ローザ・タマルキナの芸術(3CD)
ソ連ものに強いイギリスのスクリベンダム・レーベルから注目盤の登場。15歳で全ソ連コンクールに出場し、グリンベルク(2位)、ザーク(3位)という年長の実力者を破って優勝、16歳の時にはショパン国際コンクールで第2位となった逸材タマルキナのセットです。タマルキナは1920年生まれですが、病気のため1950年に30歳で亡くなっており、しかもキャリアのど真ん中に戦争があったということで、遺された音源は少なく、今回のセットも3枚組という規模ですが、演奏内容はどれも傾聴に値するものです。
演奏者情報
【タマルキナの結婚】
ショパン国際コンクールの9か月後、インフルエンザの合併症でイザイ国際コンクールに出場できなくなったタマルキナは、自分にプロポーズしてきたギレリスとフリエールの2人に対して、イザイ国際コンクールで勝った方と結婚すると言い放って、優勝したギレリスと1940年に結婚したというエピソードでも知られています。しかし結婚して間もない1941年6月にドイツとの戦争が始まり、1944年春にはホジキンリンパ腫であることが判明し、2人はほどなく離婚。
以後は治療を続けながら、6年後に30歳の若さで亡くなるまで、ときには高熱にもかかわらず演奏活動や教育活動をおこなうなどして音楽界に身を捧げています。
ホジキンリンパ腫といえば、ディヌ・リパッティを苦しめた病気でもありました。しかも偶然にも2人ともパートナーがピアニスト仲間で、亡くなった年も1950年と同じです。
もっともリパッティの場合は、平和な戦後になってから告知を受け、恋人だったマドレーヌが、告知後にリパッティをサポートするために結婚するという状況だったので、タマルキナの場合とは事情が大きく異なっています。
タマルキナの初期症状が現れ始めたのは1943年のことでしたが、当時、ソ連はドイツとの「大祖国戦争(東部戦線)」のさなかにありました。NKVDによる「大粛清」で少佐以上の上層部約8割が処刑された影響もあって軍はひどい状況にあり戦果も惨敗続き、兵士や兵器に膨大な犠牲が出ており、1942年には、愛国心の強いギレリスは共産党に入党。結婚生活や疎開生活よりも、前線や病院での兵士の慰問公演を優先する生活を送らざるを得なくなっていました(ギレリスは1947年に再婚)。
ちなみにソ連の共産党員数は、多い時で2千万人近いという大きな規模で、職業上でも生活上でもさまざまな条件が向上することから、多くの国民が入党を希望して審査を受けており、オーケストラ楽員や歌劇場の歌手たちなど多数の音楽家も入党しています。
中でもロシア帝国時代の民族主義(ウクライナでのポグロム等)が、ソ連でも再燃するのではないかと不安視していたユダヤ系には特に人気があり、ギレリスやオイストラフ、コーガン、ザーク、コンドラシン、ハイキン、パゾフスキー、シャフランなど有名どころも多数入党。一方で、貴族や富農の子孫(ムラヴィンスキー等)、宗教関係者(ゴロワノフ、ユージナ等)、「人民の敵」の親族(グリンベルク、リヒテル等)、は入党が認められず、さらに国内パスポート(身分証)の民族欄が「ドイツ人」となっているドイツ移民の子孫(ネイガウス、ガウク、リヒテル等)、も入党が許されていませんでした。
【タマルキナとコンクール】
第1回全ソ連音楽コンクール
1933年に初めて開催された全ソ連音楽コンクールは15歳以上が対象で、13歳のタマルキナには本選への出場資格はありませんでしたが、ゴリデンヴェイゼル門下の才能ある子供の一人として年少者の枠で出演し、リストのハンガリー狂詩曲第10番を弾いて特別賞を与えられています。
本選の方では、当時16歳のエミール・ギレリスが優勝。ギレリスもタマルキナと同じウクライナ生まれのユダヤ人で、2人は7年後に結婚することになります。
第2回全ソ連音楽コンクール
2年後の1935年、2度目の開催となる全ソ連音楽コンクールに再びタマルキナが出場し、今度は見事に優勝。第2位は27歳のマリア・グリンベルク[1908-1978]、第3位は21歳のヤコフ・ザーク[1913-1976]という共に年長の実力者が入賞する強豪揃いのコンクールでしたが、タマルキナの演奏は誰よりも強烈だったようです。ちなみに3人ともウクライナ生まれのユダヤ人です。
ショパン国際ピアノ・コンクール準備のゴタゴタ
翌1936年、ソ連政府は、1937年に5年ぶりに開催されるショパン国際コンクール対策として4人から成る出場チームを準備。サンクトペテルブルクでおこなわれたオーディションには40人のプロや学生のピアニストが応募し、その中から上記、第2回全ソ連音楽コンクールの上位入賞3人に、ウクライナ生まれのユダヤ人のタチアナ・ゴリドファルブを加えた4人のメンバーが選出されます。
