CD 輸入盤

ヤーコフ・フリエールの芸術(15CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
SC841
組み枚数
:
15
レーベル
:
:
Europe
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


ヤーコフ・フリエールの芸術(15CD)
協奏曲から小品まで多彩な収録内容


ヒストリカル物に強いイギリスのスクリベンダム・レーベルから、ソ連のユダヤ人ピアニスト、ヤーコフ・フリエールのボックスが登場。実力のわりに知名度がイマイチなのは数々の不運のせいということが良くわかる魅力的な演奏が揃っています。

フリエールと仲間たち

フリエールは同世代のギレリスやザークと親しく、一緒に演奏したり、美術館に行ったりと公私両面で交流がありました。中でも驚かされるのは、1938年にフリエールとギレリスの2人が、天才少女ピアニスト、ローザ・タマルキナに揃って求婚し、タマルキナはイザイ国際コンクールで勝った方と結婚すると約束したことでした。当時ギレリスはネイガウス教授の圧力に晒されており、見かねたゴリデンヴェイゼル教授、イグムノフ教授、そしてフェインベルク教授(審査員)がギレリスを何かと支援したこともあってか、ギレリス1位、フリエール3位となって1940年にタマルキナとギレリスは結婚しています。下の画像は1940年5月1日に撮影されたもので、左からボリス・ゴリトシテイン[1922-1987]、フリエール[1912-1977]、タマルキナ[1920-1950]、エリザヴェータ・ギレリス[1919-2008]、ヤーコフ・ザーク[1913-1976]、エミール・ギレリス[1916-1985]。


ソ連屈指のヴィルトゥオーゾ

フリエールはモスクワ音楽院の卒業演奏で、師イグムノフの反対を押し切ってラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を選んで大成功を収め、以後、そのラフマニノフやリストなど名技的な作品のソ連最高のスペシャリストとして爆発的な人気を得て、「フリエリスト」と呼ばれる多くの熱心なファンの支持を得ることになります。


右手指の故障で教育の道へ

しかしキャリア絶頂期の1945年の年末、33歳のときに右手の故障に見舞われ、有効な手術や治療法を探して西側まで行ったものの見つからなかったため、教育に力を入れるようになります。ジョーク好きで明るく優しい人柄は教育に向いていたようで、さらにモスクワ音楽院始まって以来のヴィルトゥオーゾ教授ということで人気を博し、ベラ・ダヴィドヴィチ、ヴィクトル・エレスコ、ヴァレリー・カムイショフ、ヴィクトリア・ポストニコワ、マルク・ゼリツェル、ヴラジーミル・フェルツマン、ミハイル・ルディ、ミハイル・フェールマン、ミハイル・プレトニョフなど多くの名ピアニストを世に送り出しています。


1959年に完全復帰

10年以上に渡り、アメリカ、イギリス、フランス、日本といった世界の医学界に何度も助けを求めたフリエールでしたが、ようやくレニングラードの医師が応じてくれることになり、困難な手術を成功させています。以後、何か月にもわたるテクニック復元のための練習をおこない、1959年10月21日、47歳の誕生日にようやく復帰を果たし、以後は西側にも演奏旅行に出かけるようになります。しかし、教育実績の蓄積と共に情熱も強くなってしまったこともあってか、その公演回数は限られており、結局、西側では実力に見合った名声を得ることはできませんでした。


ミスター・モスクワ音楽院

フリエールとモスクワ音楽院の関係は、11歳になる1923年に始まっています。同年にモスクワ音楽院付属高等音楽学校に入学したフリエールは、モスクワ音楽院のG.P.プロコフィエフ教授に1年間、コズロフスキー教授に5年間師事して、1929年にモスクワ音楽院に進学。今度はイグムノフ教授に、音楽院で5年間、大学院時代に3年間の計8年間師事。1934年に計14年間の勉強を終えると、そのままイグムノフの助手として音楽院に雇用され、以後、亡くなるまでの40年間モスクワ音楽院で教えているので、勉強の14年間と合わせると54年になり、人生65年間のうち54年間、実に約83%がモスクワ音楽院繋がりだったことになります。


モスクワ音楽院入学

モスクワ音楽院付属高等音楽学校で5年間師事したコズロフスキー教授が1928年度で退任となるため、フリエールら3人の仲良しトリオが1929年春にお別れコンサートを開催したのですが、その演奏を聴いた院長のイグムノフが、彼らを秋から自分のピアノ・クラスに入れることを決定。1929年のスタートは幸先の良いものでした。
不運だった入学タイミング

1929年9月、前年に「第一次五か年計画」を発動させていたスターリンにより文化大臣が知性派ルナチャルスキーから過激なブブノフに交代させられ、モスクワ音楽院の院長もイグムノフからプシビシェフスキーに交代。これにより、それまでルナチャルスキーが抑えていたプロレタリア改革勢力が勢いを増して「モスクワ音楽院プロレタリア化計画」の運用が開始。
  ポーランド人新院長プシビシェフスキーは、「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」(ソ連作曲家同盟の前身)の方針に基づき、モスクワ音楽院のプロレタリア化に着手。新規入学者については「労働者と農民の子限定」とし、音楽院の名称まで「フェーリクス・コン高等音楽学校」というポーランド人革命家の名前に変更。
  直前までモスクワ音楽院の院長として5年に渡ってレベル・アップに取り組み、学内で教育誌まで発行して編集にも携わるなど尽力していたイグムノフも不本意な状況に置かれることになります。
  しかし学生の能力よりも労働者か農民の子であることがまず重要という施策のおかげで音楽院のレベル・ダウンが誰の目にも明らかになった結果、約2年半で「モスクワ音楽院プロレタリア化計画」は中止になります。
  とはいえ、その間の新規入学者や新規雇用教育者による低レベル化の影響は数年間は避けられなかったため、それがフリエールの卓球好きチェス好き演劇好きに拍車をかけた可能性も高そうですし、イグムノフがフリエールの卒業演奏演目ラフマニノフ3番に強硬に反対したのも、良くない状況に影響されてしまったからとも考えられます。


卓球、チェス、文学、演劇

フリエールは運動能力に恵まれ、当時ソ連で人気のあった卓球でも高度な実力を発揮し、モスクワ音楽院では上位3位に入るほどの腕前でした。また、ソ連の文化的国技となっていたチェスでは、フリエールは無謀なまでの勇敢な手法を好んでいたそうです。
  一方、フリエールはプーシキンやブローク、ヴェルレーヌといった文学も大好きで、熱心な演劇ファンでもあり、モスクワ芸術劇場やエフゲニー劇場のリハーサルに忍び込んで授業に遅刻することもあったりで、ときには怠け者呼ばわりされたにも関わらず、誰よりもうまくピアノを弾いていたのだとか。



 目次

名前

生地

家族

オレーホヴォ・ズイェヴォの音楽教室

モスクワ音楽院付属高等音楽学校

モスクワ音楽院と恩師イグムノフ

コンクール

オイストラフ最後のコンサートでの共演とその死

モスクワ音楽院の教え子たち

収録情報
CD1 シューマン:交響的練習曲、バッハ:シャコンヌ、来たれ、異教徒の救い主よ、他

CD2 ベートーヴェン:テンペスト、ピアノ協奏曲第3番

CD3 ラフマニノフ:前奏曲7曲、カバレフスキー:24の前奏曲

CD4 スクリャービン:ソナタ第3番、チャイコフスキー:子供のアルバム、他

CD5 ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲(コンドラシン)、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番(バーンスタイン)

CD6 シューマン:幻想曲、ラフマニノフ:チェロ・ソナタ

CD7 ショパン:葬送ソナタ、小品集

CD8 ショパン:小品集、ドヴォルザーク:ドゥムカとフリアント、ユモレスク

CD9 リスト:ピアノ協奏曲第2番(アノーソフ)、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番(ハイキン)

CD10 ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲(スヴェトラーノフ)、シューマン、リスト、モーツァルト、ビューロー

CD11 ブラームス:ハンガリー舞曲集(4手、14曲)、インテルメッツォ、ワルツ、ラプソディ

CD12 バッハ:シャコンヌ、ラルゴ、平均律 BWV853、リスト、グリュンフェルト、ビューロー編曲集

CD13 リスト:グレートヒェン、雪あらし、葬送、愛の賛歌、他

CD14 ドビュッシー:ベルガマスク組曲、前奏曲集より、ドヴォルザーク:詩的な音画集より、他

CD15 キュイ、アルベニス、ドホナーニ、メンデルスゾーン、チャイコフスキー:小品集

フリエール年表
1912  1913  1914  1915  1916  1917  1918  1919  1920  1921  1922  1923  1924  1925  1926  1927  1928  1929  1930  1931  1932  1933  1934  1935  1936  1937  1938  1939  1940  1941  1942  1943  1944  1945  1946  1947  1948  1949  1950  1951  1952  1953  1954  1955  1956  1957  1958  1959  1960  1961  1962  1963  1964  1965  1966  1967  1968  1969  1970  1971  1972  1973  1974  1975  1976  1977 

年表付き商品説明ページ一覧


 名前

フリエールのフルネームにはアクセントが3箇所あり、対象となる音節については少し音を伸ばすため、読み方は「ヤーコフ ・ ヴラジーミロヴィチ ・ フリエール」となります。
  実際にはアクセントが考慮されない場合も多く、また、ラテン文字変換された場合も普通はFlierなので、「フリエル」「フリーエル」「フライヤー」などと呼ばれることも多いようです。フランス式にアクサン・グラーヴを付け最後にeを追加して「Flière」とするケースもあり、バーンスタインが共演時に贈ったカードにもそのように書かれていましたがそれは稀なケースです。
  ロシア文化の愛好者が多く、1961、1967、1972年には来日公演も開催されていた日本では、昔から「フリエール」という表記が一般的です。
  なお、フリエールの幼少期の愛称は「ヤーリク」で、その後の愛称は「ヤーシャ」、父称を用いるロシア式の呼称では「ヤーコフ・ヴラジーミロヴィチ」となります。


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 生地

1912年にフリエールが生まれたオレーホヴォ付近は、モスクワ、サンクトペテルブルクに次ぐロシア第3位の繊維生産地で、モスクワの東90kmほどのところに位置。フリエールは1923年までの11年間を同地で暮らしていましたが、その間、国家体制が3度変わっており、住民にも少なからぬ影響があったと考えられるので、名称や住所区分の変遷とともに以下に簡単にまとめておきます。

◆ ロシア帝国 [1721-1917]
 ◆ モスクワ州 ボゴロツキー郡 オレーホヴォ

フリエールの父が時計職人として働いていたオレーホヴォは商業が盛んで、隣接するニコーリスコエとズイェヴォは繊維関係の工業が発展していました。そのため1862年に「モスクワ・ニジェゴロドスカヤ鉄道」が開通しており(ロシア帝国で5番目の路線)、1902年にはオレーホヴォの駅舎も立派な建物になっています(下の画像)。


オレーホヴォの発展は続き、1906年に映画館「インペリアル」が開業、翌1907年には私立男女別ギムナジウムが開校。1912年には「冬劇場」が開業し、ボリショイ劇場のメンバーによるビゼー「カルメン」、ルビンシテイン「悪魔」、チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」、「スペードの女王」、グノー「ファウスト」、ロッシーニ「セビリアの理髪師」、ドリーブ「ラクメ」、R=コルサコフ「五月の夜」などのオペラやバレエ、コンサート、モスクワの劇団による演劇などが上演されるようになります(下の画像)。
  フリエール家は何度もオペラを観に行き、幼いフリエールのお気に入りは「カルメン」でした。


1914年にはスタジアムが開業し、地元のオレーホヴォ・スポーツ・クラブとロンドン大学チームによってサッカーの試合が開催(下の画像)。これには同地周辺にイギリス製の織機を導入した工場が多かったことからイギリスとの交流があり、19世紀半ばにはサッカーがおこなわれるようになって、ロシア・サッカー発祥の地として知られていたという背景があります。
  フリエール少年も大のサッカー好きで、友人を集めてリーダーとなりストリート・サッカーに興じていました。


◆ ロシア共和国 [1917-1917]
 ◆ モスクワ州 ボゴロツキー郡 オレーホヴォ・ズイェヴォ[1917-1917]

1917年、革命で結成された労働者と兵士(農民)らから成るソヴィエト(評議会)の活動によりロシア国会が停止。これを受けて、国会議長と政党代表ら自由主義政治家が中心になり、ロシア皇帝に従わないことをソヴィエトに約束して臨時政府を樹立。
  臨時政府は皇帝に退位を求め、ニコライ2世の受諾と、弟のミハイルの即位拒否により帝政が終了。国名もロシア共和国に改名。
  ほどなく行政区画の変更がおこなわれ、オレーホヴォとニコーリスコエとズイェヴォが合併して、「オレーホヴォ・ズイェヴォ」という都市が誕生。人口はオレーホヴォとズイェヴォが共に約2万2千人、ニコーリスコエが約3万8千人だったので、計8万人超えの規模となり、分かれていた所属州も一本化。
  9月には市議会選挙がおこなわれ、74議席中56議席、約76%をボリシェヴィキが占めることになります。

