マイケル・レビンの芸術(14CD)
誰よりも鮮やかなテクニックで同時代の大物ヴァイオリニストたちからも称賛されたマイケル・レビンの録音を集めたセットが英スクリベンダムから登場。
14歳になったばかりの時にフランチェスカッティの熱烈な要請で米COLUMBIAに録音されたパガニーニから、最愛の恋人の勤め先ともなったニューヨークのクラシック・ラジオ局WQXRでの1970年のパガニーニまで、定評あるセッション録音と、熱気のあるライヴ録音や放送録音など、レビンの短くも激動の生涯に、演奏を通じて触れることのできる内容となっています。
神童から超絶技巧ヴァイオリニストへ
幼い頃から驚異的な記憶力と絶対音感の持ち主で、6歳でピアノを習い始めたものの、7歳でヴァイオリンに転向するとすぐに上達、ニューヨーク・フィル第1ヴァイオリン奏者の父が教えることは数か月でクリアしてしまい、そこでガラミアンに教わるようになるものの、教わったことを徹底的に体に覚えさせたのは母ジーンの超絶スパルタ教育の功績でした。ピアノの神童と目された長男を7歳で猩紅熱で失ったこともあってか、母の教育ぶりはまさに鬼神のようだったということで、おかげでレビンは3年ほどでプロのヴァイオリニストも羨むテクニックを習得。
以後も、技巧とフォルムの関係が崩れることなく、誰よりも腕前が進化し、フランチェスカッティやシゲティ、エルマン、オイストラフ、スターンといった大物たちも惜しみない称賛を与えていました。
特に、「パガニーニ弾き」として知られたフランチェスカッティは、13歳のレビンの弾くパガニーニのカプリースに驚き、その場で米コロンビアに電話してオーディションとレコーディングの手配を依頼し、以後も、レビンを世に出すために尽力。コロンビア・アーティスツのアーサー・ジャドソンを紹介して演奏会を任せ、当時の人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演する話を紹介したりもしていました。
また、ニューヨーク・フィルの指揮者だったロジンスキーもレビンのことをよく知っており、同じく13歳の時にキューバ公演に連れて行って共演、レビン初の海外公演を体験させてもいます。
そして14歳でカーネギー・ホールでリサイタル・デビューして成功を収め、15歳の時にはミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィルと2週間で56回のコンサートをこなし、途中楽器が壊れるという超ハードなスケジュールも体験。
以後、1962年秋に不調に陥るまで、11年間に渡って世界を舞台に活躍することになります。
ガラスのハート
不調の原因はいくつもあったようですが、コンサートが終わってレセプションにも出席し、数時間後には始発電車で移動といったことも珍しくなかったという無茶なスケジュールが睡眠障害を引き起こし、それがいろいろな不調の要因になった可能性があります。レビンの神経はそうした環境には繊細過ぎ、やがてステージから床に落ちてしまうのではないかという不安に襲われる舞台恐怖症の症状も現れ始め、また、過食に陥ったりもしたため、睡眠薬や食欲抑制剤の服用で対処しますが、ペースと量がエスカレートしてしまい、長期に渡って決まっていた数多くの演奏契約がすべてキャンセルとなり、入院する事態にまで悪化したのが1963年の初めのことでした。長年コンサートに同行し、演奏会が大成功でもガミガミと四六時中まくしたてていた母からのストレスの存在も大きかったようです。
幸い入院が短期間で済み、母と別居することで3か月ほどで演奏技術も含めて回復していますが、長期間の契約をキャンセルした影響は大きく、信頼回復までには数年を要しています。
ちなみに同じくアメリカ国内ツアーのスケジュールが過酷だったとこぼしていたフランチェスカッティに対して、レビンは不安をどうやって乗り越えるのか質問したところ、良いブイヤベースとワインがあればなんとか乗り切れるという、いかにも陽気なフランチェスカッティらしい返事で、あまり参考にならなかったというエピソードもあったようです。
レコーディング契約の不運
1958年6月、EMIとの契約更新の際に、当時イギリスが苦手だったレビンがEMIを蹴って、アメリカのキャピトル・レコードを選んでいたことがアダとなっていました。EMIが傘下のキャピトルと関係が悪化した際には、キャピトルで予定されていたレビンのアルバム録音が、EMIの委員会承認済みにも関わらず中止されており、さらに1961年には、キャピトル・レコードでのクラシック部門の活動そのものが停止となっています。
その後、ドイツ・グラモフォンとデッカは、契約に乗り気だったものの、肝心のレビンの側に熱意と業界常識のようなものが欠けていたため、結局、話がうまく進められることはありませんでした。
レビンは何歳になっても練習の虫で、最後まで超絶技巧は保たれていたので、なんとももったいない話です。
収録情報
各曲の録音データをクリック(タップ)すると、年表の該当部分にジャンプします。どんな出来事かあった頃か、確認するのにも便利です。
CD1
●パガニーニ:24のカプリース Op.1
第1番 ホ長調 Op.1-1
第2番 変ロ短調 Op.1-2
第3番 ホ短調 Op.1-3
第4番 ハ短調 Op.1-4
第5番 イ短調 Op.1-5
第6番 ト短調 Op.1-6
第7番 イ短調 Op.1-7
第8番 変ホ長調 Op.1-8
第9番 ホ長調 Op.1-9
第10番 ト短調 Op.1-10
第11番 ハ長調 Op.1-11
第12番 変イ長調 Op.1-12
第13番 変ロ長調 Op.1-13
第14番 変ホ長調 Op.1-4
第15番 ホ短調 Op.1-15
第16番 ト短調 Op.1-16
第17番 変ホ長調 Op.1-17
第18番 ハ長調 Op.1-18
第19番 変ホ長調 Op.1-19
第20番 ニ長調 Op.1-20
第21番 イ長調 Op.1-21
第22番 へ長調 Op.1-22
第23番 変ホ長調 Op.1-23
第24番 イ短調 Op.1-24
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
録音:1958年9月5-8日、ニューヨーク、キャピトル46丁目スタジオ、スタジオA
CD2
●ドヴォルザーク:スラブ舞曲 ホ短調 Op.72 No.2 (編曲:クライスラー)
●エンゲル:「貝殻」(編曲:ジンバリスト)
●クロール:「バンジョーとフィドル」
●ヴィエニャフスキ:「エチュード=カプリース」イ短調 Op.18 No.4 (編曲:クライスラー)
●ビゼー (サラサーテ):「カルメン幻想曲」Op.25 〜「終曲」
●クライスラー:「狩り」
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
アルトゥール・バルサム(ピアノ)
録音: 1952年3月、ニューヨーク、コロンビア30丁目スタジオ
●ドビュッシー:「レントより遅く」(編曲:ロケ)
●ラヴェル:「ハバネラ形式の小品」
●サラサーテ:「サパテアード」イ長調 Op.23 No.2
●サラサーテ:「ハバネラ」ニ短調 Op.21 No.2
●ショパン:夜想曲第8番 変ニ長調 Op.27 No.2 (編曲:ヴィルヘルミ)
●モンポウ:「庭の乙女たち」(編曲:シゲティ)
●プロコフィエフ:「3つのオレンジへの恋」〜行進曲 (編曲:ハイフェッツ)
●スーク:「ブルレスカ」Op.17-4
●スクリャービン: エチュード 変ニ長調 Op.8 No.10 (編曲:シゲティ)
●エルガー:「気まぐれ女」Op.17
●エンゲル:「貝殻」(編曲:ジンバリスト)
●ヴィエニャフスキ:「エチュード=カプリース」イ短調 Op.18 No.4 (編曲:クライスラー)
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
レオン・ポマース(ピアノ)
録音: 1959年3〜4月、ニューヨーク、キャピトル46丁目スタジオ、スタジオA (stereo)
●ノヴァチェク:「常動曲」
●パガニーニ:「無窮動」Op.11 (編曲:クライスラー)
●サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン Op.20 No.1
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
コロンビア交響楽団
ドナルド・ヴォーヒーズ(指揮)
録音:1953年1月29日、ニューヨーク、コロンビア30丁目スタジオ
CD3
●クロール:「バンジョーとフィドル」
●ヴィエニャフスキ:エチュード=カプリース イ短調 Op.18 No.4 (編曲:クライスラー)
●チャイコフスキー:「なつかしい土地の思い出」より「瞑想曲」Op.42 No.1
●チャイコフスキー:「アンダンテ・カンタービレ」
●サラサーテ:「カルメン幻想曲」Op.25〜「終曲」
●サラサーテ:「マラゲーニャ」ニ長調 Op.21 No.1
●サラサーテ:「ハバネラ」Op.21 No.2
●サラサーテ:「スペイン舞曲集」Op.23〜第2番「サパテアード』
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
ローター・ブロダック(ピアノ)
録音:1969年6月12日、RIAS Radio, Studio Lankwitz, Berlin (Stereo)
●クライスラー:「ウィーン奇想曲」 Op.2
●ディニク:「ホラ・スタッカート」(編曲:ハイフェッツ)
●マスネ:「タイスの瞑想曲」
●サラサーテ:「ツィゴイネルワイゼン」Op.20 No.1
●パガニーニ:「無窮動」Op.11 (編曲:クライスラー)
●ブランドル:「オールド・リフレイン」(編曲:クライスラー)
●リムスキー・コルサコフ:「熊蜂の飛行」
●サン・サーンス:「序奏とロンド・カプリチオーソ」Op.28
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
ハリウッド・ボウル交響楽団
フェリックス・スラトキン(指揮)
録音: 1959年9月10-11日、ハリウッド、キャピトル・スタジオ
CD4
●バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ長調 BWV 1005
●イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 Op.27 No.3
●イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第4番 ホ短調 Op.27 No.4
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
録音:1955年9月30日、ニューヨーク、キャピトル46丁目スタジオ、スタジオA
●フォーレ:ヴァイオリン・ソナタ 第1番 イ長調 Op.13
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
ローター・ブロダック(ピアノ)
録音:1961年10月17日、ベルリン(ライヴ)
●サン・サーンス:「ハバネラ」Op.83
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
ローター・ブロダック(ピアノ)
録音:1962年10月30日、ベルリン(ライヴ)
CD5
●パガニーニ:「24のカプリース」より
第1番 ホ長調 Op.1-1
第5番 イ短調 Op.1-5
第9番 ホ長調 Op.1-9
第11番 ハ長調 Op.1-11
第13番 変ロ長調 Op.1-13
第16番 ト短調 Op.1-16
第18番 ハ長調 Op.1-18
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
録音:1950年5月19日、ニューヨーク、コロンビア30丁目スタジオ
●サン・サーンス:「序奏とロンド・カプリチオーソ」Op.28
●サン・サーンス:「ハバネラ」Op.83
●チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
フィルハーモニア管弦楽団
アルチェオ・ガリエラ(指揮)
録音: 1956年6月11-13日、ロンドン、ホーンジー・タウン・ホール
CD6
●パガニーニ:「24のカプリース」より
第14番 変ホ長調 Op.1-4
第17番 変ホ長調 Op.1-17
第21番 イ長調 Op.1-21
第24番 イ短調 Op.1-24
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
録音:1950年5月25日、ニューヨーク、コロンビア30丁目スタジオ
●パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 Op.6
●グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op.82
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
フィルハーモニア管弦楽団
ロヴロ・フォン・マタチッチ(指揮)
録音:1954年12月、ロンドン、キングズウェイ・ホール
CD7
●メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64
●ヴィエニャフスキ:ヴァイオリン協奏曲第1番 嬰へ短調 Op.14
●ブルッフ:「スコットランド幻想曲」Op.46
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
フィルハーモニア管弦楽団
