CD 輸入盤

ポール・パレー・コレクション(25CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
VN031
組み枚数
:
25
レーベル
:
:
International
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


ポール・パレー・コレクション(25CD)

定評ある米Mercuryによる録音を中心に、米VOX、仏Columbiaによるセッション録音のほか、ライヴ音源も収録。録音年代は1934年から1962年で、多くがステレオとなっています。
  パレーは1979年に93歳で亡くなるまで現役で指揮していたという頑健な体の持ち主で、出演契約も1981年まであったといいます。
  このセットでは、パレー全盛期のデトロイト時代の1950〜60年代の録音と、コロンヌ管弦楽団を指揮した1930〜40年代の録音を収録しており、40代なかばから70代なかばのパレーの力強いスタイルを満喫できるほか、自作のジャンヌ・ダルク・ミサも楽しめます。>
パレーの芸風
冴えたリズムと決してもたれないイントネーションをベースにした見通しの良い声部バランスの中、絶妙にソロ・パッセージを際立たせたり、瞬時に響きやテンポを切り替えたりする時の面白さはパレーならでは。

近代フランスのオーケストラ公演の特徴
20世紀なかばまでのフランスでは、同時代作品がオーケストラ公演の主役であることが多く、作曲者や関係者が存命だったりすることから、指揮者が個人的な趣味や解釈に向かいにくく、また、記譜も近代的だったりするので、楽譜に即した描き分けや、楽器ごとの表現力が求められるため、パレーの基本スタイルとは相性が良かったと考えられます。

作曲家パレー
パリ音楽院で和声一等賞、対位法二等賞を獲得。卒業後、ローマ大賞にチャレンジして2位となり(わけあり)、翌年大賞を受賞。そしてローマのヴィラ・メディチに2年間留学という経歴は、同時代音楽が盛んだった当時のフランスでは、作曲家として順風満帆な船出でした。しかし、第1次大戦の開戦がパレーの生活も社会も大きく狂わせてしまいます。

指揮の勉強
パレーは19世紀生まれの多くの指揮者と同じく、指揮を専門に勉強してはいませんでしたが、幼少期から父の指揮するオラトリオなどのリハーサルに参加していたことは、指揮の英才教育と見ることもできます。
  また、作曲家として楽譜に精通し、さらに、オルガン、ピアノ、チェロ、ティンパニまでこなすというマルチな楽器演奏能力や、長年聖歌隊で歌っていたという経験も、アンサンブルをつくりあげるために有益なものとも考えられます。

フランスのヴァカンス&カジノ文化
パレーが指揮を本格的に始めたのは、第1次大戦での3年半に及ぶ俘虜生活から解放され、生活のためにピレネーのカジノに雇われた33歳の時でした。
  当時フランスでのカジノ営業は都市部では禁じられており、また、法律で遊興施設には劇場と飲食設備が含まれることが定められていたことから、富裕層が多く集まる保養地や観光地の大型カジノでは集客競争に文化施設の充実が欠かせなくなり、劇場目的のヴァカンス客も増加し、大小さまざまな規模でクラシックの演奏会やオペラ上演がおこなわれるようになります。

音楽家たちのヴァカンスを兼ねた稼ぎ場所
資金力のある大型カジノでは、利用客の音楽需要を前提に、フランス各地から集まる音楽家によって楽団を編成していました。たとえばパリのラムルー管弦楽団やコロンヌ管弦楽団、パドルー管弦楽団、パリ・オペラ座管弦楽団といったオーケストラの楽員たちが、ヴァカンスも兼ねてシーズン・オフの収入減をカバーする目的で各地のカジノで演奏していたのです。

カジノ生まれの指揮者
作曲家パレーの指揮者としての初仕事は、そうしたカジノのオーケストラを指揮するというものでした。
  楽員それぞれの腕前は一流ながらも臨時編成という条件付きのカジノの楽団を短時間でまとめあげるプロセスは、指揮者としての腕を磨くには絶好の機会でもあったようで、同じく各地のカジノの楽団を指揮した11歳年長のピエール・モントゥー[1875-1964]と共に、パレーは後年、「オーケストラ・ビルダー」と称えられることになります。
  そして最初の職場であったピレネーのカジノの楽団の中にラムルー管のメンバーがいたことから、翌1920年、パレーのもとにラムルー管弦楽団を指揮する話が舞い込み、見事パリ・デビューを成功させることに繋がります。さらに、デビュー8日目に副指揮者、8か月で首席指揮者という異例の抜擢を受け、その後の飛躍のきっかけともなっていました。

晩年は再びカジノ
長年に渡って世界で活躍したパレーは、1962年、76歳の時にフリーランスになり、翌年モナコ公国モンテ・カルロに移住します。
  その少し前には、ド・ゴール大統領がモナコ公国の租税回避地状態に怒り心頭で、長年に渡ってフランスの富裕層や企業の転出に繋がっていると抗議、国境付近で様々な威嚇行動までおこなっていましたが、モナコ公国が税制優遇からフランス人を除外することで事態がなんとか収拾。
  以後、パレーはモンテ・カルロを拠点に、93歳で亡くなるまでの16年間、世界各地のオーケストラに客演する生活を送りますが、中心になるのはモンテ・カルロで、79歳の時にはモンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団を引き連れて北米43公演という長期ツアーまでおこなっていたほどです。




 収録情報

Disc1
● イベール:交響組曲『寄港地』
デトロイト交響楽団
Rec:March 1962

● ラヴェル:ラ・ヴァルス
デトロイト交響楽団
Rec:March 1962

● ラヴェル:クープランの墓
デトロイト交響楽団
Rec:April 1959

● ラヴェル:道化師の朝の歌
デトロイト交響楽団
Rec:March 1962

● ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
デトロイト交響楽団
Rec:March 1962

● ラヴェル:スペイン狂詩曲
デトロイト交響楽団
Rec:March 1962

Disc2
● エロール:『ザンバ』序曲
デトロイト交響楽団
Rec: November 1960

● オーベール:『王冠のダイヤモンド』序曲
デトロイト交響楽団
Rec: November 1960

● サン=サーンス:『サムソンとデリラ』〜バッカナール
デトロイト交響楽団
Rec: March 1961

● ビゼー:『カルメン』〜ジプシーの踊り
デトロイト交響楽団
Rec: March 1962

● ベルリオーズ:『カルタゴのトロイ人』〜王の狩と嵐
デトロイト交響楽団
Rec: March 1962

● マスネ:序曲『フェードル』
デトロイト交響楽団
Rec: March 1962

● トマ:『ミニヨン』〜ガヴォット
デトロイト交響楽団
Rec: March 1962

● グノー:『ファウスト』からバレエ音楽
デトロイト交響楽団
Rec: March 1962

Disc3
● ワーグナー:『ニュールベルクのマイスタージンガー』コンサート用組曲
デトロイト交響楽団
Rec:February 1960

● ワーグナー:『ワルキューレ』〜ヴォータンの告別と魔の炎の音楽
デトロイト交響楽団
Rec:February 1960

● ワーグナー:『神々の黄昏』〜夜明けとジークフリートのラインへの旅
デトロイト交響楽団
Rec:March 1956

● ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』第3幕への前奏曲
デトロイト交響楽団
Rec:March 1956

● ワーグナー:『さまよえるオランダ人』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:February 1960

● ワーグナー:『リエンツィ』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:February 1960

● ワーグナー:ジークフリート牧歌
デトロイト交響楽団
Rec:March 1956


Disc4
● トマ:『ミニヨン』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1960

● トマ:『レーモン』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1960

● ビゼー:『カルメン』組曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1956

● ビゼー:序曲『祖国』
デトロイト交響楽団
Rec:March 1958

● ビゼー:『アルルの女』第1組曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1956

● ビゼー:『アルルの女』第2組曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1956

Disc5
● ルーセル:組曲ヘ長調,op.33
デトロイト交響楽団
Rec:March 1957

● シャブリエ:狂詩曲『スペイン』
デトロイト交響楽団
Rec:November 1960

● シャブリエ:歌劇『いやいやながらの王様』〜ポーランドの祭り
デトロイト交響楽団
Rec:November 1960

● シャブリエ:歌劇『グヴァンドリーヌ』〜序曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1960

● シャブリエ:歌劇『いやいやながらの王様』〜スラヴ舞曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1960

● シャブリエ:楽しい行進曲
デトロイト交響楽団
Rec:April 1959

● シャブリエ:気まぐれなブーレ
デトロイト交響楽団
Rec:March 1957

● シャブリエ:田園組曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1960

Disc6
● ドビュッシー:夜想曲
デトロイト交響楽団
Rec:March 1961

● ドビュッシー:小組曲
デトロイト交響楽団
Rec:April 1959

● ラヴェル:バレエ『ダフニスとクロエ』第2組曲
デトロイト交響楽団
Rec:March 1961

● ラヴェル:高雅にして感傷的になワルツ
デトロイト交響楽団
Rec:April 1959

● ラヴェル:ボレロ
デトロイト交響楽団
Rec:March 1958

Disc7
● オーベール:『青銅の馬』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:April 1957

● オーベール:『フラ・ディアヴォロ』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:April 1957

● オーベール:『マッサニエロ』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:April 1957

● スッペ:『美しいガラテア』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1959

● スッペ:『スペードの女王』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1959

● スッペ:『軽騎兵』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1959

● スッペ:『詩人と農夫』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1959

● スッペ:『ウィーンの朝・昼・晩』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1959

● スッペ:『ボッカチオ』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1959

Disc8
● オッフェンバック:『美しきエレーヌ』
デトロイト交響楽団
Rec:April 19592

● オッフェンバック:『天国と地獄』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:April 1959

● オッフェンバック:『ホフマン物語』組曲
デトロイト交響楽団
Rec:April 1959

● ロッシーニ:『ウィリアム・テル』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:January 1959

● グノー :あやつり人形の葬送行進曲
デトロイト交響楽団
Rec:April 1959

● サン=サーンス:フランス軍隊行進曲
デトロイト交響楽団
Rec:April 1959

● サン=サーンス:英雄行進曲
デトロイト交響楽団
Rec:April 1959

● マイアベーア:戴冠行進曲
デトロイト交響楽団
Rec:April 1959

● ルージェ・ド・リール:ラ・マルセイエーズ
デトロイト交響楽団
Rec:April 1959

● アダン:『たれもし王者なりせば』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1960

● ルーセル:バレエ組曲『くもの饗宴』
デトロイト交響楽団
Rec:1953

Disc9
● ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調, op.21
デトロイト交響楽団
Rec:January 1959

● ベートーヴェン:交響曲第2番ニ長調, Op.36
デトロイト交響楽団
Rec:January 1959

● モーツァルト:交響曲第35番ニ長調, K. 385 『ハフナー』
デトロイト交響楽団
Rec:October 1956

Disc10
● ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調, op.92
デトロイト交響楽団
Rec:February 1953

● ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調,op.68『田園』
デトロイト交響楽団
Rec:December 1954

Disc11
● シベリウス:交響曲第2番ニ長調, op.43
デトロイト交響楽団
Rec:January 1959

● ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調, Op.95『新世界より』
デトロイト交響楽団
Rec:Februry 1960

Disc12
● ベルリオーズ:序曲『海賊』op.21
デトロイト交響楽団
Rec:March 1958

● ベルリオーズ:序曲『ローマの謝肉祭』op.9
デトロイト交響楽団
Rec:March 1958

● ベルリオーズ:歌劇『トリイアの人々』〜トロイ人の行進曲
デトロイト交響楽団
Rec:April 1959

● ベルリオーズ:劇的物語『ファウストの劫罰』op.24〜ハンガリー行進曲
デトロイト交響楽団
Rec:April 1959

● ベルリオーズ:幻想交響曲,op.14a
デトロイト交響楽団
Rec:November 1959

Disc13
● ウェーバー:舞踏への勧誘,op.65
デトロイト交響楽団
Rec:January 1959

● サン=サーンス:死の舞踏,op.40
デトロイト交響楽団
Rec:January 1959

● リヒャルト・シュトラウス:『サロメ』〜7つのヴェールの踊り
デトロイト交響楽団
Rec:March 1958

● シュミット:バレエ『サロメの悲劇』,op.50
デトロイト交響楽団
Rec:March 1958

● リスト:メフィスト・ワルツ
デトロイト交響楽団
Rec:January 1959

● ボイエルデュー:『白衣の婦人』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1960

Disc14
● ラヴェル:マ・メール・ロワ
デトロイト交響楽団
Rec:March 1957

● ドビュッシー:イベリア
デトロイト交響楽団
Rec:December 1955

● ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
デトロイト交響楽団
Rec:December 1955

● ドビュッシー:海
デトロイト交響楽団
Rec:December 1955

Disc15
● バロー:ひとりの死者への捧げ物
デトロイト交響楽団
Rec:March 1957

● ラロ:『ナムーナ』第1組曲
デトロイト交響楽団
Rec:March 1958

● ラロ:『イスの王様』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:March 1958

● ショーソン:交響曲変ロ長調,op.20
デトロイト交響楽団
Rec:March 1956

Disc16
● ポール・パレー:ミサ曲『ジャンヌ・ダルク没500年を記念して』
フランシス・イーンド(ソプラノ)
フランシス・ビーブル(メゾ・ソプラノ)
デイヴィッド・ロイド(テノール)
イ=クウェイ・ツェ(バス)
ラッカム交響合唱団
メイナード・クリーン(合唱指揮)
デトロイト交響楽団
Rec:October 1956

● サン=サーンス:交響曲第3番ハ短調,op.78『オルガン付』
マルセル・デュプレ(オルガン)
デトロイト交響楽団
Rec:October 1957

Disc17
● ハイドン:交響曲第96番ニ長調『奇跡』
デトロイト交響楽団
Rec:October 1956

● メンデルスゾーン:『真夏の夜の夢』より
デトロイト交響楽団
Rec:March 1958

● メンデルスゾーン:交響曲第5番ニ長調,op.107『宗教改革』
デトロイト交響楽団
Rec:March 1958

Disc18
● シューマン:交響曲第1番変ロ長調,op.38『春』
デトロイト交響楽団
Rec:March 1958

● シューマン:交響曲第3番変ホ長調,op.97『ライン』
デトロイト交響楽団
Rec:November 1956

Disc19
● シューマン:交響曲第2番ハ長調,op.61
デトロイト交響楽団
Rec:December 1955

● シューマン:交響曲第4番ニ短調,op.120
デトロイト交響楽団
Rec:December 1954

● シューマン:『マンフレッド』序曲,op.115
デトロイト交響楽団
Rec:March 1958

Disc20
● ラフマニノフ:交響曲第2番ホ短調,op.27
デトロイト交響楽団
Rec:March 1957

● リムスキー・コルサコフ:交響曲第2番 ,op.9『アンタール』
デトロイト交響楽団
Rec:December 1953

Disc21
● ワーグナー:『ローエングリン』〜第1幕への前奏曲
デトロイト交響楽団
Rec:February 1953

● ワーグナー:1『ローエングリン』〜第3幕への前奏曲
デトロイト交響楽団
Rec:February 1953

● ワーグナー:1『さまよえるオランダ人』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:November 1954

● ワーグナー:1『ニュールベルクのマイスタージンガー』〜第1幕への前奏曲
デトロイト交響楽団
Rec:February 1953

● ブラームス:交響曲第4番ホ短調, Op. 98
デトロイト交響楽団
Rec:March 1955

Disc22
● ワーグナー:『パルジファル』〜第1幕への前奏曲
デトロイト交響楽団
Rec:March 1956

● ワーグナー:『パルジファル』〜聖金曜日の音楽
デトロイト交響楽団
Rec:November 1954

● ワーグナー:『ワルキューレ』〜ワルキューレの騎行
デトロイト交響楽団
Rec:February 1953

● ワーグナー:『タンホイザー』序曲
デトロイト交響楽団
Rec:February 1953

● ワーグナー:『ジークフリート』〜森のささやき
デトロイト交響楽団
Rec:November 1954

● ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』〜前奏曲と愛の死
デトロイト交響楽団
Rec:March 1955

Disc23
● リムスキー・コルサコフ:序曲『ロシアの復活祭』,op.36
デトロイト交響楽団
Rec:December 1953

● リムスキー・コルサコフ:スペイン奇想曲,op.34
デトロイト交響楽団
Rec:February 1953

● フランク:交響曲ニ短調
デトロイト交響楽団
Rec:November 1959(3-5)

Disc24
● ダンディ:フランス山人の歌による交響曲,op.25
マリグリット・ロン(ピアノ)
コンセール・コロンヌ管弦楽団
Rec:May 1934

● ベルリオーズ:序曲『ベンヴェヌート・チェッリーニ』, op.25
コンセール・コロンヌ管弦楽団
Rec:1947-48

● ベルリオーズ:『ファウストの劫罰』〜ハンガリー行進曲
コンセール・コロンヌ管弦楽団
Rec:1947-48

● デュカス:ラ・ペリ
コンセール・コロンヌ管弦楽団
Rec:1947

Disc25
● ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調,op.68『田園』
コンセール・コロンヌ管弦楽団
Rec:22-25 May 1934

● ムソルグスキー:交響詩『禿山の一夜』
コンセール・コロンヌ管弦楽団
Rec:28 March 1934

● ベートーヴェン:『アテネの廃墟』〜トルコ行進曲 op.113
コンセール・コロンヌ管弦楽団
Rec:28 March 1934

ポール・パレー(指揮)


 目次

【パレー関連情報】
1886 ノルマンディーに誕生
1891 父が最初の師
1895 ルーアン大聖堂の付属校
1904 パリ音楽院
1910 ローマ賞
1914 第1次大戦で引き離された家族
1919 指揮者に転身、コートレー・カジノ管
1920 ラムルー管
1928 ヴィシー歌劇場
1928 モンテカルロ劇場
1929 ストラスブール市立管
1932 コロンヌ管
1934 パリ・オペラ座
1939 ニューヨーク万博演奏会
1939 NBC響共同指揮者への誘い
1940 第2次大戦
1940 モンテカルロ劇場
1941 フランス国立放送管
1945 コロンヌ管
1949 イスラエル・フィル
1951 デトロイト響
1953 象牙の指揮棒
1959 フランス国立放送フィル
1962 フリーランス、モンテカルロ国立歌劇場

【年表】
1886 1887 1888 1889 1890 1891 1892 1893 1894 1895 1896 1897 1898 1899 1900 1901 1902 1903 1904 1905 1906 1907 1908 1909 1910 1911 1912 1913 1914 1915 1916 1917 1918 1919 1920 1921 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945 1946 1947 1948 1949 1950 1951 1952 1953 1954 1955 1956 1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979

明治 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45
大正 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
昭和 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 34 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54

【商品関連リンク】
●商品説明:年表シリーズ一覧




 1886 ノルマンディーに誕生

植民地貿易で発展した象牙とカジノと音楽の町ディエップ
パレーの父オーギュスト[1853-1934]は、ノルマンディーの避暑地ディエップの出身。植民地貿易で潤い、16世紀にはフランス最大の港だったディエップにはアフリカの象牙も多く集まり、象牙彫刻の一大拠点としても知られるようになります。
  一方で経済が発展したことから1822年にはカジノが建設されますが、当初からオーケストラが演奏するテラスが設けられるなど(下の画像の左下の建物の中央部分)、音楽が重視されているのはフランスらしいところです。