しかし1937年1月、マリア・グリンベルクが妊娠していることが発覚、チームから外されてしまいます。グリンベルクは1936年にポーランド人と結婚しており、このとき妊娠6か月、コンクールの頃には約8か月になっているという計算となり、出場が認められませんでした。
さらにグリンベルクは8か月後、恐ろしい大粛清の渦に巻き込まれていくことになります。グリンベルクの代わりに出場したのは、同じくウクライナ生まれのユダヤ人であるニーナ・エメリャノワ[1912-1998]で、入賞は逃したものの本選出場を果たしたことで、タマルキナと同じく、ソ連政府より名誉記章勲章を授与されています。
ショパン国際ピアノ・コンクール
1937年、21か国79名が参加してポーランドで開催された第3回ショパン国際ピアノ・コンクールで、16歳のタマルキナが第2位を獲得。このときのタマルキナの演奏に対して、副審査員長のバックハウスも、審査員のラザール・レヴィ(ハスキルの恩師)も大絶賛していたとソ連唯一の審査員ネイガウスがモスクワに報告しており、第2位は不思議な気もしますが、ショパン・コンクールの歴代優勝者の最低年齢は18歳なので、時代が時代ですし、もしかしたら何か事情があったのかもしれません。
優勝はソ連チームの23歳のヤコフ・ザーク、第3位はポーランド人ヴィトルド・マウツジンスキ[1914-1977]で、第6位にドイツ系ユダヤ人エディト・ピヒト=アクセンフェルト[1914-2001]、第7位にフランス人モニク・ド・ラ・ブルショルリ[1915-1972]、第9位にソ連チームのタチアナ・ゴリドファルブ、そして観客賞が日本人の原千恵子というのが主な結果でした。


年表
1920年(0歳)
◆3月23日、タマルキナ、ソ連のキエフで誕生。父ヴラディーミル・マルコヴィチ・タマルキン[1882-1969]と母アンナ・リヴォヴナ・タマルキナ[1883-1942]の三女。母が音楽好き、叔父が調律師で、姉のマリアとサラはピアノとヴァイオリンを学んでいました。
◆4月、ヴランゲリ将軍が白軍の全権を掌握。翌月にはロシア軍と名を改めてクリミア半島を拠点に赤軍と戦闘。「ロシア内戦(第3期)」勃発。
◆10月、「ポーランド・ボリシェヴィキ戦争」、ボリシェヴィキ側の要請で停戦。ポーランドの勝利で終結し、翌年3月に講和条約締結。
◆11月、ヴランゲリ将軍が敗北、ユーゴスラヴィアに亡命。「ロシア内戦(第3期)」終結。
◆内戦は深刻な飢餓も引き起こし、全死者数は800万人とも言われています。内戦後の耕地面積は内戦前の62パーセント、生産量は37パーセント、金属製農機具生産量は13パーセントに減少。耕作馬の頭数は350万頭から240万頭に減少、牛は580万から370万に減少。さらに輸送手段である機関車の稼働率も半分以下になっていました。
為替レートも、米ドル「1ドル=2ルーブル」から、「1ドル=1,200ルーブル」となり600分の1の価値に下落、超ルーブル安となり、輸出競争力が急上昇し、国外からの投資も集めやすくなり、そうした金融環境が、翌年のレーニンによる資本主義的な新経済政策(ネップ)策定に繋がったものとも考えらえます。
1921年(1歳)
◆3月、「ポーランド・ソヴィエト戦争」、ポーランドの勝利により終結。講和条約が結ばれ、ポーランドはリトアニア中部とウクライナ西部を併合。
◆3月、ソヴィエトで新経済政策(ネップ)施行。余剰作物などの資本主義的運用により、経済が活性化。
◆4月、タンボフの反乱。アントーノフ率いる数万人の農民たちを、レーニンの指示により5万人規模の赤軍とチェーカーが、毒ガスなどを用いて6月までに殲滅。
◆7月、紙幣の種類に、25,000ルーブル、50,000ルーブルと100,000ルーブルが追加。
◆11月、第1回通貨切り下げ実施。旧紙幣10,000ルーブル=1922年度紙幣1ルーブルという基準。
◆ヴォルガ流域を中心に全国規模で飢饉発生。翌年にかけて栄養失調などが原因で農村中心にチフスやコレラが流行、数百万規模の犠牲者が出て、モスクワなど都市部にもホームレスや浮浪児が集まるようにもなります。
1922年(2歳)
◆3月、レーニンが「聖職者全員銃殺」を指令。まず翌年にかけて、主教28人、司祭2,691人、修道士1,962人、修道女3,447人のほか、信徒も多数を処刑。財産を没収し、飢饉対策にも使用しました。
