Top 100 Japanese pops Artists - No.41

2003年10月21日 (火)

1950年代の日本に、まさに彗星のごとく登場した石原裕次郎。ご存知、『石原軍団』のボスである。旧態然とした日本的文化とは異なる、スタイリッシュなニュー・カルチャーを欲していた当時の若者にとって彼の登場は大きな衝撃だったようだ。ファッションから、そのライフ・スタイル、言動...作家であり、現・東京都知事でもある実兄の石原慎太郎と共に、日本全国民に甚大な影響を与えた。それはまさしくニュー・リーダーの誕生であった。

石原裕次郎は、1934年12月29日神戸生まれ、3歳の時小樽に移り、小学校2年の春神奈川逗子に移転、慶応高校から慶応大学へ進学。1955年兄、石原慎太郎が小説「太陽の季節」で芥川賞を受賞し、これを契機に映画界に入り、日活映画「太陽の季節」でスクリーン・デビューを果たす。さらに主演第1作「狂った果実」を撮り、1957年年末に封切られた「嵐を呼ぶ男」が他社を圧倒する大ヒットとなりスーパースターの地位を決定的にした。

映画と同時進行するようにテイチクレコードと専属契約を結び、歌の世界でも「嵐を呼ぶ男」「俺は待ってるぜ」「錆びたナイフ」「銀座の恋の物語」「赤いハンカチ」と次々と大ヒットを飛ばし、約30余年の芸能界で常にトップスターとして活躍した。

裕次郎の歌が巷に流れたとき、日本中の若者に衝撃が走った。そこには生きた男の息づかい、野性、ダイナミズムがあった。若者たちに熱烈に支持されればされるほど彼は照れて、「俺は映画俳優だ、歌手じゃない!」と言った台詞は有名。哀愁とコクにあふれた激渋ヴォイスで、膨大な数のヒット曲を生み出していった。

彼の存在は我々にとって“憧れや理想”そのものであり、未曾有の高度成長を遂げる日本経済において影の原動力となったと言えよう。

映画界の衰退によりテレビでも活躍したが、後年、度重なる病気のため、1987年7月17日午後4時26分、病魔と闘い続けた戦後の日本映画界が生んだ最大のスーパースターは52歳の早すぎる生涯を閉じた。

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ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

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