集客の高まりとともに施設も大規模化し、さらに音楽も盛んになって行きます。下の画像は1880年代のものですが、ネオ・ムーア様式の建築には大きなカジノと劇場も併設。後年、1902年から1914年にかけてモントゥーが何度も来訪してオペラや演奏会を指揮しており「春の祭典」を成功させてもいます。


父は象牙彫刻職人で音楽家
そうした環境で育った父は、精巧な象牙彫刻の技術を身につけ、独学でピアノも演奏。さらに軍楽隊に3年間在籍した際に、指揮や作曲の技術も習得していました。

近隣のル・トレポールに転居し成功
ほどなく父は同じノルマンディー地方の港町ル・トレポールに転居。ル・トレポールはディエップ郡に属し、海岸の断崖絶壁と海水浴場で知られています。下の画像は聖ジャック教会で、断崖絶壁の画像は年表の方に載せてあります。
  父は同地で象牙彫刻販売を始め、やがてルーアンの副司教ピカール神父の妹である母オルタンス[1862-1947]と結婚、ホテル業を営むようになります。

ル・トレポールでポール・パレー誕生
1886年5月24日、ノルマンディーのセーヌ=アンフェリユール県ディエップ郡ル・トレポールに、ポール・マリー・アドルフ・シャルル・パレーが誕生。普仏戦争から15年、第三共和政初期の世の中で、フランスはまもなく激動の20世紀を迎えることになります。


↪目次


 1891 父が最初の師

父は地元で活躍する音楽家
ホテル仕事の傍ら、父は地元の聖ジャック教会のオルガニストを務めていたほか、指揮や作曲もおこない、夏場にはその教会で、市立楽団とオルフェオンを率いて、ハイドンの「天地創造」や、ベルリオーズの「キリストの幼時」などのほか、グノー、メンデルスゾーン、サン=サーンスのオラトリオやカンタータも指揮(オルフェオンは1833年に始まったフランスの男声合唱運動の産物である合唱団)。

幼少期から父のリハーサルに参加
パレーはそうした父のリハーサルに幼少期から参加しており、1890年、4歳の時には「キリストの幼時」と「エリヤ」の中の曲で、後年の驚異的な記憶力の片鱗を見せてもいます。

小太鼓でボーヴェ市の一等賞を獲得
パレーの才能を見込んだ父は小太鼓を買い与えて指導、熱中したパレーはすぐに上達し、1891年、5歳の時にボーヴェ市の一等賞を得ています。

オルガン演奏を指導
地元で父が弾いていたオルガンは、聖ジャック教会に1890年に設置されたカヴァイエ=コルの楽器。カトリックの大聖堂や大規模な教会の多いフランスでは、オルガンも大型志向でしたが、カヴァイエ=コルの楽器は多彩な工夫でピアニスティックな弾き方でも十分な表現力を獲得できるようになっているのが特徴。パレーの上達は早く、1893年、7歳の時には教会で父の代わりを務めることも多くなります。


パレーの兄オーギュストと妹マリー
パレー3兄弟は、父オーギュストから楽器演奏や作曲など音楽に関する多くのことを学んで音楽家となっています。
  3歳年長の兄、オーギュスト・アドルフ・シャルル・パレー[1883-1950]は、ルーアン大聖堂のオルガニストで音楽教授でもあり、ミュルーズ市立劇場のほか、ヴィシー、カルカッソンヌ、リヨン、ナントの劇場のオーケストラでも活動。
  3歳年少の妹、マリー・オルタンス・オーギュスタ・パレー[1889-1923]はピアニストになりましたが、33歳で死去しています。


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 1895 ルーアン大聖堂の付属校

盛りだくさんな教育
1895年、カトリックのパレーは、兄のオーギュストの学ぶルーアン大聖堂の聖エヴォディウス校に入学。この学校は聖歌隊が教育機関を兼ねたもので、パレーは聖歌隊で歌う一方で、オルガン、ピアノ、チェロ、ティンパニ、対位法、和声、理論、ルネサンス音楽、グレゴリオ聖歌を学ぶため、アドルフ・ブルドン[1850-1928]とジュール・アエリング[1869-1926]らに師事。
  10歳の時には、ルーアン大聖堂で行われたアドルフ・ブルドン指揮ルーアン芸術劇場管弦楽団と合唱団によるベートーヴェンのミサ曲ニ長調の演奏会で、ティンパニを担当していました。

オルガンへの愛着、マルセル・デュプレとの親交
同級生には、のちに著名なオルガニストになるマルセル・デュプレ[1886-1971]がおり、2人で長大なヴィドールやヴィエルヌの作品を演奏したほか、フランクやレーガー、ブルックナーのオルガン楽譜を分析したりしていました。また、パレーはバッハのオルガン曲が好きで、16歳までに多くの作品を暗譜していたのだとか。

作曲
14歳の時に「マニフィカト」を作曲したほか、17歳で合唱とオルガンのためのオッフェルトリウム「正しき者の口は知恵を語り」、ピアノ曲「スケルツォとタランテラ」、歌曲「月への言葉」などを作曲していました。


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 1904 パリ音楽院

きっかけはオルガニストとの交流
1903年の夏、パレーはヴァカンスでル・トレポールを訪れていたオルガン奏者で作曲家のアンリ・ダリエの知己を得て交流。パレーの才能を高く評価したダリエは、パリ音楽院入学資格の取得を支援し、1904年、パリ音楽院に無事入学。在学中にマルセル・デリリ[1893-1990]と恋愛関係になります。

アンリ・ダリエ[1849-1934]
オルガン奏者、作曲家、教師。パリ音楽院でフランク、バザンらに師事。1879年にパリの聖ユスタシュ教会オルガン首席奏者。1905年にフォーレの後任としてマドレーヌ教会オルガン奏者。1908年からパリ音楽院で和声を指導。


パリ音楽院入学
1904年年、パレーはパリ音楽院に入学。6年間の在学中、グザヴィエ・ルルー、ジョルジュ・コサード、シャルル・ルヌヴー、ポール・ヴィダルらに、和声、作曲、対位法を師事。

グザヴィエ・ルルー[1863-1919]
作曲家、教師。パリ音楽院でマスネ、デュボワらに師事。1885年にローマ大賞受賞。1896年からパリ音楽院で和声を指導。


ジョルジュ・コサード[1873-1936]
作曲家、教師。パリ音楽院でデュボワ、トードゥらに師事。1905年からパリ音楽院で対位法、1921年からフーガを指導。


シャルル・ルヌヴー[1840-1910]
作曲家、教師。パリ音楽院でトマらに師事。1865年にローマ賞2位、1866年にローマ大賞受賞。1880年からパリ音楽院で和声法と作曲を指導。1894年にギローの後任として作曲の教授に就任。


ポール・ヴィダル[1863-1931]
作曲家、指揮者、教師。パリ音楽院でフランク、マスネらに師事。1883年にローマ大賞受賞。パリ・オペラ座などで指揮。1910年からパリ音楽院で理論、作曲、伴奏を指導。


パリ音楽院卒業
入学から6年後の1910年、パレーは和声で一等賞、対位法で二等賞を得て卒業しています。


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 1910 ローマ賞

わけありの2位
1910年7月、ローマ賞コンクールに応募し、カンタータ「アシとガラテー」によってローマ賞2位を獲得。サン=サーンス、フォーレ、ヴィドールら音楽部門の審査員たちはパレーを選び1位だったものの、アカデミーの他ジャンルから審査結果を覆され、最終的にノエル・ギャロン[1891-1966]が1位となっています。


2度目の挑戦で優勝
1911年7月、パレーは再びローマ賞にチャレンジし、今度はカンタータ「ヤニッツァ」によってローマ大賞を受賞しています。審査員はサン=サーンス、フォーレ、ヴィドール、ピエルネほかでした。


幸せなローマ留学
大賞受賞者はローマのヴィラ・メディチに留学というコンクールで、パレーはここで作曲家として大きな飛躍を遂げています。
  ローマには、リリ・ブーランジェ、ノエル・ギャロン、クロード・デルヴァンクールらが留学しており、パレーは彼らと親しく交流し、作曲、演奏に明け暮れる日々を過ごします。
  アンプレシオン、ロマンティックな反射、戦場、ピアノと管弦楽のためのヴィラネル、オラトリオ「ジャンヌ・ダルク」、声と管弦楽のための「シャンソン・ヴィオレット」、声とピアノのための「奇妙な夜」、声とピアノのための「ヴィオール」、声、オーボエとオルガンのための「あなたに」などを作曲。恋人のマルセル・デリリも同行していたので、留学兼新婚旅行のような幸せなものでした。
  しかし1914年8月、フランスがドイツに宣戦布告したため、パレーはパリに急いで帰還することになります。


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 1914 第1次大戦〜引き離された家族

留学先から急遽帰国
1914年8月、ローマから急いで帰国したパレーは、間もなくドイツがフランスに宣戦布告したためフランス陸軍兵士として出征することを余儀なくされます。

西部戦線で戦闘ののち俘虜に
パレーはベルギーの前線、いわゆる西部戦線に送られ、本部と前線を行き来する伝令兵として軍務につきます。第1次大戦時の伝令兵は死傷率が非常に高く危険な任務でしたが、パレーはドイツ軍砲兵による砲撃はいつも同じ間隔であることに気付き、間を縫うようにして無傷で任務をこなしていました。しかし2か月後、部隊の降伏により俘虜としてダルムシュタットに移送されることになり、同地の俘虜収容所で、1918年3月までの3年半を過ごしています。
  同じ頃、モントゥーはフランス陸軍第35歩兵連隊に配属され、西部戦線で塹壕生活を送っていましたが、2年後にはディアギレフが北米ツアーに同行させるため、前線任務の解除をフランスの戦時局に要請し、除隊させていました。前線から輸送トラックの待ち合わせ場所までは50キロ近くもありましたが、モントゥーは重い兵装に加えてヴァイオリン・ケースと楽譜の束を抱えながら徒歩で移動したのだとか、
  ちなみにドイツ国籍のミュンシュはドイツ陸軍第51砲兵隊に所属し、西部戦線でフランス軍と戦っていました。

ドイツ軍への協力は拒否
パレーはダルムシュタットでドイツ軍音楽家との共同作業を求められますが拒否したため、自由に使える楽器はなく、日曜日の礼拝用にハルモニウムを演奏するだけでした。
  そのため作曲は楽器無しでおこない、弦楽四重奏曲もそうして書かれたということです。

長女の誕生
1915年2月には、恋人のマルセル・デリリが女児を出産しており、名前をパレーの「ポール(Paul)」と同じ発音の「ポール(Paule)」としています。これは、娘と恋人の名を同時に呼びかけられるというネーミングです。

衰弱した状態で帰還
そして1918年4月、パレーは爪がすべてはがれるほど衰弱し肺も悪くして帰還。3歳になった娘と対面し、12月にマルセルと結婚しています(同じ頃、ミュンシュは戦争が終わるとフランス国籍を取得し、数年フランスで活動したのち1932年までドイツでヴァイオリン奏者として活動)。


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 1919 コートレー・カジノ

南仏ピレネーで指揮者に転身
1919年の夏、パレーはコートレーのカジノでオーケストラの指揮者として採用されます。コートレーは、南仏ピレネーの標高940メートルのところにあり、19世紀にはヴィクトル・ユーゴーやハインリヒ・ハイネ、ジョルジュ・サンドなども訪れた温泉保養地。

指揮者としての資質が高評価
パレーは19世紀生まれの多くの指揮者と同じく、指揮の本格的な勉強はしていませんでしたが、ここで多くの経験を積み、その適性と能力の高さを認められています。驚異的な記憶力と耳の良さも役に立ったようです。

ラムルー管の楽員との出会い
オーケストラの楽員は、他の温泉保養地と同じく、公演ごとに演奏報酬が得られるということで、ヴァカンスを兼ねたラムルー管弦楽団やコロンヌ管弦楽団、パドルー管弦楽団、パリ・オペラ座管弦楽団などのメンバーが100人ほど集まっていました。
  ここでの経験が、翌年のラムルー管演奏会への出演に繋がることになります。


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 1920 ラムルー管弦楽団

ワグネリアンのつくったオーケストラ
1881年、熱烈なワグネリアンのシャルル・ラムルー[1834-1899]がパリで創設した「新音楽協会(ソシエテ・デ・ヌーヴォー・コンセール)」は同時代の音楽を紹介することを主目的としたオーケストラ。まずワーグナーに熱心に取り組み、演奏会形式全曲上演も含めた演奏で有名になり、続いてフランス音楽、ロシア音楽でも名を馳せています。
  1893年にロシア公演、1896年にイギリス公演もおこなって名声も高まったところで、1897年、ラムルーはオーケストラを娘婿の指揮者カミーユ・シュヴィヤール[1859-1923]に譲っています。


ラムルー管弦楽団に改名し組織形態も変更
新会長で首席指揮者のシュヴィヤールは楽団名を「新音楽協会」から「ラムルー管弦楽団」と改名し、組織形態も「協会」方式としています。これは演奏会を自己資金で開催し、利益を基金に積み上げ、年度末に楽員に分配するというシビアな運営方法です。

戦争の影響
第1次大戦中は徴兵によって楽員が大幅に減ったため、同じく「協会」方式で運営されているコロンヌ管弦楽団と合併し「コロンヌ=ラムルー管弦楽団」として活動。シュヴィヤールとピエルネが交互に指揮していましたが、戦後に元に戻しています。
  ラムルー管は元通りになりましたが、会長のシュヴィヤールはラムルー管の首席指揮者のほかに、パリ・オペラ座の音楽監督も兼務、パリ音楽院でも教授職を務めていたことから多忙をきわめ、追加の指揮者を探す必要に迫られています。


そうした状況の中、公演を支えていた指揮者のひとりで、ドビュッシーの協力者でもあったアンドレ・カプレ[1878-1925]が体調を崩して指揮できなくなり、シュヴィヤールからパレーに電話がかかってきます。カプレはドイツ軍の毒ガス攻撃によって胸膜炎となっていました。
   パレーのデビュー、8日で副指揮者
そして前年の1919年にコートレーのカジノ楽団でパレーの指揮に感銘を受けていた楽員のおかげで、パレーはラムルー管に登場することになります。
  初日は1920年2月29日。パレーは、ワーグナー、ベルリオーズ、シャブリエ、デュパルク、ドビュッシーから成るプログラムでパリのサル・ガヴォー(1,000席)でデビューして成功を収め、8日後には楽員全会一致で副指揮者に選出されています。


戦後の厳しい社会環境下でのレパートリー形成
第1次大戦後のフランスでは、ドイツ軍の破壊した工場や農場、鉱山、鉄道などの深刻な被害のほか、18歳から27歳までの男性の27%、約140万人が殺されたため経済への打撃が大きく(移民200万人で労働力を補う計画が実施)、さらに戦時中から進行していたインフレにより、オーケストラへの補助金が実質的に減少していました。
  そのため、リハーサルを減らして公演数を増やす必要があり、パレーは副指揮者として多くの公演を指揮するかたわら、シュヴィヤールから実務的な指導も受けてレパートリーを拡大。
  ラムルー管はドビュッシーやラヴェル、ダンディなどの初演を作曲家立ち合いで数多くおこなってきた実績を筆頭に、フランス、ドイツ、ロシアの音楽などによってレパートリーを構築しています。
  パレーの得意とする曲目の多くがそれらと重なっているのは、驚異的な記憶力で現場経験を取り込むパレーの能力の賜物でもあり、そしてまたパレーの指揮者としての基礎がこのラムルー管時代にで固められたとも考えられます。

8か月で首席指揮者、3年で会長
実際、パレーの進境は著しく、デビューから8か月後には首席指揮者(監督)となり、3年後の1923年6月には、シュヴィヤールの死によりラムルー管の会長に就任しています。
  パレーはハイフェッツやメニューインを招く一方で、イベール「寄港地」の初演などもおこなうなど多彩なレパートリーを取り上げ、1922年にパレーはイダ・ルビンシテイン(ディアギレフのロシア・バレエ団から独立した人物)の委嘱により、バレエ音楽「不安なアルテミス」の音楽を作曲してもいました。

狂騒の20年代
背景には戦後環境が数年のうちには「狂騒の20年代」と言われるほどの活況を呈する消費状況になったことがあり、パリのオーケストラ業界でも、以下のような団体がしのぎを削っていました。

  ■パリ音楽院管弦楽団(1828年設立)ゴーベール、ビゴー、他
  ■パドルー管弦楽団(1861年設立)ルネ=バトン、ヴォルフ、インゲルブレシュト、他
  ■コロンヌ管弦楽団(1873年設立)ピエルネ、他
  ■ラムルー管弦楽団(1881年設立)パレー、シュヴィヤール、他
  ■グラン・コンセール・サンフォニーク(1921年設立)クーセヴィツキー
  ■ストララム管弦楽団(1925年設立)ストララム、ビゴー、他
  ■プーレ管弦楽団(1926年設立)プーレ、他
  ■パリ交響楽団(1928年設立)モントゥー、ビゴー、フレスティエ、他

以上のほかにも、パリ・オペラ座管弦楽団、オペラ=コミーク座管弦楽団もオーケストラ演奏会をおこなっており、また、シャンゼリゼ劇場などではスウェーデン・バレエ団やロシア・バレエ団がインゲルブレシュト、デゾルミエール、ゴルシュマンらの指揮でストラヴィンスキーなどのバレエを上演、さらに外来オケや他都市オケのパリ公演もあったりで、まさに世界最高レベルの賑わいを見せていたのが当時のパリのオーケストラ業界だったのです。

パレーと楽団運営陣の対立
こうした過度の競争環境で、しかも補助金も頼れないという状況では、楽団運営陣の基本方針も集客優先となるのは致し方のないところでもありますが、パレーの方は譲歩することなく、初演曲や無名曲、初めて招聘するアーティストも多いままだったため、運営委員会はパレーとの契約を延長しませんでした。
  そしてパレーはヴィシー歌劇場とモンテ・カルロ劇場という共にカジノの劇場からのオファーを受け、新たな職場での活動を開始することになります。


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 1928 ヴィシー歌劇場

皇帝の「ル・カジノ」
ヴィシーの温泉が気に入っていたナポレオン3世は、浴場しかなかったヴィシーに大規模な娯楽施設をつくるよう要請。皇帝の命を受けて1863年に建設が開始され、1865年7月に開場したのがヴィシーのカジノです。
  このカジノには、当初から約1,000席の劇場が備えられており、オーケストラの演奏もおこなうことが可能でした。


隣にオペラハウスを建設
しかしヴィシーの人気の過熱によって劇場来訪者が増えて手狭となったため、1901年、カジノの正面右隣に新たな劇場の建設を開始、1903年にヴィシー歌劇場として開場しています。座席数は1,483席で、パリ・オペラ座に次ぐ規模のオペラハウスでした。


カジノも増改築して「グラン・カジノ」へ
その際、カジノ本体の方も増改築がおこなわれ、名称も「Le Casino」から「Grand Casino」に変更されています。
  以後、ヴィシーでは、オペラや声楽大作は歌劇場で、オーケストラ・コンサートや室内楽コンサートはカジノの劇場で演奏されるようになります。


パレーの音楽監督就任
1928年、パレーはヴィシー歌劇場の音楽監督に就任しており、1933年までの夏場、オペラと声楽大作、オーケストラ演奏会を指揮しています。両者で演奏するオーケストラの名称は「ヴィシー・グラン・カジノ管弦楽団」となっており、戦後はランパルなども所属していました。