◆5月、レーニンによる「知識人追放指令」。秘密警察(GPU)の分類により、反政府的とされた知識人を追放。この場合の「知識人」は、哲学者、文学者、法律家、経済学者、組合活動家などが対象となります。
レーニンは、音楽、演劇、映画、美術などの「芸術家」は、プロパガンダに結び付くことから積極的に活動を支援し、「科学者」「建築家」なども、人数が不足していたことから優遇していましたが、いわゆる「知識人」については、反共産主義や反政府的活動に繋がりやすいという判断から監視・弾圧をおこなっていました。
◆5月26日、レーニン、最初の脳梗塞発作。5か月間の入院中に回復するものの簡単な計算なども困難な状態に。その間、スターリンは、カーメネフ、ジノヴィエフとのトロイカ体制を確立、有力幹部トロツキーに対抗します(のちにカーメネフ、ジノヴィエフは粛清、トロツキーは国外追放のうえ暗殺)。
◆6月、レーニンが反政府知識人の大量追放を指令し、数万人を強制収容所などに送致。
◆10月、第2回通貨切り下げ実施。1922年度紙幣100ルーブル=1923年度紙幣1ルーブルという基準。第1回通貨切り下げに当てはめると、100万分の1になった計算。
◆12月、ソビエト社会主義共和国連邦成立宣言。
◆12月16日、レーニン、2度目の脳梗塞発作。右手の麻痺はあるものの仕事は口述で遂行。
1923年(3歳)
◆3月10日、レーニン、3度目の脳梗塞発作。回復せず10か月後に死去。その間、スターリンが実権掌握。
◆11月、ドイツでハイパーインフレ対策として臨時通貨レンテンマルク発行開始。1兆分の1という交換比率で、ハイパーインフレを乗り切ります。
◆11〜12月、紙幣の種類に、10,000ルーブルと15,000ルーブルが追加。
1924年(4歳)
◆1月、レーニン死去、スターリンが最高指導者に。
◆1月、ソ連憲法制定。
◆2月、紙幣の種類に、25,000ルーブルが追加。
1925年(5歳)
1926年(6歳)
◆メンジンスキー、OGPU(秘密警察)長官に就任。のちに大規模な粛清を実施。
1927年(7歳)
1928年(8歳)
◆タマルキナ、キエフ音楽院でナデジナ・マルコヴナ・ゴールデンベルクに師事。
1929年(9歳)
◆タマルキナ、キエフ音楽院でゴールデンベルクに師事。
◆ソ連政府により憲法の宗教に関する部分が改正。すべての宗教の社会的・教育的・慈善的活動が禁じられ、宗教団体の拠点も当局指定の建物に限定、布教活動も不可能となり、また、教会を国と切り離して民間団体として扱い、聖職者には重税が課せられることとなりました。1918年には教会の土地・財産は没収されていたので、これで財政基盤が極度に弱体化し、さらに学校では無神論を教えるようになります。
◆トロツキー、国外追放。
◆スターリンによりレーニンの新経済政策(ネップ)否定。市場経済の廃止。
◆戦闘的無神論者同盟発足。
1930年(10歳)
◆タマルキナ、キエフ音楽院でゴールデンベルク、シルヴァークに師事。
1931年(11歳)
◆タマルキナ、キエフ音楽院でシルヴァークに師事。
◆メンジンスキー統合国家政治局(OGPU)長官による大規模な粛清が実施。
◆12月、スターリンにより、高さ103メートルという世界最大の正教会建造物である「救世主ハリストス大聖堂」が爆破(ハリストス=キリスト)。教会への弾圧はロシア革命初期の1917年から始まっていますが、それでも1930年にはまだ3万の教会がありました。しかし憲法改正後の1931年からは、閉鎖や爆破、収容所への転用などが本格化し、1939年には実際に使用されているソ連の教会は数百ほどにまで減少しています。
1932年(12歳)
◆タマルキナ、キエフ音楽院でシルヴァークに師事。
◆タマルキナ、ゴリデンヴェイゼルの創設した音楽教室(モスクワ中央音楽学校の前身)で、同郷のアンナ・ダニロヴナ・アルトボレフスカ[1905-1988]に師事。
◆ソ連・ポーランド不可侵条約締結。
◆ユダヤ系のカガノーヴィチによる民族主義運動抑圧政策でウクライナ国境封鎖。ソ連の輸出を支えていたウクライナ農作物の過剰な収奪により、人工的な大飢饉(ホロドモール)となり、栄養失調により免疫機能の衰えたウクライナの農民たちは、翌年にかけてチフスなどで約700〜1000万人(国連共同声明数値)が犠牲になります。また、民族主義運動の可能性があるということで、ウクライナ人、ウクライナ・ドイツ人の文化人や知識層も追放などされていましたが、ユダヤ系は除外されており、飢饉下でもオデッサなど都市部では普通の生活が営まれていました。
1933年(13歳)
◆タマルキナ、ソ連国内でコンサート開始。
1934年(14歳)
