CD 輸入盤

ダヴィッド&イーゴリ・オイストラフ・エテルナ録音集(5CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
BC0302950
組み枚数
:
5
レーベル
:
:
Germany
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


ダヴィッド&イーゴリ・オイストラフ・エテルナ・レコーディングス(5CD)

オイストラフが西側に衝撃を与えた1950年代後半の録音を中心にエテルナ音源を集めたセット。オイストラフ全盛期の張りのある美音がリマスターで見事に復活!

セッションを組んでのテープ録音
録音時期は1954年から1965年で、エルンスト・ヘルマン・マイヤーのヴァイオリン協奏曲以外はモノラルですが、すべてセッションを組んでのテープ録音なので、鑑賞に十分な音質は確保されており、オイストラフ全盛期のえもいわれぬ美しい音を味わうのには不足はありません。

オイストラフきわめつけのチャイコフスキー
オイストラフのチャイコフスキーは看板レパートリーだけに大量の音源が遺されていますが、ヴァイオリンの音の生々しい魅力という点ではこのエテルナ録音が最高です。DGからもリリースされていましたが、今回のCDではひと皮むけた鮮度の高い音を味わうことができます


オイストラフに献呈されたマイヤーのヴァイオリン協奏曲
意外な聴きものなのが、オイストラフのために書かれたエルンスト・ヘルマン・マイヤー[1905-1988]という東ドイツの作曲家のヴァイオリン協奏曲。20世紀モダニズム風の聴きやすい作品で、マーラーやショスタコーヴィチ好きには受けそうです。オイストラフはいったん完成した作品を見て第3楽章に注文を付けるなど作品に真剣に取り組んでいます。


2台ヴァイオリンの魅力
オイストラフがエテルナのためにおこなった録音では息子のイーゴリがよく起用され、2台ヴァイオリンのレパートリーが数多く登場、なかなか興味深い聴きものともなっています。
  中でもヴィヴァルディ「調和の霊感」の第8番には注目です。スターンとの1955年12月の米コロンビア(SONY)録音から僅か1年4か月で再録音がおこなわれたのには理由があります。米コロンビア盤は、超濃厚風味に仕上げた第2楽章には独特の魅力があるものの、使用楽譜(米シャーマー版)の問題なのかなぜか第3楽章に別な曲(RV813の第4楽章)が用いられたりして妙な具合だったので、まともなヴァージョンでの再録音に敢えて踏み切っています。また、オイストラフは、この曲がお気に入りなのか、1961年にはドイツ・グラモフォンで再録音していますが少しさっぱりし過ぎで、また、ほかにライヴ録音も2種ありますが音が冴えないので、ヴァイオリンの美音含めてこのコンヴィチュニーとの録音が最も良い感じに聴こえます。



 マスタリングについて〜クリストフ・シュティッケル(マスタリング・エンジニア)

ETERNAテープをリマスタリングする際の前提は、オリジナル・サウンドを変えることなく可能な限り最高の状態でオリジナル・サウンドを再現することでした。
  全ての作業はオリジナルのアナログ・マスターテープに基づき、マスタリングはそれぞれのテープに対して細心の注意を払って行われました。
  アナログ領域のみでサウンド処理されたアナログ信号を96kHz / 24bitの高品位デジタル化後に44.1kHz / 16bit化されました。
  また、デジタル領域においてもノイズの除去や、オリジナル・サウンドに影響を与えるその他の修復は行わず、必要最小限のテープ・エラーとテクニカル・クリックのみの修復が行われました。






 各種リンク

【CDトラック番号リスト】
●CD1 バッハ:ヴァイオリン協奏曲集、マイヤー:ヴァイオリン協奏曲
●CD2 サラサーテ、ルクレール、ヴィエニャフスキ、コダーイ:小品集、メンデルスゾーン:協奏曲
●CD3 ヴィヴァルディ、ヘンデル、ベンダ、タルティーニ、バッハ:2台ヴァイオリン作品集、他
●CD4 バッハ、モーツァルト、チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲集
●CD5 フランク:ソナタ、ブラームス:同3番、プロコフィエフ:5つのメロディ、ストラヴィンスキー:イタリア組曲

【オイストラフ関連】
●名前
●修業時代
●オデッサ音楽院卒業後2年間のチャレンジ
●モスクワとウクライナでの苦労
●全ウクライナ・ヴァイオリン・コンクール
●タマーラとの結婚、イーゴリの誕生
●モスクワのフィルハーモニー協会に所属
●初めてのレコーディング
●初めての国外からの招聘
●モスクワ音楽院準教授に就任
●全ソ連音楽コンクール
●ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクール
●イザイ国際ヴァイオリン・コンクール
●第2次大戦中
●戦後の国際的な活動
●オイストラフの楽器
●オイストラフはチェスも名手

【年表】
1908  1909  1910  1911  1912  1913  1914  1915  1916  1917  1918  1919  1920  1921  1922  1923  1924  1925  1926  1927  1928  1929  1930  1931  1932  1933  1934  1935  1936  1937  1938  1939  1940  1941  1942  1943  1944  1945  1946  1947  1948  1949  1950  1951  1952  1953  1954  1955  1956  1957  1958  1959  1960  1961  1962  1963  1964  1965  1966  1967  1968  1969  1970  1971  1972  1973  1974 

明治41  明治42  明治43  明治44  明治45  大正2  大正3  大正4  大正5  大正6  大正7  大正8  大正9  大正10  大正11  大正12  大正13  大正14  大正15  昭和2  昭和3  昭和4  昭和5  昭和6  昭和7  昭和8  昭和9  昭和10  昭和11  昭和12  昭和13  昭和14  昭和15  昭和16  昭和17  昭和18  昭和19  昭和20  昭和21  昭和22  昭和23  昭和24  昭和25  昭和26  昭和27  昭和28  昭和29  昭和30  昭和31  昭和32  昭和33  昭和34  昭和35  昭和36  昭和37  昭和38  昭和39  昭和40  昭和41  昭和42  昭和43  昭和44  昭和45  昭和46  昭和47  昭和48  昭和49 

【エテルナ・オリジナル・マスター】
●シリーズ一覧

【商品関連】
●商品説明:年表シリーズ一覧




 名前

1908年、オデッサに誕生したオイストラフは、誕生時の苗字がコルケルだとよく説明されています。母イザベラが子供を産んだ直後に離婚して再婚したとか、にわかには信じがたいことも言われてきました。
  しかし出生記録によればオイストラフは第2ギルドの商人階層の家系に生まれており、ユダヤ教の男性儀式も生後7日目におこなわれています。
  第2ギルドは、3階層に分かれていたロシア帝国商人の中流に属し、近くには祖父の3階建ての家もあったのだとか。
  なお、オイストラフという名前については、オイストラフ自身は、自分の先祖が暮らしていたオーストリア(エスターライヒ、Österreich)に由来するのではないかと推測していました。
  また、オイストラフは、ロシア語のほかにドイツ語とイディッシュ語が理解できたので、Oistrach(Oistrakh)という名前はイディッシュ語の感嘆詞「Oi」と、恐怖を意味する「strach」が繋がったものだという冗談も西側で披露しています。しかし、「strach」についてはロシア語でも恐怖を意味しており、「Oi」も感嘆詞として通じるので、単にソ連では不遇な言語となってしまっていたイディッシュ語に言及しておきたかったということなのかもしれません(ソ連では1949年のイスラエルとのトラブルで反ユダヤ・キャンペーンが開始され、イディッシュ語もしばらく禁じられていました)。


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 修業時代

オイストラフの師匠はストリャルスキーただ一人でした。1913年9月、5歳になるオイストラフは、オデッサのストリャルスキー音楽学校で学び始め、以後10年間に渡ってヴァイオリンとヴィオラの指導を受けます。
  ストリャルスキー[1871-1944]はオデッサ市立劇場管弦楽団の楽員で、両親の友人でもありました。下の画像の生徒の左端がオイストラフで、8分の1サイズのヴァイオリンを弾いています。


オイストラフの父ヒョードルが徴兵により軍の給与だけとなって収入が大幅に減少。母イザベラも、戦時体制によりオデッサ市立劇場などでの仕事が激減。ロシア帝国では1912年6月25日に、軍に招集された人々の家族に対する物質的な支援を国家が保証する法律が採択されていましたが、最低限のものだったので、オイストラフ家の家計は悪化します。オイストラフの受けるレッスン回数も減らされますが、やがてストリャルスキーは無報酬で教えてくれることになります。


1923年、14歳でストリャルスキー音楽学校を卒業したオイストラフは、15歳でオデッサ音楽院に入学し、ストリャルスキーの教室で学び始めます。場所が変わっただけで、師匠は同じでした。翌年にはタルティーニ「悪魔のトリル」ほかでリサイタル・デビューもしていますが、オイストラフがオデッサ音楽院の学生オーケストラに入団した時はまずヴィオラ奏者としてでした。その後、17歳で卒業するまでに、ヴィオラ首席奏者、ヴァイオリン奏者、コンサートマスターとポジションが変わっています。
  17歳での卒業演奏はプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番、タルティーニ:「悪魔のトリル」、ルビンシテイン:ヴィオラ・ソナタで、以後、ヴァイオリン奏者としての人生を歩み始めますが、折に触れて師匠のところに顔を出し、授業を手伝ったりしていたのはオイストラフとストリャルスキーの良好な関係が示されています。


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 音楽院卒業後2年間のチャレンジ

1926年、17歳でオデッサ音楽院を卒業したオイストラフは、そのままオデッサ音楽院交響楽団のコンサートマスターを継続しますが、それではとても自立できないので、翌1928年にはグラズノフやプロコフィエフのもとを訪ねてチャンスを窺います。
  9年ぶりの帰国で忙しかったプロコフィエフにはまともに相手にされなかったものの、グラズノフには気に入られ、オデッサとキエフで彼のヴァイオリン協奏曲の演奏機会を得ます。
  それがきっかけで、オデッサに滞在中だった指揮者のニコライ・マリコの知己を得ることができ、彼が音楽監督を務めるレニングラード・フィルの演奏会に出演することが決定。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏して成功し、すぐに再度の共演要請もあったことから自信を得たオイストラフは、オデッサから首都モスクワへの転居を決意。


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 モスクワとウクライナでの苦労

1928年、20歳でモスクワに転居したオイストラフですが、モスクワではまだ無名に等しかったため、バレエ・ダンサーの伴奏やポピュラー歌手の伴奏アンサンブルへの参加など、さまざまな伴奏仕事をおこなって収入を確保。
  そうした多くの地道な仕事で得た縁から、1929年には、モスクワのモーツァルト記念コンサート・ホールで独奏者としてデビューしています。
  続いてウクライナ・ツアーが手配されるものの、肝心のウクライナでの告知などが適切におこなわれなかった為、チケットがほとんど売れず全10回のうち9回が公演中止に追い込まれています。実際に演奏できたのはハリコフのオーケストラ公演への参加のみでした。


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 全ウクライナ・ヴァイオリン・コンクール

1929年のウクライナ・ツアーでは煮え湯を飲まされた格好になっていたオイストラフでしたが、最後にハリコフのオーケストラ演奏会に出演できたことで、1930年の全ウクライナ・ヴァイオリン・コンクールに参加できることになったのは幸いでした。
  ウクライナ南部と東部は、ロシア帝国時代にユダヤ人が大勢移り住んできた地域なので、優れた音楽家が数多く輩出され教育も整備されてきた歴史があり、全ウクライナ・ヴァイオリン・コンクールにも多くの優秀な出場者がいたと思われますが、オイストラフは見事に優勝しています。


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 タマーラとの結婚、イーゴリの誕生

1930年、全ウクライナ・ヴァイオリン・コンクール優勝で知名度が上がったオイストラフは、交際中のピアニスト、タマーラ・ロタレワ[1906-1976]と結婚。
  オイストラフの公演数はコンクールのおかげで増え、シベリアなど辺境の地まで出かけるほどでしたが、出演料の安い公演が主体で生活は苦しく、タマーラはパイを焼いて市場で売ることで生活費に貢献してもいました。
  そうした暮らしの中で、1931年4月には息子のイーゴリが誕生。


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 モスクワのフィルハーモニー協会に所属

1932年、オイストラフはモスクワのフィルハーモニー協会にソリストとして所属します。モスクワのフィルハーモニー協会は、モスクワでの公演主催、手配のほか、自前のオーケストラ「モスクワ・フィルハーモニー協会交響楽団」の公演もおこなっていました(戦後にできたモスクワ・フィルとは無関係)。
  子供が生まれたばかりで遠隔地の仕事を減らしたかったオイストラフには嬉しい契約で、さっそく、指揮者無しで海外でも話題になっていたオーケストラ「ペルシムファンス」から招待され、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏することが決定。
  「ペルシムファンス」はボリショイ劇場管弦楽団の首席奏者や、モスクワ音楽院の教授や学生などで構成される実験的なオーケストラ。オイストラフは作品を改めて研究し、「ペルシムファンス」の創設者であるモスクワ音楽院ヴァイオリン科教授のレフ・モイセーヴィチ・ツェイトリン[1881-1952]からの助言も受けますが、残念ながら公演前にオーケストラが解散してしまいます。しかし、ツェイトリン教授の知己を得たことで、モスクワ音楽院ヴァイオリン科の指導者であるヤンポリスキーやモストラスとも交流が始まります。


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 初めてのレコーディング

1932年、フィルハーモニー協会に所属した影響もあってか、オイストラフはこの年初めてのレコーディングに取り組んでもいます。当時はまだ電気録音が開始されて数年という時期ですが、ソ連では工場単位でSPレコードの生産を競う状態になっていました。
  オイストラフがレコーディングしたのは、ソ連最大のレコード工場だったアプレレフカ工場のブランドである 「グランプラストレスト」です。
  曲目はショパンの練習曲ヘ短調 Op.25-2とマズルカイ短調 Op.67-4の2作品。収録時間の短いSP盤時代ゆえに小品が選ばれるのは当然のことですが、いきなり短調のピアノ曲の編曲物という選択には驚かされます。しかも当時、ソ連といろいろあったポーランドの曲。同年2月には、モスクワ音楽院をポーランド人革命家の名前を使った「F.Y.コーン記念高等音楽学校」と名称変更していたポーランド系のプシビシェフスキー校長が解任され、同年7月には、「ソ連・ポーランド不可侵条約」が締結されてもいます。この不可侵条約の交渉は1926年に始まっていましたが、翌年にソ連の駐ポーランド大使ヴォイコフがウクライナ出身のコベルダによってワルシャワ駅で暗殺されるという混乱などを経て6年越しで結ばれたものでした。
  当時はこうした状況だったので、もしかしたらポーランド音楽の選曲には何か意味があるのかもしれないです。
  ちなみに2回目のレコーディングは1934年1月におこなわれており、アルベニスのピアノ曲「タンゴ」と、チャイコフスキーの弦セレ第2楽章という編曲物が選ばれています。スペインは当時政情不安定で左派労働運動の弾圧もおこなわれていたことから、応援の意味合いもあるのかもしれません。
  なお、「グランプラストレスト」は、他の工場系ブランドと同じく、1964年に「メロディア」が誕生すると統合されています。


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 初めての国外からの招聘

1933年になると、オイストラフは、モーツァルト、メンデルスゾーン、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をセットにした演奏会で大成功し、以後この組み合わせで多くの演奏会をおこなって知名度が大幅に上昇。
  その評判が国外にも伝わり、オイストラフのもとにドイツからの招聘話がもたらされます。しかし、同年ドイツで成立したナチス政権は矢継ぎ早に反ユダヤ主義政策を打ち出しており、外国人まで対象となるボイコット政策まで実施されたことで、ユダヤ人であるオイストラフのドイツ公演は取り消されてしまいます。


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 モスクワ音楽院準教授に就任

1934年、ゴリデンヴェイゼル教授の招きにより、オイストラフはモスクワ音楽院の準教授に就任します。
  オイストラフは2年前の1932年からモスクワ音楽院教授のツェイトリンや、ヤンポリスキー、モストラスと交流がありましたが、当時はまだ1929年の文化行政政変によるモスクワ音楽院の混乱が激しく、オイストラフを招くことはできませんでした。
  しかし2年を経てモスクワ音楽院もなんとか立ち直りつつあり、院長席はまだ空席でしたが、ゴリデンヴェイゼルは院長経験者ということで、オイストラフとの手続きが正式におこなわれています。
  オイストラフはこれで固定収入を得ることができるようになります。ちなみに、5年後の1939年には教授に昇格し、その5年後の1944年にはボンダレンコが助手につき、その6年後の1950年には学部長となっています。


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 全ソ連音楽コンクール

1935年2月17日から3月2日にかけてレニングラードで全ソ連音楽コンクールが開催。オイストラフはヴァイオリン部門で優勝しています。2位はエリザベータ・ギレリスと、コゾルポワ、フィフテンゴルツ、ガブリエリアン、3位がザトゥロフスキー、ミハイル・ゴリドシテイン(ボリスの兄)、ロシャル、ハイツ。


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 第1回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクール

1935年3月、オイストラフは第1回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールに出場して第2位を獲得しています。
  このコンクールが開催される前年、ポーランド政府はナチス・ドイツ政府と不可侵条約を締結、ポーランドでも根強かった反ユダヤ主義が刺激されており、フランスから出席した審査員のガブリエル・ブイヨンもそのことを非難していました。
  そうした影響もあったのか、ユダヤ人のコンクール出場が通知されていたソ連とイギリス(テミアンカ)からの審査員はゼロとなり、審査員団の構成は、多くのポーランド人のほかに、フランス、ドイツ、スイス、スウェーデン、デンマーク、ユーゴスラヴィア、ラトヴィア、エストニアの8か国から一人ずつとなっています。
  しかもパンフレットの言語は、ポーランド語とフランス語だけでした。