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 1928 モンテ・カルロ劇場

パリ・オペラ座の建築家による豪華な劇場
1879年1月25日、モンテ・カルロ劇場が開場。カジノに併設されたこの劇場は、モナコ公国のシャルル3世によって建設されたもので、設計はパリ・オペラ座と同じシャルル・ガルニエが担当。

ミニ国家の中劇場
南仏とイタリアに挟まれたモナコ公国は面積約2㎢、人口約3万人のミニ国家。そのためモンテ・カルロ劇場は座席数524の中ホール仕様で、建設当初は演劇や演奏会、オペレッタでの使用を想定。
  しかし1892年、ロシア皇帝の推薦で演出家ラウル・ガンズブール[1860-1955]がモンテ・カルロ劇場総監督に就任するとオペラの需要が増加。1897年に舞台部分や天井などの改装に取り掛かり7年越しでオペラ対応を完了しています。ガンズブールは1951年まで実に59年間に渡って監督業務と演出を担当していました(ユダヤ人なのでドイツ占領期の1年間はスイスに避難)。

初演オペラは45曲
ガンズブールの評判もあり、モンテ・カルロ劇場にはカルーソーやシャリャーピン、メルバなども出演しいていたため、初演オペラも数多く、プッチーニ「つばめ」、マスネ「ドン・キショット」「テレーズ」「ノートルダムの曲芸師」、ビゼー「ドン・プロコピオ」、フォーレ「ペネロペ」、ラヴェル「子供と魔法」など45曲もの初演がおこなわれています。

バレエも強力
1911年、ディアギレフの「ロシア・バレエ団」がモンテ・カルロ劇場を本拠地としたことで、以後、バレエの強力な伝統が継承されることになります。ディアギレフはモナコのアルベール1世から支援を受けていました。

オーケストラ黎明期
1856年12月14日、モナコのカジノ「メゾン・ド・ジュー」で、15人ほどの楽団によって最初の演奏会をおこなったのが、モンテ・カルロ劇場のオーケストラの始まりでした。といってもそのカジノはシャルル3世が、ヴィラ・ベルヴュー内にモナコ初のカジノとして開場させたもので、場所はモンテ・カルロ地区に隣接するラ・コンダミーヌ地区でした。
  1862年、カジノはモンテ・カルロ地区に移転しますが、この時もまだロシア・ホテルの中で営業するという体裁で手狭な状態であり、楽団にも名前はありません。

オーケストラの名前の変遷
1863年、カジノとホテル・リゾートを運営する団体「SBM(Société des Bains ded Mer et du cercle des étrangers à Monaco)」が設立され、大規模なカジノが新たに建設。楽団に名前が付いたのもこの時で、運営団体名から一部をとって「Orchestre du nouveau cercle des étrangers」としています。日本語にすると「外国人サークル新管弦楽団」といったところでしょうか。


1866年、カジノ施設の大掛かりな改築と共に、演奏会・ホールが追加。これによりオーケストラの規模の拡大が始まり、パリから来た音楽家などによって楽員が増え、1870年代には70名規模になっています。


1879年、カジノの裏側(海側)に隣接してモンテ・カルロ劇場が開場した段階で、オーケストラの名前は「モンテ・カルロ劇場管弦楽団」となりその後79年間継続。


1958年には「モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団」と改名して22年間継続。そして1980年には「モンテ・カルロ・フィルハーモニー管弦楽団」と改名し、現在43年目を迎えています(2002年から1,000席の新ホール、「オーディトリアム・レーニエV」が演奏会本拠地)。

前音楽監督の死去によりパレーが就任
1928年2月、モンテ・カルロ劇場で1889年から39年に渡って音楽監督を務めていたレオン・イェアン[1853-1928]が死去したためパレーが招かれます。
  パレーはここで根気よくオーケストラを指導しますが、就任の翌年には世界大恐慌が始まり、主に富裕層によって成り立っていたモナコにも影響が波及することになります。
  また、1932年10月からは週1公演のモンテ・カルロと、週2公演のコロンヌ管と兼務になり、毎週パリとモンテ・カルロを往復する事態になったため、1年3か月後の1934年1月、ちょうど6年目が終了するタイミングで、パレーはモンテ・カルロを去っています。


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 1929 ストラスブール市立管弦楽団

オペラのオーケストラ
1929年、パレーはストラスブール市立管弦楽団(現ストラスブール・フィル)の音楽監督に就任。ストラスブール市立管弦楽団は、ストラスブール市が運営する「ストラスブール市立歌劇場」のオーケストラで、年に数回おこなわれるオーケストラ演奏会の際に「ストラスブール市立管弦楽団」の名前を使用していました。

専用オケ設立までの経緯
ストラスブール市立歌劇場が開場したのは1821年ですが、ストラスブール市による建設は1804年から実に17年もかかっており、市の出費総額は当初の見積もり30万フランに対して7倍以上に膨れ上がった約215万フランまで拡大。市は費用捻出のために市有地や市の財産などを処分してもいました。
  そのため、専用オーケストラの設立は遅れ、1855年に元治安判事のジャン=ギヨーム=ルイ・アプフェルが歌劇場のために全財産53,000フランを遺贈した段階でようやく結成されています。

ストラスブール市立歌劇場音楽監督バスティード
オペラの方では、1919年から1938年にかけてポール・バスティード[1879-1962]が19年間に渡って音楽監督として在任。このパレーより7歳年長で経験豊富なオペラ指揮者のキャリアは、パレーとはストラスブールで約10年間一緒で、戦争が始まるとマルセイユに移ったのも同じでした。以下、簡単に略歴を記しておきます。
  バスティードはエクサンプロヴァンス大学とパリ音楽院(和声で一等賞)で学んだのち、1898年から翌年までマルセイユ歌劇場で合唱指揮者を務め、以後、ハーグ、カイロ、ヴィシーなどで経験を積み、1919年にストラスブール歌劇場の音楽監督に就任して1938年まで指揮。その間、1932年から1936年まではパリのオペラ=コミーク座の音楽監督を兼務。ドイツに占領されると自由地域に移り、1941年から1945年まで、マルセイユ市立歌劇場の音楽監督を務め、1945年から1948年にかけては、ストラスブール市立劇場に復帰。以後、フリーランスとなり、1948年から1952年までオペラ・コミーク座の音楽指導を引き受けたほか、パリ・オペラ座にも客演し、最晩年はヴィシーのカジノ劇場に再び出演していました。

ミュンシュの指揮の師匠、バスティード
ちなみにバスティードはミュンシュの指揮の師匠で、1930年代初頭に多くの助言を与えています。ミュンシュのもうひとりの指揮の師匠はセンドレイ[1884-1976]で、この2人に教えを受けながら、ミュンシュは1932年11月、奥さん(ネスレ創業者の孫)の雇ったストララム管弦楽団を指揮してパリ・デビューしていました。



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 1932 コロンヌ管弦楽団

1932年、コロンヌ管弦楽団首席指揮者に就任。世界大恐慌下での運営は厳しく、パリ交響楽団などはマイナス影響が長引いた上にモントゥーが去ったこともあって1938年に解散に追い込まれるような状況でした。
  1939年にはそこに追い打ちをかけるかのように、フランス政府による大規模な徴兵が始まってどの劇場もオーケストラも楽員数が大幅に減り、コロンヌ管弦楽団とラムルー管弦楽団は、第一次世界大戦のときと同じように合同組織「コロンヌ=ラムルー管弦楽団」として戦時下を過ごすことを決定。パレーと友人のウジェーヌ・ビゴー[1888-1965]の共同体制となります。


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 1934 パリ・オペラ座

1934年、パリ・オペラ座の支配人ジャック・ルシェにより首席指揮者に任命。ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」、「マイスタージンガー」、「ラインの黄金」、「ジークフリート」、サン=サーンス「サムソンとデリラ」、R=コルサコフ「金鶏」、デュカス「アリアーヌと青髭」、ベルリオーズ「ファウストの劫罰」など指揮したほか、オーケストラ演奏会では、ドビュッシー生誕100周年記念演奏会やオール・ワーグナー演奏会、ベートーヴェン9番、ハイフェッツとの共演もおこなったりしています。


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 1939 ニューヨーク万博演奏会

1939年7月、ニューヨーク・フィル。ニューヨーク万国博覧会とフランス高等弁務団の後援により巨大なルイゾーン・スタジアムでフランス音楽演奏会を開催。ドビュッシー:夜想曲、ラヴェル:ラ・ヴァルス、フォーレ:パヴァーヌ、シャブリエ:気まぐれなブーレ、ベルリオーズ:ファウストの劫罰から。これがアメリカ・デビューとなります。


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 1939 NBC交響楽団共同指揮者への誘い

1939年7月、ニューヨーク・フィルの公演を成功させたパレーのもとに、NBC交響楽団の共同指揮者(トスカニーニと)に就任して欲しいという要請がありますが、フランスが政情不安だったため、辞退して帰国しています。
  NBC交響楽団は1937年に設立されたばかりのオーケストラ。当初、トレーニングのためにロジンスキーが雇われていましたが、思わしくなかったためモントゥーも参加してなんとかオーケストラとして仕上げることに成功、無事にトスカニーニを迎えていましたが、トスカニーニが世界的な客演活動で多忙なことと、すでに辞任騒ぎなどもあったため、運営側がパレーに目を付けたものと思われます。


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 1940 第2次大戦

コロンヌ管弦楽団首席指揮者を抗議の辞任
1940年、フランス当局は、コロンヌ管弦楽団の創始者エドゥアール・コロンヌ[1838-1910]がユダヤ人だったことから楽団名称を「パレー管弦楽団」に変更するよう要求しますが、パレーは拒否し、さらにユダヤ人楽員の「名簿」が要求されたため、パレーはこれも拒否して抗議のため首席指揮者を辞任しています。
  楽団は31年間指揮者だったガブリエル・ピエルネ[1863-1937]の名をとって「ピエルネ管弦楽団」に改名されています。
  同じ頃、母校のパリ音楽院ではラボー院長のもとユダヤ人「名簿」が粛々と作成されており、パリ音楽院管弦楽団も危機に瀕していました(1938年から1946年までミュンシュが首席指揮者)。

ドイツ占領地域からモナコ、自由地域(フランス国)へ
辞任したパレーは恋人がユダヤ人だったこともあり、北のドイツ占領地域を離れてモナコ公国に移住、以後、モナコと南の「フランス国」で活動することになります。下の画像の色の薄い部分が占領地域で、濃い部分が「フランス国」の自由地域、その右隣がモナコ公国です。
  「自由地域」とはいっても、占領軍がいない分、フランス警察と国家憲兵隊による監視は厳しく、言葉が通じるだけに、ドイツとイタリアの「占領地」よりもかえって不自由だったとされるのがヴィシー政府管轄地域の都市部でもあり、ユダヤ人のクララ・ハスキルも1942年9月に警察に連行され危ないところでした(支援者のおかげで釈放されスイスに脱出)。


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 1940 モンテ・カルロ劇場

反ユダヤ主義を避けて移住
1940年、反ユダヤ主義への抗議によりコロンヌ管の首席指揮者を辞任したパレーは、古巣でもあるモンテ・カルロ劇場のあるモナコ公国に移住します。背景には、恋人ヨランド・ファルク[1901-1985]がユダヤ人という事情もあります。
  以後、フランス解放が進むまでパレーはモナコを拠点に、マルセイユなど南仏エリア「フランス国」地域での活動も継続します。

解雇ユダヤ人楽員にも貢献
モンテ・カルロ劇場では1940年から1942年までオペラの舞台上演はおこなわれませんでしたが、演奏会形式での上演や、オーケストラ・コンサートは実施されていたため、フランス政府により解雇されたユダヤ人楽員たちを集めて起用することも可能でした。

再婚
1942年8月、フランス国籍のパレーとヨランドは南仏に出向いて再婚。その後37年間行動を共にすることになるヨランドは、ドイツ領時代のアルザスに生まれ育ちフランス語のほかにアルザス語とドイツ語、英語も堪能。このドイツ語がドイツ占領下のフランスでの情報収集に有効だったほか、1948年に建国されるイスラエルでも役立つことになります(当時のイスラエルではドイツ語とイディッシュ語が主要な言語だったので)。

イタリアが占領
1942年11月、隣接するイタリアがモナコ公国に侵攻してファシスト政治局を設立し、1943年9月にバドリオ内閣が連合国に降伏するまで10か月間に渡ってモナコ公国を占領。

ドイツが占領
1943年9月、イタリア降伏後はドイツがモナコ公国を占領。1年間続きますが、ドイツは戦前からモナコ公国で「経済制裁」への対策として租税回避やマネーロンダリングをおこなっていたためモナコ公国は特別扱いとなっていました。
  しかしユダヤ人迫害はおこなわれ、モナコ政府が偽の書類を手配はしたものの、モナコのユダヤ人のうち90人が強制収容所に送られています(81人殺害)。モンテ・カルロ劇場総監督のガンズブールはユダヤ人だったため辞任させられてスイスに避難、その間、パレーとモンテカルロ・バレエ団監督のマルセル・サブロンが劇場を仕切っています。

弦楽交響曲が誕生
1944年、パレーは第1次大戦中にダルムシュタットの俘虜収容所で作曲した弦楽四重奏曲を、弦楽オーケストラ用に編曲した「弦楽交響曲」として演奏。


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 1941 フランス国立放送管

郵政大臣のつくったオーケストラ
フランス国立管弦楽団は、1934年に熱心な音楽愛好家で郵政大臣のミストレルの政令によって設立。改名歴は以下の通り。

1934 国立管弦楽団
1945 フランス国立放送管(RTF)
1964 フランス国立放送管(ORTF)
1975 フランス国立管

徴兵で楽員半減 → 戦争で疎開 → 爆撃で楽団解散
国立管弦楽団ということで最初から楽員は80名、兼業も禁止と決められるなど境遇は恵まれていましたが、1939年、設立5年目にして政府の大規模徴兵によって楽員が半減、さらに戦争も始まったため、1939年10月からフランス中西部のレンヌに拠点を移して活動。しかし、ドイツ軍による爆撃のため1940年6月には解散。


マルセイユで再結成してパレーが指揮
9か月後の1941年3月、国立管弦楽団は、フランス国(自由地域)の南仏マルセイユで政府によって再結成され、モナコを拠点にマルセイユでも活動していたパレーが指揮を任されることになります。

抗議の辞任と解雇ユダヤ人楽員の雇用
しかし4か月後の1941年7月には、フランス政府がユダヤ人楽員を解雇することを決めたため、パレーは抗議のために自身も辞める道を選びます。解雇された楽員にはクララ・ハスキルの妹ジャンヌ(第1ヴァイオリン奏者)もいました
 パレーはモンテカルロ劇場のオーケストラで解雇されたユダヤ人楽員を雇用し、演奏会やオペラ上演を実施。

数多く客演
1945年、オケはフランス国立放送管と改名。パレーは戦後しばらくはあまり客演していませんが、1958年のインゲルブレシュトの退任あたりから機会が増え、1963年の放送ビルの完成後は特に多くなっています。

フランス国立放送再編によりパレーの客演停止
1974年、フランス国立放送はラジオ・フランスへと組織改編するために再編・人員削減を開始。フランス国立放送管も対象となり年配の楽員を解雇。1975年には楽団運営陣も刷新され、パレーは呼ばれなくなり、音楽監督のチェリビダッケも数か月で辞任。


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 1945 コロンヌ管弦楽団

1930年にコロンヌ管弦楽団首席指揮者に就任していたパレーは、8年後の1940年、反ユダヤ主義政策で楽団名の改名を強いられ、ユダヤ人楽員の「名簿」まで求められたことから抗議のため辞任していました。
  それから4年が過ぎた1944年にパリが解放された際、ドイツ当局によって「ピエルネ管弦楽団」と改名させられていた楽団は「コロンヌ管弦楽団」に名前を戻し、ラムルー管弦楽団との合併状態も解除。
  1945年にはパレーが首席指揮者に復帰して活動を本格的に再開しています。


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 1949 イスラエル・フィル

音楽監督就任要請をいったん拒否
イスラエル・フィルは1936年にフーベルマンが結成したパレスチナ管弦楽団が発展したもので、改名は1948年のイギリス委任統治の終了によるイスラエル建国を機におこなわれています。
  パレーが客演した際には、まだ歴史が浅いオーケストラでしたが、運営陣はパレーを気に入り音楽監督への就任を要請。
  パレーの回答は、管楽器セクションの水準が十分ではなく、また、弦楽器奏者は優秀だが人数が足りないと指摘する否定的なものでした。

音楽監督就任
そこで運営陣は問題点を解決すると約束し、弦楽器セクションについての増員が承諾され、管楽器奏者7人についても、パレーがフランスの第一線で活躍する一流の奏者を選んで入団させるという方針が決定し、1949年10月に音楽監督に就任しています。
  パレーは実際にランパルにまで声を掛けていますが、フランスから当時のイスラエルへの移住では環境条件も厳しかったようで、なんとか6人は集めるものの当初想定したレヴェルではありませんでした。

北米ツアーをめぐり剛腕ヒューロックが介入
さらに、1951年1月から3月にかけてイスラエル・フィルが30都市60公演に及ぶ北米ツアーを実施するにあたっては、興行をとりしきるソロモン・イスライレヴィチ・ヒューロックが主要都市での公演はクーセヴィツキーと弟子のバーンスタインが指揮するように主張したため事態が混乱します。
  ロシア帝国生まれのユダヤ人であるヒューロックはロシア系ユダヤ人アーティストの興行を中心に名を馳せており、ロシア帝国生まれのユダヤ人クーセヴィツキーとロシア帝国からのユダヤ人移民を両親に持つバーンスタインは彼にとって譲れない人選。

ソ連反ユダヤ・キャンペーンと同時進行していた「赤狩り」が次第に反ユダヤ主義に変質
背景には政治的な要因も窺えます。当時のソ連政府は、自国からの移民が多いパレスチナ(イスラエル)に対して大規模な支援を続けていたにも関わらず、1948年の建国に際してイスラエルがアメリカ側についてしまったため、ソ連は一転して反ユダヤ・キャンペーンを開始していました。
  また、ほぼ同時進行していたアメリカの「赤狩り」キャンペーンも反ユダヤ主義に繋がりかねない傾向があったため、政治的にも興行的にも、「ユダヤ」、「ロシア」というキーワードが「共産主義」に結びつかないようなイメージ作りが求められていたという事情があります。

ツアー主催はイスラエル・フィルを支援する米ユダヤ系ファンド
ヒューロックは5年後にはオイストラフをめぐって大手のコロンビア・アーティスツと争奪戦を繰り広げるほどの強気の人物でもあったので(負けましたが)、これはパレーには不運なめぐり合わせでした。
  しかもツアーを主催するアメリカのユダヤ系基金「アメリカン・ファンド・フォー・イスラエル・インスティテュート」は、1942年からパレスチナ管弦楽団(イスラエル・フィル)を支援していたため楽団運営陣は逆らうことができません。

パレー、傷心のうちに辞任
運営陣は、パレーの言う「主要都市を含む40公演」という希望には添えないとして地方都市35公演を提案しますが、パレーは落胆して1950年5月4日に音楽監督を辞任してしまいます(1週間前に兄のオーギュストが亡くなったショックも大きかったと思います)。戦時中、反ユダヤ主義に抵抗し救済もしたパレーが、政治的な事情があるとはいえ、ユダヤ人のインプレサリオのヒューロックから酷い目に遭うという皮肉な話でもあります。


