話
◆ 9月、交響曲第7番第3楽章、レニングラードでスケッチ完成
◆ 10月、ショスタコーヴィチ家、臨時首都クイビシェフに避難
◆ 12月、交響曲第7番第4楽章スケッチ、および全体のオーケストレーション、クイビシェフで完成
◆ 12月、オペラ「賭博師」作曲開始
◆ 連隊は恐れずに歩む
◆ コミッサールの誓約

● 4月、ドイツがユーゴスラヴィアとギリシャに侵攻
● 6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻。「大祖国戦争」開戦
● 7月5日、バンデラ、ドイツの占領軍当局により逮捕され自宅軟禁。7月6日にベルリンのザクセンハウゼン強制収容所に送致。1944年9月に数百人のウクライナ人らと共に釈放。 終戦後はウクライナがソ連になったため戻れず、南ドイツに移住し、アメリカとイギリスの諜報機関と協力。1952年にウクライナ民族主義者組織を離れ、西ウクライナでソ連に抵抗活動を続けていたウクライナ蜂起軍の司令部と連携。1956年からはウクライナ民族主義者組織の海外での活動に協力。そして1959年10月15日にミュンヘンでKGBによって暗殺。
● 7月、1934年からレニングラード第一書記のジダーノフが同防衛委員会の責任者も兼務(1945年1月まで)
● 7月、レニングラードで食料配給制開始
● 7月、赤軍、ポーランドでドイツ軍に破れ撤収。ポーランド全土がドイツ領に
● 8月、ドイツがウクライナを占領。「帝国管区ウクライナ」とし、親衛隊が直接統治。西ウクライナでは、ナチス・ドイツを解放者として歓迎
● 9月、ウクライナの首都キエフのバビ・ヤールでユダヤ人など大量虐殺。虐殺実行部隊は約1,200人のウクライナ人と、約300人のドイツ人。29日と30日だけでキエフ市民のユダヤ人ら33,771人が殺害。その後も虐殺行為は続けられ、赤軍に解放される1943年11月までの2年間に計7〜12万人のユダヤ人、ロシア人、ウクライナ人、ロマなどが殺害
● 9月、ドイツなどによるレニングラードへの攻撃が開始。まずドイツが食糧貯蔵庫や燃料貯蔵庫を爆撃
● 10月、レニングラードの水道、ガス、電気施設をドイツが攻撃
● 10月、ドイツによる爆撃でレニングラード市民の死者約6千人
● 10月、モスクワ攻防戦(翌年1月まで)。政府機能をクイビシェフに疎開(1944年まで)。多くの政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者が疎開するものの、市民の多くは残されていたため、ピアニストのマリア・ユージナなどは疎開せずに活動
● 11月、ドイツによる爆撃でレニングラード市民の死者約9千人
● 12月、レニングラード市民の餓死・凍死者約3万9千人
● 12月、ウクライナ民族主義者組織がウクライナで虐殺したユダヤ人の数が15万人から20万人に到達

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 1942年/昭和17年 (35〜36歳)

◆ 3月、交響曲第7番、臨時首都クイビシェフで世界初演(サモスード指揮)。内外に放送
◆ 3月、交響曲第7番モスクワ初演
◆ 交響曲第7番の成功によりスターリン賞(第1席、賞金10万ルーブル)
◆ 6月、交響曲第7番、イギリスで西側初演
◆ 7月、交響曲第7番、アメリカ初演。以後、アメリカ各地で翌年にかけて62回演奏
◆ 8月、交響曲第7番、レニングラード初演(エリアスベルク指揮)
◆ 10月、ショスタコーヴィチ、ロシア共和国功労芸術家の称号を授与
◆ 12月、オペラ「賭博師」、全25場中8場まで作曲して断念
◆ シェイクスピアの詩による6つのロマンス
◆ 音楽舞踏劇「祖国」
◆ わがレニングラード
◆ 荘厳な行進曲