当時、ポーランドは1926年にピウスツキがクーデターで実権を握って9年目の独裁政権期で、スターリンとは1932年に、ヒトラーとは1934年に不可侵条約を結んでいたものの、ピウスツキの反ソ連傾向はソ連にも伝わっており、2か月後のピウスツキの葬儀の際も、ドイツからはヒトラーとゲーリングまで出席したのに対し、ソ連からの参加は消極的。また、ピウスツキが、フランス、イギリス、ルーマニア、ハンガリーとの協力体制を模索していたことも周知の事実でした。
  ちなみにポーランドは1921年までソヴィエトと戦争していたこともあってか、ソ連嫌いはなかなか徹底していて、ショパン国際ピアノ・コンクールでも1927年、1932年とソ連の審査員が外されており、1937年になってようやくネイガウスが審査員として呼ばれていますが、ネイガウスはポーランド系ドイツ系で、ソ連の国内パスポートではドイツ人扱いでした。
  もっとも、そうした運営側の小細工に与することなく審査する人も多いことから、このコンクールでも入賞者の多くはユダヤ人だったので、結果には問題は無いということなのでしょう。下の画像では左端のテミアンカ、中央のゴリドシテインとオイストラフがユダヤ人です。なお、テミアンカは、この時の表彰がヒトラーと親しいポーランドの外務大臣によっておこなわれたのが不快だったと述懐しています。
  また、このコンクールの2年前にはオイストラフにとって初めての海外からの招聘がドイツからあったのですが、それがすぐにナチス・ドイツ政府によって取り消されたという事件もありました。


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 第1回イザイ国際ヴァイオリン・コンクール(エリーザベト王妃国際音楽コンクール)

1937年4月、オイストラフが28歳で臨んだベルギーの国際コンクールは、審査員にロシア人のアブラム・ヤンポリスキー(アウアーの弟子の名教師)がいたほか、ジャック・ティボー、ヨーゼフ・シゲティ、カール・フレッシュ、マルセル・ダリュー、フランツ・マイレッカー、アンドレ・ジェルトレル、ゲオルク・クーレンカンプなど、知名度の低い人が多かったヴィエニャフスキ・コンクールに較べて格段に豪華な顔ぶれで、特別ゲストにはクライスラーまで招かれていました。選考結果は下記の通りです。

  1位:ダヴィッド・オイストラフ(ソ連/ユダヤ人)
  2位:リカルド・オドノポゾフ(オーストリア/ユダヤ人、ロシア系)
  3位:エリザベータ・ギレリス(ソ連/ユダヤ人)
  4位:ボリス・ゴリドシテイン(ソ連/ユダヤ人)
  5位:マリーナ・コゾルポワ(ソ連/ロシア人)
  6位:ミハイル・フィフテンゴルツ(ソ連/ユダヤ人)
  7位:ローラ・ボベスコ(ルーマニア)
  8位:ポール・マカノヴィツキー(スウェーデン/ロシア系)

コンクール創設者はベルギー王室のエリーザベト・ド・バヴィエール[1876-1965]。自らヴァイオリンを弾き、芸術と科学への支援を惜しまず、また、ナチス・ドイツ占領下でもユダヤ人を救出したり、冷戦下でも共産圏を訪れたり、日本の音楽学校を支援したりと、その公正な人格者ぶりでも知られていました。


オイストラフとソ連チームは滞在中にクライスラーと親しく交流し、クライスラー特別公演のリハーサルも見学。ドイツ語が通じるソ連チームが気に入ったクライスラーは、新しく作ったばかりで未出版のパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番のためのカデンツァまで彼に披露していました。
  下の画像はクライスラーを囲むソ連チームと、審査員たち。左から順に列記します。

  ミハイル・フィフテンゴルツ(6位)
  マリーナ・コゾルポワ(5位)
  フリッツ・クライスラー(特別ゲスト)
  マルセル・ダリュー(審査員/フランス)
  ボリス・ゴリドシテイン(4位)
  エリザベータ・ギレリス(3位)
  デジレ・ドゥフォー(審査員/ベルギー)
  ダヴィッド・オイストラフ(1位)
  アブラム・ヤンポリスキー(審査員/ソ連)

ソ連チーム一行はこのあとパリでリサイタルをおこない、意気揚々とソ連に帰国しますが、ほどなくスターリンとエジョフの大粛清の嵐が吹き荒れることとなります。
  また、コンクール優勝後、オイストラフのもとにはEMIのウォルター・レッグから電報が届き、続いて手紙でレコード制作についての誘いがありますが、大粛清のゴタゴタと戦争により、この時の話はうやむやで終わってしまいました。


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 第2次大戦中

通常の演奏活動は可能な限り続け、積極的に新作も初演したほか、北方艦隊や赤軍への慰問演奏、病院や工場でのリサイタル、さらに1942年には包囲されたレニングラードにも出向いて演奏するなど銃後の活動を積極的に展開。1941年にはピアノのオボーリン、チェロのクヌシェヴィツキーと「オイストラフ・トリオ」を結成し、1943年1月のモスクワ攻防戦勝利以降はソ連各地で演奏しています。
  また、モスクワ音楽院はモスクワの南東約700キロのサラトフに疎開していましたが、オイストラフはそこでの教育活動にも精を出すなど戦時中は非常に多忙でした。
  ちなみに妻タマーラとイーゴリ少年は、モスクワの西約1,400kmのところにあるスヴェルドロフスクに疎開しており、1943年1月のモスクワ攻防戦勝によって、ほかと同じくモスクワに帰還。
  オイストラフは1942年に家族のいるスヴェルドロフスクに滞在した際、ピョートル・ボンダレンコと出会って弦楽四重奏団を結成。ボンダレンコは1944年からはオイストラフの助手としてモスクワ音楽院で教えるようになり、以後30年に渡ってオイストラフの演奏家人生を支えることに貢献しています。


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 戦後の国際的な活動

戦後最初の西側公演は、1945年7月のウィーン・フィルとの共演でしたが、ソ連占領軍政府統治下のオーストリアでの演奏だったので、1949年10月のヘルシンキでの演奏会が実質的な戦後の西側デビューとも言われています。
  戦後の西側各国デビューはこんな感じです。

  1945年:オーストリア
  1949年:フィンランド
  1950年:ベルギー
  1951年:イタリア
  1953年:イギリス、フランス、西ドイツ
  1955年:日本、スウェーデン、アメリカ
  1956年:オランダ
  1956年:オーストラリア、ニュージーランド
  1960年:ポルトガル
  1961年:スイス

戦後の西側でのオイストラフの最初の大規模な成功は、1955年2月に開始された日本ツアーと言われています。当時の日本はまだソ連との国交もなく、また、敗戦国で外貨制限もかけられていましたが、1か月で6都市をまわるツアーはマスコミでも大きな話題となっていました。
  しかし10か月後のアメリカ・ツアーはさらに大きな成功となります。もともとアメリカ・ツアーは1939年に予定されていたくらいなので(戦争で中止)、戦後の訪米はもっと早くても良さそうでしたが、冷戦による東西プロパガンダ合戦が開始される中、アメリカで赤狩りの嵐が吹き荒れ、同キャンペーンが1954年12月に終了するまでは異常な状況が続いていたため、オイストラフのアメリカ・デビューは1955年までずれこんでいたという政治的な事情があります。
  アメリカ・ツアーに際しては大手の音楽マネジメント「コロンビア・アーティスツ」とソ連官僚が手を結び、盛大な宣伝と3か月で10都市をまわる大規模なツアーを成功させており、これが世界的な名声に繋がることにもなりました。


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 オイストラフの楽器

オイストラフは生涯に8台のストラディヴァリを使用していました。内訳は政府の貸与が5台に、個人所有が3台。特にお気に入りだったのは、1950年代半ばから使用していた「フォンタナ伯爵」と、1966年から亡くなる1974年まで使用していた「エクス・マルシック」だったようです。

  「ユスポフ」(1736)
  「提督カイセリノフ」(1699)
  「セルゲイ・シャコフスキー」(1707)
  「エクス・ポリアキン」(1712)
  「マラコフ」(1713)
  「ソ連」(1717)
  「フォンタナ伯爵」(1702)
  「エクス・マルシック」(1705)

アントニオ・ストラディヴァリ[1644-1737]は長寿で2人の息子らと工房を構えていたため、現存するヴァイオリンも500台前後はあるということです。オイストラフの時代はまだ投機価格になっていない頃ですが、それでも8台の使用はなかなかの数だと思います。
  なお、ヴィオラはアンドレア・グァルネリだったそうです。


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 オイストラフはチェスも名手

ソ連はチェス大国として有名でしたが、音楽家にもチェスに熱中する人が多かったようで、特にうまかったのがオイストラフということです。そして作曲家でチェスが強いことで知られていたのがプロコフィエフ。2人はふだんからよく対局していたそうで、勝ったり負けたりということで注目され、1937年、2人に10試合連続で勝負をさせようと考案し、結果を毎回新聞で報じるという企画が実現。しかし大粛清が本格化したため途中で終わってしまいます。記録によると最初の4試合が引き分けで、5試合目にプロコフィエフが勝利したということです。


また、ヴィエニャフスキ・コンクールで一緒だったテミアンカが、帰国したオイストラフの招きでモスクワを訪ねた際には、チェスのダブルスという変則試合で盛り上がったということです。オイストラフとテミアンカのチームと、ピアニストのアレクセイ・ベレンキとホロヴィッツの父親のチームの対戦でしたが、チームメイト同士の意思の疎通も禁止されたため、とてもカオスな対戦になったそうです。
  オイストラフはチェスだけでなく、若い頃にはテニスにも熱中し、中央芸術労働者会館のスポーツ部長を何年も務めていたほど。自動車運転については歳をとってからも積極的で、アメリカでオイストラフの運転する車に同乗したエリック・フリードマンは恐怖体験だったと述べてもいます。


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 CDトラック番号リスト&曲目紹介

 CD1


●バッハ:ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲 ニ短調 BWV1052 [26:15]
  1. I Allegro [08:54]
  2. II Adagio [08:29]
  3. III Allegro [08:52]

ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
シュターツカペレ・ベルリン
フランツ・コンヴィチュニー(指揮)

録音:1958年3月20、26日、ベルリン、SRKザール


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●バッハ:2台のヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲 ニ短調 BWV 1043[17:06]
  4. I Vivace [04:14]
  5. II Largo mo non tranto [07:45]
  6. III Allegro [05:07]

ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン
イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
フランツ・コンヴィチュニー(指揮)

録音:1957年4月16日、ライプツィヒ


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●エルンスト・ヘルマン・マイヤー:ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲(1963/64年)[36:10]
  7. I Romanza [12:26]
  8. II Dramma musicale, eroico, lirico e gioioso [14:59]
  9. III Epilogo [08:45]

ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
シュターツカペレ・ベルリン
オトマール・スイトナー(指揮)

録音:1965年3月2〜4日、ベルリン、キリスト教会(ステレオ)


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 CD2


●サラサーテ:ナバラ(スペイン舞曲)[06:09]
  1. PABLO DE SARASATE: Navarra (Spanischer Tanz) [06:09]

ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
フランツ・コンヴィチュニー(指揮)

録音:1957年4月、ライプツィヒ、コングレスハレ


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●ジャン=マリ・ルクレール:ソナタ ニ長調 [13:12]
  2. Adagio molto maestoso [04:23]
  3. I Allegro [02:13]
  4. III Sarabamde [03:29]
  5. IV Tambourin [03:07]

ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
ナウム・ヴァルター(ピアノ)

録音:1954年2月、ベルリン、タウベンシュトラーセ・スタジオ


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●ヴィエニャフスキ:3つのエチュード・カプリース Op.18より [08:47]
  6. Nr.2 Es-Dur (Andante) [05:10]
  7. Nr.5 E-Dur (Präludium: Allegretto scherzando) [01:56]
  8. Nr.4 a-moll (Tempo di Saltarella, ma nontroppo vivo) [01:41]

ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)

録音:1957年4月19日、ベルリン、SRKザール


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●ヴィエニャフスキ:ヴァイオリン協奏曲第2番ニ短調 Op.22 [21:14]
  9. I Allego moderato [11:22]
  10. II Romanze: Andante non troppo [04:17]
  11. II Allegro con fucco - Allegro moderato [05:35]

イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
フランツ・コンヴィチュニー(指揮)

録音:1956年3月29日〜4月3日、ライプツィヒ、コングレスハレ


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●コダーイ:3つのハンガリー舞曲 [04:40]
  12. ZOLTÁN KODÁLY: Drei Ungarische Tänze [04:40]

ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
  ナウム・ヴァルター(ピアノ)

  録音:1954年2月、ベルリン、タウベンシュトラーセ・スタジオ


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●メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 op.64 [25:42]
  13. I Allegro molto appassionata [12:02]
  14. II Andante [07:34]
  15. III Allegretto non troppo-Allegro molto vivace [06:06]

イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
フランツ・コンヴィチュニー(指揮)

録音:1956年3月29日〜4月3日、ライプツィヒ、コングレスハレ


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 CD3


●ヴィヴァルディ:「調和の霊感」〜第8番 2台のヴァイオリンのための協奏曲イ短調 Op.3 No.8(RV522)[13:06]
  1. I Allegro [04:00]
  2. II Larghetto e spirituoso [04:43]
  3. III Allegro [04:23]

ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
フランツ・コンヴィチュニー(指揮)

録音:1957年4月16日、ライプツィヒ


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●ヘンデル:2台のヴァイオリンとピアノのためのソナタ ト短調 Op.2 No.7 [10:46]
  4. HÄNDEL: Sonate g-moll op.2 Nr.7 für zwei Violine und Klavier [10:46]

ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)
ヴラディーミル・ヤンポリスキー(ピアノ)

録音:1957年4月18日、ライプツィヒ、コングレスハレ


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●ベンダ:2台のヴァイオリンとピアノのためのソナタ ホ長調[14:54]
  5. GEORG BENDA: Sonate E-Dur für zwei Violinen und Klavier [14:54]

ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)
ヴラディーミル・ヤンポリスキー(ピアノ)

録音:1957年4月18日、ライプツィヒ、コングレスハレ


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●タルティーニ:2台のヴァイオリンとチェンバロのための三重奏曲ヘ長調 [08:27]
  6. GIUSEPPE TARTINI: Trio für zwei Violinen und Cembalo F-Dur [08:27]

ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)
ハンス・ピシュナー(ハープシコード)

録音:1957年4月19日、ベルリン、SRKザール


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●バッハ:2台のヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ ハ長調 BWV1037 [14:45]
  7. J.S.BACH: Sonate für zwei Violinen und Cembalo C-Dur BWV 1037 [14:45]

ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)
ハンス・ピシュナー(ハープシコード)

録音:1957年4月19日、ベルリン、SRKザール


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●ベートーヴェン:ロマンス第1番ト長調 op.40 [06:52]
  8. BEETHOVEN: Romanzen für Violine und Orchester Nr.1 G-Dur op.40 [06:52]

イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
フランツ・コンヴィチュニー(指揮)
録音:1956年3月29日〜4月3日、ライプツィヒ、コングレスハレ


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●ベートーヴェン:ロマンス第2番ヘ長調 op.50 [08:39]
  9. BEETHOVEN: Romanzen für Violine und Orchester Nr.2 F-Dur op.50 [08:39]

イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
フランツ・コンヴィチュニー(指揮)
録音:1956年3月29日〜4月3日、ライプツィヒ、コングレスハレ


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 CD4


●バッハ:ヴァイオリン協奏曲 第2番 ホ長調 BWV 1042 [17:24]
  1. I Allegro [08:02]
  2. II Adagio [06:30]
  3. II Allegro assai [02:52]

イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
フランツ・コンヴィチュニー(指揮)
録音:1956年3月29日〜4月3日、ライプツィヒ、コングレスハレ


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●モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲イ長調 KV219 [30:06]
  4. I Allegro aperto [09:35]
  5. II Adagio [11:07]
  6. III Tempo di Menuetto [09:24]

ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
シュターツカペレ・ドレスデン
フランツ・コンヴィチュニー(指揮)

録音:1954年2月、ドレスデン、衛生博物館


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●チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲ニ長調 Op.35 [35:29]
  7. I Allegro moderato [19:04]
  8. II Canzonetta Andante [06:58]
  9. III Finale, Allegro vivacissimo [09:27]

ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
シュターツカペレ・ドレスデン
フランツ・コンヴィチュニー(指揮)

録音::1954年2月11日、ドレスデン、ルカ教会


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 CD5


●フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調 [29:23]
  1. I Allegro ben Moderato [06:40]
  2. II Allegro [08:33]
  3. III Ben Moderato (Recitativo-Fantasia) [07:38]
  4. IV Allegretto poco mosso [06:32]

イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)
アントン・ギンズブルグ(ピアノ)

録音:1958年3月26日、ベルリン、タウベンシュトラーセ・スタジオ


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●ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番ニ短調 Op.108 [21:50]
  5. I Allegro [08:00]
  6. II Adagio [04:52]
  7. III Un poco presto e con sentimento [03:06]
  8. IV Prest agitato [05:52]

イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)
ナターリア・ゼルツァロワ(ピアノ)

録音:1962年10月14、15日、ベルリン
ピアノのナターリア・ゼルツァロワ[1930-2017]は、モスクワ音楽院でヤーコフ・フリーエル[1912-1977]に師事したピアニスト。イーゴリと1960年に結婚しており、息の合ったアンサンブルを聴かせています。


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●プロコフィエフ:5つのメロディop.35 [12:13]
  9. I Andante [02:12]
  10. II Lento, ma non troppo - Poco più mosso [02:41]
  11. III Animato, ma non allegro [03:03]
  12. IV Allegretto leggerio e scherzando [01:14]
  13. V Andante non Ttoppo - Pochissimo più animato [03:03]

イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)
ナターリア・ゼルツァロワ(ピアノ)

録音:1962年10月14、15日、ベルリン


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●ストラヴィンスキー:イタリア組曲 [14:22]
  14. I Introduzione: Allegro moderato [01:57]
  15. II Serenata: Larghetto [02:56]
  16. III Tarantella: Vivace [01:52]
  17. IV Gavotta con due Variazioni [03:26]
  18. V Minuetto e Finale: Moderato. Molto vivace [04:11]