エードリアン・ボールト(指揮)
録音:1957年1月、ロンドン、ウォルサムストウ・タウン・ホール
CD8
●ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第8番 ト長調 Op.30
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
ローター・ブロダック(ピアノ)
録音: 1962年10月30日、ベルリン(ライヴ)
●ラヴェル:「ツィガーヌ」
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
フィルハーモニア管弦楽団
エードリアン・ボールト(指揮)
録音:1957年1月1日、ロンドン、ウォルサムストウ・タウン・ホール
●パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 Op.6
●ヴィエニャフスキ:ヴァイオリン協奏曲第2番 ニ短調 Op.22
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
フィルハーモニア管弦楽団
ユージン・グーセンス(指揮)
録音:1960年5月、ロンドン、アビーロード第1スタジオ
CD9
●ヴィエニャフスキ:「華麗なるポロネーズ」ニ長調 Op.4
●サン・サーンス:「序奏とロンド・カプリチオーソ」Op.28(編曲:イザイ)
●パガニーニ:「24のカプリース」より
第21番 イ長調 Op.1-21
第11番 ハ長調 Op.1-11
第16番 ト短調 Op.1-16
●スクリャービン:エチュード 変ニ長調 Op.8 No.10 (編曲:シゲティ)
●ゴドフスキー:「懐かしきウィーン」(編曲:ハイフェッツ)
●クライスラー:「中国の太鼓」Op.3
●ラヴェル:「ツィガーヌ」
●チャイコフスキー:「秋の歌」Op.37b No.10
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
レイモンド・ランバート(ピアノ/パガニーニ以外)
録音:1952年7月、シドニー、タウン・ホール(ライヴ)
●ミヨー:「ブラジルの郷愁」より第8番 「ティジューカ」
●シマノフスキ:「神話」Op.30より「アレトゥーサの泉」
●アルバート・スポールディング:無伴奏ヴァイオリンのためのトンボー
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
ローター・ブロダック(ピアノ/パスポールディング以外)
録音: 1962年10月30日、ベルリン(ライヴ)
●イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 Op.27 No.3
●パガニーニ:「24のカプリース」より
第5番 イ短調 Op.1-5
第9番 ホ長調 Op.1-9
第13番 変ロ長調 Op.1-13
第14番 変ホ長調 Op.1-4
第17番 変ホ長調 Op.1-17
第24番 イ短調 Op.1-24
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
録音:1961年10月17日、ベルリン(ライヴ)
CD10
●パガニーニ:「24のカプリース」より
第17番 変ホ長調 Op.1-17
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
録音:1950年8月7日(ライヴ) (ベル・テレフォン・アワー)
●ブラームス:「瞑想」(編曲:ハイフェッツ)
●クライスラー:「ウィーン奇想曲」 Op.2
●サン・サーンス:「序奏とロンド・カプリチオーソ」Op.28
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
ベル・テレフォン・アワー管弦楽団
ドナルド・ヴォーヒーズ(指揮)
録音:1951年12月17日(ライヴ)
●バッハ:2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調BWV.1043より第1楽章
ジノ・フランチェスカッティ(ヴァイオリン)
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
ベル・テレフォン・アワー管弦楽団
ドナルド・ヴォーヒーズ(指揮)
録音:1952年4月28日(ライヴ)
●メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64より第3楽章
●マスネ:「エレジー」
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
ベル・テレフォン・アワー管弦楽団
ドナルド・ヴォーヒーズ(指揮)
録音:1955年5月16日(ライヴ)
●エンゲル:「貝殻」 (編曲:ジンバリスト)
●メンデルスゾーン:無言歌「甘い思い出」Op.19/1 (編曲:ハイフェッツ)
●プロコフィエフ:「3つのオレンジへの恋」より「行進曲」 (編曲:ハイフェッツ)
サン・サーンス:「ワルツ形式の練習曲による奇想曲」Op.52 No.6
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
ベル・テレフォン・アワー管弦楽団
ドナルド・ヴォーヒーズ(指揮)
録音: 1956年6月18日(ライヴ)
●ポール・クレストン(1906-1985):ヴァイオリン協奏曲第2番 Op.78
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
リトル・オーケストラ・ソサエティ
トマス・シャーマン(指揮)
録音: 1962年3月19日、ニューヨーク、タウン・ホール (ライヴ)
CD11
●チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
オスロ・フィルハーモニー管弦楽団
エイヴィン・フィエルスタート(指揮)
録音: 1964年10月29日(ライヴ)
●グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op.82
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
チューリヒ・ベロミュンスター放送管弦楽団
エーリヒ・シュミット(指揮)
録音:1968年3月3日(ライヴ)
●ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調 Op.26
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
ベルリン放送交響楽団
トーマス・シッパース(指揮)
録音:1969年6月15&17日、ベルリン、フィルハーモニーザール(ライヴ)
CD12
●ヴィエニャフスキ:ヴァイオリン協奏曲第1番 嬰へ短調 Op.14
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
ニューヨーク・ナショナル・オーケストラ・アソシエーション
チャールズ・ブラックマン(指揮)
録音:1950年4月7日、ニューヨーク、カーネギー・ホール(ライヴ)
●モーハウプト:ヴァイオリン協奏曲
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
ニューヨーク・フィルハーモニック
ディミトリ・ミトロプーロス(指揮)
録音:1954年4月29日、ニューヨーク、カーネギー・ホール(ライヴ)
●ヴィエニャフスキ:ヴァイオリン協奏曲第1番 嬰へ短調 Op.14より第1楽章
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
ロサンジェルス・フィルハーモニック
アルフレッド・ウォーレンスタイン(指揮)
録音: 1953年 (ライヴ) (スタンダード・アワー)
CD13
●モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番 ニ長調 K.218
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
デンヴァー交響楽団
ソール・カースタン(指揮)
録音:1960年2月9日 (ライヴ)
●クレストン:ヴァイオリン協奏曲第2番 Op.78
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団
ゲオルク・ショルティ(指揮)
録音:1960年11月17日 (世界初演ライヴ)
●パガニーニ:24のカプリースより
第9番 ホ長調 Op.1-9
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
録音:1970年1月20日、WQXR Radio, The Listening Room, New York
CD14
●ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
シカゴ交響楽団
ラファエル・クーベリック(指揮)
録音:1967年8月3日、ハイランドパーク、ラヴィニア・フェスティヴァル・パヴィリオン(ライヴ)
●プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第2番 ト短調 Op.63
マイケル・レビン(ヴァイオリン)
シカゴ交響楽団
アンドレ・ヴァンデルノート(指揮)
録音:1968年7月、ハイランドパーク、ラヴィニア・フェスティヴァル・パヴィリオン(ライヴ)
前史
ルーマニアとロシアのファミリー
父ジョージはルーマニア移民の子
マイケル・レビンの父、ジョージ・ラビノウィッツは、ユダヤ系ルーマニア移民の子で、1898年にニューヨークで誕生。姓のラビノウィッツはのちにレビン(ラビン)に短縮。
ルーマニア独立とユダヤ人
その20年前の1878年には、ロシア帝国とオスマン帝国の間で約1年間続いていた戦争が終わり、ロシア帝国側で戦っていたルーマニアは、ベルリン条約によって、オスマン帝国からの独立が承認。
19世紀なかばのルーマニアの人口は約750万人で、ユダヤ人は3.3%の約25万人でしたが、都市部では人口の15%、ヤシ市(チェリビダッケの生地)では人口の42%に達するなど、イディッシュ語の使用も含めて目立つ存在となり、その頃から、数多くの反ユダヤ法制定が開始。教育や職業が大幅に制限されたり、地方で借地管理を担って農民たちの反感を買っていた多くのユダヤ人の強制的な移住や、都市在住ユダヤ人活動家らの追放なども実施。
反ユダヤ政策によるアメリカなどへの移民の増加
社会環境の反ユダヤ化を嫌って外国への移民も増え始め、19世紀と20世紀を跨ぐ6年間ほどで約7万人が移民したとされています。ジョージの両親も、そうしてアメリカに渡ってきた移民でした(一方でロシア帝国などからルーマニアへのユダヤ人流入は増加)。
ラビノウィッツ兄弟から、プロ演奏家2人と、ピアノ・トリオなどが誕生
ニューヨークに到着したラビノウィッツ家では、子供たちに楽器を習わせ、ジョージはヴァイオリン、姉のクララはピアノを本格的に学ぶ一方で、兄弟のジャンはチェロ、ローズはヴァイオリン、グレースがピアノを弾いて「ラビノウィッツ・ピアノ・トリオ」としてリサイタルや放送番組に出演、3人はやがて一般の仕事に就きますが、その後も夏には集まって演奏活動を継続。
末子のノーマンもヴァイオリンを学び、会計士になったのちも、副業として演奏を続けています。
一方、姉クララはプロのピアニストとして活動を続け、ジョージもデトロイト交響楽団の第1ヴァイオリン奏者として契約に至るなど順調なスタートでした。
第1次大戦と超強力インフルエンザ
1914年7月から1918年11月まで4年4か月続いた第1次大戦ですが、アメリカは、独墺側にも、英仏側にも投資や貿易をおこなっていたことから、参戦を遅らせる必要があり、宣戦布告は1917年4月のことでした。当時の職業軍人から成るアメリカ正規軍の規模は約13万人と小規模なもので、これを徴兵によって拡大する必要があり、終戦までにのべ480万人ほどが動員されています。
徴兵には3か月ほどの訓練が必要で、さらに大人数の将兵や、兵器、補給物資の輸送手段である船舶の確保に加え、受け入れ港湾側の整備の問題もあり、本格的な派兵の開始時期は、1918年2月にまでずれ込んでいます。
翌3月にはカンザス州のファンストン陸軍基地で、のちに「スペインかぜ」と呼ばれることになる超強力インフルエンザの第1波が発生。大規模な派兵の開始時期とタイミングが合ってしまったことで、大量のウィルスが欧州にも伝播。
この超強力インフルエンザは、財務省が発行した膨大な戦時公債の宣伝活動でも大きく感染が拡大。
約320億ドル(GNPの半分ほど)の戦費を賄うためには、増税だけではとても追い付かず、財源確保のために戦時自由公債を大量に発行して金額を伸ばすため、通常よりも利率の良いことや、愛国心に訴求する告知をおこなう必要があり、全米各地で、愛国的なパレードやスポーツ、音楽など大勢の人間を集めるイベントを頻繁に実施。
さらに遠征したアメリカ軍とヨーロッパの自治体や民間人との交流も盛んだったので、感染が一気に拡大して世界規模となり、やがて死者の累計が数千万人という大惨事に発展しています。
徴兵と訓練、インフルエンザ罹患
1918年8月、ついにジョージも徴兵され、激戦の西部戦線の交代要員として編成された陸軍第84師団への配属が決定。10月のフランス配備に向け、国内の陸軍キャンプで訓練を開始しています。
しかしそのさなか、超強力インフルエンザに罹患して倒れ、両方の肺が細菌性肺炎となって重篤な状態に陥ったため、ニューヨーク、ブロンクスの陸軍病院に転院。
