CD 輸入盤

ニコライ・ゴロワノフの芸術(26CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
VN034
組み枚数
:
26
レーベル
:
:
International
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


ニコライ・ゴロワノフの芸術(26CD)

『1812年』の爆演で名高いソ連の指揮者、ゴロワノフの大規模コレクションの登場。
 教会聖歌学校出身のロシア正教徒でもあるゴロワノフのアプローチの特徴は、闘争的な要素の強化と、聖俗のあいだを揺れ動くかのようなドラマティックな性格の拡大にあり、ボロディン、チャイコフスキー、ワーグナー等々、緩急自在の極端なダイナミズムで攻め立てる一方、抒情的な部分は穏やかで美しい表情付けで聴かせており、そのギャップの大きさが聴きものでもあります。
 今回登場する26枚組ボックスは、看板レパートリーでもあるチャイコフスキーの『1812年』を4種類のほか、リストの交響詩12曲、グラズノフの交響詩『ステンカ・ラージン』やバレエ『お嬢様女中』、バラキレフの交響詩『ルーシ』、グリンカの幻想曲『カマリンスカヤ』、ラフマニノフの『交響的舞曲』なども収めたマニアックなもので、ゴロワノフに関心のある方には注目度の高い内容となっています。

【ゴロワノフの芸風】
ダイナミクスやテンポ、バランスの変更、大胆な急加速・急減速など、何でもありのゴロワノフの音楽は実にユニーク。メンゲルベルクやストコフスキー、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュといったデフォルメ芸風の指揮者たちの中でもとびきりの逸脱ぶりで楽しませてくれます。

低音が好き
9歳から寄宿制の教会聖歌学校に10年間在籍、低音域の豊かなロシア聖歌が日常だったこともあってか、ゴロワノフは低音が大好きだったようで、特定のパートで楽譜のオクターヴ下の低音を補強したほか、チェロとコントラバスをよく強調したりしていました。

勇ましい音楽が好き
5歳のときにアレクサンドロフ軍事学校の軍楽隊にハマりこんだというゴロワノフは、勇ましい音楽も大好きだったようで、金管の増強や、小太鼓の追加による演奏効果の追及にも凄いものがあり『1812年』など強烈な仕上がり。

迫力ある音・きつい音が好き
ゴロワノフは、迫力のある音やきつい音が好きでもあったようで、ティンパニの追加はけっこうな頻度でおこなわれていましたし、ホルンのゲシュトップも多用して面白い効果をあげていました。

作曲が好き
教会聖歌学校とモスクワ音楽院で学んだゴロワノフは、代表作『ケルビック賛歌』などロシア正教の聖歌の作曲のほか、オペラや管弦楽曲、歌曲などを数多く遺した本格的な作曲家でもありました。そのせいか、他の作曲家の楽譜に対する態度も結構おおらかで、特にモスクワ放送交響楽団との仕事では、楽譜に手を入れることもしばしばでしたが、目的は作品のドラマ性のさらなる強調という点で一貫していました。

仕事が好き
ゴロワノフは9歳から寄宿制の教会聖歌学校で学んでいましたが、当時はロシア帝国時代ということで、聖歌隊の需要には大きなものがあり、聖堂や礼拝堂のほか、宮廷や貴族の屋敷でも歌ったほか、海外ツアーにも出るなど、学業と仕事の両方で多忙な生活が習慣化。モスクワ音楽院に進んでからも、教会聖歌学校の講師と聖歌隊指揮者を兼任しており、さらにロシア合唱協会からも声がかかって指揮者を務めるなどしていました。そうした環境下で、22歳の時にはロシア合唱協会と、教会聖歌シノド学校聖歌隊、モスクワ音楽院合唱団の合同演奏によりバッハのマタイ受難曲をモスクワ音楽院大ホールで演奏するという大型企画も実現、2度の追加公演をおこなうほどの成功を収めてもいました。
 音楽院卒業後もゴロワノフはいくつもの仕事を兼務することが常態化しており、さらにスポットでの仕事もこなし、そのうえで作曲もおこなうなど働きづめでしたが、背景には、音楽院卒業の年に父親が亡くなり、母と妹の面倒を見なければならないという事情もありました。
 その後、1919年にボリショイ劇場のオペラ指揮者になってギャラが上がってくると、今度はレーニンによる教会の破壊や司祭・信徒たちの虐殺が本格化、信徒でもあるゴロワノフは、教会関係者の知人たちへの援助を秘密裏に開始、やはりいくつもの仕事を兼務して稼ぐことになります。そうした状況はその後30年以上に渡って続き、スターリンによって宗教弾圧にブレーキがかけられてからは、教会環境の改善に向けてさらなる資金援助をおこなってもいました。
 ゴロワノフは成功者ではありましたが、その私生活はつつましく、ボリショイ劇場のスターたちと一緒の高級アパートに暮らしならがらも、夜な夜なのパーティーなどはおこなわず、イコンと美術品と書物と音楽に囲まれた環境で静かなときを過ごしていたといいます。もっとも、ボリショイ劇場のスターたちには共産党員も多かったので、宗教人のゴロワノフが、安心できる友人と会うのは、モスクワ郊外ニコリーナ・ゴーラの質素な別荘ということが多かったようです。


【宗教弾圧の停止とロシア正教の復活】
興味深いのは1945年の『1812年』演奏時の客席の様子です。司祭や軍人が共に座る状況などレーニン時代には考えられなかったことでもあり、その意味では宗教関係者にとっては、1941年の独ソ戦の開始による宗教弾圧の停止は、24年ぶりに訪れた平和の時でもあり、1959年にフルシチョフによってふたたび宗教弾圧・殺戮が開始されるまでの18年間は、ロシア正教にとって、とりあえず小康状態の保たれた時期であったといえると思います。
 ゴロワノフが遺した音源もほぼその時期に収録されたもので、皮肉にも、戦争が始まったことによって平和が訪れたロシア正教の人間として、思い切り自由を満喫するかのようなモスクワ放送交響楽団との演奏からは、戦争の悲惨さなどは感じられません。徹底的に追及・強調されたドラマの面白さは、そうしたゴロワノフの心境の反映かもしれません。
 ちなみにゴロワノフのクリンの古い別荘はドイツ軍に一部が破壊されていましたが、その後、モスクワにドイツ軍が近づいても、ゴロワノフは疎開などしませんでした。ゴロワノフにしてみれば、スローなドイツ軍よりも、実際に多くの知人の命を奪った宗教弾圧の方がよほど恐ろしいものだったということでしょう。


【『1812年』『スラヴ行進曲』『戴冠式祝典行進曲』ソ連版】
ソ連時代にはロシア帝国国歌が演奏禁止になっていたということで、チャイコフスキーの『1812年』と『スラヴ行進曲』などが問題視され、この2曲については、ゴロワノフの友人でもある作曲家シェバリーン[1902-1963]によって、ロシア帝国国歌部分をグリンカの旋律に差し替えた楽譜が出版されています。
 といってもモトネタであるグリンカのオペラ『皇帝に捧げた命』そのものが、ロシア皇帝を称える内容となっているため、ソ連政府は、歌詞をソ連向けに全面変更して題名も『イワン・スサーニン』とするよう手配、1939年にはサモスードの指揮でリメイク版の初演までおこなって、作品を「無問題化」していました。
 チャイコフスキーの『1812年』と『スラヴ行進曲』には歌詞は無いので、そうした歌詞変更プロセスは関係ないようにも思いますが、差し替え引用元が「問題作品」ではイデオロギー破綻に繋がるということから、政府としては、必要な変更は徹底しておきたかったということでしょう。以後、ロシア帝国が関わる作品の上演については、歌詞やプロットの検討と対策を要求されるようにもなっていきます。
 ともかく、晴れて演奏可能になった『1812年』はゴロワノフお気に入りの作品となり、録音だけでも1942年、1947年、1948年、1952年と4種類も遺されており、ここではそのすべてを聴くことができますが、驚くのはゴロワノフ独自の改変ポイントも多いこと。幼時に親しんだアレクサンドロフ軍事学校軍楽隊のスネア・ドラムや金管サウンドのイメージなのか、強力なアゴーギクもあって、生々しく濃厚な情感と、非常に戦闘的な音楽表現の双方が実現されており、独ソ戦さなかの最初の録音から、1952年のセッション録音まで、どの演奏でも徹底したゴロワノフ解釈を味わうことができます。
 『スラヴ行進曲』は、『1812年』に較べると派手さはないものの、ゴロワノフ的な面白さは十分に発揮されています。
 一方、『戴冠式祝典行進曲』の方は、ロシア帝国国歌の引用がシンプルかつ短時間という作品のためか、楽譜出版にあたっては、該当部分をカットして、曲名からも「戴冠式」を除いて、『祝典行進曲』としており、ゴロワノフも、演奏可能となったそのヴァージョンで録音しています。


【モスクワ・フィルハーモニー協会交響楽団】
ゴロワノフは1927年に「モスクワ・フィルハーモニー協会」の音楽監督に就任。「モスクワ・フィルハーモニー協会」は、モスクワの多くの劇場やホールでの公演を取り仕切る政府系のコンサート運営組織で、海外アーティストの招聘などもおこなっていました。
 ゴロワノフはほどなく、「モスクワ・フィルハーモニー協会」傘下のオーケストラとして「モスクワ・フィルハーモニー協会交響楽団」を設立、1928年と1929年にはオーットー・クレンペラーを招聘し、リハーサルの準備にも協力して公演を成功に導いていました。
 しかし1929年にゴロワノフが「モスクワ・フィルハーモニー協会」音楽監督を離れると、オーケストラは解散することとなります。
 ちなみに、コンドラシンとの共演で有名な「モスクワ・フィルハーモニー交響楽団」は、22年後の1951年に、放送委員会のオーケストラのメンバーらにより設立された別な団体です。


【リハーサルと眉毛】
ゴロワノフは1948年に心筋梗塞の発作を起こしており、1950年には2度目の発作で療養、その後も、狭心症の発作に悩まされていましたが、1953年に3度目の大きな発作で亡くなっています。
 心筋梗塞以降のゴロワノフは、外では杖をつくことが多くなっていたものの、指揮台での動きにはあまり深刻な影響はなかったようです。とはいえ、運動能力が落ちたのは確かだったと思われ、その対策としてゴロワノフがとった手段が、眉毛を少し上の位置にはっきりと書いて、眉毛の上下でも意思を伝えることができるようにするというものでした。
 これは効果があったようで、当時の批評などにも、眉毛や眼の動きにまで機敏に反応するオーケストラのことが書かれたりしています。
 何しろゴロワノフの解釈はかなりエキセントリックですし、しかも心筋梗塞以降は細部の練習などはおこなわなかったということなので、余計に本番での指揮情報が必要になるため、こうした手段も有効だったと考えられますし、それを実際に通用させていた楽員たちの苦労も偲ばれるというものです。
 ちなみに心筋梗塞以前は、クレンペラーにも感謝されるほどのリハーサル・テクニックの持ち主で、モスクワ音楽院の学生オーケストラや、赤軍の軍楽隊のほか、全ソ労働組合中央評議会の歌と踊りのアンサンブルや、ソ連国立民族楽器オーケストラ、さらにはボリショイ劇場やスタニスラフスキー・オペラ・スタジオ等々、どんな相手でもその辣腕ぶりを発揮していました。


