2023年クレンペラー没後50周年企画
クレンペラーのザルツブルク音楽祭ライヴ。歴史の裏側が垣間見える貴重な記録
ナチ政権の誕生によりクレンペラーはドイツの歌劇場での仕事ができなくなります。世相も緊迫してきたことから、4月に入るとクレンペラー家はスイスに向けて出国しますが、その少し前にウィーン・フィル団長のブルクハウザーがベルリンを訪れ、クレンペラーにコンサートの指揮を要請し、急遽4月23日のウィーン・フィルへの客演が決定。以後、政情不安が酷くなる1936年10月までの3年半のあいだにクレンペラーはウィーン・フィルを計11回指揮しています。
4月23日にブルックナーの交響曲第5番ほかで成功を収めると、8月にはブルックナーの交響曲第8番ほかでザルツブルク音楽祭にデビューして同じく聴衆を熱狂させており、1933年10月にロサンジェルス・フィル音楽監督に就任してからもウィーン・フィルへの客演を継続していました。
11回の公演のプログラムは、ブルックナーの5番、7番、8番、9番、ベートーヴェン3番、5番、ブラームス1番といった独墺王道系から、「ペトルーシュカ」、パレストリーナのミサにまで至る実に幅広いもので、アルバン・ベルクを追悼したベルクのヴァイオリン協奏曲のコンサートも含まれています。
中には前半がブルックナー第7番、後半がブルックナー第5番という冒険的なプログラムもあり、クレンペラーがオーケストラからも聴衆からも受け入れられていたことがよく示されていると思います。そんなわけで、戦後のザルツブルク音楽祭への再登場も自然な流れではありました。
そしてクレンペラーがザルツブルク音楽祭に戻った1947年は、戦後まだ2年目ということもあり、戦時中にドイツ・オーストリアで演奏が禁止されていたマーラーの交響曲第4番と、戦勝国アメリカのロイ・ハリスの交響曲第3番、そして同じく戦勝国イギリスのパーセルの『妖精の女王』組曲がプログラムに選ばれています。会場は14年前のブルックナー8番の時と同じく旧祝祭劇場が使用されています。
収録情報
Disc1
・ラジオ・アナウンス
1. パーセル:組曲『妖精の女王』(ハロルド・バーンズ編)
2. ハリス:交響曲第3番(1939)
Disc2
3. マーラー:交響曲第4番ト長調
・ラジオ・アナウンス
ヒルデ・ギューデン(ソプラノ:3)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
オットー・クレンペラー(指揮)
録音時期:1947年8月24日
録音場所:ザルツブルク、祝祭劇場
録音方式:モノラル(ライヴ)
リストア&リマスタリング:ボリス・ボレス・オーディオ&ミュージック・プロダクション、デトモルト
SACD Hybrid
Digipak
輸入盤・日本語帯・解説付き
各種リンク
【クレンペラー関連】
●1947年以前のクレンペラーとウィーン・フィルの共演
●1947年のザルツブルク音楽祭公演
●ダントンの死のキャンセル
【年表】
◆ 誕生〜修業時代 [1885年5月〜1906年5月]
◆ 第1期 (高速傾向) [1906年5月〜1939年9月]
◆ 療養期 [1939年9月〜1940年10月]
◆ 第2期 (高速傾向) [1940年10月〜1951年10月]
◆ 療養期 [1951年10月〜1952年4月]
◆ 第3期 (中速傾向) [1952年4月〜1958年9月]
◆ 療養期 [1958年9月〜1959年9月]
◆ 第4期 (低速傾向) [1959年9月〜1966年8月]
◆ 療養期 [1966年8月〜1967年2月]
◆ 第5期 (超低速傾向) [1967年2月〜1971年9月]
【商品関連】
●商品説明:年表シリーズ一覧
1947年以前のクレンペラーとウィーン・フィルの共演
なかなかハードなプログラムが並んでいますが、フランス物やパレストリーナなどという意外なものもあって、リハーサルにも十分な時間を割ける環境だったと考えられます。
1933年4月23日、ムジークフェラインザール
●ベートーヴェン:交響曲第1番
●ブルックナー交響曲第5番
1933年8月20日、ザルツブルク祝祭劇場
●ベートーヴェン:交響曲第1番
●ブルックナー交響曲第8番
1933年9月10日、ムジークフェラインザール
●パレストリーナ:ミサ「汝らの証聖者」
●ブルックナー交響曲第9番
1933年10月1、2日、ムジークフェラインザール
●ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
●バッハ:カンタータ第21番 BWV21「わがうちに憂いは満ちぬ」
1934年5月12、13日、ムジークフェラインザール
●ベルリオーズ:「ローマの謝肉祭」
●ドビュッシー:「夜想曲」
●ストラヴィンスキー:「ペトルーシュカ」
●メンデルスゾーン:劇音楽「真夏の夜の夢」
1936年6月7日、ムジークフェラインザール
●ベートーヴェン:「エグモント」序曲
●ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲(フーベルマン)
●ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」
1936年10月10、11日、ムジークフェラインザール
●ブルックナー:交響曲第7番
●ブルックナー:交響曲第5番
1936年10月25日、ムジークフェラインザール
●シューマン:「マンフレッド」序曲
●ベルク:ヴァイオリン協奏曲(クラスナー)
●ブラームス:交響曲第1番

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1947年のザルツブルク公演
プログラム構成は一風変わったものです。戦時中にドイツ・オーストリアで演奏が禁止されていたマーラーの交響曲第4番と、戦勝国アメリカのロイ・ハリスの交響曲第3番、そして同じく戦勝国イギリスのパーセルの『妖精の女王』組曲というものです。会場は14年前のブルックナー8番の時と同じく旧祝祭劇場が使用されています。