● 1月、ドイツの攻撃によりレニングラードの水道、暖房、電気が停止
● 1月、レニングラードの食料配給停止
● 1月、レニングラード市民の死者、餓死・凍死など約9万7千人
● 2月、レニングラード市民の死者、餓死・凍死など約9万6千人
● 4月、レニングラード市民の死者、餓死など6万4千人
● 4月、「ユダヤ反ファシスト委員会」設立。アメリカの投資家たちから莫大な資金を調達。その資金をソ連政府は戦費として使用
● 4月、ドイツ軍、占領下クリミアのユダヤ人ゼロを宣言。女性と子供、老人などを大量虐殺(男性の多くはソ連の兵役と労働で不在)
● 5月、レニングラード市民の死者、餓死など約5万人
● 6月、ソ連、石油パイプラインをラドガ湖の湖底に敷設しレニングラードへの供給を開始
● 6月、レニングラード市民の死者、餓死など約3万4千人
● 夏、ドイツによるレニングラード猛爆撃
● 10月、「ウクライナ蜂起軍」が結成。赤軍に対してもテロ活動を展開
● 「大祖国戦争」継続

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 1943年/昭和18年 (36〜37歳)

◆ 妻ニーナ、レニングラード大学で物理学を研究していた学生時代の友人で、物理学者のアルチョム・アリハニアン[1908-1978]とモスクワで再会。アリハニアンは宇宙線研究のための高山での観測と研究所での実験のための共同研究者を探しており、ニーナはこれを承諾。
◆ 5月、芸術問題委員会顧問に選出
◆ 夏、妻ニーナ、アルメニアのアラガツ山、標高3,250m地点で宇宙線を調査する高地探検隊に参加。アリハニアンとティナ・アサティアニ(前年の初遠征でも活躍した女性科学者)の提案した新たな調査方法に協力し、空気シャワーの構造研究で新たな発見をおこなっています。
  この驚きの出来事により、以後、ニーナはモスクワの南約2千キロのエレヴァン(とアラガツ山)に何度も長期出張して共同研究をおこない、やがて1954年12月、実験に伴う放射線障害により45歳で急死するまでの11年間、モスクワとの二重生活を送ることになります。
  アリハニアンは1938年に兄と共に中性微子(ニュートリノ)に関する研究などをおこない、1941年にはそれらが評価されてスターリン賞第2席を受賞。1942年の夏には宇宙線を調査するため12名から成る遠征隊を編成して、2トンの機材と共に高山調査を開始、その成功によりこの1943年にも再遠征のための人材探しをおこなっていました。


◆ 7月、交響曲第8番第1楽章、モスクワで完成
◆ 8,9月、交響曲第8番第2〜5楽章、イヴァノヴォで作曲(モスクワの北東約200キロ)
◆ モスクワ音楽院教授
◆ 11月、交響曲第8番モスクワで初演
◆ ピアノ・ソナタ第2番
◆ 愛国歌
◆ 赤軍の歌

● 1月、赤軍、モスクワ攻防戦に勝利。市民の帰還開始


● 1月、赤軍がレニングラード包囲を突破
● 1月、赤軍によりスターリングラード解放
● 2月、レニングラードへの食料と燃料の配給再開
● 4月、ナチス・ドイツSS師団「ガリーツィエン」の募集開始。1か月半ほどでウクライナ人約8万人が集結する人気ぶり。12月から活動開始
● 夏、ドイツによるレニングラード猛爆撃
● 7月、ウクライナ民族主義者組織バンデラ派のミコラ・レベド率いる部隊が、ポーランドのヴォリンでポーランド人など3万5千〜6万人を虐殺し、東ガリツィアでは2万5千〜4万人を虐殺。レベドは戦後、アメリカ戦略情報局によりアメリカ本土に逃がされて放免となり1989年まで生存
● 8月、クルスクの戦いで赤軍、ドイツに勝利(モスクワの南約500キロ)
● 9月、スターリンとロシア正教会の首脳たちがクレムリンで会見を開き、教会宥和政策を発表、「戦闘的無神論者同盟」の解散も決定
● 「大祖国戦争」継続

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 1944年/昭和19年 (37〜38歳)