イーゴリ・オイストラフ(ヴァイオリン)
ナターリア・ゼルツァロワ(ピアノ)

録音:1962年10月14、15日、ベルリン


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 前史

 1848年/弘化5年、嘉永元年

◆1848年革命、各地で勃発。ドイツ、オーストリア、イタリア、フランス、ハンガリー、ボヘミア、デンマーク、ウクライナ、ポーランド、スイス、デンマークなど広範囲で、自由主義的な革命運動が起こり、「ウィーン体制」の崩壊を招くことになり、人の移動も多くなります。

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 1849年/嘉永2年

◆ウクライナで民族解放運動が活発化。ウクライナは18世紀初頭からポーランド王国に代わってロシア帝国による植民地化が進み、1764年には「小ロシア省」が置かれ、1781年には行政区分が設置、1783年には農民の移動を制限した「農奴制」も導入。元々の支配者であったポーランド人に加え、大量に移民していたドイツ人や、その前から大勢いたユダヤ人によって、多くのウクライナ人が使役に供されていた歴史が背景にあります。

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 1861年/万延2年、文久元年

◆ロシア皇帝アレクサンドル2世、農奴解放令を発布し、約4,700万人の農民を地主から解放。彼らは全国各地に新たに設置された地方自治機関「ゼムストヴォ」に数千人の代議員を送り出し、やがて工業化の担い手として大きな役割を果たすことにもなりますが、当初は混乱も招き、ウクライナからコーカサス地方や極東の遠隔地に移動する人も大勢いました。

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 1873年/明治6年

◆ロシア帝国で飢饉発生。
◆ロシア帝国政府、ウクライナ語の教育を禁止。ウクライナ語の書物も全面的に出版・流通を禁止。

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 1881年/明治14年

◆3月13日、ロシア帝国皇帝アレクサンドル2世、サンクトペテルブルクで暗殺。ポーランド人のイグナツィ・フリニェヴィエツキが手投げ爆弾を投じて殺害したものですが、威力が大き過ぎてフリニェヴィエツキ本人も爆発の影響で数時間後に死亡しています。
◆反ユダヤ主義の新聞が、皇帝暗殺はユダヤ人によるものと虚偽の報道をおこなったことで、ユダヤ人から盗んでも罰せられないという偽情報も蔓延。
◆4月3日、アレクサンドル2世暗殺事件の首謀者、ロシア人のアンドレイ・ジェリャーボフと、ユダヤ系ロシア人のソフィア・ペロフスカヤらが処刑。
◆4月15〜17日、ロシア帝国、ウクライナのエリザヴェトグラードでポグロム(ユダヤ人迫害)発生。アレクサンドル2世暗殺事件がユダヤ人によるものという煽情的に誇張された報道により、ユダヤ人の経営する商店や飲食店がウクライナ人たちに略奪されたほか、傷害事件も多発。近郊のウクライナ農民が参加して略奪が激化すると、ロシア帝国政府により陸軍が派遣されて鎮圧。以後、ウクライナとその周辺では、翌年まで反ユダヤ主義的な略奪事件が続発。ロシア帝国全土では、西部を中心に1884年までポグロムが散発的に継続し、事件の数は200を超え大勢の犠牲者も出ています。



◆オデッサに馬車鉄道(コンカ)開通。


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 1890年/明治23年

◆9月、オデッサ競馬場が開場。ノヴォロシースク馬術振興協会が建設。


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 1891年/明治24年

◆ロシア帝国で飢饉発生。

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 1892年/明治25年

◆ロシア帝国で飢饉発生。

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 1893年/明治26年

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 1894年/明治27年

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 1895年/明治28年

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 1896年/明治29年

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 1897年/明治30年

◆ロシア帝国で飢饉発生。

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 1898年/明治31年

◆ロシア帝国で飢饉発生。

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 1900年/明治33年

◆ロシア帝国、ウクライナのオデッサに、マルクス主義政党「ロシア社会民主労働党」の委員会が開設。ロシア帝国により建設された近代都市オデッサは、この頃には人口40万人を超えて、サンクトペテルブルク、モスクワ、ワルシャワに次ぐロシア帝国第4の都市に成長。大きなユダヤ人コミュニティもあり、市内では、ウクライナ語、ロシア語のほか、イディッシュ語話者が多く生活。とはいえロシア帝国による政策はウクライナ人、ユダヤ人に対して抑圧的なものでした。

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 1901年/明治34年

◆ロシア帝国で飢饉発生。

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 1903年/明治36年

◆4月、ロシア帝国領キシニョフ(モルドバのキシナウ)で、約50人のユダヤ人がウクライナ人らにより虐殺される事件(ポグロム)が発生。キシニョフはオデッサの西約150キロのところにある中規模の都市で、オデッサのユダヤ人出版関係者たちは奮い立ち、事件について記した出版物を各国語に翻訳してオデッサの港と鉄道駅から世界に向けて送りだすことになります。


 1905年/明治38年

◆1月、ロシア帝国首都サンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」発生。ロシア第一革命へ発展。


◆ロシア帝国で飢饉発生。
◆キエフでギリシャ人を狙ったポグロムが発生。
◆オデッサで大規模なポグロム発生。当時のオデッサの識字率は約4割で、裕福なユダヤ人との生活水準の差には大きなものがありました。


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 1906年/明治39年

◆ロシア帝国で飢饉、農村部中心に人口の約22%が飢餓状態に。
◆6月、ロシア帝国領ベロストーク(ポーランドのビャウィストク)でポグロム発生。ユダヤ人80人が虐殺。

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 1907年/明治40年

◆6月、ロシア第一革命、ロシア帝国政府に鎮圧されて終結。
◆ロシア帝国で飢饉発生。

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 年表
 1908年/明治41年 (0歳)

●9月30日(ユリウス暦:9月17日)、ダヴィッド・フョードロヴィチ・オイストラフはロシア帝国ウクライナのオデッサに誕生。
  第2ギルド商人の祖父の店で会計をしていた父フョードル・フィシェル・オイストラフ[1885-1958]は、音楽好きでマンドリンのほかヴァイオリンなども演奏。第1次大戦中は軍楽隊でトロンボーンを吹いていました。
  母イザベラ・ベイラ・オイストラフ[1888-1958]、はオデッサ市立劇場合唱団に所属するオペラ歌手。


◆ロシア帝国で飢饉発生。

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 1909年/明治42年 (0〜1歳)

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 1910年/明治43年 (1〜2歳)

◆6月、オデッサ万国博覧会開始。テーマはアール・ヌーヴォー。


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 1911年/明治44年 (2〜3歳)

●父が渡した鮮やかな黄色のおもちゃのヴァイオリンで遊び始めます。
◆ロシア帝国で飢饉発生。

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 1912年/明治45年、大正元年 (3〜4歳)

●オデッサ市立劇場に連れていかれるようになり、数年のうちに多数のオペラを鑑賞。お気に入りはビゼー「カルメン」、ボロディン「イーゴリ公」、マイヤーベーア「預言者」、オーベール「フラ・ディアボロ」などで、ワーグナー「ワルキューレ」では眠って椅子から転げ落ちてしまったのだとか。


●ストリャルスキーが自宅で私設音楽学校を開設。

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 1913年/大正2年 (4〜5歳)

●9月、ストリャルスキー音楽学校で学び始め、以後10年間に渡ってヴァイオリンとヴィオラの指導を受けます。ストリャルスキー[1871-1944]はオデッサ市立劇場管弦楽団の楽員で、両親の友人でもありました。下の画像の生徒の左端がオイストラフで、8分の1サイズのヴァイオリンを弾いています。


◆ロシア帝国で飢饉発生。

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 1914年/大正3年 (5〜6歳)

●春、オイストラフ、ストリャルスキー音楽学校の「生徒の夕べ」でダンクルの変奏曲を軽やかに正確なリズムで演奏。演奏会の曲目構成は同校の最上級生で10歳のナタン・ミルシテイン[1904-1992]でした。
◆7月28日、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国に対して動員開始。
◆8月1日、ドイツ帝国、ロシア帝国に対して宣戦布告。ロシア帝国では反ドイツ感情が勃興。サンクトペテルブルクなどドイツ語の地名を変更したほか、多くのドイツ人が追放されます。
◆8月6日、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国に対して宣戦布告。
◆ロシア皇帝アレクサンドル2世、約20万人のドイツ人をウクライナ北西部から追放。
◆10月、ドイツの巡洋戦艦に率いられたオスマン帝国海軍が、ロシア帝国のオデッサとセヴァストポリを砲撃。
◆ロシア帝国政府、禁酒令布告(ソ連にも引き継がれて1924年まで継続)。

●オイストラフの父ヒョードルが徴兵により軍の給与だけとなって収入が大幅に減少。母イザベラも、戦時体制によりオデッサ市立劇場などでの仕事が激減。ロシア帝国では1912年6月25日に、軍に招集された人々の家族に対する物質的な支援を国家が保証する法律が採択されていましたが、最低限のものだったので、オイストラフ家の家計は悪化します。オイストラフの受けるレッスン回数も減らされますが、やがてストリャルスキーは無報酬で教えてくれることになります。

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 1915年/大正4年 (6〜7歳)

●ストリャルスキー音楽学校に在学。

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 1916年/大正5年 (7〜8歳)

●ストリャルスキー音楽学校に在学。

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 1917年/大正6年 (8〜9歳)

●ストリャルスキー音楽学校に在学。
◆2月、皇帝アレクサンドル2世、ヴォルガ入植地の解体とドイツ人追放を決定。
◆3月、ペトログラードでの国際婦人デーの女性デモをきっかけとして2月革命(ユリウス暦では2月)勃発。ロシア臨時政府樹立。
◆4月、ロシア臨時政府は、民族的、宗教的、社会的理由に基づく差別」をすべて撤廃し、ユダヤ人の地理的移動と教育機会の制限も撤廃。これにより国内主要都市への移住が始まります。

●5月、ストリャルスキー音楽学校の生徒のアンサンブルのメンバーとして、オデッサの街頭で「ラ・マルセイエーズ」など演奏。「ラ・マルセイエーズ」は帝政ロシアでは禁止されてたので、革命への賛同を意味しています。
◆7月、ペトログラードで7月蜂起。50万人のデモがロシア臨時政府により鎮圧。
◆7月、キエフ蜂起。ポルボートク衆の叛乱。ウクライナ軍人による蜂起。ロシア帝国軍が敗北。
◆11月、11月革命(ユリウス暦では10月革命)勃発。レーニンが最高指導者を務めるボリシェヴィキ政権樹立。すべての民族に平等、自決、分離の権利を約束。
◆第1次世界大戦と並行して、ロシア内戦(第1期)が勃発。
◆11月、「ウクライナ人民共和国」の建国がキエフで宣言。
◆12月、赤軍がウクライナに侵攻。傀儡政権をハリコフに樹立。
◆オデッサ、戦略上の要衝の地ということで、ドイツ・オーストリア軍に占領されたのち、イギリス・フランス軍に占領。続いてデニキン将軍率いる白衛義勇軍にも占領。

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 1918年/大正7年 (9〜10歳)

●ストリャルスキー音楽学校に在学。
◆1月、キエフ蜂起。共産主義者による暴動。
◆2月、赤軍がウクライナ人民共和国の首都キエフを占領。
◆2月、ウクライナ西部がドイツの保護領に。
◆3月、ドイツ、オーストリアとウクライナの同盟軍が、キエフを解放。ウクライナは穀物100万トンを提供。
◆3月、ブレスト=リトフスク条約により、第一次世界大戦の東部戦線での戦闘が終結し、「ロシア内戦(第1期)」も休戦。
◆3月、「ボリシェヴィキ」は「共産党」に改名。共産党以外の政党活動を禁じて、共産党の一党独裁制に移行。
◆3月、レーニン、首都をペトログラードからモスクワに変更。政府機能を移転。
◆4月、ウクライナでクーデター発生。ドイツ占領軍の支援を受けて、スコロパドスキーが政権を掌握。ドイツ軍がウクライナ中央議会を排除したため、ウクライナ人民共和国は、独裁国家化。スコロパドフスキーは帝政時代の将軍で地主。極右のスコロパドフスキーは、首都キエフを反ユダヤ主義者の拠点としたため、ロシア全土から反ユダヤ主義政治家や軍人たちが結集する場所となっています。
◆7月、ドイツ、北ロシアのムルマンスクとアルハンゲリスクに派兵。
◆7月、ソヴィエト人民委員会は、反ユダヤ主義が革命の大義にとって致命的であるとする法令を布告。ポグロムも公式に非合法化。
◆8月 、シベリア出兵。日本軍約7万人、チェコ軍約5万人、アメリカ軍約8千人、カナダ軍約4千人、イタリア軍約2千4百人、イギリス軍約千5百人、フランス軍約千4百人。
◆10月、ドイツ、オデッサなど南ロシアにも派兵し、ロシア周辺の封鎖を宣言。
◆10月、西ウクライナ人民共和国(首都リヴィウ/リヴォフ)、成立。1919年1月まで存在。公用語はウクライナ語。
◆11月、ポーランド独立。ピウスツキが国家元首に就任。軍も掌握。
◆11月、ポーランド、ガリツィア(ウクライナ南西部)に侵攻。西ウクライナ人民共和国の独立宣言を受けての侵攻。「ウクライナ・ポーランド戦争」の勃発。フランスがポーランドを支援。
◆12月、赤軍がウクライナに侵攻。
◆12月、ウクライナのスコロパドスキー政権が倒され、「ウクライナ人民共和国」に戻されます。
◆連合国がロシアとの貿易を停止(1920年11月まで)。
◆ロシア臨時政府、「家族法」制定。内戦(と第1次大戦)で減少する一方の人口を補うため、結婚・離婚の手続きを簡略化。結婚と同じく離婚も増え、モスクワではこの年のうちに約7,000組の夫婦が離婚。自由恋愛的な婚姻が普及し、1920年代なかばには結婚回数は平均4回となっています。
  やがて結婚を経ない同棲が普及するにつれ、子供の養育放棄も社会問題化。戦争やヴォルガ飢饉で親を失った子供に加えて、膨大な数の養育放棄児童が浮浪児化し、1920年代なかばにはその数は700万人を突破。少年集団による凶悪犯罪が激増し、女性浮浪者も急増するなど収拾がつかなくなったため、1936年のスターリン憲法制定までに家族法は廃止。離婚件数を減らすために手続きの手数料を高額化し、養育を放棄した者には高額な罰金刑を適用、同性愛も禁じるなど、伝統的な家庭の形を復活させる方向に転換。

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 1919年/大正8年 (10〜11歳)

●ストリャルスキー音楽学校に在学。
◆1月、ウクライナ人民共和国(首都キーウ/キエフ)が、西ウクライナ人民共和国を併合。
◆2月、「ポーランド・ソヴィエト戦争」勃発。ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国&ウクライナ人民共和国(首都ハリコフ)と、ポーランド共和国&ウクライナ人民共和国(首都キエフ)の戦争。ソヴィエト=ロシア側は内戦との同時進行。
◆2月、赤軍、キエフを占領。
◆3月、「ロシア内戦(第2期)」勃発。
◆5月、ソヴィエト、紙幣発行の制限廃止。紙幣の種類は1〜1,000ルーブル。
◆5月、首長グリゴリエフ率いるウクライナ・コサックにより、エリザヴェトグラードなどでユダヤ人大虐殺。グリゴリエフは2か月後に、アナーキストのネストル・マフノらに殺害されています。
◆夏、白軍がエリザヴェトグラードを占領。
◆8月31日、ウクライナ軍がキエフを解放。
◆10月、ポーランド側のウクライナ人民共和国(首都キエフ)の軍でチフスが大流行し、兵力の70%を喪失。ボルシェヴィキを憎悪するウクライナ民族主義者、シモン・ペトリューラ大統領はポーランドに亡命。
◆11月、ウクライナ軍の一部が白軍に寝返り、ウクライナ執政内閣がザポリージャ地方に避難。
◆11月、「ロシア内戦(第2期)」、ユダヤ系で赤軍創始者でもあるトロツキー率いる赤軍が白軍を撃退。
◆11月、ソヴィエト紙幣の種類に、5,000ルーブルと10,000ルーブルが追加。
◆12月、ウクライナ執政内閣が、白軍、赤軍、ポーランド軍に包囲。ウクライナ軍がゲリラ戦に転向し、ソヴィエトへの抵抗を開始。

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 1920年/大正9年 (11〜12歳)

●ストリャルスキー音楽学校に在学。
◆4月、ヴランゲリ将軍が白軍の全権を掌握。翌月にはロシア軍と名を改めてクリミア半島を拠点に赤軍と戦闘。「ロシア内戦(第3期)」勃発。
◆ポーランド軍により、キエフ占領。
◆10月、「ポーランド・ソヴィエト戦争」停戦。翌年3月に講和条約締結。
◆11月、白軍ヴランゲリ将軍が敗北、ユーゴスラヴィアに亡命。「ロシア内戦(第3期)」終結。
◆内戦後の耕地面積は内戦前の62パーセント、生産量は37パーセント、金属製農機具生産量は13パーセントに減少。耕作馬の頭数は350万頭から240万頭に減少、牛は580万から370万に減少。さらに輸送手段である機関車の稼働率も半分以下に低下。
◆為替レートが、米ドル「1ドル=2ルーブル」から、「1ドル=1,200ルーブル」となり600分の1に下落、超ルーブル安となり、輸出競争力が急上昇。国外からの投資も集めやすくなり、そうした金融環境が、翌年のレーニンによる資本主義的な新経済政策(ネップ)策定に繋がったものとも考えらえます。

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 1921年/大正10年 (12〜13歳)