この年のザルツブルク音楽祭では、クレンペラーの23歳の娘ロッテが、音楽祭の名物演劇「イェーダーマン」のパーティー客として出演し、クレンペラーも「フィガロの結婚」を指揮するなどして楽しんでいました。
パーセル:組曲『妖精の女王』
冒頭、バーンズの編曲なのかクレンペラーの解釈なのかわかりませんが、「シャコンヌ」がすごい重量感で演奏されるのにまず驚かされます。
「妖精の女王」はシェイクスピアの「夏の夜の夢」を基にしたパーセルの2時間超えのオペラ。組曲はその中の聴きどころを集めたもので、メンデルスゾーンに影響を与えたようなものも聴こえてきます。
編曲者のハロルド・バーンズ[1903-1977]は、元はハノーファーに誕生したハンス・ベルンシュタインというユダヤ系ドイツ人で、1936年に渡米して改名、ロサンジェルスで活動していたクレンペラーの友人です。マーラー・ファンには、交響曲第10番を世に広めるために、アルマ・マーラーを説得することに成功した人物としても知られています。

ロイ・ハリス:交響曲第3番
クーセヴィツキーの委嘱作だけあって音響効果にも秀でた聴きやすい作品。
単一楽章の短い交響曲で、全曲は、「悲劇的」、「叙情的」「田園的」、「劇的なフーガ」、「劇的な悲劇」という5つの部分からなります。

マーラー:交響曲第4番
マーラー最後の年の交響曲第4番の演奏に準備段階から立ち会った際、マーラー自身による楽器変更を経験したというクレンペラーにとって、交響曲第4番は非常に重要な作品です。
マーラーの第4番は、マーラーからの2度目の推薦を得て1910年にハンブルク歌劇場の指揮者となったクレンペラーが、1912年に初めてオーケストラ・コンサートで指揮した際のメインの曲目でした。
前年の1911年にはマーラーが50歳で亡くなり、クレンペラーは鬱症状によりサナトリウムに滞在、その年にはシェーンベルク、リヒャルト・シュトラウスらとも交流し、アルマ・マーラーからは資金援助を受けるなど26歳のクレンペラーにとっていろいろとあった時期でしたが、明けて1月30日にハンブルクで開催したオーケストラ・コンサートは成功でした。
しかし、歌劇場指揮者だった1933年までは活動のメインはオペラでしたし、1933年から戦争が終わるまではロサンジェルスが拠点という事情もあり、クレンペラーが交響曲第4番を積極的にとりあげるようになるのは戦後のことになります。
そしてその戦後第1弾となったのがこのザルツブルク音楽祭での公演で、ソプラノにはウィーンの人気ソプラノ、ヒルデ・ギューデンが迎えられています。

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ダントンの死のキャンセル
ことの発端は「ドン・ジョヴァンニ」
1947年4月、ウィーン国立歌劇場で「ドン・ジョヴァンニ」を指揮したクレンペラーは、その舞台を演出していたオスカー・フリッツ・シューから、8月にザルツブルク音楽祭で初演を予定している新作オペラ「ダントンの死」について相談を持ち掛けられます。
シューはクレンペラーに、作品の楽譜を見て歌って演奏するようお願いし、クレンペラーは即座に対応、自身も作品が非常に気に入ったとまで発言しています。
ちなみにこの時のクレンペラーは、前年1946年の9月にアメリカに戻って以来の強烈な躁状態にあり、時系列で見ても凄いことになっています。
1946年
●9月、アメリカに戻ると躁状態になり、脳腫瘍摘出手術の後遺症なのか、異常な言動が増加。
●11月、クレンペラーが暴れるためベッドに手足を縛りつけて治療。
●12月、インスリンショック療法実施。これにより極端な症状は収まったものの、高揚した状態は継続。
1947年
●パリで1946年にSP録音したブランデンブルク協奏曲6曲とアイネ・クライネ・ナハト・ムジークがフランス・ポリドールから発売(SP盤)。翌1948年にはVOXからもSP盤で登場し、1949年にはVOXからLP化されることになります。
●3月、ロサンジェルスで2人組の暴漢に襲われて負傷。明け方に発見、ロサンジェルス市警によって保護。
●3月、ウィーン響と「ヨハネ受難曲」、ブルックナー7番。
●4月、ウィーン国立歌劇場で「ドン・ジョヴァンニ」を指揮。
●4月、ウィーン国立歌劇場で演出家のシューから「ダントンの死」について相談。
●4月、ストックホルム・フィルで第九。リハーサルで衝突し、7年間呼ばれませんでした。デンマーク国立管とは問題なく共演。
●5月、パリ・オペラ座で「ローエングリン」リハーサルで演出家と衝突して劇場を25,000ドルで提訴。
●6月、ストラスブール・バッハ祭でメニューインを侮辱。
●6月、レジデンティ管との公演リハーサルでシュナーベルを侮辱。
理事の作品なのでお世辞だった?
1947年4月、ウィーン国立歌劇場から急遽打診された「ドン・ジョヴァンニ」は、久々のオペラの仕事ということでクレンペラーが舞い上がり、演出家のシューにはおそらく作品についてお世辞を言ったものと考えられます。急な話だったにも関わらず、その「ドン・ジョヴァンニ」のために先約のイタリア・ツアーをキャンセルするほどの入れ込みようでしたし、しかも作曲者が29歳の無名の若者とは言え、ザルツブルク音楽祭の理事なのですから、アメリカで名声がダウンしていたクレンペラーにとっては有り難い話でした。
しかしクレンペラーは、、その直後にはストックホルム・フィルと激突したり、翌5月にはパリ・オペラ座の演出家と大喧嘩したりするうちに、通算10か月に及ぶ躁状態での短時間睡眠と摂食抑制状態から激ヤセしてしまいます。そして、体力と共に新作への関心も失われ、7月のリハーサルをキャンセルしたというのが本当のところでしょう。
8月下旬には回復
幸い、当時のクレンペラーは回復力にも恵まれており、1か月後におこなわれたマーラーとロイ・ハリス、パーセルの演奏会では回復していたものと思われます。これまで唯一リリースされていたパーセルの組曲でもヘヴィー級の冒頭から実に魅力的だったので、ほかも期待できそうです。