【ボリショイ劇場解雇事件-1】
1928年、ゴロワノフ、ボリショイ劇場での指揮が禁じられます。告発者は指揮者のアリイ・パゾフスキー[1887-1953]と、作曲家で指揮者のセルゲイ・ワシレンコ[1872-1956]。
 パゾフスキーは1923年からボリショイ劇場で働いているユダヤ人指揮者。1915年からボリショイ劇場に在籍している4歳年下のゴロワノフとは、配役やギャラ問題などいろいろと行き違いもあったようで、ゴロワノフを「反ユダヤ主義者」として弾劾。ちなみに当時は「ロシア」という言葉を使うだけで、「反ユダヤ主義」と非難されていた時代でもあり、パゾフスキーはそうした状況を自分のキャリアアップにも利用しようとしたものとも考えられます(ゴロワノフはロシア正教徒でもありました)。
 ワシレンコは、ゴロワノフのかつての作曲の師ですが、ワシレンコの新作オペラ『太陽の子』が中国の義和団の乱などを題材にした内容ということでゴロワノフが批判したことから、ワシレンコはゴロワノフを「保守的」で「ブルジョワ的」と弾劾。
 この「保守的」「ブルジョワ的」という言葉も「反ユダヤ主義」「反政府的」「スパイ」などと共に、当時のソ連で、都合の悪い人間を蹴落とすため、メディアも含めて虚実取り混ぜて用いられていた人気の告発ワードで、こうしたことの膨大な積み重ねが「大粛清」という社会現象そのものでもあったようです。
 ゴロワノフへの告発は、共産党機関紙プラウダによって大きく報道され、政治的迫害キャンペーンに発展。パゾフスキー側は、さらにショスタコーヴィチと親しいユダヤ人のメイエルホリド(のちに処刑)や、教育人民委員(大臣)のルナチャルスキーまで動員してきますが、ゴロワノフ側も、ネイガウスやゴリデンヴェイゼル、ミャスコフスキー、スタニスラフスキーらの協力を得たこともあって、ボリショイ劇場での指揮を1年ほど禁止されただけで済み、そのままモスクワに留まって活動することができました。
 一方、告発者のパゾフスキーは、ボリショイ劇場を解雇され、モスクワからも追放、翌1929年にアゼルバイジャンのバクーの劇場、1931年にはウラル地方のスヴェルドロフスクの劇場、1933年からはウクライナのハリコフやキエフで指揮、1935年には極東のハルビンまで飛ばされますが、1936年にはレニングラードに赴任、そして1941年に独ソ戦が始まると共産党に入党し、これが功を奏したのか、1943年、ボリショイ劇場に執念の復帰を果たし、音楽監督になっています。
 また、ワシレンコの方は特にお咎めは無かったようで、以後もしばらくは、民族紹介的なものが中心となり、題材も、ジプシー、インド、中国、トルクメン、イタリア、スペイン、ウクライナ、アルタイ、トルコ、アメリカ、ウズベキスタン、マオリ等々、世界的なものとなっていきました。レーニン、トロツキーの「世界革命理念」に同調したものとも思われますが、1940年にトロツキーが暗殺され、「一国社会主義路線」が明確化されると、通常の音楽スタイルに戻すという日和見ぶりを見せてもいます。


【ボリショイ劇場解雇事件-2】
1936年6月、ゴロワノフは、芸術問題委員会の指示により、ボリショイ劇場を解雇。ロシア帝国時代のオペラをとりあげすぎ、新たに書かれた社会主義オペラへの取り組みの姿勢が積極性に欠けるということや、プロコフィエフとの親しい関係が原因とも言われていますが、実際には、当時横行していた、有力ポスト狙いのでっちあげによる失脚作戦と思われます。
 後任は、グルジア生まれのユダヤ系指揮者サムイル・サモスード[1884-1964]で、1943年まで音楽監督を務めます。サモスードは社会主義オペラの熱心な推進者で、後年、疎開先でのショスタコーヴィチ交響曲第7番『レニングラード』初演に際しては、終楽章に合唱によるスターリン賛歌を挿入することを提案するものの作曲者に拒否されていたという日和見的な人物。1943年には、再びゴロワノフの後任として、スタニスラフスキー&ネミロヴィチ=ダンチェンコ記念国立モスクワ音楽劇場音楽監督となっています。
 なお、ボリショイ劇場、サモスード音楽監督の後任は、ユダヤ人指揮者で、1928年にゴロワノフを虚偽告発して失脚に追い込むものの、自分も辺境めぐりを余儀なくされることとなっていたパゾフスキー。1936年になんとかレニングラードのキーロフ劇場の音楽監督となり、1941年には共産党に入党して立場を強化、1943年にボリショイ劇場音楽監督就任を果たします。しかしソ連政府が1948年に反ユダヤ的な方向に舵を切ったことと、病気ということもあり同年退任、後任としてゴロワノフが音楽監督に就任しています。
 なお、ゴロワノフに解雇を命じたケルジェンツェフ[1881-1940]自身も1938年に解雇され、1940年、心不全のため58歳で亡くなっています。


【ボリショイ劇場解雇事件-3】
1953年5月14日、ゴロワノフ、ボリショイ劇場から解雇通告。狭心症の発作に苦しむようになります。
 解雇理由は明らかにされておらず、諸説ありますので、以下に記しておきます。

A もっとも有力と考えられるのが、ゴロワノフの賃金が700ルーブルと高額であるにも関わらず、あまり指揮をしていなかったから解雇されたという説。これは当時のボリショイ劇場の指揮者ミーシャ・ジューコフの見解で、スターリンの死の直後の混乱期ということも考えれば、それが原因で解雇という話も説得力がありますし、当時のゴロワノフは、実際にモスクワ放送交響楽団ばかり指揮していました。
 ちなみにその頃のソ連の工業系労働者の平均月額賃金は70ルーブル台だったので、ほぼ10倍という計算になります。
 なお、熱心な信徒であったゴロワノフは、長年に渡ってロシア正教会に多大な寄進をおこなっていました。

B ついで有力と考えられるのが、ポノマレンコ[1902-1984]文化大臣による解雇説。これは1939年にベラルーシ・オペラの10周年記念イベントがモスクワでおこなわれた際に、指揮者として招かれたゴロワノフが、リハーサルでベラルーシ人オペラ歌手、アレクサンドロフスカヤ[1904-1980]が気に入らず退場を命じ、激怒したアレクサンドロフスカヤが、ベラルーシ共産党第一書記のポノマレンコに直訴したというできごとが背景にあります。
 スターリンのお気に入りでもあった「ウクライナ人」のポノマレンコは、その後、政治将校、赤軍中将、調達大臣と順調に出世し、1952年10月には党政治局員にまで登り詰めるものの、1953年3月、スターリンの死に伴う改組により、党幹部会員候補に降格となって文化大臣に就任。ほどなく、14年前の任地ベラルーシでの「歌手からの苦情」を思い出して、ソ連最大の劇場の「音楽監督を解雇」したという説ですが、これもかなり無理があるように思えます。

C 3つ目はショスタコーヴィチの「証言」でおなじみのヴォルコフの説。社会主義オペラを上演せず、イデオロギー的にも問題のある人物として、ボリショイ劇場の音楽監督には不適切と文化省から告発され、フルシチョフからも嫌われたゴロワノフが、解雇について記されたタバコの紙を手渡されたという屈辱的なストーリーで、社会主義作家ファジェーエフ[1901-1956]が自殺したことも引き合いに出されています。
 しかし1953年5月時点でのフルシチョフは、まだ厄介なベリヤを逮捕しておらず、なにごとにも慎重を期して過ごしていた時期ですし、実際、フルシチョフがスターリン批判をおこない、さまざまなアクションを起こし始めるのは1956年のことで、ファジェーエフが死を選んだのも、そのスターリン批判によってなので、3年ほど隔たりのあるこの説には少し無理があるかもしれません。

D 4つ目はなぜか根強い『ボリス・ゴドゥノフ』トラブル説。1948年の『ボリス・ゴドゥノフ』の上演をめぐり、ユダヤ人レイゼンを起用したゴロワノフがスターリンに嫌われたのが原因とする説ですが、一連の上演は、レイゼンとピロゴフのダブルキャストでおこなわれており、しかもこれらの上演によって、レイゼンも、ピロゴフも、ゴロワノフもそれぞれスターリン賞(第1席)を受賞しているので、この説には無理があります。しかも上演から5年も経った1953年、当のスターリンが死んでから、スターリンに嫌われたことが問題化して解雇に至るという話はいくらなんでも不思議すぎます。
 もっとも、新聞や雑誌などによる大がかりな反ユダヤ・キャンペーンは、上演の翌年である1949年から開始されており、上演直後におこなわれた『ボリス・ゴドゥノフ』のレコーディングを、そうした環境下でそのまま発売するとなると事業としてのリスクが大きいという問題はありました。
 政府の方針転換ゆえ仕方ないとはいえ、78回転SP盤22枚組ボックスという高価な商品の発売に際して、新聞や雑誌から反ユダヤ攻撃を受ければ大変なダメージとなります。しかも高額なボックスとなると、顧客の大半は政府の承認した政治家や官僚などのいわゆる「ノーメンクラトゥーラ(共産富裕層)」が中心になるといった事情もあってか、メロディアは、レイゼンの担当部分のみ、急遽ピロゴフで録音し直し、その部分だけ差し替えて発売、レイゼンのテイクを採用した全曲盤の発売は1970年代まで後回しにされてしまいます。ちなみに、両全曲盤のピロゴフ歌唱とレイゼン歌唱以外の部分は同じ音源となっています。


【年表】
西暦年(年齢)の横に長期的な仕事・学業・居住地などについて記載


1891年(0歳)
●1月21日、ニコライ・セミョーノヴィチは、ロシア帝国のモスクワに、ゴロワノフ家の子として誕生。父親セミョン・ヤコヴレヴィチ[1859-1914]は仕立て屋、母エリザベータ・ティモフェーヴナ[1864-1947]は歌好きな人物。兄弟に妹のオリガ・セミョーノヴナがいました。
 なお、ゴロワノフは、ロシア語読みではゴロヴァノフですが、ここでは日本で長く用いられてきた慣用的ワ変換(ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォのうち、ヴァだけワに変えるというユニークなルール)としておきます。
◆シベリア鉄道起工。フランス資本からの援助を受けて建設開始。これにより露仏同盟に向けての準備が始まり1894年に締結。


1894年(3歳)
◆ロシア皇帝、アレクサンドル3世[1845-1894]死去。ニコライ2世[1868-1918]が即位。

1896年(5歳)
●ゴロワノフ、祖母に連れられて、近くのアレクサンドロフ軍事学校の軍楽隊をよく聴きにいき影響を受けます。


1898年(7歳)
◆3月、ミンスク。ロシア社会民主党第1回大会開催。マニフェスト策定のほか、レーニンなど中央委員会の9名を選出。しかし1か月以内に秘密警察オフラーナにより5人が逮捕。ほどなく「ロシア社会民主労働党」に名称変更。