◆ 6月6日、姉マリアの夫で物理学者のフセヴォロド・フレデリクスがゴーリキー(ニジニ・ノヴゴロド)の病院で肺炎のため死去
◆ 8月、ピアノ三重奏曲第2番と弦楽四重奏曲第2番完成。三重奏曲は2月にノボシビルスクの作曲家ノヴィコフの家で就寝中に亡くなった親友ソレルチンスキーの追悼作品。四重奏曲は交響曲第8番と共通点のある作品
◆ 12月、ショスタコーヴィチ家でクリスマスツリー準備


◆ ピアノ三重奏曲2番
◆ 弦楽四重奏曲第2番
◆ 映画音楽「ゾーヤ」
◆ 音楽舞踏劇「ロシアの河」
◆ ピアノのための「フットボール」

● 1月、赤軍によりレニングラード解放。レニングラード在住市民は約60万人
● 10月、赤軍、西ウクライナを解放
● 「大祖国戦争」継続

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 1945年/昭和20年 (38〜39歳)

◆ 交響曲第9番
◆ 勝利の春
◆ 映画音楽「普通の人々」

● 5月、ドイツが無条件降伏。「大祖国戦争」終結。ソ連の勝利
● 8月、日本が無条件降伏
● ウクライナ民族主義者組織によるウクライナの町や村でのゲリラ戦が開始。1950年代半ばまで10年ほど継続

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 1946年/昭和21年 (39〜40歳)

◆ レーニン勲章(賞金1万ルーブル)
◆ ピアノ三重奏曲第2番でスターリン賞(第2席、賞金5万ルーブル)
◆ 弦楽四重奏曲第3番

● アメリカ戦略情報局、ウクライナ民族主義者と連携開始。現在に至ります
● アメリカ戦略情報局による「ベラドンナ作戦」、「リンクス作戦」。ウクライナ民族主義者と共同で
● 3月、チャーチル首相がアメリカ訪問中、マスコミが注視する場で「鉄のカーテン」という言葉を使って演説。「鉄のカーテン」という言葉そのものは1918年のロシアで使われ始め、ナチス・ドイツのゲッベルスも使用していましたが、政治・マスコミ向けの本格的なプロパガンダ・ツールとなるきっかけはこの時の演説でした。以後、世界の莫大な税公金が東西両陣営のプロパガンダや軍需産業に注ぎ込まれることになります


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 1947年/昭和22年 (40〜41歳)

◆ 2月、ロシア共和国最高議会代議員
◆ 2月、レニングラード作曲家同盟理事会議長就任
◆ カンタータ「祖国の詩」
◆ 映画音楽「ピロゴーフ」

● 9月、コミンフォルム設立。スターリンに次ぐ存在でもあったアンドレイ・ジダーノフ[1896-1948]がスターリンの名のもとに組織したもので、ヨーロッパ各国の共産党との交流・調整を目的とし、アメリカのマーシャル・プランに対抗
● 12月、ソ連で通貨切り下げ実施。現金交換比率10分の1になるものの、賃金、年金などは1対1の交換比率で、国家小売価格も引き下げ。輸出優先体制継続のため為替レートはそのまま
● アメリカ戦略情報局による「トライデント作戦」。ウクライナ民族主義者と共同で

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 1948年/昭和23年 (41〜42歳)

◆ ロシア共和国人民芸術家
◆ 9月、ジダーノフ批判によりモスクワ音楽院とレニングラード音楽院を解雇
◆ ユダヤの民族詩から
◆ 映画音楽「エルベ河の邂逅」
◆ 同「若き親衛隊」
◆ 同「ミチューリン」

● 2月、ジダーノフ批判。西側コスモポリタニズムを批判し、文化全般についても社会主義リアリズムを重視した方針で統制することを宣言。もともとプロレタリア芸術から発展した社会主義リアリズム芸術は、反コスモポリタニズムの視点から反ユダヤ的な方向にも展開しやすく、文学、演劇、音楽、美術、映画などに影響力を持つこととなります


● 4月、ソ連作曲家同盟の第1回総会が開催。前身は「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」。スターリンとジダーノフにより、34歳のフレンニコフ[1913-2007]が書記長に選出。以後、フレンニコフは43年間に渡ってその地位を守り続けました。


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 1949年/昭和24年 (42〜43歳)

