CD 輸入盤

ハインツ・レーグナー/ヨーロッパ作曲家録音集(5CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
BC0302058
組み枚数
:
5
レーベル
:
:
Germany
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


ハインツ・レーグナー 〜 ヨーロッパ作曲家録音集(5CD)

レーグナーの指揮するビゼーやデュカス、ラヴェル、ヤナーチェクなど、フランス、ルーマニア、スペイン、イタリア、チェコスロヴァキアの作品はどれも個性的な名演として有名な存在です。
  今回はそこに、ギリシャの作曲家テオドラキスの交響曲第3番世界初演を加え、「エテルナ・オリジナル・マスター・シリーズ」から5枚組ボックスとしてリリースされることとなりました。
  なお、このシリーズの常として、マスターテープから新たなマスタリングがおこなわれているため、さらなる音質向上が期待されるところです。

国や民族を超越する視点と解釈
長きに渡ったオペラハウスでの仕事に加え、オーケストラ・コンサート、海外客演、そして放送やレコーディングなど多岐にわたる活動は、それぞれ異なる傾向の聴衆を相手にする仕事ということでもあり、それがレーグナーの指揮者としての実力を培うことにとても有効だったとも考えられます。
  「ワイマール共和政ドイツ」→「ナチス・ドイツ」→「ソ連占領ドイツ」→「東ドイツ」→「統一ドイツ」と移り変わるドイツに生きたレーグナーは、国や民族を超越する視点ともいうべき、独自の楽曲解釈でも知られており、目からウロコの演奏に驚かされることもしばしばです。
  そうした「常識に配慮しない解釈の多様性」こそ、レーグナーならではの音楽の魅力ともいえそうです。


 録音会場

ベルリン、キリスト教会

Disc2、3、4の録音会場は東ベルリンの「キリスト教会」です。数々の名盤を生み出した響きの良い教会で、「キリスト教会スタジオ」とも表記されます。西ベルリンの「イエス・キリスト教会」とよく混同されますが関係はありません。
  このセットではビゼーとテオドラキス以外はすべてキリスト教会での録音で、レーグナー指揮ベルリン放送交響楽団の上質なソノリティを、エテルナ絶頂期ともいうべき美しいサウンドで聴かせてくれます。


ベルリン、SRKザール1

Disc1のビゼー・アルバムは、ベルリン放送局のSRKザール1で収録。設立当初は「SKR(国家放送委員会)」のザール1という名称でしたが、のちにSRKのザール1と変更し、英語風にSRKホールという呼び方にされている場合も多いようです。
  放送用設備として設計されただけに、明晰なサウンドが持ち味となっており、ビゼーの作品でも細部まで克明な音で聴くことができます。


ベルリン、コーミシェ・オーパー

Disc5のテオドラキスの交響曲は、世界初演の模様をライヴ収録したもの。会場は名匠フェルゼンシュタインの演出で気を吐いたベルリンのコーミシェ・オーパーです。1200席ほどのオペラハウスで響きはほどよく、この交響曲第3番もライヴ録音ながら、オーケストラと合唱の迫力ある音響が聴きものとなっており、親しみやすい作風の大作にふさわしい録音に仕上がっています。各種打楽器の鮮やかな音も聴きものです。


 マスタリングについて〜クリストフ・シュティッケル(マスタリング・エンジニア)

ETERNAテープをリマスタリングする際の前提は、オリジナル・サウンドを変えることなく可能な限り最高の状態でオリジナル・サウンドを再現することでした。
  全ての作業はオリジナルのアナログ・マスターテープに基づき、マスタリングはそれぞれのテープに対して細心の注意を払って行われました。
  アナログ領域のみでサウンド処理されたアナログ信号を96kHz / 24bitの高品位デジタル化後に44.1kHz / 16bit化されました。
  また、デジタル領域においてもノイズの除去や、オリジナル・サウンドに影響を与えるその他の修復は行わず、必要最小限のテープ・エラーとテクニカル・クリックのみの修復が行われました。


 収録情報

Disc1
ビゼー
●「アルルの女」第1組曲
●「アルルの女」第2組曲
●「子供の遊び」Op.22
●「美しいパースの娘」組曲


ベルリン放送交響楽団
録音:1974年1月& 5月、ベルリン、SKRザール1

Disc2
●デュカス:「魔法使いの弟子」
●ミヨー:バレエ音楽「世界の創造」
●エネスコ:「ルーマニア狂詩曲」第1番
●サン=サーンス:「死の舞踏」
●ファリャ:「火祭りの踊り」
●ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調


ロルフ=ディーター・アレンス(ピアノ/ラヴェル)
ベルリン放送交響楽団
録音:1977年3月,1985年(ラヴェル)、ベルリン、キリスト教会

Disc3
ヴォルフ=フェラーリ
●喜歌劇「スザンナの秘密」序曲
●歌劇「マドンナの宝石」〜ナポリ人の踊り
●喜歌劇「4人の田舎者」〜間奏曲
●喜歌劇「町の広場」〜前奏曲、リトルネロ、間奏曲
●喜歌劇「せんさく好きの女たち」序曲
●弦楽合奏のためのセレナーデ*


ベルリン放送交響楽団
ベルリン室内管弦楽団*
録音:1975年12月、1976年1月-2月、ベルリン、キリスト教会

Disc4
●ヤナーチェク:「シンフォニエッタ」
●ヤナーチェク:「タラス・ブーリバ」
●ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲ニ長調*


ロルフ=ディーター・アレンス(ピアノ)*
ベルリン放送交響楽団
録音:1979年11月(シンフォニエッタ),1980年4月(タラス・ブーリバ),1985年(ラヴェル)、ベルリン、キリスト教会

Disc5
●テオドラキス:交響曲第3番

エルス・ボルケシュタイン(ソプラノ)
ベルリン放送合唱団
ベルリン・コーミシェ・オーパー管弦楽団
録音:1982年4月29日、ベルリン・コーミシェ・オーパー

ハインツ・レーグナー(指揮)

 各種リンク

【CDトラック番号別 曲目紹介】
●Disc1 ビゼー:管弦楽曲集
●Disc2 魔法使いの弟子〜管弦楽名曲集
●Disc3 ヴォルフ=フェラーリ:管弦楽曲集
●Disc4 ヤナーチェク:管弦楽曲集
●Disc5 テオドラキス:交響曲第3番
●テオドラキス:年表

【レーグナー関連】
●拠点別まとめ ライプツィヒ 1929〜1951年(22年間)
●拠点別まとめ ワイマール 1951〜1954年(3年間)
●拠点別まとめ ライプツィヒ 1954〜1962年(8年間)
●拠点別まとめ ベルリン 1962〜1993年(31年間)
●拠点別まとめ ライプツィヒ 1993〜2001年(8年間)

【年表】
1929193019311932193319341935193619371938193919401941194219431944194519461947194819491950195119521953195419551956195719581959196019611962196319641965196619671968196919701971197219731974197519761977197819791980198119821983198419851986198719881989199019911992199319941995199619971998199920002001

【エテルナ・オリジナル・マスター】
●シリーズ一覧

【商品関連】
●商品説明:年表シリーズ一覧


 CDトラック番号別 曲目紹介

 Disc 1
 1〜4.ビゼー:「アルルの女」組曲第1番 17:10


ビゼー[1838-1875]はオルレアン朝の世に生まれ、第二共和政、第二帝政、第三共和政の激動の中、36歳で敗血症により亡くなっています。
1872年完成。パリのヴォードヴィル劇場で1872年10月1日に上演されたアルフォンス・ドーデの3幕劇のための劇付随音楽から、ビゼー自身が編んだ組曲。オリジナルが小編成楽団用だったので、組曲化に当たって楽器編成を拡大しています。1872年11月10日に初演。

1.第1曲 前奏曲 Ouvertüre 6:50
  アレグロ、ハ短調、4分の4拍子。原曲:劇音楽第1曲「序曲」(主題はプロヴァンス民謡「3人の王の行列」)
2.第2曲 メヌエット Minuetto 3:20
  アレグロ・ジョコーソ、ハ短調、4分の3拍子。原曲:劇音楽第17曲「間奏曲」。
3.第3曲 Adagietto 2:50
  アダージョ、ヘ長調、4分の3拍子。原曲:劇音楽第19曲「メロドラマ」中間部。
4.第4曲 Carillon 4:10
  アレグレット・モデラート、ヘ長調、4分の3拍子。原曲:劇音楽第18曲「導入曲」、第19曲「メロドラマ」主部。



 5〜8.ビゼー(ギロー編):「アルルの女」組曲第2番 17:35


1879年完成。パリのヴォードヴィル劇場で1872年10月1日に上演されたアルフォンス・ドーデの3幕劇のための劇付随音楽から、ビゼーの友人エルネスト・ギロー[1837-1892]が編んだ組曲。オリジナルが小編成楽団用だったので、組曲化に当たって楽器編成を拡大。また、他の作品からも素材を使用しています。

5.第1曲 パストラール Pastorale 5:10
  アンダンテ・ソステヌート・アッサイ、イ長調、4分の4拍子。原曲:劇音楽第7曲「導入曲および合唱」

6.第2曲 間奏曲 Intermezzo 5:00
  アンダンテ・モデラート・マ・コン・モート、変ホ長調、4分の4拍子。原曲:劇音楽第15曲「導入曲」

7.第3曲 メヌエット Menuetto 3:45
  アンダンティーノ・クァジ・アレグレット、変ホ長調、4分の3拍子。原曲:歌劇「美しきパースの娘」第3幕のロスシー伯爵とキャサリンの二重唱の伴奏部分
08.第4曲 ファランドール Farandole 3:40
  アレグロ・デチーゾ、ニ短調、4分の4拍子。原曲:劇音楽第21曲「ファランドール」と合唱曲「3人の王の行列」


 9〜13.ビゼー:小組曲「子供の遊び」Op.22 12:25


1873年完成。原曲は12の小品から成るピアノ連弾曲集「子供の遊び」で、その中の5曲をオーケストレーションして組曲化。

9.第1曲 行進曲 Marche 3:10
  ハ短調、4分の4拍子。
10.第2曲 子守歌 Berceuse 3:20
  ロ長調、8分の6拍子。
11.第3曲 即興曲 Impromptu 1:00
  イ短調、4分の2拍子。
12.第4曲 二重奏曲 Duo 3:10
  変ロ長調、4分の2拍子。
13.第5曲 ギャロップ Galop 1:45
  イ長調、4分の2拍子。


 14〜17.ビゼー:「美しきパースの娘」組曲 11:50


1866年完成。スコットランドの文豪、ウォルター・スコットの小説を脚色した台本に作曲したオペラからの組曲。ここでは初版に従っているため「オーバード」は含まれていません。
14.第1曲 前奏曲 3:55
  モルト・モデラート、ハ長調、4分の4拍子。原曲:第1幕への前奏曲。
15.第2曲 セレナーデ 2:00
  アレグロ・モデラート、ヘ長調、4分の4拍子。原曲:第2幕のスミスのためのセレナーデ。
16.第3曲 行進曲 2:45
  アレグロ・モデラート、イ短調、4分の4拍子。原曲:第2幕冒頭の行進曲。
17.第4曲 ボヘミアンの踊り 3:10
  アンダンティーノ、ロ短調、4分の4拍子。原曲:第2幕のディヴェルティスマン。

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 Disc 2
 1.デュカス:「魔法使いの弟子」


1897年完成。序奏、スケルツォ、コーダという構成。デュカスの代表作。
ユダヤ人銀行家の子としてパリに生まれたデュカスは、独学で音楽の勉強をしたのちパリ音楽院に入学。1886年に対位法とフーガでプルミエ・プリを獲得していますが、ローマ大賞では冴えなかったため作曲家の道を諦めて、1889年にルーアンで軍務につきます。しかし軍楽隊のバンドマスターの知遇を得たことがきっかけで再び音楽への情熱を取り戻し、除隊後に作曲家、音楽評論家として活動を開始。1891年には序曲「ポリュクト」で成功を収め、1896年には交響曲ハ長調を発表。「魔法使いの弟子」はその翌年、32歳の時の作品でこれでデュカスの作曲家としての名声は決定的なものとなります。
1.Paul Dukas:Der Zauberlehrling 11:41



 2.ミヨー:バレエ音楽「世界の創造」


1923年完成。黒人の踊りを研究していたジャン・ボルラン率いるスウェーデン・バレエ団からの委嘱作。当時31歳のミヨーはアメリカでジャズに感銘を受けており、この作品にも大胆にジャズの要素が反映されています。作品のテーマは黒人から見た天地創造だということです。
2.Darius Milhaud:Die Erschaffung Der Welt 17:41
  ・序曲 0:00-
  ・創造の前の混沌 4:04-
  ・動植物の創造 5:48-
  ・男女の誕生 9:04-
  ・男女の色恋 11:22-
  ・春または充足感 15:53-



 3.エネスク:ルーマニア狂詩曲第1番


1901年完成。エネスク(エネスコ)20歳の時の作品。1881年、ルーマニア王国誕生直後のモルダヴィアに生まれたエネスクはウィーン音楽院とパリ音楽院で学び、その後は、ヴァイオリニスト、指揮者、作曲家としてパリとルーマニアを拠点に世界的に活躍。
3.George Enescu:Rumänische Rhapsodie Nr.1 Op.11-1 13:15



 4.サン=サーンス:「死の舞踏」


1874年完成。もともとは1872年に作曲された歌曲で、のちに交響詩に改作。作曲の少し前、サン=サーンスは普仏戦争に従軍し、戦争末期の1871年にはパリで凄惨な内紛事件も発生したためイギリスに避難。事態が収束するとパリに戻って作曲に打ち込み、1872年にはこの作品の原型になった歌曲「死の舞踏」を書き上げています。
4.Camille Saint-Saëns:Totentanz Op.40 7:21



 5.ファリャ:「火祭りの踊り」


「火祭りの踊り」が含まれる「恋は魔術師」は1914〜1915年作曲。もとは室内編成の劇音楽だったので、1915年から1916年にかけて大編成オーケストラ用に編曲して組曲化。「火祭りの踊り」は全曲のクライマックスとなる部分です。
5.Manuel de Falla:Feuertanz 3:43



 6〜8.ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調 24:28


1931年完成。ラヴェル晩年の傑作。ピアニストのロルフ=ディーター・アレンスは、1945年にドレスデン近郊のツィンヴァルトに誕生。ライプツィヒに学び、ピアニスト、教育者として東ドイツで活躍、ワイマール音楽院の教授、院長も務めた人物。
6.T Allegrament 8:40
  アレグラメンテ、ト長調、2分の2拍子。ソナタ形式。
7.U Adagio Assai 11:44
  アダージョ・アッサイ、ホ長調、4分の3拍子。三部形式。
8.V Presto 4:04
  プレスト、ト長調、2分の2拍子。

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 Disc 3
 1.ヴォルフ=フェラーリ:喜歌劇「スザンナの秘密」序曲


指揮者のクレメンス・クラウスは、ヴォルフ=フェラーリについて、インスピレーションの自然さと誠実さ、芸術に対する概念の純粋さ、そして彼の作品に反映された人間性が特別な賞賛に値すると語っています。
  ヴォルフ=フェラーリ[1876-1948]は、父親がドイツ人で母親がイタリア人、生まれはヴェネツィアで、ミュンヘンで美術と作曲を学び、バイエルン王国を中心に、オーストリア、スイス、イタリアでも活躍、亡くなる2年前にヴェネツィアに戻って同地で死去という人生だったので、イタリアよりもドイツの要素の方が強いようにも思えます。
  しかし旋律は陽気で美しく親しみやすいものでまさにイタリア的。第1次大戦と第2次大戦、ナチズムとファシズムにも翻弄されたヴォルフ=フェラーリですが、ここでは第1次大戦前の作品を中心に収録しています。
  ヴォルフ=フェラーリの音楽は、モーツァルトの優雅さやロッシーニの活気、R.シュトラウスのユーモアの感覚を思い出させる見事なもので、多くの作品が成功したことも頷けます。

喜歌劇「スザンナの秘密」は1909年に完成。ミュンヘンでドイツ語で初演。インテルメッツォと呼ばれる短い1幕ものタイプのオペラです。

【あらすじ】
隠れ愛煙家スザンナと結婚したジル伯爵が、妻の寝室からタバコの匂いがすることから浮気を疑って嫉妬に狂い、あの手この手で浮気現場を押さえようとするドタバタ物語。
1.Ouvertüre zum Intermezzo "Susannens Geheimnis" 2:53
  ヴィヴァチッシモ、ニ長調、4分の2拍子。



 2.ヴォルフ=フェラーリ:歌劇「マドンナの宝石」〜ナポリ人の踊り


歌劇「マドンナの宝石」は1911年に完成。ベルリンでドイツ語で初演。

【あらすじ】
ナポリの鍛冶屋ジェンナーロは血の繋がらない妹のマリエラのことが好きでした。マリエラの方は、街で出会った犯罪結社「カモッラ」のラファエレが、冗談めかして彼女のために聖母像の宝石を盗んでくると言ったことが忘れられず、家を出てラファエレのところに行こうとします。それを遮るジェンナーロに対し、マリエラは聖母像の宝石を盗んでくれれば言う通りにすると告げると、ジェンナーロは実際に盗んで来たので、マリエラはジェンナーロに身を任せます。しかしマリエラはラファエレが忘れられず、宝石を持ってカモッラのたまり場に到着。そこでジェンナーロとのことを話してしまったためラファエレは激怒してマリエラを突き飛ばし、転がり落ちた聖母像の宝石を見た迷信深いラファエレが彼女を呪ったため、マリエラは海に身を投げ、残されたジェンナーロはナイフで自殺するという話。
2.Neapolitanischer Tanz aus der Oper "Der Schmuck der Madonna" 4:05
  「ナポリ人の踊り」は第3幕で登場する曲。南イタリアの太陽の下での情熱的な愛を表現。


 3.ヴォルフ=フェラーリ:喜歌劇「4人のがさつ者」〜間奏曲


喜歌劇「4人のがさつ者」は1906年に完成。ミュンヘンでドイツ語で初演。イタリア語版初演は1914年にミラノのテアトロ・リリコでパニッツァが指揮。

「4人の田舎者」と訳されることが多いですが、イタリア語版はタイトルも歌詞もヴェネツィア方言で書かれており、「rusteghi」はヴェネツィア方言では「無作法で粗野でがさつな男たち」といった意味合いです。また、世界初演に用いられたドイツ語版の「Grobiane」も「粗野でがさつな人」を意味しているので、ここでは「4人のがさつ者」としておきます。

ストーリーは18世紀ヴェネツィアに暮らすブルジョワ家庭の4人の父親のがさつな頑固さを揶揄するもので、創作の背景には、革新的な内容で人気を得ていた劇作家カルロ・ゴルドーニ[1707-1793]を潰そうとするがさつで頑固な保守勢力の存在があります。実際にゴルドーニはこの喜劇を初演した翌1761年にはフランスに移住して32年間に渡って滞在し、同地で亡くなっています。

【あらすじ】
4人の粗野でがさつな夫たちが、妻や子供たちに昔ながらのしきたりを守らせようと奮闘するものの失敗。女性たちは、若い娘のルシエータが、結婚の前にフィリペートに会うことを許可することで、夫たちに教訓を与えることにしました。
3.Intermezzo aus der Oper "Die vier Grobiane" 3:43