1900年(9歳) 教会聖歌シノド学校在学
●ゴロワノフ、モスクワの教会聖歌シノド学校に入学。美しいボーイ・ソプラノの声によりすぐに聖歌隊のソリストを務めるようになります。
 ゴロワノフはこの寄宿学校で、歌唱、指揮、ピアノ、ヴァイオリン、アンサンブル、対位法、和声、理論、ギリシャ語、ラテン語、心理学、哲学、セミオグラフィ、歴史などを学びます。主な講師は下記の通りです。

ステパン・ヴァシリエヴィチ・スモレンスキー[1848-1909]:モスクワ音楽院教授も務めた著名な合唱指揮者で音楽学者。
ワシリー・セルゲイヴィチ・オルロフ[1857-1907]:合唱指揮者
アレクサンドル・ドミトリエヴィチ・カスタルスキー[1856-1906]:作曲家、合唱指揮者、音楽学者。
コンスタンチン・ソロモノヴィチ・サラジェフ[1877-1954]:指揮者、ヴァイオリン奏者。
ニコライ・ニコライエヴィチ・ソコロフスキー[1865-1921]:作曲家、ヴァイオリン奏者。
ヴィクトル・セルゲヴィチ・カリンニコフ[1870-1927]:作曲家。和声を担当。早世した兄のワシリーは有名作曲家。
パヴェル・グリゴリエヴィチ・チェスノコフ[1877-1944]:作曲家、合唱指揮者。
ニコライ・ミハイロヴィチ・ダニリン[1878-1945]:合唱指揮者。

ゴロワノフはこの学校で、バッハのロ短調ミサ、モーツァルトのレクィエム、ベートーヴェンのミサ・ソレムニスのほか、パレストリーナ、ヘンデル、シューマンからボルトニャンスキー、グリンカ、チャイコフスキー、リムスキー=コルサコフなどの作品を学んでいます。
 また、当時はロシア帝国時代ということで、聖歌隊の需要には大きなものがあり、聖堂や礼拝堂のほか、宮廷や貴族の屋敷でも歌ったほか、海外ツアーにも出るなど、学業と仕事の両方で多忙な生活だったようです。


1902年(11歳) 教会聖歌シノド学校在学
●ネジダーノワ、ボリショイ劇場のソリストとして契約(1948年まで)。

1903年(12歳) 教会聖歌シノド学校在学
◆7〜8月、ロシア社会民主労働党第2回大会開催。ブリュッセルで開始されるもののベルギー警察の介入で強制退去させられロンドンで継続。レーニンらの「ボリシェヴィキ(多数派)」と「メンシェヴィキ(少数派)」に分裂。実際にはボリシェヴィキの人数は少なかったものの、上層部の人数がレーニン派の方が多かったということで「ボリシェヴィキ」としています。

1905年(14歳) 教会聖歌シノド学校在学
◆1月、ロシア帝国首都サンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」発生。ロシア第1革命へ発展。


1907年(16歳) 教会聖歌シノド学校在学
●ゴロワノフ、作曲を開始。

1909年(18歳) マルフォ・マリインスキー女子修道院聖歌隊指揮者、教会聖歌シノド学校在学
●ゴロワノフ、モスクワのマルフォ・マリインスキー女子修道院聖歌隊の指揮者に就任。これは音楽に理解があり、若きゴロワノフの実力を認めていたエリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃[1864-1918]によって実現したもので、1911年まで在任します。
 なお、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃は、この9年後、ロシア革命の際に、レーニンの部下によって廃坑に突き落とされ、手榴弾で殺されています。


1910年(19歳) 教会聖歌シノド学校の講師兼聖歌隊指揮者、マルフォ・マリインスキー女子修道院聖歌隊指揮者、教会聖歌シノド学校在学、モスクワ音楽院在学
●ゴロワノフ、教会聖歌シノド学校を卒業して同校講師になり、聖歌隊指揮者にも就任(1918年まで)。
●ゴロワノフ、教会聖歌シノド学校聖歌隊を率いて、モスクワのクレムリンにある生神女就寝大聖堂(カトリックでいうところの聖母被昇天大聖堂のような名前)のほか、ローマ、フィレンツェ、ベルリン、ドレスデン、ライプツィヒ、ワルシャワ、ウィーンに演奏旅行。ベルリン公演では皇帝ヴィルヘルム2世も臨席。
●ゴロワノフ、モスクワ音楽院に入学。すでに高いレヴェルにあった対位法や作曲の技術、理論についてさらに究めていきます(1914年まで)。教授陣の対応も当初から特別扱いで、対位法のアレクサンドル・エリアス、作曲のワシレンコ、作曲と指揮のイッポリトフ=イワノフらはその実力を高く評価していました。


1911年(20歳) 教会聖歌シノド学校の講師兼聖歌隊指揮者、マルフォ・マリインスキー女子修道院聖歌隊指揮者、モスクワ音楽院在学
●1月、ゴロワノフ、モスクワ音楽院大ホールにデビュー。教会聖歌シノド学校聖歌隊を指揮して、ラフマニノフの『聖ヨハネ・クリュソストムスの典礼』を演奏しています。
●ゴロワノフ、教会聖歌シノド学校の25周年記念行事で自作合唱曲2曲を演奏。

1912年(21歳) 教会聖歌シノド学校講師兼聖歌隊指揮者、ロシア合唱協会指揮者、モスクワ音楽院在学
●1月、ゴロワノフ、ロシア合唱協会の指揮者となります(1919年まで)。期間中、グリンカ、バラキレフ、リムスキー=コルサコフ、チャイコフスキー、タネーエフ、ラフマニノフ、グラズノフ、カリンニコフなどのほか、西欧の作品もとりあげていました。


1913年(22歳) 教会聖歌シノド学校講師兼聖歌隊指揮者、ロシア合唱協会指揮者、モスクワ音楽院在学
●3月、ゴロワノフ、バッハのマタイ受難曲をモスクワ音楽院大ホールで演奏。これはロシア合唱協会と、教会聖歌シノド学校聖歌隊、モスクワ音楽院合唱団の合同演奏で実現した大型企画で、セルゲイ・タネーエフ[1856-1915]の協力を得て実現しました。演奏は大成功を収め、年内に2度追加公演がおこなわれています。
●10月、ライプツィヒ。ゴロワノフは教会聖歌シノド学校聖歌隊を率いて、「諸国民の戦い」戦勝100周年記念演奏会に参加、高い評価を獲得します。。これは、連合軍(プロイセン、オーストリア、ロシア、スウェーデン)が、ナポレオン軍(フランス、ワルシャワ公国、ライン同盟)に3日間の戦いで勝利し、ナポレオンによるドイツ支配を終わらせた戦争で、12年間続いたナポレオン戦争中の最大の戦いでもありました。


1914年(23歳) 教会聖歌シノド学校講師兼聖歌隊指揮者、ロシア合唱協会指揮者、モスクワ音楽院在学
●5月、ゴロワノフ、モスクワ音楽院卒業。カンタータ『ユラタ姫』で作曲家賞を受賞、金メダル授与、『ユラタ姫』は、リトアニア民族叙事詩に登場する伝説のバルト海の女王を題材としたもの。イッポリトフ=イワノフがすぐにも全曲を演奏すべきと称えますが、第1次世界大戦開戦のため、まずは抜粋版を初演することになります。
●11月、ゴロワノフの『ユラタ姫』、抜粋版初演。
●ゴロワノフの父、死去。


1915年(24歳) ボリショイ劇場合唱指揮者助手、教会聖歌シノド学校講師兼聖歌隊指揮者、ロシア合唱協会指揮者
●4月、ゴロワノフの『ユラタ姫』初演。終演後、イッポリトフ=イワノフ家のディナーに招待され、その場でコロラトゥーラ・ソプラノ歌手のアントニーナ・ネジダーノワと出会います。
 ネジダーノワは、ラフマニノフが『ヴォカリーズ』を献呈したことでも知られるボリショイ劇場の有名ソプラノで、カルーソーやルッフォなどとの共演経験もあるスター歌手。ウクライナ・ドイツ人の家系で、教会聖歌シノド学校聖歌隊の演奏会に唯一の女声ソリストとして参加したこともありました。そうした背景もあってか、ほどなくゴロワノフは彼女の伴奏ピアニストを務めるようになり、その組み合わせは1943年まで28年間も続きます。
 リサイタルのレパートリーはオペラや歌曲だけでなく、世界各国の伝承歌や民謡も含むもので、そうした作品を、ピアノ伴奏を基本に、ときにはピアノ・トリオやチェロとピアノといった伴奏形態で演奏するようゴロワノフは編曲にもいそしんでいました。また、歌手にボリショイのメンバーが追加で参加することもあり、そうしたときは、伴奏にも工夫してオペラの一場面を再現するなど、ゴロワノフの編曲能力がフルに発揮されてもいます。
 彼らのリサイタルは当初から評判となり、2年後の10月革命の頃には、遠隔地での仕事も入るようになり、彼らは貨物列車の貨車の袋の上や、窮屈な馬車での移動も厭わずに、兵士や船員にも音楽を届けていました。


●夏、ゴロワノフは、エミール・クーパー[1877-1960]らと一連の野外公演を企画。ボリショイ劇場管弦楽団のコンサートをモスクワのソコルニキ公園でおこなうというもので、ソリストとしてソプラノのネジダーノワらも参加。
 ゴロワノフはこれがオーケストラ指揮者としてのデビューでしたが、すでに指揮者としてのキャリアは十分だったこともあって、14もの公演を指揮しています。
 エミール・クーパーは当時モスクワで活動していた指揮者で、のちにレニングラード・フィルの音楽監督になり、音楽院ではマリア・ユージナにスコア・リーディングを教えてもいました。
●ゴロワノフ、ボリショイ劇場と契約。1882年からボリショイ劇場で合唱指揮者を務める経験豊富なウルリッヒ・アヴラネク[1853-1937]の助手として、オペラの現場で多くを学ぶこととなります。


1916年(25歳)ボリショイ劇場合唱指揮者助手、教会聖歌シノド学校講師兼聖歌隊指揮者、ロシア合唱協会指揮者
●ゴロワノフ、サンクトペテルブルクの宮廷管弦楽団(のちのレニングラード・フィル)に客演し、自作『ユラタ姫』を指揮。その際、グラズノフ[1865-1936]とジロティ[1863-1945]の知己を得ています。
●12月、ゴロワノフ、ラフマニノフの知己を得ます。