◆ ソヴィエト(ソヴィエト社会主義ロシア共和国) [1917-1922]
 ◆ モスクワ州 ボゴロツキー郡 オレーホヴォ・ズイェヴォ[1917-1921]
 ◆ モスクワ州 オレーホヴォ・ズイェフスキー郡 オレーホヴォ・ズイェヴォ [1921-1922]

1917年11月、臨時政府の自由主義政治家たちに弾圧されていたボリシェヴィキが、10月革命で政権を倒し、ソヴィエト社会主義ロシア共和国と改名(以下、ソヴィエトと略)。
  国内に諸問題を抱えていたソヴィエト政府は、ロシア帝国時代の1914年にドイツから宣戦布告された戦い(第1次大戦)を早期に終わらせるため交渉を続けていましたが、1918年2月にはロシア内戦が勃発したため、翌3月に非常に不利な条件で講和に漕ぎつけています。
  以後、ロシア内戦は1922年10月に終戦となるまでの4年半に渡って継続、全国各地で大小さまざまな戦闘が繰り広げられることになります。


交戦勢力は赤軍(政府軍)と白軍(帝政派)が主体ですが、白軍側として戦っていたチェコスロヴァキア軍団(約55,000人)を救出するとういう名目で、諸外国軍がロシア領土内に軍を進めて「シベリア干渉戦争」が開始。日本軍(約73,000人)、アメリカ軍(約9,000人)、中華民国軍(約5,000人)、カナダ軍(約4,200人)、セルビア軍(約4,000人)、ルーマニア軍(約4,000人)、イタリア軍(約2,400人)、イギリス軍(約2,400人)、フランス軍(約1,400人)など多くの国が自国の軍隊をロシア領土内に侵攻させていました。
  とはいえ、内戦初期はまだ平和な地域も多かったようで、オレーホヴォ・ズイェヴォでも、1918年8月にシャリアピンを招いて公園コンサートをおこなったりしています(下の画像)。シャリアピンはフリエールの師、コルサコフの友人でした。


また、内戦開始の翌年2月には、ポーランド軍が西ウクライナやベラルーシの領有を主張してロシアに侵攻し「ソヴィエト・ポーランド戦争」が勃発。ポーランド軍がキエフを占領しミンスクまで到達した段階でソヴィエト側の提案で1920年10月に停戦。
  赤軍と白軍の大規模な内戦が続く一方で、ポーランドに侵攻され、さらに「シベリア干渉戦争」で諸外国軍も相手にしなければならなかったソヴィエト政府の5年間はなかなか大変だったようです。
  その間、1921年1月5日には、オレーホヴォ・ズイェヴォの発展に対応すべく、全ロシア中央執行委員会の決議により、「オレーホヴォ・ズエフスキー郡」が誕生。
◆ ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦) [1922-1991]
 ◆ ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国 モスクワ州 オレーホヴォ・ズイェフスキー郡 オレーホヴォ・ズイェヴォ[1922-1991]

内戦終結の2か月後、1922年12月30日にはソヴィエトは全国を支配下に置いて連邦制となり、ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)が成立。
  翌1923年にはフリエール家はモスクワに転居し、以後、1977年に亡くなるまでの54年間はフリエールはモスクワを拠点にしていましたが、故郷オレーホヴォ・ズイェヴォでは何度も演奏会をおこなって、感謝と愛着を示してもいました。

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 家族

ヤーコフ・フリエールはロシア帝国で両親ともにユダヤ人の家庭に誕生。父親のヴラジーミル・ミハイロヴィチ・フリエール[1867-1937]は時計職人で、小さな時計工房を構えていました。
  母親のエリザヴェータ・ラザレヴナ・フリエール[1871-1942]は、ピアノ演奏が趣味の主婦。ヤーコフ・フリエールはこの母親からピアノ演奏や楽譜に関する最初の教えを受けることになります。なお、フリエール家の子供は7人(女4人、男3人)でした。
  また、フリエール自身は、リュボフ・ニコラエヴナ・ミクラシェフスカヤ[1922-2006]と1950年に結婚し、11月14日に息子アンドレイ・ヤコヴレヴィチが誕生しています。アンドレイはのちに文化学者として有名になります。著作は350以上で、うち書籍が34冊


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 オレーホヴォ・ズイェヴォの音楽教室

幼い頃から母にピアノ演奏と楽譜について習っていたフリエールは、やがてオレーホヴォ・ズイェヴォの音楽教室で、セルゲイ・ニカノロヴィチ・コルサコフ(セルゲーイ・ニカノーロヴィチ・コールサコフ)[1893-1953]らの指導を受けるようになります。
  コルサコフはオレーホヴォ音楽界の重鎮で、オーケストラを設立して年に60公演もおこなったほか、音楽教室を「オレーホヴォ・ズイェヴォ音楽学校」に拡大するなどして、指揮者、教育者、ピアニスト、作曲家として活動。
  コルサコフの教育法は変わっており、音階や教則本的なテクニック、専門的な指の訓練も重視せず、特定の作品を何十回も繰り返し演奏し語し合うことで演奏能力を発達させるというものでした。フリエールのようにすでに基礎ができている生徒の場合は、その教育法は効果的だったようです。


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  モスクワ音楽院付属高等音楽学校

コルサコフの効果的な指導法により、フリエールは1923年に11歳でモスクワ音楽院付属高等音楽学校に入学しています。
  モスクワ音楽院付属高等音楽学校は、モスクワ音楽院の教授も指導にあたるエリート校ですが、そこに幼くして入学を果たし6年間学んだフリエールは、抜群の演奏技術で際立った存在でした。
  1923年から1924年までの約1年間は、グリゴリー・ペトロヴィチ・プロコフィエフ[1883-1962]のクラスに在籍。G.P。プロコフィエフが退職すると、セルゲイ・アレクセーヴィチ・コズロフスキー[1882-1941]のクラスで学んで優れた運動能力と生き生きとした弾力性のあるリズムに裏打ちされた演奏技術を習得。下の画像、手前の右から2人目がフリエール少年で、3人目がコズロフスキーです。フリエールだけ子供です。
  1929年にコズロフスキーの異動が決まるとフリエールらがお別れコンサートを開催し、それを聴いたイグムノフが3人を自分のクラスに入れることにします。


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  モスクワ音楽院と恩師イグムノフ

モスクワ音楽院、イグムノフとの長い関係

1923年にモスクワ音楽院付属高等音楽学校に入学したフリエールは、G.P.プロコフィエフに1年、コズロフスキーに5年師事して腕を磨き、1929年にイグムノフに見出されてモスクワ音楽院に無試験で進んでイグムノフのクラスに5年間在籍。その後、大学院でも3年間イグムノフに師事し、大学院修了の1937年にそのままイグムノフの助手として音楽院に雇用。やがて教授になって亡くなるまで40年間務め上げているので、結局、1923年から1977年まで54年間もモスクワ音楽院と関わっていたことになります。
  フリエールについて考える際には、イグムノフとモスクワ音楽院との関係が重要なので、このモスクワ音楽院の項目にイグムノフの略歴も入れ込んでおきます。
1866年、ニコライ・ルビンシテインがモスク音楽院の院長に就任(15年間在職)

1860年からロシア音楽協会モスクワ支部で教えていたユダヤ人のニコライ・ルビンシテインが、同協会支部の会長を務めていた州議会議員ニコライ・ペトロヴィチ・トルベツコイ[1828-1900]の支援を得て1866年にモスクワ音楽院を開校。初代院長兼ピアノ科教授として、亡くなるまで15年間在職


1873年、イグムノフ、ロシア帝国レベジャンに誕生

レベジャンはモスクワの南南東約320kmのところにある町。生家は裕福な商家。
1877年、イグムノフ、4歳から家庭教師にピアノを師事

イグムノフは4歳から家庭教師のアリーナ・フェドロヴナ・メイエルからピアノを学び、7歳の時には人前でヴェルディの「トロヴァトーレ」の幻想曲を演奏。

1881年、グーベルトが院長に就任(2年間在職)

チャイコフスキーの長年の友人、ニコライ・アリベルトヴィチ・グーベルト[1840-1888]は、ニコライ・ルビンシテインに招かれて1870年からモスク音楽院で理論を教え、ルビンシテインが1881年に亡くなると後任として院長を引き継ぎますが、1883年、ドイツから前年に来たばかりのマックス・エルトマンスデルファーと対立して2人とも辞任。グーベルトは1885年に教職に復帰しますが3年後に死去


1883年、アリブレフトが院長に就任(2年間在職)

チャイコフスキーに弦楽セレナーデを献呈されたコンスタンチン・カルロヴィチ・アリブレフト[1936-1893]はドイツのエルバーフェルトの生まれで音楽家の父と共に2歳でロシア帝国に移住。チェロ奏者、合唱指揮者、作曲家として活躍し、1860年からニコライ・ルビンシテインと共にロシア音楽協会モスクワ支部を設立して教え、1866年にモスク音楽院が開校すると合唱と理論を教え、1883年から1885年まで院長を務めて1889年に退職


1885年、タネーエフが院長に就任(4年間在職)

1878年からチャイコフスキーの後任としてモスクワ音楽院で教えていたセルゲイ・イヴァノヴィチ・タネーエフ(タニェエフ)[1856-1915]は、1889年まで院長を務め、1905年に音楽院を退職。タネーエフはチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第2番世界初演と第1番モスクワ初演のピアノ独奏者


1887年、イグムノフ、モスクワでズヴェーレフから1年間個人指導

イグムノフは地元のギムナジウムを卒業するとモスクワに行き、ニコライ・ズヴェーレフ[1832-1893]に師事。ズヴェーレフは、ジロティ[1863-1945]、スクリャービン[1872-1915]、ラフマニノフ[1873-1943]、ゴリデンヴェイゼル[1875-1961]らに個人的に教えていた裕福な貴族。
1888年、イグムノフ、モスクワ音楽院に入学

イグムノフはズヴェーレフに1年間師事したのち、1888年に15歳でモスクワ音楽院に入学し、ジロティとパブスト[1854-1897]にピアノを、タネーエフ、アレンスキー、イッポリトフ=イワノフに作曲を師事し、1894年に金メダルを得て卒業。途中、1892年からは、モスクワ大学で法律、歴史、哲学の講義を受講し始め、1895年まで継続。

1889年、サフォノフが院長に就任(17年間在職)

チャイコフスキーに招かれて1885年からピアノを教えていたヴァシリー・イリイチ・サフォノフ[1852-1918]は、1906年にニューヨーク・フィルの首席指揮者に就任するまで17年間在職


1895年、イグムノフ、アントン・ルビンシテイン国際コンクールで奨励賞

ベルリンで開催された第2回アントン・ルビンシテイン国際コンクールに出場。ピアノ部門は27名が参加し、モスクワ音楽院を1892年にラフマニノフやスクリャービンを抑えて首席で卒業していたヨゼフ・レヴィーン[1874-1944]が優勝。ほかに表彰されたのは奨励賞を獲得したフランスのヴィクトル・ストーブ[1872-1953]とイグムノフのみ。コンクール直後からイグムノフのピアニストとしての生活が始まり、ロシア各地で演奏。
1898年、イグムノフ、教育活動開始

春、イグムノフはグルジアのロシア帝国音楽協会チフリス支部の音楽学校に招かれてピアノ教師の仕事を開始。しかし翌年に父ニコライが亡くなったためモスクワに戻っていたところ、モスクワ音楽院から要請があり契約。

1898年、モスクワ音楽院の新校舎完成

学生数が増え続けて設立当初の2倍以上になったため、古い建物を取り壊して新たな校舎を建設


1899年、イグムノフ、26歳でモスクワ音楽院の教授に就任

6月12日、26歳でモスクワ音楽院の教授に就任したイグムノフは、以後、半世紀近くに渡って教育に携わりますが、政治体制の変遷や戦争に翻弄されることにもなります。

1906年、イッポリトフ=イワノフが院長に就任

チャイコフスキーに招かれて1892年から作曲の教授を務めていたイッポリトフ=イワノフは、1922年まで16年間に渡って院長として在職


1917年、イグムノフ、ルナチャルスキー率いる教育人民委員会で音楽評議会委員に選出

10月革命により帝政が崩壊し「ソヴィエト」になると、イグムノフ教授はルナチャルスキー大臣[1875-1933]のもとで、教育人民委員会の音楽評議会の委員も兼務するようになります。
1918年、イグムノフ、主任教授に昇格

45歳のイグムノフは、ピアノ科の主任教授となります。

1919年、イグムノフ、モスクワ音楽院の教育および芸術委員会の常任委員に選出

イグムノフはモスクワ音楽院の教育および芸術委員会の常任委員に選ばれて院内改革に着手。新たに室内アンサンブルのクラスが導入されたほか、美学、文化史、文学史のコースも設置。

1922年、ゴリデンヴェイゼルが院長に就任(2年間在職)