第1次大戦中の死者数
経済への配慮や他国との調整もあって、実際にアメリカ軍が前線にまで大規模派兵したのは、参戦各国の疲弊が限界近くに達していた戦争末期の6か月ほどだったので、犠牲者数は、戦闘死者が約5万人、インフルエンザなど戦闘外死者が約6万人という数字になっています。半世紀前に民主党陣営が奴隷制を維持するために引き起こした「南北戦争」では、民間人を含む4年間の死者総数は90万人以上とも言われていたので、それに較べればはるかに被害が小さいので、あくまでもアメリカ経済を優先した戦争政策だったと言えるのかもしれません。
ちなみに第1次大戦中のドイツ軍死者は約205万人、オーストリア軍が約110万人、オスマン軍が約77万人、イギリス軍が約111万人、フランス軍が約140万人となっています。
父ジョージの入院中に戦争終了
そうした短期間の参戦だったため、ジョージの入院中の11月には休戦協定が調印。同行するはずだった第84師団はすでにフランスに到着して前線将兵との交代準備をしていましたが、休戦によりそのまま帰還となり、ジョージともども激戦の西部戦線前線に行かずに済んだのは幸運でした。
闘病で激やせして体重約40sで退院となったジョージは自宅に戻りますが、体力が落ちた状態で、約1,000キロ離れたデトロイトで1人で新たに生活を始めることに不安があったのと、自宅から通えるニューヨークのナショナル交響楽団の第1ヴァイオリン奏者に空きができたため、デトロイト交響楽団との契約をキャンセル。
メンゲルベルク率いるナショナル交響楽団は、1921年にニューヨーク・フィルによって吸収合併され、メンゲルベルクはその後、1930年までニューヨーク・フィル音楽監督を務めています。
母ジーンはロシア移民
マイケル・レビンの母ジーン(ジャンヌとも)は、ユダヤ系ロシア移民。ロシア帝国で資産家の財産管理などを仕事としていた裕福なシードマン家の4人兄弟の末っ子として1900年に誕生。シードマン家はその後、ロシア各地でのポグロムの発生を警戒し、1907年にアメリカに移民。まずフィラデルフィアに居を定め、同地で靴の仕事で成功したのち、ニューヨーク、マンハッタンの豪華な住居に移り住んでいました。
ジーンはジュリアード音楽院の前身である「音楽芸術研究所(インスティテュート・オブ・ミュージカル・アート)」のピアノ科に1915年に入学し、1920年6月にレギュラー・ピアノ・コースを修了、その後、2年後の1923年にはピアノ・アーティスツ・コースも修了して6月に卒業。卒業後はピアノの個人レッスンなどをおこなっていました。
なお、ジーンより11歳年長の姉サラは、1918年に超強力インフルエンザに罹患し、医師の夫と4歳の息子を残して亡くなっています。
ジョージとジーン、結婚
ジョージとジーンが出会ったのは1921年、ニューヨークの地下鉄でのこと。第1次大戦のおかげで空前の好景気となったアメリカは、黄金の1920年代と言われる時代に突入。地下鉄も清潔で安全な市民の足でした。
オーケストラの仕事から帰宅途中のジョージは、地下鉄で音楽学生のジーンと知り合い、音楽の話をきっかけに交際が開始、2年後の1923年には、ジーンの卒業を機に結婚に至っています。
新婚のジョージとジーンは、ニューヨーク、ウェストエンド・アヴェニューに1916年に建設された13階建てアパートに部屋を借り、新たな生活をスタート。
第1子ジェイ
翌1924年12月には第1子ジェイが誕生。ジェイはピアノの個人教師でもある母ジーンから本格的にピアノを教えられ、早くから才能を示して神童と呼ばれていましたが、1932年2月、7歳の時に猩紅熱で亡くなっています。
その3年前の1929年にはジーンの父マイケル・ジョセフが亡くなっており、ジェイの死の翌年、1933年7月には、ジーンの母バーサも死去。
第2子バーティン
翌1934年2月、ジーンは第2子を出産。前年に亡くなったジーンの母バーサ(ベルタとも)の名前を変化させたバーティン(ベルティーヌとも)と命名。ジーンはバーティンにも自分でピアノを教えています。
年表
1936年(0歳)
●5月2日、マイケル・ジョセフ・ラビノウィッツ、ニューヨークのマンハッタンで誕生。マイケル・ジョセフという名前は、1929年に亡くなった母ジーンの父親マイケル・ジョセフの名をそのまま付けたもので、ラビノウィッツという長い姓は、1939年頃にレビンと短縮して改名しています。
レビンの両親は、結婚した1923年にニューヨークのウェストエンド・アヴェニューの13階建てアパートの5階に部屋を借りています。ニューヨーク・フィル第1ヴァイオリン奏者のジョージが25歳、ピアノ個人教師のジーンが23歳でしたが、アパートはハドソン川とセントラル・パークの間にあるマンハッタンの優良立地ながら、居間と食堂はそれぞれ20フィートあるなど広さも十分。
以後、近所に数多く住むニューヨーク・フィルの父の同僚たちや、母ジーンの音楽仲間たちが集まる場所として昼も夜も賑やかな状態が続いていました。
ラビノウィッツ家が、皆が食べたり飲んだり演奏したりする集会所のようになった最大の理由としては、母ジーンの明るく世話好きな性格と、料理のうまさ、ピアノのうまさといった要素に加え、父ジョージの穏やかな人づきあいの良さが、滞在時の居心地の良さに繋がっていたと考えられます。
レビンの生まれ育った環境は、そうした恵まれたものでした。
1937年(0〜1歳)
●レビン、家族と共にバルビローリ時代のニューヨーク・フィルのクリスマス・パーティーに参加。
1938年(1〜2歳)
1939年(2〜3歳)
●ジョージ・ラビノウィッツ、姓をレビンと短縮して改名。ちなみにジョージの姉でピアニストのクララは、ラビノウィッツをラビノウィッチに、弟のノーマンはラビノウィッツをロビンズに変更しています。
●レビン、車のクラクションや都会のいろいろな音を音程で示し、絶対音感があることを示唆します。
1940年(3〜4歳)
●姉バーティン、母からピアノの指導を受け始めます。
1941年(4〜5歳)
●11月、ガラミアン、ジュディス・ジョンソンと結婚。
1942年(5〜6歳)
●レビン、母からピアノの指導を受け始めます。
1943年(6〜7歳)
●レビン、母の主催する合同発表会でバッハのメヌエットとクレメンティのソナタなどを演奏。
●レビン、両親の友人の医師ウィリー・スピルバーグの家に家族で遊びに行った時にハーフ・サイズのヴァイオリンを見つけて気に入り、帰り際になっても離さなかったため、スピルバーグはレビンに楽器を与えます。
帰宅後、父は楽器を補強し、新しい弦を新しい駒にかけてさっそくレッスンを開始します。レビン家では、母がピアノ教師であることから、子供が習う楽器は3人ともピアノと決められていたので、これはレビンだけでなく、穏やかな父にとっても嬉しい展開だったようです。もっとも、父がレッスンをおこなえるのは、ニューヨーク・フィルのシーズン中は、本番とリハーサルが無い日ということで、さらに母もピアノの勉強をやめることをすぐには許さなかったため、レビンはしばらくは、ピアノとヴァイオリン、両方のレッスンを受けることになります。
1944年(7〜8歳)
●レビンがヴァイオリンの天才であることが判明。父ジョージのレッスンが始まって数か月で、レビンは父が教えられることを超えてしまいます。
●父ジョージは、レビンの新しいヴァイオリン教師として、1937年からアメリカに在住して有名になりつつあったガラミアン[1903-1981]を選びます。
ガラミアンは、ウェスト73丁目のアパートの自宅で生徒に教えており、そこはレビン家から2kmほどの近所でもありました。ガラミアンのアパートには、助手のユーラ・オスモロフスキーが教える部屋もあり、レビンは、まず助手のオスモロフスキーの指導を受けることになります。
●レビン、ガラミアンから夏のスクール「メドウマウント音楽学校」に招待されます。ニューヨーク州北部、エリザベス・タウンの白樺林の中で快適に練習をおこなうためのロッジにはほかに30名の生徒がやってきていました。ほかの生徒たちは寮での生活でしたが、レビンは両親が近くに借りた家に滞在し、より多くの時間を練習に費やせるようにさせられました。
その成果はすぐにあらわれ、ガラミアン自身がレビンの練習に立ち会うようにもなります。
●レビン、近所の「プロフェッショナル・チルドレンズ・スクール」に姉のバーティンと共に入学。レビンのヴァイオリンの演奏能力が特別なものだとわかった両親は、小学校を退学させ、ショー・ビジネスで活躍する子供も多く通う学校に入学させます。生徒が演奏活動などで不在の時には通信講座も用意されているため、学業の不安なくエンターテイメントの世界で活動できるという学校です。ウェスト60丁目なのでセントラル・パーク沿いではありましたが、自宅からは4kmほど離れていたので、同時に入学した姉バーティンと一緒にトロリー・カーで通うことになります。
●ガラミアン、カーティス音楽研究所(音楽学校)の教授に就任。
1945年(8〜9歳)
●レビン、「プロフェッショナル・チルドレンズ・スクール」に姉のバーティンと共に通学。
1946年(9〜10歳)
●レビン、「プロフェッショナル・チルドレンズ・スクール」を5年生終了で退学。
●レビン、一般科目は家庭教師から勉強することになり、1日の時間の多くはヴァイオリンの練習に使われ、友達と会うことも遊ぶことも禁じられてしまいます。
●ガラミアン、ジュリアード音楽院の教授に就任。学長で作曲家のウィリアム・シューマン[1910-1992]の要請によるものでした。
1947年(10〜11歳)
●レビン、ジュリアード音楽院準備部門に登録。非常に優秀なため奨学金支給も決定。
●4月、レビン、ロードアイランド州プロヴィデンスでデビュー・リサイタル。ヴァイオリンを習い始めて3年半、まだ10歳11か月でしたが、パガニーニのカプリースからの3曲も含むリサイタルは絶賛されています。ニューヨークの楽器商、ランバート・ウーリッツァーがアマティを貸与。
●5月、レビン、ニューヨーク、タウン・ホールで開催されたガラミアンの弟子たちの合同リサイタルに出演。パガニーニのカプリースから4曲を演奏。
●10月、レビン、ペンシルベニア州アレンタウンでリサイタル。「スペイン交響曲」のピアノ伴奏版、バッハの無伴奏パルティータ第1番、パガニーニのカプリースから3曲などを演奏。
●10月、レビン、カナダのモントリオールでリサイタル。「スペイン交響曲」のピアノ伴奏版、バッハの無伴奏パルティータ第1番、パガニーニのカプリースから4曲などを演奏。大成功を収めます。
●レビン、プロヴィデンスで再びリサイタル。
●12月、レビン、ジュリアード・クリスマス・コンサートに出演。「スペイン交響曲」第1楽章のピアノ伴奏版を演奏。
1948年(11〜12歳)
●1月、レビン、カナダのモントリオールでリサイタル。バッハの無伴奏パルティータ第2番、ブロッホ「ニグン」と「バール・シェム」、パガニーニのカプリースから4曲などを演奏。イザイの未亡人も称賛するなど再び大成功を収めます。ニューヨークの楽器商、ランバート・ウーリッツァーがグァルネリ(1703)を貸与。
●3月、レビン、ニューヨークでリサイタル。
●5月、レビン、プロヴィデンスでリサイタル。
●12月、レビン、プロヴィデンスで協奏曲デビュー。
1949年(12〜13歳)
●5月、レビン、13歳になったため「バル・ミツワー(ユダヤ教の成人式)」を祝います。
●10月、レビン、「エドガー・スティルマン=ケリー・ジュニア奨学金」を獲得。「全米音楽クラブ連盟」の32人の候補者からの選考でした。3年間で毎年250ドル、合計750ドル
●11月、レビン、スタンフォードでリサイタル。
●11月、レビン、ニューヨーク、プラザ・ホテルでリサイタル。
1950年(13〜14歳)
◆マッカーシーによる共産主義者の不正の摘発「赤狩り」が本格化(1954年まで)。ハリウッドの調査も本格化し、音楽家ユニオンも対応に迫られます。
●2月、レビン、カーネギー・ホール(2804席・1891年)で開催された全国オーケストラ協会のイベント「演奏会・フォー・ヤング・ピープル」に出演。ニューヨークの4つの音楽学校から146人の若者が出演する演奏会でした。レビンはヴュータンのヴァイオリン協奏曲第5番をレオン・バージンの指揮で演奏。
●レビン、ガラミアンのアパートで、ジノ・フランチェスカッティ[1902-1991]のためにパガニーニの24のカプリースを全曲演奏。フランチェスカッティは衝撃を受け、その場で米コロンビアに電話してオーディションとレコーディングの手配を依頼。これにより、レビンは5月にはカプリースから、LP1枚分にあたる11曲のレコーディングを実施しています。
ちなみにこの年、フランチェスカッティはカプリースからの8曲をピアノ伴奏版(ピラーティ編)で録音し、クライスラー小品との組み合わせで米コロンビアから発売しています。フランチェスカッティはまだ無伴奏作品は聴衆に受け入れられにくいと考えていたのか1954年のライヴ録音でもカプリースからの曲をピアノ伴奏版で演奏していました。
また、これを機に、フランチェスカッティとレビンの親しい交流が始まり、フランチェスカッティは、レビンを世に出すために尽力。コロンビア・アーティスツのアーサー・ジャドソンを紹介して演奏会を任せ、やがて、「ベル・テレフォン・アワー」に出演する話を紹介したりもしていました。下の画像は3年後の1953年にバッハのレコーディングをした時のものです。
●4月、レビン、10日間のキューバ・ツアー。親しく交流していた指揮者のアルトゥール・ロジンスキーに同行し、ハバナ・フィルハーモニーとの共演で、ヴィエニャフスキのヴァイオリン協奏曲第1番などを演奏。レビンはこれが初の海外ツアーでしたが、最初から航空マニアぶりを発揮して、移動距離や所要時間、機種など詳細なデータを記録するようになり、それは5大陸を忙しく行き来するようになってからもずっと継続していました。