クーセヴィツキーの出した条件、そして死
ヒューロックに名指しされたクーセヴィツキー[1874-1951]は、前年の1949年8月にボストン響の音楽監督を健康問題で辞任して時間的に余裕があり(後任はミュンシュ)、イスラエルのワイツマン大統領とは親交もあったことから1950年のイスラエル・フィルへの客演は無報酬でおこない、しかも、ヘブライ大学には自身の膨大な楽譜ライブラリーを寄贈する約束もしていました(クーセヴィツキーはかつて楽譜出版社を経営)。
  クーセヴィツキーは北米ツアーを引き受ける前提として、パレーがツアーに行かないのであればという条件を出してパレーに配慮もしています(クーセヴィツキーとパレーは1920年代にパリで競い合っていた間柄でもあり、1945年にはパレーはクーセヴィツキーに招かれてボストン響に数週間客演してもいました)。
  ちなみに76歳のクーセヴィツキーは、イスラエル・フィル北米ツアー終盤の1951年3月上旬に具合が悪くなって入院しており、1週間ほどで退院はできたものの、ツアーの無理が祟っていたのか、5月に再び入院し6月4日に脳出血で亡くなっています。


パレーのイスラエル・フィルへの客演は長期継続
辞任したにも関わらず、パレーは運営陣の立場にも理解を示し、翌1951年5月から6月にかけて早くも客演。オーケストラ楽員との関係も良好で、以後、何度もイスラエルを訪れており、28年後の1979年10月に亡くなるまでに計360公演以上指揮しており、1980年7月にはデッカにイスラエル・フィルとチャイコフスキー:白鳥の湖とくるみ割り人形の組曲を録音する予定もありました。


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 パレーとデトロイト交響楽団


3度の解散を経験したオーケストラ
1887年に創設されたデトロイト響は、ニューヨーク・フィル(1842)、セントルイス響(1880)、ボストン響(1881)に続く長い歴史があります。しかし財政難や運営問題から、1910年、1942年、1949年の3度も解散に追い込まれていました。デトロイトは20世紀初頭から自動車産業で経済的には栄えていましたが、工業都市でのオーケストラ運営には厳しいものがあったようです。

J.B.フォード・ジュニアがフォード・プランで救済(フォード自動車とは無関係)
1951年の3度目の再結成に際しては、ジョン・B・フォード・ジュニア(フォード自動車とは無関係のケミカル系企業の経営者)が資金調達で大きな役割を果たす「フォード・プラン」を打ち出し、以後30年間ディレクターを務めてデトロイト響を支援。

NBC響コンマス、ミシャコフと契約
1951年、財政基盤を得たデトロイト響は、まずNBC響コンサートマスターのミッシャ・ミシャコフと交渉し、NBC響での任期が終わる1年後の着任を前提に契約し、オーディションなど楽団側の準備を完了。

パレー、ペルレア、サーバタから音楽監督を選考
続いて音楽監督を選ぶための演奏会をおこなうことになり、3人に絞った候補者の客演が1951年10月から開始。まずパレーが11月中旬まで指揮、続いてルーマニアのイオネル・ペルレア[1900-1970]が招かれ、1952年2月にイタリアのヴィクトル・デ・サーバタ[1892-1967]が指揮というスケジュールでした。
  しかしパレーが最初から高評価で、すぐに音楽顧問的な仕事まで任されてその段階で事実上決まってしまいます。1952年1月には正式に3年間契約が発表され、以後、再契約を繰り返していきます。運営陣の判断は正解で、パレーは楽団の力量を数年のうちに大幅に引き上げ、メジャー・オーケストラに匹敵する演奏能力を獲得させることになります。

デトロイト響の再出発
音楽監督就任に際してパレーは弦楽器奏者の増員を要求し、楽員総数は92名から105名に増加させていますが、これは本拠地ホールのデッドな音響への対応も意図したものでしょう。
  また、パレーは聴衆の幅を広げられるよう、最初のシーズンで実に100人の作曲家の作品をとりあげており、さらに関心を深めてもらえるよう、演奏会プログラム冊子には、楽員のリストと、各楽員がどこに座っているかの図を掲載し、具体的な解説もおこなうなどさまざまな工夫を凝らしています。

会場はフリーメイソンの巨大建築
当初のコンサート会場は、1949年の解散時と同じメソニック・テンプル。フリーメイソン組織によって建設され、1926年に開場したネオ・ゴシック様式の巨大な建築物で、シアターも大型です。
  そのためチケット料金も映画館並みの60セントと低額に抑えられていたとはいえ、毎回5,000席埋めるのは大変だったと思われますが、それがうまくいってスケール・メリットに繋がれば、楽団人気の上昇にも直結することになります。


マーキュリーと契約
パレーの演奏会は各所から注目を集め、初登場から10か月後の1952年8月、パレーはニューヨークでマーキュリー・レーベルと3年間の専属契約を結び、以後、1962年まで契約延長を繰り返すことになります。


最初の録音会場
契約から半年後、1953年2月におこなわれた最初のマーキュリー録音であるベートーヴェン7番とフランクのセッションは、本拠地のメソニック・テンプルで組まれましたが、多目的巨大ホールのデッドな響きのため、以後は録音には使われていません(トスカニーニばりの見事な演奏ですが)。


録音会場をオーケストラ・ホールに変更
同じ月にマーキュリーが選んだ別の会場は、14年前までデトロイト響の本拠地だった音響の良い音楽専門ホールのオーケストラ・ホール(1919年開場、2,014席)です。

オーケストラ・ホールの借主
このホールは1919年から1939年まで20年間に渡ってデトロイト響の本拠地でしたが、楽団の財政難により、席数が2.5倍で経済効果が高いと目されたメソニック・テンプルに移ってしまったため、その後の20年間はビッグ・バンド・ジャズとゴスペル・コーラスの一大拠点となっていました。

パラダイス・シアター
デトロイト響撤退の2年後、1941年に「パラダイス・シアター」としての運営が開始され、主にビッグ・バンド・ジャズのためのホールとして、ビッグ・バンド人気が下火になる1951年まで10年間に渡って使用されています。

黒人教会「私たちの祈りの教会」
パラダイス・シアター撤退の2年後、1953年には、黒人教会「私たちの祈りの教会」を主宰するジェームズ・L・ロフトン牧師がオーケストラ・ホールと契約。最大500人編成のゴスペル合唱団のコンサートを開催するなどして話題となりますが、ロフトン牧師と音楽担当責任者の衝突により1958年にオーケストラ・ホールを離れています。
  ホールは翌1959年中には閉鎖され、1960年代終わりには取り壊しの話も出ていますが、1970年に再建が決まり、680万ドルの費用と19年という時間をかけて1989年にデトロイト響の本拠地となっています。

マーキュリーの録音とマリア像
マーキュリーのオーケストラ・ホールでの録音は、1953年2月から1959年4月までおこなわれているので、ほぼ「私たちの祈りの教会」が拠点としていた時期と重なります。セッションの写真にマリア像や雲の書割のようなものが写っているのはそのためです。
  途中、1956年10月にはフォード・オーディトリアムが開場して本拠地となっていましたが、響きが抑えられた多目的大ホールの為、マーキュリー・スタッフの苦労も多く、オーケストラ・ホールでの録音も、建物が閉鎖されるまではおこなわれていました。


新本拠地フォード・オーディトリアム
1956年10月、新たなホール、ヘンリー&エドセル・フォード・オーディトリアム(2,920席、以下、フォード・オーディトリアムと略)が開場。もともとフォード自動車主催の講演やイベントのために設計された多目的大ホールのため、響きが少なめですが、建設の途中でエレノア・フォード未亡人(故エドセル・フォードの妻)がデトロイト響の本拠地として使用することを思いついて決定。建設費570万ドルのうち100万ドルを自動車会社のフォード社が負担し、150万ドルをディーラー各社が負担。開場翌年の1957年には10万ドルの費用をかけて、4,156本のパイプを持つオルガンも設置という大盤振る舞いです。
  マーキュリーは1956年10月から1959年1月までフォード・オーディトリアムで録音をおこなっていますが、その間、1958年3月と1959年4月にはオーケストラ・ホールも使用しています。


キャス工業高校オーディトリアム
手間のかかるフォード・オーディトリアムでの録音を諦めて、オーケストラ・ホールでの録音だけに絞ろうとしていたマーキュリーを待ち受けていたのは、「私たちの祈りの教会」の撤退に伴うオーケストラ・ホールの閉鎖でした。
  しかし、キャス工業高校のオーディトリアムも音響が良く録音にも使えることがわかったため、1959年11月から1962年3月の最後のセッションまでの2年4か月間は同オーディトリアムだけを録音セッションに使用しています。
  1922年に393万ドルをかけて完成したキャス工業高校の校舎は、上から見るとBの字型で、2つの中庭には、片方にオーディトリアム、片方に運動場とプールが設置。オーディトリアムは構造的に校舎と切り離されています。


デトロイト響音楽監督を退任
1961年、75歳を迎え、フリーランスになりたかったパレーは1962年にデトロイト響の音楽監督を退任すると発表しますが、嘆願書が何百も寄せられたため、1963年1月までデトロイトに留まることに変更。退任時には毎年4週間連続の客演を要請され名誉指揮者の称号も授与されます。しかし1968年に運営幹部と対立し、パレーは以後の客演を拒否。その幹部が退任した1975年に7年ぶりにデトロイトを訪れ、翌1976年、90歳の時にも客演していますがそれが最後でした。



 1953 象牙の指揮棒

パレーの第2次大戦中の勇気ある行動を称賛
1953年、パレーは、全米キリスト教徒・ユダヤ人会議のデトロイト円卓会議から象牙の指揮棒を授与されます。これはパレーが戦時中におこなっていたユダヤ人楽員追放に関わる抗議行動や、ユダヤ人楽員を救済したことを讃えるもので、象牙の指揮棒は、ラフマニノフが1898年にロンドンで使用したものということです。


会場はフリーメイソンの巨大建築
式典が開催された会場は、当時のデトロイト響の本拠地メソニック・テンプル。ネオ・ゴシック様式の建築物で、名前の通りフリーメイソン組織によって1920年に建設されています。
  興味深いのは、メソニック・テンプルと近い時期に、フリーメイソンの傍系組織「シュライン(古代アラビア神秘神殿騎士団)」に関連し、演奏会でも使用されたりするネオ・ムーア様式の巨大な建築物がアメリカでいくつも建設されていることです。そしてそれらは中東趣味に彩られたものであることも共通しています。以下は特に有名なものです。


シリア・モスク(ピッツバーグ)
パレーもときおり指揮していたピッツバーグ交響楽団の本拠地であるピッツバーグのシリア・モスク(1911年建設、3,850席)。その名前と、アラビア文字まで使用した中東風の装飾で有名ですが、イスラム教とも中東とも関係はありません。


メディナ・テンプル(シカゴ)
シカゴ響の録音や演奏会で知られるメディナ・テンプル(1912年建設、4,200席)。大きすぎて音響にはいろいろ問題もあったようですが、ショルティやジュリーニ、小澤征爾、デュプレ等の名盤が存在。本拠地オーケストラ・ホール(1904年建設)は2,522席。


シュライン・オーディトリアム(ロサンジェルス)
ロサンジェルス・フィルが録音などで使っていた巨大なシュライン・オーディトリアム(1925年建設、6,700席)は、1906年に建設されたアル・マライカ・テンプルが火災で焼失したため再建・改名されたもので、やはり名前が寺院(テンプル)繋がりです。ちなみにロサンジェルス・フィルが1919年から1964年まで本拠地としていたフィルハーモニック・オーディトリアム(1906年建設、日曜日にはバプテスト・テンプルが使用)は2,226席なので約3倍の規模ということになります。


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 1959 フランス国立放送フィル

郵政大臣のつくったオーケストラ
フランス国立放送フィルは、1937年に音楽学者でもあるジャルディーエ郵政大臣の政令によって設立。改名歴は以下の通り。

1937 放送交響楽団
1939 リリク=放送交響楽団(合併)
1940 ラジオ・パリ交響楽団(ヴィシー)
1945 放送交響楽団
1955 パリ放送交響楽団
1960 フランス国立放送フィル(RTF)
1964 フランス国立放送フィル(ORTF)
1976 フランス放送新フィル
1989 フランス放送フィル

徴兵で楽員半減 → 合併 → 疎開 → 解散 → ラジオ・パリ
1939年、放送交響楽団は、大規模徴兵で楽員が減少したため、オペレッタとオペラのオケであるリリク管弦楽団と合併して80人規模のリリク=放送交響楽団となり、1939年9月にブルターニュ放送のあるレンヌに疎開して活動。しかし、ドイツ軍による爆撃と占領のため解散して1940年9月にはパリに向けて出発。占領下ではラジオ・パリのオケとして活動。


数多く客演
パレーがこのオケに客演するのは、インゲルブレシュトが退任した翌年の1959年で、以後、1974年まで何度も客演していますが、1975年のフランス国立放送再編によりパレーは呼ばれなくなっています。


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 1962 フリーランス、モンテカルロ国立歌劇場

長年に渡って世界で活躍したパレーは、1962年、76歳の時にフリーランスになり、翌年モナコ公国モンテカルロに移住します。
  その少し前には、ド・ゴール大統領がモナコ公国の租税回避地状態に怒り心頭で、長年に渡ってフランスの富裕層や企業の転出に繋がっていると抗議、国境付近で様々な威嚇行動までおこなっていましたが、モナコ公国が税制優遇からフランス人を除外することで事態がなんとか収拾していました。
  以後、パレーはモンテカルロを拠点に、93歳で亡くなるまでの16年間、世界各地のオーケストラに客演する生活を送りますが、中心になるのはあくまでモンテカルロ国立歌劇場管弦楽団との共演で、レコーディングをいくつもおこなったほか、北米43公演という長期ツアーまでおこなっていました。

モンテカルロ、アルカザールでの録音について
アルカザールという名前はアラビア語に由来するもので、「要塞化した王宮」といった意味合いがあるそうです。19世紀末から20世紀初頭のネオ・ムーア様式の建築ブームでは、世界各地の劇場や映画館に広まった名でもありました。

場所は実際にはフランス
複合施設「アルカザール」での録音は、長らく地名がモンテカルロという表記になっていますが、実際はモナコ公国との国境の町で、フランスの自治体であるボーソレイユ(便宜上、市としておきます)が所在地となります。
  しかし路地を挟んで数メートル先はモンテカルロですし、モンテカルロ国立歌劇場までの距離も400メートルも無く、しかも開発業者が共通なので街並みも一体化しており、目立つ国境表示もなく行き来も自由ということからモンテカルロと表記されていても不思議ではありません。
  ボーソレイユ市の面積は2.79平方キロメートルと、モナコ公国の2平方キロメートルよりは少し広いくらいで、かつて詩人アポリネールが暮らした町としても知られています。

モンテカルロのグラン・カジノに対抗
アルカザールのルーツは、1907年1月29日にオープンしたベル・エポック様式の「ソレイユ宮(太陽宮殿)」という名のカジノ施設です。歩いて数分のところにあるモンテカルロの歌劇場が所属する複合施設「グラン・カジノ」に対抗すべく、「ソレイユ宮」は、大きな劇場を備えた建築となっています。

市長の反対を押し切ってカジノとして建設
この大型カジノ建設は当初から波乱含みでした。ボーソレイユ市のブラン市長は、自身がモンテカルロのカジノとホテル・リゾートを運営し、公共サービスまで提供する「SBM」の会長であることから、モンテカルロの売上に影響が出ることを危惧して建設に反対します。しかし3人の出資者による計画推進の決意は揺るぎません。

ブラン市長の妨害作戦
そのためブラン市長の考えた策が、まず市が公認しないというものでしたが、それでは効果が殆ど無いため、急遽、自分のSBMでカジノを建設して市で公認する「市立カジノ」によって、「ソレイユ宮」開場によるSBMへのマイナス影響を抑えようという強引な対抗策を打ち出し、実際に「ソレイユ宮」の数日後には「市立カジノ」のオープンに漕ぎつけていました(1963年まで存続)。


結局、SBMが運営
しかしオープンから4年後の1911年には、モナコ公国で勃発したモネガスク革命によってSBMのモナコ公国での利権が低下しかねない状況に陥ったため、市長は方針を変更して「ソレイユ宮」の管理・運営もSBMがおこなうこととし、これにより、コンサートやバレエ、レヴュー・ショー、ファッション・ショー、ボクシングや各種展覧会などが盛大におこなわれるようになります。
  ちなみにこの革命でもSBMのモナコ公国での影響力が低下することはなく、1936年まで、道路、建設、運輸、ガス、水から官報発行まで含む公共サービスも担い続けていました。

第1次大戦時は病院に
1914年9月から1918年10月までの4年間、「ソレイユ宮」は、60床の補助病院に姿を変えてアメリカ軍傷病兵に対応したほか、終戦後の1919年1月から4月までは、休暇・帰国待ちの軍人たちのための施設として、ジャズやダンスなどのアメリカ的な娯楽を提供。この時期、ボーソレイユ市とモナコ公国に滞在したアメリカ軍人は約2万人で、住民人口に迫る勢いでしたが、それだけ娯楽に投じられた金額も大きいということで、戦後の地元財政にはプラスとなっています。

フランス政府のカジノ入場税で売上半減
第1次大戦時の米軍滞在効果もあって、戦後はカジノ客にアメリカ人が増えるものの、フランス政府が新たな入場税を導入したことで、目の前がタックス・ヘイヴンのモナコという立地環境のボーソレイユのカジノは売上が半減してしまいます。

SBMの多額の資金で改築
打開策としてSBMは、1924年に飲食と劇場での集客増を狙って施設の改築を実施、名前も「ソレイユ宮」から英語風に「キャピトル(Capitol)」と変更。改築は大規模イベントや晩餐会などへの対応を強化するもので、仮面舞踏会の際には劇場で2,000人の客が踊ることができるなどとしていました。

市長の死と世界大恐慌の荒波
しかし、改築の翌年にはブラン市長が健康状態悪化のため任期21年目で退任し(2年後に死去)、さらにその4年後には世界大恐慌の影響がカジノにも波及し、税制の違うモンテカルロに近過ぎるボーソレイユ市のカジノ運営は下火になっていきます。
  ブラン市長の在任中、ボーソレイユ市の人口は2倍以上に増え、税収も5倍以上の伸びを見せていましたが、その人口も減少に転じてしまい、増加傾向になるのは第2次大戦後しばらくしてからのことでした。

多目的劇場として改築
1961年3月、カジノ施設「キャピトル」は、映画上映や学校のコンサート、バレエ教室など各種イベントのための大小のホールを備えた「カジノ無しの複合施設」として改築され「アルカザール」という新たな名前でオ―プンしますが、周辺人口の少なさから集客事業は低調でした。
  一方、施設内の大ホール(グランド・サル)は、音響の良さと使い勝手の良さによってオープン直後からモンテカルロ国立歌劇場管弦楽団のレコーディング・セッションの会場として使用されるようになります。レコード会社はドイツ・グラモフォン、エラート、EMI、デッカ、コンサート・ホール・ソサエティなどです。

取り壊して高級集合住宅「アルカザール」へ
しかし大型施設が不定期なレコーディングや小さなイベントだけで運営できるはずもなく、1974年には一般公開を停止、売却先が決まった1976年には取り壊され、14階建ての高級集合住宅「アルカザール」に建て替えられています(直近では102uで249万ユーロ、約3億5千万円という物件情報も)。
  以後、モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団のレコーディングは、本拠地サル・ガルニエなどでおこなわれるようになります。