ユダヤ系のゴリデンヴェイゼルが院長に就任。フェインベルク、ギンズブルク、ニコラーエワ、ベルマン、カプースチンの師としても知られる名教授


1923年、フリエール、モスクワ音楽院付属高等音楽学校に入学

故郷でのコルサコフの熱心な指導のおかげで無事に入学し、グリゴリー・ペトロヴィチ・プロコフィエフ[1883-1962]のクラスに在籍


1924年、フリエール、コズロフスキーの門下生になり5年間勉強

G.P.プロコフィエフの退職に伴い、コズロフスキーのクラスに参加。以後、5年間に渡って学びます。
1924年、イグムノフ、モスクワ音楽院の院長に就任(5年間在職)

51歳になったイグムノフ教授は、モスクワ音楽院の院長にも就任して音楽院を統率。

1928年、イグムノフ、雑誌「音楽教育」を発行して編集委員も兼務

院長のイグムノフはモスクワ音楽院で雑誌「音楽教育」を発行して編集委員も兼務。ルナチャルスキー大臣のもとでイグムノフは教育に情熱的に取り組んでいきます。


1929年、フリエールが付属校からモスクワ音楽院に進学

コズロフスキー門下生だったフリエールとベルコヴィチ、レヴィットの3人は、コズロフスキーの異動に際し、1929年の春(=1928年度末)にお別れコンサートを開催。それを聴いていたイグムノフは3人を自分のクラスに入れることにします。フリエールが進学した当時のモスクワ音楽院のピアノ科で主流だったクラスは以下の通りです。

 ● イグムノフ [1873-1948] モスクワ音楽院在籍期間:1899-1948 (49年間)
 ● ゴリデンヴェイゼル [1875-1961] モスクワ音楽院在籍期間:1906-1961 (55年間)
 ● ブルーメンフェリト [1863-1931] モスクワ音楽院在籍期間:1922-1931 (9年間)
 ● ネイガウス [1888-1964] モスクワ音楽院在籍期間:1922-1964 (39年間)
 ● フェインベルク [1890-1962] モスクワ音楽院在籍期間:1922-1962 (40年間)

1929年、スターリンがルナチャルスキー大臣を解任

9月、ルナチャルスキーが解任され、アンドレイ・セルゲイヴィチ・ブブノフ[1884-1938]が大臣に就任。ブブノフは1905年以来、ロシア帝国で逮捕歴多数という革命家。ルナチャルスキーは翌1930年に国際連盟のソ連代表部に赴任。ルナチャルスキーの解任理由は明らかにされていませんが、同年にロシア語アルファベットをキリル文字からラテン文字に移行させることを支持したのがきっかけになった可能性はあります(スターリンはキリル文字の廃止に反対)。また、前年から「第一次五カ年計画」に国をあげて取り組んでいたので、文化面も一新ということだったのかもしれません。
  革命家だけにブブノフ大臣の掲げる目標はシンプルで、文盲撲滅、義務教育の充実、工業教育の徹底や児童文学出版といった方針はレーニン未亡人のクルプスカヤも称賛。そしてこうした方向性の影響は音楽高等教育にまで波及することになります。


1929年、プシビシェフスキーが院長に就任(2年半在職)

9月、ブブノフはモスクワ音楽院の院長として、ボレスラフ・スタニスラヴォヴィチ・プシビシェフスキー[1892-1937]という人物を着任させ、この人事によっていろいろと音楽院が変わることになります。
  プシビシェフスキーはモスクワ音楽院の改革に乗り出し、「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」(ソ連作曲家同盟の前身)の方針に従って、モスクワ音楽院のプロレタリア化に着手。


1929年、モスクワ音楽院が改名され入学者の身分を限定

新規入学者は労働者と農民の子のみとし、教師も場合によっては入れ替え、音楽院の名称も「フェーリクス・コン高等音楽学校」と改名。フェーリクス・ヤーコブレヴィチ・コン[1864-1941]は、ポーランド出身のユダヤ人革命家でレーニンやクルプスカヤと交流もあった教育人民委員会博物館部門のベテラン責任者。音楽とは何の関りもありませんが、ポーランドから来たプシビシェフスキーに良くしてくれた恩人ということで、きわめて私的な理由での名称変更ということになります。

1929〜32年、ロシア・プロレタリア音楽家同盟とモスクワ音楽院教授陣の確執

もともと「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」と、モスクワ音楽院の多くの教授陣との関係はあまり良いとは言えない状態だったため、1929年にカリキュラムが変更され、音楽と関係の無い「社会」や「経済」の教育などが増やされると辞任する者まで出現。また、新規入学の学生たちの演奏水準もどんどん落ちて行ったので、「モスクワ音楽院プロレタリア化計画」はやがて中止となります。
1932年、院長プシビシェフスキーの解任

2年半を経てプロレタリア化計画が失敗と断定されたため、プシビシェフスキー院長は1932年2月に解任されています。翌1933年には妻子持ちのプシビシェフスキーは同性愛容疑(ソ連で多用された虚偽告発用の名目)でバルト海運河建設現場での長期重労働が課せられ、刑期を終えて3年後に戻った時には、運悪くスターリン/エジョフによる「大粛清」が始まっていました。「大粛清」の目玉でもあった「ポーランド作戦」も開始されていて、ポーランド人のプシビシェフスキーは、翌1937年、スパイ行為とテロ行為の容疑で逮捕され、まもなく処刑されています(虚偽の罪状だったので1956年に名誉回復)。

1932年、シャツキーが院長に就任(2年間在職)

解任されたプシビシェフスキーの後任は、教育学の専門家であるスタニスラフ・シャツキー[1878-1934]で、ゴリデンヴェイゼルと協力してモスクワ音楽院付属高等音楽学校に幼児部門も設けるなどしましたが、任期2年目の1934年10月に56歳で急死。


1934年、フリエール、モスクワ音楽院を卒業し大学院に進学

優秀な成績だったため、試験なしで大学院に進んでいます。イグムノフへの師事は継続。
1935年、ネイガウスが院長に就任(2年間在職)

急死したシャツキーの後任はすぐには見つからなかったため、翌1935年から、ネイガウスがピアノ科教授と兼務で院長を引き受け、これをシャツキーの妻で、1932年からモスクワ音楽院の音楽教育部門の責任者を務めていたヴァレンチーナ・シャツカヤ[1882-1978]がサポート。


1937年、フリエール、モスクワ音楽院に助手として雇用

大学院を卒業し、モスクワ音楽院にイグムノフ教授の助手として雇用されます。
1937年、シャツカヤが院長に就任(2年間在職)

シャツカヤが院長となり、ネイガウスは教授活動に専念。


1939年、ゴリデンヴェイゼルが院長に就任(3年間在職)

再びゴリデンヴェイゼルが院長となり、1941年には開戦による音楽院の疎開という大仕事も実施


1937年、フリエール、モスクワ音楽院助教授に昇格

モスクワ音楽院での立場が助手から助教時になります。
1942年、シェバリーンが院長に就任(6年間在職)

モスクワ音楽院で1928年から教えていたシェバリーン[1902-1963]が院長に就任


1947年、フリエール、モスクワ音楽院教授に昇格

モスクワ音楽院での立場が教授となります。
1948年、スヴェシニコフが院長に就任(26年間在職)

院長のシェバリーンがジダーノフ批判により解任となり、合唱のスヴェシニコフ[1889-1990]が院長に就任。スヴェシニコフは1950年に共産党に入党して立場を安定させ、1974年まで26年間、84歳まで務めています


1965年、フリエール、ピアノ科主任教授に任命

モスクワ音楽院での立場がピアノ科主任教授となり、演奏活動と教育活動で多忙をきわめるようになります。


1974年、クリコフが院長に就任(16年間在職)

院長のスヴェシニコフが高齢のため退任。後継は同じく合唱のボリス・イヴァーノヴィチ・クリコフ[1932-2018]。1990年まで16年間院長職を務めています


1977年、フリエール、死去

12月18日、ピアノ科主任教授フリエール、モスクワで重度の心臓疾患により死去。葬儀ではコンドラシン指揮モスクワ・フィルが演奏。


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 コンクール

1935年、全ソ連演奏家コンクール

2月17日から3月2日にかけてレニングラードで開催された第2回全ソ連ピアノ・コンクールで、グリンベルク、ザークを抑えて第1位獲得。2位:グリンベルク、ヴァイントラウブ、シチェメリノヴァ、3位:ザーク、オシポフ、ヴァインシェンケル、グレヴィチ。


1936年、ウィーン国際ピアノ・コンクール

5〜6月、ウィーンで開催された国際ピアノ・コンクールで第1位獲得。ギレリスは3位でした。
  ウィーン国際ピアノ・コンクールといえば、1933年に26歳のボレスワフ・コン[1906-1936]が1位(前年のショパン・コンクール3位)で、16歳のリパッティ[1917-1950]が2位になったことを不服としてコルトーが審査員を降りたことでも有名です。2位には同じく16歳のドイツのカールロベルト・クライテン[1916-1943]、名誉賞には20歳のジーナ・バッカウアー[1913-1976]と壮観でした。男性3名は全員短命で、1位のコンは演奏会などの過労で鬱病になり29歳で自殺、2位のリパッティはホジキンリンパ腫で33歳で死去。同じく2位のクライテンは、フルトヴェングラーからも注目されていましたが、1943年のある日、知人の所有する音楽室を借りて練習中、政府に批判的なことを喋ったところ、知人は隣人のナチス婦人会の女性に連絡、彼女はすぐにゲシュタポに連絡し、ほどなくクライテンは逮捕され4か月の投獄の後、フルトヴェングラーの介入も効果無く、杜撰な裁判により肉鉤にワイヤーという見せしめ用の残虐な方法で27歳で殺害。国中いたるところナチだらけだった時代の実状を物語ると同時に、死刑を求刑した余罪まみれの検事は僅か6年で釈放され、以後、30年近く年金を受け取りながら91歳まで生き長らえたという現実の恐怖を伝える事件としても知られています。


1938年、イザイ国際コンクール

このコンクールの出場をめぐっては、ギレリスはなぜかネイガウスからの圧力に晒されていたということで、見かねたゴリデンヴェイゼル教授、イグムノフ教授、そしてフェインベルク教授(審査員でもありました)らがギレリスを何かと支援したこともあってか無事出場することができたという事情があります。結果、ギレリス1位、フリエールは3位となりますが、フリエールはあまり意に介していなかったようです。また、事前にフリエールとギレリスの2人が、天才少女ピアニスト、ローザ・タマルキナに揃って求婚し、タマルキナはコンクールで勝った方と結婚するという約束に従い、2年後の1940年にタマルキナとギレリスは結婚していますが、結婚3年目にホジキンリンパ腫が発症し、体調不良が続くようになったため離婚しています。


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  オイストラフ最後のコンサートでの共演とその死

1974年10月、オイストラフはアムステルダム・フィルハーモニー管弦楽団がコンセルトヘボウ大ホールで開催するブラームス・チクルスなどに出演し、ブラームスの交響曲全曲や協奏曲など7公演を指揮(うち3公演は弾き振り)するために10月7日にアムステルダムに到着。前日の10月6日にはモスクワでフリエールと共演(ソ連での最後の公演)。
  フリエールは10月22日のピアノ協奏曲第2番のために20日にアムステルダムに行き、到着直後に交響曲第2番の公演をまず鑑賞。
  翌21日がリハーサル日でしたが、その日がフリエールの誕生日だったため、オイストラフは内緒でオケとのハッピーバースデー演奏を準備してして驚かせ、さらにリハーサル終了後にチェスのセットなどをフリエールにプレゼントして喜ばせています(数か月前にはリストのロ短調ソナタの手稿譜コピーを西ベルリンのコレクターから入手したオイストラフがフリエールに贈ってもいました)。
  本番公演の22日は、前半にピアノ協奏曲第2番、後半に交響曲第3番が演奏され、それが結果的にオイストラフ生涯最後のコンサートとなってしまいます。
  翌23日はフリエールはオフで、オイストラフは午前に交響曲第4番のリハーサルを3時間おこない、夕方には二重協奏曲のリハーサルをソリストであるイサカゼ兄弟(ヴァイオリンがリアナ、チェロがエルダー)とおこなったほか、バッハとモーツァルトのリハーサルもおこなっていました。
  リハーサル終了後、オイストラフは20時頃にホテル7階の夫妻の部屋にフリエールを招き、モーツァルト「トルコ風」終楽章を弾いて出迎えたあと、バッハのヴァイオリンとオーボエのための協奏曲を演奏。テーブルの上のカセットレコーダーにはオイストラフお気に入りのフルニエ、ガリエラと録音した二重協奏曲が入っていました。その後、夕食をとって23時半頃まで歓談した後、フリエールが帰ろうとすると、オイストラフは30分だけ散歩をしようと誘います。しかし前日にもオイストラフと夜中に散歩をしていたフリエールは辞退し、帰国に備えて5階の自室に戻って就寝することにします。
  翌24日、フリエールは朝5時半にオイストラフの妻タマーラから夫が倒れたという電話を受けるものの既に手遅れで、ほどなく到着した医師により死亡が確認。オイストラフは10年前にも心臓発作を起こしており、今回の激務には耐えられなかったようです。
  フリエールはオイストラフの妻タマーラとリアナ・イサカゼ、そして遺体と共にモスクワに戻ることになり、数日後にモスク音楽院大ホールでおこなわれた追悼式ではブラームスのインテルメッツォを演奏しています。


