ロストロポーヴィチとブリテン、1961年オールドバラ音楽祭での貴重な共演!
3日前に行なわれたバッハ:無伴奏組曲第3番のおまけつきボックス
英テスタメント・レーベルのCDは、解説書に力が入っていることでも定評があり、ヒストリカル・クラシック音楽の持つ歴史の面白さを際立たせることにもなっているので、日本語訳が付された国内盤の価値には大きなものがあります。
シリーズ概要
★歴史的録音の復刻で有名なイギリスの名門レーベル、テスタメント。1990年にスチュアート・ブラウン氏により設立され、正規音源にもとづく、高品質の音質でファンから絶大な支持を集めてきました。ここ数年日本への窓口が途絶えていましたが、このほど国内販売権をキングインターナショナルが獲得。400に近いタイトルのなかから、歴史的名盤はもとより最近話題の新盤までえりすぐって、全20タイトル、国内仕様にして発売します。
★日本語解説=オリジナル・ライナーノーツの和訳+ 曲目解説+ 歌詞対訳(声楽曲のみ)
このアルバムについて
★ロストロポーヴィチ[1927-2007]とブリテン[1913-1976]、1961年オールドバラ音楽祭での貴重な共演の記録。
★ブリテンは1960年9月にショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番がロンドンで西側初演された折に立ち会い、ロストロポーヴィチを激賞、以後二人は親交をむすび、ブリテンはチェロのためのソナタや3曲の無伴奏チェロ組曲など、現代のチェリストにとって欠かせない作品を生み出しました。
7月7日のリサイタルはロストロポーヴィチがブリテンからの要請で習得した『アルペジョーネ』で始まりました。68年にデッカに録音していて有名ですが、二人の“初演” ライヴにはデッカ録音より自然な趣き、ライヴ感があります。ピアノのタッチはとても美しく、チェロトーンには心地よい光と影があります。このシューベルトに備わるウィーンの伝統が端的に示された愛すべき作品は見事に演奏されています。
ブリテンのチェロ・ソナタはこれが世界初演で、決定的な名演が生まれたデッカの録音は2週間後のことです。シューマンの『民謡風の5つの小品集』とドビュッシーのチェロ・ソナタも、ブリテンのソナタと同じセッションでデッカに録音されました。ブリテンはロストロポーヴィチの名人芸による挑戦を見事に受けて立っており、演奏は刺激に満ちています。
リサイタルの最後に、ブリテンの親友ピーター・ピアーズ(テノール)が参加、バッハのカンタータBWV.41から『あなたがこの貴い平和を』を歌い、音楽祭の家族的な性格を際立たせています。
ボーナストラックには同年の音楽祭の別の機会に(3日前、教区教会で)演奏されたバッハの無伴奏チェロ組曲第3番が収録されています。ロストロポーヴィチの解釈の核心はサラバンドにあり、彼は朗々と鳴り響くフレーズから奥深い感情を浮かび上がらせています。〜タリー・ポッター、ライナーノーツより要旨〜
【収録情報】
Disc1
1. シューベルト:アルペジョーネ・ソナタ イ短調 D.821
2. ブリテン:チェロ・ソナタ ハ長調 Op.65(世界初演)
3. ブリテン:チェロ・ソナタ〜第5楽章:無窮動 プレスト(アンコール)
4. シューマン:民謡風の5つの小品集 Op.102
Disc2
5. ドビュッシー:チェロ・ソナタ ニ短調
6. ブリテン:チェロ・ソナタ〜第4楽章:行進曲(アンコール)
7. ロストロポーヴィチのスピーチ
8. J.S.バッハ:カンタータ第41番『イエスよ、いま讃美を受けたまえ』 BWV.41〜テノールのアリア『あなたがこの貴い平和を』
9. J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第3番ハ長調 BWV.1009(ボーナストラック)
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)
ベンジャミン・ブリテン(ピアノ:1-6,8)
ピーター・ピアーズ(テノール:4)
録音時期:1961年7月7日(1-8)、7月4日(9)
録音場所:オールドバラ、ジュビリー・ホール(1-8) 教区教会(9)
録音方式:モノラル(ライヴ)
輸入盤・日本語帯・解説付(歌詞対訳付:8)
【年表】
1856年
●4月22日、祖父ヴィトルド・ハンニバロヴィチ・ロストロポーヴィチ[1856-1913]、ロシア帝国ワルシャワで誕生。ピアニスト、教師、作曲家、出版者、編集者として活動。
1870年
●祖父ヴィトルド、ライプツィヒに留学。工学を修める一方、ライプツィヒ音楽院でカール・ライネッケ[1824-1910]ほかに師事。
1879年
●祖父ヴィトルド、ヴォロネジに転居。モスクワの南東約460キロほどのところにある都市で1871年にモスクワと鉄道で結ばれていました。
1883年
●祖父ヴィトルド、ロシア音楽協会のヴォロネジ支部設立に尽力。
1889年
●祖父ヴィトルド、ヴォロネジのギムナジウムでピアノ教師として働きます。
1896年
●祖父ヴィトルド、ロシア音楽協会のヴォロネジ支部長に就任。
1892年