●4月、レビン、カーネギー・ホールで、全国オーケストラ協会が指揮者のレオン・バージンに年間功労賞を授与するイベントに出演。ヴィエニャフスキのヴァイオリン協奏曲第1番をチャールズ・ブラックマンの指揮で演奏。大評判となります(ライヴ録音あり)。
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●5月、レビン、ニューヨークのコロンビア30丁目スタジオでレコーディング。パガニーニのカプリースから、LP1枚分にあたる11曲。
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●8月、レビン、フランチェスカッティの紹介で、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。パガニーニのカプリースの第17番とメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の第3楽章を演奏。この番組に出演したヴァイオリニストは、これまで、ハイフェッツ、メニューイン、クライスラー、スターン、モリーニ、リッチなどの有名な人ばかりだったので、14歳の少年ヴァイオリニストの出演は異例の事でした。
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◆9月、マッカラン国内治安維持法発効。民主党のマッカラン議員により推進された破壊活動取締法。
●レビン、ニューヨークの楽器商、ランバート・ウーリッツァーからグァルネリ・デル・ジェズ(1734)を貸与されます。
●11月、レビン、カーネギー・ホールでソロ・リサイタル。タルティーニのイ長調のソナタ(クライスラー編)、バッハの無伴奏パルティータ第2番、ヴィエニャフスキのヴァイオリン協奏曲第1番、パガニーニのカプリースから4曲ほかで大成功。
1951年(14〜15歳)
●2月、レビン、高級ホテル「ウォルドーフ・アストリア」のディナー・ショーに招かれ、演奏も披露。ニューヨーク・フィル音楽監督に就任したミトロプーロスを称えるものでした。シューベルト「アヴェ・マリア」、エルガー「気まぐれな女」、サラサーテ「序奏とタランテラ」、モシュコフスキ「ギターレ」を演奏。
●3月、レビンが前年に録音したパガニーニのカプリース抜粋アルバム(11曲)が米コロンビアより発売。絶賛評が出回り始めます。
●3〜4月、レビン、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団と彼らの本拠地で共演。この公演ではレビンにストラディヴァリが貸与されていました。
●4月、レビン、高級ホテル「ウォルドーフ・アストリア」のディナー・ショーに招かれ、演奏も披露。引退したアルバート・スポールディングを称えるもので、ゲストにはクライスラーもいました。クライスラー「レチタティーヴォとスケルツォ・カプリース」、スポールディング「エッチング」(抜粋)を演奏。
●5月、レビン、ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィルとロキシー劇場(約6,000席・1927年)で2週間で56回共演。ニューヨーク・フィルはたびたびこの巨大な劇場の映画上映の前に演奏会をおこなっており、この時も映画上映に合わせて、1日4回の演奏会を2週間連続、計56回おこなうという無茶なスケジュールで臨んでいます。14歳のレビンはパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番第1楽章などを演奏しますが、2周目にはヴァイオリンの一部が剝がれてしまうというトラブルに見舞われます。幸い、貸し出し元に特殊な接着剤があり、すぐに修復できましたが、過酷さを証明する話でもあります。
一連の過密公演について、ニューヨーク・フィルとレビン両方のマネージャーであるアーサー・ジャドソンは、膨大な数の観衆が劇場に訪れるため良い宣伝になると喜びましたが、演奏者は大変だったようです。
映画上映の方は、人気女優スーザン・ヘイワード主演の新作カラー作品「栄光の彼方へ」で、山村を舞台にメソジスト派(プロテスタント)の牧師夫妻と村人の織り成すドラマを描いています。
●7月、レビン、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。カーネギー・ホールでドヴォルザークのスラヴ部局第2番、クロール「」バンジョーとフィドル」、ラロ「スペイン交響曲」第5楽章を演奏。ヴォーヒーズ指揮ベル・テレフォン管弦楽団との共演。
●7月、レビン、ラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団と共演。
●10月、レビン、ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィルのフィラデルフィア公演に同行し、アカデミー・オブ・ミュージック(2506席・1857年)で、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番を演奏。
●11月、レビン、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。ゴドフスキー「古きウィーン」(ハイフェッツ編)とチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の第1楽章を演奏。
●11月、レビン、アレンタウン、デイトンでリサイタル。
●11月、レビン、ゴルシュマン指揮セントルイス交響楽団と共演。パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番を連日演奏。
●11月、レビン、ウィスコンシン州ラクロスでリサイタル。
●11月、レビン、モントリオールでリサイタル。
●11〜12月、レビン、ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィルと共演。パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番とヴィエニャフスキのヴァイオリン協奏曲第1番を演奏。
●12月、レビン、アンセルメ指揮ボストン交響楽団とボストン・シンフォニー・ホール(2,625席・1900年)で、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●12月、レビン、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。ブラームス「瞑想」、クライスラー「ウィーン奇想曲」、サン・サーンス:「序奏とロンド・カプリチオーソ」を演奏。
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1952年(15〜16歳)
●3月、レビン、コロンビア30丁目スタジオでレコーディング。ドヴォルザーク:スラブ舞曲 Op.72-2、エンゲル「貝殻」、クロール「バンジョーとフィドル」、ヴィエニャフスキ「エチュード=カプリース」、ビゼー(サラサーテ)「カルメン幻想曲」 〜「終曲」、クライスラー「狩り」。伴奏はアルトゥール・バルサム。
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●4月、レビン、フランチェスカッティと、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。バッハの2台のヴァイオリンのための協奏曲で共演します。
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●5月、レビン、ニューヨークの楽器商、ランバート・ウーリッツァーからグァルネリ・デル・ジェズ(1724)とされる楽器を8,000ドルで購入。
●6月、レビン、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。カーネギー・ホールでグラズノフのヴァイオリン協奏曲第2楽章と第3楽章、メンデルスゾーンの無言歌Op,19b-1、ヴィエニャフスキのカプリース、ポロネーズ・ブリランテを演奏。ヴォーヒーズ指揮ベル・テレフォン管弦楽団との共演。
●6〜10月、レビン、オーストラリア・ツアー。47回の演奏会が組まれた大規模なツアーでしたが、インタビューの時にガムを噛んでいたおかげで、いくつかのオーストラリア・メディアが狂暴化し、ほぼ3か月に渡って、連日レビン(と母)が攻撃されるという悪夢のような事態に陥ります。
16歳のレビンは最初のインタビューで虚勢を張ってしまったのか、「アメリカン・スタイル」と称してずっとガムを噛んでいたことが記者の反感を買ったらしく、レビンの話よりもガムのことを熱心に揶揄する記事が書かれ、その後、悪意のある記事が増殖、腹を立てたレビンがインタビューで、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の真ん中で拍手をするような聴衆はアメリカにはいないとか、批評家が楽器の名前のスペルもまともに綴れないとか、ホテルのエレベーターがフロアの間で止まるなどと対抗した結果、さらに事態は炎上し、音楽と無関係な一般誌やゴシップ誌まで16歳のレビンと母を徹底的に攻撃するようになり、滞在中の様子を盗撮し、侮辱するテキストを付すといった暴挙にも出ています。
そうした中、同じくオーストラリア・ツアーに来ていた24歳のオーストリアのピアニスト、パウル・バドゥラ=スコダ[1927-2019]と途中でヴァイオリン・ソナタのリサイタルを開き、楽しい写真を撮ったりして交流したのは慰めにもなりました。バドゥラ=スコダも現地の批評でこきおろされたりしていたからです。
一連のマスコミ騒動のおかげでチケットの売れ行きが悪化したため、招聘元のABC(オーストラリア放送協会)は、レビンに謝罪文を告知することを要求。結果、1度の謝罪では足りず、2度目の謝罪で少し嫌がらせ攻撃が減少。しかし、まだまだ狂暴な媒体が多かったため、ABCは、障碍者や精神疾患の患者、イスラエルの孤児などを対象としたレビンによるチャリティ・イベントをいくつか実施。それでも誠意が足りないと恫喝してくるメディアはあったものの、全体としてはなんとか正常に近い状態に戻すことに成功しています。すでに演奏会は6割が消化され、残りは4割、ツアー終了まであと2か月弱という時期でした。
マスコミの攻撃が収まったことで、レビンはオーストラリア市民の親切であたたかい本来の魅力に触れることができ、ブリスベーンではアンコールの要求に7回も応えるなど、聴衆との交流に感激していました。
なお、長いオーストラリア・ツアーで、最後までピアノ伴奏を受け持ったレイモンド・エドゥアード・ランバート[1908-1966]は、ベルギー生まれのベルギー育ちで、18歳で家族と共にオーストラリアに移住したピアニスト。このツアーでランバートは見事な伴奏能力でレビンを支えてレビンの信頼を獲得、翌1953年にはレビンに請われて渡米、1955年にランバートと母ジーンとの確執が激化するまで、レビンのリサイタルを支えていました。
●7月、レビン、シドニーで、ヴィエニャフスキ「華麗なるポロネーズ」、サン・サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」、パガニーニ:「24のカプリース」より第21番、第11番、第16番、スクリャービン:エチュード、ゴドフスキー「懐かしきウィーン」、クライスラー「中国の太鼓」、ラヴェル 「ツィガーヌ」、チャイコフスキー:「秋の歌」を演奏(ライヴ録音あり)。
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●11月、レビン、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。サラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」とショパン:夜想曲嬰ハ短調(ミルシテイン編)、ファリャ「はかなき人生」(クライスラー編)を演奏。
1953年(16〜17歳)
●1月、レビン、コロンビア30丁目スタジオでレコーディング。サラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」、パガニーニ「無窮動」、ノヴァチェク「常動曲」。ヴォーヒーズ指揮コロンビア交響楽団の伴奏。
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●2月、レビン、西海岸&中西部ツアー。ウォーレンスタイン指揮ロサンジェルス・フィルと共演してチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏して大成功。オーストラリアでは徹底的にこきおろされたアプローチがロサンジェルスでは大受けで、指揮者のウォーレンスタインも大喜びでした。
●レビン、ウォーレンスタイン指揮ロサンジェルス・フィルとヴィエニャフスキ:ヴァイオリン協奏曲第1番を演奏(ライヴ録音あり)。
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●3月、レビン、ハンター・カレッジでリサイタル。ヘンデルのヴァイオリン・ソナタ第6番、バッハの無伴奏ソナタ第1番のアダージョとフーガ、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番、ヴュータンのヴァイオリン協奏曲第5番、ラヴェルのツィガーヌなど演奏。