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  モスクワ音楽院の教え子たち

◆ ベラ・ダヴィドウィチ [1928- ]
  1949年、ショパン国際ピアノ・コンクール第1位(チェルニー=ステファンスカと共に)。
◆ レフ・ヴラセンコ [1928- ]
  1956年、ブダペスト国際音楽コンクール第1位。
  1958年、チャイコフスキー国際音楽コンクール第2位。
◆ ロディオン・シチェドリン [1932- ]

◆ ニーナ・イワノヴナ・クリコワ [1933-2021]

◆ マキシム・ショスタコーヴィチ [1938- ]

◆ サミュエル・アルミヤン [1941-1987]
  1963年、「プラハの春」スメタナ国際コンクール第3位。
  1967年、ジョルジュ・エネスコ国際コンクール第1位(ルプーと共に)。
◆ ヴィクトル・エレスコ [1942- ]
  1963年、ロン=ティボー国際コンクール第1位。
  1966年、チャイコフスキー国際音楽コンクール第3位。
◆ ヴァレリー・カムイショフ [1943- ]
  1968年、エリザベート王妃国際音楽コンクール第2位。
◆ ヴィクトリア・ポストニコワ [1944- ]
  1966年、リーズ国際ピアノ・コンクール第1位。
  1968年、ヴィアナ・ダ・モッタ国際ピアノ・コンクール第1位。
  1970年、チャイコフスキー国際音楽コンクール第3位。
◆ マルク・ゼリツェル(マーク・ゼルツァー) [1947- ]
  1967年、ロン=ティボー国際コンクール第3位。
◆ ナターリャ・ガヴリロワ [1950- ]
  1969年、ロン=ティボー国際コンクール第3位。
  1970年、ショパン国際ピアノ・コンクール第5位。
◆ タチアーナ・リュミナ [1950- ]
  1969年、シューマン国際コンクール第2位。
◆ エレーナ・ギレリス [1950- ]
  1972年、モンテビデオ国際ピアノ・コンクール第1位。
◆ ヴラジーミル・フェルツマン [1952- ]
  1971年、ロン=ティボ一国際コンクール第1位(ロジェと共に)。
◆ イリーナ・ベルコヴィチ [1952- ]
  1980年、ライプツィヒ・バッハ国際ピアノ・コンクール第3位。
◆ ミハイル・ルディ [1953- ]
  1975年、ロン=ティボ一国際コンクール第1位。
◆ ミハイル・フェールマン [1955- ]
  1975年、エリザベート王妃国際音楽コンクール第1位。
◆ ミハイル・プレトニョフ [1957- ]
  1978年、チャイコフスキー国際音楽コンクール第1位。


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 収録情報

CD1
◆ シューマン:交響的練習曲 Op.13
1. 主題: Andante 1:37
2. 練習曲I (変奏1): Un poco più vivo 1:08
3. 練習曲II (変奏2): Andante 2:07
4. 練習曲III: Vivace 0:59
5. 練習曲IV (変奏3): Allegro marcato 0:53
6. 練習曲V (変奏4): Scherzando 1:12
7. 練習曲VI (変奏5): Agitato 0:56
8. 練習曲VII (変奏6): Allegro molto 0:45
9. 練習曲VIII (変奏7): Sempre marcatissimo 2:20
10. 練習曲IX: Presto possibile 0:36
11. 練習曲X (変奏8): Allegro con energia 0:55
12. 練習曲XI (変奏9): Andante espressivo 2:39
13. 練習曲XII (フィナーレ): Allegro brillante 5:36
  録音:1960年4月25日(ライヴ)、モスクワ音楽院大ホール

◆ バッハ(ブゾーニ編):無伴奏ヴァイオリン・パルティ―タ第2番より
14. 「シャコンヌ」  13:50
  録音:1960年4月25日(ライヴ)

◆ バッハ(ブゾーニ編):コラール集より
15. 「来たれ、異教徒の救い主よ」BWV.659  5:16
  録音:1960年(ライヴ)

◆ シューマン:「幻想小曲集」より
16. 「飛翔」 Op.12-2  3:01
  録音:1960年(ライヴ)

◆ リスト:「慰め、6つの詩的思考」より
17. 第3番 変ニ長調 S.172-3  3:59
  録音:1960年(ライヴ)

◆ スクリャービン:12の練習曲より
18. 第12番「悲愴」Op.8 No.12  2:06
  録音:1960年(ライヴ)

◆ スクリャービン:ピアノ・ソナタ第3番 Op.23「心理状態」 17:23
19. 第1楽章 Drammàtico 5:34
20. 第2楽章 Allegretto 2:05
21. 第3楽章 Andante 4:38
22. 第4楽章 Presto con fuoco 5:03
  録音:1959年(ライヴ)

◆ スクリャービン:マズルカ集より
23. ヘ短調 Op.25-1  3:23
24. ハ長調 Op.25-2  3:22
25. ホ短調 Op.25-3  2:25
  録音:1959年(ライヴ)

CD2
◆ ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番「テンペスト」Op.31-2 20:00
1. 第1楽章 Largo; Allegro 8:15
2. 第2楽章 Adagio 6:41
3. 第3楽章 Allegretto 5:04
  録音:1974年(ライヴ)

◆ ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 Op.37 34:31
4. 第1楽章 Allegro con brio 16:06
5. 第2楽章 Largo 9:39
6. 第3楽章 Rondo: Allegro; Presto 8:46
  コンスタンチン・イワノフ指揮モスクワ放送交響楽団
  録音:1973年(ライヴ)、モスクワ

CD3
◆ ラフマニノフ:前奏曲集より
1. 前奏曲 嬰ハ短調 Op.3-2  4:19
2. 前奏曲 ニ短調 Op.23-3  3:39
3. 前奏曲 ニ長調 Op.23-4  4:36
4. 前奏曲 ト短調 Op.23-5  3:54
5. 前奏曲 変ホ長調 Op.23-6  3:15
6. 前奏曲 ト長調 Op.32-5  3:51
7. 前奏曲 嬰ト短調 Op.32-12  2:19
  録音:1953年11月

◆ カバレフスキー:24の前奏曲 Op.38
8. 第1番 ハ長調 1:40
9. 第2番 イ短調 0:33
10. 第3番 ト長調 1:09
11. 第4番 ホ短調 1:39
12. 第5番 ニ長調 1:49
13. 第6番 ロ短調 1:06
14. 第7番 イ長調 2:22
15. 第8番 嬰ヘ短調 2:10
16. 第9番 ホ長調 1:06
17. 第10番 嬰ハ短調 2:33
18. 第11番 ロ長調 0:44
19. 第12番 嬰ト短調 3:00
20. 第13番 嬰ヘ長調 2:25
21. 第14番 変ホ短調 1:48
22. 第15番 変ニ長調 0:45
23. 第16番 変ロ短調 1:37
24. 第17番 変ホ長調 2:12
25. 第18番 ヘ短調 1:21
26. 第19番 変ホ長調 0:48
27. 第20番 ハ短調 2:33
28. 第21番 変ロ長調 1:27
29. 第22番 ト短調 1:46
30. 第23番 ヘ長調 2:16
31. 第24番 ニ短調 3:57
  録音:1955年(?)、モスクワ

CD4
◆メトネル :「忘れられた調べ」第1集より
1. 「回想ソナタ」Op.38-1  13:14
  録音:1959年(ライヴ)

◆ スクリャービン:ピアノ・ソナタ第3番 Op.23「心理状態」
2. 第1楽章 Drammatico 6:27
3. 第2楽章 Allegretto 2:12
4. 第3楽章 Andante 4:48
5. 第4楽章 Finale: Presto con fuoco 5:22
  録音:1959年

◆ スクリャービン:練習曲集より
6. ロ短調 Op.8-11  5:06
  録音:1959年1月17日

◆ スクリャービン:マズルカ集より
7. ヘ短調 Op.25-1  3:41
8. ハ短調 Op.25-2  3:29
9. 嬰ヘ短調 Op.25-7  5:09
  録音:1959年1月17日

◆ チャイコフスキー:「子供のアルバム」−24のやさしい小品 Op.39
10. 朝の祈り 1:38
11. 冬の朝 1:08
12. 木馬遊び 0:40
13. お母さん 1:25
14. おもちゃの兵隊 0:54
15. 人形の病気 1:41
16. 人形の葬儀 2:07
17. ワルツ 1:11
18. 新しい人形 0:35
19. マズルカ 1:09
20. ロシアの歌 0:50
21. ガルモニカを吹く農夫 1:20
22. カマリンスカヤ 0:37
23. ポルカ 0:50
24. イタリアの歌 0:53
25. フランスの古い歌 1:21
26. ドイツの歌 1:04
27. ナポリの歌 1:03
28. 乳母のおとぎ話 1:03
29. バーバ・ヤーガ 0:43
30. 甘い夢 2:39
31. ヒバリの歌 0:56
32. 辻音楽師 0:56
33. 教会にて 2:14
  録音:1959年

CD5
◆ ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲変ニ長調 Op.38
1. 第1楽章 Allegro, ma non troppo e maestoso 13:51
2. 第2楽章 Andante con anima 10:42
3. 第3楽章 Allegro brillante 9:24
  キリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
  録音:1963年(stereo)

◆ ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番ニ短調 Op.30
4. 第1楽章 Allegro, ma non tanto 11:38
5. 第1楽章 Cadenza 5:50
6. 拍手 0:18
7. 第2楽章 Intermezzo: Adagio 12:36
8. 第3楽章 Finale: Alla breve 14:45
  レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック
  録音:1963年10月14日(ライヴ)

CD6
◆ シューマン:幻想曲 ハ長調 Op.17
1. 第1楽章 Durchaus fantastisch und leidenschaftlich vorzutragen 13:32
2. 第2楽章 Mäßig. Durchaus energisch 7:33
3. 第3楽章 Langsam getragen. Durchweg leise zu halten 10:41
  録音:1969年9月17日(stereo)

◆ ラフマニノフ:チェロ・ソナタ ト短調 Op.19
4. 第1楽章 Lento; Allegro moderato 13:02
5. 第2楽章 Allegro scherzando 6:21
6. 第3楽章 Andante 5:41
7. 第4楽章 Allegro mosso 10:19
  ダニール・シャフラン(チェロ)
  録音:1956年12月6日

CD7
◆ ショパン:ピアノ・ソナタ第2番 Op.35「葬送」
1. 第1楽章 Grave. Doppio movimento 5:50
2. 第2楽章 Scherzo 7:06
3. 第3楽章 Marche funèbre: Lento 9:14
4. 第4楽章 Finale: Presto 1:32
  録音:1956年(?)、モスクワ

◆ ショパン:夜想曲集より
5. ホ長調 Op.62-2  6:01
6. 嬰へ短調 Op.48-2  7:13
  録音:1947年

◆ ショパン:マズルカ集より
7. イ短調 Op.17-4  3:59
8. 変イ長調 Op.50-2  2:50
  録音:1946年

◆ ショパン:ポロネーズ集より
9. 第7番 変イ長調 Op.61「幻想ポロネーズ」  13:19
10. 第5番 嬰へ短調 Op.44  9:30
  録音:1953年10月17日(Op.61)、1947年11月20日(Op.44)

◆ ショパン:スケルツォ集より
11. 第1番 ロ短調 Op.20  9:28
  録音:1959年(ライヴ)

CD8
◆ ショパン:ポロネーズ集より
1. 第2番 変ホ短調 Op.26-2  8:05<
  録音:1972年3月20日

◆ ショパン:夜想曲集より
2. ホ長調 Op.62-2  6:10<
  録音:1972年3月20日

◆ ショパン:ワルツ集より
3. 第6番 変ニ長調 Op.64-1「子犬のワルツ」  1:39
  録音:1972年3月20日

◆ ショパン:夜想曲集より
4. ハ短調 Op.48-1  5:42
  録音:1972年3月20日

◆ ショパン:マズルカ集より
5. 嬰ハ短調 Op.30-4  3:32
  録音:1972年3月20日

◆ ショパン:夜想曲集より
6. ホ長調 Op.9-2  4:32
  録音:1972年3月20日

◆ ショパン:ワルツ集より
7. 第3番 イ短調 Op.34-2  6:02
  録音:1972年3月20日

◆ ショパン:舟歌 嬰へ長調 Op.60
8.  9:05
  録音:1972年3月20日

◆ ドヴォルザーク:「ドゥムカとフリアント」
9. ドゥムカ ハ短調 Op.12-1, B.136  4:54
10. フリアント ト短調 Op.12-2, B.137  3:55
  録音:不明