●母ソフィア・ニコラエヴナ・フェドトワ[1891-1971]、ロシア帝国オレンブルクで誕生。
1892年
●2月26日、父レオポリド・ヴィトリドヴィチ・ロストロポーヴィチ[1892-1942]、ロシア帝国ヴォロネジで誕生。
1910年
●父レオポリド、サンクトペテルブルク音楽院で金メダルを得て卒業。その後、ポーランド、フランス、イギリスをまわるヨーロッパ・ツアーを実施。1911年にロシアに帰還。
1913年
●祖父ヴィトルド、ヴォロネジで死去。
1917年
◆9月14日、ロシア帝国崩壊。
◆11月7日、十月革命勃発。ロシア内戦に移行。
◆11月7日、最高指導者がレーニン[ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ 1870-1924]に。1924年1月21日に死去するまでの約6年2か月在任。
1920年
●アゼルバイジャン国立音楽院(現バクー音楽院)、バクーに設立。
1922年
●父レオポリド、母ソフィアと結婚。モスクワの南東約800キロにあるサラトフで暮らし始めます。
1924年
◆1月22日、ソ連最高指導者がスターリン[ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ 1878-1953]に。1953年3月5日に死去するまでの約29年1か月在任。
1925年
●姉ヴェロニカ誕生。
●父レオポリドと母ソフィア、アゼルバイジャンの作曲家、ウゼイル・ハジベヨフ[1885-1948]の招きでアゼルバイジャン国立音楽院の教師として働きます。
1927年(0歳)
●3月27日、ムスティスラフ・レオポリドヴィチ・ロストロポーヴィチ、ソ連の西端、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の首都で多民族都市バクーに誕生。両親はソ連南西部のオレンブルクから仕事で来ていたロシア人。父はチェリスト、母はピアニスト。
1928年(1歳)
1929年(2歳)
1930年(3歳)
1931年(4歳)
●ロストロポーヴィチ、ピアノのレッスンを開始。母の指導。作曲も始めています。姉のヴェロニカはヴァイオリンを学んでいました。
●秋、ロストロポーヴィチ家、子供たちの教育のためモスクワのアパートの一室に転居。アルメニア人女性が善意で提供してくれた狭い物件でした。
●父レオポリド、ラジオ委員会に就職。
1932年(5歳)
●ロストロポーヴィチ家、グランドピアノの置けるアパートに転居。
1933年(6歳)
●ロストロポーヴィチ家、広めのアパートに転居。
1934年(7歳)
●ロストロポーヴィチ、チェロのレッスンを開始。父の指導。
1935年(8歳)
●父レオポリド、ソ連政府より「ソ連功労芸術家」の称号を授与。
●父レオポリド、グネーシン音楽学校に教師として就職。
●ロストロポーヴィチ、グネーシン音楽学校でチェロの勉強を本格的に開始。父レオポリドのクラスでした。
1936年(9歳)
1937年(10歳)
●父レオポリド、エレナ・グネーシン学長と揉め事になり、グネーシン音楽学校を退職。
●父レオポリド、モスクワ市内のスヴェルドロフスク地区音楽学校の教師として就職。
●ロストロポーヴィチ、スヴェルドロフスク地区音楽学校に転校。引き続き、父のクラスでチェロを学んだほか、ピアノの技術も向上。
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院付属中央音楽学校に入学。エフゲニー・メスネルのクラスで作曲を勉強。クラスには、ボリス・チャイコフスキー、キリル・モルチャノフ、カレン・ハチャトゥリアン、エフゲニー・チュガエフなどがいました。メスネルは有名な作曲家シェバリーン[1902-1963]の弟子でした。また、ロストロポーヴィチは、同校で、文学、数学、地理などの教養科目も勉強しています。
1938年(11歳)
1939年(12歳)
●ロストロポーヴィチ、メスネルからシェバリーンに紹介されます。シェバリーンは、ロストロポーヴィチが作曲している途中のピアノ三重奏曲を高く評価。父レオポリドのもとを訪れ、交流が始まります。
●ロストロポーヴィチ、椅子に飛び乗って転倒し、右手首を2か所粉砕骨折。救急車で病院に運ばれ、全身麻酔で手術を受けることに。6週間でギプスがとれ、リハビリ後半年で楽器が弾けるまでに回復。その間も、モスクワ音楽院付属中央音楽学校での作曲の勉強は継続し、左手用の作品を作曲したりもしていました。
1940年(13歳)
●ロストロポーヴィチ、サン=サーンスのチェロ協奏曲第1番を演奏。ウクライナの温泉地スラヴャンスクでおこなわれる夏のコンサートで、指揮のストゥーペルは、ロストロポーヴィチに指揮やスコアについていろいろとレクチャーしてくれました。
1941年(14歳)
●ロストロポーヴィチ、スヴェルドロフスク地区音楽学校を卒業。
●ロストロポーヴィチ、イッポリトフ=イワノフ音楽学校に入学するものの独ソ戦のため無効に。
●7月、ロストロポーヴィチ、姉ヴェロニカと共にモスクワ音楽院付属中央音楽学校の疎開先であるペンザに滞在。