1917年(26歳)ボリショイ劇場合唱指揮者助手、教会聖歌シノド学校講師兼聖歌隊指揮者、ロシア合唱協会指揮者
●ゴロワノフ、ソプラノ歌手のアントニーナ・ネジダーノワと結婚。
●ゴロワノフ、前年に続き、サンクトペテルブルクの宮廷管弦楽団に客演し、自作を指揮。
◆3月、国際婦人デーの女性デモをきっかけとして3月革命(ユリウス暦では2月革命)勃発。ロシア臨時政府樹立。
◆7月、ペトログラードで7月蜂起。50万人のデモがロシア臨時政府により鎮圧。
◆11月、11月革命(ユリウス暦では10月革命)勃発。レーニンが最高指導者を務めるボリシェヴィキ政権樹立。第1次世界大戦と並行してロシア内戦(第1期)が勃発。
◆11月、すべての土地は人民の所有(=政府所有)とする法が発令。教会の土地・財産も没収されます。
◆12月、レーニンによりチェーカー(秘密警察)設立。100人足らずの小組織でスタートするものの、ロシア帝国秘密警察オフラーナのメンバーも含めるなどして急拡大を遂げ、やがて28万人規模にまで成長。初代議長はジェルジンスキー。「組織化された恐怖」をモットーに、聖職者、自由主義者、資産家に関しては、街頭でも手あたり次第に射殺。
◆12月、ロシア国内の全銀行の国有化。


1918年(27歳) ボリショイ劇場合唱指揮者助手、教会聖歌シノド学校講師兼聖歌隊指揮者、ロシア合唱協会指揮者
●ゴロワノフ、クーセヴィツキー管弦楽団に客演。クーセヴィツキー[1874-1951]のコントラバスとも共演。
◆1月、レーニンのにより憲法制定議会閉鎖。選挙でボリシェヴィキが第1党になれなかったため、武力による独裁体制に移行。
◆3月、ブレスト=リトフスク条約により、第一次世界大戦の東部戦線での戦闘が終結し、ロシア内戦(第1期)も休戦。
◆3月、ボリシェヴィキは共産党に改名。共産党以外の政党活動を禁じて、共産党の一党独裁制とします。
◆5月、レーニンにより食糧独裁令発令。武装した労働者食糧徴発隊組織により農民たちからの作物の収奪が開始、内戦に繋がって行きます。
◆7月、ロシア・ソヴィエト社会主義共和国憲法制定。
◆7月、ニコライ2世[1868-1917]処刑。一家7人と従僕ら計11人がレーニンの命令によりエカチェリンブルクで殺害。
◆8月、トロツキーによる脱走兵銃殺命令。
◆8月、レーニン暗殺未遂事件発生。社会革命党の女性党員による銃撃。
◆ロシア臨時政府により、ロシア正教会の財産を政府のものにすることを決定、宗教教育も禁止となります。


1919年(28歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者、ロシア合唱協会指揮者、スタニスラフスキー・オペラ・スタジオ音楽監督
●1月、ゴロワノフ、人民教育委員会の音楽教育課程の改革会議に出席。教会聖歌学校に代わるような組織として、人民合唱アカデミーの設立など議論。
●1月、ゴロワノフ、グノー『ファウスト』を指揮。
●ゴロワノフの恩師カスタルスキーが人民合唱アカデミーを運営、1923年にモスクワ音楽院に吸収されるまで指導に当たります。
◆3月、ロシア内戦(第2期)勃発。
●4月、ゴロワノフ、シドニー・ジョーンズ『芸者』を指揮。
◆5月、紙幣発行の制限廃止。紙幣の種類は1〜1,000ルーブル。
●10月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でリムスキー=コルサコフの『皇帝サルタンの物語』を指揮。歌手はオシポフ、ステパノワ、ボグダノヴィチらで、ゴロワノフはこれがオペラ・デビューでしたが成功を収め、ボリショイ劇場のオペラ指揮者に就任することとなります。
●10月、ゴロワノフ、モスクワ音楽院大ホールで、チェンバー・コンサート・シリーズを開催し、音楽監督として1シーズンに53回の公演を受け持ちました。共演はボリショイ劇場のソリストやモスクワ音楽院の教授たちで、バッハからシェーンベルク、グリンカからプロコフィエフというふたつの音楽史から、年代順にプログラムしたものとなっていました。
◆11月、ロシア内戦(第2期)、ユダヤ系で赤軍創始者でもあるトロツキー率いる赤軍が白軍を撃退。
◆11月、紙幣の種類に、5,000ルーブルと10,000ルーブルが追加。
●ゴロワノフ、スタニスラフスキーの要請により、スタニスラフスキー・オペラ・スタジオの音楽監督に就任。


1920年(29歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者、スタニスラフスキー・オペラ・スタジオ音楽監督
●4月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でボロディン『イーゴリ公』を指揮。
●6月、ゴロワノフ、ヴェルディ『椿姫』、『リゴレット』、ロッシーニ『セヴィリアの理髪師』、レオンカヴァッロ『道化師』を指揮。
●ゴロワノフ、ボリショイ劇場ソリストたちのコンサートを企画し1922年度までに60回開催。
◆4月、ヴランゲリ将軍が白軍の全権を掌握。翌月にはロシア軍と名を改めてクリミア半島を拠点に赤軍と戦闘。ロシア内戦(第3期)勃発。
◆11月、ヴランゲリ将軍が敗北、ユーゴスラヴィアに亡命。ロシア内戦(第3期)終了。
◆内戦は深刻な飢餓も引き起こし、全死者数は800万人とも言われています。
 内戦後の耕地面積は内戦前の62パーセント、生産量は37パーセント、金属製農機具生産量は13パーセントに減少。耕作馬の頭数は350万頭から240万頭に減少、牛は580万から370万に減少。さらに輸送手段である機関車の稼働率も半分以下になっていました。
 為替レートも、米ドル「1ドル=2ルーブル」から、「1ドル=1,200ルーブル」となり600分の1の価値に下落、超ルーブル安となり、輸出競争力が急上昇し、国外からの投資も集めやすくなり、そうした金融環境が、翌年のレーニンによる資本主義的な新経済政策(ネップ)策定に繋がったものとも考えらえます。


1921年(30歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者、スタニスラフスキー・オペラ・スタジオ音楽監督
◆3月、新経済政策(ネップ)施行。余剰作物などの資本主義的運用により、経済が活性化。
◆4月、タンボフの反乱。アントーノフ率いる数万人の農民たちを、レーニンの指示により5万人規模の赤軍とチェーカーが、毒ガスなどを用いて6月までに殲滅。
◆7月、紙幣の種類に、25,000ルーブル、50,000ルーブルと100,000ルーブルが追加。
●11月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でチャイコフスキー『エフゲニー・オネーギン』を指揮。成功して得意演目となり、10年間で120回ほど指揮しています。
◆11月、第1回通貨切り下げ実施。旧紙幣10,000ルーブル=1922年度紙幣1ルーブルという基準。
●ゴロワノフ、イサドラ・ダンカン[1877-1927]の公演に指揮者として参加。
◆ヴォルガ流域を中心に全国規模で飢饉発生。翌年にかけて栄養失調などが原因で農村中心にチフスやコレラが流行、数百万規模の犠牲者が出て、モスクワなど都市部にもホームレスや浮浪児が集まるようにもなります。


1922年(31歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者、スタニスラフスキー・オペラ・スタジオ音楽監督
◆3月、レーニンが「聖職者全員銃殺」を指令。まず翌年にかけて、主教28人、司祭2,691人、修道士1,962人、修道女3,447人のほか、信徒も多数を処刑。財産を没収し、飢饉対策にも使用しました。
◆5月、レーニンによる「知識人追放指令」。秘密警察(GPU)の分類により、反政府的とされた知識人を追放。この場合の「知識人」は、哲学者、文学者、法律家、経済学者、組合活動家などが対象となります。
 レーニンは、音楽、演劇、映画、美術などの「芸術家」は、プロパガンダに結び付くことから積極的に活動を支援し、「科学者」「建築家」なども、人数が不足していたことから優遇していましたが、いわゆる「知識人」については、反共産主義や反政府的活動に繋がりやすいという判断から監視・弾圧をおこなっていました。
◆5月26日、レーニン、最初の脳梗塞発作。5か月間の入院中に回復するものの簡単な計算なども困難な状態に。その間、スターリンは、カーメネフ、ジノヴィエフとのトロイカ体制を確立、有力幹部トロツキーに対抗します(のちにカーメネフ、ジノヴィエフは粛清、トロツキーは国外追放のうえ暗殺)。
◆6月、レーニンが反政府知識人の大量追放を指令し、数万人を強制収容所などに送致。
●10月、ゴロワノフ、ネジダノワとリサイタル・ツアー。ベルリン、バルト地方、チェコ、ポーランドを回ります。
◆10月、第2回通貨切り下げ実施。1922年度紙幣100ルーブル=1923年度紙幣1ルーブルという基準。第1回通貨切り下げに当てはめると、100万分の1になった計算。
◆12月、ソビエト社会主義共和国連邦成立宣言。
◆12月16日、レーニン、2度目の脳梗塞発作。右手の麻痺はあるものの仕事は口述で遂行。
●グラズノフと交流。
●ゴロワノフ、イサドラ・ダンカンの公演に指揮者として参加。


1923年(32歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者、スタニスラフスキー・オペラ・スタジオ音楽監督
●1月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でリムスキー=コルサコフ『クリスマス・イヴ』を指揮。
◆3月10日、レーニン、3度目の脳梗塞発作。回復せず10か月後に死去。その間、スターリンが実権掌握。
●4月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でボロディン『イーゴリ公』を指揮。
●5月、ゴロワノフ、ボリショイ・バレエ公演でリムスキー=コルサコフ『シェエラザード』、ワーグナー『タンホイザー』ヴェヌスベルクの音楽、ストラヴィンスキー『ペトルーシュカ』を指揮。
●6月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場で慈善公演を実施。ロッシーニの『セヴィリアの理髪師』の役柄を男女逆にして上演するというパロディ作品で、さらにネジダーノワなど有名歌手が出演するということで話題となり、再演もおこなわれました。公演の目的が慈善ということで、チケット料金も高めに設定されており、多くの収益にも繋がり、当初の目的である「高齢の芸術家たちの支援」に役立てられることとなりました。
◆11月、ドイツでハイパーインフレ対策として臨時通貨レンテンマルク発行開始。1兆分の1という交換比率で、ハイパーインフレを乗り切ります。
◆11〜12月、紙幣の種類に、10,000ルーブルと15,000ルーブルが追加。


1924年(33歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者、スタニスラフスキー・オペラ・スタジオ音楽監督
◆1月、レーニン死去、スターリンが最高指導者に。
◆1月、ソ連憲法制定。
◆2月、紙幣の種類に、25,000ルーブルが追加。
●5月、ゴロワノフ、ミヤスコフスキー交響曲第6番初演。
●5月、ゴロワノフ、オッフェンバック『美しいエレーヌ』を指揮。
●9月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場のメンバーらとの初の放送で指揮。ちなみに有名なメトロポリタン歌劇場の放送は1931年開始なので、7年ほど先行していたことになります。