◆1月、ドイツ・ポーランド不可侵条約締結。
◆9月、ヤゴーダが内務人民委員に就任。任期中の2年間に粛清を進めるものの、スターリンからはあまり好まれず、左遷となります。
1935年(15歳)
◆11月、ルーブルの為替相場をフランス・フランの基準に設定。1ルーブル=3フランス・フラン。
1936年(16歳)
◆タマルキナ、ショパン国際ピアノ・コンクールに出場するソ連チームに選出。チーム・メイトは、マリア・グリンベルク[1908-1978]、ヤコフ・ザーク[1913-1976]、タチアナ・ゴリドファルブ[1914-1964]で、全員ユダヤ人でした。
◆4月、フランス・フラン切り下げにより、1ルーブル=4.25フランス・フラン。
◆11月、スターリン憲法制定。官僚制を強化して大粛清に備えます。
1937年(17歳)
◆1月、ショパン国際ピアノ・コンクール出場チームからグリンベルクが外されます。彼女は前年に結婚しており、このとき妊娠6か月ということが発覚、、コンクールの頃には約8か月になっているという計算で出場が認められませんでした。
ちなみにグリンベルクはこの後、恐ろしい出来事に巻き込まれていきます。グリンベルクの代わりに出場することになったのは、同じくウクライナ生まれのユダヤ人であるニーナ・エメリャノワ[1912-1998]で、入賞は逃したものの本選出場を果たしたことで、タマルキナと同じく、ソ連政府より名誉記章勲章を授与されています。
◆3月、タマルキナ、第3回ショパン国際ピアノ・コンクールに出場し第2位を獲得。まだ16歳でした。優勝は23歳のヤコフ・ザークで、第3位は22歳のヴィトルド・マウツジンスキ、第6位にエディト・ピヒト=アクセンフェルト、第7位にモニク・ド・ラ・ブルショルリ、観客賞に原千恵子といった年でした。
下の画像はソ連チームの4人で、左からゴリドファルブ(第9位)、ザーク(第1位)、タマルキナ(第2位)、エメリャノワ(本選出場)。4人ともソ連政府より名誉記章勲章を授与されています。
◆3月、タマルキナ、ザークらと共に、ワルシャワ、ウッチ、クラクフ、カトヴィツェなどポーランド各地のコンサートに出演。
◆3月23日、タマルキナの誕生日パーティーをワルシャワのソ連大使館で開催。
◆3月、タマルキナ、キエフ、オデッサなどウクライナのコンサートに出演。
◆3月、タマルキナ、ザーク、ゴリドファルブ、ネイガウスらがモスクワに帰還。

◆4月27日、タマルキナ、ソ連政府より名誉記章勲章を授与されます。
1938年(18歳)
◆タマルキナ、インフルエンザの合併症で右手にトラブル発生。同年5月開催のイザイ国際コンクールへの出場を断念します。

◆タマルキナ、ロシア生まれのユダヤ人ヤコフ・フリエール[1912-1977]と、ウクライナ生まれのユダヤ人エミール・ギレリス[1916-1985]の2人から求婚され、イザイ国際コンクールで勝った方と結婚すると返答。
◆5月、ギレリス、イザイ国際コンクールで優勝。タマルキナは約束を守って結婚。フリエールは3位でした。ちなみに1936年のウィーン国際ピアノ・コンクールでは、フリエールが優勝、ギレリスは2位でした。
1939年(19歳)
◆タマルキナ、モスクワ市議会の副議長に選出。

◆タマルキナ、リヴィウ、レニングラード、ほかで公演。
◆8月、独ソ不可侵条約締結。
◆9月、ドイツ軍、赤軍、ポーランド侵攻。
◆10月、ポーランド分割。
◆10月、赤軍、フィンランド侵攻。
◆10月、ソ連、国際連盟から除名。
1940年(20歳)
◆タマルキナ、モスクワ音楽院を卒業。

◆タマルキナ、ギレリスと結婚。
◆タマルキナ、モスクワ音楽院大学院で、ロシア生まれのユダヤ人アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル[1875-1961]に師事。
1941年(21歳)
◆タマルキナ、リトアニアのヴィリニュスとカウナス、北コーカサスのクラスノダールで演奏。
◆タマルキナ、ピアニストとしてモスクワ・フィルハーモニック協会に所属。
◆「ユダヤ反ファシスト委員会」設立。アメリカの投資家たちから莫大な資金を調達。その資金をソ連政府は戦費として使用します。
◆6月22日、ドイツ政府が不可侵条約を破り、ソ連領土への軍事侵攻を開始。前年12月に侵攻計画(および占領地からの食料調達&移住計画)を立て始めていたドイツは、すでにソ連国境付近に約550万の兵と戦車3,712両、軍用機4,950機、野砲等4万7,260門などから成る大部隊を配備済みで、以後、3年10か月で約2,660万人のソ連国民を殺害することになります。