●ストリャルスキー音楽学校に在学。
◆2月、ソヴィエト、農民の蜂起が100万人以上の規模で発生。
◆3月、「ポーランド・ソヴィエト戦争」終結。講和条約が結ばれ、ポーランドはリトアニア中部とウクライナ西部を併合。ほかはソヴィエト領。
◆3月、ソヴィエトで新経済政策(ネップ)施行。余剰作物などの資本主義的運用により、経済が活性化。
◆春、ヴォルガ飢饉。ウクライナのヴォルガ・ドイツ人の入植地域で翌年にかけて栄養失調などが原因で農村中心にチフスやコレラが流行、多くの犠牲者が出て、モスクワなど都市部にもホームレスや浮浪児が集まるようにもなります。
◆7月、ソヴィエト、紙幣の種類に、25,000ルーブル、50,000ルーブルと100,000ルーブルが追加。
◆11月、ソヴィエト、第1回通貨切り下げ実施。旧紙幣10,000ルーブル=1922年度紙幣1ルーブルという基準。
◆ソヴィエトで戦時共産主義の一環として物々交換が進み、通貨の価値が低下、インフレが急速に進行。

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 1922年/大正11年 (13〜14歳)

●ストリャルスキー音楽学校に在学。
◆モスクワ放送局、ラジオ放送開始。3月に完成した高さ150mの鉄塔から電波を送信。


◆5月26日、レーニン、最初の脳梗塞発作。5か月間の入院中に回復するものの簡単な計算なども困難な状態に。その間、スターリンは、カーメネフ、ジノヴィエフとのトロイカ体制を確立、有力幹部トロツキーに対抗します(のちにカーメネフ、ジノヴィエフは粛清、トロツキーは国外追放のうえ暗殺)。
◆10月、第2回通貨切り下げ実施。1922年度紙幣100ルーブル=1923年度紙幣1ルーブルという基準。第1回通貨切り下げに当てはめると、100万分の1になった計算。
◆12月、ソヴィエト社会主義共和国連邦成立宣言。
◆12月16日、レーニン、2度目の脳梗塞発作。右手の麻痺はあるものの仕事は口述で遂行。

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 1923年/大正12年 (14〜15歳)

●ストリャルスキー音楽学校を卒業。
◆3月10日、レーニン、3度目の脳梗塞発作。回復せず10か月後に死去。その間、スターリンが実権掌握。
●オデッサ音楽院に入学。ストリャルスキーの教室で学びます。


●オデッサ音楽院交響楽団にヴィオラ奏者として入団し、その後、ヴィオラ首席奏者、ヴァイオリン奏者、コンサートマスターとなっています。


●ストリャルスキーの記念公演でバッハのヴァイオリン協奏曲を演奏。
◆11〜12月、紙幣の種類に、10,000ルーブルと15,000ルーブルが追加。

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 1924年/大正13年 (15〜16歳)

●オデッサ音楽院に在学。


●オデッサ音楽院交響楽団在籍。ヴィオラ首席奏者。


●リサイタル・デビュー。タルティーニ「悪魔のトリル」ほか。
◆1月、ソ連最高指導者、レーニン死去により、スターリンが就任。
◆1月、ソ連憲法制定。
◆2月、ソ連政府、通貨改革実施。旧紙幣50,000ルーブル=1924年度紙幣1ルーブルという基準。ソ連建国後の切り下げは、これで500億分の1になった計算。
◆2月、紙幣の種類に、25,000ルーブルが追加。
◆8月、ソ連政府、酒類販売を許可。10年間の酒類販売禁止期間中に、モルヒネやコカインなど麻薬中毒患者が増えすぎたため。一方でアルコール中毒患者も増加するものの、麻薬中毒よりは社会的影響が少ないという判断。
◆ソ連政府、麻薬販売を違法とし、違反者には懲役10年の刑。これにより麻薬使用者が激減。
◆ペトログラード、レニングラードに改名。

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 1925年/大正14年 (16〜17歳)

●オデッサ音楽院に在学。


●オデッサ音楽院交響楽団在籍。


●ソリストとしてオデッサ音楽院交響楽団のツアーに同行。エリーザベトグラード、ニコラエフ、ヘルソンで演奏。
◆1月、ソ連労働者階級ユダヤ人農業組織化協会設立。ウクライナへのユダヤ人入植を奨励・支援。

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 1926年/大正15年、昭和元年 (17〜18歳)

●オデッサ音楽院交響楽団コンサートマスター。


●オデッサ音楽院を卒業。卒業演奏はプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番、タルティーニ:「悪魔のトリル」、ルビンシテイン:ヴィオラ・ソナタ。


◆ポーランドのピウスツキがクーデターで政界復帰。

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 1927年/昭和2年 (18〜19歳)

●オデッサ音楽院交響楽団コンサートマスター。


●第1回ショパン国際ピアノ・コンクール。ソ連審査員無し。
●プロコフィエフと交流。プロコフィエフは9年ぶりの帰国で、演奏旅行でオデッサを訪れていました。
●グラズノフのヴァイオリン協奏曲を作曲者の指揮でオデッサとキエフで演奏。

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 1928年/昭和3年 (19〜20歳)

●10月、ニコライ・マリコ指揮レニングラード・フィルとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏。マリコは前年にオデッサ音楽協会理事シガルの家でオイストラフと知り合って気に入っており、この招待へと繋がりました。
●モスクワに転居。
●モスクワでは無名だったため、バレエ・ダンサーの伴奏やポピュラー歌手の伴奏アンサンブルへの参加など、さまざまな伴奏仕事をおこないます。

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 1929年/昭和4年 (20〜21歳)

●ウクライナ・ツアーを計画するものの、告知などが適切におこなわれなかったためチケットがほとんど売れず、10回のうち9回が公演中止に追い込まれます。開催できたのはハリコフのオーケストラ公演への参加のみでした。
●ルナチャルスキー教育人民委員長(≒文部大臣)がかねてより提唱していた、「ロシア語アルファベットのラテン文字化」の運動を実現すべく、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の教育人民委員会は、「ロシア語アルファベットのラテン文字化」を検討する委員会を設置。
●9月、ルナチャルスキーが、在職13年目の教育人民委員会の委員長職を解かれ、ソ連中央委員会直轄となる学術委員会の委員長に任命。
●9月、ルナチャルスキーの後任として、アンドレイ・ブーブノフ[1884-1938]が教育人民委員会の委員長に就任。
●11月、1週間に渡って開催された全連邦共産党の中央委員会総会で、モスクワ音楽院とレニングラード音楽院に関することも決定。両音楽院は他のすべての高等教育機関と同様に、プロレタリア化を任務とし続けるというものです。
  そしてそれは、単に労働者や農民を音楽院に加えるという意味で形式的におこなわれるのではなく、音楽院の教育に関して、政治経済まで教えるために、目標設定や教育方法、教材内容の変更をしなければならないというシステム全体に関わることでもありました。
  非プロレタリア学生の選抜方法や、プロレタリアおよび労働者階級の青年を教員に補充するためのコースなど、人事にも重点が置かれており、これによりミャスコフスキーなどが音楽院を去っています(但しミャスコフスキーは1932年に作曲家同盟の組織委員に選出)。
●11月、モスクワ音楽院の院長でピアノ科教授のコンスタンチン・イグムノフ[1873-1948]に代わって、ポーランド系ドイツ人のボレスラフ・プシビシェフスキー[1892-1937]という人物が院長に任命。
  プシビシェフスキーはベルリン生まれ。ワルシャワ音楽院で学び、卒業すると間もなく第1次大戦が開戦し、プロイセン国籍のままだったプシビシェフスキーは、ロシア南部オルスクの収容所に送られて4年間を過ごし、戦後、元オルスク市長の娘と同地で結婚。
  翌1919年にはポーランド・ソヴィエト戦争が始まったため、ソヴィエト側にいたかったプシビシェフスキーは、1920年、モスクワに移ってロシア共産党に入党。教育関係の部署で働いて頭角をあらわし、やがて教育人民委員会の音楽部門責任者に選出。
  プシビシェフスキーはソ連政府と「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」の方針に基づいて改革に乗り出し、モスクワ音楽院をプロレタリア化するために精力的に活動。
  ちなみに「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」はソ連作曲家同盟の前身で1923年に創設された団体。モスクワ音楽院の教授たちや、彼らと関係の深い「現代音楽協会(1923年創設)」とは以前から対立。


●モスクワ・デビュー。モーツァルト記念コンサート・ホール。

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 1930年/昭和5年 (21〜22歳)

●ハリコフで開催された全ウクライナ・ヴァイオリン・コンクールで優勝。
●ソ連各地で公演。
●ピアニストのタマーラ・ロタレワと結婚。

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 1931年/昭和6年 (22〜23歳)

●モスクワ音楽院院長のプシビシェフスキーが、モスクワ音楽院の名前を変更。これは当時、古くからある組織の改名が増え始めていたことに類するもので(レニングラード大学も「A.S.ブーブノフ記念大学」に変更)、流行の「・・・記念」の命名パターンに則り、「F.Y.コーン記念高等音楽学校」と変更し、2種類の奨学金制度も設立しています。
  F.Y.コーンは、教育人民委員会芸術部門責任者のフェリクス・ヤコヴレヴィチ・コーン[1864-1941]のことで、プシビシェフスキーの上司。ポーランド時代にはピウスツキと対立関係にあり、また、レーニンからは嫌われていた人物でもあります。


●ソ連各地で公演。
●4月27日、イーゴリ・オイストラフ、オデッサで誕生(2021年に90歳で死去)。

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 1932年/昭和7年 (23〜24歳)

●2月、F.Y.コーン記念高等音楽学校のプシビシェフスキー校長が解任。これは批判的な世論が大きくなったためでした。
  後任は、教育学の専門家であるスタニスラフ・シャツキー[1878-1934]で、ゴリデンヴェイゼル教授と協力してモスクワ音楽院付属中央音楽学校に幼児部門も設けるなど奮闘しました。


●10月、F.Y.コーン記念高等音楽学校の名前がモスクワ音楽院に戻されます。
◆12月、ソ連国内パスポート制度導入。
●ソ連各地で公演。
●ソリストとしてモスクワ・フィルハーモニー協会に所属。
●モスクワの指揮者無しオーケストラ「ペルシムファンス」から招待され、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏することが決定。「ペルシムファンス」はボリショイ劇場管弦楽団の首席奏者や、モスクワ音楽院の教授や学生などで構成される実験的なオーケストラ。
  オイストラフは作品を改めて研究し、「ペルシムファンス」の創設者であるモスクワ音楽院ヴァイオリン科教授のレフ・モイセーヴィチ・ツェイトリン[1881-1952]からの助言も受けますが、残念ながら公演前にオーケストラが解散してしまいます。
◆ポーランドとソ連が不可侵条約締結。
●ツェイトリン教授の知己を得たことで、モスクワ音楽院ヴァイオリン科の指導者であるヤンポリスキーやモストラスとも交流が始まります。
●第2回ショパン国際ピアノ・コンクール。ソ連審査員無し。
●メロディア録音(グランプラストレスト)ショパン:練習曲 Op.25-2、マズルカ Op.67-4(トピーリン)


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 1933年/昭和8年 (24〜25歳)

●モーツァルト、メンデルスゾーン、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をセットにした演奏会で成功。以後この組み合わせで多くの演奏会をおこないます。
●ドイツから演奏旅行の招待をされますが、オイストラフがユダヤ人であることからドイツ政府によって取り消されます。
◆ソ連・ポーランド不可侵条約締結。
◆カガノーヴィチによる民族主義運動抑圧政策でウクライナ国境封鎖。ソ連の輸出を支えていたウクライナ農作物の過剰な収奪により、人工的な大飢饉(ホロドモール)となり、栄養失調により免疫機能の衰えたウクライナの農民たちは、翌年にかけてチフスなどで多くの人が犠牲になります。

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 1934年/昭和9年 (25〜26歳)

◆1月、ドイツ・ポーランド不可侵条約締結。
●10月、モスクワ音楽院院長のスタニスラフ・シャツキーが急死。後任はすぐには見つかりませんでした。
●モスクワ音楽院の準教授に就任。ゴリデンヴェイゼル教授の招きによるものでした。


●メロディア録音(グランプラストレスト)アルベニス:タンゴ、チャイコ:弦セレ第2楽章(トピーリン)


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 1935年/昭和10年 (26〜27歳)

●モスクワ音楽院院長に、ピアノ科教授ネイガウスが兼務で就任。これを前院長シャツキーの未亡人で、1932年からモスクワ音楽院の音楽教育部門の責任者を務めていたヴァレンチーナ・シャツカヤ[1882-1978]がサポート。
●モスクワ音楽院在職。準教授。


●全ソ連音楽コンクールで優勝。
●3月、第1回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールに出場して第2位を獲得。
●トルコ公演。アタテュルク大統領の招待で、ソ連の音楽家グループと一緒に20回以上の演奏会を開催。一行にはショスタコーヴィチも含まれ、オイストラフはこのツアー中に親しくなります。
●スウェーデン公演。
●ピアノのレフ・オボーリンと常設的なデュオを結成。
◆11月、ソ連政府、ルーブルの為替相場をフランス・フランの基準に設定。1ルーブル=3フランス・フラン。
●メロディア録音(ベラコルド)ショパン:マズルカ Op.33-2、ワルツ Op.64-2、ドヴォルザーク:スラヴ舞曲 Op.46-8、チャイコフスキー:瞑想曲、ヴォルフ:隠棲(トピーリン)、タウンセンド:子守歌(不明)


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 1936年/昭和11年 (27〜28歳)

●モスクワ音楽院在職。準教授。


◆4月、ソ連政府、1ルーブル=4.25フランス・フランに設定。フランス・フランの切り下げにより。
●ティボー、モスクワ公演。オイストラフはその典雅な演奏に魅せられます。
◆11月、スターリン憲法制定。官僚制を強化。
●メロディア録音(シレーナ)シューマン:献呈(トピーリン)


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 1937年/昭和12年 (28〜29歳)

●モスクワ音楽院院長にヴァレンチーナ・シャツカヤが就任。ネイガウスは教授活動に専念。
●モスクワ音楽院在職。準教授。


●4月、イザイ国際コンクール(エリーザベト王妃国際音楽コンクール)で優勝。ソ連のヴァイオリニストが5人も入賞するという驚異的な結果でした。
●4月、オイストラフとソ連チームは滞在中にクライスラーと親しく交流し、リハーサル見学に加え、新作のパガニーニのヴァイオリン協奏曲のためのカデンツァまで披露してもらっていました。


●4月、コンセルトヘボウ。チャイコフスキー:協奏曲(ベイヌム、コンセルトヘボウ管)


●コンクール優勝後、EMIのウォルター・レッグ[1906-1979]から電報が届き、続いて手紙でレコード制作についての誘いがありますが、オイストラフが多忙になってしまったのと、戦争で国から出られなくなったため、この時の話はうやむやで終わってしまいました。
●フランス公演。オイストラフとソ連の入賞ヴァイオリニスト達がパリでリサイタルを開催。
●ソ連名誉勲章授与。
◆モスクワ放送でテレビ放送開始。
◆ニコライ・エジョフ[1895-1940]率いるNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)による「大粛清」の開始。多くの政府関係者と軍関係者を手早く処刑し、さらにそこに国民による爆発的な数の「密告」も加わって、2年間で60万人以上とも言われる膨大な犠牲者を生み出すことになります。
◆ソ連政府、通貨の基準を仏フランから米ドルに変更(フランスの金本位制離脱の為)。対米ドル相場は1米ドル=5.3ルーブルと決定。

●大粛清はオイストラフにとっても他人事ではありませんでした。当時、オイストラフ家はモスクワの高層アパートで暮らしていましたが、多くの住民が逮捕され、ごく僅かな世帯しか残っておらず、連日連夜、不安な日々を過ごしたということです。
●メロディア録音。ダカン:カッコウ、ショパン:マズルカ Op.67-4、モシュコフスキ:ギター(マカロフ)、スクリャービン:練習曲 Op.8-10、夜想曲 Op.5-1(ギアコフ)、チャイコフスキー:ハープサルの思い出〜無言歌(不明)


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 1938年/昭和13年 (29〜30歳)

●モスクワ音楽院在職。準教授。


◆8月、ベリヤがNKVDの議長代理に就任。スターリンと同じくグルジア正教の家庭の出身。前任のエジョフとその部下を1940年2月に処刑。
●11月、女性作家のT.テスとの対談で、指揮者になりたいという願望を表明。イズベスチヤ紙に掲載。
◆ソ連労働者階級ユダヤ人農業組織化協会解散。活動低下のため。
●モスクワ。チャイコフスキー:協奏曲(ガウク、モスクワ・フィルハーモニー協会響)、ベートーヴェン:協奏曲、サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ、バッハ:協奏曲2番(シテインベルク、モスクワ・フィルハーモニー協会響)
●メロディア録音。ショーソン:コンセール(ディアコフ、ベートーヴェン弦楽四重奏団)、ベートーヴェン:メヌエット、コンパニェーツ:バラード、クライスラー:ベートーヴェンの主題によるロンディーノ(トピーリン)


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 1939年/昭和14年 (30〜31歳)

●モスクワ音楽院院長に15年ぶりにゴリデンヴェイゼルが就任。
●モスクワ音楽院教授に就任。


●ミャスコフスキーのヴァイオリン協奏曲を初演。
◆8月、独ソ不可侵条約締結。
◆9月、ドイツ軍、赤軍、ポーランド侵攻。
◆10月、ポーランド分割。
◆10月、赤軍、フィンランド侵攻。
◆10月、ソ連、国際連盟から除名。

●メロディア録音。ミャスコフスキー:協奏曲(ガウク、ソ連国立響)、チャイコフスキー:偉大な芸術家の思い出第1楽章(イグムノフ、クヌシェヴィツキー)


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 1940年/昭和15年 (31〜32歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。


●11月、ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲を初演。
●メロディア録音。グリンカ:ペルシャの歌、アルベニス:愛の歌第6番、フバイ:そよ風(トピーリン)


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 1941年/昭和16年 (32〜33歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。