 4〜6.ヴォルフ=フェラーリ:喜歌劇「イル・カンピエッロ」〜前奏曲、リトルネロ、間奏曲 9:39


喜歌劇「イル・カンピエッロ」は1936年に完成。スカラ座でイタリア語で初演。

ゴルドーニの喜劇が原作。全3幕。カンピエッロは町の小さな広場といった意味合いで、その広場を中心に、近隣に暮らす独身男性3人と独身女性3人、そして保護者4人の計10人によって繰り広げられるドタバタコメディ。惚れたり騒いだり踊ったり喧嘩したりいろいろありますが、最後は独身男女が結ばれてメデタシというストーリー。
  娘と暮らす母親2人をテノールに歌わせて喧嘩もさせるなど面白い工夫もなされています。登場人物と声域は以下の通りです。

【独身男性たち】
アストルフィ:女好きで浪費家のナポリ人(バリトン)
アンゾレート:小間物屋(バス)
ゾルゼート:母と暮らす少年(テノール)

【独身女性たち】
ガスパリーナ:コミカルな若い女性(叔父と生活。アストルフィに好意)(ソプラノ)
ルシエータ:若い美女(母と生活。小間物屋アンゾレートに好意)(ソプラノ)
グネーゼ:若い女性(母と生活。少年ゾルゼートに好意)(ソプラノ)

【保護者たち】
ファブリーツィオ:姪のガスパリーナと暮らす本好きのナポリ人(バリトン)
ドナ・カーテ:娘のルシエータと暮らす母(テノール)
ドナ・パスクワ:娘のグネーゼと暮らす母(テノール)
オルソラ:息子のゾルゼート少年と暮らす母(メゾソプラノ)

4.Vorspiel 3:35

5.Ritornello 2:20

6.Intermezzo 3:45

非常に美しい前奏曲には、最後のアリア「さようなら愛しのヴェネツィア」が登場。この前奏曲は人気があってこれまでに多くの録音もありますが、レーグナーの旋律の歌わせ方は最も耽美的なものです。リトルネッロと間奏曲でもレーグナーの演奏には気品があります。


 7.ヴォルフ=フェラーリ:喜歌劇「せんさく好きの女たち」序曲


喜歌劇「せんさく好きの女たち」は1903年に完成。ミュンヘンでドイツ語で初演。イタリア語版初演は1912年にメトでトスカニーニが指揮。イタリアでの初演は1913年にスカラ座でセラフィンが指揮。

ゴルドーニの喜劇が原作。ヴォルフ=フェラーリの出世作。

【あらすじ】
18世紀のヴェネツィアを舞台に、秘密の紳士クラブに出入りする夫や父親の行動を不審に思った妻や娘が織りなすコメディ。
7.Ouvertüre zur Oper "Die neugierigen Frauen" 7:20



 8〜11.ヴォルフ=フェラーリ:弦楽合奏のためのセレナーデ 22:48


「弦楽合奏のためのセレナーデ」はミュンヘン王立音楽院在学中の1893年に、作曲科教授ヨーゼフ・ラインベルガーの要請で完成した親しみやすい作品。
  ベルリン放送交響楽団の楽員によって設立されたばかりの「ベルリン室内管弦楽団」の非常に美しい演奏が味わえます。
8.T Allegro 6:39

9.U Andante 7:08

10.V Scherzo.Presto 2:56

11.W Finale.Presto 6:05


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 Disc 4
 1〜5.ヤナーチェク:シンフォニエッタ 24:10


1926年3月に書き始め4月1日に完成。もともとはチェコスロヴァキアの「ソコル(体育協会)」から第8回全国大会の開会式で演奏するための音楽とし委嘱された作品(ヤナーチェクは参事会員)。
  しかし、ヤナーチェクは途中から「軍隊シンフォニエッタ」という名前に変更、各楽章には、「ファンファーレ」、「城塞」、「修道院」、「街路」、「市庁」という古都ブルノに関わる標題もつけられたりもしていました。その理由としてヤナーチェクは、「今日の自由なチェコ人たちを表現したかった。彼らの精神の美と歓喜を、また、戦いを通じて勝利をかちとる彼らの力と勇気を…」といったことを述べてもいましたが、最終的には曲名は「シンフォニエッタ」となり、各楽章の標題も外され、ターリヒ指揮チェコ・フィルによって6月26日に初演されています。
  楽器編成は、フルート4(第4はピッコロ持替)、オーボエ2 (第2はイングリッシュ・ホルン持替)、クラリネット3、バス・クラリネット、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン4、テューバ、ティンパニ、シンバル、ベル、ハープ、弦5部のオーケストラの背後に、トランペット9、テノール・テューバ2、バス・トランペット2という金管部隊が置かれ、両端楽章で演奏します。
  レーグナーの指揮は情報量の多いものでまさに交響的。ファンファーレだけがこの曲の魅力ではないことを証明しています。
1.T Allegretto - Allegro - Maestoso 2:35

2.U Andante - Allegretto - Maestoso 5:45

3.V Moderato - Prestissimo 5:10

4.W Allegretto - Andante - Presto 3:00

5.X Andante con moto - Allegretto - Allegro - Maestoso 7:40



 6〜8.ヤナーチェク:タラス・ブーリバ 24:30


1915年に作曲が開始され1918年に完成。ヤナーチェクはこの作品を書いた理由として、ポーランド軍によって火刑に処せられたタラス・ブーリバの叫んだ「この世では炎も拷問も強靭なロシア国民を倒すことはできない」という最期の言葉を挙げています。
  作曲時期の1915〜1918年はロシアは内戦中、1915年にはロシア帝国が「チェコスロヴァキア軍団」を設立支援し、第1次大戦後のチェコスロヴァキア独立・建国に貢献していました。
  ヤナーチェクが読んだニコライ・ゴーゴリの小説でのタラス・ブーリバは、17世紀初頭のウクライナ、ザポロージェ・コサックの連隊長で、ポーランド人との戦いで勇名を馳せた人物。神学校から戻った2人の息子を軍人として育てるものの、ポーランドとの戦いの中で彼らを失い、みずからもポーランド軍によって殺されるというストーリーです。
  チェコのムソルグスキーとも言われたヤナーチェクは、チェコスロヴァキア独立支援のこともあってロシアに親近感を抱いていたようです。

6.T Andreys Tod.Moderato.quasi recitativo 9:32
  「アンドレイの死」
  タラス・ブーリバの次男アンドレイは、ポーランドの総督の娘と恋愛関係になり、ポーランド軍に参加して指揮官にまでなった次男アンドレイをタラス・ブーリバは自ら殺害。
7.U Ostaps Tod.Moderato 5:48
  「オスタップの死」。
  タラス・ブーリバが次男アンドレイを殺害した戦場に駆け付けた長男オスタップは、父と共にポーランド軍に取り囲まれ、重傷を負って気絶していた父はのちに仲間に助け出されたものの、長男オスタップはポーランド軍に連行。傷の癒えたタラス・ブーリバはワルシャワに潜入して長男の救出を試みるものの失敗、やがて開始されたコサック兵捕虜たちへの過酷な拷問と処刑により、長男オスタップも絶命。
8.V Prophezeiung und Tod Taras Bulbas.Con moto 9:15
  「予言とタラス・ブーリバの死」。
コサックとポーランドの戦いの終盤では、コサック兵12万がウクライナ国境付近で大蜂起。その効果があって正教会がとりなし、コサックとポーランドが和議を結ぶ中、ポーランドに対する憎悪の塊となっていたタラス・ブーリバは戦い続け、ポーランド全土で大暴れ。ポーランドは5個連隊を差し向けてタラスを追撃し、ドニエストル川の沿岸でタラス・ブーリバを捕らえ、その場で火あぶりに処されることが決定。高所に吊るされながらも、タラスは部下たちに言葉をかけ続け、最期に「この世では炎も拷問も強靭なロシア国民を倒すことはできない」と叫んで絶命。


 9.ラヴェル:左手の為のピアノ協奏曲


1931年完成。音楽好きの哲学者、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン[1889-1951]の兄で、第1次大戦で右腕を失ったピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタイン[1887-1961]の委嘱により書かれた作品。
  単1楽章のラプソディックな音楽ですが、全体は「レント、アレグロ、レント」の3つの部分から構成されています。左手だけでも厚みのある音に聴こえるよう配慮されたピアノ、ジャズのイディオムも導入した表情豊かなオーケストラの交錯が聴きものです。
  レーグナーの指揮するオーケストラはすべてのパートが聴こえるような明晰なもので、東ドイツの優れたピアニスト、アレンスのペダル効果もよくわかります。
9.Ravel:Konzert Für Klavier und Orchester D-Dur für die linke Hand 21:53
  レント 0:00-
  アレグロ 10:11-
  レント 15:44-


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 Disc 5
 1〜4.テオドラキス:交曲第3番 70:33


1981年完成。ギリシャ軍事政権に抗議して収監されたミキス・テオドラキス[1925-2021]が、収容所での体験も加味して書いたのがこの交響曲第3番。ここでは1982年4月29日に東ベルリンでおこなわれた世界初演のライヴ録音を聴くことができます。歌詞はギリシャ語です。

ギリシャ軍事政権への抗議

1960年代後半の政局混乱によるギリシャ共産化を危惧したCIAの支援で1967年4月にクーデターが勃発して軍事政権が成立、1968年1月にはニクソン政権が正式に承認し、以後、武器援助などの軍事支援もおこなって軍事政権の維持に協力します。

テオドラキス逮捕・収監

  その間、1967年7月にはテオドラキスが逮捕され、秘密警察本部の独房に収監、1968年1月に釈放されるものの監視付きの軟禁状態に置かれ、1969年10月にはアテネ近郊のオロポス収容所に移送。しかし公開された写真が病身だったことから、ショスタコーヴィチとバーンスタインらが釈放に向けての運動を起こしてもいました。1970年4月、テオドラキスは結核の再発により、囚人病院への入院を認められますが、移送中に、フランス急進党書記でジャーナリストのセルヴァン=シュライベルと出会い、パリに脱出することに成功します。以後、反ギリシャ軍事政権キャンペーンの顔として活動することになります。

1.1Satz "Jetzt, da uns die sternklare Nacht allein traf" 24:10
  Adagio – Presto – Andante – in stesso tempo – Andantino – Coda
「今、星降る夜が二人きりで出迎えてくれたこと」

2.2Satz "Wasser entspringt murmelnd und benetzt die Grabsteine" 15:07
  Allegro moderato – Presto – Presto
  「水がせせらぎながら湧き、墓石を濡らす」

3.3Satz "O mein süßer Frühling,mein süßestes kind" 10:40
  Adagio – Allegretto – Andante – Adagio
  ビザンチン様式のペトロスのための讃美歌。「わが麗しの春よ、わが麗しの子よ」

4.4Satz "Sie läuft umher und betritt schließlich den Glokkenturm" 20:36
  Allegro vivace – poco meno - Presto – Largo – Andante
  「彼女は歩き回り、ついに鐘楼に入る」


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 テオドラキス年表

●印がテオドラキス関連、◆印が社会関連

1925
●7月29日、ミハイル・テオドラキス、ギリシャのキオス島に誕生。

1933
●学校でビザンチンの賛美歌を歌い、両親、祖父母、叔母からギリシャ民謡を伝授。

1937
●合唱団で歌い、ヴァイオリンのレッスンと作曲も開始。

1939
●メタクサスの全国民族主義青年組織に所属。

1940
●トリポリスに転居。
◆ギリシャ・イタリア戦争勃発。

1941
●民族主義青年組織のメンバーとして、町の病院で負傷者の世話に従事。
◆ドイツ国防軍がギリシャに侵攻。これでギリシャは、イタリア、ドイツ、ブルガリアの3つの占領地域に分割。テオドラキスの住んでいたトリポリスはイタリアが占領。
◆ギリシャ共産党は国民解放戦線(EAM)を組織。
◆アテネとテッサロニキを中心にギリシャが飢餓状態となり約30万人が死亡。

1942
●最初の詩集「シアオ」をペンネーム、ディノ・マイスで出版。
●典礼用の賛美歌「カッシアニ」を作曲し、トリポリスで大成功。
●「ザカリア船長の歌」を作曲。ギリシャの海上レジスタンスの歌になります。

1943
◆ギリシャ共産党は、武装組織である国民解放軍(ELAS)とギリシャ青統一組織(EPON)を設立。
●ギリシャ独立戦争の英雄、コロコトロニスの墓前でデモに参加していたところ、イタリア軍将校を殴打したとして逮捕され拷問。
●刑務所では仲間からマルクス主義理論を指南。釈放後、ギリシャ共産党に入党。レジスタンスに参加することが自分の義務と判断。
●トリポリスのイタリア警察署長であるフェストゥッチョによって逮捕。ほどなく釈放
●アテネに転居。
●ギリシャ青年統一組織(EPON)に所属。過激派のミルト・アルティノグルーと出会います(10年後に結婚)。
●アテネ音楽院に入学。

1944
●父が内務省に就職。
●機密文書を所持していたところ逮捕。友人は目の前で拷問死したものの、テオドラキスは身分証明書に「作曲家」と書いてあったことでドイツ軍人に気に入られて釈放。
●国民解放戦線(EAM)に所属。
◆夏、ギリシャのレジスタンスは、国の4分の3を支配。
●国民解放軍(ELAS)がギリシャのドイツ空軍を武装解除し、クセナキスが所属していたグループに武器を引き渡します。
◆イギリス軍がギリシャに上陸。レジスタンスが彼らの命令に従うことを要求しますが、レジスタンスは戦前の状態に戻ることを拒否。
●イギリス軍に対する大規模なデモ発生。テオドラキスも参加。イギリス軍は非武装の群衆に向けて発砲し30人が死亡、124人が負傷。テオドラキスは死んだ同志の血にギリシャの旗を浸し、バリケードに向かって歩き、イギリス兵のライフルの銃床で殴打されて負傷。
◆レジスタンスのメンバー7,500人がイギリス軍に逮捕され、リビアの収容所に送致。
◆ゼネスト。パパンドレウ辞任。
◆国民解放軍(ELAS)は部隊をアテネに派遣。6週間の攻防。

1945
◆ギリシャ政府と国民解放戦線(EAM)は、すべてのレジスタンスを武装解除し、占領軍に協力した者を裁判にかけるという合意に署名。
◆ギリシャ政府が国軍構築を開始。しかし、君主主義者の将校と占領軍に協力した者が採用され、国民解放戦線(EAM)は除外されています。占領軍協力者の裁判も軽いものでした。

1946
●テオドラキスは、ギリシャ青年統一組織(EPON)の会議で、文化的抵抗政策に関して説明。
◆国民解放戦線(EAM)は、議会選挙のボイコットを要求しデモを実施。
●テオドラキスは「ザカリア船長の歌」を歌う群衆の先頭に立ってアテネのデモに参加。しかし、警察の大部隊によって暴行・連行され、テオドラキスも殴打されて気絶し、目覚めた時には遺体安置所に横たわっていました。友人が彼を安全な診療所に運び、そこで頭蓋骨骨折の手術を受け、2か月間入院することになります。
◆国王ゲオルギオス2世が帰国し復位。国民投票の僅かな差での過半数獲得によるものです。赤狩りが強化されます。
◆ギリシャ共産党とその同盟者は、民主軍を組織。戦後のギリシャ内戦の開始。内戦そのものは、ドイツ占領時にドイツ製兵器を装備した約1万4千人の「傀儡政府軍」が、ギリシャのレジスタンス攻撃をおこなっていたときに始まっています。彼らは戦後の裁判でも殆ど罪に問われませんでした。

1947
◆国王ゲオルギオス2世崩御。弟のパウロス1世が即位。
◆「トルーマン=ドクトリン」により共産圏国家に対する封じ込め政策が稼働したため、イギリスによるギリシャ内戦での利権独占は終わり、アメリカがより大きな力で介入して軍需利権などを獲得。
●1万人の抵抗勢力がアテネで逮捕され、テオドラキスもそこにいました。逮捕者はエーゲ海のプシタリア島に移送され、2週間後にはトルコの海岸近くの島、イカリア島に移送。ある程度自由の認められた生活だったので作曲活動もおこなえ、トルコの影響を受けた大衆歌曲レベティコにも親しんでいます。
●テミストクレスとソフーリスの連立政権が成立し、テオドラキスらは恩赦。
◆マルコス・ヴァフィアディスの指導のもと、山岳地帯に臨時民主政府が樹立。内戦が本格化。

1948
●内戦本格化直後は、捜索、暗殺、処刑が続発。テオドラキスは指名手配されていたため、岩場や建設現場で冬の夜を過ごし結核に罹患。
●回復後、メリーナ・メルクーリが主役を演じるピレウスの劇場で仕事を見つけたほか、アテネ音楽院でもピアノを弾いたり、合唱団のリハーサルをおこなったりします。
●アテネ中心部の両親を訪ねた際、数時間後に警察が訪れてテオドラキスを逮捕。同時期に逮捕された友人のパブロスは過酷な拷問によって脊椎骨を骨折させられたうえ死刑宣告。テオドラキスは後に彼を偲んで「死んだ兄弟の歌」を作曲。
●テオドラキスはイカリア島に再び送致され、そこで親友ヴァシリス・ザンノスの死を知り、また、トリポリス時代の友人であるマキス・カルリスの死も知ります。テオドラキスは交響曲1番をこの2人の犠牲者に捧げています。
◆イカリア島に送致され、「悔恨の宣言」に署名せず、兵役を終えていない者は、マクロニソス島の共産主義者のための「再教育センター」に移送。

1949
●「再教育センター」に移送。収容者は3万人で多くの人が拷問・処刑。3月25日のギリシャ独立戦争の記念日にはザクセン生まれの元ヒトラー・ユーゲントで親ナチ的発言の多いフリデリキ王妃が訪問。
●政府軍に入隊するために必要なギリシャ政府への忠誠宣言に署名するよう促されるものの拒否し、10時間にわたって拷問、顎を脱臼させられ、右足を折られています。
●アテネの第401陸軍病院に移送され、病院でも殴打されますが、2か月後に退院。
●再びマクロニソス島に送致。「再教育センター」での生活が再開し、生き埋めにされて殺されかけたほか、拷問で意識を失い放置されたこともありました。
●父ヨルゴスの尽力で、テオドラキスは病人としてクレタ島に移送。しかしここでも足の裏を執拗に攻撃される「ファランガ」という拷問を受けます。
◆ギリシャ内戦が終結。アメリカとイギリスが支援したギリシャ政府軍の勝利。

1950
●アテネ音楽院を首席で卒業。
●「アシゴニアの饗宴」初演。
●兵役のため音楽家仲間と一緒にアレクサンドルポリスに移送。
●2週間後、過去の罪状を知った上官が、テオドラキスを丸刈りにさせて独房入りを命じ、さらにマクロニソス島に送致すると脅迫。
●自暴自棄になったテオドラキスは、火薬を食べて自殺を図り、テッサロニキの病院に移送されて精神科病棟に収容。病棟では患者への暴力が常態化していましたが、父ヨルゴスにより救出されて兵役に復帰。アテネからクレタ島に移され、そこで補給所を担当。