モンテカルロ国立歌劇場での録音
1976年にアルカザールが取り壊されてしまったため、モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団のレコーディングは本拠地のサル・ガルニエでおこなわれるようになります。
  この劇場の歴史についてはモンテカルロ劇場の項目にまとめてあります。




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 年表

●印が音楽関連、◆印が社会関連となります

 1886/明治19年 (0歳)

●5月24日、ポール・マリー・アドルフ・シャルル・パレー誕生。生地はノルマンディー地方の港町で、海岸の断崖絶壁と海水浴場で知られるル・トレポール


父オーギュストは象牙細工職人でしたが、聖ジャック教会のオルガニストも務めていたほか、指揮や作曲もおこなっています


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 1887/明治20年 (0〜1歳)

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 1888/明治21年 (1〜2歳)

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 1889/明治22年 (2〜3歳)

●父のリハーサルに参加


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 1890/明治23年 (3〜4歳)

●父のリハーサルに幼少期から参加していたパレーは、この頃にはキリストの幼時とエリヤの中の曲で、後年の驚異的な記憶力の片鱗を見せています


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 1891/明治24年 (4〜5歳)

●父に才能を見込まれ小太鼓を買い与えられていたパレーは練習に熱中し、ボーヴェ市の一等賞を得ています

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 1892/明治25年 (5〜6歳)

●父からオルガン、ピアノなど指導


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 1893/明治26年 (6〜7歳)

●聖ジャック教会で父の代わりにオルガンを弾いたりするようになります


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 1894/明治27年 (7〜8歳)

●聖ジャック教会で父の代わりにオルガンを弾いたりします


◆ドレフュス事件。反ユダヤ主義の顕在化によりシオニズム運動が胎動

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 1895/明治28年 (8〜9歳)

●ルーアン大聖堂の聖エヴォディウス校に入学。聖歌隊で歌うほか、オルガン、ピアノ、チェロ、ティンパニ、対位法、和声、理論、ルネサンス音楽、グレゴリオ聖歌も学んでいます


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 1896/明治29年 (9〜10歳)

●ルーアン大聖堂の聖エヴォディウス校に在学


●ルーアン大聖堂で行われたアドルフ・ブルドン指揮ルーアン芸術劇場管弦楽団と合唱団によるベートーヴェンのミサ曲ニ長調の演奏会で、パレーはティンパニを演奏

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 1897/明治30年 (10〜11歳)

●ルーアン大聖堂の聖エヴォディウス校に在学


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 1898/明治31年 (11〜12歳)

●ルーアン大聖堂の聖エヴォディウス校に在学


↪目次


 1899/明治32年 (12〜13歳)

●ルーアン大聖堂の聖エヴォディウス校に在学


↪目次


 1900/明治33年 (13〜14歳)

●ルーアン大聖堂の聖エヴォディウス校に在学


●マニフィカトを作曲

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 1901/明治34年 (14〜15歳)

●ルーアン大聖堂の聖エヴォディウス校に在学


●ヴィドール、ヴィエルヌ、フランク、ブルックナー、レーガーらのオルガン作品を研究

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 1902/明治35年 (15〜16歳)

●ルーアン大聖堂の聖エヴォディウス校に在学


◆フランス総選挙で左派が圧勝。急進共和主義者のエミール・コンブが首相に就任し、内務大臣と宗教大臣も兼務。反教権路線を徹底し、バチカンと対立
◆フランス政府、無認可修道会約300を解散に追い込み、無認可修道会系の学校約3,000を閉鎖。翌1903年にかけて約2万人の修道士・修道女を追放。抵抗した場合は軍隊も出動させていました

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 1903/明治36年 (16〜17歳)

●ルーアン大聖堂の聖エヴォディウス校に在学


●夏、ヴァカンスでトレポールを訪れていたオルガン奏者で作曲家のアンリ・ダリエ[1849-1934]の知己を得て交流。パレーの才能を高く評価したダリエは、パリ音楽院入学資格の取得を支援
 ちなみにダリエは2年後の1905年、フォーレの後任としてパリのマドレーヌ教会のオルガニストとなり1934年に亡くなるまで29年間演奏。その間、1908年にはパリ音楽院の作曲科教授に就任、20年に渡って教えてもいます
●合唱とオルガンのためのオッフェルトリウム「正しき者の口は知恵を語り」、ピアノ曲スケルツォとタランテラ、歌曲月への言葉を作曲

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 1904/明治37年 (17〜18歳)

●ルーアン大聖堂の聖エヴォディウス校を卒業


◆7月、フランス政府、修道会教育基本法を可決。修道士・修道女を教団から排除。約2,400の教育施設が閉鎖
◆11月、フランス政府、政教分離法を上程
◆フランス政府、バチカンとの国交を断絶

●パリ音楽院に入学


●声とチェロのための天使の糧、声とピアノのための森の中でを作曲

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 1905/明治38年 (18〜19歳)

●パリ音楽院在学


●ピアノ三重奏曲を作曲
◆12月9日、フランス政府により政教分離法公布。フランス政府と地方公共団体の宗教予算は全て廃止され、聖職者の政治活動も禁止、宗教的儀式での公的性格も否定され、以後、信仰は私的なものに限定されることとなります。教会財産の管理と組織運営は信徒会の管轄となり、売却なども自由化

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 1906/明治39年 (19〜20歳)

●パリ音楽院在学


●ワルツ=カプリスを作曲

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 1907/明治40年 (20〜21歳)

●パリ音楽院在学


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 1908/明治41年 (21〜22歳)

●パリ音楽院在学


●声楽と管弦楽のためのクリスマス・パストラル、ヴァイオリンとピアノのためのセレナード、ヴァイオリンとピアノのためのソナタを作曲

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 1909/明治42年 (22〜23歳)

●パリ音楽院在学


●兵役。ディエップの第129歩兵連隊で訓練。軍楽隊の指揮もおこないます。


●ピアノと管弦楽のための幻想曲、ロマンスを作曲

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 1910/明治43年 (23〜24歳)

●パリ音楽院卒業。和声で一等賞、対位法で二等賞


◆1月、パリ大洪水。長雨でセーヌ川の水位が8.6メートル上昇し、2か月に渡ってパリは洪水状態に


●7月、ローマ賞コンクールに応募し、カンタータ「アシとガラテー」によってローマ賞2位を獲得


●ヴァイオリンと室内管弦楽(またはピアノ)のためのユモレスク、子供の肖像、ヴァイオリンとピアノのための夜想曲を作曲

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 1911/明治44年 (24〜25歳)

●7月、ローマ賞コンクールに応募し、カンタータ「ヤニッツァ」によってローマ大賞を受賞。審査員はフォーレ、ピエルネ、サン=サーンス、ヴィドールほか


●ローマのヴィラ・メディチに留学


●シューベルトの主題によるワルツ、蝶々ほかを作曲

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 1912/明治45年、大正元年 (25〜26歳)

●ローマのヴィラ・メディチに留学


●楽譜出版社の編集者、ジャン・ジョベール[1883-1957]と交流
●アンプレシオン、ロマンティックな反射、戦場、ピアノと管弦楽のためのヴィラネルを作曲

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 1913/大正2年 (26〜27歳)

●ローマのヴィラ・メディチ在学


●オラトリオ「ジャンヌ・ダルク」、声と管弦楽のための「シャンソン・ヴィオレット」、声とピアノのための「奇妙な夜」、声とピアノのための「ヴィオール」を作曲
●5月、ルーアン大聖堂。自作:オラトリオ「ジャンヌ・ダルク」初演


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 1914/大正3年 (27〜28歳)

◆5月、ドイツがフランスとベルギーに対して宣戦布告
◆8月、フランスがオーストリア=ハンガリーに対して宣戦布告



●8月、ローマのヴィラ・メディチからなんとか帰還


●9月、パレー、第1次大戦開戦により陸軍兵士として出征。ベルギーの前線に送られ、ドイツ軍と2か月間戦闘
●10月、パレー、ドイツ軍の俘虜となってダルムシュタットの俘虜収容所に移送


●収容所で弦楽四重奏曲、魂より、4手ピアノのための小品を作曲

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 1915/大正4年 (28〜29歳)

●ダルムシュタット俘虜収容所


●2月、娘ポール(Paule)誕生

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 1916/大正5年 (29〜30歳)

●ダルムシュタット俘虜収容所


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 1917/大正6年 (30〜31歳)

●ダルムシュタット俘虜収容所


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 1918/大正7年 (31〜32歳)

●3月、ダルムシュタット俘虜収容所から解放


●4月、パリに到着
◆7月、フランス・モナコ保護友好条約締結
●12月、パレー、マルセル・デリリ[1893-1990]と結婚。2人の間には俘虜収容所時代の1915年に娘のポールが誕生しており、翌1919年に娘モニクが生まれています

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 1919/大正8年 (32〜33歳)

●夏、コートレーのカジノで指揮者として採用。南仏コートレーは、ピレネーの標高940メートルのところにある温泉保養地


●弦楽のための交響曲、チェロ・ソナタ第1番を作曲

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 1920/大正9年 (33〜34歳)

●2月、ラムルー管弦楽団を指揮してサル・ガヴォー(でパリ・デビュー。8日後に副指揮者に任命されています


●10月、ラムルー管弦楽団の首席指揮者(監督)就任。わずか8か月で高度な実力が認められての人事。旧友デュプレとサン=サーンス3番、他


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 1921/大正10年 (34〜35歳)

●ラムルー管 首席指揮者


●2月、ラムルー管。サル・ガヴォー。ハイフェッツ3公演


●5月、ラムルー管ほか総勢350人。ルーアン大聖堂。フランク:贖罪、自作:オラトリオ「ジャンヌ・ダルク」


●12月、ラムルー管。サル・ガヴォー。自作:バレエ組曲アドニスのトラブル、他。ロシア・バレエ団の舞台美術家レオン・バクストが聴いてパリ・オペラ座でバレエとして上演したいとパレーに相談。タイトルと登場人物の名前を変更する条件


●声とピアノ、または管弦楽のための「ジャン・ラオールの詩による4つの詩」を作曲

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 1922/大正11年 (35〜36歳)

●ラムルー管 首席指揮者


●4月、パリ・オペラ座。ロシア・バレエ団から独立したダンサーで女優のイダ・ルビンシテイン[1885-1960]の主演でパレー作曲のアドニスのトラブルを、アルテミスのトラブルとして上演
 狩人アクテオンは狩の女神アルテミスの水浴を見て恋に落ちるものの、ゼウスとアルテミスの仲間はそれを許しません。彼らはアルテミスを騙してアクテオンの姿を牡鹿に見せかけたため、彼女はその心臓を矢で射貫いて仕留めてしまいます。事実を知ったアルテミスは、神性と失われた愛の痛みに引き裂かれながら立ち尽くすという話で、ギリシャ神話に由来


●11月、ラムルー管。パリ、モガドール劇場(1919年開場、1,600席)


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 1923/大正12年 (36〜37歳)

●ラムルー管 首席指揮者


●2月、ラムルー管。24歳で亡くなったリリ・ブーランジェの詩篇を初演。パレーは1914年にヴィラ・メディチで一緒でした


●3月、妹マリー=オルタンス死去。享年33
●6月、シュヴィヤールの死去に伴いラムルー管弦楽団の会長に就任。首席指揮者も兼ねます


●12月、ラムルー管。サル・ガヴォー。フランク:至福


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 1924/大正13年 (37〜38歳)

●ラムルー管 会長兼首席指揮者


●1月、ラムルー管。サル・ガヴォー。イベール:寄港地、初演


◆1月、フランス・チェコスロヴァキア相互防衛援助条約締結
◆2月、ポアンカレ首相が財務権限も取得し、JPモルガンから借り入れ

●3月、ラムルー管。サル・ガヴォー。サン=サーンス:ノアの洪水、バッハ:マニフィカト


◆4月、連合国賠償委員会の要請でドーズ委員会開催。8月にドーズ・プランが合意され、9月に発効
◆5月、パリ・オリンピック開催。ドイツ、ソ連、東欧諸国は不参加


◆5月、フランス政府、20%増税(最大72%)

●5月、カザルス、ティボー、コルトー、パレー。シャンゼリゼ劇場。ベートーヴェン:三重協奏曲


●6月、ラムルー管。シャンゼリゼ劇場。レオン・サックス:歌劇城主(ユーゴー原作)。初演


◆6月、フラン切り下げ。フランス政府が戦後復興のため紙幣を大量に増刷してインフレが継続していたことが原因(インフレ率約14%)。これにより資産家の財産や海外からの投資は大きな損失を被りますが、GDPは10.3%増加
◆イタリア政府、フランス国債の購入を禁止

●12月、ラムルー管。サル・ガヴォー。フランク:至福


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 1925/大正14年 (38〜39歳)

●ラムルー管 会長兼首席指揮者


●1月、ラムルー管。サル・ガヴォー。フォーレ:レクイエム、ベートーヴェン9番


●1月、ラムルー管。サン=サーンス:カンタータ竪琴とハープ(ユーゴーの詩による)


●4月、パドルー管弦楽団。サル・ガヴォー。サン=サーンス3番、他
●11月、ラムルー管。ルービンシュタイン。ブラームス:ピアノ協奏曲1番

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 1926/大正15年、昭和元年 (39〜40歳)

●ラムルー管 会長兼首席指揮者


●4月、ラムルー管。サル・ガヴォー。エネスク。バッハ


◆フランス政府、フラン下落に歯止めをかける名目で関税引き上げを開始し、1926年中に全品目について関税を30%引き上げ。ちなみにフランの購買力は、たび重なる切り下げで1922年から1926年にかけて57%下落していました。1915年から1920年までの戦中戦後の下落率が30%だったことを考えるとすごいペースです

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 1927/昭和2年 (40〜41歳)

●ラムルー管 会長兼首席指揮者


●2月、ラムルー管。サル・ガヴォー。メニューイン。スペイン交響曲、チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲。メニューイン10歳でのパリ・デビュ−は、エネスクがパレーに依頼したものでした。メニューインとパレーの友情は以後半世紀続きます


●11月、ラムルー管。トロカデロ宮。ベルリオーズ:レクイエム


●12月、ラムルー管。ロン。ショパン:ピアノ協奏曲2番(メサジェ版)、他

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 1928/昭和3年 (41〜42歳)

●ラムルー管 会長兼首席指揮者退任


●1月、ラムルー管。シューマン:マンフレッド全曲、R=コルサコフ:雪娘組曲、他
●3月、ラムルー管。ダルゴムスキー(ダルゴムイシスキー):ルサルカから、R=コルサコフ:モーツァルトとサリエリ、他
●4月、ルーマニアに客演
◆6月、レイモン・ポアンカレ首相兼財務大臣が、フランを約5分の1(!)に切り下げ。国内債務の大幅な削減と輸出条件の向上による経済再建策
●8月、ヴィシー歌劇場音楽監督に就任


●南仏の隣、モナコ公国のモンテカルロ劇場音楽監督に就任。カジノの併設劇場


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 1929/昭和4年 (42〜43歳)

●モンテカルロ劇場 音楽監督


ストラスブール市立管 音楽監督就任


●ヴィシー歌劇場 音楽監督


◆9月3日、アメリカ、世界恐慌前触れ。
◆9月26日、イングランド銀行が5.5%から6.5%に金利を引き上げ。利益確定後に投資先を探していたアメリカの投資資金がイギリスに大きく流れ込みます(FRBは6.0%)
◆10月24日、ウォール街株価大暴落。シカゴ市場、バッファローの市場は閉鎖。やがて損失確定組は、善後策として投資や預貯金などの資金を回収、結果的に、銀行や企業の相次ぐ破綻へと繋がって行きます。

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 1930/昭和5年 (43〜44歳)

●モンテカルロ劇場 音楽監督


●ストラスブール市立管 音楽監督


●ヴィシー歌劇場 音楽監督


◆世界大恐慌の影響が顕在化。
●1月、モンテカルロ。エリーザベト・シューマン、ザウアー
●2月、モンテカルロ。エネスク、バックハウス
●4月、モンテカルロ。ギーゼキング、プロコフィエフ自作自演でピアノ協奏曲3番、メルヒオールとワーグナー
●8月、ヴィシー。シューマン:ファウストからの情景
●12月、モンテカルロ。ルービンシュタイン
●12月、パレー、妻マルセルと離婚。マルセルは半年後に音楽家のピエール=エミール・マイヤー[1891-1982]と再婚(パレーは12年後に再婚)。また、マルセルはその6年後の1937年に再び離婚

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 1931/昭和6年 (44〜45歳)

●モンテカルロ劇場 音楽監督


●ストラスブール市立管 音楽監督


●ヴィシー歌劇場 音楽監督


●ジャンヌ・ダルク没後500周年記念ミサ曲をモンテカルロで作曲
●1月、モンテカルロ。シューマン:ファウストからの情景、他
●4月、モンテカルロ。ラヴェル音楽祭。ラヴェルも指揮
●5月、自作のジャンヌ・ダルク没後500周年記念ミサ曲をルーアン大聖堂で初演


●12月、モンテカルロ。ティボー。ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲

↪目次


 1932/昭和7年 (45〜46歳)

●モンテカルロ劇場 音楽監督


●ストラスブール市立管 音楽監督


●ヴィシー歌劇場 音楽監督


●コロンヌ管弦楽団会長兼首席指揮者のガブリエル・ピエルネがモンテカルロを訪れてパレーに後任になってくれるよう要請、パレーは快諾します


●10月、コロンヌ管弦楽団の会長兼首席指揮者に就任


●11月、レジオン・ドヌール勲章オフィシエ授与。
●9月、ヴィシー。フランク:至福

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 1933/昭和8年 (46〜47歳)

●モンテカルロ劇場 音楽監督


●ストラスブール市立管 音楽監督


●コロンヌ管 首席指揮者


●ヴィシー歌劇場 音楽監督


●4月、モンテカルロ。ラヴェル音楽祭。ラヴェルとパウル・ヴィトゲンシュタインを招聘
●7月、ヴィシー。ベルリオーズ:ファウストの劫罰
●10月、コロンヌ管。ミルシテイン。ゴルトマルク:ヴァイオリン協奏曲
●11月、コロンヌ管。パリ、トリニティ教会。ベルリオーズ:レクイエム


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 1934/昭和9年 (47〜48歳)

●コロンヌ管 首席指揮者


●ストラスブール市立管 音楽監督


●1月、モンテカルロ劇場 音楽監督退任


●1月、デンマーク放送響。モイーズ。ゴーベール:夜想曲とアレグロ・スケルツァンド、他
●2月、コロンヌ管。トリスタンとイゾルデ、ラインの黄金演奏会形式上演
●3月、コロンヌ管。ラインの黄金演奏会形式上演。サン=サーンス:ノアの洪水
●3月、パリ・オペラ座。ラインの黄金


●3月、英Columbia録音。コロンヌ管。禿山の一夜


●5月、英Columbia録音。コロンヌ管。ベートーヴェン6番、トルコ行進曲、ダンディ:フランスの山人の歌による交響曲(ロン)、


●5月、コロンヌ管
●10〜12月、パリ・オペラ座。ワーグナージークフリート


パリ・オペラ座支配人のジャック・ルシェにより、パレーがパリ・オペラ座首席指揮者に任命


●12月、父オーギュスト死去。享年81
●交響曲第1番を作曲

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 1935/昭和10年 (48〜49歳)