●3月、レビン、シカゴのオーケストラ・ホール(2,522席・1904年)でリサイタル。ヘンデルのヴァイオリン・ソナタ第6番、バッハの無伴奏ソナタ第1番のアダージョとフーガ、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番、ヴュータンのヴァイオリン協奏曲第5番、ラヴェルのツィガーヌなど演奏。うるさがた評論家のクローディア・キャシディがオリンポスまで引き合いに出して絶賛。
●4〜5月、レビン、ハリウッドのMGMスタジオで映画「ラプソディ」のサウンドトラック・レコーディングに参加。パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番、チャイコフスキーとメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、サン=サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」、サラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番など録音。ピアニスト役の弾くピアノの部分はクラウディオ・アラウが演奏。
収録中に17歳の誕生日を迎えたレビンのために、主演のエリザベス・テイラーらが祝ってくれました。また、仕事が終わると、母ジーンとアラウ夫妻と旅行にも出かけています。
●6月、レビン、メドウマウントに滞在。長期のピアノ伴奏をお願いしていたレイモンド・ランバートが承諾してオーストラリアからやってきたほか、フランチェスカッティも到着。夏を過ごします。
●10〜12月、レビン、2カ月間のアメリカ国内ツアーを、伴奏ピアニストのランバートと、付添人の母と実施。母ジーンの無意味な叱責と罵倒のもたらすストレスにより、レビンの健康にも影響が出て公演キャンセルという事態にも陥っています。
1954年(17〜18歳)
●1〜3月、レビン、2カ月間のアメリカ国内ツアーを、伴奏ピアニストのランバートと、付添人の母と実施。いつも通り、母ジーンは叱責と罵倒に明け暮れ、ランバートとの喧嘩も絶えませんでした。しかし前年末も長いツアーだったので、さすがの母にも疲労がたまったのか、ツアー最後の段階では、父ジョージと交代することとなり、それによってレビンの体調不良も治り、ランバートにも心の平和が訪れました。
●4〜5月、レビン、ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィルとカーネギー・ホールで共演。リヒャルト・モーハウプト[1904-1957]のヴァイオリン協奏曲を世界初演(ライヴ録音あり)のほか、グラズノフのヴァイオリン協奏曲を演奏。
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●5月、レビン、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。カーネギー・ホールでサン=サーンス「ハバネラ」、パガニーニ「無窮動」を演奏。ヴォーヒーズ指揮ベル・テレフォン管弦楽団との共演。
●6〜7月、レビン、エードリアン・ボールト指揮ニューヨーク・フィルとルウィソーン・スタジアム(約8,000席・1915年)で共演。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●7月、レビン、ラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団とパヴィリオン(約3,400席・1936年)で共演。
●7月、レビン家、広々としたアパートに転居。
●8月、レビン、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。カーネギー・ホールで、エルガー「気まぐれな女」、クライスラー「愛の歌」、ノヴァチェク「常動曲」。ヴォーヒーズ指揮ベル・テレフォン管弦楽団との共演。
●10月、レビン、翌年1月にかけて初のヨーロッパ・ツアーを実施。公演数は32回。リサイタルでの伴奏ピアニスト、ランバートと、付添人の母ジーンが同行。とりあえずレビンと母との関係は修復されており、共にイギリス行きの定期船リベルテに乗りましたが、ランバートは別便で渡航。
ツアーは最初にスウェーデン、ノルウェー、デンマークをまわり、その後、イタリア各地で演奏。スカラ座での公演も大成功。
イタリア滞在中に、偶然、パガニーニの4つ目のヴァイオリン協奏曲が発見され、まずグリュミオーがパリで初演し、続いてレビンがジェノヴァで演奏すると、イタリア人たちは大喜びで数多くの批評も載り、どれも絶賛でした。
続いて訪れたイギリスでは、巨大なロイヤル・アルバート・ホール(当時約6,200席・1871年)など多くのホールで演奏したほか、旧知のバルビローリとも共演。
●12月、レビン、パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番、グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲をマタチッチ指揮フィルハーモニア管弦楽団とキングズウェイ・ホールでEMIに録音。
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1955年(18〜19歳)
●1〜4月、レビン、アメリカ国内ツアーを伴奏ピアニストのランバートと、付添人の母と実施。37回に及ぶ公演回数で、心身共に限界に達したレビンは、次のシーズンには大幅に公演回数を減らすことを考え出します。姉にはヴァイオリニストをやめたいとも何度も手紙に書いていました。
●3月、レビン、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。カーネギー・ホールで、スーク「ブルレスカ」、チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲第3楽章など演奏。ヴォーヒーズ指揮ベル・テレフォン管弦楽団との共演。
●5月、レビン、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。カーネギー・ホールで、メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲第3楽章、マスネ「エレジー」など演奏。ヴォーヒーズ指揮ベル・テレフォン管弦楽団などとの共演。
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●コロンビア・アーティスツのマネージャーで、かつてハイフェッツを担当していたスカイラー・チェイピン[1923-2009]がレビンと関わるようになります。チェイピンはさっそく母ジーンの異常なまでに強引な支配行動を目の当たりにして驚き、ドラゴンに譬えています。
●6月、レビン、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。カーネギー・ホールで、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲第3楽章など演奏。ヴォーヒーズ指揮ベル・テレフォン管弦楽団との共演。
 終演後、兵役のため2年間不在で音信不通だったヴァイオリニストのルイス・カプラン[1933- ]が訪ねてくるとレビンは狂喜、床に転がるほどの熱烈なハグでルイスを驚かせます。母に強く禁じられていたせいで、レビンには年齢の近い友達がほかにいませんでした。
●6月、レビン、以前から欲しかった自動車のプリマスを購入。2年ぶりの友人との再会して水泳や卓球などで楽しいひと時を過ごし、欲しかった新車も買ったことで、レビンの精神状態はなんとか立ち直ります。
●6月、レビン、ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィルとルウィソーン・スタジアムで共演。ブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●8月、レビン、メドウマウントと地元の病院の為にチャリティー・コンサートを開催。1,500ドル以上を寄付しています。
●9月、レビン、バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番、イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番、イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第4番をEMIに録音。
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●10月、レビン、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。カーネギー・ホールで、サラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」など演奏。ヴォーヒーズ指揮ベル・テレフォン管弦楽団との共演。
●10〜12月、レビン、20回のコンサートから成る北米ツアーを実施。伴奏ピアニストはオランダ売まれのデイヴィッド・ポリアキン。前任のレイモンド・ランバートはオーストラリアに帰っていました。また、母ジーンが付き添いに同行して怒鳴りまくることも無くなり、ツアーは平和なものとなっています。
●レビンの姉、バーティンが結婚。
●12月、レビン、友人ルイス・カプランに紹介されたニュー・イングランド音楽院ヴァイオリン科学生のエードリアン・ローゼンバウムと交際開始。
●英EMIがキャピトル・レコード株式の96%を850万ドルで取得して買収。
1956年(19〜20歳)
●1〜2月、レビン、北米ツアー実施。ハートフォードではベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏。公開演奏会では初めてのことで、レビンはその演奏をエードリアンに捧げたいと手紙を書き、ツアーが終わるまで待ちきれないとも書いています。
●2月、レビン、ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィルとカーネギー・ホールで共演。ブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●2月、レビン、ツアー中、ニューオーリンズでめまいや震えなどの体調不良に陥り、医師からは神経衰弱と診断。コンサートをキャンセルします。
●3月、レビン、プリマスのクーペの新車を購入し、エードリアンと会うことで体調は回復傾向となりますが、20日のコンサートには間に合わずキャンセル。なお、前年に買ったプリマスは両親にプレゼントしています。
●3月、レビン、カーネギー・ホールで、レオン・バージン指揮全国オーケストラ協会と共演。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●4月、レビン、ライナー指揮シカゴ交響楽団とベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●6月、レビン、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。カーネギー・ホールで、エンゲル「貝殻」、メンデルスゾーン無言歌「甘い思い出」、プロコフィエフ「3つのオレンジへの恋」より「行進曲」、サン・サーンス:「ワルツ形式の練習曲による奇想曲」など演奏。ヴォーヒーズ指揮ベル・テレフォン管弦楽団との共演。
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●6月、レビン、ガリエラ指揮フィルハーモニア管弦楽団と、サン・サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」、「ハバネラ」、チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲を、、ロンドンのホーンジー・タウン・ホールでEMIに録音。
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●6月、レビン、ロンドンの興行師ポール・フィッシュマンのホーム・パーティーで、臨時の弦楽四重奏を編成して演奏。第1ヴァイオリンはマイケル・レビン、第2ヴァイオリンがダヴィド・オイストラフ、ヴィオラがマックス・ロスタル、チェロがフィッシュマンの友人のドクター・メイ。空き時間にレビンが指ならしで弾くパガニーニに驚いたオイストラフは、フィッシュマンに対して、自分には弾けないと語ってもいました。
●7月、レビン、バーンスタイン指揮ロビン・フッド・デル管弦楽団(フィラデルフィア管弦楽団の変名)とロビン・フッド・デル円形劇場(約6,000席・1929年)でブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏。大成功を収めます。
●夏、レビン家、ニューヨーク州北部のニュー・ロシアに別荘を購入。さっそくレビンの友人のルイス・カプランが招かれて、レビン家と共に数週間滞在します。
◆西ドイツで一般兵役義務法制定。
◆フランスで緊急事態法成立。予備役も動員し、25万人の軍勢でアルジェリアに越境して大殺戮を実施。
●9月、レビン、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。カーネギー・ホールで、クライスラー「オールド・リフレイン」、チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲第1楽章を演奏。ヴォーヒーズ指揮ベル・テレフォン管弦楽団との共演。