◆6月、モスクワではドイツ軍の攻撃に備える作業が前月から始まっており、ボリショイ劇場の前でも巨大な防空気球が準備されたりしていましたが、それでも追いつかないほどの執拗な無差別爆撃がおこなわれることになります。
◆7月22日、ドイツ軍が初めてモスクワを空爆。5時間に渡って約4万5千発の焼夷弾と約100トンの高性能爆弾(SC1000等)が、220機の爆撃機(ハインケル社のHe-111、ドルニエ社のDo-17、Do-217、ユンカース社のJu-88等)により無差別爆撃。多くの建物・施設を破壊・焼失させ、疎開前の多くの民間人等も殺害。以後、1943年夏までの2年間に121回のモスクワ無差別爆撃を実施。下の画像は高射砲と、撃墜されたドルニエ Do-17。
◆7月、赤軍、ポーランドでドイツ軍に破れ撤収。ポーランド全土がドイツ領に
◆8月、ドイツがウクライナを占領。「帝国管区ウクライナ」とし、親衛隊が直接統治。西ウクライナでは、ナチス・ドイツを解放者として歓迎。西ウクライナは古くからポグロムの盛んな地として有名。
◆9月、ウクライナの首都キエフのバビ・ヤールでユダヤ人など大量虐殺。虐殺実行部隊は約1,200人のウクライナ人と、約300人のドイツ人。29日と30日だけでキエフ市民のユダヤ人ら33,771人が殺害。その後も虐殺行為は続けられ、赤軍に解放される1943年11月までの2年間に計7〜12万人のユダヤ人、ロシア人、ウクライナ人、ロマなどが殺害
◆9月、ドイツなどによるレニングラードへの攻撃が開始。まずドイツが食糧貯蔵庫や燃料貯蔵庫を爆撃
◆10月、モスクワ攻防戦(翌年1月まで)。政府機能をクイビシェフに疎開(1944年まで)。多くの政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者が疎開するものの、市民の多くは残されていたため、ピアニストのマリア・ユージナなどは疎開せずに活動。
◆11月、赤の広場で軍事パレード実施。これは約410万人のモスクワ市民のうち、疎開できていたのが、主に政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者だったことから、残された市民が近づくドイツ軍への恐怖から暴動などを起こさないよう安心感を与えるためで、同じ理由からロシア正教への弾圧をやめ、ほどなく復活させることを約束してもいました。
◆11月、ドイツ軍、モスクワから8キロの地点まで侵攻。赤軍必死の抵抗。
◆11月29日、ジューコフ将軍による大攻勢が開始。兵力は極東に展開していた赤軍40個師団、約75万人の精鋭部隊で、すでにモスクワへの移動を完了していました。
1942年(22歳)
◆6月、スターリングラード攻防戦開始(翌年2月まで)。役人など政府関係者の疎開しか認めず一般市民の疎開は禁じられたため、膨大な数の犠牲が出たと考えられています。
◆タマルキナ、タシケントでの疎開生活の傍ら、シベリアのノヴォシビリスク、ウラルのスヴェルドロフスク、カザフスタンのアルマトイとフルンゼなどで数多く演奏。
◆12月、タマルキナ、モスクワ音楽院大ホールで演奏。ソフロニツキーが絶賛。
1943年(23歳)
◆1月、赤軍、モスクワ攻防戦に勝利。
◆タマルキナ、ホジキンリンパ腫の症状が現れるようになり、体調不良が続いたりします。
◆タマルキナとギレリス、離婚。
◆タマルキナ、モスクワ音楽院大学院で、コンスタンチン・イグムノフ[1873-1948]に師事。
1944年(24歳)
◆タマルキナ、モスクワ音楽院大学院で、イグムノフに師事。
◆タマルキナ、モスクワ・フィルハーモニック協会所属のピアニストとして演奏。
◆1月、赤軍、レニングラードを解放。
◆2月11日、モスクワ音楽院大ホールで、ヤコフ・ザーク、ギレリスとの共演、アノーソフの指揮でバッハの3台のピアノのための協奏曲を演奏。

◆春、タマルキナの親族に対し、ホジキンリンパ腫の告知がおこなわれます。
◆タマルキナ、ギレリスと離婚。
1945年(25歳)◆タマルキナ、モスクワ音楽院大学院で、イグムノフに師事。
◆タマルキナ、モスクワ音楽院大学院卒業。
◆タマルキナ、モスクワ・フィルハーモニック協会所属のピアニストとして演奏。
◆タマルキナ、モスクワ郊外のボルシェヴォにある療養所で治療。
◆12月、NKVDのトップ交替。クルグロフがベリヤの後任として内務人民委員に就任。クルグロフはベリヤの部下として、エジョフ派の大量粛清や、チェチェン、イングーシ人の弾圧、ウクライナ民族主義運動活動家の粛清もおこなっていた人物。