1951
●統一民主左翼(EDA)結成。

1952
●兵役終了。陸軍を除隊後もしばらくはクレタ島に滞在。
●アテネで「アヴギ」の音楽評論家として活動を開始。また、バレエ音楽「オルフェウスとエウリュディケ」「ギリシャの謝肉祭」を作曲。
◆陸軍元帥のアレクサンドロス・パパゴス、首相に任命。
◆ギリシャ、NATOに加盟。

1953
●ギリシャ映画「はだしの大隊」と「エヴァ」の音楽を作曲。
●18,000ドラクマを貯め、医学研究を終えたミルト・アルティノグルーと結婚。テオドラキスは彼女の最初の患者になります。10年間に及ぶ収容所を出たり入ったりの拷問・虐待生活の影響は甚大で、収容所での滞在を思い出しただけで麻痺が始まり、病床に伏すこともしばしばという状態が数年間続きます。

1954
●1953年に受け取った奨学金でパリに留学。パリ音楽院で音楽分析をオリヴィエ・メシアンに、指揮をウジェーヌ・ビゴーに師事。妻のミルトもパリに滞在し、放射線科医としてキュリー研究所で研究。

1955
◆パパゴス首相の死去に伴い、国王パウロス1世はカラマンリスを首相に任命。パパゴスの左派弾圧は凄まじかったので、それに較べればカラマンリス政権の8年間は平穏に見えましたが、相変わらず収容所と刑務所は政治犯だらけでした。

1956
●イギリス映画、パウエル&プレスバーガーの「クレタ島の夜」の音楽を作曲。初の外国映画の依頼で、テオドラキスはドイツ車オペルを購入。

1957
●ピアノとオーケストラのための組曲第1番を作曲。テオドラキスはモスクワ青年音楽祭のギリシャ代表団のメンバーで、この作品によりモスクワでで金メダルを獲得。
> ●アテネ音楽院での恩師、フィロクティデス・イコノミディス[1889-1957]死去。テオドラキスは「オイディプスのティラノス」を師に献呈。

1958
●ピアノ協奏曲、組曲第2番と第3番、ヴァイオリンとピアノのためのソナティナ、「おお、キクロス」を作曲。
●ロンドンのコヴェントガーデンから「アンティゴネ」、パリのリュドミラ・チェリーナから「テルエルの恋人たち」と「火薬の火」という計3つのバレエ音楽が委嘱。

1962
●テオドラキスの結核が発症。ロンドンで2か月、アテネ近くの療養所でさらに2か月療養。退院後、30人編成のアテネ・リトル・シンフォニー・オーケストラを結成。

1963
●平和運動のためのマラソン行進が当局により禁じられ、テオドラキスら数千人の参加者が逮捕。民主左翼同盟党首のグリゴリス・ランブラキスは議員特権に守られて、ひとりで最後まで歩き通します。
●テッサロニカでの平和の集いの後、ランブラキスが、サイドカーに乗った右派の男により棍棒で殴られ、脳挫傷により5日後に死去。その場にいた統一民主左翼(EDA)副代表のツァルーカスも殴られて頭蓋骨を骨折。
●50万人がアテネのランブラキスの墓参りに参列。「ランブラキスは生きている!」と絶叫。ランブラキス暗殺にカラマンリス政権が関わっていることは誰の目にも明白でした。
●日刊紙『アティナイキ』にテオドラキスによる記事「暗殺者が犠牲者の血で溺死するのは法律で決まっていることだ。この犯罪の背後にいて、我々国民の血を飲んでいるマフィアは致命的なミスを犯した。ランブラキスを犠牲者に選んだことで、彼らは裁判官と復讐者を選んでしまったのだ。1人のランブラキスは、彼ら全員を墓場へ送るに十分すぎるほどの存在だ。ランブラキスは失われたが、何千ものランブラキデスは、彼の記憶を照らす何千もの太陽を勝ち取り、彼を生かし続けるだろう。」
●記事掲載の翌日、カラマンリス首相が辞任し、パリに亡命。
●ギリシャの科学者、芸術家、労働者、学生、ジャーナリストが20人集まり、「ランブラキス青年団(ランブラキデス)を設立。テオドラキスは代表に選出。

1964
◆G.パパンドレウ、首相に就任。
◆パウロス1世崩御。息子のコンスタンティノス2世が即位。
●テオドラキスが議会選挙でピレウスで当選。
●カコヤニス監督の映画「その男ゾルバ」の音楽を作曲。
●オラトリオ「アクシオン エスティ」初演。

1965
◆国王コンスタンティノス2世が、国防省の統制をめぐりパパンドレウ首相と対立、解任。これにより大規模なデモが発生。
◆ランブラキス青年団は木を植え、教会を修復し、文化施設や図書館を開き、コンサートを開催。

1966
●国王コンスタンティノス2世が新年の挨拶で、共産主義者が政治的扇動に責任があると述べた結果、テオドラキスの音楽がギリシャで放送禁止となります。
◆何千人ものギリシャ人と外国人が、ランブラキス暗殺の3周年に、マラトンからアテネまでの平和行進に参加。
◆国王と政府の行動に対する反議会デモが多発。結局、国王は野党の圧力に屈し、1967年5月28日に議会選挙を行うことを約束。

1967
◆4月21日、パパドプロス大佐らによる軍事クーデター勃発。軍事政権の権力掌握は、NATOのプロメテウス計画に従って実施。CIAが支援。
◆戒厳令。何千人もの人々が逮捕。
●陸軍命令第13号によりテオドラキスの音楽と歌を複製または演奏することを禁止。東ドイツのパウル・デッサウは、テオドラキスに敬意を表してこの文書をもとに、ナレーター、混声合唱団、および9つの楽器のための音楽として作曲。
●逮捕。治安警察本部に連行され収監。
●ハンガーストライキ10日目で意識を失い、アヴェロフ刑務所病院に移送。
◆国王コンスタンティノス2世がクーデターを起こそうとするものの失敗し、ローマに逃亡。
◆パパドプロス大佐が首相に就任。
●首相は100人の囚人に恩赦を与え、テオドラキスも含まれていたもののすぐには釈放されません。

1968
◆ニクソン政権がギリシャ軍事政権を正式に承認。
●釈放。ただし生活は治安警察の監視下に置かれます。
●テオドラキスと家族は治安警察によってアルカディアの山村ザートゥナに移送。
◆G.パパンドレウ元首相の葬儀で50万人が反政府デモ。
●ギリシャ共産党が、主流派である国外派(ソ連派)と、国内派(欧州共産主義派)に分裂。テオドラキスは国内派を選択したため、東ドイツでは作品が演奏禁止となります。

1969
●オロポス刑務所に移送。
●ショスタコーヴィチとバーンスタインが連帯運動を開始。

1970
●スカンジナビア議会の代表団が、テオドラキスの医療援助を目的としてデンマークの肺専門医と共にギリシャに行きますが、アテネ空港で足止め。
●結核が再発したため、ソティラ刑務所病院に移送が決定。
●フランス急進党書記でジャーナリストのジャン=ジャック・セルヴァン=シュライベルが移送中のテオドラキスと出会い、パリのル・ブルジェ空港まで同行。家族は翌月にパリに到着。
●ワールド・ツアーを開始。テオドラキスのコンサートはパパドプロス大佐に対する「宣戦布告」のような意味合いもあり、軍事政権へのレジスタンスの象徴となります。
●南米チリで、サルバドール・アジェンデ大統領と会い、同国の詩人パブロ・ネルーダの「カント・ヘネラル」に基づいた作品のプロジェクトを思いつきます。

1971
●レジスタンスEAS国民評議会を設立。デュッセルドルフで最初の会議を開催。

1972
●ギリシャ共産党(国内派)を離党。
●コンサートツアー開催。

1973
●コンサートツアー開催。
◆パパドプロス首相、国民投票によって君主制を廃止。
◆パパドプロス、ギリシャ共和国の大統領に就任。
◆チリで軍事クーデター勃発。爆撃と砲撃の中、アジェンデ大統領が自殺。CIAとニクソン政権の支援により、ピノチェト将軍の独裁が開始。
◆チリの軍事クーデターの2週間後、詩人パブロ・ネルーダが退院から数時間後に死去。退院直前に注射されていました。
◆パパドプロス大統領により戒厳令。
◆イオアニデス軍事治安警察(ESA)長官らによるクーデター勃発。パパドプロスが失脚し、ギジキス将軍が臨時大統領に就任。

1974
◆ギリシャ軍事政権はキプロス島でギリシャ系民兵に暴動を起こさせ、大統領のマカリオス3世を暗殺しようとしますが失敗。
◆キプロス島の暴動により、トルコ軍がトルコ系住民保護の名目でキプロス北部に出兵。
◆ギジキス将軍が民政への移行を決定。フランスに亡命していたカラマンリスを呼び戻し首相に指名。

1974
●ギリシャに帰還、アテネで英雄としての歓迎。ギリシャで7年ぶりとなるコンサートも開催。
◆ギリシャ国民投票によりNATO脱退。

1975
●ギリシャでコンサート・ツアーを開始。
◆1967年のクーデター首謀者に対する裁判により軍事政権幹部は死刑を宣告。

1977
●ヨーロッパ・ツアー。
●欧州社会主義に賛同し、クレタ島でシンポジウム「社会主義と文化」を開催。オラトリオ「アクシオン・エスティ」を指揮。
●アテネのリカベトスの丘で「テオドラキス・フェスティヴァル」が開催。1960年から1977年までのテオドラキスの全作品を演奏。

1978
●アテネの市議選にギリシャ共産党の無所属候補として出馬。得票率は16%。

1979
●テオドラキスの人気オラトリオ「アクシオン・エスティ」のテキストの作者、オデュッセウス・エリティスがノーベル文学賞を受賞。これを記念し、テオドラキスは「アクシオン・エスティ」のツアーを実施。

1980
◆ギリシャ、NATOに再加盟。
◆フランス共産党との連帯宣言を発表。欧州社会主義との関係を終わらせます。
◆カラマンリスが共和国大統領に選出。
◆ギリシャ国内での中傷キャンペーンに激怒し、パリに移住。

1981
◆ギリシャは、欧州共同体(EC)に加盟。
●ネルーダの詩によるオラトリオ「カント・ヘネラル」と、交響曲第2番、第3番を完成。
●東ベルリンで「カント・ヘネラル」全曲初演。
●「カント・ヘネラル」をメインにツアー開催。
●フランソワ・ミッテランが大統領就任式に、テオドラキスを招待。
●「カント・ヘネラル」がキューバとニカラグアで何千人もの歌手と共に上演。
●全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が選挙に勝利。メリナ・メルクーリとテオドラキスが選出。メルクーリは文化大臣に就任。

1982
●東ベルリンの共和国宮殿で、ピアノ協奏曲と交響曲第2番を初演。シプリアン・カツァリス独奏。
●東ベルリンのコーミシェ・オーパーで交響曲第3番を初演。
●ライプツィヒのゲヴァントハウスで「アクシオン・エスティ」ドイツ語版初演。

1983
●東ベルリンのメトロポール劇場で「サドカイ派の受難」を初演。
●レーニン平和賞を受賞。
●フレミーヒ指揮ドレスデン十字架合唱団により「典礼第2番」初演。


 レーグナー 拠点別まとめ

 ライプツィヒ 1929〜1951年(22年間) 0〜22歳

●ライプツィヒの音楽学校で、ピアノ、オルガンを勉強、合唱指揮も経験
●ライプツィヒ音楽大学で、指揮、オペラ、ピアノ、ヴィオラを勉強


1929年にライプツィヒに生まれたレーグナーは、16歳のときに祖国の第2次大戦敗戦を経験しています。ライプツィヒから約100km南東にあるドレスデンは英米の絨毯爆撃で市街地が徹底的に破壊され、ライプツィヒも市全体ではドレスデンの1.5倍以上の爆弾が投下されるという惨状でした。
  そうした過酷な環境ではありましたが、戦中から戦後にかけて、レーグナーは地元ピアノ・コンクールで優勝したり、オルガンも勉強して合唱指揮も経験、合唱指揮者でオルガニストの重鎮らとも交流しています。
  合唱指揮者でオルガニストのギュンター・ラミン[1898-1956]は、聖トーマス教会のカントルに就任して間もない戦時中、ライプツィヒ放送合唱団を解散して新設された「ライヒス・ブルックナー合唱団」の指揮者に任命されトレーニングをしますが、リンツのフローリアン修道院への移動が決まると辞任。これにより戦後も亡くなるまでトーマスカントルを続けることができました。合唱指揮とオルガンにはまっていたレーグナー少年には神のような存在だったラミンと、その師であるカール・シュトラウベ[1873-1950]とも交流することができたのは得難い経験だったと思われ、合唱音楽やブルックナー作品への関心にも繋がっていったものと考えられます。
  また、トーマス学校の学生だった同年齢のオルガニスト、ハンネス・ケストナー[1929-1993]との交流は、1980年録音の『タラス・ブーリバ』にオルガニストとして参加という形でも生かされてもいます。
  ソ連の軍政局が占領統治するレーグナーの暮らす地域では、行政の共産化が急速に進められるものの、音楽環境や教育環境には、アメリカの軍政局が占領統治する地区ほどの深刻な影響はありませんでした。
  レーグナーは18歳の時にライプツィヒ音楽大学(下の画像)に入学して、指揮とオペラ・コースを、アーベントロートの弟子であるエゴン・ベルシェ[1907-1970]に、ピアノをフーゴー・シュトイアー[1914-2004]に、ヴィオラをオットー・グッチュリヒトに師事。
  ピアノのシュトイアーは、ゲルハルト・オピッツやアンネローゼ・シュミットを指導した名教師。しかしレーグナーはジャズ・ピアノの達人となるなどかなり自由に過ごしていたようで、在学中、ライプツィヒでおこなわれた多ジャンル開催の「フォルクスビューネ・コンサート」に出演してもいました。


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 ワイマール 1951〜1954年(3年間) 22〜25歳

●ワイマール・ドイツ国民劇場 指揮者、作曲家

ライプツィヒ音楽大学を卒業すると、22歳で、アーベントロートが音楽総監督を務めるワイマール・ドイツ国民劇場(下の画像)に配属。コレペティートア(助手)として仕事を始めますが、すぐに実力を認められ、オペラ、オペレッタの指揮と、演劇部門への劇音楽の作曲などに多忙な3年間を過ごすことになります。
  オペラ部門では『椿姫』、『イーゴリ公』、『こうもり』、『密猟者』、『皇帝と船大工』、『パガニーニ』などを指揮。ミルティン作曲『トレンビータ』という珍しいソ連のオペレッタもありました。
  レーグナーは演劇部門のためにも働き、シェイクスピアの『マクベス』、ゲーテの『ファウスト』、シラーの『ヴァレンシュタイン三部作』などの音楽を作曲して舞台上演に供してもいます。
  また、レーグナーは、ワイマール・ドイツ国民劇場で、室内楽コンサートやピアノ・コンサートにも出演していました。


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 ライプツィヒ 1954〜1962年(8年間) 29〜33歳

●ライプツィヒ音楽大学 オペラ科主任と指揮科講師
●ライプツィヒ放送大管弦楽団 首席指揮者


ワイマール・ドイツ国民劇場での現場実績が買われたレーグナーは、若くして母校ライプツィヒ音楽大学に、オペラ科主任と指揮科講師として配属。4年間、教育活動にいそしみます。ちなみにライプツィヒ音楽大学(音楽院)は、アーベントロートが1933年から1945年までの12年間、指揮科教授を務めたところでもあります。


  続いて29歳のときに、ヘルベルト・ケーゲルの後任として、「ライプツィヒ放送大管弦楽団」の首席指揮者というポジションに任命。
  当時、人口約70万人のライプツィヒには、以下の3団体が目立った活躍をしていました。

  ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(コンヴィチュニー)
  ライプツィヒ放送交響楽団(ケーゲル)
  ライプツィヒ放送大管弦楽団(レーグナー)

「ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団」はコンサートとライプツィヒ市立歌劇場のオペラ、「ライプツィヒ放送交響楽団」はクラシック作品の放送とコンサート、そして「ライプツィヒ放送大管弦楽団」はクラシック作品の放送のほか放送オペラなども担当。シュプリンガーシュトラーセのフンクハウスで活動しており、「大管弦楽団」という名前はついていますが、実際にはフレキシブルで、小規模編成の演奏も多かったりします。
  レーグナーが首席指揮者就任の翌年に収録した共産主義系作曲家クルト・シュヴェーンの放送オペラ『フェッツァーの脱出』は、3年後に東ドイツの映像作品制作会社、DEFA(デーファ)でテレビ・ドラマ化された際、ウルブリヒト国家評議会議長夫人のロッテに問題視され激しく糾弾されて再放映は中止、さかのぼって元ネタになった1959年のレーグナー、シュライヤー、ライプツィヒ放送合唱団らによる放送オペラのテープも消却されていました。内容は、共産主義的なものですが、前年に「ベルリンの壁」が建設されたばかりで、脱出とそのための殺人や帰還のための赦しが簡単に描かれ過ぎているのが問題とされたのかもしれません。


  なお、「ライプツィヒ放送大管弦楽団」は、よく「ライプツィヒ放送交響楽団」と混同されていますが、まったくの別団体で、1977年に他のオケに吸収されてしまったことと、ケーゲルもレーグナーも両方のオーケストラと密接な関係があったことが混乱を招いている面もあるようです。レーグナーの後任、アドルフ・フリッツ・グール[1917-1977]は、1977年1月に急死するまで実に14年間に渡って「ライプツィヒ放送大管弦楽団」の首席指揮者を務めて放送演奏に貢献していましたが、彼の死から間もなく、オーケストラは「ライプツィヒ放送エンターテイメント管弦楽団」に吸収され、31年間の活動を終えています。Marco Poloレーベルの「ロルツィング序曲集」では、レーグナー1曲、グール3曲ですが、彼らの演奏を聴くことができます(CDにはライプツィヒ放送交響楽団と誤記)。


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 ベルリン 1962〜1993年(31年間) 33〜64歳

●ベルリン国立歌劇場 常任指揮者→音楽総監督
●ベルリン放送交響楽団 首席指揮者
●読売日本交響楽団 常任指揮者→特別客演指揮者
●ベルリン・ハンス・アイスラー音楽大学 教授