●10月、レビンの敬愛するフランチェスカッティ、イスラエル・フィルへの客演などイスラエル・ツアーを11月下旬までかけて実施。ツアー中にスエズ戦争に向けて緊張が高まり、外国人がいっせいにイスラエルから脱出する中で、フランチェスカッティは冷静にツアーを継続。イスラエル国民を喜ばせたほか、ベンツヴィ大統領やイスラエル軍からも感謝の言葉を贈られ、さらにパレスチナの森にフランチェスカッティの名前が付けられることにもなりました。ちなみにイスラエル・フィルを指揮してフランチェスカッティとベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏したフランチェスコ・モリナーリ=プラデッリ[1911-1996]も逃げずに留まった非ユダヤ系外国人音楽家でした。
◆10月29日、スエズ戦争勃発。フランス、イギリス、イスラエルが、エジプト国内にあるスエズ運河のエジプト国有化に反対し、空母5隻と戦艦1隻からなる英仏艦隊によるエジプト領内空爆と艦砲射撃、上陸作戦を展開。フランスとイギリスから攻撃を依頼されたイスラエルも17万5千人という大規模な軍勢でエジプト領内に侵攻し、多くのエジプト人を殺害。エジプト側のイスラエル領への攻撃はハイファへの艦砲射撃くらいで、その軍艦もすぐに破壊・曳航されています。
しかし開戦から11日目には、アメリカのアイゼンハワー大統領が、侵略3国に対して撤退を要請したことで停戦が決定。
エジプト軍は兵器をチェコスロヴァキアから購入しており(下の画像はチェコスロヴァキアが生産したソ連自走砲SU-100)、チェコスロヴァキアの背後にはソ連が存在し、すでに強硬派のブルガーニン首相は、侵略3国に対してミサイル攻撃をおこなうと主張していたため、それを抑えるために、アイゼンハワーがエジプトへの支援にまわった結果でもあります。
エジプト政府は国内にあった英仏の銀行を国有化し、ヨーロッパ利権を排除することにも成功。一方、イギリスはイーデン首相が辞職し、5億ポンドの損失が原因でポンドも下落という悲惨な事態に陥りますが、フランスはイスラエルへの武器販売という強力な経済プランが軌道に乗ったという面もあり、以後、ウーラガン、ミステールに続いてミラージュ戦闘機・戦闘爆撃機が、中東での多くの人命と引き換えにフランスに多額の利益をもたらすことにも繋がっていきます。
なお、イスラエルがエジプトの制圧地域から撤退を始めたのは、なぜか翌年の3月中旬と4カ月も先のことで、スエズ運河の再開はその直後の4月ということになり、半年近く欧州関連の海上輸送に支障のある状態が続いていたことになります。その間、アメリカが国防予備船隊から、223隻の貨物船と29隻のタンカーを各方面にリースし、そこでも大きな利益を上げていました。
●11月、レビン、ボストンでのリサイタルの後、会場をエードリアンと抜け出そうとしますが、母ジーンに見つかり、群衆の前で絶叫してエードリアンを非難、食事にもついてきて関係を壊そうとします。
1957年(20〜21歳)
●1月、レビン、ボールト指揮フィルハーモニア管弦楽団と、メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲、ヴィエニャフスキ:ヴァイオリン協奏曲第1番、ブルッフ「スコットランド幻想曲」、ラヴェル「ツィガーヌ」を、ウォルサムストウ・タウン・ホールでEMIに録音。
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●1月、レビン、カーネギー・ホールでリサイタル。このリサイタルの後、両親との関係が悪化。
●1〜2月、レビン、ヨーロッパ・ツアー。イギリス、ノルウェー、スウェーデン、西ドイツ、イタリア、チェコスロヴァキア、オーストリアをまわります。初の東側での演奏となったチェコスロヴァキア公演も大成功で、終演後のレセプションの人数は前年のオイストラフの時を大幅に上回っていたのだとか。
●2〜4月、レビン、北米ツアー実施。
●6月、レビン、人気番組「ベル・テレフォン・アワー」に出演。カーネギー・ホールで、ガードナー「藤の茂みから」、サラサーテ「ハバネラ」、ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番第3楽章を演奏。ヴォーヒーズ指揮ベル・テレフォン管弦楽団との共演。
●6〜7月、レビン、ジュスキント指揮イスラエル・フィルと共演。イスラエルはまだ不穏な状況ではありましたが、敬愛するフランチェスカッティが前年の最も危険な時期に演奏していたこともあってか、レビンもイスラエル・フィルからの招聘に応じます。コンチェルトで19回の共演を果たしたほか、リサイタルも予定していましたが、これはイスラエル・フィル側のミスにより中止となっています。
1958年(21〜22歳)
●1〜3月、レビン、北米ツアー実施。ロサンジェルス・フィルとのグラズノフが大成功。
●5月、レビン、兵役検査不合格。理由は不明。
●5〜6月、レビン、北米ツアー実施。ステージからの落下恐怖症によりデトロイトでは椅子に座って演奏。
●6月、レビン、EMIとの契約を終了。これは、1960年まで契約を延長したいというEMI幹部からの熱心な申し入れを断り、1953年に設立され、すでにEMI傘下となっていたアメリカの新興レコード会社キャピトル・レコードとの契約を選んだためでした。これは、EMIの方針では、買収したレーベルでも個別のアーティスト契約はそのままにするという条件があったからでしたが、1961年には、EMIはキャピトル・ブランドでのクラシック部門の活動を停止してしまうため、そのキャピトルとの契約が今度は足かせとなってしまい、レコーディングの機会が無くなってしまいます。
●7月、レビン、クリップス指揮ロビン・フッド・デル管弦楽団(フィラデルフィア管弦楽団の変名)とロビン・フッド・デル円形劇場でパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番を演奏。
●7月、レビン、「グァルネリ・デル・ジェズ(1735)エクス・クーベリック」を26,500ドルで購入。直後にガラミアンのアパートを訪れ、その場にいたシゲティにも披露しています。
●8月、レビン、ラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団とパヴィリオンで共演。
●9月、レビン、パガニーニ「24のカプリース」全曲を、ニューヨークのキャピトル46丁目スタジオAで録音。2枚組LPでの発売。
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●9〜11月、レビン、ヨーロッパ・ツアー。ユーゴスラヴィア、イギリス、オランダ、スウェーデン、ノルウェー、ベルギーをまわります。オスロ・フィルとのブラームスは大成功でした。
●11月、レビン、ニューヨーク・フィルに出演していたアシュケナージ[1937- ]とマチネの後に余興でブラームスのピアノ五重奏曲を演奏。第1ヴァイオリンがレビン、第2ヴァイオリンがカプラン、ヴィオラとチェロがニューヨーク・フィル楽員でした。演奏終了後、アシュケナージはレビンの部屋で模型飛行機に夢中になるなどして意気投合。
●11〜12月、レビン、国内ツアー。同行するピアノ伴奏者はレオン・ポマーズです。
1959年(22〜23歳)
●1〜2月、レビン、イスラエル・フィルと共演。2度目の来演でしたが、今回もイスラエル・フィル事務局の仕事ぶりは意図的なのかお粗末なもので、会場や共演者の手配だけでなく日程の選択にも問題があり、さらに、出演料が低額にも関わらず、2か月たっても支払われないなど驚くべき状態となっていました。
●3〜4月、レビン、ドビュッシー「レントより遅く」、ラヴェル「ハバネラ形式の小品」、サラサーテ「サパテアード」、「ハバネラ」、ショパン:夜想曲第8番、モンポウ「庭の乙女たち」、プロコフィエフ「3つのオレンジへの恋」〜行進曲、スーク「ブルレスカ」、スクリャービン: エチュード、エルガー「気まぐれ女」、エンゲル「貝殻」、ヴィエニャフスキ「エチュード=カプリース」を、ニューヨークのキャピトル46丁目スタジオAで録音。
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●3月、レビン、フォード財団の助成金を5,000ドル獲得。全国350人の音楽家から10人を選んで支援するというもので、彼らのために作曲家が曲を書いて、受賞者が初演するという手の込んだ企画でもありました。レビンはポール・クレストンを選んでいます。
●4月、レビン、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルとカーネギー・ホールで共演。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●6月、レビン、シカゴ交響楽団とグラント・パーク音楽祭で共演。15,000人の聴衆を前にチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●7月、レビン、トーマス・シャーマン指揮ニューヨーク・フィルとルウィソーン・スタジアムで共演。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●7月、レビン、ロサンジェルス・フィルと共演。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●7月、レビン、ビヴァリー・ヒルズのハイフェッツを表敬訪問。
●8月、レビン、コステラネッツ指揮ロサンジェルス・フィルとハリウッドボウルで共演。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●9月、レビン、クライスラー「ウィーン奇想曲」、ディニク「ホラ・スタッカート」、マスネ「タイスの瞑想曲」、サラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」、パガニーニ「無窮動」、ブランドル「オールド・リフレイン」、リムスキー・コルサコフ「熊蜂の飛行」、サン・サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」をフェリックス・スラトキン指揮ハリウッド・ボウル交響楽団とハリウッドでキャピトルに録音。
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●9〜10月、レビン、ラテン・アメリカ・ツアー。ヴェネズエラでもメキシコでも大成功でした。
●10〜11月、レビン、国内ツアー。
1960年(23〜24歳)
●1〜2月、レビン、国内ツアー。同行伴奏者はブルックス・スミス。
●2月、レビン、カースタン指揮デンヴァー交響楽団とモーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番を演奏(ライヴ録音あり)。
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●3月、レビン、カーネギー・ホールで、ジョン・バーネット指揮全国オーケストラ協会と共演。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●3〜5月、レビン、ヨーロッパ・ツアー。5回のリサイタルと29回のオーケストラ・コンサート。イギリス、ベルギー、イタリア、ポルトガル、スウェーデン、フィンランドなどをまわります。
●5月、レビン、パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番、ヴィエニャフスキ:ヴァイオリン協奏曲第2番を、グーセンス指揮フィルハーモニア管弦楽団とアビーロード第1スタジオでキャピトルに録音。
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●レビン、シボレー、コルヴェットを購入。
●夏、レビン、メドウマウントに滞在。
●秋、レビン、国務省教育文化局から共産主義思想について調査の対象となります。レビンが東側がまで演奏旅行をおこなっていて、しかもソ連の貿易関係者からメダルを貰っていたことでかけられた疑惑でした。レビンの知人の弁護士が国務省に説明することで解決しています。
●10月、レビン、キャピトル・レコードへの小品アルバムのレコーディングが、EMIの国際クラシック・レパートリー委員会によって承認。12月にレコーディングされることが決定。
●11月2日、ミトロプーロス、ミラノのスカラ座でマーラーの交響曲第3番をリハーサルしている最中に倒れて死去。ミトロプーロスはレビンを高く評価して数多く共演しており、レビンも誰よりも慕っていた指揮者でした。
●11月、レビン、ショルティ指揮ロサンジェルス・フィルとクレストン:ヴァイオリン協奏曲第2番を初演(ライヴ録音あり)。
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●11月、レビン、カティムス指揮シアトル交響楽団とクレストン:ヴァイオリン協奏曲第2番、ヴィエニャフスキ:ヴァイオリン協奏曲第2番を演奏。
●12月、レビン、予定されていたキャピトル・レコードへの小品集のレコーディングが中止となったことに驚きます。売上的にはまったく心配が無く委員会も承認済みだったにも関わらず、明確な説明はありませんでした。
1961年(24〜25歳)
●EMI、キャピトル・レコードでのクラシック部門の活動停止を発表。
●1月、レビン、国内ツアー開始。