◆ 3月、ソ連の科学文化使節団の一員としてニューヨークで開催された世界平和文化科学会議にゲラシモフ監督らと出席
◆ ソ連平和擁護委員会の委員に選出
◆ オラトリオ「森の歌」初演
◆ 「陽気な行進曲」
◆ タランテラ
◆ バレエ組曲1番
◆ 弦楽四重奏曲第4番
◆ 映画音楽「ベルリン陥落」

● 8月24日、アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、カナダ、オランダ、ベルギー、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、ルクセンブルク、アイスランド、NATOに加盟(11か国)
● ソ連政府、反ユダヤ・キャンペーンを開始。新聞・雑誌などが大規模に参加。自国からの移民が多いイスラエルに対して大規模な支援を続けていたにも関わらず、イスラエルがアメリカ側についたため。イディッシュ語の文学や演劇に関わる作家や詩人、演出家、俳優などの多くが逮捕、ロシア人であってもコスモポリタン的な人物は同じく逮捕

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 1950年/昭和25年 (43〜44歳)

◆ 「森の歌」と「ベルリン陥落」でスターリン賞(第1席、賞金10万ルーブル)
◆ レールモントフ歌曲集
◆ 映画音楽「ベリンスキー」

● 3月、ソ連政府、通貨の基準をドルから金に変更。対米ドル相場は1米ドル=4ルーブルに決定

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 1951年/昭和26年 (44〜45歳)

◆ 24の前奏曲とフーガ
◆ バレエ組曲2番
◆ 映画音楽「忘れがたき1919年」

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 1952年/昭和27年 (45〜46歳)

◆ 革命詩人の詩による10の詩曲でスターリン賞(第2席、賞金5万ルーブル)
◆ 弦楽四重奏曲第5番
◆ カンタータ「わが祖国に太陽は輝く」
◆ プーシキンの詩によるモノローグ
◆ 7つの人形の踊り
◆ バレエ組曲3番

● 2月18日、ギリシャ、トルコ、NATOに加盟(13か国)

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 1953年/昭和28年 (46〜47歳)

◆ 2月、友人のポーランドから来たユダヤ人作曲家ワインベルク[1919-1996]が、暗殺された演出家ミホエルスの義理の息子でもあることから「医師団陰謀事件」の余波で逮捕されたため、作曲家のニコライ・ペイコ[1916-1995]と共にワインベルクの身元が確かであることを伝えて釈放を要請する嘆願書を提出

● 3月5日、スターリン死去


● 3月5日、プロコフィエフ死去


 マレンコフ体制 [1953] (46歳)

◆ ワインベルク、釈放

● 3月、マレンコフがソ連最高指導者に選出
● 6月、ベルリンで反ソ連暴動
● 7月、ジューコフ元帥が戦車部隊2個師団を率いて国家保安省本部を占拠、ベリヤとカガノーヴィチを逮捕


 フルシチョフ体制 [1953-1964] (46〜57歳)

◆ 夏〜秋、交響曲第10番作曲
◆ 12月、交響曲第10番初演
◆ バレエ組曲4番
◆ ギリシャの歌

● 9月、ソ連最高指導者、マレンコフからフルシチョフに交代
● 12月、ベリヤ処刑

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 1954年/昭和29年 (47〜48歳)

◆ ソ連人民芸術家
◆ 国際平和賞
◆ 交響曲第10番をめぐる3日間の公開討論会で勝利
◆ 祝典序曲
◆ 10月の夜明け
◆ 口づけを重ねた
◆ 映画音楽「団結」
◆ 劇音楽「ハムレット」
◆ 11月末、妻ニーナ、アルメニア出張中に放射線障害で入院。ほどなく昏睡状態に
◆ 12月5日、妻ニーナ、アルメニアのアルチョム・アリハニアンと共同研究で長期滞在中のエレバンで急死。ニーナとアリハニアンは1943年から共同研究をおこなっていました。なお、ニーナの死後もアリハニアンはショスタコーヴィチ家を訪れています
◆ 12月10日、妻ニーナ、ノヴォデヴィチ墓地に埋葬。葬儀ではポータブル・レコード・プレーヤーでショスタコーヴィチの交響曲第8番と弦楽四重奏曲が流されていました