●コロンヌ管 首席指揮者


●パリ・オペラ座 首席指揮者


●ストラスブール市立管 音楽監督


◆3月、ドイツ、徴兵制復活(再軍備宣言)
●3月、パリ・オペラ座。ラインの黄金


●3月、コロンヌ管。自作の交響曲第1番を初演
◆6月、英独海軍協定締結
●5月、コロンヌ管。パリ、サン=シュルピス教会。ヘンデル:合奏協奏曲。マルセル・デュプレがオルガニストを務める教会。ノートルダム大聖堂級の大きな教会


●7月、コロンヌ管。パリ・オペラ座。オランジュ古代劇場。オルフェオとエウリディーチェ、ファウストの劫罰


●11月、コロンヌ管。ワーグナー演奏会、ジャンヌ・ダルク没後500周年記念ミサ曲


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 1936/昭和11年 (49〜50歳)

●コロンヌ管 首席指揮者


●パリ・オペラ座 首席指揮者


●ストラスブール市立管 音楽監督


●2月、コロンヌ管。展覧会の絵、シェエラザード、シュミット:サロメの悲劇、リスト:ファウスト交響曲


●2月、パリ・オペラ座。トリスタンとイゾルデ


◆2月、仏ソ相互援助条約を締結。ヒトラーはロカルノ条約違反と批判し、自衛のためという理由で、翌月、国境沿いの非武装地帯に軍を進めます
◆3月、ドイツ、ラインラントへ進駐
◆4月、アラブの反乱(パレスチナ独立戦争)、勃発。1939年にイギリス軍が鎮圧するまでに、アラブ人約5千人、ユダヤ人約300人、イギリス軍約250人が死亡
●5月、パリ・オペラ座。ベルトラン:バレエイレアナ
●6月、パリ・オペラ座。R=コルサコフ:金鶏、ロザンタール:バレエ無駄なキス、ドリーブ:コッペリア


◆9月、フランス政府、フランを約28%切り下げ。金兌換停止、および金(ゴールド)の輸出も停止

●交響曲第2番を作曲

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 1937/昭和12年 (50〜51歳)

●コロンヌ管 首席指揮者


●ストラスブール市立管 音楽監督


●3月、ハーグ・レジデンティ管。パリ・オペラ座。ハーグ芸術科学館(1874年開場、2,088席)。ホフマン物語


●4月、パリ・オペラ座。マイスタージンガー、アリアーヌと青髭


●6月、コロンヌ管。ファウストの劫罰
●7〜8月、コロンヌ管。パリ・オペラ座。オランジュ古代劇場。ワルキューレ、ファウストの劫罰、アイーダ、ベルリオーズ:レクイエム抜粋


●11月、コロンヌ管。メンデルスゾーン、ベートーヴェン
●12月、コロンヌ管。シャトレ座。ワーグナー演奏会、ラインの黄金


↪目次


 1938/昭和13年 (51〜52歳)

●コロンヌ管 首席指揮者


●ストラスブール市立管 音楽監督


●3月、コロンヌ管。ベートーヴェン:ピアノ協奏曲4番(バックハウス)、同5番(ゼルキン)、他
●4月、パリ・オペラ座。ラインの黄金


●6月、ミュンシュ指揮パリ・フィルハーモニーによるベルリオーズ:レクイエムの廃兵院公演のリハーサルが2日目になってもうまくいかないので助けて欲しいという電話がコルトーからあり、パレーは問題を解決し、ミュンシュは無事に公演を終了
 パリ・フィルは1935年にミュンシュのために創設され、1938年にミュンシュがパリ音楽院管の首席指揮者就任すると解散したオーケストラ。楽員は、1935年にモントゥーが離任したことで危機的状況にあったパリ交響楽団のメンバーと、1933年に解散したストララム管弦楽団の元メンバーなどで構成し、主にミュンシュの妻(ネスレ創業者の孫)が出資していました


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 1939/昭和14年 (52〜53歳)

●コロンヌ管 首席指揮者


●ストラスブール市立管 音楽監督


●コロンヌ管。パリ、サル・プレイエル(1927年開場、1,913席)。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン:ヴァイオリン協(メニューイン)


●パリ・オペラ座。タイス、アリアーヌと青髭


●1月、コロンヌ管。シャトレ座。アレクサンドル・ユジェーヌ・セリエ:謝肉祭、他
●2月、コロンヌ管。シャトレ座。ヴェルディ:レクイエム
●4月、コロンヌ管。シャトレ座。アンリエット・ロジェ:ピアノと管弦楽のためのアインフォニア・アンドラーナ、他


●7月、フランス政府文化担当のルネ・ブルームから、ニューヨーク万博演奏会で指揮するよう要請され、パレーは承諾。モンテカルロ・バレエ・リュスの創設者でもあるブルームは、3年後にアウシュヴィッツで虐殺


●7月、ル・アーヴルからニューヨークに向け船出


●7月、ニューヨーク万国博覧会開催


●7月、ニューヨーク・フィル。ニューヨーク万国博覧会とフランス高等弁務団の後援により巨大なルイゾーン・スタジアムでフランス音楽演奏会を開催


●7月、NBC交響楽団の共同指揮者就任要請を辞退
◆第2次大戦開戦前夜は資源などをめぐる帝国主義が盛んだった時期で、植民地などの獲得により、上位20か国で世界人口の9割近くを占めています。パレーの生まれ育ったフランス(第3共和政)も当時は帝国主義の大国で、約30年間に約3千万人分の領土が増えています
 欧米の見方による人口統計は下記の通りです



◆9月1日、ドイツがポーランドに侵攻
◆9月3日、フランスがドイツに対して宣戦布告。大規模な徴兵も実施

●10月、国立管弦楽団(フランス国立管弦楽団)、フランス中西部のレンヌに移転
●12月、娘ポール(Paule)結婚

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 1940/昭和15年 (53〜54歳)

●コロンヌ管 首席指揮者


●ストラスブール市立管 音楽監督退任


●パリ・オペラ座。ファウストの劫罰


●コロンヌ管弦楽団とラムルー管弦楽団、人員不足により第一次世界大戦のときと同じく合同組織コロンヌ=ラムルー管弦楽団となります
●1月、コンセルトヘボウ管。ラ・ヴァルス、ティル、魔法使いの弟子、スペイン交響曲、ブラームス:ピアノ協奏曲第1番(ボロフスキー)、フォーレ:ペレアスとメリザンド、リスト:オルフェウス、ドビュッシー:夜想曲、パレー:交響曲第1番
●2月、兄オーギュスト再婚
●4月、コロンヌ=ラムルー管。シャトレ座。自作の交響曲第2番を初演。これによりフランス学士院からシャルル=マルタン・ルフラー賞を授与されます
◆5月10日、ドイツ軍がオランダに侵攻。13日、ウィルヘルミナ女王ファミリーと首相など多数の政府要職者はイギリスの軍艦でイギリスに逃亡、翌14日の夜には、ドイツ空軍によりロッテルダムが空爆され民間人の犠牲者が650人から900人出たためオランダは降伏
●前年9月にフランス政府が実施した大規模な徴兵により、多くの劇場が人員不足のため閉鎖
●6月、国立管弦楽団(フランス国立管弦楽団)、レンヌへの爆撃と人員不足により解散
◆5月、ドイツがフランスに侵攻。前年9月にドイツに対して宣戦布告したフランスでしたが、実際にドイツ軍がフランスへの侵攻を始めたのは8か月も後のことで、油断したフランスはすぐに国防の要衝マジノ線を突破されてしまいます。慌てたフランス軍と政府は、パリ市民に対して、そのままパリに留まるよう要請したり、疎開を促したりと、混乱した情報を通告。ほどなく市民たちも南下を始め、数多くの音楽家たちも南を目指すことになります。その数はごく短期間のうちに100万人を超えるという凄まじいもので、落ち着き先のフランス中部でも南部でも大きな混乱が生じることとなります


◆6月11日、フランス政府、パリから脱出。トゥール、ボルドーを経て、7月2日には巨大なカジノと数多くの宿泊施設を持つ温泉保養地ヴィシーに避難
◆6月13日、フランス軍、パリから撤退。ペタン元帥がラジオで休戦演説
◆6月14日、ドイツ軍、パリに無血入城


◆6月15日、イタリア軍、フランスへの侵攻を開始
◆6月16日、レノー内閣総辞職、ペタン元帥が首相に就任
◆6月17日、ペタン元帥がドイツに対して休戦の申し入れ
◆6月22日、独仏休戦協定締結。発効は25日
◆6月22日、フランス、フランス共和国からフランス国となり、遷都先のヴィシーで政府が成立、アメリカ、ソ連など多くの国が国家として承認。ド・ゴールの逃亡先であるイギリスは承認せず
◆6月24日、伊仏休戦協定締結。発効はドイツと同じく25日。ドイツとイタリアに降伏したフランスでは、国民は不自由な生活を強いられるようになりますが、当初は、パリなどの北部や大西洋側湾岸部がドイツ軍占領地域、南東部とコルシカ島がイタリア軍占領地域で、ほかはペタン率いるヴィシー政府の管轄するフランス国の自由地域となっていました
◆7月2日、フランス政府のヴィシーへの移転が完了
◆7月3日、イギリス海軍、チャーチルの命令により、フランス海軍戦艦1隻を撃沈、2隻を破壊。フランス兵約1,300名を殺害
◆7月5日、フランス政府、イギリスとの国交を断絶
◆降伏後、フランス政府は、最終的にユダヤ人たちを絶滅収容所に移送するための中継点となるドランシー収容所に送るため、反ユダヤ法を次々に制定。フランスには当時約33万人のユダヤ人がいました

●10月、パリ音楽院の院長を20年務めているアンリ・ラボー[1873-1949]が、反ユダヤ法公布の4日前にドイツ当局に対して手紙を書き、浄化に協力することを提案。ユダヤ系学生が賞を受け取ったり、クラスに積極的に参加したりすることを禁止する動議をパリ音楽院で採決し可決しています
 ラボ―はすぐに作業に取り掛かりますが、調査には時間がかかるため、半年後の1941年4月に院長職を辞任した時点では名簿は学生580人のうち39人がユダヤ系であるなどという内容でした
 後任のクロード・デルヴァンクール[1888-1954]は、反ドイツの立場ではありましたが、1942年9月にヴィシー政権のボナール国民教育大臣から圧力がかけられると名簿を渡したため、すぐにドイツ当局が動き名簿に記載されていたユダヤ系の学生と教職員は音楽院から姿を消すことになります
 ちなみに、パリ音楽院管弦楽団の首席指揮者は1938年から1946年までシャルル・ミュンシュが務めています


●フランス当局により、楽団名称をパレー管弦楽団にするよう命令されますが、パレーは拒否し、さらにユダヤ人楽員の名簿が要求されたため、パレーはこれも拒否して首席指揮者を辞任
●モナコ公国に移住し、モンテカルロ劇場管弦楽団の指揮者となります

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 1941/昭和16年 (54〜55歳)

●モンテカルロ劇場指揮者


●映画アルルの女のサウンドトラックをモンテカルロ劇場管弦楽団&合唱団と録音


●2月、モンテカルロ。ファウストの劫罰
●3月、国立管弦楽団(フランス国立管弦楽団)、フランス政府により再結成。マルセイユにいたパレーが指揮者となります
●4月、モンテカルロ。サムソンとデリラ
◆5月、パリでユダヤ人を一斉検挙。フランス国外出身のユダヤ人を登録手続きが必要だとして呼びだし、2日間だけで3,747人を検挙、パリ市内の収容所に送致したのち最終的にアウシュヴィッツ行きとしています。検挙はその後数か月間継続
●7月、パレー、国立管弦楽団(フランス国立管弦楽団)とのリハーサルで、フランス政府によりフランス国内のすべてのオーケストラからユダヤ人楽員が追放されることになったと伝え(コルトーが署名)、パレー自身も辞めることで抗議する意思を表明します
◆10月、フランスの7つのシナゴーグが爆破
●パレー、フランス政府により解雇されたユダヤ人楽員たちを集めて、モナコ公国での演奏などに起用
◆12月、ユダヤ著名人一斉検挙。フランス警察とゲシュタポにより、実業家、技師、医師、弁護士、知識人など約1,000人のユダヤ人著名人が自宅で逮捕。ほとんどが最終的にアウシュヴィッツに送られており、2年前にパレーをニューヨークに行かせたルネ・ブルームも殺害されています。ブルームはモンテカルロ・バレエ・リュス設立者で、兄のレオンは有名政治家でした
◆12月、アメリカ、第2次大戦に参戦

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 1942/昭和17年 (55〜56歳)

●モンテカルロ劇場指揮者


◆3月、ドイツ軍によるフランス・ユダヤ人の強制収容所への列車移送が開始。1944年8月まで続けられ、約7万6千人をアウシュヴィッツなどに移送
●3月、モンテカルロ。ファウストの劫罰
●4月、モンテカルロ。メンデルスゾーンイタリア、他
◆5月21日、アメリカ政府、ド・ゴールの自由フランスをフランスの抵抗を代表する機関として承認。レンドリース法(武器貸与法)の対象に認定
●5月、リヨン・フィル。レジスタンスのジャーナリストの主導で企画された演奏会。ユダヤ人作曲家デュカスの魔法使いの弟子、他。終演後、パレーは聴衆に促してラ・マルセイエーズで盛り上げます
◆7月、パリでユダヤ人を一斉検挙。フランス警察により2日間だけで13,152人を検挙、パリ市内の収容所に送致したのち最終的にアウシュヴィッツ行きとしています。
●8月、ヨランド・ファルク[1901-1985]と再婚。南仏の景勝地カシ(マルセイユ近郊)で挙式。離婚から12年目。ヨランドはドイツ領時代のアルザスに生まれ育ったユダヤ系で、ドイツ語、フランス語共に堪能。このドイツ語がドイツ占領下のフランスでの情報収集に有効だったほか、1948年に建国されるイスラエルでも役立つことになります(当時のイスラエルではドイツ語とイディッシュ語が主要な言語だったので)


◆9月、フランス政府により、ドイツでの強制労働人口確保のため、18歳から50歳までの男性と21歳から35歳までの独身女性を対象に強制徴用制が導入。12月には25万人に到達
◆11月、フランス全土が占領下に置かれ、ドイツに対する占領コストの支払額は1日当たり5億フランに増額
◆11月、イタリアがモナコ公国を占領し、ファシスト政治局を設立。10か月間続きます

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 1943/昭和18年 (56〜57歳)

●モンテカルロ劇場指揮者


●1月、モンテカルロ。グノー:ファウスト
◆2月、フランス政府によりSTO(強制労働徴用)が発令。1920、1921、1922年生まれの若者を対象に、ドイツ(またはフランス)で労働することを義務化。約60万人の男性にドイツでの労働を強制
●2月、モンテカルロ。タイス、ローエングリン
●3月、モンテカルロ。カルメン、フィガロの結婚、サムソンとデリラ、ローエングリン
●4月、モンテカルロ。ファウストの劫罰
◆9月、モナコ公国を占領していたイタリアのバドリオ内閣が連合国に降伏したため、ドイツがモナコ公国を占領。1年間続きます。
●11月、モンテカルロ。ウェルテル

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 1944/昭和19年 (57〜58歳)

●モンテカルロ劇場指揮者


●1月、モンテカルロ。カルメン、カヴァレリア・ルスティカーナ
●2月、モンテカルロ。オテロ、トスカ
●3月、モンテカルロ。サムソンとデリラ、第1次世界大戦中に俘虜収容所で作曲した弦楽四重奏曲を弦楽オーケストラ用に編曲した弦楽交響曲を演奏
◆イギリスとアメリカによるフランス国内への爆撃が激化。彼らは自軍機や兵士への被害を抑えるべく高空から爆弾を投下したため、目標から大幅にずれる誤爆が続発。結果的にフランス人死者が7万人に達するといわれる凄惨な状況に陥っていました
◆6月6日、連合国軍がノルマンディーに上陸
◆8月、パリ解放

●パレー、自由フランス軍に加わってパリに帰還
●10月、コロンヌ管弦楽団首席指揮者に復帰。ピエルネ管弦楽団から名前を戻し、ラムルー管弦楽団との合併状態も解除
●11月、コロンヌ管。ティボー。解放記念演奏会


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 1945/昭和20年 (58〜59歳)

●1月、コロンヌ管弦楽団の首席指揮者に復帰
●1月、コロンヌ管。シャトレ座。ロジェ:チェロ協奏曲(マレシャル)、他


◆2月、ごく一部の地域を除いてドイツ軍がフランス国内から撤退
●2月、BBCのためにピアニストのイヴォンヌ・ルフェビュール[1898-1986]と共に渡英。ベドフォードに行き、ラヴェルのピアノ協奏曲などフランス音楽を演奏(BBCは1941年から1945年までロンドン近郊のベドフォードから放送)。新たに設立されたフランス共和国臨時政府からの依頼でした
◆5月、終戦。
●8月、娘モニク結婚
●10月、パレーはカザルス、ティボーらと共に戦時中、ドイツに協力した芸術家を裁く法廷に出廷。これらの裁判により、ジェルメーヌ・リュバンは対独協力者強制収容所送致、コルトー、リファールらは自宅に軟禁
●11月、ボストン響。ラ・ヴァルス、牧神の午後への前奏曲、魔法使いの弟子、フランク:交響曲、フォーレ:ペレアスとメリザンド、ベートーヴェン5番、チャイコフスキー:ヴァイオリン協(エルマン)。大成功を収めます


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 1946/昭和21年 (59〜60歳)

●コロンヌ管 首席指揮者


●4月、ウィーン・フィル。ムジークフェライン。ティル、展覧会の絵、魔法使いの弟子、ブラームス1番
●7月、コロンヌ管。ウィーン公演。コンツェルトハウス。フランク:交響曲、ベルリオーズ:ローマの謝肉祭、ファウストの劫罰から
●9月、ウィーン・フィル。ムジークフェライン。シューマン4番、ベートーヴェン:コリオラン、ラヴェル:ラ・ヴァルス、ドビュッシー:夜想曲、R=コルサコフ:スペイン奇想曲


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 1947/昭和22年 (60〜61歳)

●コロンヌ管 首席指揮者


●1月、ウィーン響。ムジークフェライン。ハフナー・セレナーデ、ベートーヴェン3番、パレー:ジャンヌ・ダルク没後500周年記念ミサ曲
●3月、ウィーン・フィル。フランス、スイス・ツアー。ティル、魔法使いの弟子、タンホイザー序曲、展覧会の絵、ベートーヴェン7番、コリオラン、ドビュッシー:夜想曲


◆7月、アメリカ国務長官ジョージ・マーシャルが、ヨーロッパ経済の復興のための援助計画マーシャル・プランを発表。翌年から1951年6月まで運用され、金額は総額100億ドル以上。ただし使途は限定され、主にアメリカ企業の機械や食料の購入が対象となるということで、アメリカ企業の国際化を支援するための経済政策と見ることもできます。また、これに対抗する経済政策としてソ連がモロトフ・プランを立ち上げ、冷戦状態が大幅に進行。チェコスロヴァキアの政変も招くなどしていました
●4月、母オルタンス死去。享年84
●4月、コロンヌ管。テアトロ・コロン(1908年開場、約2,500席)。ブエノスアイレス公演。幻想交響曲、他