●秋、ロストロポーヴィチ姉弟、両親の疎開に途中から同行し、母の故郷、チカロフ(現オレンブルク)に疎開。母の友人のエレナ・ロントケヴィチのアパートに滞在。
●父レオポリドはオレンブルク音楽学校で教えたほか、映画館での映画の前座演奏もして生計を立てます。映画館での演奏はピアノ三重奏で、同地に疎開していたマールイ劇場のヴァイオリニストらと組んで演奏。ロストロポーヴィチも小品編曲で協力。
●ロストロポーヴィチ、鉄道学校で一般教科を勉強したほか、オレンブルク音楽学校で音楽を学びます。音楽学校では、ミハイル・チュラキ[1908-1989]が作曲の指導をしてくれたほか、何かと世話を焼いてくれました。
1942年(15歳)
●4月、ロストロポーヴィチ、ソ連作曲家の作品を集めたコンサートに、チェリスト、ピアニスト、作曲家として参加。自作の「詩曲」と「前奏曲」でチェロを弾いたほか、父レオポリドの作曲したチェロ協奏曲をピアノ伴奏版で演奏する際にピアノを担当。父との最初で最後の実演での共演でした。
●春、父レオポリド、病に倒れます。
●ロストロポーヴィチ、父の代理としてオレンブルク音楽学校で、多くの生徒が自分より年長というクラスで教えます。
●7月31日、父レオポリド、心臓発作で死去。
●ロストロポーヴィチ、父の後任としてオレンブルク音楽学校での教職に就きます。
●ロストロポーヴィチ、父亡きあとにロストロポーヴィチ家を支えるため、疎開していたマールイ劇場の演奏家や歌手との合同コンサートに数多く出演して報酬を獲得。工場や近隣の町に出かけての公演で、教職が時給制だったため、コンサート出演料が戦時中のメインの収入源でした。また、試験管を加工して石油ランプを作って市場で売ったり、遠征先で得た配給食糧をマールイ劇場の面々と助け合って市場で捌いたりもしています。この疎開先での2年間の様々な経験が、ロストロポーヴィチに人間の善意についての決定的な考えを植え付けたようです。
1943年(16歳)
●4月26日、ロストロポーヴィチ家、作曲家チュラキの手配でモスクワへの帰還が許可され、列車で出発。10日後にモスクワに到着。
●5月13日、ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院に入学。エネルギッシュにさまざまなことを学び、5年のところを3年で卒業しています。
チェロ:伯父のセミヨン・コゾルポフ[1884-1961]に師事。
作曲・対位法・音楽理論・管弦楽法・音楽史・アナリーゼ:ショスタコーヴィチ、シェバリーン、ズッカーマンらに師事。
ピアノ:名手イグムノフの弟子、ニコライ・クフシンニコフに師事。最終試験ではラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を演奏。
室内楽:ミハイル・テリアンのクラスで、ロスティスラフ・ドゥビンスキー、ニーナ・バルシャイ、ルドルフ・バルシャイと組んでカルテットを演奏。このグループは、のちにロストロポーヴィチとヴァレンチン・ベルリンスキーが交代して常設団体となり、「ボロディン四重奏団」として活動するようになります。
指揮:必修ではなかったので、レオ・ギンズブルグに個人レッスンを受けたほか、アナトリー・アレクサンドロフにも師事しています。
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院チャイコフスキー奨学金獲得。ほかにスターリン奨学金と、エレナ・ロントケヴィチからの送金がありました。
1944年(17歳)
●母ソフィア、スヴェルドロフスク地区音楽学校のピアノ教師となります。
1945年(18歳)
◆2月、ソルジェニーツィン[1918-2008]、スターリン批判の嫌疑により逮捕。懲役8年を宣告されます。独ソ戦の前線から友人宛の手紙の中で、スターリンのことを、中央アジアの言葉とイディッシュ語を用いて表現したことが問題視。ソルジェニーツィンはスラヴ民族主義の保守派でもありました。
●ロストロポーヴィチ、共産党の青年組織「コムソモール」で階級認可。
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院の学内コンクールでミャスコフスキーのチェロ協奏曲を弾いて優勝。
●ロストロポーヴィチ、全ソ連演奏家コンクールで優勝。名誉賞も受賞。
●ロストロポーヴィチ、コンサート・エージェント「モスクワ・フィルハーモニー」の専属ソリストになります。
●ロストロポーヴィチ、ソ連国内のさまざまな場所で演奏。スヴェルドロフスク、ヴィリニュス、キエフ、リガ、タリン、ミンスク等。
●ロストロポーヴィチ、「コンサート旅団」による「合同コンサート」に参加し、大ホールや工場、学校などで大衆のためのコンサートに数多く出演。持ち時間20分という枠ながら、聴衆の数が多く、また、歌手、俳優、演奏家、舞踏家たちが参加した多彩な出し物の中での20分ということでさまざまな工夫をすることになります。ロストロポーヴィチの初期のキャリアは、「コンサート旅団」と共に形成。超絶技巧と大音量を手中に収めますが、それが
1946年(19歳)
●6月、ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院を金賞を得て卒業。