キャンセルの理由
クレンペラーはキャンセルの理由として、台本がゲオルク・ビュヒナーの戯曲から乖離しすぎて音楽も悲劇的な気分に欠けると言っていますがそれは本心でしょう。
アイネムの「ダントンの死」は、ストーリーのモトネタも有名で、音楽の作風もわかりやすく親しみやすいものですが、売春や下ネタなどの卑俗なシーンが含まれることにはクレンペラーは、抵抗があったものと思われます。
クレンペラーは政治談議は好きでしたが、政治的な作品の仕事をすることは拒否しており、また、物議を醸すことを狙ったような卑俗で性的な表現のある作品にも関わることを避けています。文化的ボルシェヴィズムや左派運動には巻き込まれたくないということなのか、たとえばワイルの作品にしても、本人に対して社交辞令でオペラ上演を匂わせた結果、過大に期待されて何度も上演を催促されたため、仕方なく三文オペラの組曲を書くようにアドバイスして、それが「小さな三文音楽」としてヒットしたという過去もありますし、クロル歌劇場でも恩人ケステンベルクの熱心なリクエストにも関わらず不道徳な「マハゴニー」の上演は拒否していたほどです。
宿敵ティーティエンはアイネムの師匠
また、うがった見方をすれば、戦前、クロール歌劇場とベルリン国立歌劇場でクレンペラーを酷い目に遭わせたナチ・バイロイトの象徴でもあるハインツ・ティーティエンが、ちょうど1947年4月に非ナチ化裁判で無罪となっていたことも関係あるかもしれません。
クレンペラーは反ユダヤ主義者で親ナチだった恩師プフィッツナーから、非ナチ化裁判で有利になるよう証言して欲しいと懇願されるものの断っており、さらに、ティーティエンは、アイネムの歌劇場業務の師匠でもあり、また、アイネムはアメリカ軍占領政府と親しく、しかも非ナチ化裁判はアメリカ軍占領政府だけが熱心におこなっていたという偶然も重なります。
ちなみにティーティエンは策士だけあって戦後もうまく立ち回り、敗戦後すぐにソ連占領軍政府からベルリンの歌劇場管理を任されていますが、レオ・ボルヒャルトの糾弾によってあえなく解任されてもいました。また、そのボルヒャルトは偶然とはいえ、それから間もなくアメリカ兵に射殺されています。
アイネムの母、そしてアメリカ占領軍政府
なお、アイネムの母親ゲルタはマタ・ハリ2世ともいわれた活動家で、戦時中にフランスの不在判決で死刑を宣告され、戦後に無罪判決を言い渡された人物です。ユダヤ人救出にも功績があったことから、アメリカ占領軍政府はその息子のアイネムを重用し、ザルツブルク音楽祭の理事に任命していました。
アイネムは戦時中、ナチお気に入りの作曲家だったヴェルナー・エックの采配で兵役を免れるなどしていたので、アメリカ占領軍政府からの誘いはアイネムにとっては幸運でした。音楽祭理事となって権力を得た若きアイネムは、以後、クレンペラーのザルツブルク音楽祭への出演を禁じています。
また、無名時代に相手にされなかったカラヤンに対してもその権力の矛先は向けられ、カラヤンもザルツブルク音楽祭では当初かなり苦労していました。

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メーカー情報
当ディスクは、1973年7月6日に世を去ったクレンペラーの没後50年の記念として企画。1947年8月24日、ザルツブルクの祝祭劇場でウィーン・フィルを指揮したコンサートを収録したものです。音源はオーストリア放送協会(ORF)の資料館で最近発見され、スウェーデン放送のトランスクリプション・ディスク(放送用音源)を使用しリリースされます。これまでにパーセルの組曲『妖精の女王』は発売されていましたが、その他の音源は初出となり、コンサート・プログラムすべてを聴くことができる貴重な盤となります。
2020年に創立100周年を迎えたザルツブルク音楽祭ですが、その歴史は戦争の影が色濃く残ります。1938年オーストリアはナチス・ドイツに併合され、反ナチやユダヤ系の音楽家たちは一掃されてしまいます。逆に戦後は、戦中に活躍した芸術家が活動停止処分を受け、戦争の爪痕も残る中、1945年8月12日に音楽祭は開催。そして1947年からはフルトヴェングラー、ベーム、クレンペラーが活動を再開、当演奏会の記録は戦前の活況を取り戻してきたそんななか開催されたものでした。特に演目には、クレンペラーが自らを導いてくれる人として生涯尊敬し、ナチ政権下で禁じられていたユダヤ系の大作曲家グスタフ・マーラー[1860-1911]の交響曲第4番をメイン・プログラムとし、ヘンリー・パーセル[1659-1695]の組曲『妖精の女王』、アメリカ人作曲家ロイ・ハリス[1898-1979]の交響曲第3番を演奏、戦後を強く意識した内容となっています。
1947年のクレンペラーは、アメリカへの亡命以降、2度目の欧州ツアーのために渡欧。8月にはこのザルツブルク音楽祭に出演しオーケストラ・コンサートと『フィガロの結婚』を指揮、その後ウィーン国立歌劇場で『ドン・ジョヴァンニ』を指揮、そしてブダペスト国立歌劇場音楽監督に就任し、12月にはコンセルトヘボウ管弦楽団に客演と多忙を極めていました。しかしその中でも、このザルツブルク音楽祭はこの年のハイライトであり、またその裏側にもドラマがありました。当時まだ知名度の低かったオーストリア人作曲家ゴットフリート・フォン・アイネム[1918-1996]の新作オペラ『ダントンの死』がクレンペラーの手でザルツブルク音楽祭にて世界初演されるはずでした。しかしクレンペラーは一度は引き受けたものの、興味を失ってしまい指揮をキャンセルします。この件が原因で以後クレンペラーはザルツブルク音楽祭への出演機会がなくなってしまいます。一方、代役とし登場したフリッチャイが指揮者として有名になる機会を得たというのも事実です。
ひとつの演奏会から歴史の裏側が見て取れる、非常に興味深い内容となっています。(輸入元情報)