●戦時の公演体制で、ソ連各地で精力的に演奏。
●ピアノのオボーリン、チェロのクヌシェヴィツキーと「オイストラフ・トリオ」を結成。


◆6月、ドイツ軍が不可侵条約を破ってソ連に侵攻。「バルバロッサ作戦」開始。
◆6月、イタリアとルーマニアがソ連へ宣戦布告。
◆7月、フィンランドとハンガリーがソ連へ宣戦布告。
◆7月、ドイツ軍によるモスクワへの空爆開始。
◆7月、英ソ軍事同盟締結。
◆8月、ドイツがウクライナを占領。「帝国管区ウクライナ」とし、親衛隊が直接統治。西ウクライナでは、ナチス・ドイツを解放者として歓迎。
◆9月、ウクライナの首都キエフのバビ・ヤールでユダヤ人など大量虐殺。虐殺実行部隊は約1,200人のウクライナ人と、約300人のドイツ人。29日と30日にキエフ市民のユダヤ人ら33,771人が殺害。その後も虐殺行為は続けられ、赤軍に解放される1943年11月までの2年間に計7〜12万人のユダヤ人、ロシア人、ウクライナ人、ロマなどが殺害。
◆10月、モスクワ攻防戦(翌年1月まで)。政府機能をクイビシェフに疎開(1944年まで)。多くの政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者が疎開するものの、市民の多くは残されていたため、ユージナなどは疎開せずに活動。
◆「ユダヤ反ファシスト委員会」設立。アメリカの投資家たちから莫大な資金を調達。その資金をソ連政府は戦費として使用します。

●オイストラフ家、スヴェルドロフスクに疎開。
◆11月、赤の広場で軍事パレード実施。これは約410万人のモスクワ市民のうち、疎開できていたのが、主に政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者だったことから、残された市民が近づくドイツ軍への恐怖で暴動などを起こさないよう安心感を与えるためでした。同じ理由からロシア正教への弾圧をやめ、ほどなく復活させることを約束してもいます。
◆11月、ドイツ軍、モスクワから8キロの地点まで侵攻。
◆11月29日、ジューコフ将軍による大攻勢が開始。兵力は極東に展開していた赤軍40個師団、約75万人の精鋭部隊で、すでにモスクワへの移動を完了していました。
◆12月、ウクライナ民族主義者組織がウクライナで虐殺したユダヤ人の数が15万人から20万人に到達。

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 1942年/昭和17年 (33〜34歳)

●モスクワ音楽院院長に作曲家のシェバリーンが就任。
●モスクワ音楽院在職。教授。


◆4月、「ユダヤ反ファシスト委員会」設立。アメリカの投資家たちから莫大な資金を調達。その資金をソ連政府は戦費として使用します。
●ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国人民芸術家の称号授与。
●ソ連共産党入党。
●戦時の公演体制で、ソ連各地で精力的に演奏。
●スヴェルドロフスクでピョートル・ボンダレンコ[1903-1985]と出会い、弦楽四重奏団を結成。ボンダレンコが第2ヴァイオリンを担当。1944年からオイストラフの助手。
◆4月、ドイツ軍、占領下クリミアのユダヤ人ゼロを宣言。女性と子供、老人などを大量虐殺(男性の多くはソ連の兵役と労働で不在)。
夏、スターリングラード攻防戦開始。翌年2月までに兵士約48万人死亡、約65万人が負傷。民間人死者も約4万人発生。またドイツなど枢軸国側兵士の死傷者は約150万人とソ連側を大きく上回るものとなっており、計約267万人の死傷者が発生したことになります。
◆10月、「ウクライナ蜂起軍」が結成。赤軍に対してもテロ活動を展開。

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 1943年/昭和18年 (34〜35歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。


●戦時の公演体制で、ソ連各地で精力的に演奏。
◆1月、赤軍、モスクワ攻防戦に勝利。
●1月、オイストラフ家、モスクワに帰還。
◆4月、ナチス・ドイツSS師団「ガリーツィエン」の募集開始。1か月半ほどでウクライナ人約8万人が集結する人気ぶり。12月から運用開始。
◆7月、ウクライナ民族主義者組織バンデラ派のミコラ・レベド率いる部隊が、ポーランドのヴォリンでポーランド人など3万5千〜6万人を虐殺し、東ガリツィアでは2万5千〜4万人を虐殺。レベドは戦後、アメリカ戦略情報局によりアメリカ本土に逃がされて放免となり1989年まで生存。
◆9月、スターリンとロシア正教会の首脳たちがクレムリンで会見を開き、教会宥和政策を発表。これにより、総主教制の復活、神学校や神学大学の再開、教会機関誌「モスクワ総主教庁ジャーナル」も復刊されることとなり、「戦闘的無神論者同盟」の解散も決定。

●イーゴリ・オイストラフ、モスクワ音楽院の付属中央音楽学校に入学。
●スターリン賞第1級授与。銃後の演奏活動が評価されたもので、賞金10万ルーブルは赤軍の特別基金に寄付。
●メロディア録音。サラサーテ:カルメン幻想曲(マカロフ)


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 1944年/昭和19年 (35〜36歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。ボンダレンコが助手として着任。


●オイストラフの助手として、5歳年長でキエフ近郊出身のユダヤ人、ピョートル・ボンダレンコがモスクワ音楽院に招かれて参加。
  ボンダレンコは1942年に疎開先のスヴェルドロフスク(エカテリンブルク)でオイストラフと知り合って弦楽四重奏団を結成していた人物で、演奏歴、教育歴ともに長く経験豊富で、オイストラフの相談相手にもなっていました。
  オイストラフは演奏旅行で多忙なため、オイストラフの方針に則ったボンダレンコの指導が以後30年に渡って重要な役割を果たすことになります。
  ボンダレンコは1930年にモスクワ音楽院を卒業。在学中に指揮者無しオーケストラ「ペルシムファンス」で5年間弾いていたほか、ストラディヴァリウス四重奏団でも活躍。卒業後はモスクワ放送交響楽団でソロ奏者を1956年まで務めています。
  教育者としては、1931年からグネーシン音楽教育学研究所で教えており、1948年に準教授、1963年に教授となり1976年まで在職。1944年に働き始めたモスクワ音楽院は、30年後にオイストラフが亡くなった際に退職しており、73歳になった2年後には45年間務めたグネーシンも退職、翌年、イスラエルに移住し、9年後に亡くなっています。


●戦時の公演体制で、ソ連各地で精力的に演奏。
◆1月、赤軍、レニングラードを解放。
◆10月、赤軍、西ウクライナを解放。

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 1945年/昭和20年 (36〜37歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。ボンダレンコが助手。


●戦時の公演体制で、ソ連各地で精力的に演奏。
●5月、モスクワを訪れたメニューイン[1916-1999]とバッハの2台のヴァイオリンのための協奏曲で共演。
●7月、オーストリア公演。ウィーン・コンツェルトハウス。ハチャトゥリアン、チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲(ゼドラク指揮ウィーン・フィル)


◆ウクライナ民族主義者組織によるウクライナの町や村でのゲリラ戦が開始。1950年代半ばまで10年ほど続きます。
●メロディア録音。チャイコフスキー:憂鬱なセレナーデ(コンドラシン、ソ連国立響)、ショパン:夜想曲 Op.9-2、ダンブロージオ:セレナータ、フォスター:スワニー河、サラサーテ:サパテアード(マカロフ)、ブラームス:F.A.E.ソナタ スケルツォ(オボーリン)


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 1946年/昭和21年 (37〜38歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。ボンダレンコが助手。


●モスクワで連続演奏会「ヴァイオリン協奏曲の歴史」を開催。翌年にかけて5回おこない、エルガー、シベリウス、ウォルトン作品も演奏。
◆3月、チャーチル首相がアメリカ訪問中、マスコミが注視する場で「鉄のカーテン」という言葉を使って演説。「鉄のカーテン」という言葉そのものは1918年のロシアで使われ始め、ナチス・ドイツのゲッベルスも使用していましたが、政治・マスコミ向けの本格的なプロパガンダ・ツールとなるきっかけはこの時の演説でした。以後、世界の莫大な税公金が東西両陣営の軍需産業(と金融)に注ぎ込まれることになります。


●5月、スプラフォン録音。ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲2番(サードロ、ショスタコーヴィチ)


●5〜6月、第1回チェコ公演。「プラハの春」音楽祭。ブラームス、ハチャトゥリアン、プロコフィエフ(第1番)、チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲(ムラヴィンスキー指揮チェコ・フィル)。ベートーヴェン:ソナタ8番、タネーエフ:組曲、プロコフィエフ:ソナタ2番(オボーリン)。
  第1回「プラハの春」音楽祭は、クーベリックがベネシュ大統領の後援を得て主宰したもので、原型はターリヒが1939年に開始した「プラハ5月音楽祭」。
  それまでソ連国内でのみ演奏活動していたオイストラフの初の海外演奏会となったもの。チェコとソ連は、戦時中に相互友好援助条約を締結するなど当時は関係良好。


◆ソ連で飢饉発生。
●モスクワ。バッハ:2台の協奏曲(コンドラシン、ソ連国立響、エネスク)
●モスクワ。バッハ:2台の協奏曲(オルロフ、モスクワ放送響、メニューイン)
●レーニン賞授与。
●メロディア録音。ハチャトゥリアン:協奏曲(ガウク、ソ連国立響)、舞曲、ベートーヴェン:ソナタ9番(オボーリン)、ハチャトゥリアン:吟遊詩人の歌、ドビュッシー:パスピエ、美しき夕暮れ、エルンスト:ロッシーニの「オテロ」による華麗な幻想曲、タルティーニ:コレッリ変奏曲(マカロフ)、パガニーニ:カプリース14、16番


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 1947年/昭和22年 (38〜39歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。ボンダレンコが助手。


●モスクワで「ヴァイオリン協奏曲の歴史」連続演奏会を開催。
●1月、イザイ:バラード
●4月、ヴラディゲロフ:ラチェニッツァ、ブルガリア組曲〜アリア(マカロフ)
●5月、チェコ公演。ハチャトゥリアン:協奏曲、プロコフィエフ:協奏曲1番(クーベリック、プラハ放送響)
●5月、チェコ公演。「プラハの春」音楽祭。ブラームス、ハチャトゥリアン、プロコフィエフ(第1番):ヴァイオリン協奏曲(クーベリック指揮プラハ放送響)、タルティーニ:ソナタ、ベートーヴェン:ロマンス2番、プロコフィエフ:ソナタ1番、メトネル:夜想曲、バルトーク:ルーマニア民俗舞曲、ハチャトゥリアン:詩曲、舞曲、ラヴェル:ツィガーヌ(ピアノ:クーベリック)、ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲2番、ピアノ五重奏曲(サードロ、ショスタコーヴィチ、チェコスロヴァキア四重奏団)。


●9月、モスクワ。プロコフィエフ:5つのメロディ(ヤンポリスキー)
◆ソ連政府、通貨改革実施。旧紙幣10ルーブル=新紙幣1ルーブルという10分の1の切り下げですが、給与・年金については等価交換、預金については変動型の優遇措置を実施。
◆9月、コミンフォルム設立。スターリンに次ぐ存在でもあったアンドレイ・ジダーノフ[1896-1948]がスターリンの名のもとに組織したもので、ヨーロッパ各国の共産党との交流・調整を目的とし、アメリカのマーシャル・プランに対抗します。
◆ソ連で飢饉発生。
◆12月、ソ連で通貨切り下げ実施。現金交換比率10分の1になるものの、賃金、年金などは1対1の交換比率で、国家小売価格も引き下げ。為替レートはそのままとし、輸出優先体制とします。

●スプラフォン録音。ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲2番(ショスタコーヴィチ、サードロ)


●ラコフ:協奏曲1番(エリアスベルク、ソ連国立響)
●メロディア録音。R=コルサコフ:シェエラザード(ゴロワノフ、ボリショイ劇場管)、モーツァルト:協奏曲5、7番、サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ、ベートーヴェン:ロマンス2番(コンドラシン、ソ連国立響)、ベートーヴェン:三重協奏曲(オイストラフ・トリオ、オルロフ、モスクワ放送響)、シューベルト:ピアノ五重奏曲「鱒」(オイストラフ・トリオ、他)、ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲3番、シューベルト:ピアノ三重奏曲1、2番(オイストラフ・トリオ)、グルック:メロディ、バルトーク:ルーマニア民俗舞曲、グラナドス:アンダルーサ第5番、ブラームス:ハンガリー舞曲20番、メトネル:夜想曲(ヤンポリスキー)、バルトーク:ルーマニア民俗舞曲、ブラームス:ハンガリー舞曲8番、ラフマニノフ:ヴォカリーズ、シューマン:献呈(コレゴルスカヤ)、プロコフィエフ:ソナタ1、2番(オボーリン)、シューマン:ロマンス、スーク:小品 Op.17-3、4(マカロフ)、バッハ:無伴奏ソナタ1番


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 1948年/昭和23年 (39〜40歳)

●モスクワ音楽院院長に合唱指揮者のスヴェシニコフが就任。
●モスクワ音楽院在職。教授。ボンダレンコが助手。


●2月、ジダーノフ批判。西側コスモポリタニズムを批判し、文化全般についても社会主義リアリズムを重視した方針で統制することを、ウクライナのマリウポリに生まれたジダーノフが宣言。ジダーノフはコミンフォルム設立者でもあります(マリウポリ市の名前は1948年から1989年までジダーノフ市でした)。
  社会主義リアリズム芸術は、もともとプロレタリア芸術から発展しており、その反コスモポリタニズムの視点ゆえに、反ユダヤ的な方向にも展開しやすく、文学、演劇、音楽、美術、映画などに大きな影響力を持つこととなります。
  スターリンの死と共に検閲・迫害は収まるものの、正式に統制が解除されたのは1958年5月のことでした。ちなみにジダーノフは宣言の半年後、モスクワで52歳で急死していますが、政府は約10年間に渡って統制を継続。なお、その急死については諸説ありますが、医師団によって不適切な治療がおこなわれたと告発する医師の手紙が4年後になって発見された際には、ベリヤやマレンコフも絡んで立件に向けて捏造進行中だった「医師団陰謀事件」に利用されることにもなります。


●4月、ソ連作曲家同盟の第1回総会が開催。前身は「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」。スターリンとジダーノフにより、34歳のフレンニコフ[1913-2007]が書記長に選出。以後、フレンニコフは43年間に渡ってその地位を守り続けました。


●メロディア録音。ラヴェル:ツィガーヌ、ラロ:スペイン交響曲、グラズノフ:協奏曲、ラコフ:協奏曲1番、ショーソン:詩曲、ベートーヴェン:ロマンス1番、ゴダール:カンツォネッタ、グリエール:ロマンス、ヴィオッティ:協奏曲22番 (コンドラシン、ソ連国立響)、ブラームス:二重協奏曲(エリアスベルク、レニングラード放送響、クヌシェヴィツキー)、メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲1、2番、チャイコフスキー:偉大な芸術家の思い出(オイストラフ・トリオ)、グラズノフ:瞑想曲、パガニーニ:カプリース13番[クライスラー編]、チャイコフスキー:瞑想曲、ヴァルス・スケルツォ(ヤンポリスキー)、グリエール:ロマンス(コレゴルスカヤ)、カトワール:ソナタ2番(ゴリデンヴェイゼル)、グラナドス:アンダルーサ第5番(マカロフ)、レヴィーナ:ソナタ(レヴィーナ)、ラコフ:詩曲(ラコフ)、グリエール:「青銅の騎手」より(ボリショイ劇場管)、パガニーニ:カプリース17番


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 1949年/昭和24年 (40〜41歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。ボンダレンコが助手。


●2月、ハンガリー公演。メンデルスゾーン:協奏曲(ショモジ、ハンガリー放送響)
●4月、モスクワ。スメタナ:わが故郷より〜第2番アンダンティーノ(ヤンポリスキー)
●5月、モスクワ。カバレフスキー:協奏曲(エリアスベルク、ソ連国立響)
●5〜6月、チェコ公演。「プラハの春」音楽祭。チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲(コンドラシン指揮プラハ放送響)、ヴィターリ:シャコンヌ、ベートーヴェン:ロマンス1番、ブラームス:ソナタ3番、チャイコフスキー:瞑想、ヴァルス・スケルツォ、プロコフィエフ:シンデレラから、イザイ:無伴奏ソナタ、スーク:4つの小品、パガニーニ:モーゼ幻想曲(ヤンポリスキー)。


●10月、フィンランド公演。1945年7月のウィーン・フィルとの共演は、ソ連占領軍政府統治下のオーストリアでの演奏だったので、ヘルシンキでの演奏会が実質的な戦後の西側デビューとなります。
●イーゴリ、ブダペスト国際ヴァイオリン・コンクールで優勝。
◆ソ連政府、自国からの移民が多いイスラエルに対して大規模な支援を続けていたにも関わらず、イスラエルがアメリカ側についたため、反ユダヤ・キャンペーンを開始。新聞・雑誌などが大規模に参加。イディッシュ語の文学や演劇に関わる作家や詩人、演出家、俳優などの多くが逮捕、ロシア人であってもコスモポリタン的な人物は同じく逮捕。
◆イスラエルが国連に加盟。59番目の加盟国でした(日本は1956年、オーストリアは1955年、東西ドイツは1973年に加盟)。

●メロディア録音。カバレフスキー:協奏曲(カバレフスキー、ソ連国立響)、メンデルスゾーン:協奏曲、ドヴォルザーク:協奏曲(コンドラシン、ソ連国立響)、グラズノフ:マズルカ・オベレク(ユージン、モスクワ・フィル)、ベートーヴェン:セレナーデ(マダトフ、テリアン)、ソナタ7番(オボーリン)、グラズノフ:ライモンダ間奏曲(コレゴルスカヤ)、ラフマニノフ:ロマンス、ヒナギク、ショパン:夜想曲 Op.72-1、同 Op.post、メンデルスゾーン:歌の翼に、クライスラー:ルイ・クープランの様式による才たけた貴婦人、ジプシーの女(ヤンポリスキー)、サラサーテ:ナヴァラ(イーゴリ、ヤンポリスキー)、ゴダール:カンツォネッタ(トピーリン)


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 1950年/昭和25年 (41〜42歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長に就任。ボンダレンコが助手。