◆ ドヴォルザーク:「8つのユーモレスク」より
11. 変ト長調 Op.101-7, B.187  3:43
  録音:不明

CD9
◆ リスト:ピアノ協奏曲第2番 イ長調
1. S.125 19:16
  ニコライ・アノーソフ指揮モスクワ国立交響楽団
  録音:1948年5月26日(ライヴ)、モスクワ音楽院大ホール

◆ ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番 Op.30
2. 第1楽章 Allegro, ma non tanto 15:52
3. 第2楽章 Intermezzo: Adagio 10:37
4. 第3楽章 Finale: Alla breve 14:01
  ボリス・ハイキン指揮モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
  録音:1941年

CD10
◆ シューマン:「幻想小曲集」より
1. 「夕べに」 Op.12-1  3:41
2. 「飛翔」 Op.12-2  3:16
3. 「なぜ」 Op.12-3  2:46
4. 「気まぐれ」 Op.12-4  3:00
5. 「夜に」 Op.12-5  4:01
  録音:1972年1月24日(ライヴ)、モスクワ音楽院大ホール

◆ リスト:「詩的で宗教的な調べ」より
6. 「葬送」S.173-7  11:31
  録音:1972年1月24日(ライヴ)、モスクワ音楽院大ホール

◆ リスト:「ヴェルディのオペラ《トロヴァトーレ》のミゼレーレによる演奏会用パラフレーズ」 S.433 R.266
7.  8:56
  録音:1972年1月24日(ライヴ)、モスクワ音楽院大ホール

◆ リスト:「4つの忘れられたワルツ」より
8. 第2番 S.215 R.37  4:42
  録音:1964年6月4日(ライヴ)、モスクワ音楽院大ホール

◆ ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲
9. 17:50
  エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ソ連国立交響楽団
  録音:1965年12月29日(ライヴ)

◆ モーツァルト:幻想曲 K.475
10.  13:12
  録音:1969年9月17日

◆ ビューロー:「《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第3幕5重唱によるパラフレーズ」
11.  5:52
  録音:1964年6月4日(ライヴ)、モスクワ音楽院大ホール

CD11
◆ ブラームス:ハンガリー舞曲集(4手版)より
1. 第1番 ト短調  2:54
2. 第2番 ニ短調  3:31
3. 第3番 ヘ長調  1:56
4. 第4番 ヘ短調  4:11
5. 第5番 嬰へ短調  2:00
6. 第6番 変ニ長調  2:25
7. 第7番 イ長調  1:37
8. 第8番 イ短調  2:35
9. 第13番 ニ長調  2:20
10. 第15番 変ロ長調  2:23
11. 第17番 嬰へ短調  3:39
12. 第18番 ニ長調  1:37
13. 第20番 ホ短調  2:55
14. 第21番 ホ短調  1:33
  イーゴリ・アプテカレフ(ピアノ)
  録音:1955年2月8日

◆ ブラームス:6つの小品 Op.118より
15. インテルメッツォ イ長調 Op.118-2  5:38
  録音:1947年

◆ ブラームス:ワルツ集より
16. 第1番 ロ長調 Op.39-1  0:48
17. 第2番 ホ長調 Op.39-2  1:36
18. 第3番 嬰ト短調 Op.39-3  1:01
19. 第4番 ホ短調 Op.39-4  1:25
  録音:1947年

◆ ブラームス:2つのラプソディより
20. ロ短調 Op.79-1  8:57
  録音:1947年

CD12
◆ バッハ(フェインベルク編):オルガン・ソナタ第5番 BWV 529より
1. ラルゴ 7:10
  録音:1947年

◆ バッハ(ブゾーニ編):無伴奏ヴァイオリン・パルティ―タ第2番より
2. シャコンヌ 13:49
  録音:1947年

◆ バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻より
3. 第8番 変ホ短調 BWV853 前奏曲  3:49
4. 第8番 変ホ短調 BWV853 フーガ  5:23
  録音:1958年

◆ リスト:「おお、優しい夕星よ」(ワーグナー「タンホイザー」から)
5. S.444  8:04
  録音:1948年

◆ リスト:「イゾルデの愛の死」(ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」から) S.447
6.  7:31
  録音:1948年

◆ リスト:「ヴェルディのオペラ《トロヴァトーレ》のミゼレーレによる演奏会用パラフレーズ」 S.433 R.266
7.  9:03
  録音:1953年6月26日

◆ グリュンフェルト:「ヨハン・シュトラウス《こうもり》の主題によるパラフレーズ」 Op.56
8.  5:09
  録音:1946年

◆ ビューロー:「《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第3幕5重唱によるパラフレーズ」
9.  6:02
  録音:1951年3月5日

CD13
◆ リスト:「超絶技巧練習曲」より
1. 第12番「雪あらし」S.139-12  4:41
2. 第10番 S.139-10  4:05
  録音:1946年

◆ リスト:「忘れられたロマンス」より
3. 「夜想曲」S.527-3  5:00
  録音:1952年

◆ リスト:「詩的で宗教的な調べ」より
4. 「葬送」S.173-7  11:09
5. 「愛の賛歌」S.173-10  7:36
  録音:1948年(S.173-7)、1952年10月23日(S.173-10)

◆ リスト:「慰め」より
6. 第3番 S.172-3  3:48
  録音:1946年

◆ リスト:「グレートヒェン」(ファウスト交響曲 第2楽章) S.513
7.  17:02
  録音:1951年4月16日

◆ リスト:バラード集より
8. 第2番 ロ短調 S.171  13:32
  録音:1951年4月16日

◆ リスト:「忘れられたワルツ」より
9. 第2番 S.215-2  5:56
  録音:1952年3月16日

CD14
◆ メンデルスゾーン:無言歌集より
1. 第2番イ長調 Op.19-2  2:37
2. 第10番ロ短調 Op.30-4  3:01
3. 第20番変ホ長調 Op.53-2  2:56
4. 第45番ハ長調 Op.102-3  1:31
5. 第46番ト短調 Op.102-4  3:05
  録音:1951年12月25日(Op.19-2、Op.102-3、4)、1952年10月23日(Op.30-4、Op.53-2)

◆ ドビュッシー:「ベルガマスク組曲」より
6. 「前奏曲」L.75-1  3:32
7. 「月の光」L.75-3  5:06
8. 「パスピエ」L.75-4  3:59
  録音:1953(L.75-1)、1952年(L.75-3、4)

◆ ドビュッシー:前奏曲集から
9. 第1巻〜「沈める寺」L.117-10  5:43
10. 第1巻〜「ミンストレル」L.117-12  2:08
11. 第2巻〜「ヒースの茂る荒れ地」L.123-5  3:26
  録音:1954年8月21日

◆メトネル :「忘れられた調べ」第1集より
12. 「回想ソナタ」Op.38-1  13:24
  録音:1959年(ライヴ)

◆ ドヴォルザーク:「詩的な音画集」より
13. 第1番 「夜の道」Op.85-1  5:25
14. 第7番 「フリアント」Op.85-7  2:52
15. 第9番 「セレナーデ」Op.85-9  5:25
16. 第13番 「聖なる山にて」Op.85-13  3:30
  録音:不明

CD15
◆ キュイ:「2台ピアノのための3つの小品」Op.69より
1. 第1曲「インテルメッツォ」 2:37
2. 第2曲「ノットゥルノ」 9:31
  エミール・ギレリス(ピアノ)
  録音:1949年

◆ アルベニス:「スペインの歌」Op.232より
3. 「コルドバ」  4:52
  録音:1947年

◆ アルベニス:「スペイン組曲」より
4. 「グラナダ」  4:32
  録音:1947年

◆ アルベニス:「スペインの歌」Op.232より
5. 「セギディーリャ」  2:35
  録音:1938年

◆ ドホナーニ:演奏会用練習曲集 Op.28より
6. 第6番「カプリッチョ」  2:34
  録音:1938年

◆ メンデルスゾーン:ロンド・カプリッチョ Op.14
7.  5:56
  録音:1938年

◆ チャイコフスキー:「四季」Op.37aより
8. 「6月:舟歌」  5:03
  録音:1940年

◆ アルベニス(カメンスキー4手編):「ナヴァラ」
9.  4:17
  エミール・ギレリス(ピアノ)
  録音:1941年


 年表

黒文字=音楽関連、グレー文字=社会関連

ロシア帝国
 1912年/明治45年(〜7月30日)、大正元年(7月30日〜) (0歳)

◆ オレーホヴォの隣のニコーリスコエに「冬劇場」が開業し、オペラ上演などが始まります。座席数は1,350。
◆ 10月21日、ヤコフ・フリエール(ヤーコフ・ヴラジーミロヴィチ・フリーエル)、音楽好きなユダヤ人の家庭に誕生。
場所:ロシア帝国モスクワ総督府ボゴロツキー地区オレーホヴォ(5年後のロシア臨時政府による土地区画整理で「オレーホヴォ・ズイェヴォ」に改名)。
父:ヴラジーミル・ミハイロヴィチ・フリエール[1867-1937]。時計職人。
母:エリザヴェータ・ラザレヴナ・フリエール[1871-1942]。主婦。ピアノ演奏が趣味。
兄弟:全部で7人。
愛称:幼少期はヤーリク、のちにヤーシャ。
就学前教育:母がピアノ演奏と楽譜について指導。

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 1913年/大正2年 (0〜1歳)

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 1914年/大正3年 (1〜2歳)

◆ 7月、金本位制の停止
◆ 8月、ドイツがロシアに宣戦布告。ロシア帝国が第1次大戦に参戦
◆ 8月、サンクトペテルブルクがペトログラードに改名。ほかの地名もドイツ語の場合はすべてロシア語に改名

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 1915年/大正4年 (2〜3歳)

◆ ロシア帝国、第1次大戦継続

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 1916年/大正5年 (3〜4歳)

◆ ロシア帝国、第1次大戦継続
◆ 7月、中央アジアで民族主義者の反乱

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 1917年/大正6年 (4〜5歳)

◆ ロシア帝国、第1次大戦継続
◆ 3月8日(ユリウス暦:2月23日)、「2月革命」がペトログラードで勃発。市民革命

ロシア臨時政府

◆ 3月12日、ロシア臨時政府、ペトログラードで樹立。ロシア社会民主労働党内のメンシェヴィキ主導による政府
◆ 3月15日、ニコライ2世退位により帝政が終了
◆ 6月3日、ロシア臨時政府による土地区画整理の一環として、オレーホヴォ、ニコーリスコエ郡区、ズイェヴォが合併し、「オレーホヴォ・ズイェヴォ」という単一の都市集落とすることが決定。これによりフリエール家の居住地表記も「オレーホヴォ・ズイェヴォ」と変更
◆ 7月17日、「7月蜂起」。ペトログラードでレーニン率いる約50万人のデモ隊が行進したため、ケレンスキー率いるロシア臨時政府が数千人の警察官と兵士を派遣して鎮圧


◆ 11月6日、「10月革命」がペトログラードで勃発


ソヴィエト → ソ連 / レーニン体制

◆ 11月7日(ユリウス暦:10月25日)、10月革命。ロシア社会民主労働党内のボリシェヴィキ主導による「ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国(RSFSR、以下、ソヴィエトと略)」政権樹立
◆ 11月、ドイツ帝国とソヴィエトが停戦協定
◆ 11月、ウクライナ人民共和国(首都キーウ/キエフ)、成立。1920年11月まで存在。公用語はウクライナ語。反ソヴィエト派
◆ 12月、ウクライナ=ソヴィエト戦争勃発。ソヴィエト側は内戦と第1次大戦との同時進行
◆ 12月、ブレスト・リトフスクで講和条約締結に向けての交渉が開始。ドイツは引き延ばしを図り、ソヴィエト側は、推進派のレーニンと打ち切り派のトロツキーが対立するなど交渉は難航
◆ 12月、ウクライナ人民共和国(首都ハルキウ/ハリコフ)、成立。1918年3月まで4か月間存在。公用語はウクライナ語とロシア語。親ソヴィエト派
◆ 12月16日、婚姻解消令

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 1918年/大正7年 (5〜6歳)

◆ 5月17日、「ロシア内戦」勃発。チェコスロヴァキア軍団の反乱。ソヴィエト当局による武装解除に反発した約5万人規模のチェコスロヴァキア人部隊によるもの。ヴォルガ、ウラル、シベリア、極東で蜂起
◆ 6月、チェコスロヴァキア軍団がサマーラを占領し、「憲法制定議会議員委員会」を設立