1961年8月13日の突然のベルリンの壁の出現は、社会に混乱をもたらし、クラシック業界にも大きな衝撃を与えています。ベルリン国立歌劇場の出演者や関係者には、西ドイツやオーストリアなど西側諸国から来る人も多く、また、東ドイツ人であっても、住居は西ベルリンというケースも割と一般的だったため、一晩でベルリンの壁が築かれた影響には深刻なものがありました。
  劇場に来ることが難しくなった指揮者、歌手、オーケストラ楽員、合唱団員、バレエ団員、舞台関係者はかなりの数にのぼり、東ドイツ政府は、急遽、他の歌劇場の歌手や、オーケストラの楽員、合唱団員、東ドイツの4つの音楽学校の卒業生、バレエ学校の卒業生をベルリンに集め、ベルリン国立歌劇場の上演水準を保つために懸命な努力がおこなわれます。
  ベルリン国立歌劇場は、「レパートリー・システム」で運営される劇場の為、数多い演目を、不連続で複数回に渡って上演するという運用形態になっており、経験豊富な指揮者の存在は不可欠とあって早急な人材確保が必要とされていました。
  そこで音楽総監督のコンヴィチュニーは、自身のもうひとつの重要拠点であるライプツィヒで活躍していた3人の指揮者、ハインツ・フリッケ[1927-2015](ライプツィヒ市立歌劇場)、ヘルムート・ザイデルマン[1901-1962](ライプツィヒ市立歌劇場)、ハインツ・レーグナー(ライプツィヒ放送大管弦楽団)を呼ぶことにします。
  フリッケとザイデルマンは歌劇場勤務で指揮者が複数いたためすぐに移って、12月に音楽総監督に任命されましたが、レーグナーは放送オケの首席指揮者だったのでなかなか動けず、最初に指揮できたのが1962年7月の『フィデリオ』で、コンヴィチュニーの急死の2週間前でした。その間、ザイデルマンが着任から4か月後の1962年1月17日に急死しており、劇場は、万能音楽総監督フリッケのもと(生涯オペラ・レパートリーは180)、多くの常任、客演指揮者が登場してなんとか運営されていたというのが実情のようです。
  レーグナーは1962年9月のシーズン開始から移ることができ、12月にはベンツィン文化大臣から音楽総監督に任命。当時のベルリン国立歌劇場は、1955年の再建オープンから規模が大掛かりになっていたことから、音楽総監督を複数置くことが可能とされており、下記のメンバーで東ドイツ時代を乗り切っています。

1955-1958 コンヴィチュニー/マタチッチ/シュタイン
1958-1961 コンヴィチュニー/シュタイン
1961-1962 コンヴィチュニー/フリッケ/ザイデルマン
1962-1962 コンヴィチュニー/フリッケ
1962-1964 フリッケ/レーグナー
1964-1971 スイトナー/フリッケ/レーグナー
1971-1974 フリッケ/レーグナー
1974-1990 スイトナー/フリッケ


ベルリンの壁出現直後、1961年秋からのシーズンを支えたのは音楽総監督のほか、常任指揮者と客演指揮者で、1960年シーズンから継続指揮のアペルトとハネルに加え、レーグナーと似た名前のハインツ・レットガー[1909-1977](デッサウ州立劇場)、朝比奈隆[1908-2001](大阪フィルハーモニー交響楽団)、チャールズ・マッケラス[1925-2010](イングリッシュ・ナショナル・オペラ)、ヘルムート・コッホ[1908-1975](ベルリン室内管弦楽団)、ヘルベルト・ケーゲル[1920-1990](ライプツィヒ放送交響楽団)、ハンス・アウエンミュラー[1926-1991](ノルトハルツ市立劇場)のほか、ルドルフ・ノイハウス[1914-1990](ドレスデン国立歌劇場)、ゲルハルト・プフリューガー[1907-1991](ワイマール・ドイツ国民劇場)、カール・シューベルト[1906-2006](シュターツカペレ・シュヴェリーン)、ホルスト・フェルスター[1920-1986](ハレ国立フィル)、アーセン・ナイデノフ[1899-1995](ソフィア国立歌劇場)、ゲルハルト・アウアー[1925-2002](スロヴァキア国立歌劇場)、ルドルフ・ヴァシャタ[1911-1982](スメタナ劇場[プラハ国立劇場])、ルスラン・ライチェフ[1919-2006](ソフィア国立歌劇場)、ヴィルモス・コモル[1895-1971](ハンガリー国立歌劇場)、等々、多くの東側、もしくは東側と縁のある指揮者が実務に携わっています。
  下の画像は再建されたベルリン国立歌劇場で、以前の建物とは屋根の上部などが違っています。また、右隣に見える聖ヘートヴィヒ大聖堂も爆撃で上部構造物が破壊されてシンプルになっています。ちなみに、ベームやクリュイタンス、マルケヴィチ、ケンペ、フリッチャイ、フォルスターなどと大量のレコーディングをおこなっていた聖ヘートヴィヒ大聖堂合唱団の録音が急に少なくなってしまったのもベルリンの壁が原因でした。


ベルリンの壁の影響は、ベルリン放送交響楽団にも及び、一夜にして楽員の3分の1がいなくなるという事態に陥っています。政府はオーケストラを解散しようとしますが、首席指揮者ロルフ・クライネルト[1911-1975]と、作曲家で東ドイツ国歌も書いたハンス・アイスラー[1898-1962]が一緒になって交渉して危機を回避、すぐに楽員を集めて再建を果たすことに成功しています。そのクライネルトが11年後の1972年に病に倒れて指揮ができなくなったため、後任として指名されたのがレーグナーでした。
  レーグナーはすでにオペラでもコンサートでも立派な実績がありましたが、シンフォニー・オーケストラを指揮して、幅広いレパートリーを放送やコンサートで聴かせる仕事は魅力的だったようで、通算20年間も務めあげています。
  その間、ドイツ・シャルプラッテンなどと多くのレコーディングもおこない、ドイツ・オーストリア物からフランス物、ロシア物など、個性的なアルバムを多数制作していました。
  ちなみにレーグナーは、クライネルトが倒れて間もない時期に、アイスラーの組曲第2・3・4番と小交響曲をドイツ・シャルプラッテンに録音しています。アイスラー没後10周年記念録音なのか、クライネルトの代役としての録音なのか判然としませんが、上述のオーケストラ救済の件を考えると意義深いことにも思えます。


  着任5年目の1978年には初の来日も果たし、読売日本交響楽団を指揮してベートーヴェンの第9を5回演奏。その5年後には読売日本交響楽団常任指揮者に就任し、多くのコンサートを指揮、「ベルリンの壁」崩壊のゴタゴタで退任はしましたが、すぐに「特別客演指揮者」に任命されて、亡くなる前年まで来日公演を継続。
  また、この時期のレーグナーは、故郷のライプツィヒ放送交響楽団にもよく客演してもいました。
  その他、ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学から教授の称号を送られていますが、それは長年に渡って同校で開催したマスターコースへの返礼でした。


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 ライプツィヒ 1993〜2001年(8年間) 64〜72歳

●読売日本交響楽団 特別客演指揮者

レーグナーの華々しいベルリン時代は、ベルリンの壁がきっかけで始まり、ドイツ統一の影響で終焉を迎えていました。
  所在地が「(元)東ドイツ地域」のオーケストラやオペラは、ドイツ統一から数年以内に「西側」の指揮者を迎えるケースがほとんどで、インド、スペイン、フランス、イタリア、アルゼンチン、デンマーク、そして(元)西ドイツなどさまざまな「西側」の指揮者たちが、「(元)東ドイツ地域」に職を得ています。
  これは、ドイツ統一の時点で、有名オーケストラやオペラの指揮者、監督など「東ドイツの要職」に就いていた人は、数年のあいだは一律で「体制側」と見做されてしまったことによるもので、クルト・マズアが例外扱いだったのは、「民主化デモ」に協力することで、「非・体制側」をアピールすることができたからでした。
  加えて、東ドイツが西ドイツに吸収されたことで、放送局網の大規模な再編や、市場経済の導入も実施され、オーケストラやオペラの運営組織も大きく変化したことで、レーグナーが招聘される機会も少なくなっていたようです。
  たとえば「ライプツィヒ放送交響楽団」は、「MDR交響楽団」に変わり、首席指揮者はインドのナザレス、「ベルリン放送交響楽団」は名前は変わらなかったものの、新たに設立された公共放送「ドイチュラントラジオ」と「ドイツ政府」が資金の75%を拠出して運営、首席指揮者にはスペインのフリューベック・デ・ブルゴスが就任するなど、何よりもわかりやすい「見た目の変化」が求められていました。
  こうした背景もあって、読売日本交響楽団の特別客演指揮者というポジションは、レ−グナーにとって非常に重要なものだったと思われ、亡くなる前年の来日公演で見ることのできた指揮姿も元気なものでした。
  また、ベルリン放送交響楽団への客演も少ないとはいえありましたし、脳出血による急死の5か月後にはシベリウスの2番と6番の客演コンサートも予定されていたということなので、まだまだ現役の状態での死だったことが残念でなりません。


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年表
1929年(0歳)

●1月16日、ハインツ・レーグナー、ライプツィヒに誕生。父はエルンスト・レグナー、母はヘルタ・レーグナー(旧姓:シュリーベン)。
◆9月3日、アメリカ、しばらく「買い」が蓄積して上昇を続けていたダウ工業株の平均が最高値381.17を記録。ほどなく利益確定のための「売り」が集中して1か月に渡って下がり続けて17%下落。その時点で底値と判断した「買い」が入って下落分の半分ほどまで上昇したもののそこで利益確定の「売り」が大きく入り、再び株価は下落。
◆10月24日、ウォール街株価大暴落。シカゴ市場、バッファローの市場は閉鎖。やがて損失確定組は、善後策として、各国への投資や預金などの資金を回収、結果的に、銀行や企業の相次ぐ破綻へと繋がって行きます。
◆ドイツの失業者数約200万人。

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 1930年(0〜1歳)

◆9月、ドイツの国会選挙で、社民党が143議席を獲得して第1党、ナチ党が102議席で第2党、ついで共産党が77議席を獲得。
◆ドイツの失業者数約400万人。

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 1931年(1〜2歳)

◆6月、プロペラ推進の実験用鉄道車両「シーネンツェッペリン」が時速230kmを記録。


◆「世界大恐慌」の影響で経済が疲弊していたドイツとオーストリアが2国間の関税同盟を結んで、少しでも経済を活性化しようとしたことに対し、フランス政府は反発、国際連盟や国際司法裁判所に提訴、両国の関税同盟成立を阻止。結果的にドイツによるオーストリア併合への期待をオーストリア国民にもたせることになります。

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 1932年(2〜3歳)

◆2月、ヒトラーがドイツに帰化。市民権を取得。
◆7月、「アルトナの血の日曜日」事件発生。労働者の多く住むアルトナ地区に、1万人を超える突撃隊(ナチ党員)が武装警官隊と共に侵入、アルトナ地区の住民は共産党員を中心に応戦するものの16名が殺害(ナチ側は1名)、全体で数百名が負傷。
◆7月、ドイツの国会選挙で、ナチ党が230議席を獲得して第1党に躍進。第2党は社民党で133議席、ついで共産党が89議席獲得。
◆11月、ドイツの国会選挙で、ナチ党が34議席を失って196議席を獲得。第2党社民党は12議席失って121議席、共産党は11議席増やして100議席獲得。
◆ドイツの失業者数約600万人。

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 1933年(3〜4歳)

◆1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命。「ドイツ国(Deutsches Reich)」の体制は、14年間続いた「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)から「国家社会主義ドイツ労働者党独裁体制」(通称:ナチス・ドイツ)に移行(1945年まで)。
◆2月20日、 ヒトラーとゲーリングがドイツ経済界首脳陣と会合、大恐慌で経済の悪化する中、300万ライヒスマルクの政治献金を獲得。
◆2月27日、ベルリンの国会議事堂が放火され炎上。これを受けて、「国民と国家の保護のための大統領令」と「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」が発令され、犯人がオランダ共産党員だったことから、ドイツ共産党・社会民主党も活動禁止措置。
◆3月5日、ドイツ総選挙でナチ党が43.9%を獲得。
◆3月、ドイツの国民啓蒙・宣伝省大臣にヨーゼフ・ゲッベルスが就任。プロパガンダのほか、新聞・雑誌・放送・音楽・映画・演劇・文学・絵画・観光・旅行などの「管理・検閲」を実施。当初の予算は1,400万ライヒスマルクでしたが、1944年には13倍以上の1億8700万ライヒスマルクにまで規模を拡大、下部組織に「帝国文化院」も設置して各分野への統制をおこなっていました。
◆3月23日、ドイツで全権委任法が成立。
◆3月、オーストリア、キリスト教社会党のドルフース首相が、警察を動員して議会を閉鎖。緊急令により独裁的な運営を開始。
◆4月7日、世界恐慌の影響で約600万人に急増していた失業者の就業対策の目玉として「職業官吏再建法」が施行。公務員から非アーリア人を追放する法律で、ドイツの全公務員、および新政権により新たに「国有化」された膨大な数の企業・団体の職員が対象。同時に国外に出るユダヤ人の財産を奪って国庫に収める政策も実施され、公共事業財源などに利用されます。
◆4月19日、ナチ党、新規の入党希望者の制限を開始。1月末の内閣成立、3月の総選挙という人気過熱イベントを経て、4月7日には、失業対策の目玉ともいわれる「職業官吏再建法」が施行され、爆発的な数の失業者が、求職目的、あるいは待遇向上目的で入党手続きに殺到したため、新規の入党希望者の制限を実施。以後、1939年5月10日に新規入党制限が完全に撤廃されるまでの6年間は、再入党や縁故のほか、数回の例外期間を除いて新規入党を基本的に受け付けませんでした。
◆5月10日、ドイツ学生協会の主宰で、大規模な「焚書」が実施。以後、6月末までに大量の「非ドイツ的」な書物を焼却。ドイツの34の大学都市で、学生たちによって実施された「非ドイツ的精神への抵抗」は成功し、新聞や放送を通じて全ドイツ国民に向けて成果を報道。なお、ナチは、教員・役人・劇場人などの公務員のほか、学生など若年層に特に人気がありました。
◆5月26日、ドイツで共産主義者の財産没収に関する法律が成立。
◆5月26日、ドルフース政権、オーストリア共産党を非合法政党と認定し活動禁止措置。
◆6月19日、ドルフース政権、オーストリア・ナチ党を非合法政党と認定し活動禁止措置。これによりオーストリア・ファシズム政権による独裁体制が確立し、ローマ・カトリックを国教として認定。
◆6〜7月、ドイツで社会民主党活動禁止措置。続いてドイツ国家人民党・ドイツ国家党・中央党・バイエルン人民党・ドイツ人民党が自主解散。
◆7月14日、ドイツで政党新設禁止法が成立。
◆11月、ドイツ国会選挙。ナチ党への反対票(と無効票)が3,398,249票(7.89%)で、賛成票が39,655,224票(92.11%)と賛成が圧倒的多数でした。投票率も非常に高く95.3%の有権者が選挙に参加。

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 1934年(4〜5歳)

●レーグナー、ピアノのレッスンを開始。
◆隣国オーストリアの実質賃金は1929年に較べて44%も減少、失業率も1928年の8.3%に対し、1934年は38.5%と凄まじい景気の悪化ぶりで、政治・社会も大きく混乱。

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 1935年(5〜6歳)

◆3月、ドイツ、再軍備宣言と共に徴兵制も復活。

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 1936年(6〜7歳)

◆ドイツ経済が大恐慌前の水準に回復。
◆2月、仏ソ相互援助条約を締結。ヒトラーはロカルノ条約違反と批判し、自衛のためという理由で、翌月、国境沿いの非武装地帯に軍を進めます。
◆3月、ドイツ軍、ラインラントへ進駐。
◆12月、ヒトラーユーゲント義務化法が成立。10歳から18歳の健康な「ドイツ人全員」を対象としたもので、違反者には罰金刑や拘禁処置が適用。ちなみに1936年に約440万人だったヒトラーユーゲント構成員は、1937年に約580万人、1938年に約700万人、1939年には約810万人に達するという増え方で、1939年当時の対象者人口は約887万人だったので、その時点での加入率は実に91%と非常に高いものとなっています。ヒトラーユーゲントは健康志向で、ヒトラーが熱中した禁煙運動、アルコールやカフェイン飲料の禁止(節減)、菜食、ワンダーフォーゲルなど自然回帰に関する運動が推進されました。

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 1937年(7〜8歳)

◆ゲッベルスにより「批評禁止令」布告。

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 1938年(8〜9歳)

◆3月、ドイツ、オーストリアを併合。当時のドイツは失業率が劇的に改善し、国民の貯蓄額も急伸、公債も大規模に運営されて景気も過熱気味となる一方、アメリカなどへの莫大な負債も抱える債務国でもありました。オーストリア併合の理由も、国境線拡大に加え、オーストリアの保有していた金資産や外貨、鉱物資源、そして何よりもユダヤ人の財産などが目当てだったとされています。実際、ドイツが手にしたオーストリアの金・外貨・財産は14億ライヒスマルクに達し、これはドイツのライヒスバンクの資産7,600万ライヒスマルクの実に18倍以上という凄いものでした。
  しかし、景気回復の途上だった人口約650万人のオーストリアの一般市民の生活水準はまだ満足な状態には無く、約60万人も失業者がおり、自国経済の改善に期待する市民の思いは、併合に関して4月10日に行われた国民投票の結果にも反映、賛成99.75%という数字にも表れていました。
  併合後は、1925年に「クローネ」から変更されたばかりのオーストリア通貨「シリング」を廃止してライヒスマルクを導入。ライヒスバンクは当初、オーストリア経済の実態に即して「2シリング=1ライヒスマルク」という交換レートを想定していたものの、市民感情にも配慮し、「1.5シリング=1ライヒスマルク」という交換レートを設定、民間組織の国有化など経済再建を進めます。
◆11月7日、パリでユダヤ人によるドイツ外交官暗殺事件発生。
◆11月9日、「水晶の夜」事件発生。ドイツ各地でユダヤ人への一連の弾圧行為へと発展。

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 1939年(9〜10歳)

◆2月17日、ユダヤ人に対し貴金属拠出令。
◆9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。第2次大戦開戦。
◆9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。
◆9月17日、ソ連がポーランドに侵攻。

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 1940年(10〜11歳)

◆4月9日、午前4時、ドイツ軍が不可侵条約を破ってデンマークに侵攻。国王は午前6時に降伏を決定。占領統治は3年後の1943年8月に開始されます。
◆5月11日、チャーチルがイギリスの首相に就任。市街地空爆など民間人攻撃を強力に推進し、ドイツの民間人約41万人を殺害、500万人分以上の住居を破壊しています。
◆5月11〜12日、イギリス空軍、ドイツ西部のメンヒェングラートバッハ空爆。両国の間での最初の空爆はイギリス側が実施。
◆6月、フランス、ドイツと46日間戦ったのち休戦協定を締結。大枠で見るとフランス北部がドイツの占領統治、南部が「ヴィシー政権」による統治で、例外が長年の係争地であるエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)地方となります。
  同地方はドイツに割譲という形になったため、1938年に併合したオーストリアと同様、ドイツ政府による統治とし、他のドイツ・オーストリア地域と同じく「大管区」に組み込まれ、徴兵なども実施されることとなります(エルザス=ロートリンゲン地域からの徴兵数は約10万人)。
◆6月14日、ドイツ軍、パリに無血入城。
◆8月25日〜9月4日、イギリス空軍、ベルリン空爆。
◆9月7日、ドイツ空軍、ロンドン空爆(死者約300人)。
◆11月14日、ドイツ空軍、コヴェントリー空爆(死者568人)。

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 1941年(11〜12歳)

◆3月27日、ドイツ国防会議により法令布告。闇取引および買い溜めに関する取り締まりを強化。最高刑は死刑。
◆3月29日、ドイツ財務省が法人税増税について発表。前年度利益が3万ライヒスマルクを超えた場合、利益の25〜30%を徴税。
◆6月、独ソ戦開戦。