●1月、ベルギー公演。ブリュッセル。タネーエフ:協奏的組曲(アンドレ、ベルギー国立放送響)
◆3月、ソ連政府、通貨の基準をドルから金に変更。対米ドル相場は1米ドル=4ルーブルに決定。
●3月、東ベルリン。ベートーヴェン:協奏曲、ロマンス1番(アーベントロート、ベルリン放送響)
●5月、スプラフォン録音。ブラームス:二重協奏曲(アンチェル、プラハ放送響、サードロ)


●5月、チェコ公演。「プラハの春」音楽祭。ドヴァリオナス:ヴァイオリン協奏曲(イワノフ指揮チェコ・フィル)、ブラームス:二重協奏曲、ドヴォルザーク:協奏曲(サードロ、アンチェル指揮プラハ放送響)、モーツァルト:ソナタ32番、タルティーニ:悪魔のトリル、ハチャトゥリアン:ソナタ、プロコフィエフ:シンデレラから、ラヴェル:ツィガーヌ(ヤンポリスキー)。


●5月、クーベリック亡命後、なかなか後任が決まらず2年間首席指揮者がいなかったチェコ・フィルの人事について、オイストラフが貢献。
  「プラハの春」音楽祭で見事な演奏を聴かせたオイストラフのために、ネイェドリー文化大臣が開催した夕食会で話題がチェコ・フィルのことになり、アンチェルとのブラームス:二重協奏曲とドヴォルザークの共演で感銘を受けたオイストラフが「アンチェルが良い」と提案。すると大臣はすぐに後任がアンチェルだと発表しますが、いろいろと問題もある大臣が急に決めた人事ということで、当初は楽員も反発。しかし、10月に着任したアンチェルはまもなく楽団を掌握し、チェコ・フィルに黄金時代をもたらすことになります。


●12月、モスクワ。メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲第1番(オイストラフ・トリオ)
●メロディア録音。ブラームス、モーツァルト:クラリネット五重奏曲(ソローキン、ボンダレンコ、テリアン、クヌシェヴィツキー)、シューベルト:八重奏曲 D803(ボンダレンコ、テリアン、クヌシェヴィツキー、ソローキン、他)、メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲 Op.12〜カンツォネッタ、チャイコフスキー:弦楽四重奏曲1番第2楽章(ボンダレンコ、テリアン、クヌシェヴィツキー)、ショパン:ピアノ三重奏曲、スメタナ:同、ベートーヴェン:同4番、ドヴォルザーク:同4番「ドゥムキー」、ハイドン:同 Hob.XV:27(オイストラフ・トリオ)、ヘンデル:2台のヴァイオリンとピアノのためのソナタ Op.2-7(イーゴリ、ベックマン=シェルビナ)、ベートーヴェン:ソナタ5、8番(オボーリン)、モーツァルト:ソナタ40番、パガニーニ:モーゼ変奏曲、ファリャ:ホタ、スペイン舞曲、カトワール:エレジー、アルベニス:愛の歌第3番、スーク:愛の歌、タルティーニ:悪魔のトリル、ヴィターリ:シャコンヌ、ワーグナー :アルバムの綴り(ヤンポリスキー)、ベートーヴェン:ソナタ4番(ゴリデンヴェイゼル)


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 1951年/昭和26年 (42〜43歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●イタリア公演。フィレンツェ5月祭のほか、ミラノ、ペルージャでも演奏。
●10月、モスクワ音楽院大ホール。ルクレール:ソナタ、ショパン:夜想曲 Op.post、プロコフィエフ:シンデレラより冬の妖精、スクリャービン:夜想曲 Op.5-1、ヴュータン:協奏曲4番(シュレイブマン)、レーガー:前奏曲とフーガ
●エリーザベト王妃国際音楽コンクールに審査員として招待。特別演奏会ではティボーの指揮で、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を披露。
●モスクワ。ブラームス:ピアノ三重奏曲第1番(オイストラフ・トリオ)
●メロディア録音。ベートーヴェン:協奏曲(ガウク、モスクワ放送響)、弦楽四重奏曲10番(ボンダレンコ、テリアン、クヌシェヴィツキー)、モーツァルト:フルート四重奏曲第3番(マダトフ、テリアン、クヌシェヴィツキー)、グリンカ:悲愴三重奏曲、ドヴォルザーク:ピアノ三重奏曲第3番、ハイドン:ピアノ三重奏曲 Hob.XV:29「ジプシー」(オイストラフ・トリオ)、バッハ:2台のヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ(イーゴリ、ヤンポリスキー)、グラズノフ:ライモンダ〜アダージョ、間奏曲(コレゴルスカヤ)、モーツァルト:ソナタ35番、シューベルト:ソナタ D574(オボーリン)、サラサーテ:さらばわがモンタナ、ヴラディゲロフ:ホロ、イザイ:悲劇的な詩(ヤンポリスキー)


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 1952年/昭和27年 (43〜44歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●イーゴリ・オイストラフ、ヘンリク・ヴィエニャフスキ・ヴァイオリン・コンクールで優勝。
●東ドイツ公演。ベートーヴェン没後125周年記念演奏会に出演。
●3月、東ベルリン。ブラームス:協奏曲(アーベントロート、ベルリン放送響)
●4月、モスクワ。ブラームス:ソナタ3番、ハンガリー舞曲5、8、9番、ベートーヴェン:ロマンス1番、ショパン:夜想曲 Op.post、パガニーニ:モーゼ変奏曲、チャイコフスキー:ヴァルス・スケルツォ、ヴィターリ:シャコンヌ(ヤンポリスキー)
◆8月、「ユダヤ反ファシスト委員会」解散。
●11月、東ベルリン。ベートーヴェン:ロマンス1番(アーベントロート、ベルリン放送響)
●メロディア録音。ブラームス:協奏曲(コンドラシン、モスクワ放送響)、ブラームス:弦楽四重奏曲1番(ボンダレンコ、テリアン、クヌシェヴィツキー)、シューマン:ピアノ四重奏曲(ゴリデンヴェイゼル、クヌシェヴィツキー、テリアン)、R=コルサコフ:ピアノ三重奏曲、ラヴェル:同、タネーエフ:同2番(オイストラフ・トリオ)、シューマン:ピアノ三重奏曲1、2番(ゴリデンヴェイゼル、クヌシェヴィツキー)、バルトーク:ハンガリー民謡集、プロコフィエフ:シンデレラより5つの小品、3つのオレンジの恋より行進曲、シベリウス:献身、ヴュータン:無言歌集より、ヴィエニャフスキ:伝説、ザジツキ:マズルカ(ヤンポリスキー)、カトワール:ソナタ1番(ゴリデンヴェイゼル)、スクリャービン:夜想曲 Op.5-1(マカロフ)、ワインベルク:モルダヴィア狂詩曲(ワインベルク)


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 1953年/昭和28年 (44〜45歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


◆3月5日、スターリン死去。


◆3月、ゲオルギー・マレンコフが最高指導者に。

●春、イーゴリ・オイストラフ、パリ音楽院管弦楽団の演奏会に登場。西側デビュー。
●5月、イギリス公演。
●6月、ロン=ティボー国際コンクールに審査員として招待。
●6月、ティボー指揮パリ音楽院管の演奏会でフランス・デビュー。
●7月、フランス公演。フランク:ソナタ、ベートーヴェン:ソナタ5、8番、プロコフィエフ:ソナタ1番、ブラームス:F.A.E.ソナタ スケルツォ(オボーリン)、イザイ:バラード、他


●8月15日、ソ連人民芸術家の称号を授与。


◆9月、ソ連最高指導者、マレンコフからフルシチョフに交代。
●11月、イーゴリ、イギリス公演。アルバート・ホールでベートーヴェンとハチャトゥリアンの協奏曲を演奏。
●西ドイツ公演。デュッセルドルフ、ロベルト=シューマン=ザール。西ドイツ・デビュー。
◆12月、ベリヤ処刑(フルシチョフによる粛清)。
●モスクワ。ラロ:スペイン交響曲(ヤンポリスキー)
●英コロンビア録音。パリ。ベートーヴェン:ソナタ9番(オボーリン)


●メロディア録音。プロコフィエフ:協奏曲1番(コンドラシン、ソ連国立響)、ババジャニアン:ピアノ三重奏曲(ババジャニアン、クヌシェヴィツキー)、ハチャトゥリアン:アシュグ(吟遊詩人)の歌、ファリャ:スペイン民謡組曲〜ムーア人の織物、アストゥーリアス地方の歌、ホタ、ナナ、カンシオン、ポロ、アルベニス:愛の歌第6番、コダーイ:3つのハンガリー舞曲、ルクレール:ソナタ(ヤンポリスキー)、ラコフ:ソナタ(ラコフ)


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 1954年/昭和29年 (45〜46歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●2月、DGG録音。西ベルリン、ダーレムのイエス・キリスト教会。ブラームス:協奏曲(コンヴィチュニー、SKD)


●2月、エテルナ録音。チャイコフスキー:協奏曲、モーツァルト:同5番(コンヴィチュニー、SKD)、コダーイ:3つのハンガリー舞曲、ルクレール:ソナタ(ヴァルター)


●4月、チェコ公演。モーツァルト:協奏曲3番(アンチェル、チェコ・フィル)
●5月、サラサーテ:ナヴァラ(イーゴリ、ヤンポリスキー)、ヴィエニャフスキ:新しい手法、エチュード・カプリス第5番(イーゴリ)
●6月、英コロンビア録音。ベートーヴェン:協奏曲、シベリウス:協奏曲(エールリンク、ストックホルム祝祭管)、フランク:ソナタ、シマノフスキ:ソナタ(ヤンポリスキー)


●6月、シベリウス:協奏曲(フォークステット、フィンランド放送響)
●10月、モスクワ。ドヴォルザーク:マズルカ(ヤンポリスキー)
●11月、英コロンビア録音。ラロ:スペイン交響曲(マルティノン、フィルハーモニア管)、ハチャトゥリアン:協奏曲(ハチャトゥリアン、フィルハーモニア管)、プロコフィエフ:協奏曲1番、ブルッフ:協奏曲第1番(マタチッチ、ロンドン響)


●イギリス公演。チャイコフスキー:協奏曲(サージェント、RPO)
●スプラフォン録音。モーツァルト:協奏曲3番、ベートーヴェン:ロマンス2番(アンチェル、チェコ・フィル)、バルトーク:ルーマニア民俗舞曲、シマノフスキ:アレトゥーザの泉、コダーイ:カールローのカップルの踊り、スーク:愛の歌、ヴラディゲロフ:歌、ベートーヴェン:ソナタ1番、プロコフィエフ:3つのオレンジの恋より行進曲(ヤンポリスキー)


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 1955年/昭和30年 (46〜47歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●プロコフィエフ:協奏曲1番 (コンドラシン、ボリショイ劇場管)
●2〜3月、日本公演。まだ国交の無かったソ連からの日本公演。終戦から9年半、アメリカ一辺倒の日本では大騒ぎとなりました。東京7回、横浜1回、名古屋1回、京都1回、大阪2回、福岡1回の13公演。1947年に対ソ貿易を主な事業として設立された進展実業がパイプ役になりました。


●5月、英コロンビア録音。ベートーヴェン、ブラームス:ソナタ3番、ブラームス:ハンガリー舞曲20番、プロコフィエフ:ソナタ1番、カレン・ハチャトゥリアン:ソナタ(ヤンポリスキー)


●9月、東ドイツ公演。ブラームス:協奏曲(コンヴィチュニー、SKB)
●9月、スウェーデン公演。チャイコフスキー:協奏曲(クレツキ、ストックホルム祝祭管)
●10月、英コロンビア録音。シューベルト:八重奏曲 D803(ボンダレンコ、テリアン、他)


●10月、ショスタコーヴィチ:協奏曲1番(ムラヴィンスキー、レニングラード・フィル)世界初演
●11月〜、アメリカ公演。最大手コロンビア・アーティスツとソ連文化官僚が手を組み、翌年1月まで10都市をまわる大規模ツアーを実現、各地で大きな成功を収めています。オイストラフのアメリカ公演はもともとは1939年に予定されていたものの戦争で中止となっていました。


●12月、米コロンビア録音。メンデルスゾーン:協奏曲、モーツァルト:協奏曲4番、バッハ:協奏曲2番、ヴィヴァルディ:「調和の霊感」から Op.3-8(オーマンディ、フィラデルフィア管、スターン)


●12月、RCA録音。ショーソン:詩曲、サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ(ミュンシュ、ボストン響)、プロコフィエフ:ソナタ2番、ルクレール:ソナタ、ロカテッリ:ソナタ(ヤンポリスキー)


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 1956年/昭和31年 (47〜48歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●〜1月、アメリカ公演。


●1月、ショスタコーヴィチ:協奏曲1番(ミトロプーロス、NYPSO)
●1月、米コロンビア録音。ショスタコーヴィチ:協奏曲1番(ミトロプーロス、NYPSO)


◆2月、フルシチョフによる反スターリン演説。


●2〜3月、英コロンビア録音。ブラームス:二重協奏曲(ガリエラ、フィルハーモニア管、フルニエ)、タネーエフ:協奏的組曲(マリコ、フィルハーモニア管)、モーツァルト:ソナタ40番、ドビュッシー:月の光、ファリャ:ホタ、コダーイ:3つのハンガリー舞曲、スーク:愛の歌、タルティーニ:悪魔のトリル、チャイコフスキー:ヴァルス・スケルツォ、ヴィエニャフスキ:伝説、イザイ:恍惚、ザジツキ:マズルカ(ヤンポリスキー)


●3月、コンセルトヘボウ。チャイコフスキー:協奏曲、プロコフィエフ:同1番(ベイヌム、コンセルトヘボウ管)


●5月、東ドイツ公演。ベルリン国立歌劇場。ショスタコーヴィチ:協奏曲1番(ムラヴィンスキー、レニングラード・フィル)
●5月、チェコ公演。「プラハの春」音楽祭。モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲5番(クリュイタンス指揮チェコ・フィル)。


●6月、オーストリア公演。ムジークフェライン。ショスタコーヴィチ:協奏曲1番、モーツァルト:協奏曲5番(ムラヴィンスキー、レニングラード・フィル)
◆10月、日ソ共同宣言。国交回復。前年11月に誕生した自由民主党初代総裁の鳩山一郎首相とブルガーニン首相がモスクワで署名。ブルガーニンの後ろにはジューコフがいます。


●12月、モスクワ。ヒンデミット:ソナタ(ヤンポリスキー)
●メロディア録音。ショスタコーヴィチ:協奏曲1番(ムラヴィンスキー、レニングラード・フィル)、バッハ:ソナタ6番(ヤンポリスキー)、ベートーヴェン:ソナタ10番(オボーリン)


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 1957年/昭和32年 (48〜49歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●1月、モスクワ。ブラームス:ソナタ1、2番、グリーグ:ソナタ1番(オボーリン)
●4月、エテルナ録音。バッハ:2台のヴァイオリンのための協奏曲、サラサーテ:ナヴァラ、ヴィヴァルディ:「調和の霊感」から Op.3-8(コンヴィチュニー、ゲヴァントハウス管、イーゴリ)、2台のヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ、タルティーニ:トリオ・ソナタ(イーゴリ、ピシュナー)、ベンダ:トリオ・ソナタ1番、ブラームス:ソナタ3番(イーゴリ、ヤンポリスキー)、ヘンデル:2台のヴァイオリンとピアノのためのソナタ Op.2-7(イーゴリ、ヤンポリスキー)、ヴィエニャフスキ:エチュード・カプリス第2、4、5番(イーゴリ)


●5〜6月、チェコ公演。「プラハの春」音楽祭。ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲1番(ムラヴィンスキー指揮チェコ・フィル)、ルクレール:トンボー、バッハ:ソナタ6番、タルティーニ:悪魔のトリル、プロコフィエフ:フルート・ソナタ、ヒンデミット:ソナタ1番、ラヴェル:ツィガーヌ(ヤンポリスキー)。


●10月、中国公演。北京人民劇場。ベートーヴェン:協奏曲、モーツァルト:協奏曲4番(レイ、中国国立歌劇院管)、プロコフィエフ:ソナタ2番、ロメオとジュリエットより、ワーグナー :アルバムの綴り(ヤンポリスキー)
●10月、中国公演。上海グランドシネマ。ショーソン:詩曲、バッハ:協奏曲1番、ブルッフ:協奏曲第1番、ドビュッシー:月の光、パスピエ、ルクレール:ソナタ、スーク:愛の歌、タルティーニ:コレッリ変奏曲、チャイコフスキー:瞑想曲、ヴァルス・スケルツォ、ヴラディゲロフ:ホロ(ヤンポリスキー)
●モスクワ。チャイコフスキー:協奏曲(コンドラシン、モスクワ・フィル)

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 1958年/昭和33年 (49〜50歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●指揮者としての活動を開始。
●ルーマニア公演。第1回エネスク・フェスティヴァルに出演。ブカレスト。メニューイン、ジョルジェスクらと共演。エネスクはルーマニア・ソヴィエト友好協会「アリユース」の音楽部長。


●1月、モスクワ。シマノフスキ:神話、グリーグ:ソナタ2番、ヴラディゲロフ:ホロ、ヴィエニャフスキ:エチュード・カプリス第5番[クライスラー編](ヤンポリスキー)
●5月、ジダーノフ批判に基づく社会主義リアリズム重視の統制が終了。ジダーノフの死後10年、スターリンの死後5年も政府により続けられていました。
●5月、英コロンビア録音。ベートーヴェン:三重協奏曲(サージェント、フィルハーモニア管、オイストラフ・トリオ)、プロコフィエフ:協奏曲2番(ガリエラ、フィルハーモニア管)、モーツァルト:協奏曲3番(指揮、フィルハーモニア管)、ピアノ三重奏曲6番、シューベルト:ピアノ三重奏曲1番(オイストラフ・トリオ)


●5月、EMI録音。プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第2番、モーツァルト:同3番。フィルハーモニア管。19日のプロコフィエフの後にガリエラが急な仕事で帰国したため、レッグの提案で22日のモーツァルトはオイストラフが初の弾き振りで収録。
●5〜7月、オ−ストラリア公演。ニュージランドも。