1925年(34歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者、スタニスラフスキー・オペラ・スタジオ音楽監督、モスクワ音楽院教授
●1月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でプロコフィエフ『3つのオレンジへの恋』を指揮。
●ゴロワノフ、ボリショイ劇場でムソルグスキー『ソロチンツィの定期市』を指揮。得意レパートリーとなり、1933年までに40回指揮しています。
●ゴロワノフ、モスクワ音楽院教授に就任。
●ネジダーノワ、社会主義労働英雄の称号を授与。

1926年(35歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者、モスクワ音楽院教授、モスクワ・フィルハーモニー協会監督
●4月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でロッシーニ『セヴィリアの理髪師』を指揮。
●4月、ゴロワノフ、モスクワ音楽院管弦楽団のリムスキー=コルサコフ『皇帝の花嫁』を指揮。
●ゴロワノフ、ボリショイ劇場オペラ指揮者。
●ゴロワノフ、モスクワ音楽院教授。
●ゴロワノフ、モスクワ・フィルハーモニー協会監督。これは主にモスクワの演奏会を取り仕切る協会です。
◆メンジンスキー、OGPU長官に就任。のちに大規模な粛清を実施。


1927年(36歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者、モスクワ音楽院教授、モスクワ・フィルハーモニー協会監督
●3〜4月、ゴロワノフ、モスクワ音楽院の学生オーケストラとモスクワ音楽院創立60周年記念演奏会を開催。
●5月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でリムスキー=コルサコフ『5月の夜』を指揮。


1928年(37歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者、モスクワ音楽院教授、モスクワ・フィルハーモニー協会監督、モスクワ・フィルハーモニー協会交響楽団指揮者
●ゴロワノフ、パゾフスキー(下の画像)の告発によりボリショイ劇場での指揮が禁じられます。
●ゴロワノフ、マリア・ユージナと共演。
●ゴロワノフ、モスクワ・フィルハーモニー協会監督として、モスクワ・フィルハーモニー協会交響楽団を設立・指揮。クレンペラーが客演し、ブラームスの交響曲第4番とレスピーギの『ローマの松』などを演奏。


1929年(38歳) モスクワ音楽院教授、モスクワ・フィルハーモニー協会監督、モスクワ・フィルハーモニー協会交響楽団指揮者、オペラ・ラジオ劇場指揮者
●ゴロワノフ、モスクワ・フィルハーモニー協会監督として、モスクワ・フィルハーモニー協会交響楽団を指揮(22年後に創設されるモスクワ・フィルとは別団体)。クレンペラーが客演し、クルト・ワイルの『三文オペラ』組曲、ヤナーチェク『シンフォニエッタ』、ストラヴィンスキー『ミューズを率いるアポロ』、『ペトルーシュカ』、マーラー『大地の歌』、ベートーヴェンの交響曲第7番などを演奏。
●ゴロワノフ、モスクワで、放送専用のオペラ・ラジオ劇場を設立、主任指揮者として指揮にあたります。
◆ソ連政府により憲法の宗教に関する部分が改正。すべての宗教の社会的・教育的・慈善的活動が禁じられ、宗教団体の拠点も当局指定の建物に限定、布教活動も不可能となり、また、教会を国と切り離して民間団体として扱い、聖職者には重税が課せられることとなりました。1918年には教会の土地・財産は没収されていたので、これで財政基盤が極度に弱体化し、さらに学校では無神論を教えるようになります。
◆トロツキー、国外追放。
◆スターリンによりレーニンの新経済政策(ネップ)否定。市場経済の廃止。
◆戦闘的無神論者同盟発足。

1930年(39歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者
●ゴロワノフ、ボリショイ劇場オペラ指揮者に復帰。
●4月、ゴロワノフ、モーツァルト『劇場支配人』、リムスキー=コルサコフ『モーツァルトとサリエリ』を指揮。
●9月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』、ビゼー『カルメン』を指揮。
◆メンジンスキー統合国家政治局(OGPU)長官による大規模な粛清が実施。

1931年(40歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者
●1月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でグリンカ『ルスランとリュドミラ』を指揮。
●5月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でリムスキー=コルサコフ『見えざる都市キテジ』、チャイコフスキー『スペードの女王』を指揮。
●ゴロワノフ、ボリショイ劇場でリムスキー=コルサコフ『プスコフの娘』を指揮。
◆12月、スターリンにより、高さ103メートルという世界最大の正教会建造物である「救世主ハリストス大聖堂」が爆破(ハリストス=キリスト)。教会への弾圧はロシア革命初期の1917年から始まっていますが、それでも1930年にはまだ3万の教会がありました。しかし憲法改正後の1931年からは、閉鎖や爆破、収容所への転用などが本格化し、1939年には実際に使用されているソ連の教会は数百ほどにまで減少しています。
◆メンジンスキー統合国家政治局(OGPU)長官による大規模な粛清が実施。

1932年(41歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者
●ゴロワノフ、プロコフィエフの『賭博師』、ピアノ協奏曲第5番、を指揮。以後、『鋼鉄の歩み』、『キージェ中尉』、『スキタイ組曲』、『アレクサンドル・ネフスキー』、など取り上げますが、プロコフィエフと当局の関係もあり、レコーディングは『ピーターと狼』しかおこなえませんでした。
◆ユダヤ系のカガノーヴィチによる民族主義運動抑圧政策でウクライナ国境封鎖。ソ連の輸出を支えていたウクライナ農作物の過剰な収奪により、人工的な大飢饉(ホロドモール)となり、栄養失調により免疫機能の衰えたウクライナの農民たちは、翌年にかけてチフスなどで約700〜1000万人(国連共同声明数値)が犠牲になります。また、民族主義運動の可能性があるということで、ウクライナ人、ウクライナ・ドイツ人の文化人や知識層も追放などされていましたが、ユダヤ系は除外されており、都市部では普通の生活が営まれていました。


1933年(42歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者
●ゴロワノフ、プロコフィエフの交響曲第4番を指揮。

1934年(43歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者
●1月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でボロディン『イーゴリ公』を指揮。
◆9月、ヤゴーダが内務人民委員に就任。任期中の2年間に粛清を進めるものの、スターリンからはあまり好まれず、左遷となります。
●12月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でリムスキー=コルサコフ『金鶏』を指揮。


1935年(44歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者
●ゴロワノフ、モスクワのブリューソフ小路7番の新築高級アパートの8階に転居。1953年に亡くなるまでの住居となり、ゴロワノフの没後は、妹オリガ・セミョーノヴナが、亡くなる1969年まで住んでいました。なお、ネジダーノワは7階に別な区分を所有していました。
●ゴロワノフはモスクワ郊外ニコリーナ・ゴーラに質素な別荘も所有していました。下の写真では、ルバシカ姿でくつろぐゴロワノフと、夫人のネジダーノワ、そして友人たちが映っています。画面左の自動車は、フォードの「モデルA」をソ連でライセンス生産した「GAZ-A」、4万台以上が販売されていました。
 なお、ゴロワノフはルバシカを好んでいたようで、翌年から指揮者となったソ連国立民族楽器オーケストラを指揮するときは、ルバシカ姿で指揮台に立っていました。
◆11月、ルーブルの為替相場をフランス・フランの基準に設定。1ルーブル=3フランス・フラン。


1936年(45歳) ボリショイ劇場オペラ指揮者、ソ連国立民族楽器オーケストラ指揮者、スタニスラフスキー・オペラ・ドラマ・スタジオ音楽監督
●3月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でジェルジンスキー『静かなドン』を指揮。
◆4月、フランス・フラン切り下げにより、1ルーブル=4.25フランス・フラン。
●5月、パリからロシアに戻っていたプロコフィエフ家がモスクワに移住。『ロメオとジュリエット』のハッピー・エンド化をめぐり、芸術問題委員会のプラトン・ケルジェンツェフ[1881-1940]などからさまざまな指導を受けます。また、関係者のウラジーミル・イワノヴィチ・ムトニクは処刑されています。
●ゴロワノフ、プロコフィエフの独奏でピアノ協奏曲第3番を2回取り上げたほか、『ロメオとジュリエット』も指揮。
●6月、ゴロワノフは、芸術問題委員会の指示により、ボリショイ劇場を解雇。
◆9月、エジョフが内務人民委員に就任。任期中の2年間に膨大な数の人々を粛清。手始めに前任者のヤゴーダとその家族、親しい隊員など約3,000人を処刑。
◆11月、スターリン憲法制定。官僚制を強化。
●ゴロワノフ、モスクワ・フィルハーモニー協会傘下のソ連国立民族楽器オーケストラの指揮者となります。
●ゴロワノフ、スタニスラフスキー・オペラ・ドラマ・スタジオ音楽監督に就任。
●ネジダーノワ、「ロシア人民芸術家」の称号を授与。


1937年(46歳) モスクワ放送交響楽団音楽監督、ソ連国立民族楽器オーケストラ指揮者、スタニスラフスキー・オペラ・ドラマ・スタジオ音楽監督
●ゴロワノフ、労働赤旗勲章授与。
◆モスクワ放送でテレビ放送開始。
◆7月、ルーブルの為替相場を米ドル基準に変更。5.3ルーブル=1米ドル。
●9月、ゴロワノフ、モスクワ放送交響楽団音楽監督に就任。
●グリンカ:『ホルムスキー公』〜第2幕への間奏曲(CD1)
◆ロシア正教会の聖職者、85,300人が処刑。

1938年(47歳) モスクワ放送交響楽団音楽監督、ソ連国立民族楽器オーケストラ指揮者、スタニスラフスキー・オペラ・ドラマ・スタジオ音楽監督
●プロコフィエフ、スターリンの60歳を祝う作品『乾杯』を作曲。
◆ロシア正教会の聖職者、21,500人が処刑。
◆8月、ベリヤがNKVDの議長代理に就任。スターリンと同じくグルジア正教の家庭の出身。前任のエジョフとその部下を1940年2月に処刑。

1939年(48歳) モスクワ放送交響楽団音楽監督、ソ連国立民族楽器オーケストラ指揮者、スタニスラフスキー・オペラ・ドラマ・スタジオ音楽監督
◆ロシア正教会の聖職者、900人が処刑。
◆8月、独ソ不可侵条約締結。
◆9月、ドイツ軍、赤軍、ポーランド侵攻。
◆10月、ポーランド分割。
◆10月、赤軍、フィンランド侵攻。
◆10月、ソ連、国際連盟から除名。
●12月、ゴロワノフ、チャイコフスキー『イオランタ』を指揮。

1940年(49歳) モスクワ放送交響楽団音楽監督、ソ連国立民族楽器オーケストラ指揮者、スタニスラフスキー・オペラ・ドラマ・スタジオ音楽監督
◆ロシア正教会の聖職者、1,100人が処刑。
●2月、演出家のメイエルホリド[1874-1940]拷問の末、処刑。
●10月、モスクワにチャイコフスキー・コンサートホールが開館。元は前衛演劇のメイエルホリド劇場。同劇場は1938年にメイエルホリド[1874-1940]弾圧により閉鎖されていました。
●10月、ゴロワノフ、ラフマニノフ『フランチェスカ・ダ・リミニ』を指揮。
●ゴロワノフ、ミヤスコフスキー交響曲第20番初演。