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年表
◆ 誕生〜修業時代 [1885年5月〜1906年5月]
期間 : 21年間(0〜21歳)
指揮棒 : あり
椅子 : 無し
宗教 : ユダヤ教
躁鬱状態 : なし(通常)
1885
●5月14日、父ナータン、母イーダの子としてドイツのブレスラウに誕生。ほかの兄弟は姉と妹。
1889
●クレンペラー家、ハンブルクに転居。
1891
●ピアノのレッスン開始。
1895
●ヨハネーウム・ギムナジウムに入学。
1901
●フランクフルト・ホッホ音楽院に入学。ヤーメス・クヴァストにピアノ、イヴァン・クノアに作曲と理論を師事し、ほかにヴァイオリンも勉強。ホッホ音楽院はブラームス派の牙城として知られ、1884年に保守派で強硬路線のショルツが院長に就任するとワーグナー派を一掃、クララ・シューマンとその仲間たちの存在の大きさもあって、反ワーグナー派の一大拠点としています。
1902
●フランクフルトでピアニストとしてシューマンのピアノ協奏曲を演奏。ピアニスト・デビュー。
1903
●師クヴァストの転職に伴い、ベルリンのクリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院に転学、クヴァストにピアノを、フィリップ・シャルヴェンカに理論を師事。
1905
●再び師クヴァストの転職に伴い、ベルリンのシュテルン音楽院に転学。引き続きクヴァストにピアノを師事したほか、指揮と作曲をハンス・プフィッツナーに師事。

●オスカー・フリート指揮するマーラー交響曲第2番「復活」のコンサートで、舞台裏アンサンブルを指揮、リハーサルでマーラーと会話。
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◆ 第1期 (高速傾向) [1906年5月〜1939年8月]
期間 : 33年3か月間(21〜54歳)
指揮棒 : あり(欧州) → 無し(米国)
椅子 : 無し
宗教 : ユダヤ教 → 無宗教 → カトリック
躁鬱状態 : 通常 → 軽度の鬱 ↔ 軽度の躁
1906
●1月、オスカー・フリートから手紙で依頼があり、オッフェンバック「天国と地獄」の合唱指揮者を務めることになります。
●5月、ベルリン、シフバウアーダム新劇場。オッフェンバック「天国と地獄」。有名演出家、マックス・ラインハルト[1873-1943]によるプロダクションの準備に、クレンペラーは合唱指揮者として参加。オスカー・フリート指揮による初日は大成功を収めますが、2回目の上演でフリートは主演女優と喧嘩をして、3回目の指揮をキャンセル。困ったラインハルトは合唱指揮をしていたクレンペラーに指揮を依頼し、以後、シーズン終了まで50数回に及ぶロングラン公演の代役を無事に勤めています。
マックス・ラインハルトは14年後の1920年に、ホフマンスタール、R.シュトラウス、シャルク、アルフレート・ロラーと共同でザルツブルク音楽祭を創設する人物。

●クレンペラーは、前年に知り合ったマーラーに気に入られようと、交響曲第2番「復活」をピアノ用に編曲する作業に打ちこみ、進捗報告かねて何度もマーラーのもとを訪問。この時期、クレンペラーは、『天国と地獄』と『復活』尽くしの日々を送ることとなります。
1907
●マーラーに気に入られたクレンペラーは、マーラーから推薦状を受け取り、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国の主要劇場に送付。

●
プラハ・ドイツ劇場。指揮者兼合唱指揮者としての契約。マーラーの推薦状効果。着任後3週間でウェーバーの「魔弾の射手」で指揮者デビュー。
1908
●マーラーがプラハを訪れ、チェコ・フィルと交響曲第7番を初演。滞在期間中、クレンペラーは、ワルター、ボダンツキーらと共にリハーサルやホテルでマーラーと過ごします。
1909
●
プラハ・ドイツ劇場。第2楽長に昇格。ボダンツキーの後任。
●6月、
プラハ・ドイツ劇場。「ローエングリン」など。
●8月、バイロイトに行きカール・ムックの「ローエングリン」を見て古色蒼然とした上演に愕然。
1910
●
プラハ・ドイツ劇場。支配人アンジェロ・ノイマンと衝突して解雇。
●
ハンブルク歌劇場。指揮者として契約。マーラーの推薦状効果。「ローエングリン」でデビューし、「カルメン」、「リゴレット」なども指揮、大スターのエンリコ・カルーソーや、新進スターのロッテ・レーマンとも交流。
1910
●双極性障害と診断。以後、メンタル面でのトラブルを抱えるようになり、短期間の施設療養をすることもありました。しかし、脳腫瘍摘出手術以降のような極端なことはありませんでした。
【軽度の鬱】
1911
●鬱状態になり、ケーニヒシュタインのサナトリウムに滞在。

●シェーンベルクとの出会い。
●アルマ・マーラーからの資金援助。
●R.シュトラウスと交流し、自作歌曲を認めてもらいます。
1912
●ハンブルク・フィルと自主公演を開催。アルマ・マーラーの援助。
●
ハンブルク歌劇場。「ニーベルングの指環」、「ばらの騎士」、「フィガロの結婚」、「フィデリオ」など上演。
1913
●
ハンブルク歌劇場。エリーザベト・シューマンとのスキャンダルにより解雇。
●
バルメン歌劇場。第1指揮者に任命。「タンホイザー」でデビュー。
1914
●
バルメン歌劇場。著作権の失効により「パルジファル」ブーム到来。クレンペラーは23回指揮。
●
シュトラースブルク歌劇場。音楽監督に就任。プフィッツナーの後任。
1915
【躁】
●夏、躁転。ケーニヒシュタインのサナトリウムに滞在。劇音楽「ファウスト」など作曲。
●
シュトラースブルク歌劇場。「アイーダ」、「トリスタン」、「こうもり」、「フィガロの結婚」、「預言者」、「フィデリオ」、「カルメン」など。
1916
【軽度の鬱】
●夏、プフィッツナーとの衝突が原因で再びケーニヒシュタインのサナトリウムに滞在。