●9月、ルーマニア公演。ブカレスト。バッハ:2台のヴァイオリンのための協奏曲(メニューイン、ジョルジェスク、ブカレスト・フィル)、ラヴェル:ツィガーヌ、フランク:ソナタ、シューマン:幻想曲 Op.131、シマノフスキ:神話(ヤンポリスキー)
●10月、フランス公演。バッハ:協奏曲1番(クリュイタンス、フランス国立放送管)
●11月、英コロンビア録音。ベートーヴェン:協奏曲(クリュイタンス、フランス国立放送管)


●メロディア録音。シマノフスキ:協奏曲1番(ザンデルリング、レニングラード・フィル)、タネーエフ:協奏的組曲(コンドラシン、モスクワ・フィル)、ラフマニノフ:ピアノ三重奏曲2番(オイストラフ・トリオ)、グリーグ:ソナタ2番(オボーリン)


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 1959年/昭和34年 (50〜51歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●王立音楽アカデミー名誉会員に選出。
●1月、フランス公演。ラヴェル:ツィガーヌ、フランク:ソナタ、シューマン:幻想曲 Op.131、タルティーニ:捨てられたディド(ヤンポリスキー)
●2月、イーゴリ、日本公演。
●5月、ベルギー公演。ヴィヴァルディ:3台ヴァイオリン協奏曲 R.551(メニューイン、グリュミオー、他)
●5月、オランダ公演。コンセルトヘボウ。ベートーヴェン:協奏曲(ベーム、コンセルトヘボウ管)


●12月、米コロンビア録音。チャイコフスキー、シベリウス:協奏曲、ヴィヴァルディ:2台ヴァイオリン協奏曲 R.509、512、514、517(オーマンディ、フィラデルフィア管)


●12月〜、アメリカ公演。翌年1月までの公演旅行。


●チャイコフスキー:協奏曲(サモスード、ボリショイ劇場管)
●イタリア公演。ローマ。チャイコフスキー:協奏曲(ケンペ、ローマRAI響)
●モスクワ。ベートーヴェン:協奏曲(コンドラシン、モスクワ・フィル)
●メロディア録音。バッハ:協奏曲集、モーツァルト:協奏曲3番(バルシャイ、モスクワ室内管)、ヘンデル:水上の音楽(指揮、モスクワ・フィル)、タクタキシヴィリ:コンチェルティーノ(タクタキシヴィリ、モスクワ放送響)、ヘンデル:2台のヴァイオリンとピアノのためのソナタ Op.2-7、タルティーニ:トリオ・ソナタ(イーゴリ、ギンズブルク)、レヴィチン:ソナタ(レヴィチン)、メトネル:ソナタ(ゴリデンヴェイゼル)、プロコフィエフ:2台のヴァイオリンのためのソナタ(イーゴリ)


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 1960年/昭和35年 (51〜52歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●〜1月、アメリカ公演。


●1月、イギリス公演。チャイコフスキー:協奏曲(デル・マー、RPO)
◆5月、ソ連領土内深くに侵入していたアメリカ軍のU2型高高度偵察機が、地対空ミサイルS-75によって撃墜。


●2月、イーゴリ、日本公演。
●6月、英コロンビア録音。ブラームス:協奏曲(クレンペラー、フランス国立放送管)


●6月、ポルトガル公演。チャイコフスキー、ベートーヴェン:協奏曲(ブランコ、ポルトガル国立響)
●9月、モスクワ。ショーソン:コンセール(オボーリン、ボロディン弦楽四重奏団)、タネーエフ:協奏的組曲(ザンデルリング、ソ連国立響)
●10月、モスクワ。ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲2番(オイストラフ・トリオ)
●10月、東ドイツ公演。ベートーヴェン:協奏曲(コンヴィチュニー、SKB)
●12月、モスクワ。ベートーヴェン:協奏曲(テリアン、モスクワ音楽院響)
●12月、モスクワ。ラヴェル:ツィガーヌ、バルトーク:協奏曲1番、ブルッフ:スコットランド幻想曲(ロジェストヴェンスキー、ソ連国立響)
●レーニン賞授与。
●ローマ聖チェチーリア音楽アカデミー名誉会員に選出。
●イタリア公演。ベートーヴェン:協奏曲(グイ、ミラノRAI響)
●メロディア録音。ブラームス:協奏曲(イーゴリ独奏、モスクワ放送響)、モーツァルト:協奏交響曲(バルシャイ、モスクワ室内管)


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 1961年/昭和36年 (52〜53歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●指揮者としてもモスクワ・フィルハーモニー協会に所属。
●1月、シューベルト:幻想曲 D.934(ヤンポリスキー)
●2月、イギリス公演。バッハ:2台のヴァイオリンのための協奏曲(デイヴィス、イギリス室内管)、ブラームス:協奏曲、ヴィヴァルディ:2台ヴァイオリン協奏曲 R.514、イザイ:アミティエ(サージェント、LPO)
●2月、DGG録音。ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番(指揮、RPO、イーゴリ)


●3月、DGG録音。バッハ:2台のヴァイオリンのための協奏曲、ベートーヴェン:ロマンス集、ヴィヴァルディ:「調和の霊感」から Op.3-8(グーセンス、RPO、イーゴリ)


●3月、オランダ公演。ブラームス:協奏曲、バッハ:2台協奏曲(ハイティンク、コンセルトヘボウ管、イーゴリ)


●3月、シャン・デュ・モンド録音。パリ。オネゲル:2台のヴァイオリンのためのソナチネ、ハイドン:2台のヴァイオリンのためのソナタ、弦楽四重奏曲変ロ長調 Hob.III:23から(2台のヴァイオリンのための編曲版)、プロコフィエフ:2台のヴァイオリンのためのソナタ、シュポーア:デュオ(イーゴリ)


●4月、プロコフィエフ:2台のヴァイオリンのためのソナタ(イーゴリ)
●5月、ヴィヴァルディ:「調和の霊感」から Op.3-8、2台ヴァイオリン協奏曲 R.514、イザイ:アミティエ(コンドラシン、モスクワ・フィル、イーゴリ)
●5月、チェコ公演。「プラハの春」音楽祭。ブラームス:ヴァイオリン協奏曲(ペドロッティ指揮チェコ・フィル)、ベートーヴェン:三重協奏曲(クヌシェヴィツキー、オボーリン、イワノフ指揮ソ連国立響)、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲(ペドロッティ指揮チェコ・フィル)、ハイドン:ピアノ三重奏曲 Hob.XV:27、ショスタコーヴィチ:同2番、シューベルト:同1番(オイストラフ・トリオ)。


●スプラフォン録音。ブラームス:協奏曲(ペドロッティ、チェコ・フィル)


◆5月、ソ連政府は、贈収賄、投機、外国為替の闇商売などの経済犯罪に対して死刑を適用することを決定。
◆ソ連政府、通貨ルーブルを切り下げ。10分の1のデノミを実施。外貨獲得を強化。
●6月、オーストリア公演。ムジークフェラインザール。ブラームス:ヴァイオリン協奏曲(カラヤン指揮ウィーン・フィル)。


●6月、スイス公演。ブラームス:協奏曲、モーツァルト:協奏曲3番(ヌシオ、ルガーノ・イタリア語放送管)
◆7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定。翌月、ホーネッカーの指揮でベルリンの壁建設開始。
◆8月、イディッシュ語の定期刊行物の出版が許可。イスラエルとの対立以来13年ぶりでした。
●9月、孫のヴァレリー・オイストラフ誕生。
●10月、エテルナ録音。バッハ:ソナタ5、6番(ピシュナー)


●11月、シマノフスキ:協奏曲1番、ヴィヴァルディ:「調和の霊感」から Op.3-8、2台ヴァイオリン協奏曲 R.514、イザイ:アミティエ(ストリヤ、ワルシャワ・フィル)
●12月、モスクワ。フンメル:ピアノ三重奏曲2番、シューマン:同1番(オイストラフ・トリオ)
●東ベルリンのドイツ芸術アカデミー準会員に選出。
●ボストンのアメリカ科学芸術アカデミー名誉会員に選出。
●モスクワ。ベートーヴェン:三重協奏曲(イワノフ、ソ連国立響、オイストラフ・トリオ)

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 1962年/昭和37年 (53〜54歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●2月、モスクワ。ハイドン:協奏曲(ロジェストヴェンスキー、ソ連国立響)
●5月、オーストリア公演。ウィーン。ブラームス:協奏曲(クリップス、フィルハーモニア管)
●5〜6月、シャン・デュ・モンド録音。パリ。ベートーヴェン:ソナタ全曲(オボーリン)PHILIPSなどからも発売。


●6月、フランス公演。サル・プレイエル。ベートーヴェン:ソナタ全曲(オボーリン)
●6月、オーストリア公演。ウィーン・コンツェルトハウス。バッハ:協奏曲1番、2番(指揮、ウィーン響)


●6月、オランダ公演。モーツァルト:協奏曲3番(ハイティンク、コンセルトヘボウ管)


●8月、メロディア録音。バルトーク:協奏曲1番(ロジェストヴェンスキー、ソ連国立響)


●9月、デッカ録音。ブルッフ:スコットランド幻想曲 (ホーレンシュタイン、ロンドン響)ヒンデミット:協奏曲(ヒンデミット、ロンドン響)


●9月、イギリス公演。ショスタコーヴィチ:協奏曲1番(ロジェストヴェンスキー、フィルハーモニア管)
◆10月、キューバ危機。
●11〜12月、アメリカ公演。ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル・ツアーに同行。


●12月、モスクワ。ベートーヴェン:協奏曲(ロジェストヴェンスキー、ソ連国立響)
●モスクワ。ルクレール:ソナタ、ロカテッリ:カプリス (バウエル)
●フランス公演。パリ。ブラームス:F.A.E.ソナタ スケルツォ(バウエル)

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 1963年/昭和38年 (54〜55歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●オイストラフ・トリオ解散。チェロのクヌシェヴィツキーの死去により。1941年から22年間の活動でした。
●2月、モスクワ。ブラームス:協奏曲、ストラヴィンスキー:同、モーツァルト:同1番(コンドラシン、モスクワ・フィル)
●4月、トリノ。チャイコフスキー:協奏曲、モーツァルト:協同4番(ケンペ、トリノ響)
●6月、フランス公演。パリ。モーツァルト:協奏曲1番(ハイティンク、ラムルー管)、ストラスブール。ストラヴィンスキー:協奏曲、プロコフィエフ:同1番(ブール、ストラスブール市立管)
●9月、モスクワ。モーツァルト:協奏交響曲(バルシャイ、モスクワ室内管)
●9月、イギリス公演。ロンドン。ベートーヴェン:協奏曲(指揮、モスクワ・フィル、メニューイン)、ブラームス:協奏曲、モーツァルト:協奏交響曲、ヴィヴァルディ:3台ヴァイオリン協奏曲 R.551(コンドラシン、モスクワ・フィル、メニューイン、グリュミオー)
●9月、デッカ録音。モーツァルト:協奏交響曲(コンドラシン、モスクワ・フィル、イーゴリ)、モーツァルト:デュオ第1番(イーゴリ)


●10月、エテルナ録音。バッハ:ソナタ2、3番(ピシュナー)


●10月、東ドイツ公演。ブラームス2番(シュターツカペレ・ドレスデン)
●11〜12月、アメリカ公演。モスクワ室内管弦楽団にイーゴリと同行。ワシントン。ブラームス、ベートーヴェン:協奏曲(ミッチェル、ナショナル響)


●東ドイツ公演。チャイコフスキー:協奏曲、バッハ:同1番(ロジェストヴェンスキー、SKB)
●モスクワ。モーツァルト:ピアノ協奏曲20番(指揮、モスクワ放送響、デヴェツィ)、ワーグナー:さまよえるオランダ人序曲(モスクワ・フィル)
●メロディア録音。ブラームス2番(モスクワ・フィル)、ラロ:スペイン交響曲(指揮、モスクワ・フィル、イーゴリ)


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 1964年/昭和39年 (55〜56歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●2月、モスクワ。マルチヌー:ソナタ3番(バウエル)
●4月、モスクワ。モーツァルト:ピアノ協奏曲20番(指揮、モスクワ・フィル、オボーリン)
◆10月、フルシチョフがクーデターで失脚。ブレジネフが最高指導者に選出。宗教と経済犯罪に対する弾圧が終了。
●心臓発作に見舞われます。
●メロディア録音。ベルリオーズ:イタリアのハロルド(モスクワ・フィル)


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 1965年/昭和40年 (56〜57歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。
●イーゴリ、モスクワ音楽院教授に就任。


●1月、モスクワ。ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲1番(指揮、モスクワ・フィル、ロストロポーヴィチ)
●3月、東ドイツ公演。プロコフィエフ:協奏曲2番(ザンデルリング、ベルリン響)
●3月、エテルナ録音。東ベルリン。マイヤー:協奏曲(スイトナー、SKB)


●4月、イタリア公演。ベートーヴェン:協奏曲(アルベルト、RAIアレッサンドロ・スカルラッティ管)
●9〜10月、イギリス公演。ブラームス:二重協奏曲、ベートーヴェン:協奏曲(ロストロポーヴィチ、コンドラシン、モスクワ・フィル)、モーツァルト:協奏曲4番(指揮、ロンドン・フィル)
●10〜11月、アメリカ公演。モスクワ・フィルに同行。


●12月、ミネアポリス。ベートーヴェン:協奏曲(スクロヴァチェフスキ、ミネソタ管)
●モスクワ。ベートーヴェン:ソナタ7番、ブラームス:ソナタ3番、ドビュッシー:月の光、シューベルト:ソナタ D574(ペトルシャンスキー)
●メロディア録音。シベリウス:協奏曲、2台のユーモレスク(ロジェストヴェンスキー、モスクワ放送響)、ハチャトゥリアン:協奏曲(ハチャトゥリアン、ソ連国立響)、バッハ:協奏曲1番、ベートーヴェン:ロマンス集(ザンデルリンク、ベルリン響)


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 1966年/昭和41年 (57〜58歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●2月、シベリウス:協奏曲(ロジェストヴェンスキー、モスクワ放送響)、R.シュトラウス:ティル(ソ連国立響)
●3月、フィリップス録音。パリ。ドビュッシー:ソナタ、ラヴェル:ソナタ、プロコフィエフ:5つのメロディ(バウエル)、イザイ:バラード


●3月、モスクワ。フランク:ソナタ(リヒテル)
●5月、チェコ公演。「プラハの春」音楽祭。シューベルト:ソナタD574、ブラームス:ソナタ3番、プロコフィエフ:5つのメロディ、ラヴェル:ソナタ2番(バウエル)。


●8月、エテルナ録音。バッハ:ソナタ1、4番(ピシュナー)


●9月、プロコフィエフ:協奏曲1番(コンドラシン、モスクワ・フィル)
●10月、オランダ公演。ブラームス:協奏曲、プロコフィエフ:同1番、モーツァルト:同3番(ハイティンク、コンセルトヘボウ管)


●フィンランド獅子勲章授与。
●モスクワ音楽院。ブラームス:協奏曲、ベートーヴェン:ロマンス1番(ロジェストヴェンスキー、モスクワ・フィル)
●レーニン賞授与。
●ヴィヴァルディ:4台ヴァイオリン協奏曲 R.580(テリアン、モスクワ室内、イーゴリ、レオニード&パーヴェル・コーガン)
●プロコフィエフ:ソナタ1番、ヤナーチェク:ソナタ、ドビュッシー:パスピエ、コダーイ:3つのハンガリー舞曲(バウエル)
●メロディア録音。プロコフィエフ5番(指揮、モスクワ・フィル)、チャイコフスキー:協奏曲(指揮、モスクワ・フィル、イーゴリ)


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 1967年/昭和42年 (58〜59歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●1月、モスクワ。ベートーヴェン:ソナタ9番、タルティーニ:悪魔のトリル(バウエル)
●1月、モスクワ。メンデルスゾーン:協奏曲、モーツァルト:セレナード13番(指揮、モスクワ・フィル、パルチョメンコ)
●3月、モスクワ。バッハ:2台のヴァイオリンのための協奏曲(コンドラシン、モスクワ・フィル)
●3月、東ドイツ公演。プロコフィエフ5番(指揮、ベルリン響)、、ストラヴィンスキー:協奏曲(ザンデルリング、ベルリン響)、ショスタコーヴィチ:協奏曲1番(フリッケ、SKB)
●3〜4月、日本公演。コンドラシン指揮モスクワ・フィルに同行。ショスタコーヴィチ、チャイコフスキー、メンデルスゾーン、バッハ、モーツァルトの協奏曲を演奏。


●5月、フランス公演。ブラームス:協奏曲(ブリュック、フランス国立放送管)
◆6月、第3次中東戦争でイスラエルが勝利したことによりソ連は同国との外交を遮断。イスラエルとエジプト、シリア、ヨルダン、イラクの間に起きた戦争で、パレスチナ戦争、6日戦争(期間が6日のため)とも。
◆7月、消耗戦争。イスラエルとエジプトの間に起きた戦争で、ソ連、PLO、ヨルダンがエジプト側に参加。3年間続き、ソ連は反イスラエル、反シオニストのメディア キャンペーンを展開。

●7月、シューベルト:ソナタ D574(リヒテル)
●9月、プロコフィエフ:ラヴェル:ソナタ、5つのメロディ(バウエル)
●10月、モスクワ。ベートーヴェン:ソナタ6番、ブラームス:ソナタ3番(リヒテル)、ショスタコーヴィチ:ブローク歌曲集/世界初演(ヴィシネフスカヤ、ロストロポーヴィチ、ワインベルク)、レーガー:前奏曲
●11月、モスクワ。ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲2番(指揮、モスクワ・フィル、ロストロポーヴィチ)
●11月、イギリス公演。ショスタコーヴィチ:協奏曲2番(オーマンディ、LSO)
●12月〜、アメリカ公演。