◆ 7月、「ペトログラードとモスクワの音楽院の人民教育委員会への移管」に関する法令にレーニンが署名。以後、1933年までの15年間、ロシアの音楽教育の分野に大きな変化をもたらし、さまざまな改革、再編がおこなわれることになります。
◆ オレーホヴォ・ズイェヴォ交響楽団が設立。指揮者はセルゲイ・ニカノロヴィチ・コルサコフ。
◆ オレーホヴォ・ズイェヴォ公園のホールでシャリアピンがコンサートを開催。
◆ 8月、「シベリア出兵」。チェコスロヴァキア軍団の救出を名目とし、白軍と共に赤軍と戦う部隊を日本、アメリカ、イギリス、フランスなどが極東のウラジオストクに派兵した「シベリア干渉戦争」勃発
◆ 9月16日、家族法成立
◆ 11月3日、オムスクで「臨時全ロシア政府」が樹立。誕生間もないシベリア共和国を吸収。イギリスの後援による反ソヴィエト政権
◆ 11月3日、ドイツで革命が勃発。ドイツ帝国の崩壊
◆ 11月11日、ポーランド独立宣言
◆ 11月13日、中央同盟国の降伏により、ソヴィエトがブレスト=リトフスク条約を破棄
◆ 11月、「ウクライナ・ポーランド戦争」勃発。西ウクライナの独立宣言を受けて、ポーランドがガリツィア(ウクライナ南西部)に侵攻。フランスがポーランドを支援

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 1919年/大正8年 (6〜7歳)

◆ オレーホヴォ・ズイェヴォの音楽教室で、セルゲイ・ニカノロヴィチ・コルサコフに師事
◆ 2月、「ソヴィエト・ポーランド戦争」勃発。「ソヴィエト&ウクライナ人民共和国(首都ハルキウ/ハリコフ)」と、「ポーランド&ウクライナ人民共和国(首都キエフ/キーウ)」の戦争。ソヴィエト側は「ロシア内戦」、「シベリア干渉戦争」との同時進行
◆ 3月、レーニンがポグロム反対を表明
◆ 6〜10月、キエフ・ポグロム発生。白軍(白衛軍)の義勇部隊による大規模なポグロム。白軍司令部は非難するものの義勇部隊はそのまま継続。周辺にも拡大し、1921年にかけてウクライナで合計1,326件のポグロムが発生し、少なくとも3万人から7万人以上のユダヤ人が虐殺され、約50万人のユダヤ人が家を失っています
◆ 7月、「ウクライナ・ポーランド戦争」の終結。ポーランドが勝利
◆ 10月、「ソヴィエト・ポーランド戦争」でポーランド側のウクライナ人民共和国(首都キーウ/キエフ)の軍でチフスが大流行し、兵力の70%を喪失。ウクライナ民族主義者、シモン・ペトリューラ大統領はポーランドに亡命
◆ 12月、ウクライナの大規模なポグロムに抗議するデモがニューヨークで実施。デモではウクライナのユダヤ人犠牲者は12万人に達したと非難
◆ 「シベリア干渉戦争」継続
◆ 「ロシア内戦」継続

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 1920年/大正9年 (7〜8歳)

◆ オレーホヴォ・ズイェヴォの音楽教室に在籍
◆ 「ソヴィエト・ポーランド戦争」継続
◆ 「シベリア干渉戦争」継続
◆ 「ロシア内戦」継続

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 1921年/大正10年 (8〜9歳)

◆ オレーホヴォ・ズイェヴォの音楽教室に在籍
◆ 3月、「ソヴィエト・ポーランド戦争」終結。リガ平和条約締結。ポーランド側の勝利
◆ 3月、新経済政策「ネップ」開始
◆ 10月、ソヴィエト政府により、クリミア自治ソヴィエト社会主義共和国が設立。26,860平方キロメートル、人口は約72万人で、首都はシンフェロポリ。自治共和国内では、20の居住区別の自治もおこなわれ、1930年代には、6地区がクリミア・タタール人、2地区がドイツ人、2地区がユダヤ人、1地区がウクライナ人という構成。それぞれの居住区での活動が成功し、1937年には、クリミアは先進工業農民国家に変貌したと評されてもいます。ユダヤ人の多く携わる金融、貿易、職人という職業は、ソヴィエトではブルジョアの仕事として非難の対象になっており、当時約65,000人いたクリミアのユダヤ人のうち、約20,000人が集団農業に転業
◆ 11月、ソヴィエト政府、1万分の1の通貨切り下げを実施
◆ 「シベリア干渉戦争」継続
◆ 「ロシア内戦」継続

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 1922年/大正11年 (9〜10歳)

◆ オレーホヴォ・ズイェヴォの音楽教室に在籍
◆ モスクワ放送局、ラジオ放送開始。3月に完成した高さ150mの鉄塔から電波を送信。


◆ 10月、ソヴィエト政府、100分の1の通貨切り下げを実施
◆ 10月、「シベリア干渉戦争」終結。ソヴィエトの勝利
◆ 11月、「ロシア内戦」終結。ソヴィエトの勝利
◆ 12月、ソヴィエト社会主義共和国連邦成立宣言(以下、ソ連と略)
◆ 12月16日、レーニン、2度目の脳梗塞発作。右手の麻痺はあるものの仕事は口述で遂行
◆ 12月30日、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国、ソ連に在籍

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 1923年/大正12年 (10〜11歳)

◆ オレーホヴォ・ズイェヴォの音楽教室に在籍
◆ 3月10日、レーニン、3度目の脳梗塞発作
◆ モスクワに転居
◆ モスクワ音楽院付属高等音楽学校に入学
◆ グリゴリー・ペトロヴィチ・プロコフィエフ[1883-1962]のクラスに在籍
◆ 11〜12月、紙幣の種類に、10,000ルーブルと15,000ルーブルが追加
◆ ソ連政府、コレニザーツィヤ(現地化)政策の実施を共産党大会で決定。これにより、ロシア語以外の地区における摩擦や緊張を和らげ、政治や行政の円滑な運用を想定

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 1924年/大正13年 (11〜12歳)

◆ モスクワ音楽院付属高等音楽学校在学
◆ G.P.プロコフィエフのクラスに在籍
◆ G.P.プロコフィエフが音楽院を退職
◆ コズロフスキーのクラスに在籍
◆ 1月21日、レーニン、死去。

ソ連 / スターリン体制T(大粛清前)

◆ 1月22日、スターリンが最高指導者に選出
◆ 1月、ソ連憲法制定
◆ 1月、ペトログラード、レニングラードに改名
◆ 3月、ソ連政府、通貨改革実施。旧紙幣50,000ルーブル=1924年度紙幣1ルーブルという基準。ソヴィエト以後の切り下げは、これで500億分の1になった計算
◆ 2月、紙幣の種類に、25,000ルーブルが追加
◆ 8月、ソ連政府、酒類販売を許可。10年間の酒類販売禁止期間中に、モルヒネやコカインなど麻薬中毒患者が増えすぎたため。一方でアルコール中毒患者も増加するものの、麻薬中毒よりは社会的影響が少ないという判断
◆ ソ連政府、麻薬販売を違法とし、違反者には懲役10年の刑。これにより麻薬使用者が激減

◆ 秋からアレクサンドル・ボリソヴィチ・ゴリデンヴェイゼル[1875-1961]のクラスに在籍

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 1925年/大正14年 (12〜13歳)

◆ モスクワ音楽院付属高等音楽学校在学
◆ コズロフスキーのクラスに在籍

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 1926年/大正15年(〜12月26日)昭和元年(12月26日〜) (13〜14歳)

◆ モスクワ音楽院付属高等音楽学校在学
◆ コズロフスキーのクラスに在籍
◆ 5月、ポーランドでクーデター発生。これはピウスツキによって引き起こされたもので、鉄道関係者の協力も得て3日間で終結。直接的な要因は、前年に発覚した政治腐敗による内閣危機と、ドイツとの関税戦争で、遠因としては数年間の経済政策の失敗によるハイパーインフレと失業率の増大などがありました。ピウスツキは首相と国防大臣を兼ね、腐敗政治家や反体制派を収監するなどして独裁体制に移行

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 1927年/昭和2年 (14〜15歳)

◆ モスクワ音楽院付属高等音楽学校在学
◆ コズロフスキーのクラスに在籍
◆ 秋、フリエールとベルコヴィチたちは、エゴン・ペトリ、ホセ・イトゥルビ、カルロ・ゼッキらのコンサートを聴いて、それぞれの個性的な芸風に感銘を受けます

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 1928年/昭和3年 (15〜16歳)

◆ モスクワ音楽院付属高等音楽学校在学
◆ コズロフスキーのクラスに在籍
◆ 春、フリエールとベルコヴィチたちは、ヴィルヘルム・バックハウスのコンサートを鑑賞。ショパンのエチュードにリストのハンガリー狂詩曲第2番、シューマンとスクリャービンのソナタ第4番というプログラム。
◆ 第1次5か年計画(スターリン体制の本格始動)
◆ ピウスツキ、日露戦争で軍功のあった日本軍将校51名に勲章を授与してソ連を刺激

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 1929年/昭和4年 (16〜17歳)

◆ モスクワ音楽院付属高等音楽学校卒業
◆ コズロフスキーのクラスに在籍
◆ コズロフスキーの異動に伴い、仲良しクラス・メイトのフリエールとベルコヴィチ、レヴィットがお別れコンサートを開催。フリエールのメフィスト・ワルツ、ベルコヴィチの交響的練習曲は、聴きに来ていたイグムノフに褒められ、イグムノフは3人を自分のクラスに入れることを決定
◆ モスクワ音楽院に進学
◆ 世界大恐慌

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 1930年/昭和5年 (17〜18歳)

◆ モスクワ音楽院在学
◆ イグムノフに師事

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 1931年/昭和6年 (18〜19歳)

◆ モスクワ音楽院在学
◆ イグムノフに師事
◆ イグムノフのクラスにマリヤ・グリンベルクが参加。1月21日に師のブルメンフェリトが死去したため。グリンベルクは1925年に入学していましたが、胃痛などにより2度に渡って計2年間休学し、モスクワ音楽院に8年間、大学院に2年間の計10年間在籍。ちなみにマリヤ・ユージナはレニングラード音楽院で、親指の負傷により2年間休学し、計9年間在籍。
◆ 12月、スターリンにより、高さ103メートルという世界最大の正教会建造物である「救世主ハリストス大聖堂」が爆破(ハリストス=キリスト)。教会への弾圧はロシア革命初期の1917年から始まっていますが、それでも1930年にはまだ3万の教会がありました。しかし憲法改正後の1931年からは、閉鎖や爆破、収容所への転用などが本格化し、1939年には実際に使用されているソ連の教会は数百ほどにまで減少

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 1932年/昭和7年 (19〜20歳)

◆ モスクワ音楽院在学
◆ イグムノフに師事
◆ 12月、ソ連国内パスポート制度導入

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 1933年/昭和8年 (20〜21歳)

◆ モスクワ音楽院在学
◆ モスクワ音楽院金メダル授与
◆ イグムノフに師事
◆ 春、卒業演奏作品にラフマニノフ3番を選択。イグムノフは猛反対するもののフリエールの決意は揺るがず。
◆ 夏休み中に独力でラフマニノフ3番の練習を仕上げていたフリエールは、新学期が始まるとイグムノフに聴いてくれるよう頼み、イグムノフはピアノ伴奏を受け持ち、その成果を高く評価
◆ ソ連・ポーランド不可侵条約締結
◆ カガノーヴィチによる民族主義運動抑圧政策でウクライナ国境封鎖。ソ連の輸出を支えていたウクライナ農作物の過剰な収奪により、人工的な大飢饉(ホロドモール)となり、栄養失調により免疫の衰えたウクライナの農民たちは、翌年にかけてチフスなどで多くの人が犠牲になります

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 1934年/昭和9年 (21〜22歳)

◆ 1月、卒業試験でラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を演奏してモスクワ音楽院では前例がないほどの大成功を収めます。フリエールは在学中に、院内ショパン・コンクールで優勝していたほか、ブラームスのパガニーニの主題による変奏曲や、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番でも優秀賞を得ていました
◆ モスクワ音楽院を卒業
◆ モスクワ音楽院大学院に進学
◆ イグムノフに師事

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 1935年/昭和10年 (22〜23歳)

◆ モスクワ音楽院大学院在学
◆ 2月17日から3月2日にかけてレニングラードで開催された第2回全ソ連ピアノ・コンクールで第1位獲得。2位:グリンベルク、ヴァイントラウブ、シチェメリノヴァ、3位:ザーク、オシポフ、ヴァインシェンケル、グレヴィチ。
◆ コンサート関連団体「モスクワ・フィルハーモニー協会」にソリストとして所属。ソ連各地での演奏が手配されるようになります
◆ イグムノフに師事

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 1936年/昭和11年 (23〜24歳)

◆ モスクワ音楽院大学院在学
◆ ウィーン国際音楽コンクール第1位
◆ イグムノフに師事
◆ 4月、ソ連政府、1ルーブル=4.25フランス・フランに設定。フランス・フランの切り下げにより


ソ連 / スターリン体制U(大粛清以降)

◆ レニングラード・フィルとラフマニノフ3番で共演。指揮はフリッツ・シュティードリー
◆ 8月、ニコライ・エジョフ[1895-1940]率いるNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)による「大粛清」の開始。多くの政府関係者と軍関係者を手早く処刑し、さらにそこに国民による爆発的な数の「密告」も加わって、2年間で60万人以上とも言われる膨大な犠牲者を生み出すことになります
◆ 11月、スターリン憲法制定。官僚制を強化