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 1942年(12〜13歳)

◆イギリス空軍、リューベック空爆により民間人約320人を殺害。
◆5月30〜31日、イギリス空軍、ケルン空爆により民間人約480人を殺害。
●12月12日、ベルリン国立歌劇場200周年記念公演として、フルトヴェングラー指揮『マイスタージンガー』が上演。前年にイギリス軍により破壊された劇場の再建公演でもあります。

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 1943年(13〜14歳)

◆5月16〜17日、イギリス空軍、ドイツのダムを空爆する洪水作戦を展開し、約1,300人を殺害。
◆6月19日、ベルリンでユダヤ人ゼロ宣言。
◆7月27〜28日、連合国軍、ハンブルク空爆により民間人約41,000人を殺害。
◆8月、連合国軍、ベルリン空爆開始。翌年3月までに民間人約9,400人を殺害。
◆11月1日、モスクワ宣言。3回モスクワ会議でのソ連・アメリカ・イギリスの外相らにより取り決められた内容で、オーストリアについては、ヒトラーの侵略政策の犠牲となった最初の国であるとされる一方、ドイツへの戦争協力にも言及し、今後、オーストリアそのものがドイツからの解放にどのくらい関与したかで戦争責任の追及が変わってくるなどと指摘。以後、オーストリア国内でのレジスタンスは数を増すこととなり、1944年の終わりには、臨時オーストリア国民委員会も結成して抵抗運動を本格化していました。

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 1944年(14〜15歳)

●2月、ベルリン国立歌劇場が2度目の破壊。イギリス空軍によるベルリン爆撃によるもので、今回は修復不可能な被害規模。そのため、戦後は不要派も多く、再構築プランが決まるのがようやく1951年、完成はさらにその4年後の1955年のことでした。
◆2月、イギリス空軍、ボンへの空爆開始。ボンは小さな文教都市で軍事施設はありませんでしたが、連合国軍による民間人大虐殺戦略の一環として、1945年2月までに計72回爆撃、約6,400人を殺害、旧市街の建物約70%を破壊する成果を上げていました。
◆2月20日、ライプツィヒへの爆撃により、ゲヴァントハウスが焼失。ゲヴァントハウス管弦楽団は、旧市街の映画館「テアター・カピトール」で演奏会を開催するようになります。
◆4月、連合国軍、ベルギーとフランスの交通機関へ空爆開始。11月までにベルギーとフランスの民間人など約15,000人を殺害。
◆9月1日、ゲッベルスにより、全ドイツの劇場(歌劇場)閉鎖令が布告。これは7月20日に発生したヒトラー暗殺未遂事件とクーデーターを収拾させたゲッベルスが、国家総力戦総監に任命され、国家総力戦の一環として劇場を閉鎖することを策定したもの。立案は7月末におこなわれ、一部の劇場では早期の運用がおこなわれていました。
◆9月11〜12日、連合国軍、ダルムシュタット空爆により約12,300人を殺害。
◆9月25日、総統命令により、民兵組織「国民突撃隊」の編成が開始。対象者は16歳から60歳の一般市民。約600万人の組織を目指したものの、兵器や軍服の極端な不足や、様々な理由による拒否などにより計画にはまったく満たない状態で、戦果の方も限定的でした。
◆10月18日、連合国軍、ドイツに対して24時間体制で空爆を開始。

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 1945年(15〜16歳)

◆2月12日、連合国軍、スヴィーネミュンデ空爆(死者約23,000人)。
◆2月13〜14日、連合国軍、ドレスデン空爆により3万人から15万人を殺害。
◆2月23〜24日、連合国軍、プフォルツハイム空爆により2万人以上を殺害。
◆4月16日、赤軍のジューコフ元帥によりベルリン砲撃開始。ベルリンの戦いは3週間続き、ソ連側死者約8万人に対し、ドイツ側死者約32万人という激戦となります。
◆4月30日、ソ連の猛攻の中、ヒトラー自殺。ヒトラーはデーニッツ元帥を後継に指名していたため。同日、臨時政府「フレンスブルク政府」が発足。デーニッツが大統領に就任して降伏のための準備を進めます。また、1月からデーニッツの指示で実施中の海軍による市民と兵士の搬送作戦も5月中旬まで継続され約200万人を救出。
◆5月9日、ドイツ降伏。2週間後、デーニッツ逮捕により臨時政府解散。
◆ベルリン、戦勝4か国占領下におかれ、ソ連が東部、英・米・仏が西部を統治。


●5月、ベルリン放送交響楽団、ソ連軍政当局により許可され活動を開始。場所は前放送組織が1929年に建設した巨大な建物で、ベルリンのイギリス占領地区にあったため、イギリス軍政当局はソ連に抗議しましたが、圧倒的な数の赤軍を駐留させていたソ連は相手にせず、新しい放送センターが完成するまでの約10年、そのまま使用させていました。


◆6月10日、ソ連軍政当局により「反ファシズム的政党の設立と活動」が許可。
◆6月11日、「ドイツ共産党(KPD)」が設立。
◆6月15日、「ドイツ社会民主党(SPD)」が設立。
◆6月26日、「キリスト教民主同盟(CDU)」が設立。
◆7月5日、「ドイツ自由民主党(LDP)」が設立。
◆上記、4つの政党の合意により、「反ファシズム民主諸政党統一戦線(アンティファ・ブロック)」が形成。
●7月8日、アーベントロート、戦後初のコンサートでチャイコフスキー5番とエグモント序曲を指揮。ライプツィヒの反ファシズム同盟によって、赤軍(ソ連軍)を歓迎するため開催されたコンサートでした。続いて、メンデルスゾーンとマーラーのユダヤ系作曲家コンサートをおこない、自身の方針が「親ソ&親ユダヤ」であることを示します(赤軍将校にはユダヤ系多数)。
●8月9日、アーベントロート、ナチ政権が禁じていたヒンデミット作品をコンサートで指揮。自身の方針が「反ファシズム」であることを強調。
●8月、ベルリン放送交響楽団の首席指揮者探しのために、ソ連軍政当局が指揮者コンクールを開催。7月にすでにこのオケの指揮台に立っていた若きセルジュ・チェリビダッケが、師のハインツ・ティーセンの勧めで改めてコンクールに参加し、ブラームス交響曲第1番とストラヴィンスキー『火の鳥』を指揮して12人以上の参加者の中から優勝。首席指揮者として契約。
  その新人チェリビダッケの任期は1年ほど。以後、ローター(3年間)、アーベントロート(亡くなるまでの6年間)、クライネルト(病気辞任までの14年間)と続き、1973年には、レーグナーが首席指揮者になって20年も務めあげています。
  なお、この「ベルリン放送交響楽団(Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin)」は、ワイマール共和政時代の1923年に前身組織が設立された放送団体のオーケストラで、のちに出現する西側所属の「ベルリン放送交響楽団」とは異なります。
  西ベルリンの「ベルリン放送交響楽団」は、1946年にアメリカ軍政当局によってアメリカの統治地区に設立された「RIAS交響楽団」が、占領統治終了の1956年に「ベルリン放送交響楽団(Radio-Symphonie-Orchester Berlin)」と改名して誕生したものです。
◆9月、ソ連占領地域で土地改革。100ヘクタール以上の地主の土地は没収、地主は追放。同時に大企業の土地・資産も没収。
●11月29日、アーベントロート、ゲヴァントハウス管弦楽団音楽監督として最後のコンサートで指揮。
●ソ連軍占領政府から、元ナチ党員の現職契約は、全員無効とすることが決まったとアーベントロートに連絡。ザクセン州当局は、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団音楽監督、ライプツィヒ音楽院教授職を解任。アーベントロートが1937年に強要されたとはいえ、ナチ党に入党してしまったことによるものでした。

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 1946年(16〜17歳)

◆4月、「ドイツ社会主義統一党(SED)」が成立。前年に設立された「ドイツ共産党(SPD)」と「ドイツ社会民主党(KPD)」が合体。
◆4月、「自由ドイツ青年同盟(FDJ)」創設。「ドイツ社会主義統一党(SED)」の下部組織で、ソ連の「コムソモール」に相当。
◆ドイツのソ連占領地域で、教育制度改革実施。これにより、8年間の共通教育の後、2年間の職業教育コースと大学進学コースへの準備期間が設定。
◆ドイツのソ連占領地域に、国営映画会社「DEFA」設立。
●アーベントロート、チューリンゲン州議会の議員に任命。

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 1947年(17〜18歳) ライプツィヒ音楽大学在学

●レーグナー、ライプツィヒ音楽大学に入学。アーベントロートの弟子であるエゴン・ベルシェ[1907-1970]に指揮とオペラ・コース、フーゴー・シュトイアー[1914-2004]にピアノ、オットー・グッチュリヒトにヴィオラを師事。
●レーグナー、ライプツィヒでフォルクスビューネ・コンサートに出演。フォルクスビューネは、19世紀終わりのドイツで、自由劇場運動から派生した観客組織の運営する民衆舞台。

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 1948年(18〜19歳) ライプツィヒ音楽大学在学

◆6月20日、米英仏占領区域で通貨改革。これによりベルリンは経済的に分断。
◆6月24日、ソ連軍政局がベルリンを封鎖(1949年5月12日まで)。
◆西側大空輸作戦を開始。
●アーベントロート、ワイマール・ドイツ国民劇場の音楽総監督に就任。

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 1949年(19〜20歳) ライプツィヒ音楽大学在学

◆4月、北大西洋条約機構(NATO)発足。
●8月、アーベントロート、国家賞を授与。
◆9月、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)成立。
◆10月、ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。
●アーベントロート、ドイツ国家民主党(NDPD)の地区メンバーに選出。
●アーベントロート、ドイツ人民会議参加メンバーに選出。
●アーベントロート、ライプツィヒ放送交響楽団の首席指揮者に就任。

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 1950年(20〜21歳) ライプツィヒ音楽大学在学

◆10月、東ドイツ、第一回人民議会選挙。でSED70%の議席獲得

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 1951年(21〜22歳) ライプツィヒ音楽大学在学、ワイマール・ドイツ国民劇場指揮者・作曲家

●レーグナー、ライプツィヒ音楽大学を卒業。
●レーグナー、ワイマール・ドイツ国民劇場にコレペティートア(助手)として配属されますが、すぐに能力を認められ、指揮者、劇音楽作曲家として活躍。
  ワイマール・ドイツ国民劇場の音楽総監督は、ヘルマン・アーベントロート[1883-1956](在任期間:1945-1956)で、オペラと、「シュターツカペレ・ワイマール」のオーケストラ・コンサートの両方を指揮していました。
●アーベントロート、東ドイツ文化連盟に所属(1954年まで)。
●アーベントロート、国家芸術委員会の委員に選出。
◆東ドイツ、社会主義的教育計画の実施が本格化。
●12月、イェーナ市立劇場で、ゲーテの戯曲『エグモント』をベートーヴェンの音楽付きで上演。指揮はレーグナー。

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 1952年(22〜23歳) ワイマール・ドイツ国民劇場指揮者・作曲家

●アーベントロート、ドイツ芸術アカデミーのメンバーに選出。
◆2月、国家保安省(シュタージ)設置。
●3〜6月、ドイツ国民劇場。ゲーテの戯曲『ファウスト』第1部をレーグナー作曲の音楽付きで16回上演。
◆5月、東ドイツと西ドイツの間に国境が設定。国境から500m以内に居住する者は、強制的に退去。
●5〜6月、ドイツ国民劇場。トレネフの戯曲『リュボフ・ヤロヴァヤの確信』をレーグナー作曲の音楽付きで19回上演。
◆7月、農業従事者の就業形態を、個人から集団(国営)へ移行させる政策が施行。
●8〜12月、ドイツ国民劇場。フリードリヒ・ヴォルフの戯曲『貧しいコンラート』をデッサウ作曲の音楽付きで18回上演。指揮はレーグナー。
◆秋、農業改革の影響により収穫量減少。食糧が不足。配給制度が本格化。
●10〜12月、レーグナー、ドイツ国民劇場。レハール『パガニーニ』。3回指揮。
●9〜12月、ドイツ国民劇場。ゲーテの戯曲『ファウスト』第1部をレーグナー作曲の音楽付きで8回上演。
●11〜12月、ドイツ国民劇場。トレネフの戯曲『リュボフ・ヤロヴァヤの確信』をレーグナー作曲の音楽付きで17回上演。

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 1953年(23〜24歳) ワイマール・ドイツ国民劇場指揮者・作曲家

●1〜3月、ドイツ国民劇場。トレネフの戯曲『リュボフ・ヤロヴァヤの確信』をレーグナー作曲の音楽付きで4回上演。
●1〜6月、ドイツ国民劇場。ゲーテの戯曲『ファウスト』第1部をレーグナー作曲の音楽付きで10回上演。
●2月、レーグナー、ドイツ国民劇場。ヴェルディ『椿姫』。
●2〜3月、レーグナー、ドイツ国民劇場。ロルツィング『皇帝と船大工』。2回指揮。
◆3月5日、スターリン死去。
◆3月、東ドイツ、経済の悪化により西側への移住が増加。
●3〜6月、ドイツ国民劇場。シラーの戯曲『ヴァレンシュタイン三部作』をレーグナー作曲の音楽付きで8回上演。
●4〜6月、レーグナー、ドイツ国民劇場。ミルティン『トレンビータ』。ソ連のオペレッタ。5回指揮。
●5月、レーグナー、ドイツ国民劇場。レハール『パガニーニ』。
◆6月、東ベルリン暴動発生。東ベルリンの「スターリン通り」建設に際し、労働者が厳しいノルマに対して反発。これをきっかけに東ドイツ各地で蜂起が発生するものの、ソ連の武力介入により鎮圧。死者は民衆側と政府側を合わせて数百名規模。


●6月、レーグナー、ドイツ国民劇場。シューベルト歌曲&ヴァイオリン・ソナティナ・リサイタル。レーグナーはピアノ伴奏。
●6〜12月、ドイツ国民劇場。シラーの戯曲『ヴァレンシュタイン三部作』をレーグナー作曲の音楽付きで6回上演。
●10〜12月、ドイツ国民劇場。ゲーテの戯曲『ゴットフリーデンス・フォン・ベルリヒンゲンの歴史』をケニッツァー作曲の音楽付きで16回上演。指揮はレーグナー。
●アーベントロート、ベルリン放送交響楽団の首席指揮者に就任。
●11月、レーグナー、ドイツ国民劇場。ボロディン『イーゴリ公』。
●11〜12月、ドイツ国民劇場。ゲルナーの戯曲『シンデレラ』をレーグナー作曲の音楽付きで14回上演。
●12月、ドイツ国民劇場。コルネイチュークの戯曲『部隊の崩壊』をレーグナー作曲の音楽付きで3回上演。
◆東ドイツ、食糧配給制。

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 1954年(24〜25歳) ワイマール・ドイツ国民劇場指揮者・作曲家、ライプツィヒ音楽大学オペラ科主任&指揮科講師

●1〜2月、ドイツ国民劇場。ゲルナーの戯曲『シンデレラ』をレーグナー作曲の音楽付きで15回上演。
●1〜5月、ドイツ国民劇場。ゲーテの戯曲『ゴットフリーデンス・フォン・ベルリヒンゲンの歴史』をケニッツァー作曲の音楽付きで7回上演。指揮はレーグナー。
●1〜6月、ドイツ国民劇場。コルネイチュークの戯曲『部隊の崩壊』をレーグナー作曲の音楽付きで23回上演。
●1〜8/月、ドイツ国民劇場。シラーの戯曲『ヴァレンシュタイン三部作』をレーグナー作曲の音楽付きで7回上演。
●7〜8月、ドイツ国民劇場。シラーの戯曲『オルレアンの少女』をレーグナーとホーエンゼー作曲の音楽付きで3回上演。
●2月、ドイツ国民劇場。レーグナーのピアノの即興演奏、および詩とレーグナー作曲の音楽のコンサートを開催。
●3〜8月、ドイツ国民劇場。シェイクスピアの戯曲『マクベス』をレーグナー作曲の音楽付きで18回上演。
●4〜6月、レーグナー、ドイツ国民劇場。J.シュトラウス『こうもり』。4回指揮。
●4〜5月、レーグナー、ドイツ国民劇場。ロルツィング『密猟者』。3回指揮。
●5〜6月、ドイツ国民劇場。シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』をレーグナー作曲の音楽付きで10回上演。
●レーグナー、ライプツィヒ音楽大学に、オペラ科主任&指揮科講師として配属(1958年まで)。


●9〜12月、ドイツ国民劇場。シラーの戯曲『オルレアンの少女』をレーグナーとホーエンゼー作曲の音楽付きで13回上演。
●10〜12月、ドイツ国民劇場。シェイクスピアの戯曲『マクベス』をレーグナー作曲の音楽付きで6回上演。
●レーグナー、ライプツィヒ放送交響楽団に客演。当時の首席指揮者は、ヘルマン・アーベントロートでした。

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 1955年(25〜26歳) ワイマール・ドイツ国民劇場指揮者・作曲家、ライプツィヒ音楽大学オペラ科主任&指揮科講師

●1〜4月、ドイツ国民劇場。シェイクスピアの戯曲『マクベス』をレーグナー作曲の音楽付きで5回上演。
●1〜8月、ドイツ国民劇場。シラーの戯曲『オルレアンの少女』をレーグナーとホーエンゼー作曲の音楽付きで17回上演。
◆5月、ワルシャワ条約機構発足。ソ連主導の軍事同盟。


●9月4日、ベルリン国立歌劇場が再建。記念公演はコンヴィチュニーの『マイスタージンガー』でした。
◆9月8日、西ドイツ、アデナウアー首相がモスクワを訪問し、ソ連と国交を樹立。ドイツ人捕虜が帰国できるよう交渉。
◆9月22日、西ドイツ、アデナウアー首相により、「ハルシュタイン・ドクトリン」が宣言。東ドイツを国家として承認する国とは断交することを表明。これは東ドイツを経済面で破綻させ、崩壊させるための作戦で、西ドイツは実際に、ユーゴスラヴィア、キューバと断交していました(ソ連は国交を樹立したばかりなので除外)。
◆11月、西ドイツ、ドイツ連邦軍の正式発足に伴い、北大西洋条約機構(NATO)に加盟。再軍備の準備は1950年からおこなわれていましたが、長年のフランスの反対で時間がかかりました。
◆東ドイツ、食糧配給制。

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 1956年(26〜27歳) ライプツィヒ音楽大学オペラ科主任&指揮科講師

●ケーゲル指揮ライプツィヒ放送合唱団とライプツィヒ放送交響楽団員によるダラピッコラの『囚われ人の歌』で、レーグナーがピアノを担当。もう一人のピアノはマンフレート・ライネルト。
●東ドイツの放送新拠点、フンクハウス・ナレーパシュトラーセの本格的な運用が開始。東ベルリンの名所としても知られる巨大な放送センターは、約135,000u(東京ドームの約3倍)の広大な敷地に1950年代初頭から工場改修や新築などによって施設運用がおこなわれるようになり、やがて4つの放送局を収容。5,000人以上の人々が働く放送や録音制作の拠点として、1991年、ドイツ統一の翌年まで大きな役割を果たすことになります。