●ベルギー王室よりレオポルド2世勲章授与。
●メロディア録音。マーラー4番(指揮、モスクワ・フィル、ヴィシネフスカヤ)、ドヴォルザーク:協奏曲(ピカイゼン、モスクワ・フィル)、ショスタコーヴィチ:協奏曲2番(コンドラシン、モスクワ・フィル)


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 1968年/昭和43年 (59〜60歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●〜1月、アメリカ公演。


●1月、アメリカ滞在中のオイストラフは、ソ連当局より、帰国後にある文書に署名するよう通告されます。その「ソ連ユダヤ人の手紙」と題された文書は、「シオニズム運動」を推進するイスラエル政府を非難することを主目的として、ソ連の有名ユダヤ人の署名を集め、プラウダ紙に掲載するものでした。ヴィエニャフスキ・コンクールで一緒だったテミアンカによれば、当時、オイストラフはアメリカで悩み苦しんでいたということでした。
●2月、アメリカから帰国したオイストラフは、当局からの署名要請を拒否。
◆3月、ポーランドのゴムウカ書記長により反ユダヤ主義政策開始。シオニズム運動容認ユダヤ人約2万人を国外追放し、コスモポリタン・ユダヤ人を公職から追放するという政策。
●6月、ノルウェー公演。グリーグ:協奏曲(指揮、ベルゲン響、リヒテル)
◆8月、チェコ事件。ワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアに侵攻。
●8〜9月、イギリス公演。リヒテル、ロストロポーヴィチと共に、スヴェトラーノフ指揮ソ連国立響ツアーに同行。チェコ事件への抗議活動にも遭遇。
●9月、モスクワ。チャイコフスキー:協奏曲、ショスタコーヴィチ:同2番、ベートーヴェン:ロマンス集(ロジェストヴェンスキー、モスクワ・フィル)、シューベルト2番、チャイコフスキー6番(指揮、モスクワ・フィル)
●10月、モスクワ。ブラームス1番(指揮、モスクワ響)
●10月、イタリア公演。
●10月27日、オイストラフがイタリア・ツアーで不在の際に家に泥棒が入り、金、宝石、高価な録音機器、レコード、ベルギー女王から寄贈された銀と金のチェス・セット、カメラ、時計のコレクションなどが盗まれますが、最も貴重なものであるヴァイオリンは放置されていました。そして3か月後にはすべての品が発見され、オイストラフ家に返還されています。
●12月、モスクワ。ブラームス2番(指揮、モスクワ響)
●12月、ショスタコ自宅。ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン・ソナタ(ショスタコーヴィチ)翌年5月の世界初演の5か月前の試演。
●12月、モスクワ音楽院大ホール。フランク:ソナタ、ブラームス:ソナタ3番(リヒテル)
●12月、フランス公演。フランク:ソナタ、ベートーヴェン:ソナタ6番、ブラームス:ソナタ3番、F.A.E.ソナタ スケルツォ、シューベルト:ソナタ D574(リヒテル)
●メロディア録音。マルチェッロ:オーボエ協奏曲、モーツァルト:ディヴェルティメント11番、ヴィヴァルディ:フルート協奏曲「夜」、イザイ:マズルカ(指揮、モスクワ・フィル、トゥルバシュニク、ホフマン、ピカイゼン)


●イギリス公演。ベートーヴェン:協奏曲(ボールト、ロンドン響)
●シューベルト:ソナタ D574(リヒテル)
●スウェーデン音楽アカデミーの名誉会員に選出。
●リスト・フェレンツ音楽大学より名誉教授の称号授与。

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 1969年/昭和44年 (60〜61歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●4月、モスクワ。ブラームス:ピアノ協奏曲1番(指揮、モスクワ・フィル、ザーク)
●5月、チェコ公演。「プラハの春」音楽祭。バッハ:ソナタ2番、プロコフィエフ:ソナタ1番、ベートーヴェン:ソナタ5番(バウエル)。


●5月、モスクワ。ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン・ソナタ(リヒテル)世界初演。
●5月、プラハ、ルドルフィヌム。ヤナーチェク:ソナタ、ベートーヴェン:ソナタ5番、バルトーク:子供のために〜ハンガリー民謡集(バウエル)
●5月、EMI録音。ブラームス:協奏曲、二重協奏曲(セル、クリーヴランド管、ロストロポーヴィチ)


●5〜6月、イーゴリ、日本公演。
●9月、EMI録音。ベートーヴェン:三重協奏曲(カラヤン、ベルリン・フィル、リヒテル、ロストロポーヴィチ)


●9月、オイロディスク録音。東ベルリン。プロコフィエフ:ソナタ1番、ヤナーチェク:ソナタ、シューベルト:幻想曲 D934、ソナタ D574(バウエル)


●10〜11月、ポーランド公演。ロヴィツキ指揮ワルシャワ・フィルと共演。ポーランドのオーケストラでは、前年3月に始まったユダヤ人追放政策による弦楽器奏者の欠員補充が困難に。
●11〜12月、日本公演。


●12月、モスクワ。ショスタコーヴィチ9番(ソ連国立響)
●ケンブリッジ大学から名誉音楽博士号授与。
●シューマン:チェロ協奏曲(指揮、ソ連国立響、ロストロポーヴィチ)
●メロディア録音。モーツァルト:協奏曲4番、ペルゴレージ:コンチェルティーノ(指揮、モスクワ・フィル、ファイン)


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 1970年/昭和45年 (61〜62歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●1〜3月、アメリカ公演。リヒテルと共にモスクワ・フィルに同行。アバド指揮ニューヨーク・フィル、メータ指揮LAPOなどとも共演。


●4月、プロコフィエフ:協奏曲1番(テミルカーノフ、モスクワ・フィル)
●4月、EMI録音。モーツァルト:協奏曲4、5番(弾き振り、ベルリン・フィル)


●4〜5月、オイロディスク録音。ウィーン。ブラームス:ソナタ1番、タルティーニ:悪魔のトリル、捨てられたディド(バウエル)ベートーヴェン:協奏曲(指揮、ウィーン響、イーゴリ)、


●5月、モスクワ。ベートーヴェン:三重協奏曲(コンドラシン、モスクワ・フィル、リヒテル、ロストロポーヴィチ)
●5月、モスクワ。ベートーヴェン:ソナタ1、3、10番(リヒテル)
●9月、スウェーデン公演。ストックホルム。バッハ:ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲(ウェステルベリ、スウェーデン放送響)
●10月、オランダ公演。ブラームス:協奏曲(ハイティンク、コンセルトヘボウ管)


●メロディア録音。モーツァルト:協奏曲3、5番、ワーグナー:マイスタージンガー前奏曲(指揮、モスクワ・フィル、カガン)


●シューマン:マンフレッド序曲(指揮、モスクワ・フィル)

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 1971年/昭和46年 (62〜63歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●1月、オーストリア公演。ザルツブルク祝祭大劇場。モーツァルト35番、ピアノ協奏曲23番、他(オイストラフ指揮ウィーン・フィル、グルダ)、モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲4番(パウムガルトナー指揮ウィーン・フィル)。


●1月、モスクワ。ベートーヴェン:エグモント序曲(指揮、モスクワ・フィル)
●3月、EMI録音。モーツァルト:協奏曲1、3番(弾き振り、ベルリン・フィル)


●4月、東ドイツ公演。プロコフィエフ:協奏曲1番(ザンデルリング、ベルリン響)
●4月、バルトーク:ソナタ1番、モーツァルト:変奏曲 K.359(バウエル)
●4月、東ドイツ公演。ベートーヴェン4番(指揮、ベルリン響)
●9月、EMI録音。モーツァルト:協奏曲2番、アダージョ、ロンド(弾き振り、ベルリン・フィル)


●9月、スウェーデン公演。アウリン:ヴァグヴィーサ、ステンハンマル:ソナタ(エリクソン)、ブラームス:協奏曲、二重協奏曲(オロフソン、ヴェステルベリ、スウェーデン放送響)、ハイドン:協奏交響曲(指揮、スウェーデン放送響)
●10月、モスクワ。ブラームス2番(指揮、モスクワ・フィル)
●メロディア録音。モーツァルト:協奏曲7番、アダージョ、ロンド(フィフテンゴルツ、モスクワ・フィル)、バッハ:ブランデンブルク協奏曲4番(弾き振り、ベルリン響)


●プロコフィエフ:ピアノ協奏曲1番(指揮、ソ連国立響、リュビモフ)

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 1972年/昭和47年 (63〜64歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●2月、モスクワ。バルトーク:管弦楽のための協奏曲(指揮、モスクワ・フィル)
●3月、モスクワ。ブラームス:ソナタ2番、バルトーク:ソナタ1番、シューベルト:ソナタ D574、ベートーヴェン:ソナタ1番第3楽章(リヒテル)
●3月、モスクワ。ベルリオーズ:イタリアのハロルド(指揮、ソ連国立響)
●3月、西ドイツ公演。チャイコフスキー6番(指揮、ベルリン・フィル)
●3月、EMI録音。モーツァルト:協奏交響曲、協奏曲 K.190(弾き振り、ベルリン・フィル、イーゴリ)


●5月、モスクワ。バッハ:2台のヴァイオリンのための協奏曲(指揮、モスクワ・フィル、カガン、クレーメル)
●5月、スプラフォン録音。チャイコフスキー:協奏曲、プロコフィエフ:ロメオとジュリエットより(指揮、チェコ・フィル、フデチェク)


●5月、モスクワ。バルトーク:ソナタ1番(バウエル)
●5月、チェコ公演。「プラハの春」音楽祭。ブラームス1番(指揮、チェコ・フィル)、グリーグ:ソナタ2番(オボーリン)、モーツァルト:変奏曲 K.359(バウエル)、イザイ:バラード
●5月、チェコ公演。「プラハの春」音楽祭。チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲(フデチェク指揮チェコ・フィル)、モーツァルト:羊飼いのセリメーヌ変奏曲、バルトーク:ソナタ第1番、ブラームス:ソナタ1番、アレグロ、4つのハンガリー舞曲(バウエル)。


●5〜6月、オーストリア公演。チャイコフスキー5番、モーツァルト:協奏交響曲、セレナード13番、ディヴェルティメント11番(指揮、ウィーン・フィル)ブラームス:ヴァイオリン協奏曲(アバド指揮ウィーン・フィル)、ハイドン99番(指揮、ウィーン響)。


●6月、オイロディスク録音。モーツァルト:ソナタ30、33、35、40、41番、変奏曲 K.359、K.360(バドゥラ=スコダ)


●6月、フランス公演。。モーツァルト:ソナタ30番(バドゥラ=スコダ)
●7月、チェコ公演。ブラームス:ソナタ1番(バウエル)
●8月、オーストリア公演。ザルツブルク音楽祭。チャイコフスキー5番、モーツァルト:協奏曲3番、セレナード13番、ディヴェルティメント11番(指揮、ウィーン・フィル)、ブラームス:ソナタ2番、バルトーク、プロコフィエフ:ソナタ1番(リヒテル)


●8月、オーストリア公演。ザルツブルク。モーツァルト:ソナタ40、41番、変奏曲 K.360(バドゥラ=スコダ)、オシアッハ。モーツァルト:ソナタ30、40、41番、変奏曲 K.360(バドゥラ=スコダ)
●8月、モスクワ。バルトーク:ソナタ1番(リヒテル)
●11月、イギリス公演。チャイコフスキー:協奏曲、ショスタコーヴィチ:同1番(M.ショスタコーヴィチ、NPO)
●11月、HMV録音。ショスタコーヴィチ:協奏曲1番(M.ショスタコーヴィチ、NPO)


●11月、ノルウェー公演。グリーグ:協奏曲(リヒテル、モスクワ・フィル)
●12月、モスクワ音楽院大ホール。メシアン:主題と変奏、プロコフィエフ:ソナタ2番、ドビュッシー:ソナタ、亜麻色の髪の乙女、ドヴォルザーク:マズルカ、モーツァルト:ソナタ40番、シューベルト:ヴァルス・カプリス、シベリウス:夜想曲(バウエル)
●西ドイツ公演。西ベルリン。モーツァルト:協奏曲5番(カラヤン、ECユース管)
●メロディア録音。ベルリオーズ:イタリアのハロルド(指揮、ウィーン響)、バッハ:管弦楽組曲2番(指揮、モスクワ・フィル)モーツァルト:協奏曲1、4番(指揮、モスクワ・フィル、カガン)


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 1973年/昭和48年 (64〜65歳)

●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


●スウェーデン公演。モーツァルト:協奏曲3番(弾き振り、スウェーデン放送響)
●4月、モーツァルト:ソナタ30番(バドゥラ=スコダ)
●11月、イーゴリ、日本公演。

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 1974年/昭和49年 (65〜66歳)

●モスクワ音楽院院長に合唱指揮者のクリコフが就任。
●モスクワ音楽院在職。教授。学部長。ボンダレンコが助手。


◆ソ連国内パスポートの所有制限が撤廃。各種生産地域など移動制限対象となっていた約37%の人々にも所有が認められます。
●ストックホルム。プロコフィエフ:協奏曲1番(ヴェステルベリ、スウェーデン放送響)
●5月、オーストリア公演。バッハ:2台のヴァイオリンのための協奏曲(弾き振り、オーストリア放送響、イーゴリ)、ベートーヴェン:ソナタ5、7番、モーツァルト:ソナタ33番、変奏曲 K.360、シューベルト:ソナチネ3番、ソナタ D574(バドゥラ=スコダ)
●5月、オーストリア公演。ムジークフェライン。ベートーヴェン:協奏曲(ジュリーニ、ウィーン響)


●6月、オランダ公演。ワーグナー:マイスタージンガーから、トリスタン前奏曲と愛の死、タンホイザー序曲。オベロン序曲、モーツァルト:協奏曲5番(弾き振り、コンセルトヘボウ管)


●7月、メロディア録音。コレッリ:合奏協奏曲 Op.6-1〜4(指揮、モスクワ・フィル)


●10月、モスクワ。ブラームス2番(指揮、モスクワ・フィル)
●10月8、9日、オランダ公演。プロコフィエフ:協奏曲1番(ハイティンク、コンセルトヘボウ管)


●10月24日、公演のために滞在していたアムステルダムで心臓発作で倒れ、同地で死去。
●モスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬。



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 商品説明:年表ページ

【指揮】

アーベントロート (ベートーヴェンシューベルト&シューマンブルックナーブラームスモーツァルトチャイコフスキーハイドン)
アルヘンタ
アンセルメ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クナッパーツブッシュ (ウィーン・フィルベルリン・フィルミュンヘン・フィル国立歌劇場管レジェンダリー)
クラウス
クリップス
クレツキ
クレンペラー (VOX&ライヴザツツブルク・ライヴVENIASボックス
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スイトナー (ドヴォルザークレジェンダリー)
スラトキン(父)
セル
ターリヒ
チェリビダッケ
トスカニーニ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベーム
ベイヌム
マルケヴィチ
ミトロプーロス
メルツェンドルファー
メンゲルベルク
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー (ブルックナーマーラーヨーロッパドイツ)
ロスバウト

【鍵盤楽器】

ヴァレンティ (チェンバロ)
ヴェデルニコフ (ピアノ)
カークパトリック (チェンバロ)
カサドシュ (ピアノ)
キルシュネライト (ピアノ)
グリンベルク (ピアノ)
シュナーベル (ピアノ)
ソフロニツキー (ピアノ)
タマルキナ (ピアノ)
タリアフェロ (ピアノ)
ティッサン=ヴァランタン (ピアノ)
デムス (ピアノ)
ナイ (ピアノ)
ニコラーエワ (ピアノ)
ネイガウス父子 (ピアノ)
ノヴァエス (ピアノ)
ハスキル (ピアノ)
フェインベルク (ピアノ)
モイセイヴィチ (ピアノ)
ユージナ (ピアノ)
ランドフスカ (チェンバロ)
ロン (ピアノ)

【弦楽器】

オイストラフ (ヴァイオリン)
カサド (チェロ)
コーガン (ヴァイオリン)
シュタルケル (チェロ)
スポールディング
デュ・プレ (チェロ)
バルヒェット (ヴァイオリン)
フランチェスカッティ (ヴァイオリン)
ヤニグロ (チェロ)
リッチ (ヴァイオリン)
レビン (ヴァイオリン)
ロストロポーヴィチ (チェロ)

【管楽器】

デルヴォー <ダルティガロング> (ファゴット)
マンツ (クラリネット)
モワネ (オーボエ)

【声楽】

ド・ビーク (メゾソプラノ)

【室内アンサンブル】

グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
ズスケ四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
パスキエ・トリオ
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
フランスの伝説の弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団

【作曲家】

アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

【シリーズ】

テスタメント国内盤

 エテルナ・オリジナル・マスター・シリーズ

【レーグナー】

●マーラー:交響曲第3、6番 (3CD)
●ブルックナー:交響曲第4、5、6、7、8、9番 (6CD)
●ヨーロッパ作曲家録音集 (5CD)
●ドイツ・オーストリア作曲家録音集 (5CD)
【スイトナー】

●レジェンダリー・レコーディングス (7CD)
●ドヴォルザーク:交響曲全集 (5CD)

【アーベントロート】

●ベートーヴェン:交響曲第1、4、6、9番、R.シュトラウス:ドン・キホーテ(3CD)
●シューベルト:未完成、グレート&シューマン:協奏曲集(2CD)
●ブルックナー:交響曲第4、5、9番 (3CD)
●ブラームス:交響曲第1、3、4番、ハイドン変奏曲 (2CD)
●モーツァルト」交響曲第33、35、38、41番、ディヴェルティメント第7番、ノットゥルノ (2CD)
●チャイコフスキー:交響曲第4、6番、シューマン:交響曲第4番、ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 (2CD)
●ハイドン:交響曲第88、97番、ヘンデル:二重協奏曲、バッハ:管弦楽組曲第3番

【オイストラフ】

●ダヴィッド&イーゴリ・オイストラフ・エテルナ録音集 (5CD)

【ズスケ四重奏団】

●モーツァルト:弦楽四重奏曲第8番〜第23番 (5CD)

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