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 1937年/昭和12年 (24〜25歳)

◆ モスクワ音楽院大学院修了
◆ モスクワ音楽院にイグムノフ教授の助手として雇用
◆ ソ連名誉勲章授与
◆ 大粛清継続
◆ モスクワ放送でテレビ放送開始
◆ ソ連政府、通貨の基準を仏フランから米ドルに変更(フランスの金本位制離脱の為)。対米ドル相場は1米ドル=5.3ルーブルと決定

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 1938年/昭和13年 (25〜26歳)

◆ モスクワ音楽院助手
◆ イザイ国際コンクール第3位
◆ 8月、ベリヤがNKVDの議長代理に就任し、エジョフの権限を奪うことで大粛清終了。ベリヤはスターリンと同じくグルジア正教の家庭の出身
◆ 11月、ベリヤが内務人民委員に選出

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 1939年/昭和14年 (26〜27歳)

◆ モスクワ音楽院助教授
◆ 8月、モスクワで独ソ不可侵条約締結(秘密議定書では東欧分割も策定)
◆ 9月、ドイツとスロヴァキアがポーランドに侵攻(第2次大戦開戦)
◆ 9月、ソ連がポーランドに侵攻
◆ 10月、ポーランド降伏。ドイツとソ連に分割占領。。ソ連はウクライナとベラルーシに、領有したポーランドを割り振り、1941年7月のバルバロッサ作戦敗退までの約2年間、領有を継続
◆ 11月、ソ連がフィンランドに侵攻
◆ クリミア自治ソヴィエト社会主義共和国の人口は国勢調査により約112万6千人と発表。内訳は、ロシア人が49.6%(約55万8千人)、クリミア・タタール人が19.4%(約21万8千人)、ウクライナ人が13.7%(約15万4千人)、ユダヤ人が5.8%(約6万5千人)、ドイツ人が4.6%(約5万2千人)等

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 1940年/昭和15年 (27〜28歳)

◆ モスクワ音楽院助教授
◆ モスクワで編曲物によるコンサートを開催。第1部がバッハ、第2部がワーグナーからのピアノ編曲で構成。編曲作品は2流という当時一般的だった単純素朴な価値観への問題提起も含む公演でした。
◆ ポーランド東部を、ソ連が領有。ポーランド東部の人口は約1,350万人
◆ 2月、大粛清実行責任者エジョフとその部下たちが処刑
◆ 2月、メイエルホリド処刑
◆ 3月、フィンランドが敗北し、ソ連とモスクワ平和条約に調印。約42万人が住むカレリア地方などをソ連に割譲
◆ 5月、ドイツがオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻
◆ 7月、ドイツがイギリスを攻撃
◆ 8月、ソ連がバルト3国を併合
◆ ポーランドの内務大臣暗殺により1935年から終身刑でワルシャワの刑務所で服役していたウクライナの民族主義者、ステパン・バンデラ[1909-1959]をドイツ軍が釈放。バンデラはウクライナ民族主義者組織に戻ってリーダーとなります

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 1941年/昭和16年 (28〜29歳)

◆ モスクワ音楽院助教授
◆ 4月、ドイツがユーゴスラヴィアとギリシャに侵攻
◆ 6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻。「大祖国戦争」開戦
◆ 7月、1934年からレニングラード第一書記のジダーノフが同防衛委員会の責任者も兼務(1945年1月まで)

◆ 7月、レニングラードで食料配給制開始
◆ 7月、赤軍、ポーランドでドイツ軍に破れ撤収。ポーランド全土がドイツ領に
◆ 8月、ドイツがウクライナを占領。「帝国管区ウクライナ」とし、親衛隊が直接統治。西ウクライナでは、ナチス・ドイツを解放者として歓迎

◆ 9月、モスクワでショパン・リサイタルを開催
◆ 秋から軍の慰問演奏や戦地での演奏が増え終戦まで継続
◆ 9月、ウクライナの首都キエフのバビ・ヤールでユダヤ人など大量虐殺。虐殺実行部隊は約1,200人のウクライナ人と、約300人のドイツ人。29日と30日だけでキエフ市民のユダヤ人ら33,771人が殺害。その後も虐殺行為は続けられ、赤軍に解放される1943年11月までの2年間に計7〜12万人のユダヤ人、ロシア人、ウクライナ人、ロマなどが殺害
◆ 9月、ドイツなどによるレニングラードへの攻撃が開始。まずドイツが食糧貯蔵庫や燃料貯蔵庫を爆撃

◆ 10月、ドイツ軍がオデッサを占領し、エミール・ギレリスの最初の教師であるヤコフ・トカチも、多くのユダヤ人と同様に銃殺。
◆ 10月、レニングラードの水道、ガス、電気施設をドイツが攻撃
◆ 10月、ドイツによる爆撃でレニングラード市民の死者約6千人
◆ 10月、モスクワ攻防戦(翌年1月まで)。政府機能をクイビシェフに疎開(1944年まで)。多くの政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者が疎開するものの、市民の多くは残されていたため、ピアニストのマリア・ユージナなどは疎開せずに活動
◆ 11月、ドイツによる爆撃でレニングラード市民の死者約9千人
◆ 12月、レニングラード市民の餓死・凍死者約3万9千人
◆ 12月、ウクライナ民族主義者組織がウクライナで虐殺したユダヤ人の数が15万人から20万人に到達

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 1942年/昭和17年 (29〜30歳)

◆ モスクワ音楽院助教授
◆ 冬、フリエール、包囲下のレニングラードを訪れ、10回演奏


◆ 1月、ドイツの攻撃によりレニングラードの水道、暖房、電気が停止
◆ 1月、レニングラードの食料配給停止
◆ 1月、レニングラード市民の死者、餓死・凍死など約9万7千人
◆ 2月、レニングラード市民の死者、餓死・凍死など約9万6千人
◆ 4月、レニングラード市民の死者、餓死など6万4千人
◆ 4月、「ユダヤ反ファシスト委員会」設立。アメリカの投資家たちから莫大な資金を調達。その資金をソ連政府は戦費として使用
◆ 4月、ドイツ軍、占領下クリミアのユダヤ人ゼロを宣言。女性と子供、老人などを大量虐殺(男性の多くはソ連の兵役と労働で不在)
◆ 5月、レニングラード市民の死者、餓死など約5万人
◆ 6月、ソ連、石油パイプラインをラドガ湖の湖底に敷設しレニングラードへの供給を開始
◆ 6月、レニングラード市民の死者、餓死など約3万4千人
◆ 夏、ドイツによるレニングラード猛爆撃
◆ 10月、「ウクライナ蜂起軍」が結成。赤軍に対してもテロ活動を展開
◆ 「大祖国戦争」継続

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 1943年/昭和18年 (30〜31歳)

◆ モスクワ音楽院助教授
◆ 1月、赤軍、モスクワ攻防戦に勝利。市民の帰還開始


◆ 1月、赤軍がレニングラード包囲を突破
◆ 1月、赤軍によりスターリングラード解放
◆ 2月、レニングラードへの食料と燃料の配給再開
◆ 4月、ナチス・ドイツSS師団「ガリーツィエン」の募集開始。1か月半ほどでウクライナ人約8万人が集結する人気ぶり。12月から活動開始
◆ 夏、ドイツによるレニングラード猛爆撃
◆ 7月、ウクライナ民族主義者組織バンデラ派のミコラ・レベド率いる部隊が、ポーランドのヴォリンでポーランド人など3万5千〜6万人を虐殺し、東ガリツィアでは2万5千〜4万人を虐殺。レベドは戦後、アメリカ戦略情報局によりアメリカ本土に逃がされて放免となり1989年まで生存
◆ 8月、クルスクの戦いで赤軍、ドイツに勝利(モスクワの南約500キロ)
◆ 9月、スターリンとロシア正教会の首脳たちがクレムリンで会見を開き、教会宥和政策を発表、「戦闘的無神論者同盟」の解散も決定
◆ 「大祖国戦争」継続

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 1944年/昭和19年 (31〜32歳)

◆ モスクワ音楽院助教授
◆ 1月、赤軍によりレニングラード解放。レニングラード在住市民は約60万人
◆ 10月、赤軍、西ウクライナを解放
◆ 「大祖国戦争」継続

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 1945年/昭和20年 (32〜33歳)

◆ モスクワ音楽院助教授
◆ 年末、右手の調子がおかしくなり始め、薬指の動きが鈍くなる症状に見舞われます
◆ 5月、ドイツが無条件降伏。「大祖国戦争」終結。ソ連の勝利
◆ 8月、日本が無条件降伏
◆ ウクライナ民族主義者組織によるウクライナの町や村でのゲリラ戦が開始。1950年代半ばまで10年ほど継続

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 1946年/昭和21年 (33〜34歳)

◆ モスクワ音楽院助教授
◆ 3月、チャーチル首相がアメリカ訪問中、マスコミが注視する場で「鉄のカーテン」という言葉を使って演説。「鉄のカーテン」という言葉そのものは1918年のロシアで使われ始め、ナチス・ドイツのゲッベルスも使用していましたが、政治・マスコミ向けの本格的なプロパガンダ・ツールとなるきっかけはこの時の演説でした。以後、世界の莫大な税公金が東西両陣営のプロパガンダや軍需産業に注ぎ込まれることになります


◆ 労働赤旗勲章授与
◆ 9〜10月、オーストリア、ハンガリー公演。ツアーには神経病理学者のホロシュコ教授も同行して、フリエールと一緒にウィーンの名医を訪ねたりしますが、有効な治療法は見つかりませんでした。

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 1947年/昭和22年 (34〜35歳)

◆ ロシア共和国より名誉芸術家の称号を授与
◆ モスクワ音楽院教授に昇格
◆ 9月、コミンフォルム設立。スターリンに次ぐ存在でもあったアンドレイ・ジダーノフ[1896-1948]がスターリンの名のもとに組織したもので、ヨーロッパ各国の共産党との交流・調整を目的とし、アメリカのマーシャル・プランに対抗
◆ 12月、ソ連で通貨切り下げ実施。現金交換比率10分の1になるものの、賃金、年金などは1対1の交換比率で、国家小売価格も引き下げ。輸出優先体制継続のため為替レートはそのまま
◆ アメリカ戦略情報局、ウクライナ民族主義者と共同で「トライデント作戦」実施

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 1948年/昭和23年 (35〜36歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ 2月、ジダーノフ批判。西側コスモポリタニズムを批判し、文化全般についても社会主義リアリズムを重視した方針で統制することを宣言。もともとプロレタリア芸術から発展した社会主義リアリズム芸術は、反コスモポリタニズムの視点から反ユダヤ的な方向にも展開しやすく、文学、演劇、音楽、美術、映画などに影響力を持つこととなります


◆ 3月24日、恩師イグムノフ、モスクワで死去。74歳。ノヴォデヴィチ墓地に埋葬
◆ 4月、ソ連作曲家同盟の第1回総会が開催。前身は「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」。スターリンとジダーノフにより、34歳のフレンニコフ[1913-2007]が書記長に選出。以後、フレンニコフは43年間に渡ってその地位を守り続けました。


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 1949年/昭和24年 (36〜37歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ ソ連名誉勲章授与
◆ 8月24日、アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、カナダ、オランダ、ベルギー、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、ルクセンブルク、アイスランド、NATOに加盟(11か国)
◆ ソ連政府、反ユダヤ・キャンペーンを開始。新聞・雑誌などが大規模に参加。自国からの移民が多いイスラエルに対して大規模な支援を続けていたにも関わらず、イスラエルがアメリカ側についたため。イディッシュ語の文学や演劇に関わる作家や詩人、演出家、俳優などの多くが逮捕、ロシア人であってもコスモポリタン的な人物は同じく逮捕

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 1950年/昭和25年 (37〜38歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ 8月5日、ローザ・タマルキナ、ホジキンリンパ腫により発症から7年目で死去
◆ リュボフ・ニコラエヴナ・ミクラシェフスカヤ[1922-2006]と結婚


◆ 11月14日、息子アンドレイ・ヤコヴレヴィチ誕生。のちに文化学者として有名に。著作は350以上で、うち書籍が34冊
◆ 12月2日、ディヌ・リパッティ、ホジキンリンパ腫により発症から7年目で死去
◆ 3月、ソ連政府、通貨の基準をドルから金に変更。対米ドル相場は1米ドル=4ルーブルに決定

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 1951年/昭和26年 (38〜39歳)

◆ モスクワ音楽院教授

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 1952年/昭和27年 (39〜40歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ 2月18日、ギリシャ、トルコ、NATOに加盟(13か国)

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 1953年/昭和28年 (40〜41歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ 3月5日、スターリン死去


◆ 3月5日、プロコフィエフ死去


ソ連 / マレンコフ体制

◆ 3月、マレンコフがソ連最高指導者に選出
◆ 6月、ベルリンで反ソ連暴動
◆ 7月、ジューコフ元帥が戦車部隊2個師団を率いて国家保安省本部を占拠、ベリヤとカガノーヴィチを逮捕