1941年(50歳) モスクワ放送交響楽団音楽監督、ソ連国立民族楽器オーケストラ指揮者、スタニスラフスキー&ネミロヴィチ=ダンチェンコ記念国立モスクワ音楽劇場音楽監督
●1月、プロコフィエフ、妻リナ[1897-1989]と2人の息子がある身ながら、24歳年下の秘書ミラ・メンデルスゾーン[1915-1968]と同棲開始。
◆6月、ドイツ軍が不可侵条約を破ってソ連に侵攻。「バルバロッサ作戦」開始。
◆6月、イタリア、ルーマニア、ソ連へ宣戦布告。
◆7月、フィンランド、ハンガリー、ソ連へ宣戦布告。
◆7月、ドイツ軍によるモスクワへの空爆開始。
●8月、ボリショイ劇場、クイビシェフに疎開。
◆9月、ドイツ軍によるレニングラード包囲戦が開始。
◆11月、赤の広場で軍事パレード実施。これは約410万人のモスクワ市民のうち、疎開できていたのが、主に政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者だったことから、残された市民が近づくドイツ軍への恐怖から暴動などを起こさないよう安心感を与えるためで、同じ理由からロシア正教への弾圧をやめ、ほどなく復活させることを約束してもいました。
◆11月、ドイツ軍、モスクワから8キロの地点まで侵攻。赤軍必死の抵抗。
◆11月29日、ジューコフ将軍による大攻勢が開始。兵力は極東に展開していた赤軍40個師団、約75万人の精鋭部隊で、すでにモスクワへの移動を完了していました。
●ゴロワノフ夫妻は戦争中に疎開せず、モスクワでコンサートを続け、放送の仕事もおこなっていました。コンサートの全収益は国防基金に送られ、戦車の製造など用いられます。
●スタニスラフスキー・オペラ・ドラマ・スタジオ、スタニスラフスキー&ネミロヴィチ=ダンチェンコ記念国立モスクワ音楽劇場に改称。


1942年(51歳) モスクワ放送交響楽団音楽監督、ソ連国立民族楽器オーケストラ指揮者、スタニスラフスキー&ネミロヴィチ=ダンチェンコ記念国立モスクワ音楽劇場音楽監督
◆6月、スターリングラード攻防戦開始(翌年2月まで)。役人など政府関係者の疎開しか認めず一般市民の疎開は禁じられたため、膨大な数の犠牲が出たと考えられています。
●チャイコフスキー:『1812年』(CD11)

1943年(52歳) モスクワ放送交響楽団音楽監督、モスクワ音楽院教授、ソ連国立民族楽器オーケストラ指揮者、スタニスラフスキー&ネミロヴィチ=ダンチェンコ記念国立モスクワ音楽劇場音楽監督
◆1月、赤軍、モスクワ攻防戦に勝利。
◆ロシア正教会問題評議会が設立。
●1月、ゴロワノフ、フレンニコフ交響曲第2番初演。
◆9月、スターリンとロシア正教会の首脳たちがクレムリンで会見を開き、教会宥和政策を発表。これにより、総主教制の復活、神学校や神学大学の再開、教会機関誌「モスクワ総主教庁ジャーナル」も復刊されることとなり、「戦闘的無神論者同盟」の解散も決定。
●ゴロワノフ、「ロシア人民芸術家」の称号を授与。
●ゴロワノフ、モスクワ音楽院教授に復帰。
●ネジダーノワ、モスクワ音楽院教授に就任。
●ネジダーノワ、ソ連国家賞授与。
●ゴロワノフ、ラフマニノフ交響曲第3番、交響的舞曲ソ連初演。
●ゴロワノフ、ハチャトゥリアン『ガヤネー』を指揮。

1944年(53歳) モスクワ放送交響楽団音楽監督、モスクワ音楽院教授、全労働組合中央評議会の歌と踊りのアンサンブル音楽監督、ソ連国立民族楽器オーケストラ指揮者
◆1月、赤軍、レニングラードを解放。
●10月、ゴロワノフ、モスクワ防衛メダル授与。
●ゴロワノフ、全労働組合中央評議会の歌と踊りのアンサンブル音楽監督に就任。
●チャイコフスキー:『スラヴ行進曲』(CD9)、ラフマニノフ:『交響的舞曲』(CD24)
●ネジダーノワ、「ソ連人民芸術家」の称号を授与。

1945年(54歳) モスクワ放送交響楽団音楽監督、モスクワ音楽院教授、全労働組合中央評議会の歌と踊りのアンサンブル音楽監督、ソ連国立民族楽器オーケストラ指揮者
◆1月、赤軍、ワルシャワを解放。
●5月、ドイツ降伏。ゴロワノフ、大祖国戦争1941-1945年の勇敢な労働のための勲章授与。
◆12月、NKVDのトップ交替。クルグロフがベリヤの後任として内務人民委員に就任。クルグロフはベリヤの部下として、エジョフ派の大量粛清や、チェチェン、イングーシ人の弾圧、ウクライナ民族主義運動活動家の粛清もおこなっていた人物。
●ゴロワノフ、モスクワ800周年記念メダル授与。
●バッハ:管弦楽組曲第3番〜アリア(CD1)、カリンニコフ:交響曲第1番(CD17)、ラフマニノフ:『ヴォカリーズ』(CD23)、ラフマニノフ:交響曲第2番(CD25)

1946年(55歳) モスクワ放送交響楽団音楽監督、モスクワ音楽院教授、全労働組合中央評議会の歌と踊りのアンサンブル音楽監督、ソ連国立民族楽器オーケストラ指揮者
◆NKVDの後継としてソ連内務省(MVD)発足。クルグロフが初代内務大臣として1952年11月まで6年間在任するものの、任期なかばから内務省の権限が国家保安省に大幅に移行され収容所管轄省のような状態になったため、1952年にベリヤが国家保安省を内務省に統合、みずから第2代内務大臣となりますが、翌1953年6月にフルシチョフにより逮捕(半年後に処刑)されたため、クルグロフが大臣に復帰。翌1954年には内務省から分離してKGBが発足、1956年1月にはクルグロフがフルシチョフにより解任、以後、左遷ののち1960年に党から除籍されています。
◆2月、第4次5カ年計画(1946-1950)開始。農業が1948年までに戦前の水準となり、工業も1949年までに戦前の規模を回復。
●プロコフィエフ、前年の階段落下による後頭部打撃の後遺症が悪化、ゴロワノフの別荘のあるニコリナ・ゴーラに移り住みます。
●ゴロワノフ、戦時中の一連のコンサート活動によりスターリン賞受賞。
●リムスキー=コルサコフ:歌劇『5月の夜』〜序曲(CD5)、リムスキー=コルサコフ:歌劇『ムラダ』〜貴族たちの行進(CD15)、スクリャービン:交響曲第1番(CD21)、バラキレフ:『タマーラ』(CD25)

1947年(56歳) モスクワ放送交響楽団音楽監督、モスクワ音楽院教授、全労働組合中央評議会の歌と踊りのアンサンブル音楽監督、ソ連国立民族楽器オーケストラ指揮者
●ゴロワノフの母、死去。
●ゴロワノフ、プロコフィエフの『ピーターと狼』を録音。本来であれば、作品の依頼者で創作過程にも大きく関わった児童音楽劇場の舞台監督ナターリア・サーツ[1903-1993](下の画像左側)がナレーションをおこなうべきでしたが、サーツは1937年に、夫の逮捕・処刑に伴い、虚偽の罪状で逮捕されてシベリアの強制労働収容所送りとなり、1944年に釈放されたものの、今度はカザフスタンのアルマ=マタに追放され、同地で児童劇場を設立、1958年にモスクワに戻るという状況だったため、ここでは女優のヴェラ・マレツカヤ[1906-1978]がナレーションをおこなっています(マレツカヤの3人の兄弟もブハーリン派だったりしたことで逮捕され、処刑・追放などされていました)。
 ちなみにサーツは、スタニスラフスキーも実力を認めた若き才女でしたが、クレンペラーがゴロワノフの招きでモスクワに滞在していた折に交流を深めた人物でもあり、1931年、クロールオペラの『ファルスタッフ』の演出をまかせて成功したため、同じ年のテアトロ・コロン公演では、『ニーベルングの指環』、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、『フィガロの結婚』の演出も依頼していました。
●チャイコフスキー:交響曲第1番『冬の日の幻想』(CD7)、チャイコフスキー:『1812年』(CD11)
◆12月、通貨切り下げ実施。現金交換比率10分の1になるものの、賃金、年金などは1対1の交換比率で、国家小売価格も引き下げ。為替レートはそのままとし、輸出優先体制とします。
●ボロディン:交響曲第2番(CD8)、リムスキー・コルサコフ:『シェエラザード』(CD14)、ムソルグスキー:『モスクワ川の夜明け』(CD16)、ムソルグスキー:『展覧会の絵』、『ボリス・ゴドゥノフ』〜ポロネーズ(CD16)、グラズノフ:『ステンカ・ラージン』(CD19)、スクリャービン:交響曲第5番『プロメテウス』(CD22)、スクリャービン:交響曲第3番『神聖な詩』(CD23)、プロコフィエフ:『ピーターと狼』(CD26)


1948年(57歳) ボリショイ劇場音楽監督、モスクワ放送交響楽団音楽監督、モスクワ音楽院教授、全ソ労働組合中央評議会の歌と踊りのアンサンブル音楽監督
●1月、プロコフィエフ、同棲相手のミラと結婚。5週間後にはなぜか元妻のリナが虚偽のスパイ容疑で逮捕されて強制収容所送りとなり、1956年までの8年間拘束されることとなります。
●ワーグナー:『パルシファル』聖金曜日の音楽(CD7)、ムソルグスキー:『禿山の一夜』(CD8)、チャイコフスキー:交響曲第6番『悲愴』、『地方長官』(CD10)、『1812年』(CD11)、グラズノフ:演奏会用ワルツ第1&2番(CD20)、ラフマニノフ:『岩』(CD23)、ラフマニノフ:交響曲第3番(CD24)、ベートーヴェン:交響曲第1番(CD26)
●ゴロワノフ、「ソ連人民芸術家」の称号を授与。
●ゴロワノフ、ボリショイ劇場音楽監督に就任。
●12月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』を指揮。
●ムソルグスキー:『ボリス・ゴドゥノフ』をレコーディング。主役はユダヤ系のマルク・レイゼン[1895-1992]。
●ゴロワノフ、最初の心筋梗塞の発作。以後、杖をつくことが多くなります。