●1月、レビン、アトランタ交響楽団とクレストン:ヴァイオリン協奏曲第2番、ラヴェル「ツィガーヌ」を演奏。
●7月、レビン、ヨーゼフ・クリップス指揮ニューヨーク・フィルとルウィソーン・スタジアムで共演。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●7月、レビン、ロビン・フッド・デル管弦楽団(フィラデルフィア管弦楽団の変名)とロビン・フッド・デル円形劇場でパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番を演奏。
●8月、ルイス・カプラン結婚。レビンは結婚式で親友ルイスのサポート役を務めますが、唯一の友の結婚はレビンにとって不安材料でしかありませんでした。
●1月、レビン、ヨーロッパ・ツアー開始。ピアニストのミッチェル・アンドリュースはレビンと関係が良好で、亡くなるまで随所で伴奏を務めています。アイスランド、ノルウェー、フィンランド、ドイツ、イタリア、スイス、イギリスなどまわります。
◆8月13日、東ドイツ、ホーネッカーの指揮で「ベルリンの壁」の建設を開始。1952年からフェンスと警報装置が備えられ、国境警備もおこなわれていた西ベルリンと東ドイツの境界線に、頑丈なコンクリートの壁と有刺鉄線を設置。幅広い分離帯も設けて障害物を置いたほか、地雷を埋めたりもして、東ドイツから西ベルリンへの越境を阻止するために莫大な国費が投じられます。
ちなみに東ドイツ建国からこの1961年までの約11年間に、累計約360万人の東ドイツ人が西ドイツに移り、累計約50万人の西ドイツ人が東ドイツに移っています。当時の東ドイツの人口は約1,700万人で、移住者の多くは生産年齢に該当したため、東ドイツ経済を押し下げ、西ドイツ経済を押し上げるのに十分な数でした。また、東ベルリンと西ベルリンの相互移動に問題がなかった時期には、物価や賃金水準の違いによって生じた往来人口は1日あたり約50万人に達しており、東側からの物品流出や、東側通貨弱体化の要因ともなっていました。
なお、「ベルリンの壁」建設後に脱出に成功した人の数は約18万人で、これに合法的に西ドイツに移住した約72万7千人を加えると、「ベルリンの壁」建設後の流出人口は約90万7千人となります。合法的転出者の多くは高齢者でした。下の画像、ブランデンブルク門のある左側が東ベルリンで、右側が西ベルリンとなります。
●10月、レビン、ベーム指揮ベルリン・フィルとベルリン高等音楽院大ホールでヴィエニャフスキーを演奏。記事はどれも絶賛でした。
●10月、レビン、ベルリンで、フォーレ:ヴァイオリン・ソナタ 第1番、イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番、パガニーニ:「24のカプリース」より第5、9、13、14、17、24番を演奏(ライヴ録音あり)。
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●11月、レビン、最初に購入したヴァイオリンを16,500ドルでミズーリ州の医師に売却。1952年5月に、ニューヨークの楽器商、ランバート・ウーリッツァーから8,000ドルで購入したグァルネリ・デル・ジェズ(1724)とされる楽器です。
1962年(25〜26歳)
●1月、レビン、カーネギー・ホールでリサイタル。ベートーヴェン、フォーレ、スクリャービン、ラヴェルなど演奏。
●1〜3月、レビン、国内ツアー。
●1月、レビン、クリップス指揮バッファロー交響楽団と演奏。
●3月、レビン、シャーマン指揮リトル・オーケストラ・ソサエティとポール・クレストン:ヴァイオリン協奏曲第2番を演奏(ライヴ録音あり)。
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●5月、レビン、カーネギー・ホールの慈善公演に出演。ベートーヴェン、ショーソン、ヴィエニャフスキなど演奏。
●7月、レビン、ヨーゼフ・クリップス指揮ニューヨーク・フィルとルウィソーン・スタジアムで共演。ブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●9月、レビン、フィルハーモニック・ホールのオープニング週間のヴィヴァルディの4台のヴァイオリンのための協奏曲に不調のため出演できず。原因は睡眠薬「ドリデン」の服用量が増えすぎたことによるものだったのだとか。また、同時に太り過ぎも批判されていたことから、食欲抑制薬「フェンジメトラジン」も服用して体重がかなり減ってきてもいました。
●9〜11月、レビン、ドリデンとフェンジメトラジン服用による不調状態のままヨーロッパ・ツアー。ドイツ、イギリス、イタリア、ポルトガルと、演奏評では各地で叩かれます。
●10月、レビン、ベルリンで、サン・サーンス:「ハバネラ」、ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第8番ミヨー「ブラジルの郷愁」より第8番「ティジューカ」、シマノフスキ 「神話」より「アレトゥーサの泉」、アルバート・スポールディング:無伴奏ヴァイオリンのためのトンボーを演奏。ピアノはローター・ブロダック。放送用セッション録音。
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●11月、レビン、フィルハーモニック・ホールの最初のリサイタルでひどい演奏をおこなって叩かれます。レビンのドクター・ショッピングは拡大しており、その都度処方されるクスリの数も増える一方で、レビン家の近隣の薬剤師はみなレビンを知っているという状態になっていたのだとか。
●12月、レビン、ボストンのリサイタルでも状態は改善しておらず、演奏を叩かれます。
1963年(26〜27歳)
●1月、レビン、ビスマーク公演をひどい倦怠感でキャンセル。
●2月、レビン、プレヴィン指揮ロサンジェルス・フィルとシュライン・オーディトリアムで、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番を演奏。大量の発汗と震えが確認され、演奏はボロボロでした。
●2月、レビン、公演後に誤って薬を過剰摂取し、2日間目が覚めないという状態に陥ったため、その後、ニューヨークに戻ってマンハッタンのマウント・サイナイ病院に入院。幸い、依存問題のある薬はドリデンだけということで、数週間かけて体を依存から立て直すと、退院が認められています。
●レビン、退院。両親の住む家に戻りますが、待っていたのは、口うるさい母ジーンとの連日の喧嘩で、ある日、レビンは爆発してアパートで暴れたため、父ジョージが深夜3時にレビンの親友ルイスに電話し、ルイスはレビンと近所を歩き、夜明けのセントラルパークのベンチで、ルイスはレビンに対し、入院し、その後、親と別に暮らすよう勧めることになります。
●レビン、入院。幼少期から母を「拷問者」と名付けていたレビンと母の関係は正常とは言い難く、レビンのキャリア崩壊の原因ともなっていたので、入院して正常な状態にしたのち、自分のアパートを探すことになります。
●5月、レビン、すっかり回復し、愛車コルベットでアトランティック・シティまで出向き、アトランティック・シティ病院の資金集めチャリティー・イベントに参加。理事会会長から感謝されています。
●夏、レビン、前年に建ったばかりのアパートの28階に引っ越し。といってもマンハッタン生まれのマンハッタン育ちのせいか、選んだ場所は両親宅から歩いてすぐのウェスト・エンド・アヴェニューでした。
●7月、レビン、ロビン・フッド・デル管弦楽団(フィラデルフィア管弦楽団の変名)とロビン・フッド・デル円形劇場でチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏。2日目のアンコールでは、パガニーニのカプリースから第13・17・24番を弾くなど、完全回復で臨んでいます。
●10月、レビン、ニューヨークのワシントン・アーヴィング高校のオーディトリアム(1,500席)でリサイタル開催。ベートーヴェンなど演奏。
●10月、レビン、ウィスコンシンでリサイタル開催。ヴィタリのシャコンヌなど演奏。批評は絶賛。
1964年(27〜28歳)
●1月、レビン、舞台恐怖症が復活し、マイアミのリサイタルで弾けなくなり、同地にいた知人のエリック・フリードマンが代役を引き受けています。
●2月、レビン、回復し、サンディエゴでプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番を演奏。批評は絶賛。
●4月、レビン、ニューハンプシャーでリサイタル。
●6月、レビン、スカンジナビア・ツアー。
●夏、レビン、シカゴ交響楽団とグラント・パーク音楽祭で共演。グラズノフのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●10〜11月、レビン、スカンジナビア・ツアー。
●10月、レビン、フィエルスタート指揮オスロ・フィルとチャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲を演奏(ライヴ録音あり)。
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1965年(28〜29歳)
●夏、レビン、ボウドイン・サマー・ミュージック・フェスティヴァルに出演。親友ルイス・カプランの始めた音楽祭でした。
●7〜8月、レビン、メキシコ・ツアー。
1966年(29〜30歳)
●1月、レビン、スプリングフィールドでコンサート。
●3月、レビン、ヨーロッパ・ツアー。スペイン、ノルウェー、デンマークをまわります。スペインで大成功。
●3〜5月、レビン、アフリカ・ツアー。南アフリカの主要都市とローデシアをまわります。
●11月、レビン、フィルハーモニック・ホールでリサイタル。クロイツェル・ソナタをミトロプーロスの思い出に捧げました。ストラヴィンスキーのディヴェルティメント、ドビュッシーのソナタ、パガニーニのカプリース第9、17、24番、サラサーテ「マラゲフィア」、スーク「ブルレスケ」を演奏。批評は絶賛。
1967年(30〜31歳)
●7月、レビン、アルフレッド・ウォーレンスタイン指揮ニューヨーク・フィルとCWPオーディトリアムで共演。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●7月、レビン、ロリン・マゼール指揮ニューヨーク・フィルとニューヨークの公演3か所で共演。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●8月、レビン、クーベリック指揮シカゴ交響楽団とブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏(ライヴ録音あり)。
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1968年(31〜32歳)
●レビン、ニューヨークのクィーンズ・フィルハーモニックと共演した際、歌手のジューン・ルベルがレビンに興味を持ち、同オケ指揮者のデイヴィッド・カッツとレビンのミーティングに同席。意気投合したレビンとジューンはやがて相思相愛となり、レビンが亡くなるまで交際を続けます。レビンの周囲の人間は、彼女がレビンの本当の意味での最初の恋人だったと言っていたのだとか。
レビンより8歳若いジューン・ルベルは、レビンの死の翌年、ニューヨークのクラシック・ラジオ局WQXRのパーソナリティとして働くようになり、そこで30年近くの間、ビバリー・シルズやルチアーノ・パヴァロッティからルドルフ・ジュリアーニまで、何千人ものアーティスト、有名人、政治家にインタビューしています。
●3月、レビン、サン・アントニオで、フランチェスカッティの代役として出演。
●3月、レビン、エーリヒ・シュミット指揮チューリヒ・ベロミュンスター放送管弦楽団とグラズノフ:ヴァイオリン協奏曲を演奏(ライヴ録音あり)。
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●7月、レビン、ヴァンデルノート指揮シカゴ交響楽団とプロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第2番を演奏(ライヴ録音あり)。
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1969年(32〜33歳)
●2月、レビン、カンザスシティで、ミルシテインの代役として出演。
●3月、レビン、トロントとオタワで、コーガンの代役として出演。
●6月、レビン、アンドレ・コステラネッツ指揮ニューヨーク・フィルとフィルハーモニック・ホールで3回共演。サン=サーンスの序奏とロンド・カプリチオーソを演奏。
●6月、レビン、ベルリンで、クロール「バンジョーとフィドル」、ヴィエニャフスキ:エチュード=カプリース、チャイコフスキー「なつかしい土地の思い出」より「瞑想曲」、チャイコフスキー「アンダンテ・カンタービレ」、サラサーテ「カルメン幻想曲」Op.25〜「終曲」、サラサーテ「マラゲーニャ」、「ハバネラ」、「スペイン舞曲集」Op.23〜第2番「サパテアード』をローター・ブロダックの伴奏で演奏。放送用セッション録音。
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●6月、レビン、トーマス・シッパース指揮ベルリン放送交響楽団とブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番を演奏(ライヴ録音あり)。
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●6月、レビン、ロンドンとリヴァプールで、ミルシテインの代役として出演。