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院大学院に進学。
1947年(20歳)
●ロストロポーヴィチ、大学院に通う一方で、モスクワ音楽院付属中央音楽学校の教師も務めます。
●ロストロポーヴィチ、プラハ国際音楽コンクールに出場。フョードル・ルザーノフ[1919-1989]と共に優勝。
●10月、ロストロポーヴィチ、レニングラードで受賞者コンサートに出演。これがレニングラード・デビューでした。
1948年(21歳)
●1月、ロストロポーヴィチ、演奏に恵まれていなかったプロコフィエフのチェロ協奏曲第1番をピアノ伴奏版で試演。プロコフィエフに気に入られ、同曲の改作への協力を要請されます。改作版は「交響的協奏曲」として1952年1月に完成。2月に初演。
◆2月、ジダーノフ批判。1934年の第1回作家同盟大会で社会主義リアリズムを強く提唱していたアンドレイ・ジダーノフが、西側コスモポリタニズムを批判し、文化全般についても社会主義リアリズムを重視した方針で統制することを宣言。もともとプロレタリア芸術から発展した社会主義リアリズム芸術は、反コスモポリタニズムの視点から反ユダヤ的な方向にも展開しやすく、文学、演劇、音楽、美術、映画などに大きな影響力を持つこととなります。1953年のスターリンの死と共に統制は収まるものの、正式に解除されたのは1958年5月のことでした。ちなみにジダーノフは宣言の半年後の1948年8月、モスクワで52歳で急死。
●2月、ジダーノフ批判により、モスクワ音楽院院長のシェバリーンと教授のショスタコーヴィチが「不適格者」として解任。院長の後任は、同音楽院で1946年から教授を務めていた合唱指揮者のスヴェシニコフ[1890-1980]で、以後、84歳までの26年間に渡って在任。ちなみに批判されたほかの作曲家は、プロコフィエフ、ハチャトゥリアン、ミャスコフスキーでした。
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院大学院演奏科を卒業。
●12月、ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院の教師に任命。
1949年(22歳)
●夏、ロストロポーヴィチ、ブダペスト国際コンクールに出場し、ダニール・シャフラン[1923-1997]と共に優勝。
●ロストロポーヴィチ、「コンサート旅団」のフィランランド公演で演奏。初の西側公演でした。オイストラフ、ヤンポリスキーらも同行した豪華な旅団。
1950年(23歳)
●3月、ロストロポーヴィチ、リヒテルと共演。プロコフィエフのチェロ・ソナタ初演のほかブラームスとベートーヴェンのチェロ・ソナタを演奏。
●5月、ロストロポーヴィチ、ハヌシュ・ヴィーハン・コンクールに出場し、ダニール・シャフランと共に優勝。このコンクールはチェコのチェリスト、ハヌシュ・ヴィーハン[1850-1920]を記念して特別に開催されたもので、受賞者コンサートでは、ロストロポーヴィチがドヴォルザークのチェロ協奏曲を演奏し、シャフランがチャイコフスキーのロココ変奏曲を演奏。
●7〜8月、バッハ没後200年記念公演に参加するため、ソ連芸術家代表団一行と東ドイツのライプツィヒ、ドレスデン、東ベルリンを訪問。ショスタコーヴィチとマリア・ユージナ、タチアナ・ニコラーエワも同行していました。
●ロストロポーヴィチ、ソ連作曲家同盟のメンバーに選出。モスクワ中心地に新築された豪華なアパートへの入居権など、数多くの特権を獲得。
1951年(24歳)
●3〜4月、ロストロポーヴィチ、「コンサート旅団」のノルウェー公演で演奏。
●6月、ロストロポーヴィチ、「コンサート旅団」のイタリア公演で演奏。先に訪れていたフィンランドとノルウェーは社会民主主義国家なので、これが初の資本主義国家での演奏ということになり、オイストラフ、ギレリス、ウラノワなど有名どころがが同行。しかし冷戦下ということもあってか、イタリアの列車内でのアーティスト同士の愚痴が盗み聞きされて新聞に掲載されるという下品な攻撃にも遭遇。幸いロストロポーヴィチは被害に遭いませんでした。
●ロストロポーヴィチ、バッハの無伴奏チェロ組曲の演奏でスターリン賞(2等)受賞。賞金5万ルーブリは新居の支払いに役立てられます。
1952年(25歳)
●2月、ロストロポーヴィチ、プロコフィエフ「交響的協奏曲」をリヒテル指揮する青少年オーケストラとの共演で初演。同曲はチェロ協奏曲第1番の改作版で、ロストロポーヴィチの協力で完成したもの。リヒテルの指揮は最初で最後となったもので、コンドラシンが指導にあたり、リハーサルも監督して実現。リヒテルは当時右手の指を骨折していました。
1953年(26歳)
◆3月、ソルジェニーツィン、刑期満了となるものの釈放されず、カザフスタンへの永久流刑が決定。
◆3月5日、ソ連最高指導者がマレンコフ[ゲオルギー・マクシミリアノヴィチ・マレンコフ 1902-1988]に。3月13日にフルシチョフに譲るまでの8日間在任。
◆3月14日、ソ連最高指導者がフルシチョフ[ニキータ・セルゲイヴィチ・フルシチョフ 1894-1971]に。1964年10月14日に失脚するまでの11年7か月在任。