●ベルリン放送交響楽団の新拠点、フンクハウス・ナレーパシュトラーセの大ホール「SRK1」の使用が開始。SRKは国家放送委員会の略。


◆3月、東ドイツが再軍備を開始。志願制の人民軍を創設。前年11月の西ドイツ再軍備に対応して1月に法制化されたもので、ワルシャワ条約機構にも加盟。
●5月29日、アーベントロート、イェーナで客死。
◆10月、ハンガリー動乱。ハンガリーの共産主義政権に対して蜂起した市民たちを制圧すべくソ連が軍事介入。市街戦の様相を呈した「ハンガリー動乱」は、死傷者1万7千人という犠牲を出し、難民の数も20万人とも言われる大惨事。ウィーン郊外の収容施設には、膨大な数の難民が受け入れられ、中には音楽家たちも数多く含まれていました。


◆東ドイツ、食糧配給制。

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 1957年(27〜28歳) ライプツィヒ音楽大学オペラ科主任&指揮科講師

◆東ドイツ、食糧配給制。

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 1958年(28〜29歳) ライプツィヒ音楽大学オペラ科主任&指揮科講師、ライプツィヒ放送大管弦楽団首席指揮者

◆5月、東ドイツの食糧配給制が廃止。食糧事情が安定。
●レーグナー、「ライプツィヒ放送大管弦楽団」の首席指揮者に就任(1962年まで)。ヘルベルト・ケーゲル[1920-1990]が1949年から1953年まで首席指揮者を務めていたオーケストラで、レーグナーの後任はアドルフ・フリッツ・グール[1917-1977]。グールは1977年1月に急死するまで14年間に渡って「ライプツィヒ放送大管弦楽団」の首席指揮者を務めましたが、彼の死から間もなく、オーケストラは「ライプツィヒ放送エンターテイメント管弦楽団」に吸収されています。
  なお、「ライプツィヒ放送大管弦楽団」は、よく「ライプツィヒ放送交響楽団」と混同されていますが、まったくの別団体です。ケーゲルとレーグナーが両方のオーケストラと密接な関係があったため、混乱を招いている面もあるようです。

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 1959年(29〜30歳) ライプツィヒ放送大管弦楽団首席指揮者

●レーグナー、結婚。相手は1936年ライプツィヒ生まれの歌劇場所属ソプラノ歌手、ジークリンデ・ヤーン。レーグナーとのあいだに2人の子供をもうけます。レコーディングには、スイトナー指揮するデッサウのオペラ『アインシュタイン』に参加したものがありました。
●4月、レーグナー、デーネシュ・コヴァーチの伴奏でモーツァルトのヴァイオリン・ソナタを演奏。コヴァーチはハンガリー国立歌劇場のコンサートマスター。ライヴ録音。
●レーグナー、ライプツィヒ放送室内管弦楽団。ボッケリーニ:セレナータ。

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 1960年(30〜31歳) ライプツィヒ放送大管弦楽団首席指揮者

◆9月、ドイツ社会主義統一党(SED)の中央委員会第一書記であるヴァルター・ウルブリヒト[1893-1973]が、初代の「国家評議会議長」に就任。ウルブリヒトは、党の第一書記は1971年に健康問題を理由に辞任させられるものの、「国家評議会議長」には1973年に亡くなるまで留まっています。

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 1961年(31〜32歳) ライプツィヒ放送大管弦楽団首席指揮者、ベルリン国立歌劇場常任指揮者

●レーグナー、ライプツィヒ放送大管弦楽団。J.シュトラウス『もろびと手をとり』。
◆春、東ドイツの経済が急速に悪化。
◆5月、東ドイツ、バターと肉が配給制に。
◆6月15日、ウルブリヒト議長が議会で壁を建設するつもりはないと発言。
◆7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定。
◆8月13日、東ドイツ、ホーネッカーの指揮で「ベルリンの壁」の建設を開始。1952年からフェンスと警報装置が備えられ、国境警備もおこなわれていた西ベルリンと東ドイツの境界線に、頑丈なコンクリートの壁と有刺鉄線を設置。幅広い分離帯も設けて障害物を置いたほか、地雷を埋めたりもして、東ドイツから西ベルリンへの越境を阻止するために莫大な国費が投じられます。
  ちなみに東ドイツ建国からこの1961年までの約11年間に、累計約360万人の東ドイツ人が西ドイツに移り、累計約50万人の西ドイツ人が東ドイツに移っています。当時の東ドイツの人口は約1,700万人で、移住者の多くは生産年齢に該当したため、東ドイツ経済を押し下げ、西ドイツ経済を押し上げるのに十分な数でした。また、東ベルリンと西ベルリンの相互移動に問題がなかった時期には、物価や賃金水準の違いによって生じた往来人口は1日あたり約50万人に達しており、東側からの物品流出や、東側通貨弱体化の要因ともなっていました。
  なお、「ベルリンの壁」建設後に脱出に成功した人の数は約18万人で、これに合法的に西ドイツに移住した約72万7千人を加えると、「ベルリンの壁」建設後の流出人口は約90万7千人となります。合法的転出者の多くは高齢者でした。下の画像、ブランデンブルク門のある左側が東ベルリンで、右側が西ベルリンとなります。


●ベルリン国立歌劇場、「ベルリンの壁」の影響で運営の危機。ベルリン国立歌劇場の出演者や関係者には、西ドイツやオーストリアなど西側諸国から来る人も多く、また、東ドイツ人であっても、住居は西ベルリンというケースも割と一般的だったため、一晩で「ベルリンの壁」が築かれた影響には深刻なものがありました。
  劇場に来ることが難しくなった指揮者、歌手、オーケストラ楽員、合唱団員、バレエ団員、舞台関係者はかなりの数にのぼり、東ドイツ政府は、急遽、他の歌劇場の歌手や、オーケストラの楽員、合唱団員、東ドイツの4つの音楽学校の卒業生、バレエ学校の卒業生をベルリンに集め、ベルリン国立歌劇場の上演水準を保つために必死の努力がおこなわれます。
  総監督(インテンダント)のマックス・ブルクハルト[1893-1977]と音楽総監督のフランツ・コンヴィチュニー[1901-1962]、常任指揮者のアルトゥール・アペルト[1907-1993]とロベルト・ハネル[1925-2009]は、東ドイツ人なので問題なかったものの、音楽総監督のホルスト・シュタイン[1928-2008]と、常任指揮者のハンス・レーヴライン[1909-1992]の2名は職務継続が難しくなり、レーヴラインはフランクフルト歌劇場の第1指揮者に転身、ホルスト・シュタインも1963年にマンハイム国立劇場の音楽総監督に就任することを決めています。
  ベルリン国立歌劇場は、「レパートリー・システム」で運営される劇場の為、数多い演目を、不連続で複数回に渡って上演するという運用形態になっており、経験豊富な指揮者の存在は不可欠とあって早急な人材確保が必要とされていました。
  そこで音楽総監督のコンヴィチュニーは、自身のもうひとつの重要拠点であるライプツィヒで活躍していた3人の指揮者、ハインツ・フリッケ[1927-2015](ライプツィヒ市立歌劇場)、ヘルムート・ザイデルマン[1901-1962](ライプツィヒ市立歌劇場)、ハインツ・レーグナー(ライプツィヒ放送大管弦楽団)を呼ぶことにします。
  フリッケとザイデルマンは歌劇場勤務で指揮者が複数いたためすぐに移って、12月に音楽総監督に任命されましたが、レーグナーは放送オケの首席指揮者だったのでなかなか動けず、最初に指揮できたのが1962年7月の『フィデリオ』で、コンヴィチュニーの死の2週間前のこと。その間、ザイデルマンが着任から4か月後の1962年1月17日に急死しており、劇場は、多くの常任、客演指揮者が登場して運営されていたというのが実情でした。
  レーグナーは1962年9月のシーズン開始から移ることができ、12月にはベンツィン文化大臣から音楽総監督に任命。当時のベルリン国立歌劇場は、1955年の再建オープンから規模が大掛かりになっていたことから、音楽総監督を複数置くことを可能としており、下記のメンバーで東ドイツ時代を乗り切っています。

1955-1958 コンヴィチュニー/マタチッチ/シュタイン
1958-1961 コンヴィチュニー/シュタイン
1961-1962 コンヴィチュニー/フリッケ/ザイデルマン
1962-1962 コンヴィチュニー/フリッケ
1962-1964 フリッケ/レーグナー
1964-1971 スイトナー/フリッケ/レーグナー
1971-1974 フリッケ/レーグナー
1974-1990 スイトナー/フリッケ

「ベルリンの壁」直後、1961年秋からのシーズンを支えたのは音楽総監督のほか、常任指揮者と客演指揮者で、1960年シーズンから継続指揮のアペルトとハネルに加え、レーグナーと似た名前のハインツ・レットガー[1909-1977](デッサウ州立劇場)、朝比奈隆[1908-2001](大阪フィルハーモニー交響楽団)、チャールズ・マッケラス[1925-2010](イングリッシュ・ナショナル・オペラ)、ヘルムート・コッホ[1908-1975](ベルリン室内管弦楽団)、ヘルベルト・ケーゲル[1920-1990](ライプツィヒ放送交響楽団)、ハンス・アウエンミュラー[1926-1991](ノルトハルツ市立劇場)のほか、ルドルフ・ノイハウス[1914-1990](ドレスデン国立歌劇場)、ゲルハルト・プフリューガー[1907-1991](ワイマール・ドイツ国民劇場)、カール・シューベルト[1906-2006](シュターツカペレ・シュヴェリーン)、ホルスト・フェルスター[1920-1986](ハレ国立フィル)、アーセン・ナイデノフ[1899-1995](ソフィア国立歌劇場)、ゲルハルト・アウアー[1925-2002](スロヴァキア国立歌劇場)、ルドルフ・ヴァシャタ[1911-1982](スメタナ劇場[プラハ国立劇場])、ルスラン・ライチェフ[1919-2006](ソフィア国立歌劇場)、ヴィルモス・コモル[1895-1971](ハンガリー国立歌劇場)、等々、多くの国の指揮者が実務に携わっています。

  その後、1963年には総監督が演劇畑のマックス・ブルクハルト[1893-1977]から、元チェンバロ奏者で、ドイツ社会主義統一党(SED)のハンス・ピシュナー[1914-2016]に代わって劇場としての力が強まり、1964年にはオトマール・スウィトナーがドレスデン国立歌劇場から転身して音楽総監督に就任、人気を博すようになります。ピシュナーは21年間総監督に在任。それ以前にも、ベルリン放送局音楽局長、文化省音楽部長など要職を歴任。
  やがてスイトナーは1971年、ウルブリヒト体制からホーネッカー体制に切り替わったのを機に、西ベルリンでの子供の誕生もあってか、N響客演などコンサート指揮者としての活動に軸足を移してベルリン国立歌劇場を離れたため、フリッケとレーグナーの2人が音楽総監督を務めるようになります。そのレーグナーも、2年後の1973年には、病床のロルフ・クライネルトに代わってベルリン放送交響楽団の首席指揮者に就任しますが、ベルリン国立歌劇場での音楽総監督としての指揮は翌年まで継続、しばらくは兼務で忙しい状態が続きます。
  なお、スウィトナーは1974年にベルリン国立歌劇場音楽総監督に返り咲き、以後、1990年にパーキンソン病で引退するまで在任していました。
  下の画像は再建されたベルリン国立歌劇場で、以前の建物とは屋根の上部などが違っています。また、右隣に見える聖ヘートヴィヒ大聖堂も爆撃で上部構造物が破壊されてシンプルになっています。ちなみに、ベームやクリュイタンス、マルケヴィチ、ケンペ、フリッチャイ、フォルスターなどと大量のレコーディングをおこなっていた聖ヘートヴィヒ大聖堂合唱団の録音が急に少なくなってしまったのも「ベルリンの壁」が原因でした。


◆9月15日、「国境警備隊」が人民軍に編入。越境者の監視任務につき、必要な場合は、越境者が分離帯に入った時点で銃撃などで対応。監視塔は約300設置されることになり、200人近くが射殺されています。

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 1962年(32〜33歳) ライプツィヒ放送大管弦楽団首席指揮者、ベルリン国立歌劇場常任指揮者→音楽総監督

◆1月、東ドイツ、兵役を義務化。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』。
●8月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ウィンザーの陽気な女房たち』、『フィデリオ』。
●10月18日、ライプツィヒ放送合唱団の首席指揮者、ディートリヒ・クノーテが解任。理由はフンクハウスでおこなわれた建国記念式典で、国歌が歌われる前に、(式次第を把握していなかった)クノーテが、合唱団と共にその場から去ってしまったというものです。その後、クノーテはタクシー・ドライバーや、バレエ学校の練習ピアニストとして働き、1966年にベルリン・ジングアカデミーの副指揮者となって合唱界に復帰。ベルリン国立歌劇場音楽総監督のレーグナーが指揮するシュターツカペレ・ベルリンの合唱コンサートでの共演も繰り返しおこなっています。レーグナーは、ライプツィヒ放送大管弦楽団の首席指揮者として、クノーテとは4年間の共演実績がありました。クノーテはその後、1975年にコッホが亡くなると首席指揮者に昇格し、1982年にはライプツィヒ放送合唱団の首席指揮者となって1993年まで在任し、レーグナーと35年間に及ぶ共演を重ねています。


●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、祝祭コンサート。
◆10月、キューバ危機。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『ばらの騎士』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マイスタージンガー』、『フィデリオ』、『後宮からの誘拐』、『ばらの騎士』。
●12月13日、DEFA制作のTVドラマ『フェッツァーの脱出』が放映。東ドイツから西ドイツに脱出するという筋書きが、ウルブリヒト国家評議会議長夫人のロッテに問題視され激しく糾弾されて再放映は中止、さかのぼって元ネタになった1959年のレーグナー、シュライヤー、ライプツィヒ放送合唱団らによる放送オペラのテープも消却されていました。内容は、共産主義的なものですが、前年に「ベルリンの壁」が建設されたばかりで、脱出とそのための殺人や帰還のための赦しが簡単に描かれ過ぎているのが問題とされたのかもしれません。


●12月25日、レーグナー、ハンス・ベンツィン文化大臣より音楽総監督に任命。
●レーグナー、ライプツィヒ放送大管弦楽団。ドヴォルザーク5番。ライヴ収録。

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 1963年(33〜34歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、総監督(インテンダント)のマックス・ブルクハルトが退任し、文化副大臣のハンス・ピシュナーが着任。ピシュナーは晩年のクレンペラーと親交のあった人物。
●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マイスタージンガー』、『ばらの騎士』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』、『マイスタージンガー』、『蝶々夫人』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ばらの騎士』、『後宮からの誘拐』、『フィデリオ』、『マイスタージンガー』、『アイーダ』、シンフォニー・コンサート(未完成、田園、ほか)。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『アイーダ』、『マイスタージンガー』、『ばらの騎士』、『後宮からの誘拐』。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『アイーダ』、『後宮からの誘拐』、『ばらの騎士』。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『アイーダ』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『ばらの騎士』、『ドン・ジョヴァンニ』。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ドン・ジョヴァンニ』、『アイーダ』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ドン・ジョヴァンニ』、『ばらの騎士』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『アイーダ』、『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『後宮からの誘拐』、『ウィンザーの陽気な女房たち』。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『ウィンザーの陽気な女房たち』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『ばらの騎士』、『蝶々夫人』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『こうもり』、シンフォニー・コンサート(ツェヒリン)。
●レーグナー、ヴェツィヒ、ベルリン放送響。ハイドン:オーボエ協奏曲、R.シュトラウス:オーボエ協奏曲。ドイツ・シャルプラッテン録音。

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 1964年(34〜35歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』、『こうもり』、『ナブッコ』、『ばらの騎士』、『ドン・ジョヴァンニ』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、リート・リサイタル伴奏。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『こうもり』、『ばらの騎士』、『ドン・ジョヴァンニ』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マイスタージンガー』、『ナブッコ』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『こうもり』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ドン・ジョヴァンニ』、『ナブッコ』、『フィデリオ』、『こうもり』、『ばらの騎士』、リート・リサイタル伴奏。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『ナブッコ』、『こうもり』、『ばらの騎士』。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マイスタージンガー』、『ばらの騎士』、『ナブッコ』、『こうもり』、『ばらの騎士』、『後宮からの誘拐』、『ウィンザーの陽気な女房たち』。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『フィデリオ』。
●8月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ばらの騎士』、『ナブッコ』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『アイーダ』。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』
◆10月、フルシチョフ死去。
◆10月、ウクライナ生まれのロシア人ブレジネフが最高指導者に。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ドン・ジョヴァンニ』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』
◆11月、東ドイツ、退職年齢者(男65歳・女60歳)のみ西ドイツ訪問を許可。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マイスタージンガー』、『アイーダ』、『ナブッコ』、『こうもり』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『ウィンザーの陽気な女房たち』。

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 1965年(35〜36歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『こうもり』、『蝶々夫人』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『ばらの騎士』、『こうもり』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『アイーダ』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』、『ナブッコ』、『こうもり』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、シンフォニー・コンサート(ケンプとのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1〜3番)、(同第4・5番、ほか)。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『アイーダ』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『こうもり』、『蝶々夫人』、『マイスタージンガー』。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』。
●6月、レーグナー、ライプツィヒ放送響。モーツァルト30番。ライヴ録音。
●8月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『こうもり』、『ばらの騎士』、『後宮からの誘拐』、『ドン・ジョヴァンニ』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『アイーダ』、『ばらの騎士』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、オープニング・コンサート。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『こうもり』、ゾリステン・コンサート。

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 1966年(36〜37歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『アイーダ』、『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『ドン・ジョヴァンニ』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『こうもり』
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『アイーダ』、『蝶々夫人』、『ナブッコ』、『リゴレット』、『こうもり』
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『マイスタージンガー』、『ナブッコ』、『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『リゴレット』、『マイスタージンガー』、『後宮からの誘拐』
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『リゴレット』、『フィガロの結婚』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『リゴレット』、『フィガロの結婚』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『アイーダ』、シンフォニー・コンサート(シューベルト5番、マーラー4番)
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』
●8月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『蝶々夫人』、『ナブッコ』、『ウィンザーの陽気な女房たち』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『リゴレット』、『アイーダ』、『後宮からの誘拐』、シンフォニー・コンサート(ケンプとのブラームス:ピアノ協奏曲第1番、ほか)。
●9月、レーグナー、シュターツカペレ・ベルリン。モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番(ケンプ)。ライヴ録音。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ウィンザーの陽気な女房たち』、『リゴレット』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』