● 2月19日、フルシチョフの独断により、ロシアとウクライナの友好を記念するものという名目でクリミア自治州の領有を、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国から、ウクライナ・ソヴィエト連邦社会主義共和国に変更

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 1955年/昭和30年 (48〜49歳)

◆ 3つのヴァイオリン三重奏曲
◆ 4つのワルツ、映画音楽「馬あぶ」
◆ 母ソフィア、死去

● 5月8日、西ドイツ、NATOに加盟(14か国)

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 1956年/昭和31年 (49〜50歳)

◆ 7月、32歳でコムソモール中央委員会指導者のマルガリータ・アンドレーエヴナ・カーイノワと結婚
◆ レーニン勲章(賞金1万ルーブル)受章
◆ 弦楽四重奏曲第6番
◆ スペインの歌、映画音楽「第1軍用列車」

● 2月、フルシチョフ、スターリン批判演説
● 6月、ポーランドのポズナニで反ソ暴動
● 10月、ハンガリー動乱

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 1957年/昭和32年 (50〜51歳)

◆ 交響曲第11番「1905年」
◆ ピアノ協奏曲2番
◆ グリンカの主題による11の変奏曲

● 8月、ソ連のR-7が発射に成功。世界初の大陸間弾道弾(ICBM)
● 10月、ソ連のスプートニク1号が地球軌道に乗り人工衛星に。世界初

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 1958年/昭和33年 (51〜52歳)

◆ 4月、交響曲第11番でレーニン賞
◆ 5月、プラハ、チューリヒ、ローマ、フィレンツェ、パリを旅行。パリでは芸術文化勲章のコマンドゥール勲章を授与されたほか、クリュイタンスとレコーディングも実施
◆ 6〜7月、渡英し、王立音楽アカデミー会員の称号授与式と、オックスフォード大学名誉博士号授与式に出席
◆ 9月、ウィフリ・シベリウス賞を受賞し賞金750万マルッカを獲得するものの、ショスタコーヴィチは当局の要請により賞金全額をフィンランド・ソヴィエト協会に寄付(当時は1ドル=320マルッカの固定レートなので現在価値に換算すると約1,600万円)
◆ 喜歌劇「モスクワ・チェリョームシキ」

● 3月、ブルガーニン首相辞任、フルシチョフ独裁体制確立

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 1959年/昭和34年 (52〜53歳)

◆スウェーデンで開催された世界平和評議会に出席
◆プラハの春音楽祭に参加
◆ワルシャワの秋音楽祭に参加
◆ 10月、ソ連の音楽家代表団のメンバーと渡米し東海岸と西海岸各都市で演奏会開催。ハリウッドも訪問。科学アカデミー会員に選出
◆ 春〜夏、映画用にムソルグスキー「ホヴァンシチナ」をオーケストレーション
◆ 夏、チェロ協奏曲第1番を作曲。10月に初演
◆ 夏、マルガリータ・アンドレーエヴナと離婚。慰謝料で高額出費
◆ メキシコ音楽院から名誉博士号授与

● 1月、キューバ革命
● 1月、ソ連のルナ1号が太陽軌道に乗り人口惑星に。世界初
● 9月、ソ連のルナ2号が月面に到着(衝突)。世界初

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 1960年/昭和35年 (53〜54歳)

◆ 3月、弦楽四重奏曲第7番作曲。亡き妻ニーナの思い出に捧げる作品
◆ 4月、ロシア連邦作曲家同盟を率いる第1書記に選出
◆ S.チョールヌイの詩による5つの風刺を作曲。テキストはこの年に出版された詩集からのもので、ロシア帝国時代末期に活躍した反体制詩人の作品
◆ 7月、弦楽四重奏曲第8番を作曲
◆ 7月、映画音楽「5日5夜」を作曲
◆ 9月、ソ連作曲家同盟統一党組織により共産党員候補に選出
◆ 9月、レニングラード・フィル西欧ツアーに同行
◆ ノヴォロシースクの鐘
◆ 左足を骨折
◆ ベルギー王立科学・文学・美術アカデミー会員

● 5月、ソ連領土内深くに侵入していたアメリカ軍のU2型高高度偵察機が、地対空ミサイルS-75によって撃墜。


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 1961年/昭和36年 (54〜55歳)