●ロストロポーヴィチ、スターリン賞受賞。
1954年(27歳)
1955年(28歳)
●ロストロポーヴィチ、ソプラノ歌手、ガリーナ・ヴィシネフスカヤと結婚。
1956年(29歳)
◆フルシチョフ、第20回共産党大会でスターリン批判演説。非スターリン化の一環として、粛清の犠牲者の名誉回復や、政治犯の釈放、言論取締りの緩和などが実施。
◆7月、ソルジェニーツィン、無罪宣告され、永久流刑から解放。
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院教授に就任。
1957年(30歳)
1958年(31歳)
1958年に大阪国際フェスティバルで初来日して以降
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院の講師に任命。
1959年(32歳)
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院講師。
1960年(33歳)
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院講師。
1961年(34歳)
●ロストロポーヴィチ、ゴーリキーで指揮者デビュー。
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院チェロ科とコントラバス科の主任教授に任命。
1962年(35歳)
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院主任教授。
1963年(36歳)
●ロストロポーヴィチ、レーニン賞受賞。
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院主任教授。
1964年(37歳)
◆10月14日、ソ連最高指導者がブレジネフ[レオニード・イリイチ・ブレジネフ 1906-1982]に。1982年11月10日に死去するまでの約18年1か月在任。
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院主任教授。
1965年(38歳)
●2月、ロストロポーヴィチ、来日。
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院主任教授。
1966年(39歳)
●ロストロポーヴィチ、ソ連政府より「人民芸術家」の称号を授与。
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院主任教授。
1967年(40歳)
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院主任教授。
1968年(41歳)
●ロストロポーヴィチ、『エウゲニー・オネーギン』でオペラに進出。
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院主任教授。
1969年(42歳)
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院主任教授。
1970年(43歳)
●ロストロポーヴィチ、社会主義を批判した作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンに対して、4年間自分の別荘の車庫を仕事場として提供したことにより「反体制」とみなされ、国内演奏活動を停止のうえ、イギリスでの出演契約も破棄。
●9月、ロストロポーヴィチ、来日。ボリショイ・オペラと。
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院主任教授。
1971年(44歳)
●10〜11月、ロストロポーヴィチ、来日。外山雄三に作曲を委嘱していたチェロ協奏曲の初演など。
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院主任教授。
1972年(45歳)
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院主任教授。
1973年(46歳)
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院主任教授。
1974年(47歳)
●ロストロポーヴィチ、モスクワ音楽院主任教授。
●3月5月、ロストロポーヴィチ、2年間のビザを取得して出国。西側長期滞在の開始。
1975年(48歳)
1976年(49歳)
1977年(50歳)
●ロストロポーヴィチ、アメリカへ渡り、ワシントン・ナショナル交響楽団音楽監督に就任。
1978年(51歳)
●3月15日、ソ連政府により、ロストロポーヴィチ夫妻の市民権剥奪が発表。
1979年(52歳)
1980年(53歳)
1981年(54歳)
1982年(55歳)
◆11月12日、ソ連最高指導者がアンドロポフ[ユーリ・ウラジミロヴィチ・アンドロポフ 1911-1985]に。1984年2月9日に死去するまでの約1年3か月在任。