●10月、
シュトラースブルク歌劇場。「オテロ」
●11月、
シュトラースブルク歌劇場。コルンゴルト「ヴィオランタ」、「ポリュクラテスの指環」、「マイスタージンガー」、「さまよえるオランダ人」
●11月、軍の精神医学顧問ヴォーレンベルクにより、クレンペラーは軍務不適格と診断。
●12月、
シュトラースブルク歌劇場。「ワルキューレ」
1917
●1月、
ケルン歌劇場。音楽監督に就任。ハンブルク時代に上司だったグスタフ・ブレッヒャー[1879-1940]の後任。「フィデリオ」でデビュー。ケルン歌劇場のオーケストラは、ギュルツェニヒ管としてのコンサートもおこなっており、演奏頻度はオペラ3に対してコンサート1の割合でした。
●1月、チューリヒでシュトラウス指揮する「ナクソス島のアリアドネ」を見たクレンペラーは、ピアノを弾く19歳のジョージ・セルに感銘を受け、シュトラースブルク歌劇場の後任にすることを決めます。
【躁】
●2月、
シュトラースブルク歌劇場。「ナクソス島のアリアドネ」のリハーサルで歌手を侮辱し謝罪。
●2月、ケーニヒシュタインのサナトリウムに滞在。
●4月、
シュトラースブルク歌劇場。「タンホイザー」、「ドン・ジョヴァンニ」
1918
●プフィッツナーの新著「未来主義者の脅威」が、ブゾーニの著書「新音楽美学構想」を批判する目的で書かれたことを機に巻き起こった論争で、クレンペラーはブゾーニの反論に賛同。
●11月、
ケルン歌劇場。「イェヌーファ」をドイツ初演。チェコは交戦国でした。
1919
●2月、
ケルン歌劇場。ブゾーニ「トゥーランドット」と「アルレッキーノ」上演。
【軽度の躁】
●4月、ケルンのザンクト・パウル教会でカトリック洗礼。
●4月、自作「ミサ曲」完成。
●4月、
ケルン歌劇場。「パルジファル」。
●4月、ケルン歌劇場演奏会。マーラー2番。
●6月、ソプラノ歌手、ヨハンナ・ガイスラーと結婚。
●6月、自作「ミサ曲」試演。
1920
●3月、長男ヴェルナー誕生。
●5月、プフィッツナー演出、クレンペラー指揮による「パレストリーナ」上演。成功に終わるものの、ほどなく発表されたプフィッツナーのユダヤ人攻撃論「音楽的不能の新美学。腐敗の徴候」により、クレンペラーの立場は微妙なものに。
●9月、ケルン歌劇場演奏会。シェーンベルク「ペレアスとメリザンド」。
●12月、
ケルン歌劇場。妻ヨハンナのマリエッタ役でコルンゴルト「死の都」。
●12月、バルセロナ、ウィーン、ベルリンなどに客演。
●12月、クレンペラーの助手として、パウル・デッサウ、ヴィルヘルム・シュタインベルク(スタインバーグ)ら3人の指揮者を採用。
1921
●4月、ベルリン・フィル。シェーンベルク:浄夜、ペレアスとメリザンド。
●5月、ベルリン・フィル。マーラー「復活」
●9月、
ケルン歌劇場。シュレーカー「宝探し」。
●11月、
ケルン歌劇場。ブラウンフェルス「鳥」。
1922
●5月、ケルン歌劇場演奏会。シェーンベルク「月に憑かれたピエロ」。ツェムリンスキー「こびと」、ストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」。
●12月、
ケルン歌劇場。音楽総監督に昇格。アーベントロート一派との確執に劇場側が配慮
●12月、
ケルン歌劇場。「カーチャ・カバノヴァー」。
●12月、イタリア公演、ファシスト賛歌演奏。
1923
●2月、母イーダが死去。
●2月、自作ミサ曲を上演。
●ベルクが「ヴォツェック」のスコアをクレンペラーに送付。ハイパーインフレ下だったため準備ができないとして拒否。
●11月、
ケルン歌劇場。「ボリス・ゴドゥノフ」。
●11月、娘ロッテ誕生。
1924
●2月、
ケルン歌劇場。契約解消を発表。各地のオーケストラへの客演が増えたため。
●3月、
ケルン歌劇場。シュレーカー「イレローエ」。
●4月、ベルリン・フィル。ハイドン95番、モーツァルト41番、ベートーヴェン7番。
●5月、
ヴィースバーデン歌劇場。音楽監督に就任。
●6月、ケルンで告別演奏会を実施(シュナーベル参加)。
●7月、ブゾーニ死去。
●9月、
ヴィースバーデン歌劇場。「フィデリオ」でデビュー。舞台装置はデュルベルク。
●11月、レニングラードとモスクワに客演。トロツキーと会話。
●11月、Polydor録音。ベルリン国立歌劇場管。ベートーヴェン1番と「未完成」、ブルックナー8番アダージョ。弦楽団とアコ―スティック録音。クレンペラー初のレコーディング。アコースティック録音。
1925
●11月、ストラヴィンスキー:ピアノ協奏曲(本人独奏)。
●ハインツ・ティーティエン[1881-1967]がベルリン国立歌劇場の支配人(インテンダント)に就任。ベルリン国立歌劇場と二重構造でクロール歌劇場が新設されるとその支配人も兼務。策士と言われた狡猾な人物で、フルトヴェングラーとカラヤンの確執を生み出したり、クラウスを辞任に追い込むなど多くの指揮者や監督が苦しめられます。ナチの牙城となったバイロイトを13年間に渡って熱心に支えた中心的な人物でもありますが、戦後は再び歌劇場管理者として権力を掌握するなど立ち回りのうまさはさすがです。クレンペラーもティーティエンに悩まされますが、ティーティエンもクレンペラーには困っていた面もあるようです。ちなみにクレンペラーがザルツブルク音楽祭でキャンセルした「ダントンの死」の作曲家アイネムは、歌劇場でのティーティエンの弟子でした。
1926
●1〜3月、ニューヨーク・フィル。10週間に渡って客演。
●夏、ドイツ文化省音楽部長レオ・ケステンベルク[1882-1962]からクロール歌劇場の総監督就任について打診。
●12月、チェコ・フィル。ドビュッシー&ラヴェル・プログラム。
1927
●
クロール歌劇場。音楽監督に就任。
●1月、2度目のアメリカ・ツアー。
【軽度の鬱】