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 1967年(37〜38歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ウィンザーの陽気な女房たち』、『フィガロの結婚』、『アイーダ』、『リゴレット』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『こうもり』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『こうもり』、『ナブッコ』、『リゴレット』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『こうもり』、『リゴレット』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『こうもり』、『ナブッコ』、『リゴレット』、『フィデリオ』。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『フィガロの結婚』、『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『ウィンザーの陽気な女房たち』、『蝶々夫人』、モンテヴェルディ生誕400周年記念スペシャル・コンサート。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『フィデリオ』、『フィガロの結婚』、『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』、『リゴレット』。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『後宮からの誘拐』、『フィデリオ』、『リゴレット』、『蝶々夫人』。
●7月、レーグナー、ライプツィヒ放送響。モーツァルト:6つのドイツ舞曲。ライヴ録音。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』、『リゴレット』、『ナブッコ』。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『フィガロの結婚』、『蝶々夫人』。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『フィガロの結婚』『後宮からの誘拐』、『リゴレット』、『こうもり』。
●レーグナー、ライプツィヒ放送合唱団、ライプツィヒ放送響。J.シュトラウス『ジプシー男爵』抜粋、キュンネケ『どこかのいとこ』抜粋。ドイツ・シャルプラッテン録音。

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 1968年(38〜39歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『こうもり』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『リゴレット』、『フィガロの結婚』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『フィデリオ』、『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『こうもり』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『リゴレット』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『リゴレット』、『蝶々夫人』、『ナブッコ』、シンフォニー・コンサート(モンテヴェルディ『オルフェオ』)。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『リゴレット』。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『リゴレット』、『後宮からの誘拐』。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』、『リゴレット』。
◆8月、チェコ民主化運動事件「プラハの春」発生。25万人から成るワルシャワ条約機構軍(ソ連、東ドイツ、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー)が、戦車2,000輌、軍用機800機の規模でチェコスロヴァキアに侵攻し、すぐに全土を占領。ピーク時の展開人数は約50万人、戦車は6,300輌に達しましたが、チェコ軍は一貫して無抵抗、武装市民による攻撃をやめさせるための展開となり、死者は武装市民側が137人、占領軍側が112名という結果。また、一般市民の国外脱出に特に制限が無かったため、人口の約0.5%にあたる7万人の市民が国をあとにしています。


●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』、舞踊オペラ(モンテヴェルディ『オルフェオ』)。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『後宮からの誘拐』、舞踊オペラ(モンテヴェルディ『オルフェオ』)。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ナブッコ』、『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』、『こうもり』、TVコンサート(「魔法のメロディ」、J.シュトラウス、レハール)、舞踊オペラ(モンテヴェルディ『オルフェオ』)。
●レーグナー、ライプツィヒ放送合唱団、ドレスデン・フィル。J.シュトラウス『ヴェネツィアの一夜』抜粋。フェルゼンシュタインによる短縮版を使用。ドイツ・シャルプラッテン録音。

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 1969年(39〜40歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『こうもり』、『リゴレット』、『蝶々夫人』、『ナブッコ』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『フィガロの結婚』、『こうもり』、舞踊オペラ(モンテヴェルディ『オルフェオ』)、バッハ・ツィクルス(シュライヤー)、バレエ(『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『ナブッコ』、『リゴレット』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、バッハ・ツィクルス(カンタータ)、舞踊オペラ(モンテヴェルディ『オルフェオ』)。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ナブッコ』、『蝶々夫人』。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『後宮からの誘拐』、『ナブッコ』、『ドン・ジョヴァンニ』、『フィデリオ』、ハイドン『勘違いの不貞』、バレエ(『ドン・キホーテ』)。
●8月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ナブッコ』
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ナブッコ』、『蝶々夫人』、ハイドン『勘違いの不貞』
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ナブッコ』
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『リゴレット』、『後宮からの誘拐』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。ハイドン『勘違いの不貞』、『リゴレット』、『こうもり』。
●レーグナー、ズスケ、ベルリン放送響。ヴィクトア・ブルンス:ヴァイオリン協奏曲第1番。ベルリン国立歌劇場管弦楽団のファゴット奏者が1959年に作曲。ライヴ収録。(Nova)

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 1970年(40〜41歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『こうもり』、『後宮からの誘拐』、『リゴレット』、『蝶々夫人』、ハイドン『勘違いの不貞』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『こうもり』、『後宮からの誘拐』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、室内コンサート。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『蝶々夫人』、ハイドン『勘違いの不貞』。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』、『ドン・ジョヴァンニ』、舞踊オペラ(モンテヴェルディ『オルフェオ』)。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『蝶々夫人』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『皇帝と船大工』、『蝶々夫人』、『リゴレット』。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『蝶々夫人』、『リゴレット』。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ドン・ジョヴァンニ』、『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』、室内コンサート。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『こうもり』。

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 1971年(41〜42歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『こうもり』、『フィデリオ』、ハイドン『勘違いの不貞』、『リゴレット』、『後宮からの誘拐』、『皇帝と船大工』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『皇帝と船大工』。●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『後宮からの誘拐』、『蝶々夫人』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『皇帝と船大工』、ハイドン『勘違いの不貞』、『後宮からの誘拐』。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『蝶々夫人』、『リゴレット』、『後宮からの誘拐』。
◆5月、ヴァルター・ウルブリヒトが、ドイツ社会主義統一党(SED)の中央委員会第一書記を辞任。後任は、エーリッヒ・ホーネッカー[1912-1994]。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、ハイドン『勘違いの不貞』、『リゴレット』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『蝶々夫人』、『皇帝と船大工』、『後宮からの誘拐』。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』、『皇帝と船大工』。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『皇帝と船大工』、『後宮からの誘拐』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『蝶々夫人』、『皇帝と船大工』、『ドン・ジョヴァンニ』、シンフォニー・コンサート(モーツァルト、ドビュッシー。病気のアルベルト・エレーデの支援のため)。
●レーグナー、ズスケ、ベルリン放送響。ヴィクトア・ブルンス:ファゴット協奏曲。ブルンスはベルリン国立歌劇場管弦楽団のファゴット奏者で作曲家。ライヴ収録。(Nova)

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 1972年(42〜43歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『リゴレット』、ハイドン・コンサート(ブルマイスター)。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、『皇帝と船大工』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ラ・ボエーム』、『後宮からの誘拐』、『皇帝と船大工』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『ラ・ボエーム』、『リゴレット』、『皇帝と船大工』。
●4月、レーグナー、ベルリン放送響。メンデルスゾーン:2台のピアノのための協奏曲(ヴェラ・レイスコワ、ウラディーミル・レイシェク)。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、『蝶々夫人』、『後宮からの誘拐』。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『皇帝と船大工』、『後宮からの誘拐』、ハイドン『勘違いの不貞』。
◆6月、「ベルリン協定」が発効。前年に連合国4各国の外相らにより同意されていたもので、西ドイツとベルリンの間の交通・通信の十分な確保と、西ベルリンから東ドイツへの入国も認めるというソ連の決定、および米英仏による西ドイツと西ベルリンの連携が決定。四半世紀以上に渡って東西緊張の場となっていたベルリンの状況が改善した「通過交通協定」。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ジュリアス・シーザー』。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、『リゴレット』、『ラ・ボエーム』、『皇帝と船大工』、『フィガロの結婚』。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィガロの結婚』、『ラ・ボエーム』、『後宮からの誘拐』、ガイスラー『こわれがめ』。
●10〜11月、レーグナー、ベルリン放送響。アイスラー:組曲第2・3・4番、小交響曲。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィガロの結婚』、『後宮からの誘拐』、『皇帝と船大工』、ガイスラー『こわれがめ』。
●12月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、『ラ・ボエーム』、『後宮からの誘拐』、『フィガロの結婚』。
◆12月、「東西ドイツ基本条約」が東ベルリンで署名されて締結。1973年6月に発効。

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 1973年(43〜44歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督、ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『蝶々夫人』、ガイスラー『こわれがめ』、『フィガロの結婚』、『リゴレット』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『リゴレット』、ガイスラー『こわれがめ』。
●3月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『後宮からの誘拐』、ガイスラー『こわれがめ』、『リゴレット』。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、ガイスラー『こわれがめ』、バッハ・ツィクルス。
●6月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マノン』、『皇帝と船大工』、『後宮からの誘拐』、『ラ・ボエーム』。
◆6月、「東西ドイツ基本条約」発効。緊張の緩和。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『皇帝と船大工』、ガイスラー『こわれがめ』。
●7月5〜9日、レーグナー、シュターツカペレ・ドレスデン。ブラームス:大学祝典序曲、ハンガリー舞曲集。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●7月11〜14日、レーグナー、ツォフ、シュターツカペレ・ドレスデン。ディッタースドルフ:ハープ協奏曲、ヘンデル:ハープ協奏曲、フランセ: ハープとオーケストラのための六楽章の詩的な遊戯。ドイツ・シャルプラッテン録音。
◆9月、東西ドイツ、国際連合に加盟。
●9月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マノン』、『ドン・ジョヴァンニ』。
●12月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト:序曲 D.648。ライヴ収録。(Weitblick)。
●10月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト6番、序曲 D.470。ライヴ収録。(Weitblick)。
●10月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マノン』、『ドン・ジョヴァンニ』。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『フィデリオ』、ガイスラー『こわれがめ』、『後宮からの誘拐』。
●12月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト:序曲 D.556、5つのメヌエットと5つのドイツ舞曲(弦楽合奏版) D.89。ライヴ収録。(Weitblick)。
●レーグナー、ベルリン放送交響楽団の首席指揮者に就任。

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 1974年(44〜45歳) ベルリン国立歌劇場音楽総監督、ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ドン・ジョヴァンニ』、『皇帝と船大工』、ガイスラー『こわれがめ』。
●2月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マノン』。
●4月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。ガイスラー『こわれがめ』。
●4〜5月、レーグナー、ギュトラー、ベルリン放送響。トランペット協奏曲集。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『ラ・ボエーム』。
●5月、レーグナー、ベルリン放送響。ビゼー:『アルルの女』、『子供の遊び』、『美しきパースの女』。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●7月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マノン』。
●11月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マノン』。
◆10月7日、東ドイツ、建国25周年を機に憲法を改正。

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 1975年(45〜46歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●1月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。『マノン』。
●5月、レーグナー、ベルリン国立歌劇場。ガイスラー『こわれがめ』。
●12月、レーグナー、ベルリン放送響。ヴォルフ=フェラーリ:序曲、管弦楽曲集。ドイツ・シャルプラッテン録音。(+1976年1・2月)
●レーグナー、東ドイツ国家賞受賞。
●レーグナー、メゼー、ベルリン放送響。ボッケリーニ:チェロ協奏曲 G482。ライヴ収録。
●レーグナー、シフ、ベルリン放送響。ドヴォルザーク:チェロ協奏曲。ライヴ収録。
●レーグナー、ベルリン放送響。レーガー『ある悲劇の為の交響的プロローグ』、『ロマンティック組曲』。ドイツ・シャルプラッテン録音。

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 1976年(46〜47歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●レーグナー、ライプツィヒ放送響。チレンシェク:ヴァイオリンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック。ライヴ収録。(Nova)

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 1977年(47〜48歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

◆東ドイツでコーヒー危機。ブラジル産コーヒーの急騰により、東ドイツ政府は外貨節約のため(石油輸入にまわすため)、コーヒーなどの嗜好品輸入を制限。国民は猛反発。これが1980年以降の東ドイツとベトナムの関係強化に直結。東ドイツの支援でベトナムはコーヒー農園の面積を14倍に拡大、コーヒー生産に関わるベトナム人も1万人増やし、病院・学校を含めた集落を建設、水力発電、灌漑システム、建設機器などにも莫大な費用を投じています。これによりベトナムは巨大なコーヒー産地へと成長。もともと東ドイツは共産圏ということでベトナム戦争では北ベトナムを支持、戦時中の1973年には、エテルナ・レーベルから、スイトナーやボンガルツ、マズア、ケーゲル、コッホらクラシックのアーティストの音源を集めた応援LPも発売されたりしていました。
●2月、レーグナー、ベルリン放送響。ワーグナー『マイスタージンガー』第1幕前奏曲、『ラインの黄金』前奏曲、『トリスタンとイゾルデ』第1幕前奏曲、R.シュトラウス『サロメ』〜「サロメの踊り」、『ばらの騎士』〜第1・2・3幕へのワルツ。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●3月、レーグナー、ベルリン放送響。デュカス『魔法使いの弟子』、エネスク『ルーマニア狂詩曲第1番』、ファリャ『火祭りの踊り』、ミヨー『世界の創造』、サン=サーンス『死の舞踏』。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●3・4・10月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト7番(ワインガルトナー編、35分ほどの曲)。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●10月11日、レーグナー、ベルリン放送響。ケルビーニ:レクイエム第1番。ベルリン大聖堂でライヴ収録。(PILZ)

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 1978年(48〜49歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●1月、レーグナー、ベルリン放送響。ブラームス3番、シューベルト9番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●5月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー6番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●6月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト9番。東ベルリン、キリスト教会での日本コロムビア録音。
●9月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト2番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●10〜11月、レーグナー、ベルリン放送響。ワーグナー:交響曲ハ長調、ジークフリート牧歌。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●11月4日、レーグナー、ベルリン放送響。ブラームス4番。ライヴ収録。(Weitblick)
●12月、レーグナー、初来日。読売日本交響楽団を指揮して第9を5回演奏。


●レーグナー、マロヴァー、ベルリン放送響。ドヴォルザーク『ジプシーの歌』。ライヴ収録。

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 1979年(49〜50歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

◆EMS(欧州通貨制度)設置。EEC(欧州経済共同体)加盟国間での通貨変動を年間±2.5%以内に抑制し、為替相場を安定。これにより西ドイツ・マルクが台頭。イギリスは1990年から1992年の期間のみ参加。
●レーグナー、ヴェツィヒ。ヴィクトア・ブルンス:オーボエ協奏曲。ベルリン国立歌劇場管弦楽団のファゴット奏者が1952年に作曲。ライヴ収録。
●10月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー7番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●11月、レーグナー、ベルリン放送響。ヤナーチェク『シンフォニエッタ』。ドイツ・シャルプラッテン録音。

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 1980年(50〜51歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●1月、レーグナー、ベルリン放送響。シェーンベルク:5つの管弦楽曲。ライヴ収録。(Weitblick)。
●4月、レーグナー、ベルリン放送響。ヤナーチェク『タラス・ブーリバ』。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●5月、レーグナー、ベルリン放送響。東ベルリン、共和国宮殿コンサート。
●6月、レーグナー、ベルリン放送響。ブラームス1番。ライヴ収録。(Weitblick)
●6月17〜19日、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー6番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●11〜12月、レーグナー、ベルリン放送響。チャイコフスキー『眠りの森の美女』抜粋。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●12月、レーグナー、ベルリン放送響。ボンテンポ:レクイエム。ドイツ・シャルプラッテン録音。

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 1981年(51〜52歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●レーグナー、ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学より、長年の指導実績から教授の称号を授与。
●1・2月、レーグナー、ベルリン放送響。マーラー6番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●2月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。シェーンベルク『ペレアスとメリザンド』、ほか。ライヴ収録(Weitblick)。
●6月、レーグナー、ベルリン放送合唱団、ベルリン放送響。ヘンデル『ザロモ(ソロモンのドイツ語版)』全曲(170分)。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●6月24日〜25日、レーグナー、読響。ベートーヴェン3番、ヴァイオリン協奏曲(藤川真弓)。
●6月28日、レーグナー、読響。ベートーヴェン3番、ピアノ協奏曲第5番(神谷郁代)。
●7月6日、レーグナー、読響。ブラームス2番、バッハ:ブランデンブルク協奏曲第3番、モーツァルト:オーボエ協奏曲。
●7月12,13日、レーグナー、読響。ブルックナー9番、モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番(神谷郁代)。
●11月、レーグナー、ベルリン放送響。チャイコフスキー『白鳥の湖』抜粋。ドイツ・シャルプラッテン録音。(+1982年3月)
●レーグナー、ライプツィヒ放送合唱団、ライプツィヒ放送響。フォーレ:レクイエム。新ゲヴァントハウスのオープニング・シリーズ。

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 1982年(52〜53歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者

●1月、レーグナー、ベルリン放送響。ベートーヴェン序曲集。ドイツ・シャルプラッテン録音。(+1983年9月)
●2月、レーグナー、ライプツィヒ放送響。ノイエ・ゲヴァントハウスでのDDR放送シンフォニー・コンサート。
●2月、レーグナー、ベルリン放送響。東ベルリン、共和国宮殿コンサート。
●4月、レーグナー、ベルリン放送響。テオドラキス3番。ライヴ収録。(ドイツ・シャルプラッテン)
●5月、レーグナー、ベルリン放送響。東ベルリン、共和国宮殿コンサート。
●8・9・11月、レーグナー、ベルリン放送響。チャイコフスキー『くるみ割り人形』抜粋。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●9月13日、レーグナー、読響。ベートーヴェン6番、ハイドン53番、リスト:ピアノ協奏曲第1番(中村紘子)。
●9月16日、レーグナー、読響。ラヴェル:ピアノ協奏曲(舘野泉)。
●9月22日、レーグナー、読響。ブラームス3番、モーツァルト:フルート協奏曲第2番(ゴールウェイ)、R.シュトラウス『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』。

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 1983年(53〜54歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団常任指揮者

●1月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー4番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●1月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。
●1・10月、レーグナー、ベルリン放送響。マーラー3番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●2月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー9番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●2月9〜12日、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー9番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
◆2月14日、東ドイツのドレスデンで10万人規模の平和デモ。
●4月、レーグナー、読売日本交響楽団常任指揮者に就任。


●9月、レーグナー、「ワルシャワの秋」音楽祭に出演。
●10月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー7番。ドイツ・シャルプラッテン録音。

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 1984年(54〜55歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団常任指揮者

●1月27日、レーグナー、読響。モーツァルト1・41番、モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番(花房晴美)。
●2月2日、レーグナー、読響。シベリウス2番、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲(和波孝禧)。
●2月4日、レーグナー、読響。シベリウス2番、チャイコフスキー『白鳥の湖』抜粋。
●2月10日、レーグナー、読響。ブルックナー8番。
●3月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー5番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●5月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。シェーンベルク:室内交響曲第2番6。ライヴ収録。(Weitblick)。
●7月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー4番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●11月、レーグナー、ベルリン放送響。ブラームス4番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●12月12日、レーグナー、読響。ブラームス4番、バルトーク『ハンガリー農民の歌』、ピアノ協奏曲第3番(アンドラーシュ・シフ)。

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 1985年(55〜56歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団常任指揮者

◆3月、ゴルバチョフ、ソ連最高指導者に選出。ペレストロイカ(再構築、リストラクチャー)を前面に掲げて改革を推進。
●5月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー4番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●7月、ケーゲル、ドレスデン市当局より、65歳定年を理由にドレスデン・フィル首席指揮者を解任。ドレスデンの聴衆はライプツィヒと違って保守的で、ケーゲルと市当局は現代作品をめぐるプログラム構成で衝突が頻発。また、東ドイツ政府は、男性65歳、女性60歳という引退年齢に達した者は、国を去ることも推奨するほどの財政難でした。
●8月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー8番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●レーグナー、アーレンス、ベルリン放送響。ラヴェル:ピアノ協奏曲、左手の為のピアノ協奏曲。ドイツ・シャルプラッテン録音。

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 1986年(56〜57歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団常任指揮者