1946年(26歳)
◆タマルキナ、モスクワ音楽院で、イグムノフの助手として教職に就きます。ベラ・ダヴィドヴィチなどを教えます。
◆タマルキナ、モスクワ・フィルハーモニック協会所属のピアニストとして演奏。
◆ 3月、チャーチル首相がアメリカ訪問中、マスコミが注視する場で「鉄のカーテン」という言葉を使って演説。「鉄のカーテン」という言葉そのものは1918年のロシアで使われ始め、ナチス・ドイツのゲッベルスも使用していましたが、政治・マスコミ向けの本格的なプロパガンダ・ツールとなるきっかけはこの時の演説でした。以後、世界の莫大な税公金が東西両陣営のプロパガンダや軍需産業に注ぎ込まれることになります。
1947年(27歳)
◆ギレリス、23歳のファリザ・アルカマドヴナ[1924-1998]と再婚。翌年9月には娘のエレナ[1948-1996]が生まれています。

◆タマルキナ、モスクワ音楽院ピアノ科でイグムノフの助手として教えます。
◆タマルキナ、モスクワ・フィルハーモニック協会所属のピアニストとして演奏するほか、アゼルバイジャンのバクー、ウラルのスヴェルドロフスク、北コーカサスのキスロヴォーツクなどで演奏。
◆9月、コミンフォルム設立。スターリンに次ぐ存在でもあったアンドレイ・ジダーノフ[1896-1948]がスターリンの名のもとに組織したもので、ヨーロッパ各国の共産党との交流・調整を目的とし、アメリカのマーシャル・プランに対抗します。
◆12月、ソ連で通貨切り下げ実施。現金交換比率10分の1になるものの、賃金、年金などは1対1の交換比率で、国家小売価格も引き下げ。為替レートはそのままとし、輸出優先体制とします。
1948年(28歳)
◆2月、ジダーノフ批判。西側コスモポリタニズムを批判し、文化全般についても社会主義リアリズムを重視した方針で統制することをコミンフォルム設立者のジダーノフが宣言。もともとプロレタリア芸術から発展した社会主義リアリズム芸術は、反コスモポリタニズムの視点から反ユダヤ的な方向にも展開しやすく、文学、演劇、音楽、美術、映画などに大きな影響力を持つこととなります。スターリンの死と共に迫害は収まるものの、正式に統制が解除されたのは1958年5月のことでした。ちなみにジダーノフは宣言の半年後、モスクワで52歳で急死しています。

◆タマルキナ、モスクワ音楽院ピアノ科でイグムノフの助手として教えます。
◆タマルキナ、モスクワ・フィルハーモニック協会所属のピアニストとして演奏。
◆4月、ソ連作曲家同盟第1回総会開催。スターリンとジダーノフにより、34歳のフレンニコフ[1913-2007]が書記長に選出。以後、フレンニコフは43年間に渡ってその地位を守り続けました。

◆5月24日、タマルキナの師、コンスタンチン・イグムノフ死去。

◆夏、タマルキナ、モスクワ郊外のアブラムツェボにある科学アカデミー療養所で治療。
1949年(29歳)
◆冬、タマルキナ、モスクワ郊外のポドリプキにある療養所で治療。

◆タマルキナ、モスクワ音楽院ピアノ科でイグムノフの助手として教えます。
◆タマルキナ、モスクワ・フィルハーモニック協会所属のピアニストとして演奏。
◆10月、タマルキナ、モスクワ音楽院大ホールで開催されたショパン没後100周年記念演奏会で、ピアノ協奏曲第2番を演奏。
◆夏、タマルキナ、ラトヴィアのジンタリでヴァカンス。
1950年(30歳)
◆2月、タマルキナ、最後のコンサート。
◆8月5日、タマルキナ、モスクワで死去。ホジキンリンパ腫発症から7年目でした。
◆タマルキナ、モスクワのヴヴェデンスコエ墓地に埋葬。

◆12月2日、ディヌ・リパッティ、ホジキンリンパ腫により発症から7年目で死去。
収録情報
Disc1
◆ショパン:スケルツォ第3番 嬰ハ短調 Op.39
◆ショパン:幻想曲 ヘ短調 Op.49
◆ショパン:幻想ポロネーズ 変イ長調 Op.61
録音: 1947&1948年
◆ラフマニノフ:前奏曲 ヘ長調
◆ラフマニノフ:前奏曲 変ホ短調
◆ラフマニノフ:前奏曲 ハ短調 Op.23 No.7
◆ラフマニノフ:ガヴォット ニ長調
録音: 1947&1948年
◆ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op.18
ソヴィエト国立交響楽団
ニコライ・アノーソフ(指揮)
録音: 1948年5月26日 モスクワ音楽院大ホール
◆ショパン:練習曲 Op.10 No.5
◆ショパン:練習曲 Op.25 No.2
◆ショパン:マズルカ 嬰へ短調 Op.59 No.3
録音: 1937年(?)