1949年(58歳) ボリショイ劇場音楽監督、モスクワ放送交響楽団音楽監督、全ソ労働組合中央評議会の歌と踊りのアンサンブル音楽監督
●ゴロワノフ、スターリン賞受賞。『ボリス・ゴドゥノフ』上演により。
◆ソ連政府、反ユダヤキャンペーン開始。新聞・雑誌などが大規模に参加。
●ムソルグスキー:『ボリス・ゴドゥノフ』の主役部分を、ロシア人歌手のアレクサンドル・ピロゴフ[1899-1964]でレコーディングして差し替え。78回転SP盤22枚組ボックスとしてリリース。レイゼン盤は1975年まで発売されませんでした。
●5月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でリムスキー=コルサコフ『サトコ』を指揮。
●グリーグ:『秋に』、シベリウス『悲しいワルツ』(CD3)、チャイコフスキー:『フランチェスカ・ダ・リミニ』(CD9)、グリーグ:4つのノルウェー舞曲、スヴェンセン:『ノルウェー民謡の旋律』(CD13)、リムスキー=コルサコフ:『見えない町キーテジの物語』〜ケルジェネツの戦い(CD15)、グラズノフ:『お嬢様女中』(CD20)、ラフマニノフ:『交響的舞曲』(CD24)


1950年(59歳) ボリショイ劇場音楽監督、モスクワ放送交響楽団音楽監督
●ゴロワノフ、スターリン賞受賞。『サトコ』上演により。
◆3月、為替をドル基準から金基準に変更。4ルーブル=1米ドルに引き上げ
●4月、ゴロワノフ、ボリショイ劇場でムソルグスキー『ホヴァンシチナ』を指揮。
●6月26日、モスクワ。ゴロワノフの妻、ネジダーノワ死去。ノヴォデヴィチ墓地に埋葬。
●10月、ゴロワノフ、ラフマニノフ『アレコ』を指揮。
●ゴロワノフ、2度目の心筋梗塞の発作で倒れ、別荘近くのバルヴィハの療養所に入ります。この療養所には1月にプロコフィエフが入所しており、ゴロワノフとは入れ違いでした。
●ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』前奏曲と愛の死(CD7)、グリーグ:抒情組曲(CD13)、リムスキー=コルサコフ:組曲『金鶏』、ムソルグスキー:ゴパック(CD16)、グラズノフ:交響曲第5番(CD17)、グラズノフ:交響曲第7番(CD18)、グラズノフ:バラード(CD20)、スクリャービン:交響曲第2番(CD22)


1951年(60歳) ボリショイ劇場音楽監督、モスクワ放送交響楽団音楽監督
●ゴロワノフ、スターリン賞受賞。『ホヴァンシチナ』上演により。
●4月、ゴロワノフ、モスクワの自宅に帰宅。プロコフィエフから、激励と早期の復帰要請の手紙。
●9月、ゴロワノフ、妻の思い出のため、ごく親しいバス歌手のマルク・レイゼン[1895-1992]、バリトンのアレクセイ・イワノフ[1904-1982]と共にコンサートを開き、語り、演奏しました。
●ゴロワノフ、レーニン勲章受賞。
●モーツァルト:レクィエム(CD1)、ラフマニノフ:歌劇『アレコ』〜「女たちの踊り」&「男たちの踊り」(CD5)、ワーグナー:『マイスタージンガー』前奏曲、『タンホイザー』序曲、『さまよえるオランダ人』序曲(CD6)、『リエンツィ』序曲、『パルシファル』前奏曲(CD7)、チャイコフスキー:『テンペスト』(CD12)、グラズノフ:祝典序曲、『ロシアの主題による行進曲』(CD19)、ベートーヴェン:『エグモント』序曲(CD26)


1952年(61歳) ボリショイ劇場音楽監督、モスクワ放送交響楽団音楽監督
●リスト:『プロメテウス』、『オルフェウス』(CD2)、『マゼッパ』、『英雄の嘆き』(CD3)、『前奏曲』(CD4)、チャイコフスキー:『1812年』(CD11)、チャイコフスキー:『冬の日の幻想』(CD9)、グリーグ:『ペール・ギュント』組曲第1番(CD13)、メンデルスゾーン:組曲『真夏の夜の夢』(CD14)、リムスキー=コルサコフ:組曲『皇帝サルタンの物語』、熊蜂の飛行、『サトコ』〜前奏曲『青い海原』(CD15)、グラズノフ:交響曲第6番(CD18)、グラズノフ:『中世より』、セレナーデ第1番(CD19)、スクリャービン:交響曲第4番『法悦の詩』(CD21)、スクリャービン:『夢』(CD22)
●リムスキー=コルサコフ:『サドコ』全曲を放送録音。


1953年(62歳) ボリショイ劇場音楽監督、モスクワ放送交響楽団音楽監督
●リスト:『人、山の上で聞きしこと』(CD2)、『祭典の響き』(CD3)、『ハムレット』、『フン族の戦い』、『理想』、『ハンガリー』、『タッソー、悲劇と勝利』(CD4)、『ジークフリート牧歌』(CD6)、ムソルグスキー:『展覧会の絵』(CD8)、グリーグ:『ペール・ギュント』組曲第2番(CD13)
●3月、プロコフィエフ、高血圧が原因の脳出血のため死去。
◆3月、スターリン死去。
◆3月、ウクライナ人、フルシチョフが最高指導者に。
●4月、ボリショイ劇場管弦楽団の記念祝賀会で、ゴロワノフがコンサートマスターのミハイル・カレヴィチに宛てた手紙が朗読されます。楽員たちへの感謝の気持ちや、自身の信条、若手演奏家たちへの思いなどが綴られていました。
●5月14日、ゴロワノフ、ボリショイ劇場から解雇通告。狭心症の発作に苦しむようになります。
◆6月、ベルリンで反ソ暴動発生。ソ連軍が鎮圧するものの、この年だけで東ドイツから西ドイツへの流入は30万人を超えます。
◆7月、ジューコフ元帥が戦車部隊2個師団を率いてモスクワに入り、国家保安省本部を占拠、ベリヤとカガノーヴィチを逮捕。
●8月25日、ゴロワノフ、モスクワ郊外の別荘地ニコリナ・ゴーラの別荘で、心筋梗塞の発作。救急車でモスクワの病院に搬送。無菌室での治療。
●8月28日、ゴロワノフ、モスクワの病院で死去。
●8月、ゴロワノフの葬儀。セルギー大修道院での正教会の儀式のあと、ゴロワノフと親しかった司祭のニコライ・パヴロヴィチ・バジャノフが車に乗り込み、ノヴォデヴィチ墓地まで同行、党委員会メンバーを含む劇場の人々や友人らと共に見送ります。
●8月、ゴロワノフの埋葬。ネジダーノワと同じノヴォデヴィチ墓地。
◆12月、ベリヤ処刑(フルシチョフによる粛清)。


1955年
●4月4日、モスクワ音楽院大ホールで、ゴロワノフ追悼コンサート開催。ゴロワノフと関係の深かった指揮者や歌手が集まり、ゴロワノフが好きだった曲やゴロワノフの作品を演奏して、故人の思い出に捧げました。
指揮者:ハイキン、メリク=パシャエフ、コンドラシン、ガウク、ファイエル、ネボルシン、歌手:エイゼン、ピロゴフ、マクサコワ、ミハイロフ、ボルシャコフ等。
オーケストラはボリショイ劇場管弦楽団、コーラスはモスクワ放送合唱団。


【収録情報】


CD1
●モーツァルト:レクィエム K.626〔ジュスマイヤー版〕
ナタリア・シピレル(ソプラノ)
ワルワラ・ガガリナ(アルト))
ピョートル・マリュチェンコ(テノール)
セルゲイ・クラソフスキー(バス)
モスクワ放送合唱団
モスクワ放送交響楽団
録音:1951年

●バッハ:管弦楽組曲第3番〜アリア
モスクワ放送交響楽団
録音:1945年

●グリンカ:『ホルムスキー公』のための付随音楽〜第2幕への間奏曲
モスクワ放送交響楽団
録音:1937年

●グリンカ:『幻想的ワルツ』
モスクワ放送交響楽団
録音:1945年

CD2
●リスト:交響詩『プロメテウス』S.99/R.416
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

●リスト:交響詩『オルフェウス』S.98/R.415
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

●リスト:交響詩『人、山の上で聞きしこと』S.95/R.412
モスクワ放送交響楽団
録音:1953年

CD3
●リスト:交響詩『マゼッパ』S.100/R.417
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

●リスト:交響詩『英雄の嘆き』S.102/R.419
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

●リスト:交響詩『祭典の響き』 S.101/R.418
モスクワ放送交響楽団
録音:1953年

●グリーグ:序曲『秋に』op.11
モスクワ放送交響楽団
録音:1949年

●シベリウス:悲しいワルツ ト短調
モスクワ放送交響楽団
録音:1949年

CD4
●リスト:交響詩『前奏曲』S.97/R.414
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

●リスト:交響詩『ハムレット』S.104/R.421
モスクワ放送交響楽団
録音:1953年

●リスト:交響詩『フン族の戦い』S.105/R.422
モスクワ放送交響楽団
録音:1953年

●リスト:交響詩『理想』S.106/R.423
モスクワ放送交響楽団
録音:1953年

CD5
●リスト:交響詩『ハンガリー』S.103/R.420
モスクワ放送交響楽団
録音:1953年

●リスト:交響詩『タッソー、悲劇と勝利』S.96/R.413
モスクワ放送交響楽団
録音:1953年

●リムスキー=コルサコフ:歌劇『5月の夜』〜序曲
モスクワ放送交響楽団
録音:1946年

●ラフマニノフ:歌劇『アレコ』〜「女たちの踊り」
●ラフマニノフ:歌劇『アレコ』〜「男たちの踊り」
ボリショイ劇場管弦楽団
録音:1951年

●グリンカ:幻想曲『カマリンスカヤ』
ボリショイ劇場管弦楽団

●バラキレフ:交響詩『ルーシ』
モスクワ放送交響楽団

CD6
●ワーグナー:『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲
モスクワ放送交響楽団
録音:1951年

●ワーグナー:『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第3幕〜序奏
モスクワ放送交響楽団
録音:1951年

●ワーグナー:『タンホイザー』序曲
モスクワ放送交響楽団
録音:1951年

●ワーグナー:『さまよえるオランダ人』序曲
モスクワ放送交響楽団
録音:1951年

●ワーグナー:『ジークフリート牧歌』
モスクワ放送交響楽団
録音:1953年

CD7
●ワーグナー:『リエンツィ』序曲
モスクワ放送交響楽団
録音:1951年

●ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』前奏曲
モスクワ放送交響楽団
録音:1950年

●ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』愛の死
モスクワ放送交響楽団
録音:1950年

●ワーグナー:『パルシファル』前奏曲
モスクワ放送交響楽団
録音:1951年

●ワーグナー:『パルシファル』聖金曜日の音楽
モスクワ放送交響楽団
録音:1948年

●ワーグナー:『ファウスト』序曲
モスクワ放送交響楽団
録音:1947年

CD8
●ボロディン:交響曲第2番ロ短調
モスクワ放送交響楽団
録音:1947年

●ムソルグスキー:交響詩『禿山の一夜』
モスクワ放送交響楽団
録音:1948年

●ムソルグスキー:組曲『展覧会の絵』
モスクワ放送交響楽団
録音:1953年

CD9
●チャイコフスキー:幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』op.32
モスクワ放送交響楽団
録音:1949年

●チャイコフスキー:交響曲第1番ト短調 op.13『冬の日の幻想』
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