◆ゴルバチョフ、グラスノスチ(情報公開)を本格化。
●4月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。
●9月19・20日、レーグナー、読響。ブラームス1番、モーツァルト『魔笛』序曲、ピアノ協奏曲第27番(ケン・ノダ)。
●9月24・25・26・28・30日、10月1・22日、レーグナー、読響。ベートーヴェン7番、『エグモント』序曲、ピアノ協奏曲第3番(神谷郁代)。
●10月13日、レーグナー、読響。ブルックナー7番、モーツァルト31番。
●10月21日、レーグナー、読響。R.シュトラウス『祝典前奏曲』。
●10月27・28日、レーグナー、読響。ベートーヴェン7番、バッハ:G線上のアリア。
●10月、レーグナー、作曲家のトーマス・ベットガー[1957- ]が、東ベルリンから西側に脱出する際、自分の妻と娘も会食に同席させて協力。

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 1987年(57〜58歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団常任指揮者

●1月1日、レーグナー、シャウシュピールハスでおこなわれたシュターツカペレ・ベルリンのベルリン市制750周年記念コンサートに、ザンデルリング、フリッケ、ロイター、フロールらと共に出演。ライヴ収録。
●1月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。
●5月、レーグナー、ベルリン放送響。ブラームス2番。ライヴ収録。(Weitblick)
●9月22日、レーグナー、読響。ブラームス2番、R.シュトラウス『ドン・ファン』、ラヴェル:ピアノ協奏曲(セシル・リカド)。
●9月28日、レーグナー、読響。マーラー『大地の歌』(ローゼマリー・ラング、小林一男)、ベルク:ヴァイオリン協奏曲(塩川悠子)。
●10月5日、レーグナー、読響。ベートーヴェン5番、メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲(塩川悠子)、序曲『フィンガルの洞窟』。
●10月10〜12日、レーグナー、読響。ベートーヴェン5番、グルック『アウリスのイフィゲニア』序曲。武蔵野音楽大学ベートーヴェン・ホールでのドイツ・シャルプラッテン録音。
●10月19日、レーグナー、読響。ベートーヴェン『ミサ・ソレムニス』(渡辺美佐子、伊原直子、佐々木正利、ヘルマン・クリスティアン・ポルスター、晋友会合唱団)。
●10月26・27日、レーグナー、読響。シベリウス2番、ハイドン94番、モーツァルト:演奏会用アリアK512、513、612(ヘルマン・クリスティアン・ポルスター)。

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 1988年(58〜59歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団常任指揮者

●3月8日、レーグナー、読響。マーラー9番、武満徹:トゥイル・バイ・トゥワイライト。
●3月14日、レーグナー、読響。モーツァルト25、41番、ヴァイオリン協奏曲第5番(ゲアハルト・ヘッツェル)。
●5月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。
●9〜10月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー:ミサ曲第2・3番、テ・デウム。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●9月27・28・29・30日、レーグナー、読響。ベートーヴェン6番、ピアノ協奏曲第5番(野島稔)、『プロメテウスの創造物』序曲。
●10月7日、レーグナー、読響。ベートーヴェン6番、ワーグナー『タンホイザー』序曲、『マイスタージンガー』〜「ニワトコのモノローグ」、『ワルキューレ』〜「ヴォータンの別れと魔の炎の音楽」(テオ・アダム)。
●10月9・10日、レーグナー、読響。ベートーヴェン6番。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●10月14日、レーグナー、読響。ブルックナー6番、ブラームス:ピアノ協奏曲第1番(アンネローゼ・シュミット)。
●11月、レーグナー、ベルリン放送交響楽団と来日公演。
●レーグナー、シュンク、ベルリン放送響。ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲。ライヴ収録。

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 1989年(59〜60歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団常任指揮者

●1月13日、レーグナー、ゲヴァントハウス管に客演。ブラームス3番、チャイコフスキー『悲愴』。
◆1月15日、ライプツィヒで、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの追悼行事とデモがおこなわれ約1万4千人が参加。逮捕者80名。
●3月、レーグナー、ベルリン放送響。シェーンベルク:室内交響曲第1番。ライヴ収録。(Weitblick)。
●4月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。シェーンベルク:変奏曲。ライヴ収録。(Weitblick)。
◆5月、民主化推進中のハンガリーのネーメト首相、オーストリアとの約350kmの国境線から鉄条網と警報装置の撤去を決定。
◆9月4日、ライプツィヒ、「月曜デモ」。
●9月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。
◆9月、ハンガリーのネーメト首相、東ドイツとの国境を開放。約20万人の東ドイツからの転出者を受け入れたのち、西ドイツのコール首相から難民受け入れの承諾をとって出国させています。
◆9月10日、東ドイツで反体制団体「ノイエス・フォールム」が結成。ホーネッカー政権に対する反政府運動を開始。
◆9月、ホーネッカー議長、チェコとの国境を閉鎖。
◆9月25日、ライプツィヒ、「月曜デモ」が約8千人規模に拡大。
●9月25日、レーグナー、読響。ベートーヴェン3番、ピアノ協奏曲第2番(園田高弘)。
●9月30日、レーグナー、読響。プロコフィエフ7番、シューマン:ピアノ協奏曲(ダン・タイ・ソン)、シベリウス:トゥオネラの白鳥。
●10月2,3日、レーグナー、読響。ベートーヴェン3番。武蔵野音大ベートーヴェンホールでのドイツ・シャルプラッテン録音。
●10月9日、レーグナー、読響。ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』、ドビュッシー『海』、エルガー:チェロ協奏曲(ポール・トゥルトゥリエ)、ラヴェル『ラ・ヴァルス』。
◆10月9日、ライプツィヒ、「月曜デモ」が約7万人規模に拡大。
◆10月16日、ライプツィヒ、「月曜デモ」が約10万人規模に拡大。ホーネッカー議長は軍に武力鎮圧を命じるものの、シュトレーレッツ大将は拒否。


●10月17・19日、レーグナー、読響。ブルックナー5番、ハイドン:トランペット協奏曲(ホーカン・ハーデンベルガー)。
◆10月18日、ホーネッカー議長辞任。
●10月26・27・28・30日、レーグナー、読響。ベートーヴェン5番、ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』、ショパン:ピアノ協奏曲第1番(小山実稚恵)。
◆11月9日、「ベルリンの壁」崩壊。
●12月、レーグナー、読売日本交響楽団常任指揮者を退任。
◆東ドイツから西側への転出者が約34万人。

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 1990年(60〜61歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団特別客演指揮者

●1月、レーグナー、読売日本交響楽団特別客演指揮者に就任。
●5月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト:6つのドイツ舞曲 D.820(ヴェーベルン編)。ライヴ収録。(Weitblick)。
●6月、レーグナー、ベルリン放送響。ブルックナー5番。ライヴ収録。(Weitblick)。
◆7月1日、東西ドイツの「通貨同盟」により、東ドイツのマルクを西ドイツのマルクに1対1で交換し、マルクを統合(東ドイツのマルクを廃止)。実質的には通貨価値に4.4倍(10〜20倍という見方も)の格差があったにもかかわらず、6千マルクまでは1対1で交換したため、東ドイツの物価や手数量が3倍から4倍ほどに急上昇。ドイツ・マルクの外国為替相場にも顕著に反映され、統合前に69円前後だったマルク/円は、統合により一時は94円ほどまで上昇(1.36倍!)し、輸出競争力も大幅に低下してしまいます。
◆10月3日、ドイツ統一。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)にドイツ民主共和国(東ドイツ)を編入する形で統一したため、ドイツ連邦共和国はそのままの名前で領土と人口が増え、ドイツ民主共和国が消滅したことになります。また、トロイハント信託公社による東ドイツから西側への国有資産売却のため、急速に人員解雇が進められ、7月の「通貨同盟」(東西マルク対等交換)効果による東ドイツ地域でのインフレも手伝って、東ドイツ経済が崩壊。約1,600万人の人口に対し、失業者は数百万人に達し、多くの東ドイツ人たちに深刻な影響が及びます。


●10月13日、レーグナー、読響。ブルックナー4番、ベートーヴェン:三重協奏曲(ウィーン・ベートーヴェン・トリオ)。
●10月19日、レーグナー、読響。ベートーヴェン8番、R.シュトラウス:組曲『ばらの騎士』、ほか。
●10月24-26日、レーグナー、読響。ベートーヴェン8番、ワーグナー『ローエングリン』、『パルシファル』聖金曜日の音楽。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●11月20日、ヘルベルト・ケーゲル、ピストルを用いて自殺。ケーゲルは、1985年7月にドレスデン市当局と演奏会プログラムに占める現代作品の割合で揉め、ドレスデン・フィル首席指揮者の職を定年ということで解任されていますが、その後も客演は継続。1989年10月にはドレスデン・フィルの来日ツアーをまかされて外貨を獲得(同じ頃にレーグナーも来日して読響を指揮)、事態の好転も期待される状況となりました。
  もともと、ケーゲルが18年間務めたライプツィヒ放送響首席指揮者からドレスデン・フィル首席指揮者転じた最大の理由が、「マイクの前よりも聴衆の前」「海外ツアーがしやすいオーケストラ」ということで、実際、ドレスデン・フィルはそれまでに、ソ連、西欧、東欧、北欧、中東などを訪れてもいます。
  しかし、1989年10月の来日ツアーの翌月には「ベルリンの壁」が崩壊。ドイツ統一に向けての動きが加速され始めます。
  6か月後の1990年5月、ドレスデン市の重要人事(指揮者なども含まれます)を左右する「市長選」で選ばれたのは、元市民運動家で、「ドイツ・キリスト教民主同盟(CDU)」所属のヘルベルト・ワーグナーという、東ドイツ育ちながら専制政治の犠牲者追悼もおこなうほどの民主主義者で41歳の新進政治家でした。
  ケーゲルはこの20年前の1970年、ライプツィヒ市が執りおこなった葬儀式典に、市の役職者としてクルト・マズアと共に出席、重要な役回りを任されています。その葬儀はパウル・フレーリヒという政治家の死に際しておこなわれたもので、フレーリヒは、「東ベルリン暴動」での市民運動家への弾圧や、「パウリナー教会爆破事件」で知られた「スターリン主義者」の専制政治家でもありました。西ドイツでは、その「東ベルリン暴動」の発生した1953年6月17日こそ、ドイツ統一のきっかけになる日であるとして、翌1954年から1990年までの36年間に渡って「ドイツ統一の日」という国民の祝日にまで指定していたので、その「東ベルリン暴動」でライプツィヒの警官隊に射撃命令を出し、ウルブリヒト議長から称賛されたフレーリヒの名前には悪いイメージが定着。「ドイツ統一」からしばらくすると、マズアがその葬儀で重要な役回りだったことを批判する人も現れたりしています(ケーゲルは既に死去)。
  ちなみに「東ベルリン暴動」は日本だけの呼び名で、実際には東ドイツ各地で蜂起が発生したことから、海外では「1953年6月17日の蜂起」という呼称が一般的。
  そしてフレーリヒの葬儀の翌年、1971年には東ドイツが「スターリン主義者」のウルブリヒト体制から、「マルクス=レーニン主義者」のホーネッカー体制に移行しており、何の後ろ盾もないケーゲルは、自分が「マルクス=レーニン主義者」であると表明(ちなみにマズアは、ドイツ統一後、自身をクリスチャンだと語っていました)。
  以上のような状況から、もしかしたらこの1970年のフレーリヒ葬儀への出席(とワーグナー市長の存在)が、家族が出て行ってしまって鬱気味だったケーゲルのさらなる心の負担になっていたのかもしれません。
  レーグナーがケーゲル指揮ダラピッコラの『囚われ人の歌』の演奏で、ピアノを担当してから34年、その2年後にはケーゲルの後任として、レーグナーはライプツィヒ放送大管弦楽団の首席指揮者に就任。ケーゲルはレーグナーが音楽総監督を務めていた時代のベルリン国立歌劇場でもよく指揮をしていましたし、レーグナーが初来日した1978年12月の1年後にはケーゲルも初来日を果たし、以後、何度も日本を訪れていました。共にアーベントロートのもとで働いたことがあり、政党や政治団体に所属せず、レパートリーが広く、現代音楽にも強く、また、合唱指揮にも精通するなど、芸風は異なるものの共通点も多い2人でした。


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 1991年(61〜62歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団特別客演指揮者

◆4月、「トロイハント信託公社」総裁のデトレフ・ローヴェッターがライフル銃で暗殺。ドイツ赤軍が犯行声明を出しているものの、犯人は不明。ローヴェッターはドイツ社会民主党(SPD)のメンバーで、後任のキリスト教民主同盟(CDU)議員ビルギット・ブロイエルは、西ドイツのニーダーザクセン州経済労働大臣でした。
●11月、レーグナー、ベルリン放送響。シューベルト8番、シェーンベルク『浄夜』。ライヴ収録。(Weitblick)。
●11-12月、レーグナー、ベルリン放送響。来日公演。モーツァルト:レクイエム、アヴェ・ヴェルム・コルプス、フリーメーソンのための葬送音楽、ヴァイオリン協奏曲第5番、ブラームス2番、ベートーヴェン9番、ヴァイオリン協奏曲、バッハ:G線上のアリア、ほか。ライヴ収録。(ドイツ・シャルプラッテン&徳間)
◆12月、ソ連崩壊。ゴルバチョフ辞任&ソ連共産党解散。


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 1992年(62〜63歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団特別客演指揮者

◆1月、エリツィン、貿易、価格、通貨の自由化と緊縮財政策を導入し、市場経済への移行を準備。国債も大量に発行。
◆ロシアで前年比2500%を超えるハイパーインフレ状態となり、市民生活の質が大幅に低下。GDP下落率もマイナス14.5%を記録。
◆10月、ロシアの国有資産を民間に移行できるよう株式売買制度を改革。制度を利用して新興財閥が続々と誕生。
●12月6日、レーグナー、読響。ベートーヴェン5番、ワーグナー『タンホイザー』序曲、ショパン:ピアノ協奏曲第1番(花房晴美)、スクリャービン『法悦の詩』。
●12月12日、レーグナー、読響。ベートーヴェン4番、シューマン:ピアノ協奏曲(伊藤恵)、スクリャービン『法悦の詩』。
●12月15・16日、レーグナー、読響。ベートーヴェン1・4番。ドイツ・シャルプラッテン録音。

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 1993年(63〜64歳) ベルリン放送交響楽団首席指揮者、読売日本交響楽団特別客演指揮者

●レーグナー、ベルリン放送交響楽団首席指揮者退任。在任期間は20年間。

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 1994年(64〜65歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者

●2月10日、レーグナー、読響。ベートーヴェン6番、ドヴォルザーク:交響的変奏曲、ヴァイオリン協奏曲(藤原浜雄)。
●4月25・26日、レーグナー、読響。ベートーヴェン2番、ワーグナー『ワルキューレの騎行』『ジークフリートのラインの旅』『ジークフリートの葬送行進曲』『ローエングリン』第3幕前奏曲。ドイツ・シャルプラッテン録音。
●4月30日・5月1日、レーグナー、読響。ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番、ブラームス2番。
◆5月29日、元社会主義統一党中央委員会書記のエーリッヒ・ホーネッカー、チリのサンティアゴで死去。1989年の失脚後、1991年にソ連に亡命、1992年にドイツに戻され、1993年に訴追免除となったのち、娘の住むチリに渡り、翌年に肝臓がんにより81歳で死去。
●12月20・21・22・23・25・26日、レーグナー、読響。ベートーヴェン9番。20日はドイツ・シャルプラッテンがライヴ録音。

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 1995年(65〜66歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者

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 1996年(66〜67歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者

●2月15日、レーグナー、読響。ブルックナー7番、モーツァルト36番。
●2月22日、レーグナー、読響。メンデルスゾーン2番(緑川まり、大沼美恵子、伊達英二、二期会合唱団)、ヴェーベルン:パッサカリア。

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 1997年(67〜68歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者

●3月5・7・8日、レーグナー、読響。マーラー1番、メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲(トーマス・クリスチャン)。
●3月15日、レーグナー、読響。ブラームス2番、ハイドン変奏曲、R.シュトラウス:ヴァイオリン協奏曲(渡辺玲子)。
●3月20日、レーグナー、読響。ベルリオーズ『幻想交響曲』、メンデルスゾーン『フィンガルの洞窟』、グリーグ:ピアノ協奏曲(小川典子)。

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 1998年(68〜69歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者

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 1999年(69〜70歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者

◆1月1日、ユーロ導入。当面は帳票上の通貨。現物の流通は2002年1月1日から。

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 2000年(70〜71歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者

●3月17・18日、レーグナー、読響。モーツァルト35番、『後宮からの誘拐』序曲、ドビュッシー『海』、ラヴェル『ボレロ』。
●3月23・24日、レーグナー、読響。ブラームス4番、R.シュトラウス『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』、ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲(前橋汀子)。

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 2001年(71〜72歳) 読売日本交響楽団特別客演指揮者

●12月10日夜、レーグナー、ライプツィヒで脳出血のため死去。突然の死だったということで、2002年4月19日には、ベルリン放送交響楽団とのシベリウス第2番と第6番のコンサートも予定されていました。

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 エテルナ・オリジナル・マスター・シリーズ

【ハインツ・レーグナー】
●マーラー:交響曲第3番、第6番 (3CD)
●ブルックナー:交響曲第4番、第5番、第6番、第7番、第8番、第9番 (6CD)

【オトマール・スイトナー】
●レジェンダリー・レコーディングス (7CD)
●ドヴォルザーク:交響曲全集 (5CD)

【ヘルマン・アーベントロート】
●ブルックナー:交響曲第4番、第5番、第9番 (3CD)
●ブラームス:交響曲第1番、第3番、第4番、ハイドン変奏曲 (2CD)
●モーツァルト」交響曲第33番、第35番、第38番、第41番、ディヴェルティメント第7番、ノットゥルノ (2CD)
●チャイコフスキー:交響曲第4番、第6番、シューマン:交響曲第4番、ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 (2CD)
●ハイドン:交響曲第88番、第97番、ヘンデル:二重協奏曲、バッハ:管弦楽組曲第3番

【ズスケ四重奏団】
●モーツァルト:弦楽四重奏曲第8番〜第23番 (5CD)


商品説明:年表シリーズ

指揮者
アーベントロート
アルヘンタ
アンセルメ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クナッパーツブッシュ&ウィーン・フィル
クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィル
クナッパーツブッシュ&ミュンヘン・フィル
クナッパーツブッシュ&国立歌劇場管
クナッパーツブッシュ&レジェンダリー・オーケストラ
クラウス
クリップス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スイトナー(ドヴォルザーク)
スイトナー(レジェンダリー)
スラトキン(父)
ターリヒ
チェリビダッケ
トスカニーニ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベイヌム
マルケヴィチ
ミトロプーロス
メルツェンドルファー
メンゲルベルク
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー(ブルックナー)
レーグナー(マーラー)
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
ヴェデルニコフ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
ソフロニツキー
タマルキナ
タリアフェロ
ティッサン=ヴァランタン
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
ノヴァエス
ハスキル
フェインベルク
ユージナ
ランドフスカ
ロン

弦楽器
カサド
コーガン
シュタルケル
スポールディング
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ
レビン

管楽器
デルヴォー(ダルティガロング)

声楽
ド・ビーク

室内アンサンブル
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
ズスケ四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
パスキエ・トリオ
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
伝説のフランスの弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
テスタメント国内盤

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