Disc2
◆シューマン:3つの幻想小曲集 Op.111
第1曲 ハ短調: きわめて速く、情熱的に演奏すること
第2曲 変イ長調: かなりゆっくりと
第3曲 ハ短調: 力強く、くっきりと
◆フランク:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ イ長調
マリーナ・コソルポワ(ヴァイオリン)
録音: 1947&1948年
◆ブラームス:ピアノ五重奏曲 ヘ短調 Op.34
ボリショイ劇場弦楽四重奏団
イーゴリ・ジューク、ボリス・ヴェルトマン(ヴァイオリン)
ミハイル・グルヴィチ(ヴィオラ)
イサーク・ブラフスキー(チェロ)
録音: 1947年,モスクワ音楽院大ホール(ライヴ)
Disc3
◆シューベルト:即興曲 変ホ長調 Op.90 D.899 No.2
◆シューベルト:即興曲 変ト長調 Op.90 D.899 No.3
録音: 1946年,モスクワ音楽院 大ホール(ライヴ)
◆シューベルト:『美しき水車小屋の娘』〜水車職人と小川(編曲:リスト)
◆シューベルト:『冬の旅』〜かじかみ(編曲:リスト)
録音: 1948年4月24日
◆リスト:『リゴレット』による演奏会用パラフレーズ
録音: 1947年 モスクワ音楽院大ホール(ライヴ)
◆リスト:巡礼の年 第2年『イタリア』『ペトラルカのソネット 第104番』 S.161/R.10
◆リスト:ハンガリー狂詩曲第10番 ホ長調
録音: 1948年 モスクワ音楽院 大ホール(ライヴ)
◆タネーエフ:ピアノ五重奏曲 ト短調 Op.30
ボリショイ劇場弦楽四重奏団
録音: 1946年
ローザ・タマルキナ(ピアノ)
商品説明詳細ページ一覧
【複数作曲家】
◆
女性作曲家たち
◆
Piano Classics スラヴ・エディション
◆
Piano Classics フレンチ・エディション
◆
Piano Classics アメリカ・エディション
◆
オランダのピアノ協奏曲集
◆
オランダのチェロ協奏曲集
◆
イタリアのヴァイオリン・ソナタ集
◆
イタリアのチェロ・ソナタ集
◆
ファゴットとピアノのためのロマン派音楽
【中世〜バロック作曲家(生年順)】
◆
ヒルデガルト・フォン・ビンゲン (1098-1179)
◆
バード (c.1540-1623)
◆
スウェーリンク (1562-1621)
◆
モンテヴェルディ (1567-1643)
◆
ファゾーロ (c.1598-c.1664)
◆
カッツァーティ (1616-1678)
◆
レグレンツィ (1626-1690)
◆
ルイ・クープラン (1626-1661)
◆
クープラン一族
◆
ブクステフーデ (1637-1707)
◆
マッツァフェッラータ (c.1640–1681)
◆
マンネッリ (1640-1697)
◆
ムルシア (1673-1739)
◆
グリューネヴァルト (1673-1739)
◆
ダンドリュー (1682-1738)
◆
J.S.バッハ (1685-1750)
◆
B.マルチェッロ (1686-1739)
◆
ゴットリープ・ムッファト (1690-1770)
◆
モルター (1696-1765)
◆
スタンリー (1713-1786)
◆
ヨハン・エルンスト・バッハ (1722-1777)
◆
ビンダー (1723-1789)
【古典派&ロマン派作曲家(生年順)】
◆
ハイドン (1732-1809)
◆
ミスリヴェチェク (1737-1781) (モーツァルトへの影響大)
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ボッケリーニ (1743-1805)
◆
ギロヴェッツ (1763-1850)
◆
モンジュルー (1764-1836) (ピアノ系)
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ベートーヴェン (1770-1827)
◆
クラーマー (1771-1858)
◆
ジャダン (1776-1800) (ピアノ系)
◆
ソル (1778-1839) (ギター系)
◆
リース (1784-1838)
◆
ブルックナー (1824-1896)
◆
ルビンシテイン (1829-1894)
◆
マルトゥッチ (1856-1909)
◆
マーラー (1860-1911)
◆
トゥルヌミール (1870-1939)
◆
ルクー (1870-1894)
◆
レーガー (1873-1916)
◆
ラフマニノフ (1873-1943)
【近現代作曲家(生年順)】
◆
シェーンベルク (1874-1951)
◆
ウォルフ=フェラーリ (1876-1948)
◆
レスピーギ (1879-1936)
◆
レーバイ (1880-1953) (ギター系)
◆
マルティヌー (1890-1959)
◆
カステルヌオーヴォ=テデスコ (1895-1968)
◆
ミゴ (1891-1976) (ギター系も)
◆