●9月、クロール歌劇場演奏会。バッハ:管弦楽組曲第3番、モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番(シュナーベル)、ヤナーチェク:シンフォニエッタ。ヤナーチェク本人がリハーサルから臨席。
●11月、
クロール歌劇場。「フィデリオ」。舞台装置と共同演出はデュルベルク。
●11〜12月、Parlophone録音。ベルリン国立歌劇場管。ブラームス1番。
1928
●1月、
クロール歌劇場。「ドン・ジョヴァンニ」。
●1月、クロール歌劇場の属する組織はウンター・デン・リンデン歌劇場(ベルリン国立歌劇場)との二重組織になっており、そのことに起因する煩雑な運営などからクレンペラーの健康状態が悪化、総監督辞職を願い出るものの却下。代わりに、カッセルの州立劇場で総監督をしていた実務経験豊富なエルンスト・レーガルがクレンペラーの補佐役として着任。その結果、クレンペラーには十分な時間が出来、現代作品のスペシャリストとして、ウニヴェルザール社やショット社から新作の上演依頼が数多く舞い込み、クレンペラーは十分に楽譜を検討したうえで、作曲家と打ち合わせをすることが可能になりました。特にシェーンベルクよりも先に音列作曲に挑んでいたハウアーとの打ち合わせは、具体的な演奏に際してのアイデアをもとに改訂を要求して上演を成功に導いており、クレンペラーの業績が単なる紹介者ではないことを窺わせます。
●6月、
クロール歌劇場。ヒンデミット「カルディヤック」。
●10月、クロール歌劇場演奏会。ストラヴィンスキー「兵士の物語」。
●11月、クロール歌劇場演奏会。クレネク:小交響曲、ストラヴィンスキー「ミューズをつかさどるアポロ」。
●12月、クロール歌劇場演奏会。ハウアー:シンフォニエッタ、クレネク「独裁者」、「秘密の王国」、「国家の名誉」。
【躁】
1929
●1月、
クロール歌劇場。「さまよえるオランダ人」。ジークフリート・ワーグナーは当惑、その妻でヒトラー崇拝者ヴィニフレートは激怒。ワーグナーの孫のフランツ・ヴィルヘルム・バイドラー[1901-1981]は絶賛。後年のヴィーラント・ワーグナーの演出にも影響を与えることになりますが、新聞は批判的な記事を書き立て世間も騒然となり、これに怒ったクレンペラー自身が新聞社編集部に怒鳴り込んでさらに事態が悪化。
●1月、コンセルトヘボウ管に初客演。
●2月、クロール歌劇場演奏会。クルト・ワイルに依頼した「小さな三文音楽」を演奏。
●2月、
クロール歌劇場。オッフェンバック「ホフマン物語」。
●3月、レニングラード公演。ワーグナー「パルジファル」抜粋コンサート。
●4月、クロール歌劇場演奏会。ヒンデミット:管弦楽のための協奏曲。
●4月、コンセルトヘボウ管。マーラー2番、「大地の歌」。
●6月、クロール歌劇場演奏会。ヒンデミット「今日のニュース」、ストラヴィンスキー「結婚」(4人のピアニストのうちの一人はジョージ・セル)、「ミューズをつかさどるアポロ」、ピアノ協奏曲(本人独奏)。
【軽度の鬱】
●7月、スイス南東部のシルス・マリアで休養。
●11月、ロンドン響。ブルックナー8番。ロンドン・デビュー。
●11月、
クロール歌劇場。「魔笛」。
●11月、クロール歌劇場演奏会。シェーンベルク「映画の一場面への伴奏音楽」演奏会初演(放送初演はロスバウト)。
●12月、クロール歌劇場演奏会。ヨハネ受難曲。
1930
●1月、ドイツ国家人民党と国家社会主義ドイツ労働者党がクロール歌劇場閉鎖要求動議を議会に提出。
●1月、クロール歌劇場演奏会。ストラヴィンスキー:カプリッチョ(本人独奏)、「妖精の口づけ」。
●3月、
クロール歌劇場。クレネク「オレストの生涯」。
●6月、クロール歌劇場演奏会。シェーンベルク「幸福な手」、ハウアー「変化」、マーラー2番。
●11月、議会によりクロール歌劇場閉鎖決定。
●11月、クロール歌劇場演奏会。ストラヴィンスキー「兵士の物語」、ヒンデミット:ヴィオラ協奏曲。
●12月、クロール歌劇場演奏会。ヒンデミット「行きと帰り」。
1931
●1月、
クロール歌劇場。「フィガロの結婚」。
●2月、
クロール歌劇場。「蝶々夫人」。
●2月、クロール歌劇場演奏会。詩篇交響曲ドイツ初演。
●2月、ロンドン交響楽団。バッハ:前奏曲とフーガ(シェーンベルク編)、ベートーヴェン9番。
【躁】
●3月、ベルリン・フィルハーモニー合唱団。ヨハネ受難曲。
●4月、クロール歌劇場演奏会。ハウアー「サランボ」からの2場面、ヴェーベルン:交響曲、トッホ:チェロと小管弦楽のための協奏曲(フォイアマン独奏)。
●4月、
クロール歌劇場。「ファルスタッフ」。
●4月、クロール歌劇場演奏会。ヒンデミット:ピアノ、金管と2台のハープのための協奏音楽(ギーゼキング独奏)、ベートーヴェン9番、他。
●4月、医師のモーゼ・ゴルトシュミットに躁状態についての助言を求めます。29日にブエノスアイレスに向けて出発。
●5月、
クロール歌劇場。世界大恐慌の影響により閉鎖。最終公演となるヤナーチェク『死者の家』の指揮をクレンペラーは拒否していました。
●5〜10月、
テアトロ・コロン。「ニーベルングの指環」、「マイスタージンガー」、「フィガロの結婚」。オーケストラ・コンサート。「フィガロの結婚」ではチェンバロを弾きながら指揮。
【軽度の鬱】
●12月、
ベルリン国立歌劇場。指揮者。モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」。
●12月、パリ公演。
1932
●1月、
ベルリン国立歌劇場。「フィガロの結婚」。
●2月、エレクトローラ・レーベルとレパートリーやギャラで対立し契約を破棄。エレクトローラはもともとは英グラモフォンにより1925年にベルリンで設立されていましたが、1931年に英グラモフォンと英コロンビアが合併してEMIになったことで、英グラモフォン系のエレクトローラも、英コロンビア系の大手カール・リントシュトレームを吸収合併する運びとなっていました。
●3月、シュターツカペレ・ベルリン(以下、SKB)。バッハ:マタイ受難曲。