◆ ネジダノヴァ通りの5部屋のアパートに転居
◆ 4月、ガガーリンが宇宙飛行中に口ずさんでいた歌はショスタコーヴィチの「祖国が聴いている」
◆ 9月、共産党に正式に入党。この年の党員数は約930万人で、成年人口の10人に1人以上という比率
◆ レニングラード音楽院教授に復帰
◆ 10月、交響曲第12番「1917年」
◆ 12月、交響曲第4番初演

● 4月、ソ連、有人宇宙飛行に成功。世界初。
● 4月、ケネディ大統領がキューバ爆撃を指示、上陸作戦まで実施するものの失敗
● 7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定
● 8月、ホーネッカーの指揮でベルリンの壁建設開始
● 10月、フルシチョフ、第2次スターリン批判演説

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 1962年/昭和37年 (55〜56歳)

◆ 夏、イリーナ・アントノヴナ・スピンスカヤとヴェネツィア近郊に滞在。イリーナは1935年レニングラード生まれで27歳のユダヤ系ポーランド系ロシア人で出版社勤務の人妻
◆ 夏、イリーナと共にイリーナの叔母の家のあるリャザンに滞在
◆ 8〜9月、エジンバラ音楽祭に出演。ショスタコーヴィチ特集が組まれ30近い作品が演奏
◆ 11月、イリーナの離婚が成立
◆ 12月、イリーナと結婚
◆ ソ連最高会議代議員
◆ 右手麻痺で何度も入院
◆ 交響曲第13番「バビ・ヤール」
◆ バレエ音楽「お嬢様とならず者」
◆ ムソルグスキー「死の歌と踊り」(オーケストレーション)
◆ 交響曲第13番変ロ短調作曲

● 10月、キューバ危機

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 1963年/昭和38年 (56〜57歳)

◆ オペラ「カテリーナ・イズマイロヴァ」
◆ ロシアとキルギスの主題による序曲
◆ シューマン:チェロ協奏曲(オーケストレーション)
◆ 3月、モスクワで英国音楽祭開催

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ブレジネフ体制 [1964-1975] (58〜68歳)
 1964年/昭和39年 (57〜58歳)

◆ 弦楽四重奏曲第9番
◆ 弦楽四重奏曲第10番
◆ カンタータ「ステパン・ラージンの処刑」
◆ 映画音楽「ハムレット」

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 1965年/昭和40年 (58〜59歳)

◆ 映画音楽「生涯のような1年」
◆ 心臓病で入院
◆ ポリオの脊髄炎と診断

● ソ連、ベトナム戦争で北ベトナムを支援

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 1966年/昭和41年 (59〜60歳)

◆ レーニン勲章(賞金1万ルーブル)
◆ 社会主義労働英雄
◆ ロイヤル・フィルハーモニー協会金メダル
◆ 心筋梗塞で入院
◆ 弦楽四重奏曲第11番
◆ チェロ協奏曲2番

● 2月、ソ連のルナ9号が月面に軟着陸。世界初

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 1967年/昭和42年 (60〜61歳)

◆ ヴァイオリン協奏曲2番
◆ 10月革命
◆ ブローク歌曲集
◆ 春よ春よ
◆ 交響的前奏曲「追悼」
◆ 映画音楽「ソフィヤ・ペロフスカヤ」
◆ 右足を骨折

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 1968年/昭和43年 (61〜62歳)

◆ 「ステパン・ラージンの処刑」でソ連国家賞(賞金5千ルーブル)
◆ ラヨーク
◆ 弦楽四重奏曲第12番
◆ ヴァイオリン・ソナタ

● 8月、チェコ事件

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 1969年/昭和44年 (62〜63歳)

◆ 交響曲第14番「死者の歌」
◆ ティシチェンコ:チェロ協奏曲1番(オーケストレーション)

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 1970年/昭和45年 (63〜64歳)

◆ 弦楽四重奏曲第13番
◆ 忠誠
◆ ソヴィエト民警行進曲
◆ 映画音楽「リア王」

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 1971年/昭和46年 (64〜65歳)