●チャイコフスキー:『スラヴ行進曲』op.31
モスクワ放送交響楽団
録音:1944年

CD10
●チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調op.74『悲愴』
モスクワ放送交響楽団
録音:1948年

●チャイコフスキー:交響的バラード『地方長官』
モスクワ放送交響楽団
録音:1948年

CD11
●チャイコフスキー:序曲『1812年』op.49
モスクワ放送交響楽団
録音:1942年

●チャイコフスキー:序曲『1812年』op.49
モスクワ放送交響楽団
録音:1947年

●チャイコフスキー:序曲『1812年』op.49
モスクワ放送交響楽団
録音:1948年(ライヴ)

●チャイコフスキー:序曲『1812年』op.49
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

CD12
●チャイコフスキー:『祝典行進曲』ニ長調
モスクワ放送交響楽団

●チャイコフスキー:交響幻想曲『テンペスト』op.18
モスクワ放送交響楽団
録音:1951年

●リャードフ:ポロネーズ ニ長調op. 55
モスクワ放送交響楽団

●リャードフ:ポロネーズ ハ長調『プーシキンの思い出に』op. 49
モスクワ放送交響楽団

●イッポリトフ=イワノフ:組曲『オシアン』よりop. 56
I. Lake Lyano
II. Kolyma's Lament
III. Ossian's Monologue
モスクワ放送交響楽団

CD13
●グリーグ:『ペール・ギュント組曲』第1番op.46
Morning
The death of Aase
Anitra’s dance
In the hall of the Mountain King
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

●グリーグ:『ペール・ギュント組曲』第2番op.55
Ingrid’s Lament
Arabian Dance
Peer Gynt’s Homecoming
Solveig’s Song
モスクワ放送交響楽団
録音:1953年

●グリーグ:抒情組曲op.54(管弦楽編曲:A.Zeidel)
Shepherd Boy 1
Norwegian Rustic March
Notturno
March of the Dwarfs
モスクワ放送交響楽団
録音:1950年

●グリーグ:4つのノルウェー舞曲op.35
No.1 Allegro marcato d moll
No.2 Allegro tranquillo e grazioso A dur
No.3 Allegro moderato alla Marcia G dur
No.4 Allegro molto D dur
モスクワ放送交響楽団
録音:1949年

●スヴェンセン:『ノルウェー民謡の旋律』ホ長調
モスクワ放送交響楽団
録音:1949年

●ウズベキスタン共和国国歌(オーケストラ演奏)
ムルタ・ブルホノフ(作曲)
ボリショイ劇場管弦楽団

CD14
●メンデルスゾーン:組曲『真夏の夜の夢』op.61から
Overture
Scherzo
Nocturne
Wedding March
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

●リムスキー・コルサコフ:交響詩『シェラザード』op.35
ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
ボリショイ劇場管弦楽団
録音:1947年

CD15
●リムスキー=コルサコフ:組曲『皇帝サルタンの物語』op.57
Allegro.Allegretto alla marcia
Allegro Maestoso
Allegro Moderato
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

●リムスキー=コルサコフ:歌劇『ムラダ』〜貴族たちの行進
モスクワ放送交響楽団
録音:1946年

●リムスキー=コルサコフ:組曲『見えない町キーテジの物語』〜ケルジェネツの戦い
ボリショイ劇場管弦楽団
録音:1949年

●リムスキー=コルサコフ:歌劇『皇帝サルタンの物語』〜熊蜂の飛行
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

●リムスキー=コルサコフ:歌劇『サトコ』〜前奏曲『青い海原』
ボリショイ劇場管弦楽団
録音:1952年

●リムスキー=コルサコフ:組曲『金鶏』
Le tsar Dodon en son palais
Le tsar Dodon sur le champ de bataille
Le tsar Dodon et la reine de Shemakha
La noce et la fin lamentable du tsar Dodon
モスクワ放送交響楽団
録音:1950年

CD16
●ムソルグスキー:歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』〜ポロネーズ
モスクワ放送交響楽団
録音:1947年

●ムソルグスキー:組曲『展覧会の絵』
モスクワ放送交響楽団
録音:1947年

●ムソルグスキー:歌劇『ソロチンツィの定期市』〜ゴパック
モスクワ放送交響楽団
録音:1950年

●ムソルグスキー:歌劇『ホヴァーンシチナ』〜第1幕前奏曲『モスクワ川の夜明け』
モスクワ放送交響楽団
録音:1947年

●バラキレフ:交響詩『タマーラ』
モスクワ放送交響楽団

CD17
●カリンニコフ:交響曲第1番ト短調
ボリショイ劇場管弦楽団
録音:1945年

●グラズノフ:交響曲第5番変ロ長調 op.55
モスクワ放送交響楽団
録音:1950年

CD18
●グラズノフ:交響曲第6番ハ短調 op.58
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

●グラズノフ:交響曲第7番ヘ長調 op.77
モスクワ放送交響楽団
録音:1950年

CD19
●グラズノフ:組曲『中世より』ホ短調 op.79
I. Prelude
II. Scherzo
III. The Troubador's Serenade
IV. Finale - the Crusaders
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

●グラズノフ:祝典序曲ニ長調 op.73
モスクワ放送交響楽団
録音:1951年

●グラズノフ:セレナーデ第1番イ長調 op.7
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

●グラズノフ:『ロシアの主題による行進曲』変ホ長調 op.76
モスクワ放送交響楽団
録音:1951年

●グラズノフ:交響詩『ステンカ・ラージン』op.13
モスクワ放送交響楽団
録音:1947年

CD20
●グラズノフ:バレエ『お嬢様女中』op.61
ボリショイ劇場管弦楽団
録音:1948年

●グラズノフ:演奏会用ワルツ第1番ニ長調 op.47
ボリショイ劇場管弦楽団
録音:1948年

●グラズノフ:演奏会用ワルツ第2番ヘ長調 op.51
ボリショイ劇場管弦楽団
録音:1948年

●グラズノフ:バラード ヘ長調 op.78
モスクワ放送交響楽団
録音:1950年

CD21
●スクリャービン:交響曲第1番ホ長調 op.26
リュドミラ・レゴスタエヴァ(メゾ・ソプラノ)
アナトーリ・オルフェノフ(テノール)
モスクワ放送交響楽団
録音:1946年

●スクリャービン:交響曲第4番 op.54『法悦の詩』
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

CD22
●スクリャービン:交響曲第2番ハ短調 op.29
モスクワ放送交響楽団
録音:1950年

●スクリャービン:交響曲第5番 op.60『プロメテウス』
アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル(ピアノ)
モスクワ放送交響楽団
録音:1947年

CD23
●スクリャービン:交響曲第3番ハ短調 op.43『神聖な詩』
モスクワ放送交響楽団
録音:1947年

●スクリャービン:管弦楽のための前奏曲『夢』嬰へ短調op.24
モスクワ放送交響楽団
録音:1952年

●ラフマニノフ:幻想曲『岩』op.7
モスクワ放送交響楽団
録音:1948年

●ラフマニノフ:『ヴォカリーズ』op.34-14
モスクワ放送交響楽団
録音:1945年

CD24
●ラフマニノフ:『交響的舞曲』
モスクワ放送交響楽団
録音:1944(第1・3楽章)、1949(第2楽章)年

●ラフマニノフ:交響曲第3番イ短調 op.44
モスクワ放送交響楽団
録音:1948年

CD25
●バラキレフ:交響詩『タマーラ』
モスクワ放送交響楽団
録音:1946年

●ラフマニノフ:交響曲第2番ホ短調 op.27
モスクワ放送交響楽団
録音:1945年

CD26
●ベートーヴェン:『エグモント』序曲 op.84
モスクワ放送交響楽団
録音:1951年

●ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調 op.21
モスクワ放送交響楽団
録音:1948年

●プロコフィエフ:交響的物語『ピーターと狼』op.67
ヴェラ・マレツカヤ(ナレーション)
ソ連国立交響楽団
録音:1947年



【商品説明:年表シリーズ】
指揮
ルロイ・アンダーソン
アレクサンドル・ガウク
セルゲイ・クーセヴィツキー
クレメンス・クラウス
パウル・クレツキ
オットー・クレンペラー
ニコライ・ゴロワノフ
ヴォルフガング・サヴァリッシュ
カール・シューリヒト
アンタル・ドラティ
ポール・パレー
フレデリック・フェネル
ピエール・モントゥー
フェルディナント・ライトナー
エーリヒ・ラインスドルフ

鍵盤楽器
ラルフ・カークパトリック
イェルク・デムス
タチアーナ・ニコラーエワ
マリア・ユージナ
ワンダ・ランドフスカ

弦楽器
ガスパール・カサド
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
ルッジェーロ・リッチ

作曲家
ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ

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購入をいまだ迷ってます。というのも悲愴、...

投稿日:2018/10/16 (火)

購入をいまだ迷ってます。というのも悲愴、スクリャービン交響曲全集あるもんで重複します。しかしゴロワノフを聴いた時、音の良さで感動する所と演奏自体で感動する所がどうも違うなと感じました。総じて時代的にも音は良いとは言えません。が、音楽自体でこれほどの感動を与える指揮は今まで聴いた中でも最高ですね。ひょっとしてヒストリー的な音の中でフルトヴェングラーをも凌駕しているかもしれません。下品な、と言われていたレヴューも有りましたがここまで歌わせる音楽はそうざらにありません。世俗的でいいんです。天上の音楽なんて所詮は主観ですから。音の悪さは完全に消えています。スクリャービンもスヴェトラーノフの原点ではないかと思います。ゴロワノフは本当にすばらしい。やはり購入しょうか。他は聴いてませんが星5です。

やまちゃん さん | 兵庫県 | 不明

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HMVの商品説明だけでも一つの伝記レベルの...

投稿日:2018/09/29 (土)

HMVの商品説明だけでも一つの伝記レベルの分量であり、圧倒される。 レーニン〜スターリン独裁政治時代の音楽状況を触りだけでも伺い知るイントロダクションとして、大変興味深い。 また「宗教家」としてのゴロワノフの側面を知ることができたのは貴重な情報だ。 何せ元々私はこれと同時代のドイツのフルトヴェングラーの音源を探していたわけだ。 「商品説明」だけでもここまで読み応えがあるものには初めてお目にかかった。知られざるアーティストに注意を向けるためには、非常に適切かつ誠実な方法だと思う。

Bayreuth194307 さん | 宮崎県 | 不明

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HMVによるゴロワノフ年表を絶賛したい。こ...

投稿日:2018/09/22 (土)

HMVによるゴロワノフ年表を絶賛したい。これはそのまま良質のソ連史になっている。共産国家では多かれ少なかれ同様なことが起こっているが、改めて年表を見ると、ソ連の血塗られた凄惨な歴史に言葉もない。ゴロワノフにかかわらず、この時代を生き延びるのはさぞや大変であっただろう。ゴロワノフは私の好みに合わないが、この年表を見るともう一度ゴロワノフの演奏を再確認したい気持ちになり、購入を検討中である。

フォアグラ さん | 愛知県 | 不明

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