1970年(33〜34歳)
●1月、レビン、パガニーニ「24のカプリース」より第9番をニューヨークのクラシック・ラジオ局WQXRで演奏(ライヴ録音あり)。レビンの死の翌年、恋人だったジューン・ルベルはこの放送局のパーソナリティとして働くようになり、そこで30年近くの間、ビバリー・シルズやルチアーノ・パヴァロッティからルドルフ・ジュリアーニまで、何千人ものアーティスト、有名人、政治家にインタビューしています。
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●2月、レビン、ニューヨークで、クリスチャン・フェラスの代役として出演。
●3〜4月、レビン、スカンジナビア・ツアー。
●4月、レビン、ロッホラン指揮ロイヤル・リヴァプール・フィルと共演。
●6月、レビン、ノースカロライナ州グリーンズボロで、イースタン・ミュージック・フェスティヴァルに出演。モーツァルトなど演奏。この時の演奏が不調だったため、共演指揮者のシェルドン・モーゲンスターンがのちにレビン自殺説を流して注目を集めることとなります。
1971年(34〜35歳)
●1月、レビン、コネティカット州ニュー・ヘヴンで演奏。
●3月、レビン、コロンビア・アーティスツのマネージャーの交代が、演奏会契約の減少の一因と判断し、以前のマネージャーの興した会社と契約することを考え始めます。
●レビン、メキシコで協奏曲を演奏。2回で2,500ドルという好報酬でした。
●7月、レビン、アーロン・コープランド指揮ニューヨーク・フィルとフィルハーモニック・ホールなどで3回共演。ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番を演奏。
●夏、レビン、ボウドイン・サマー・ミュージック・フェスティヴァルに出演。親友ルイス・カプランの音楽祭。
●12月、レビン、ヒューストン交響楽団とグラズノフのヴァイオリン協奏曲を演奏。
●12月、レビン、ヒューストン音楽大学ムーア音楽学校で、ヴァイオリンのマスタークラスを担当。これはレビンの子供時代から親しかった14歳年長のフレデル・ラックの招きによるものでした。レビンは彼女に恋人ができたことを報告しています。
1972年(35〜36歳)
●1月19日、夕方、レビンの恋人ジューンは、レビンが電話に出ないのを不審に思い、彼の自宅を訪ねて中に入ったところ、床に倒れ、口から出血して、眼が開いているレビンを発見します。同じ建物に住むウォルター・タウブ医師が呼ばれ蘇生を試みますが、すでに数時間が経過していたようで手遅れでした。
テーブルにはツナ缶と缶切りとフォークがあり、スリッパがリヴィングルームと寝室にバラバラにあり、床にはワックスがかけられたばかりだったので、おそらく昼食準備中に滑って転倒し椅子の角に頭をぶつけたのだろうということです。死因は頭蓋骨骨折による髄膜内出血を伴う脳の挫傷および裂傷。
レビンはまだ35歳、演奏会マネジメントの変更も検討し、古くからの知人に、恋人ができたことを報告するなど希望に満ちていた時期の不運な事故でした。
数日後、追悼式が近くのアムステルダム・アヴェニューで執りおこなわれています。
●1月23日、レビン、マウント・ヘブロン墓地に埋葬。
商品説明:年表シリーズ
指揮者
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アルヘンタ
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オッテルロー
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ガウク
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カラヤン
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クイケン
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クーセヴィツキー
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クチャル
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クナッパーツブッシュ&ウィーン・フィル
●
クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィル
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クナッパーツブッシュ&ミュンヘン・フィル
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クナッパーツブッシュ&国立歌劇場管
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クラウス
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クレツキ
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クレンペラー
●
ゴロワノフ
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サヴァリッシュ
●
シューリヒト
●
スラトキン(父)
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ターリヒ
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チェリビダッケ
●
トスカニーニ
●
ドラゴン
●
ドラティ
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バルビローリ
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バーンスタイン
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パレー
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フェネル
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フルトヴェングラー
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ベイヌム
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メルツェンドルファー
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モントゥー
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ライトナー
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ラインスドルフ
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レーグナー
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ロスバウト
鍵盤楽器
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ヴァレンティ
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ヴェデルニコフ
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カークパトリック
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カサドシュ
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グリンベルク
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シュナーベル
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ソフロニツキー
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タマルキナ
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タリアフェロ
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ティッサン=ヴァランタン
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デムス
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ナイ
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ニコラーエワ
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ネイガウス父子
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ノヴァエス
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ハスキル
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フェインベルク
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ユージナ
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ランドフスカ
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ロン
弦楽器
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カサド
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コーガン
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シュタルケル
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スポールディング
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バルヒェット
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フランチェスカッティ
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ヤニグロ
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リッチ
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レビン
室内アンサンブル
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グリラー弦楽四重奏団
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シェッファー四重奏団
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シュナイダー四重奏団
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パスカル弦楽四重奏団
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パスキエ・トリオ
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ハリウッド弦楽四重奏団
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バルヒェット四重奏団
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ブダペスト弦楽四重奏団
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伝説のフランスの弦楽四重奏団
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レナー弦楽四重奏団
作曲家
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アンダーソン
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ベートーヴェン
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ヘンツェ
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坂本龍一
シリーズ
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テスタメント国内盤