サントルソラ (1904-1994) (ギター系も)
◆
ショスタコーヴィチ (1906-1975)
◆
ラングレー (1907-1991) (オルガン系)
◆
アンダーソン (1908-1975)
◆
デュアルテ (1919-2004) (ギター系)
◆
プレスティ (1924-1967) (ギター系)
◆
テオドラキス (1925-2021)
◆
ヘンツェ (1926-2012)
◆
スハット (1935-2003)
◆
坂本龍一 (1952-2023)
【オーケストラ】
◆
ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
【指揮者(ドイツ・オーストリア)】
◆
アーベントロート
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エッシェンバッハ
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カラヤン
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クナッパーツブッシュ (ウィーン・フィル、
ベルリン・フィル、
ミュンヘン・フィル、
国立歌劇場管、
レジェンダリー)
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クラウス
◆
クリップス
◆
クレンペラー (VOX&ライヴ、
ザルツブルク・ライヴ、
VENIASボックス
◆
サヴァリッシュ
◆
シューリヒト
◆
スイトナー (ドヴォルザーク、
レジェンダリー)
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フリート
◆
フルトヴェングラー
◆
ヘルビヒ (ショスタコーヴィチ、
マーラー、
ブラームス)
◆
ベーム
◆
メルツェンドルファー
◆
ヤノフスキー
◆
ライトナー
◆
ラインスドルフ
◆
レーグナー (ブルックナー、
マーラー、
ヨーロッパ、
ドイツ)
◆
ロスバウト
【指揮者(ロシア・ソ連)】
◆
アーロノヴィチ
◆
ガウク
◆
クーセヴィツキー
◆
ゴロワノフ
◆
ペトレンコ
◆
マルケヴィチ
【指揮者(アメリカ)】
◆
クーチャー(クチャル)
◆
スラトキン(父)
◆
ドラゴン
◆
バーンスタイン
◆
フェネル
【指揮者(オランダ)】
◆
オッテルロー
◆
クイケン
◆
フォンク
◆
ベイヌム
◆
メンゲルベルク
【指揮者(フランス)】
◆
パレー
◆
モントゥー
【指揮者(ハンガリー)】
◆
セル
◆
ドラティ
【指揮者(スペイン)】
◆
アルヘンタ
【指揮者(スイス)】
◆
アンセルメ
【指揮者(ポーランド)】
◆
クレツキ
【指揮者(チェコ)】
◆
ターリヒ
【指揮者(ルーマニア)】
◆
チェリビダッケ
【指揮者(イタリア)】
◆
トスカニーニ
【指揮者(イギリス)】
◆
バルビローリ
【指揮者(ギリシャ)】
◆
ミトロプーロス
【指揮者(日本)】
◆
小澤征爾
【鍵盤楽器奏者(楽器別・生国別)】
【ピアノ(ロシア・ソ連)】
◆
ヴェデルニコフ
◆
グリンベルク
◆
ソフロニツキー
◆
タマルキナ
◆
ニコラーエワ
◆
ネイガウス父子
◆
フェインベルク
◆
フリエール
◆
モイセイヴィチ
◆
ユージナ
【ピアノ(フランス)】
◆
ウーセ
◆
カサドシュ
◆
ティッサン=ヴァランタン◆
ハスキル
◆
ロン
【ピアノ(ドイツ・オーストリア)】
◆
キルシュネライト
◆
シュナーベル
◆
デムス
◆
ナイ
◆
レーゼル (ブラームス、
ベートーヴェン)
【ピアノ(イタリア)】
◆
フィオレンティーノ
【ピアノ(ハンガリー)】
◆
ファルナディ
【ピアノ(南米)】
◆
タリアフェロ
◆
ノヴァエス
【チェンバロ】
◆
ヴァレンティ
◆
カークパトリック
◆
ランドフスカ
【弦楽器奏者(楽器別・五十音順)】
【ヴァイオリン】
◆
オイストラフ
◆
コーガン
◆
スポールディング
◆
バルヒェット
◆
フランチェスカッティ
◆
ヘムシング
◆
リッチ
◆
レナルディ
◆
レビン
【チェロ】
◆
カサド
◆
シュタルケル
◆
デュ・プレ
◆
トルトゥリエ
◆
ヤニグロ
◆
ロストロポーヴィチ
【管楽器奏者】
【クラリネット】
◆
マンツ
【ファゴット】
◆
デルヴォー(ダルティガロング)
【オーボエ】
◆
モワネ
【歌手】
◆
ド・ビーク (メゾソプラノ)
【室内アンサンブル(編成別・五十音順)】
【三重奏団】
◆
パスキエ・トリオ
【ピアノ四重奏団】
◆
フォーレ四重奏団
【弦楽四重奏団】
◆
グリラー弦楽四重奏団
◆
シェッファー四重奏団
◆
シュナイダー四重奏団
◆
ズスケ四重奏団
◆
パスカル弦楽四重奏団
◆
ハリウッド弦楽四重奏団
◆
バルヒェット四重奏団
◆
ブダペスト弦楽四重奏団
◆
フランスの伝説の弦楽四重奏団
◆
レナー弦楽四重奏団
【楽器】
◆
アルザスのジルバーマン・オルガン