●8月、コロンヌ管。アッシャー・ホール(1914年開場、2,200席)。エディンバラ音楽祭出演


●8月、コロンヌ管。ジョルダン劇場(1938年開場、1,220席)。ポルトガル北部ギマランイス公演。フランク:交響曲、ワーグナー抜粋


●10月、コロンヌ管。シャイヨー宮。ハイフェツ


●11月、VOX録音。ラムルー管。モーツァルト:ピアノ協奏曲9番(G.カサドシュ)


●12月、コロンヌ管。シャイヨー宮。デュリュフレ:レクイエム


●Pathé録音。ラムルー管。サン・サーンス:ピアノ協2番(ダルレ)


●Polydor録音。ラムルー管。モーツァルト:ヴァイオリン協3番(ティボー)


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 1948/昭和23年 (61〜62歳)

●コロンヌ管 首席指揮者


◆イスラエル独立。イギリス委任統治の終了
●7月、VOX録音。プロ・ムジカ室内管。ベートーヴェン:ピアノ協 WoO.4(フルゴーニ)


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 1949/昭和24年 (62〜63歳)

●コロンヌ管 首席指揮者


●4〜5月、イスラエル・フィル。幻想交響曲、展覧会の絵、他


●6月、Polydor録音。コロンヌ管。デュカス:ラ・ペリ


◆9月、イギリス政府、ポンドを対ドルで約30%切り下げ。アメリカの原料輸入の大幅削減で生じた過度のポンド売りにより、外国為替市場が閉鎖に追い込まれたことが原因。これにより多くの国が自国通貨の切り下げに踏み切ります
・約60%:アイスランド
・約53%:オーストリア
・約47%:アルゼンチン
・約36%:南アフリカ
・約30%:デンマーク、ノルウェー、アイルランド、オランダ、スウェーデン、フィンランド、イラク、エジプト、ヨルダン、ローデシア、インド、ビルマ、セイロン、シンガポール、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランド
・約27%:香港
・約22%:フランス
・約21%:西ドイツ
・約20%:タイ
・約13%:ポルトガル、ルクセンブルク、ベルギー
・約9%:カナダ
・約8%:イタリア
・約7%:イスラエル
◆9月、フランス・モナコ公国間の行政相互援助に関する条約を締結。1952年に発効

●10月、イスラエル・フィルの音楽監督に就任
●11〜12月、イスラエル・フィル。この年のイスラエル・フィルとの公演は67回


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 1950/昭和25年 (63〜64歳)

●コロンヌ管 首席指揮者


●1〜3月、ピッツバーグ響。シリア・モスク。12公演


●4月27日、兄オーギュスト死去。享年66
●4月、イスラエル・フィル。12公演
●5月4日、イスラエル・フィル音楽監督辞任。辞任後も数多く客演


●5月24日、フランス学士院会員に選出
●5月、コロンヌ管。シャイヨー宮。ピエルネ:オラトリオ「子供十字軍」


●5月、コロンヌ管。フランス・ツアー
●6月、パリ・オペラ座管&合唱団。ニーム円形闘技場(マルセイユ近郊)。ベートーヴェン9番


●12月、Polydor録音。コロンヌ管。幻想交響曲、ラコッツィー行進曲、ベンヴェヌート・チェッリーニ序曲


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 1951/昭和26年 (64〜65歳)

●コロンヌ管 首席指揮者


●1月、フィラデルフィア管。カーネギー・ホール。魔笛序曲、田園、ラ・ヴァルス、魔法使いの弟子、フォーレ:ペレアスとメリザンドから


●4月、コロンヌ管。ベートーヴェン:ヴァイオリン協(メニューイン)、他


●5〜6月、イスラエル・フィル。21公演


●10月、ボストン、ニューヨーク、シンシナティ、フィラデルフィア、ピッツバーグ、シカゴのオーケストラに客演。以後も定期的に招かれます


●10月、デトロイト響。メソニック・テンプル。魔笛序曲、田園、ラ・ヴァルス、魔法使いの弟子、フォーレ:ペレアスとメリザンドから


●11月、デトロイト響。ハイフェツ、イストミン
11月、デトロイト響音楽監督に選出


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 1952/昭和27年 (65〜66歳)

●1月、デトロイト響 音楽監督就任を発表。3年間の契約。


●コロンヌ管 首席指揮者


●デトロイトのラッカム合唱団と提携。以後、ラッカム交響合唱団として多くの声楽作品で共演
●2月、ピッツバーグ響。イストミン。シリア・モスク


●8月、ニューヨーク。マーキュリー・レーベルがパレーと3年間の専属契約


●SODRE交響楽団。ワイセンベルク。チャイコフスキ−、ショパン:ピアノ協奏曲1番。ウルグアイの首都、モンテヴィデオにある教育文化省関連のオーケストラ
●スイス・ロマンド管。ヌーシャテル、テンプル・ドゥ・バー。パレー:ジャンヌ・ダルク没後500周年記念ミサ曲


●12月、デトロイト響。サロメの悲劇、他

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 1953/昭和28年 (66〜67歳)

全米キリスト教徒・ユダヤ人会議デトロイト円卓会議から象牙の指揮棒を授与。戦時中の抗議行動やユダヤ人救済を讃えるものです


●デトロイト響 音楽監督


●コロンヌ管 首席指揮者


●2月、Mercury録音。デトロイト響。メソニック・テンプル。フランク:交響曲、ベートーヴェン7番



●2月、Mercury録音。デトロイト響。オーケストラ・ホール。ワルキューレの騎行、マイスタージンガー1幕前奏曲、ローエングリン1、3幕前奏曲、タンホイザー序曲、スペイン奇想曲、ボレロ



●12月、Mercury録音。デトロイト響。オーケストラ・ホール。プシシェ、魔法使いの弟子、ラ・ヴァルス、フォーレ:パヴァーヌ、ペレアスとメリザンド、R=コルサコフ:交響曲2番「アンタール」、ロシアの復活祭、リスト:前奏曲、ルーセル:蜘蛛の饗宴、シューマン4番



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 1954/昭和29年 (67〜68歳)

●デトロイト響 音楽監督


●コロンヌ管 首席指揮者


●1〜2月、デトロイト響。北米ツアー。31公演


●3月、デトロイト響。ハイフェツ
●11月、Mercury録音。デトロイト響。オーケストラ・ホール。パルジファル〜聖金曜日の音楽、ジークフリート〜森のささやき、さまよえるオランダ人序曲、ベートーヴェン6番



●11〜12月、デトロイト響。北米ツアー


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 1955/昭和30年 (68〜69歳)

●デトロイト響音楽監督。2年間の契約


●コロンヌ管 首席指揮者


●3月、Mercury録音。デトロイト響。オーケストラ・ホール。スペイン狂詩曲、トリスタンとイゾルデ〜前奏曲と愛の死、寄港地、ブラームス4番、シャブリエ:スペイン



●5〜6月、イスラエル・フィル。ヨーロッパ・ツアー。クレツキと共同で42公演を指揮。パレーがフランス、イギリス、スイス、ベルギー、クレツキが北欧、イタリア、オランダを担当
●11月、シカゴ響
●12月、Mercury録音。デトロイト響。オーケストラ・ホール。イベリア、海、牧神の午後への前奏曲、シューマン2番



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 1956/昭和31年 (69〜70歳)

●デトロイト響 音楽監督。デトロイト交響楽団の新たな本拠地ヘンリー&エドセル・フォード・オーディトリアム(以下、フォード・オーディトリアムと略)が完成(2011年に解体)。建設費570万ドルのうち250万ドルをフォード社が負担


●1月、フィラデルフィア管。バーバー:交響曲第1番、ショーソン:交響曲、チャイコフスキー4番


●1月、デトロイト響。ハイフェツ
●3月、Mercury録音。デトロイト響。オーケストラ・ホール。パルジファル1幕前奏曲、夜明けとジークフリートのラインへの旅、トリスタンとイゾルデ3幕前奏曲、ジークフリート牧歌、ショーソン:交響曲



●コロンヌ管 首席指揮者を辞任。ほぼ四半世紀に及ぶ長期の在任でしたが、デトロイト交響楽団との仕事の増加により兼務がきびしくなってきたことで辞任。後任はシャルル・ミュンシュがボストン交響楽団音楽監督と兼務


●6月、フィルハーモニア管。ハイフェツ
●イスラエル・フィル
●パレー、デトロイトに住居を構え本拠地とします
●10月、Mercury録音。デトロイト響。フォード・オーディトリアム。パレー:ジャンヌ・ダルク没後500年記念ミサ、モーツァルト35番、ハイドン96番



●11月、Mercury録音。デトロイト響。フォード・オーディトリアム。アルルの女組曲1番、第2番、カルメン組曲、シューマン3番



●11月、ニューヨーク・フィル。シューマン4番、ハイドン96番、モーツァルト:ピアノ協奏曲20番(ハスキル)、バロー:影への捧げもの、ドビュッシー:海、ラヴェル:ダフニスとクロエ、フォーレ:ペレアスとメリザンド、バルトーク:ピアノ協2番(アンダ)、リスト:同1番(アンダ)、カウエル: 賛美歌とフーガ風の調べ第2番
●12月、ニューヨーク・フィル。シューベルト:グレート、プロコフィエフ1番、モーツァルト:ピアノ協23番(カサドシュ)、フランク:交響的変奏曲(カサドシュ)


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 1957/昭和32年 (70〜71歳)

●デトロイト響音楽監督。3年間の契約。


●3月、Mercury録音。デトロイト響。フォード・オーディトリアム。マ・メール・ロワ組曲、シャブリエ:気まぐれなブーレ、バロー:影への捧げもの、ルーセル:組曲ヘ調、ラフマニノフ2番



●3月、デトロイト響。キャピトル劇場(1921年開場、1,400席)。シャブリエ:スペイン、ハイドン96番、モーツァルト:ピアノ協奏曲23番、デュプレ:ピアノと管弦楽のための幻想曲


●4月、ニューヨーク・フィル。トリスタンとイゾルデ前奏曲と愛の詩、ワルキューレの騎行、ルーセル:蜘蛛の饗宴、ショパン:ピアノ協2番(マウツジニスキ)、ラロ:イスの王様序曲、ブラームス:ヴァイオリン協(フランチェスカッティ)


●10月、デトロイト響。フォード・オーディトリアム。サン=サーンス3番
●10月、Mercury録音。デトロイト響。フォード・オーディトリアム。サン=サーンス3番



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 1958/昭和33年 (71〜72歳)

●デトロイト響 音楽監督


●3月、Mercury録音。デトロイト響。オーケストラ・ホール。ボレロ、ラロ:イスの王序曲、ナムーナ組曲1番、メンデルスゾーン5番、真夏の夜の夢組曲、R.シュトラウス:7つのヴェールの踊り、シューマン:マンフレッド序曲、フローラン・シュミット:サロメの悲劇、ビゼー:祖国、ベルリオーズ:海賊、ローマの謝肉祭、シューマン1番



●4月、RTF管。サン・サーンス:ピアノ協5番(タリアフェロ)、他
●10月、デトロイト響。ウースター・メモリアル・オーディトリアム(1933年開場、3,508席)。マサチューセッツ州ウースター音楽祭のレジデント・オーケストラが、この年からデトロイト響となります(その前はフィラデルフィア管)。


●10月、デトロイト響。フォード・オーディトリアム(2,926席)開場記念公演。ベートーヴェン:献堂式序曲、R.シュトラウス:ドン・ファン、他


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 1959/昭和34年 (72〜73歳)

●デトロイト響 音楽監督


●1月、フィラデルフィア管。カーネギー・ホール


●1月、デトロイト響。フォード・オーディトリアム。カウエル:感謝祭の詩篇死海文書の行、交響曲第11番、他


●1月、Mercury録音。デトロイト響。フォード・オーディトリアム。ウィリアム・テル序曲、メフィスト・ワルツ、死の舞踏、舞踏への勧誘、シベリウス2番、ベートーヴェン1番、2番



●2〜3月、デトロイト響。3週間の国内ツアー


●3月、デトロイト響。マタイ受難曲
●3月、ニューヨーク・フィル。ラ・ヴァルス、ローマの謝肉祭、フォーレ:ペレアスとメリザンド、シャブリエ:気まぐれなブーレ


●4月、Mercury録音。デトロイト響。オーケストラ・ホール。オッフェンバック:天国と地獄序曲、美しきエレーヌ序曲、ホフマン物語〜舟歌、サン=サーンス:英雄行進曲、フランス軍隊行進曲、ラヴェル:クープランの墓、高雅で感傷的なワルツ、ドビュッシー:小組曲、マイヤーベーア:戴冠式行進曲、グノー:あやつり人形の葬送行進曲、ベルリオーズ:ラコッツィー行進曲、トロイ人の行進曲、オーベール:フラ・ディアボロ序曲、マサニエロ序曲、青銅の騎士序曲、シャブリエ:楽しい行進曲、ド・リール:ラ・マルセイエーズ



●5月、RTFフィル。シャンゼリゼ劇場。ジャンヌ・ダルク没後500周年記念ミサ曲


●8月、モンテカルロ国立歌劇場。モナコ大公宮殿。ブラームス:二重協奏曲(グリュミオー、ジャンドロン)、他


●10月、デトロイト響。ウースター音楽祭


●10月、デトロイト響。ピストン:ニューイングランドの3つのスケッチ初演
●10月、デトロイト響。アメリカ国歌、キャンディード序曲、ハイドン変奏曲、幻想交響曲
●11月、デトロイト響。マーラー5番、バッハ:管弦楽組曲2番、メンデルスゾーン:ヴァイオリン協(アーノルド・スタインハート)、ベルリオーズ:ロメオとジュリエット〜キャピュレット家の祝宴、ハイドン73番、ラフマニノフ:ピアノ協3番(バッカウアー)
●11月、デトロイト響。カルメン演奏会形式上演
●11月、Mercury録音。デトロイト響。キャス工業高校オーディトリアム。ベルリオーズ:幻想交響曲、フランク:交響曲、スッペ:軽騎兵序曲、詩人と農夫序曲、ボッカッチョ序曲、スペードの女王序曲、ウィーンの朝昼晩序曲、美しきガラテア序曲
 マーキュリーの1月の録音では新しいフォード・オーディトリアムを使用しましたが、響きがドライなことから録音に手間がかかるため、4月の録音では再び以前のオーケストラ・ホールを録音会場に使用していました
 しかし、デトロイトのキャス工業高校のオーディトリアムがさらに音響が良いことがわかったため、以後、同オーディトリアムを録音セッションに使用しています
 1922年に393万ドルをかけて完成したキャス工業高校の校舎は、上から見るとBの字型で、2つの中庭には、片方にオーディトリアム、片方に運動場とプールが設置。オーディトリアムは構造的に校舎と切り離されています



●12月、デトロイト響。コーン:交響曲3番、デュカス:ラ・ペリ、ブラームス:アルト・ラプソディ(シーボム)
●12月、デトロイト響。ハイフェツ。ニューヨーク、国連演奏会。シューマン4番、R=コルサコフ:金鶏組曲、ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲、他


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 1960/昭和34年 (73〜74歳)

●デトロイト響 音楽監督


●1月、デトロイト響。ドヴォルザーク9番、フラナガン:交響的頌歌、クレストン:ヴァイオリン協奏曲1番(ラビノフ)、ベートーヴェン:フィデリオ序曲、ピアノ協奏曲5番(コトラー)、ヴァイオリン協奏曲(ミシャコフ)、ワーグナー:リエンツィ序曲、ディーリアス:楽園への道、ウォルトン:ファサード組曲、モーツァルト:ピアノ協奏曲23番、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲1番(ルービンシュタイン)
●2月、Mercury録音。デトロイト響。キャス工業高校オーディトリアム。ドヴォルザーク9番、ワーグナー:ワルキューレ〜魔の炎の音楽、マイスタージンガー3幕前奏曲、徒弟達の踊りと親方たちの入場、さまよえるオランダ人序曲、リエンツィ序曲



●2月、デトロイト響。カゼッラ:イタリア、ピストン:ニューイングランドの肖像、モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲5番、ラロ:スペイン交響曲(フェラス)
●3月、デトロイト響。ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス、ブルックナー7番、シューベルト:ロザムンデ、ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲、ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲(エルマン)、ワーグナー:魔の炎の音楽、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲1番、R.シュトラウス:ブルレスケ(ジャニス)
●4月、RTF管。映像収録。ワーグナー:タンホイザー序曲、ローエングリン1幕前奏曲、パルジファル聖金曜日の音楽
●5〜6月、イスラエル・フィル。ラロ:イスの王様序曲、シューマン2番、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲(ミルシテイン)、他、20公演


●10月、デトロイト響。ウースター音楽祭。ヴォーン=ウィリアムズ:海の交響曲、メンデルスゾーン4番、ハンソン:エレジー、バッハ:ブランデンブルク協奏曲5番、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲2番、R.シュトラウス:ブルレスケ(グールド)


●11月、RTFフィル。ルドゥー劇場(1778年開場、2,000席→火災→1958年再建、1,100席)。ブザンソン・フェスティヴァル。ベートーヴェン1番、他


●11月、デトロイト響。オルフ:カルミナ・ブラーナ、R=コルサコフ:金鶏組曲、シューマン:マンフレッド序曲、ラヴェル:ピアノ協奏曲(アース)、ブラームス:ピアノ協奏曲2番(カサドシュ)、ラロ:イスの王序曲、ロッシーニ:絹のはしご序曲、ピストン:ヴァイオリン協奏曲2番(フックス)、バッハ:羊はやわらかに草をはみ、メンデルスゾーン:スケルツォ、サン=サーンス3番オルガン、他
●11月、Mercury録音。デトロイト響。キャス工業高校オーディトリアム。エロール:ザンパ序曲、トマ:ミニョン序曲、レーモン序曲、オーベール:王冠のダイアモンド序曲、アダン:我もし王者なりせば序曲、シャブリエ:スペイン、グヴァンドリーヌ序曲、田園組曲、スラヴ舞曲、ポーランドの祭、ボイエルデュー:序曲白衣の貴婦人



●12月、デトロイト響。セヴィリアの理髪師、ルチア、魔笛〜アリア(ピータース)、スペイン奇想曲、くるみ割り人形組曲、ブラームス4番、ベルリオーズ:キリストの幼時〜若いイシュマエル人による三重奏曲、シューベルト:グレート、ラヴェル:ピアノ協、バッハ:同1番(アース)、ドビュッシー:夜想曲、ハイドン96番、マクダウェル:インド組曲、他

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 1961/昭和36年 (74〜75歳)

●デトロイト響 音楽監督


●1月、ニューヨーク・フィル。プシシェ、絹のはしご序曲、ファウストの劫罰から、シベリウス2番、モートン・グールド:ピアノと弦楽のためのダイアローグ、ロパトニコフ:祝典序曲、ベートーヴェン2番、他


●1月、デトロイト響。モーツァルト35番、コープランド:テンダーランド、ラフマニノフ:ピアノ協2番(ブラウニング)
●2月、デトロイト響。オランダ人序曲、パレー:交響曲2番、アダスキン:サスカチュワン伝説、ベートーヴェン4番、ブラームス:ヴァイオリン協(スターン)、ヘンデル:オルガン協10番、プーランク:オルガン協(コシュロー)
●3月、デトロイト響。魔笛序曲、展覧会の絵、レオノーレ序曲3番、ジークフリート牧歌、トリスタン3幕前奏曲、ジークフリートの葬送行進曲、ローエングリン3幕前奏曲、モーツァルト41番、ロレム:交響曲3番、ベルリオーズ:夏の夜(スティーバー)、リスト:前奏曲、レーガー:モーツァルト変奏曲、モーツァルト:ピアノ協15番、シャピロ:パルティータ(リプキン)、バッハ:マニフィカト、フォーレ:レクイエム
●3月、Mercury録音。デトロイト響。キャス工業高校オーディトリアム。ダフニスとクロエ組曲2番、ドビュッシー:夜想曲、サン=サーンス:バッカナール