●4月、
ベルリン国立歌劇場。「ファルスタッフ」
●4月、SKB。ベートーヴェン9番。
●SKB演奏会でのクライバーの集客が悪いため、クライバーは辞退。集客の多いクレンペラーの指揮が増加。
●10月、SKB。大フーガ、ブルックナー5番。公演前にフルトヴェングラーから曲目を変えて欲しいとティーティエン総監督経由で要望されるものの、すでに何度もそうした要望に応えてきたのでクレンペラーは拒否。ブルックナーの批評は絶賛で埋め尽くされました。
【躁】
●12月、SKB。「英雄の生涯」、ヒンデミット:協奏音楽、モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番(ギーゼキング独奏)。
●12月、ベルリン・フィルハーモニー合唱団。ロ短調ミサ。
●12月、フルトヴェングラーやトーマス・マンらと共にゲーテ・メダル授与。
1933
●Polydor録音。SKB。「小さな三文音楽」
●1月、SKB。ブゾーニ:ヴァイオリン協奏曲、ブゾーニ:母の棺に寄せる男の子守歌、ヤナーチェク:シンフォニエッタ。
●1月、ベルリン放送管。ヴェルディ「オテロ」〜「デズデモナの祈り」、他。
●1月、ハンブルク・フィル。ベートーヴェン・プログラムで大成功。
●2月、
ベルリン国立歌劇場。「タンホイザー」でナチの嫌がらせ。
●2月、ゲヴァントハウス管。「英雄の生涯」のリハーサル中、指揮台後部の手すりが突然外れ、クレンペラーは客席床に転落。強い脳震盪と左わき腹の打撲により2日間療養。クレンペラーは後年、これが脳腫瘍の原因と推測。手すりが外れた原因は不明ですが、ナチの活動家が激増していた時期です。
●3月、閉鎖されたクロール歌劇場は、国会議事堂の正面に位置するためドイツ国会の暫定議会場となり、ヒトラーの演説会なども開催。
●3月、ベルリン・フィルハーモニー合唱団。ミサ・ソレムニス。
●3月、ウィーン・フィルのブルクハウザーがベルリンを訪れクレンペラーに出演交渉。クレンペラーは快諾。
●3月、ローマ、ミラノ公演。
●4月、政情不安からチューリッヒに向けてドイツを出国。
●4月、ウィーン・フィル。ベートーヴェン1番、ブルックナー5番。
●5月、ウィーン公演。バルトークのピアノ協奏曲第2番を作曲者の独奏で演奏。
●6月、ベルリン国立歌劇場、クレンペラーの解任を公式に発表。
●6月、ブダペスト公演。バルトークのピアノ協奏曲第2番をケントナーの独奏で演奏。
●8月、ザルツブルク音楽祭。ウィーン・フィルとベートーヴェン1番、ブルックナー8番。
●9月、ウィーン・フィル。パレストリーナ:ミサ「汝らの証聖者」、ブルックナー9番。
●10月、ウィーン・フィル。ベートーヴェン3番、バッハ:カンタータ第21番「わがうちに憂いは満ちぬ」。
●10月、
ロサンジェルス・フィル。音楽監督に就任。3年間の契約。
1934
●1月、LAPO。ベートーヴェン5番、「シチリアの晩鐘」序曲、他。
●5月、ウィーン・フィル。「ローマの謝肉祭」、「夜想曲」、「ペトルーシュカ」、「真夏の夜の夢」。
●10月、ニューヨーク・フィル。ブルックナー9番、他。
1935
●フィラデルフィア管。
●10〜12月、ニューヨーク・フィル。ベルク『ルル』組曲、マーラー2番、他。
1936
●5月、プラハ公演。
●5月、ブダペスト公演。
●5月、ソ連ツアー。ショスタコーヴィチがクレンペラーに交響曲第4番をピアノで披露。
●6月、ウィーン・フィル。「エグモント」、ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲(フーベルマン)、「運命」。
●9月、シュトラースブルク公演。
●10月、ウィーン・フィル。ブルックナー7番、5番、「マンフレッド」、ベルク:ヴァイオリン協奏曲(ベルク追悼演奏、クラスナー)、ブラームス1番。
●10月、モスクワ公演。
●ロサンジェルス・フィル音楽監督の契約を延長、更新。
1937
●LAPO。シベリウス4番、「大地の歌」、ヨハネ受難曲など。
●6月、LAPO。ハリウッドボウル公演。「ボエーム」抜粋、「イベリア」、他。
●8月、LAPO。ガーシュウィン・トリビュート・コンサート。7月に亡くなったガーシュウィンを追悼。
1938
●1月、LAPO。クレンペラーが委嘱したブラームス:ピアノ四重奏曲第1番のシェーンベルクによる管弦楽編曲版を世界初演。
●1月、LAPO。「牧神」、「ティル」、「ベンヴェヌート・チェッリーニ」序曲、他。
●2月、LAPO。ジェラルド・ストラング:インテルメッツォ、他。
●夏、LAPO。ハリウッドボウル公演。
●8月、メキシコ・ツアー。ベートーヴェン、シェーンベルク、ブラームス。
戻る
◆ 療養期 [1939年8月〜1940年10月]
期間 : 1年2か月(54〜55歳)
症状 : 脳腫瘍
内容 : 手術、入院、リハビリ
躁鬱状態 : 躁 → 極度の躁
【躁】
1939
●8月、メキシコで体調に異変。平衡障害に陥り歩行困難、重度の頭痛を発症。帰国後に受診すると脳腫瘍の診断。脳腫瘍について、クレンペラー本人は、6年前の1933年にゲヴァントハウス管の公演で指揮台から客席の床まで転落したことが原因と推測。
●9月、ボストンで専門医による4時間半の手術を受け、小さなオレンジほどの腫瘍を摘出。
【極度の躁】
●9月、入院を終えてニューヨークで療養開始。
●12月、ロサンジェルス・フィル音楽監督を解任。不適切な言動により。
1940
●アメリカに帰化。
●5月、言語障害や半身麻痺はあるもののなんとか歩行可能に。
●8月、スタインバーグがニューヨーク・フィル公演でクレンペラーのメリー・ワルツを演奏してクレンペラーを応援。スタインバーグはケルン時代の弟子でした。
戻る
◆ 第2期 (高速傾向) [1940年10月〜1951年10月]
期間 : 11年間(55〜66歳)
躁鬱状態 : 極度の躁 → 躁 → 軽度の鬱 → 鬱 → 躁 → 軽度の躁
指揮棒 : 無し
椅子 : 無し
宗教 : カトリック