◆ 十月革命勲章
◆ 9月、心筋梗塞により入院
◆ 交響曲第15番
◆ 6つの歌

● 4月、ソ連サリュート1号が運用開始。世界初の宇宙ステーション

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 1972年/昭和47年 (65〜66歳)

◆ 5月、東ドイツ友好の星金賞
◆ 7月、聖トリニティー大学名誉音楽博士
◆ スクリャービン生誕100周年祭実行委員会委員長

● 5月、ニクソン大統領訪ソ
● 12月、ソ連マルス3号が火星に着陸。世界初

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 1973年/昭和48年 (66〜67歳)

◆ レオニー・ソンニン音楽賞(賞金30万デンマーク・クローネ)
◆ 6月、米ノース・ウェスタン大学芸術名誉博士
◆ 6月、サハロフ非難書簡に署名
◆ ラフマニノフ生誕100周年祭実行委員会委員長
◆ 弦楽四重奏曲第14番
◆ マリーナ・ツヴェタエワの詩による6つの歌曲(S、Pf)

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 1974年/昭和49年 (67〜68歳)

◆ 弦楽四重奏曲第14番と男声合唱曲「忠誠」でロシア共和国グリンカ賞
◆ 10月、友人のオイストラフがアムステルダムで死去。モスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬
◆ 12月、イギリスの南極地名委員会が南極のアレクサンダー島(アレクサンドル1世島)の8つの半島の一つにショスタコーヴィチ半島と命名。近くにはストラヴィンスキー湾やバッハ棚氷、ベートーヴェン半島、モンテヴェルディ半島、リャードフ氷河、ブラームス湾も存在
◆ 弦楽四重奏曲第15番
◆ ミケランジェロの詩による組曲(Bs・Pf)
◆ マリーナ・ツヴェタエワの詩による6つの歌曲(S・Orch)

● ソ連が「ドルジバ・パイプライン」を完成。世界最大最長の石油パイプラインで、全長約8,900kmで、年間6,650万トンを輸出。北部ルートでは、ベラルーシ、ポーランド、ドイツ、ラトヴィア、リトアニアを通り、南部ルートでは、ウクライナ、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアを通過し、それぞれに通過料収入がもたらされています

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 1975年/昭和50年 (68〜69歳)

◆ 4月、フランス芸術アカデミー名誉会員
◆ ミケランジェロの詩による組曲(Bs・Orch)
◆ レビャートキン大尉の4つの詩(Bs・Pf)
◆ バレエ音楽「夢想家」
◆ ムソルグスキー「蚤の歌」(オーケストレーション)
◆ 交響曲第16番(未完。スケッチ)
◆ 7月、ヴィオラ・ソナタ 完成。チェロ版も作成
◆ 7月、体調不良により入院
◆ 8月4日、再入院
◆ 8月9日、肺がんで死去
◆ 8月14日、ノヴォデヴィチ墓地に埋葬


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 1976年/昭和51年 (69〜70歳)

◆ カテリーナ・イズマイロヴァでシェフチェンコ国家賞

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 年表付き商品説明ページ一覧

【バロック作曲家(生年順)】

バード [c.1540-1623]
カッツァーティ [1616-1678]
ルイ・クープラン [1626-1661]
クープラン一族
ダンドリュー [1682-1738]
スタンリー [1713-1786]
【古典派&ロマン派作曲家(生年順)】

モンジュルー [1764-1836] (ピアノ系)
ベートーヴェン [1770-1827]
ジャダン [1776-1800] (ピアノ系)
リース [1784-1838]
ブルックナー [1824-1896]
ルクー [1870-1894]
レーガー [1873-1916]

【近現代作曲家(生年順)】

レーバイ [1880-1953] (ギター系)
マルティヌー [1890-1959]
ミゴ [1891-1976] (ギター系も)
ショスタコーヴィチ [1906-1975]
ラングレー [1907-1991] (オルガン系)
アンダーソン [1908-1975]
デュアルテ [1919-2004] (ギター系)
プレスティ [1924-1967] (ギター系)
ヘンツェ [1926-2012]
坂本龍一 [1952-2023]
【指揮者(ドイツ・オーストリア)】