●パレーはデトロイト響音楽監督を1961/1962シーズンで退任すると発表。
●パレー退任の報を受けて何百通もの嘆願書が届けられたため、1962/1963シーズンの最初の9週間、1963年1月まで留任すると発表。
●10月、デトロイト響。ウースター音楽祭


●10月、デトロイト響。オール・ワーグナー・プログラム
●10〜11月、デトロイト響。3週間の国内ツアー


●11月、ニューヨーク・フィル。魔笛序曲、さまよえるオランダ人序曲、ローエングリン第1幕前奏曲、ローマの松、ボレロ、フィンガルの洞窟、ベートーヴェン6番、シューマン2番、ショパン:ピアノ協2番(フー・ツォン)


●11月、デトロイト響。カルメン演奏会形式全曲上演、ボレロ、オベロン序曲、ブラームス2番、チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏フリードマン)
●12月、デトロイト響。サムソンとデリラ演奏会形式全曲上演、未完成、至福、売られた花嫁序曲、ファウストの劫罰〜合唱曲、気高き幻想、バーバー:アダージョ、リスト:ピアノ協1番、パレー:ピアノと管弦楽のための幻想曲(イトゥルビ)

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 1962/昭和37年 (75〜76歳)

●1月、デトロイト響。ローマの謝肉祭、ベートーヴェン6番、7番、シューマン4番、他
●2月、デトロイト響。フィンガルの洞窟、チャイコフスキー5番、ベートーヴェン:ピアノ協5番(バッカウアー)
●2月、デトロイト響。国内ツアー


●3月、Mercury録音。デトロイト響。キャス工業高校オーディトリアム。ラヴェル:スペイン狂詩曲、亡き王女のためのパヴァーヌ、ラ・ヴァルス、道化師の朝の歌、トマ:ミニヨン〜ガヴォット、ベルリオーズ:王の狩と嵐、マスネ:フェードル序曲、グノー:歌劇ファウスト〜バレエ音楽、イベール:寄港地、ビゼー:カルメン〜ジプシーの踊り



●3月、デトロイト響音楽監督としての最後のコンサート。ベートーヴェン9番、フィデリオ序曲、ベルリオーズ:王宮の狩と嵐、モーツァルト:協奏交響曲 K364(ミシャコフ)、フォーレ:パヴァーヌ、ラヴェル:道化師の朝の歌。パレーは名誉指揮者の称号を授与され、毎年4週間連続の客演が要請されます
●5月、パリ・オペラ座管。ハイフェツ
●パリ・オペラ座管。ドビュッシー生誕100周年記念演奏会


●10月、デトロイト響。ウースター音楽祭


●11月、デトロイト響。ジャンヌ・ダルク没後500周年記念ミサ曲、ベートーヴェン:ピアノ協3番(グールド)、モーツァルト:魔笛序曲、シューマン2番
●12月、デトロイト響。ベートーヴェン:ピアノ協2番(グールド)、他
●12月、パリ音楽院管。ブラームス4番、ヴァイオリン協(シェリング)

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 1963/昭和38年 (76〜77歳)

●1月、デトロイト響。ローマの噴水、ルーマニア狂詩曲第1番、ドン・ジョヴァンニ序曲、サロメ〜フィナーレ、ドン・ファン、モーツァルト39番、チャイコフスキ−6番、プロコフィエフ1番、他
●2〜3月、イスラエル・フィル。20公演


◆5月、フランスとモナコ公国で財務協定が結ばれ、フランス人の場合、モナコの税制優遇からは除外されることが決まります
●5月、RTF管。映像収録。ダフニスとクロエ組曲2番、シューマン4番
●5月、パリ音楽院管。映像収録。シェリング。ボルドー大劇場(1780年開場、1,100席)


●9月、RTF管。ブザンソン音楽祭。ルドゥー劇場(1784年開場、1,100席)


●パレー、モナコ公国に移住
●モンテカルロ国立歌劇場管
●12月、RTF管。プロコフィエフ:ピアノ協3番(ジャニス)、他

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 1964/昭和39年 (77〜78歳)

●1月、デトロイト響


●3月、RTFフィル。レオノーレ3番、マイスタージンガー前奏曲、トリスタン前奏曲と愛の死、ダフニスとクロエ組曲2番、シューマン4番
●3月、RTF管。リモージュ。ベートーヴェン7番、他
●4月、RTF管。ドイツ・ツアー
●5月、RTF管。シャンゼリゼ劇場。シューマン4番、他


●9〜11月、イスラエル・フィル。22公演


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 1965/昭和40年 (78〜79歳)

●1月、デトロイト響


●2月、サンフランシスコ響。戦争記念歌劇場(1932年開場、3,146席)。幻想交響曲、ボレロ、ドビュッシー:小組曲、フォーレ:パヴァーヌ


●4月、ORTF管。スタジオ104


●4月、DGG録音。ORTF管。ラヴェル:ピアノ協、左手のためのピアノ協(アース)


●6月、ORTF管。スタジオ104。ファウストの劫罰


●6月、ORTF管。ストラスブール、祝祭宮(1903年開場、1,750席)。サン=サーンス3番(コシュロー)、他


●7月、ORTF管。シャンゼリゼ劇場。ファウストの劫罰


●9月、ORTF管。モントルー音楽祭。スポーツ・パヴィリオン。新世界、バルトーク:ヴァイオリン協2番、他


●10月、モンテカルロ。ベートーヴェン5番、他


●11〜12月、デトロイト響


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 1966/昭和41年 (79〜80歳)

●2〜4月、モンテカルロ。北米ツアー。全行程25,000km、43公演


●4〜5月、イスラエル・フィル


●6月、ORTF管。シャンゼリゼ劇場。ラ・ヴァルス、シューマン4番


●7月、モンテカルロ。モナコ大公宮殿。ファウストの劫罰


●11月、ORTF管。シャンゼリゼ劇場。ベートーヴェン1番、9番


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 1967/昭和42年 (80〜81歳)

●1月、ピッツバーグ響。シリア・モスク


●2月、パリ・オペラ座管。メニューイン


●2月、パレーとメニューインにパリ市メダル授与
●2〜3月、デトロイト響。ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス、リスト:ファウスト交響曲、パレー:ジャンヌ・ダルク没後500年記念ミサ曲


●4月、パリ管。急病のミュンシュの代役として、キエフ、モスクワ、レニングラード、リガ公演で指揮。大成功を収めます


●9月、ORTFフィル&合唱団。ブザンソン音楽祭。ベートーヴェン


●10月、イスラエル・フィル。13公演


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 1968/昭和43年 (81〜82歳)

●パレーとデトロイト響運営幹部が対立。その幹部が退任する1975年までパレーは客演を拒否
●2〜3月、デトロイト響


●3月、アメリカ響。魔笛序曲、ラ・ペリ、ファウストの劫罰抜粋、シューマン2番
●4月、パリ管。シャンゼリゼ劇場。ラ・ペリ、ルーマニア狂詩曲1番、モーツァルト40番、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲2番(ワイセンベルク)


●4月、パリ管。音楽劇場(1862年開場、1,500席)。ラ・ペリ、ルーマニア狂詩曲1番、モーツァルト40番、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲2番(ワイセンベルク)


●6月、ピッツバーグ響。シリア・モスク。ダフニスとクロエ組曲2番、フランク:交響曲、メンデルスゾーン:ヴァイオリン協(クリモフ)


●8月、デトロイト響コンサートマスターのミッシャ・ミシャコフ[1895-1981]が73歳で退団
●10月、イスラエル・フィル。14公演


●11月、ORTF管。シャンゼリゼ劇場。トリスタンとイゾルデ〜前奏曲と愛の死、パレー:交響曲2番


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 1969/昭和44年 (82〜83歳)

●2月、ORTFフィル。サル・プレイエル。海、ボレロ、他


●2月、ORTF管。スタジオ104。フィガロの結婚序曲、ハイドン96番、他


●6月、Concert Hall Society録音。モンテカルロ。アルカザール。リスト:前奏曲、オルフェウス、マゼッパ



●8月、モンテカルロ。モナコ大公宮殿。リスト:前奏曲、マゼッパ、チャイコフスキー:ヴァイオリン協(ミルシテイン)


●10月、Concert Hall Society録音。モンテカルロ。アルカザール。魔法使いの弟子、ラ・ヴァルス、シャブリエ:スペイン、田園組曲



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 1970/昭和45年 (83〜84歳)

●1〜2月、イスラエル・フィル。16公演。ラフマニノフ:ピアノ協3番(オグドン)、他


●3月、ORTFフィル。スタジオ103。ラヴェル:ピアノ協(イヴォンヌ・ルフェビュール)


●3月、ORTFフィル。スタジオ104。シューマン:ピアノ協(イヴォンヌ・ルフェビュール)


●4月、マルセイユ歌劇場管。マルセイユ歌劇場(1924年開場、1,800席)。シューマン:ピアノ協(バルビゼ)


●7月、パリ・オペラ座管。ベートーヴェン生誕200周年記念演奏会。レオノーレ3、プロメテウスの創造物序曲、ベートーヴェン9番


●11月、ORTF管。スタジオ104。チャイコフスキー5番、シューマン:ピアノ協(ジャノリ)


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 1971/昭和46年 (84〜85歳)

●フランス国家功労勲章十字章授与。フランスの勲章の最高位


●1月、ORTF管。シューマン:ピアノ協(ジャノーリ)、チャイコフスキー5番、ラロ:イスの王様序曲
●2月、ORTF管。ラヴェル:ピアノ協(イヴォンヌ・ルフェビュール)
●3月、ORTF管。スタジオ104。シャブリエ:気まぐれなブーレ、他


●4月、ORTF管。パリ、サル・プレイエル。フォーレ:レクイエム
●9月、ORTFフィル。パリ、サル・プレイエル。フォーレ:ペレアスとメリザンド


●10月、シューマン:ピアノ協奏曲(イヴォンヌ・ルフェビュール)
●10〜11月、マッシモ劇場管。マッシモ劇場(1897年開場、1,387席)。展覧会の絵、ローエングリン前奏曲、マレスコッティ:オーバード(朝の歌)、他


●11〜12月、イスラエル・フィル。13公演。シューマン3番、バルトーク:ピアノ協3番(ザルツマン)、他


◆12月、スミソニアン体制によりドルの切り下げ実施(対円で約14%)。1973年2月までドル固定相場制が継続し、以後は変動相場制に移行、現在に至っています。

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 1972/昭和47年 (85〜86歳)

●2月、ストラスブール放送響。ミュルーズ劇場。幻想交響曲、展覧会の絵
●2〜3月、イスラエル・フィル。14公演


●4月、ORTF管。シャンゼリゼ劇場。レジオン・ドヌール勲章ガラ・コンサート。ピエルネ:子供の十字軍抜粋


●5月、ORTFフィル。スタジオ104。パレー:交響曲1番、フォーレ:パヴァーヌ、ピエルネ:シダリーズと牧羊神組曲1番、ルシュール:祝祭序曲、ラヴァーニュ:詩篇41番


●10月、Erato録音。モンテカルロ。アルカザール。ラロ:スペイン交響曲(アモイヤル)、ノルウェー狂詩曲


●ORTF管。ボレロ、ピエルネ:子供の十字軍抜粋、ベートーヴェン:ヴァイオリン協(メニューイン)

↪目次


 1973/昭和48年 (86〜87歳)

●5月、ORTFフィル。スタジオ104。パレー:ソプラノと管弦楽のための7つの歌曲、フランク:プシシェ、サン=サーンス3番


●5月、ORTF管。ボルドー大劇場。ファウストの劫罰


●5月、パリ・オペラ座。フランチェスカッティ。レジオン・ドヌール勲章ガラ・コンサート


●5月、ORTF管。ヴェルサイユ宮。サウジアラビア王国ファイサル国王公式レセプション・コンサート


●6〜7月、パリ管。カバリエ。モーツァルト40番、R.シュトラウス:ティル、サロメ〜フィナーレ


●7月、ヴェルサイユ王立歌劇場。カバリエ


●10月、ORTFフィル。パリ、オペラ=コミーク座(1892年開場、1,248席)。シューマン3番、ロッセリーニ:ナポリ湾の歌、他


●11月、ORTF管。シャンゼリゼ劇場。パレー:ジャンヌ・ダルク没後500年記念ミサ、ベートーヴェン8番


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 1974/昭和49年 (87〜88歳)

●3月、ORTF管。シャンゼリゼ劇場。フォーレ:ペネロペ全曲。フォーレ没後50周年記念公演。全ヨーロッパに向け放送


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 1975/昭和50年 (88〜89歳)

●7月、モンテカルロ。モンテカルロ国際芸術祭。ファウストの劫罰から、フランク:交響曲、ラヴェル:ピアノ協(タッキーノ)


●8月、デトロイト響。メドウ・ブルック音楽祭。ボレロ、ローマの謝肉祭、死の舞踏、ダフニスとクロエ組曲2番、牧神の午後への前奏曲、ファウストの劫罰抜粋、フランク:交響曲、シャブリエ:スペイン、フォーレ:ペレアス。7年ぶりの登場に7,000人を超える聴衆が集まります


●10月、フランス国立管。ボレロ、シューマン3番、ロッセリーニ:ナポリ湾の歌、シャブリエ:スペイン、フランク:交響曲、ドビュッシー:夜想曲


●11月、レジオン・ドヌール勲章グランクロワ、エリゼ宮でジスカール・デスタン大統領より授与。最高位のグランクロワは、音楽家ではサン=サーンス、フォーレに次ぐ3人目


●11月、フィレンツェ五月音楽祭管。テアトロ・コムナーレ


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 1976/昭和51年 (89〜90歳)

●3月、ラムルー管。エリザベート・ブラッスール合唱団。ミサ・ソレムニス。コントラバス10名の100人編成のオーケストラによる演奏
●ラムルー管。エリザベート・ブラッスール合唱団。ベートーヴェン9番
●8月、デトロイト響。メドウ・ブルック音楽祭に出演


●10月、モンテカルロ。ワーグナー・フェスティヴァル、ベートーヴェン6番、ピアノ協3番、ファリャ:恋は魔術師、ラヴェル:ラ・ヴァルス、他


●10月、モンテカルロ。シャンゼリゼ劇場。キリ・テ・カナワ。ファリャ:恋は魔術師、他


●10月、モンテカルロ。リヨン・モーリス・ラヴェル・オーディトリアム(1975年開場、2,100席)


●11月、イスラエル・フィル。13公演。シューマン2番、他


↪目次


 1977/昭和52年 (90〜91歳)

●5月、Concert Hall Society録音。モンテカルロ。サル・ガルニエ。マスネ:ル・シッド〜バレエ音楽、サン・サーンス:死の舞踏、オンファールの糸車、ビゼー:カルメン組曲、美しきパースの娘組曲



●7月、モンテカルロ。ニース。マルク・シャガール[1887-1985]の90歳のバースデイ演奏会に出演


●11〜12月、イスラエル・フィル。15公演


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 1978/昭和53年 (91〜92歳)

●2月、フィラデルフィアのカーティス音楽院の学生オーケストラを一週間に渡って指導。オーボエの名手でカーティス音楽院長、ジョン・デ・ランシーの招待
●2月、カーティス響。フィラデルフィア。ベートーヴェン:フィデリオ序曲、シューマン4番、ラヴェル:ラ・ヴァルス、フォーレ:パヴァーヌ、デュカス:魔法使いの弟子
●10月、ボルドー・アキテーヌ管。フェミナ劇場(1921年開場、1,145席)。ショーソン、シャブリエ


●10月、カーティス響。フィラデルフィア。フィガロの結婚序曲、プシシェ、ベートーヴェン6番、フォーレ:ペレアスとメリザンド、シャブリエ:スペイン

↪目次


 1979/昭和54年 (92〜93歳)

●2月、モンテカルロ。パレ・デ・コングレ・デ・モナコ。開場記念公演。メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲(メニューイン)、他


●2月、イスラエル・フィル。13公演


●夏、オーストリアのフォアアールベルク州、標高690メートルのホテルでヴァカンス。10月3日にホテルを出発し、スイスに寄ったのち、10月6日にモナコに到着


●10月10日、モンテカルロで日課の体操中に動脈瘤破裂により倒れ、死去。 数日後にモンテカルロ国立歌劇場管との演奏会のほか、パリ管との3つの演奏会も控えていました。また、1980年7月にはデッカにイスラエル・フィルとチャイコフスキー:白鳥の湖とくるみ割り人形の組曲を録音する予定がありました
●遺体は生地ル・トレポールの墓地に埋葬

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総合評価

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権利がきれた音源を集めてBOX化している、...

投稿日:2022/01/29 (土)

権利がきれた音源を集めてBOX化している、ヴェニアス・レーベル。 今回はフランス生まれでアメリカなどで活躍したポール・パレーが振った音源を集めたもの。 CDの大半の音源はデトロイト交響楽団と入れたマーキュリー原盤の音源であり、CD24、CD25は戦前と戦後、コンセール・コロンヌ管弦楽団の監督をしていた時代に録音された音源である。 デトロイト交響楽団とのマーキュリーの録音は全てが一度はCD化済み、コロンヌとの録音は知る限りではこれが最初?である。 いずれも軽妙洒脱で、端正に整えられた切れ味の良い演奏である。 このスタイルの演奏ではやはりフランス物の演奏は見事と言うほかないし、非フランス系の作品も、こういう解釈があるのかと感心してしまう。 フランス物ではシャブリエやショーソン、サン=サーンスやビゼーあたりが名盤、非フランス物だとスッペやラフマニノフ、リムスキー=コルサコフなどが良い。 またデトロイトとの田園交響曲は史上最速の演奏と言われる迷演奏であり、こちらも必聴だ。 選曲面でも珍しい曲が揃っており、20世紀フランス音楽に興味のある人は要チェック。 CDはクラムシェル仕様であり、解説書は付いてないが、毎度ながらHMVが大変詳しい解説を載せており、これで十分だ。 1934〜1962年と新しくとも半世紀前の録音ですが、復刻は時期を考えれば、聴きやすい音質と言えるのでしょうか。 少なくともヒストリカル録音に慣れていれば大丈夫です。

レインボー さん | 不明 | 不明

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パレーは初めて聴きましたが、どれも洒脱で...

投稿日:2021/03/20 (土)

パレーは初めて聴きましたが、どれも洒脱で、素晴らしいです。なんで知名度低いのだろう。

murr さん | 東京都 | 不明

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Pavaneさんのおっしゃる通り、このポール・...

投稿日:2021/03/05 (金)

Pavaneさんのおっしゃる通り、このポール・パレーは本当に購入して良かったボックスでした。まだ最初の6枚しか聴いてはおりませんが残り19枚も頗る楽しみです。音楽が生きている、怒涛の迫力、デトロイトSO恐るべし!パレー凄い指揮者!VENIASの音も全く問題なしです。この価格では(HMVさんが最安値で2021.3.5現在¥3,290-)パレーに申し訳なく思います。廃版扱いの店舗さんも有り、在庫があるうちにお求めになられる事を強くお勧めします。

小市民 さん | 静岡県 | 不明

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