1983年(56歳)
●4月、ロストロポーヴィチ、来日。
1984年(57歳)
●4月、ロストロポーヴィチ、来日。
◆2月13日、ソ連最高指導者がチェルネンコ[コンスタンチン・ウスチノヴィチ・チェルネンコ 1914-1984]に。1985年3月10日に死去するまでの約1年1か月在任。
1985年(58歳)
◆3月11日、ソ連最高指導者がゴルバチョフ[ミハイル・セルゲイヴィチ・ゴルバチョフ 1922- ]に。1991年12月25日まで約6年9か月在任。
●11月、ロストロポーヴィチ、来日。
1986年(59歳)
●ロストロポーヴィチ、6年のパリの聖アレクサンドル・ネフスキー寺院におけるタルコフスキーの葬儀では、バッハの無伴奏チェロ組曲を捧げ
1987年(60歳)
●5月、ロストロポーヴィチ、来日。
1988年(61歳)
1989年(62歳)
1990年(63歳)
●2〜4月、ロストロポーヴィチ、来日。
◆3月15日、ゴルバチョフが「ソ連」大統領(書記長に代わる最高指導者)に就任。
●ロストロポーヴィチ、ワシントン・ナショナル交響楽団を率いてソ連で16年ぶりに公演。国籍を回復。
◆11月7日、ゴルバチョフ暗殺未遂事件発生。ライフルで2回銃撃。
1991年(64歳)
◆7月10日、エリツィン[ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン 1931-2007]が、「ロシア共和国」大統領に就任。
◆8月19日、KGB議長クリュチコフらゴルバチョフ側近によるクーデターで、ゴルバチョフは別荘に軟禁。
◆8月22日、クーデター関係者逮捕により、ゴルバチョフ解放。
◆12月25日、ゴルバチョフが「ソ連」大統領を辞任。ソ連崩壊。
◆12月25日、エリツィンが、「ロシア連邦」大統領に就任。
●ロストロポーヴィチ、崩壊が始まったベルリンの壁の前でバッハを演奏。
1992年(65歳)
●11月、ロストロポーヴィチ、来日。
1993年(66歳)
1994年(67歳)
●4月、ロストロポーヴィチ、来日。
1995年(68歳)
●ロストロポーヴィチ、来日。小澤征爾と共に、阪神・淡路大震災の犠牲者のための追悼演奏。
●9月、ロストロポーヴィチ、来日。
1996年(69歳)
1997年(70歳)
●1月、ロストロポーヴィチ、来日。
1998年(71歳)
1999年(72歳)
2000年(73歳)
◆5月7日、プーチンが、「ロシア連邦」大統領に就任。
2001年(74歳)
●4月、ロストロポーヴィチ、来日。
2002年(75歳)
2003年(76歳)
●12月、ロストロポーヴィチ、来日。
2004年(77歳)
2005年(78歳)
●5月22日、ロストロポーヴィチ、NPO国際チェロアンサンブル協会主催の「1000人のチェロ・コンサート」を神戸で指揮。
2006年(79歳)
2007年(80歳)
●3月27日、ロストロポーヴィチ、ロシア政府より勲1等祖国功労章を授与。
●4月27日、ロストロポーヴィチ、モスクワで死去。80歳。
【商品説明:年表シリーズ】
指揮
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アルヘンタ
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オッテルロー
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ガウク
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カラヤン
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クイケン
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クーセヴィツキー
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クチャル
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クラウス
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クレツキ
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クレンペラー
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ゴロワノフ
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サヴァリッシュ
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シューリヒト
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ターリヒ
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チェリビダッケ
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ドラティ
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バーンスタイン
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パレー
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フェネル
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フルトヴェングラー
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メルツェンドルファー
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モントゥー
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ライトナー
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ラインスドルフ
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ロスバウト
鍵盤楽器
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ヴァレンティ
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カークパトリック
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カサドシュ
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グリンベルク
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シュナーベル
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タマルキナ
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タリアフェロ
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デムス
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ナイ
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ニコラーエワ
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ハスキル
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ユージナ
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ランドフスカ
弦楽器
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カサド
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グリラー弦楽四重奏団
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シュナイダー四重奏団
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パスカル弦楽四重奏団
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ハリウッド弦楽四重奏団
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ブダペスト弦楽四重奏団
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フランチェスカッティ
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ヤニグロ
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リッチ
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伝説のフランス弦楽四重奏団
作曲家
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アンダーソン
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ヘンツェ
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坂本龍一
シリーズ
●テスタメント国内盤