ソ連 / フルシチョフ体制

◆ 9月、ソ連最高指導者、マレンコフからフルシチョフに交代
◆ 12月、ベリヤ処刑

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 1954年/昭和29年 (41〜42歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ 2月19日、フルシチョフの独断により、ロシアとウクライナの友好を記念するという名目でクリミア自治州の領有を、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国から、ウクライナ・ソヴィエト連邦社会主義共和国に変更

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 1955年/昭和30年 (42〜43歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ 5月8日、西ドイツ、NATOに加盟(14か国)

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 1956年/昭和31年 (43〜44歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ 2月、フルシチョフ、スターリン批判演説
◆ 6月、ポーランドのポズナニで反ソ暴動
◆ 10月、ハンガリー動乱

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 1957年/昭和32年 (44〜45歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ 8月、ソ連のR-7が発射に成功。世界初の大陸間弾道弾(ICBM)
◆ 10月、ソ連のスプートニク1号が地球軌道に乗り人工衛星に。世界初

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 1958年/昭和33年 (45〜46歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ 3月、ブルガーニン首相辞任、フルシチョフ独裁体制確立

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 1959年/昭和34年 (46〜47歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ 1月、キューバ革命
◆ 1月、ソ連のルナ1号が太陽軌道に乗り人口惑星に。世界初

◆ 9月、ソ連のルナ2号が月面に到着(衝突)。世界初
◆ 10月21日、ハリコフで復帰公演。困難な手術を経て、何か月にもわたるテクニック復元のための練習をおこなってのソロ公演
◆ 11月28日、モスクワでの復帰公演で大成功。プログラムはモーツァルトの幻想曲ハ短調、ブラームスのソナタ第3番、ショパン、スクリャービン、ドビュッシーなど。

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 1960年/昭和35年 (47〜48歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ この年から1970年までの10年間ほどは年間60〜70公演がおこなわれるようになり、まずウラル、シベリア、バルト三国、ウクライナ、ベラルーシ、コーカサスなど、ソ連各地をまわります。
◆ 5月1日、ソ連領土内深くに侵入していたアメリカ軍のU2型高高度偵察機が、地対空ミサイルS-75によって撃墜。


◆ 5月、エリザベート王妃国際音楽コンクール審査員として招聘
◆ エリザベート王妃国際音楽コンクールで特別演奏会を開催。リストの協奏曲、シューマンの交響的練習曲、ショパン、ドビュッシー、ラフマニノフ、カバレフスキーの作品を演奏して称賛され、これがきっかけで、以後、日本、イギリス、フランス、西ドイツ、オランダ、ベルギー、アメリカ、イタリア、ギリシャ、アイスランド、イスラエル、トルコ、東ドイツ、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ルーマニア、ブルガリア、ポーランドなど海外公演を数多く実施

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 1961年/昭和36年 (48〜49歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ 4月、ソ連、有人宇宙飛行に成功。世界初。
◆ 4月、ケネディ大統領がキューバ爆撃を指示、上陸作戦まで実施するものの失敗
◆ 7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定
◆ 8月、ホーネッカーの指揮でベルリンの壁建設開始
◆ 10月、フルシチョフ、第2次スターリン批判演説
◆ 初来日。東京、横浜、新潟などで演奏。

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 1962年/昭和37年 (49〜50歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ ロシア共和国より人民芸術家の称号を授与
◆ ヘルシンキ第8回青少年学生フェスティヴァル・ピアノ・コンクールに審査員として招聘。審査員長
◆ チャイコフスキー国際コンクールに審査員として招聘
◆ 10月、キューバ危機

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 1963年/昭和38年 (50〜51歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ 10月、ニューヨーク、シカゴ、ボストン、ワシントンなどをめぐるアメリカ・ツアーで、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルとラフマニノフのピアノ協奏曲第3番で4夜にわたって共演。リハーサルはバーンスタインのオフィスで2台のピアノを使用して入念におこなわれ、解釈が大きく異なるバーンスタインとの活発な議論を経て公演を成功に導いています。

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 1964年/昭和39年 (51〜52歳)

◆ モスクワ音楽院教授
◆ トルコ・ツアー実施。アンカラ、イズミル、イスタンブールで公演
◆ オレーホヴォ・ズイェヴォでベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を演奏。地元のアマチュア・オーケストラとの共演

ソ連 / ブレジネフ体制

◆ 10月、レオニード・ブレジネフが最高指導者に選出

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 1965年/昭和40年 (52〜53歳)

◆ モスクワ音楽院、ピアノ科主任教授
◆ 2月、ポ−ランド・ツアー実施
◆ 2〜3月、第7回ショパン国際ピアノコンクールに審査員として招聘。副審査員長。1位マルタ・アルゲリッチ(アルゼンチン)、2位アルトゥール・モレイラ・リーマ(ブラジル)、3位マルタ・ソシンスカ(ポーランド)、4位中村紘子(日本)
◆ 5月、新たに設立された「ベネデッティ・ミケランジェリ国際ピアノ・フェスティヴァル(ベルガモとブレーシャで開催)」に招かれ、ミケランジェリの要請でモーツァルトのピアノ協奏曲第21番を演奏
◆ レニングラード・フィルとモーツァルトのピアノ協奏曲第21番を演奏。指揮はクルト・ザンデルリング
◆ アテネで作曲者の指揮でハチャトゥリアンのピアノ協奏曲を演奏
◆ ソ連、ベトナム戦争で北ベトナムを支援

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 1966年/昭和41年 (53〜54歳)

◆ モスクワ音楽院、ピアノ科主任教授
◆ 2月、ソ連のルナ9号が月面に軟着陸。世界初
◆ ソ連政府より人民芸術家の称号を授与
◆ トルコ・ツアー実施。アンカラ、イズミル、イスタンブールで公演
◆ チャイコフスキー国際コンクールに審査員として招聘

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 1967年/昭和42年 (54〜55歳)

◆ モスクワ音楽院、ピアノ科主任教授
◆ 5月、「ベネデッティ・ミケランジェリ国際ピアノ・フェスティヴァル」のに招かれ、オープニングでショパン・プログラムを演奏
◆ レニングラード・フィルとラヴェルのピアノ協奏曲を演奏。指揮はキリル・コンドラシン
◆ 11月、日本公演

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 1968年/昭和43年 (55〜56歳)

◆ モスクワ音楽院、ピアノ科主任教授
◆ 8月、チェコ事件

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 1969年/昭和44年 (56〜57歳)

◆ モスクワ音楽院、ピアノ科主任教授

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 1970年/昭和45年 (57〜58歳)

◆ モスクワ音楽院、ピアノ科主任教授
◆ チャイコフスキー国際コンクールに審査員として招聘
◆ レニングラード・フィルとベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を演奏。指揮はユーリ・テミルカーノフ

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 1971年/昭和46年 (58〜59歳)

◆ モスクワ音楽院、ピアノ科主任教授
◆ 1月17日、フリエール、オレーホヴォ・ズイェヴォを訪れ協奏曲など演奏。
◆ 4月、ソ連サリュート1号が運用開始。世界初の宇宙ステーション

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 1972年/昭和47年 (59〜60歳)

◆ モスクワ音楽院、ピアノ科主任教授
◆ 5月、ニクソン大統領訪ソ
◆ 10月、日本公演
◆ 12月、ソ連マルス3号が火星に着陸。世界初

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 1973年/昭和48年 (60〜61歳)

◆ モスクワ音楽院、ピアノ科主任教授
◆ レニングラード・フィルハーモニック大ホールでソロ・リサイタル。モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンを演奏。

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 1974年/昭和49年 (61〜62歳)

◆ モスクワ音楽院、ピアノ科主任教授
◆ チャイコフスキー国際コンクールに審査員として出席
◆ 10月、オイストラフ最後のコンサートでの共演とその死
◆ ソ連が「ドルジバ・パイプライン」を完成。世界最大最長の石油パイプラインで、全長約8,900kmで、年間6,650万トンを輸出。北部ルートでは、ベラルーシ、ポーランド、ドイツ、ラトヴィア、リトアニアを通り、南部ルートでは、ウクライナ、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアを通過し、それぞれに通過料収入をもたらしていました

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 1975年/昭和50年 (62〜63歳)

◆ モスクワ音楽院、ピアノ科主任教授
◆ 8月9日、日中にクンツェヴォの病院に5日前から入院中のショスタコーヴィチを訪問。数時間後の18時30分にショスタコーヴィチは静かに死去。69歳でした

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 1976年/昭和51年 (63〜64歳)

◆ モスクワ音楽院、ピアノ科主任教授
◆ 6月28日、同僚のヤコフ・ザーク、死去

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 1977年/昭和52年 (64〜65歳)

◆ モスクワ音楽院、ピアノ科主任教授
◆ 翌年開催の第6回チャイコフスキー国際コンクールのピアノ審査員長に任命
◆ 12月18日、モスクワで重度の心臓疾患により死去。葬儀はコンドラシン指揮モスクワ・フィルが演奏をおこなうなど豪華なものでした。
◆ モスクワのクンツェヴォ墓地に埋葬。モスクワ中心部から西南西に約28キロの同墓地には音楽家や作家も数多く埋葬。前年6月に亡くなったヤコフ・ザークの墓もあり、翌年7月にはマリヤ・グリンベルクも埋葬されています。


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 年表付き商品説明ページ一覧

【バロック作曲家(生年順)】

カッツァーティ [1616-1678]
ルイ・クープラン [1626-1661]
ダンドリュー [1682-1738]
【古典派&ロマン派作曲家(生年順)】

モンジュルー [1764-1836] (ピアノ系)
ベートーヴェン [1770-1827]
ジャダン [1776-1800] (ピアノ系)
リース [1784-1838]

【近現代作曲家(生年順)】

レーバイ [1880-1953] (ギター系)
ショスタコーヴィチ [1906-1975]
ラングレー [1907-1991] (オルガン系)
アンダーソン [1908-1975]
デュアルテ [1919-2004] (ギター系)
ヘンツェ [1926-2012]
坂本龍一 [1952-2023]
【指揮者(ドイツ・オーストリア)】

アーベントロート (ベートーヴェンシューマンブルックナーブラームスモーツァルトチャイコハイドン)
エッシェンバッハ
カラヤン
クナッパーツブッシュ (ウィーン・フィルベルリン・フィルミュンヘン・フィル国立歌劇場管レジェンダリー)
クラウス
クリップス
クレンペラー (VOX&ライヴザルツブルク・ライヴVENIASボックス
サヴァリッシュ
シューリヒト
スイトナー (ドヴォルザークレジェンダリー)
フルトヴェングラー
ベーム
メルツェンドルファー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー (ブルックナーマーラーヨーロッパドイツ)
ロスバウト
【指揮者(ロシア・ソ連)】

ガウク
クーセヴィツキー
ゴロワノフ
ペトレンコ
マルケヴィチ
【指揮者(アメリカ)】

クーチャー(クチャル)
スラトキン(父)
ドラゴン
バーンスタイン
フェネル
【指揮者(オランダ)】

オッテルロー
クイケン
ベイヌム
メンゲルベルク
【指揮者(フランス)】

パレー
モントゥー
【指揮者(ハンガリー)】

セル
ドラティ
【指揮者(スペイン)】

アルヘンタ
【指揮者(スイス)】

アンセルメ
【指揮者(ポーランド)】

クレツキ
【指揮者(チェコ)】

ターリヒ
【指揮者(ルーマニア)】

チェリビダッケ
【指揮者(イタリア)】

トスカニーニ
【指揮者(イギリス)】


バルビローリ
【指揮者(ギリシャ)】

ミトロプーロス
【鍵盤楽器奏者(楽器別・生国別)】

【ピアノ(ロシア・ソ連)】

ヴェデルニコフ
グリンベルク
ソフロニツキー
タマルキナ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
フェインベルク
フリエール
モイセイヴィチ
ユージナ
【ピアノ(フランス)】

カサドシュ
ティッサン=ヴァランタン
ハスキル
ロン
【ピアノ(ドイツ・オーストリア)】

キルシュネライト
シュナーベル
デムス
ナイ
【ピアノ(南米)】

タリアフェロ
ノヴァエス
【チェンバロ】

ヴァレンティ
カークパトリック
ランドフスカ
【弦楽器奏者(楽器別・五十音順)】

【ヴァイオリン】

オイストラフ
コーガン
スポールディング
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヘムシング
リッチ
レビン
【チェロ】

カサド
シュタルケル
デュ・プレ
ヤニグロ
ロストロポーヴィチ
【管楽器奏者】

【クラリネット】

マンツ

【ファゴット】

デルヴォー(ダルティガロング)
【オーボエ】

モワネ
【歌手】

ド・ビーク (メゾソプラノ)
【室内アンサンブル(編成別・五十音順)】

【三重奏団】

パスキエ・トリオ
【ピアノ四重奏団】

フォーレ四重奏団
【弦楽四重奏団】

グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
ズスケ四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
フランスの伝説の弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団

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