アーベントロート (ベートーヴェンシューマンブルックナーブラームスモーツァルトチャイコハイドン)
エッシェンバッハ
カラヤン
クナッパーツブッシュ (ウィーン・フィルベルリン・フィルミュンヘン・フィル国立歌劇場管レジェンダリー)
クラウス
クリップス
クレンペラー (VOX&ライヴザルツブルク・ライヴVENIASボックス
サヴァリッシュ
シューリヒト
スイトナー (ドヴォルザークレジェンダリー)
フリート
フルトヴェングラー
ベーム
ヘルビヒ(マーラーショスタコブラームス)
メルツェンドルファー
ヤノフスキー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー (ブルックナーマーラーヨーロッパドイツ)
ロスバウト
【指揮者(ロシア・ソ連)】

ガウク
クーセヴィツキー
ゴロワノフ
ペトレンコ
マルケヴィチ
【指揮者(アメリカ)】

クーチャー(クチャル)
スラトキン(父)
ドラゴン
バーンスタイン
フェネル
【指揮者(オランダ)】

オッテルロー
クイケン
ベイヌム
メンゲルベルク
【指揮者(フランス)】

パレー
モントゥー
【指揮者(ハンガリー)】

セル
ドラティ
【指揮者(スペイン)】

アルヘンタ
【指揮者(スイス)】

アンセルメ
【指揮者(ポーランド)】

クレツキ
【指揮者(チェコ)】

ターリヒ
【指揮者(ルーマニア)】

チェリビダッケ
【指揮者(イタリア)】

トスカニーニ
【指揮者(イギリス)】

バルビローリ
【指揮者(ギリシャ)】

ミトロプーロス
【鍵盤楽器奏者(楽器別・生国別)】

【ピアノ(ロシア・ソ連)】

ヴェデルニコフ
グリンベルク
ソフロニツキー
タマルキナ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
フェインベルク
フリエール
モイセイヴィチ
ユージナ
【ピアノ(フランス)】

カサドシュ
ティッサン=ヴァランタン
ハスキル
ロン
【ピアノ(ドイツ・オーストリア)】

キルシュネライト
シュナーベル
デムス
ナイ
【ピアノ(南米)】

タリアフェロ
ノヴァエス
【チェンバロ】

ヴァレンティ
カークパトリック
ランドフスカ
【弦楽器奏者(楽器別・五十音順)】

【ヴァイオリン】

オイストラフ
コーガン
スポールディング
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヘムシング
リッチ
レビン
【チェロ】

カサド
シュタルケル
デュ・プレ
ヤニグロ
ロストロポーヴィチ
【管楽器奏者】

【クラリネット】

マンツ

【ファゴット】

デルヴォー(ダルティガロング)
【オーボエ】

モワネ
【歌手】

ド・ビーク (メゾソプラノ)
【室内アンサンブル(編成別・五十音順)】

【三重奏団】

パスキエ・トリオ
【ピアノ四重奏団】

フォーレ四重奏団
【弦楽四重奏団】

グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
ズスケ四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
フランスの伝説の弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団

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10番を聴いただけだが、レビューがないので...

投稿日:2024/03/02 (土)

10番を聴いただけだが、レビューがないので書くことにした。他を聞かれた方の感想をお願いします。一聴するに、丁寧な音作りが特長と感じた。響きは穏健という言い方が適当かはさておき、そんな感じで心地いい。旧ソ連にありがちだった爆演とは異なる。それを求めると拍子抜けする。尖った表現を求める向きには物足りないかもしれない。録音に不満はない。プラスチックケースに入り、日本語訳はないがリーフレットはしっかり入っている。

おとちゃん さん | 大分県 | 不明

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人物・団体紹介

人物・団体ページへ

ショスタコーヴィチ(1906-1975)

「わたしの交響曲は墓碑である」という“証言”の中の言葉によって象徴されるショスタコーヴィチの音楽と生涯への価値観の変質は、今もって盛んな議論と研究、演奏解釈によって再認識過程の最中にあるとも言えますが、作品によってはすでに演奏年数も75年に及び、伝統と新たな解釈の対照がごく自然におこなわれてきているとも言えそうです。 圧政と戦争の象徴でもあったソビエト共産主義社会の中に生き、そして逝ったショスタコ

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