【極度の躁】
1941
●1月、LAPO。モーツァルト40番、他
●2月、LAPO。ベート−ヴェン5番、他
●2月、サナトリウムで医師と衝突、怒った医師が危険な精神病患者脱走などと8つの州の警察に虚偽通報。
●2月、クレンペラーはニュージャージー州の警察に26時間収監。鉄格子の中の写真付きで新聞でも報道。
【躁】
●4月、家族の資金でオケを編成、カーネギー・ホールで自主公演開催。
1942
●1月、ニューヨークでナショナル・ユース・アドミニストレーション管。
●5月、ニュー・メキシコでベト5など指揮。アイスラーも絶賛。
【軽度の鬱】
●9月、軽度の鬱状態に。
●12月、「フレンズ・オブ・ミュージック」(コリッシュの移民オケ)。バッハ:管弦楽組曲第2番、他
1943
●アメリカ東海岸ツアー。
1944
●4月、ロサンジェルスの家に帰還。
●12月、両側性胸膜炎発症。入院。
1945
●2月、LAPO。「新世界」、リスト「死の舞踏」、バッハ「御身が共にいるならば」、「ミニョン」序曲、「こうもり」序曲、他。
●2月、LAPO。「レオノーレ」序曲第3番、「ドン・ファン」、コレッリ「ラ・フォリア」(シゲティ)、他。
●ジョージ・メンデルスゾーンがVOXレーベルを設立。まだSP盤の時代でした。
1946
●1月、妻ヨハンナがクレンペラーのヨーロッパ・ツアー実現に向けて、音楽マネジメントのコロンビア・アーティスツと交渉して成功。
●VOXレーベルと契約。社長のジョージ・メンデルスゾーンは戦前にベルリンでクレンペラーを聴いたことがありました。契約内容は、年間4点のアルバムを制作し、もし他社に録音をする場合は事前に合意が必要というもの。最初の録音はパリでおこなうことで合意。
●3月、コロンビア・アーティスツの手配によりヨーロッパ・ツアー開始。
●3月、ストックホルム・フィルに客演。現地にいたピアニストのアニー・フィッシャーと、夫の音楽学者のアラダール・トートに出会い、これが翌年のブダペスト歌劇場音楽監督への就任へと繋がります。
●4月、イタリア各地に客演。ミラノ・スカラ座コンサートで成功。
【軽度の鬱】
●5月、イタリア各地客演、ローマ聖チェチーリア管とマタイ受難曲、ブラームスなどで成功。
●5月、パリ客演。パリ音楽院管弦楽団とフランス国立放送管弦楽団。有名批評家のクロード・ロスタンも絶賛。
●6月、南西ドイツ放送交響楽団。クロール歌劇場時代の仕事の熱心な支持者で、ロスバウトの親友でもある音楽監督で批評家のハインリヒ・シュトローベルによる招聘。バーデン・バーデンはフランス占領軍政府の支配下にあり、爆撃被害も無かったことから文化政策が推進され、湯治施設の楽団を放送オーケストラに拡大していました。
●7月、レジデンティ管。
●7月、コンセルトヘボウ管。
●7月、VOX録音。パリ・プロ・ムジカ室内管(ラムルー管弦楽団員)。ブランデンブルク協奏曲全曲、コラール「いざ来ませ、異教徒の救い主よ」、「汝はわが傍に」(クレンペラー編)、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、パリ、アポロ・スタジオ。他にバッハのクラヴィーア協奏曲とクレンペラーのメリー・ワルツも録音されましたが発売は見送り。
【躁】
●9月、アメリカに戻ると躁状態になり、脳腫瘍摘出手術の後遺症なのか、異常な言動が増加。
●11月、クレンペラーが暴れるためベッドに手足を縛りつけて治療。
●12月、インスリンショック療法実施。これにより極端な症状は収まったものの、高揚した状態は継続。
1947
●パリで1946年にSP録音したブランデンブルク協奏曲6曲とアイネ・クライネ・ナハト・ムジークがフランス・ポリドールから発売(SP盤)。翌1948年にはVOXからもSP盤で登場し、1949年にはVOXからLP化されることになります。
●3月、ロサンジェルスで2人組の暴漢に襲われて負傷。明け方に発見、ロサンジェルス市警によって保護。
●3月、ウィーン響と「ヨハネ受難曲」、ブルックナー7番。
●4月、ウィーン国立歌劇場で「ドン・ジョヴァンニ」を指揮。
●4月、ストックホルム・フィルで第九。リハーサルで衝突し、7年間呼ばれませんでした。デンマーク国立管とは問題なく共演。
●5月、パリ・オペラ座で「ローエングリン」リハーサルで監督と衝突して劇場を25,000ドルで提訴。
●6月、ストラスブール・バッハ祭でメニューインを侮辱。
●6月、レジデンティ管との公演リハーサルでシュナーベルを侮辱。
【軽度の躁】
●7月、ようやく高揚状態が収まるものの、激しい「躁」の時の特徴でもある連日の短時間睡眠と少ない食事によって激痩せして健康も悪化。
●8月、ザルツブルク音楽祭の「ダントンの死」をキャンセル。
●8月、ザルツブルク音楽祭の「フィガロの結婚」、マーラー4番とロイ・ハリス3番のウィーン・フィル公演を指揮。

●9月、
ハンガリー国立歌劇場。音楽監督に就任。

●11〜12月、コンセルトヘボウ管に多数客演。
1948
●ゲヴァントハウス管。
●3月、フィルハーモニア管に初客演。ストラヴィンスキー:3楽章の交響曲、バッハ:管弦楽組曲第3番、ベートーヴェン3番。
●5月、ベルリン・フィル。マーラー4番、他。
●6月、ハンガリー放送響。「未完成」、他。
●10月、
ハンガリー国立歌劇場。「ローエングリン」、「ドン・ジョヴァンニ」。
●11月、ハンガリー放送響。「大地の歌」、「フリーメーソンのための葬送音楽」、他。
●11月、
ハンガリー国立歌劇場。「フィデリオ」。
1949
●1月、ハンガリー放送響。バッハ:管弦楽組曲第4番、他。
●1月、コーミシェオーパーでフェルゼンシュタインと「カルメン」
●2〜8月、オーストラリア指揮ツアー。

●11月、フィルハーモニア管に客演。
1950
●1月、VOX録音。パリ・プロ・ムジカ管とモーツァルト36番(パリ、サル・ショパン)。
●2月、VOX録音。パリ・プロ・ムジカ管とモーツァルト25番(パリ、サル・ショパン)。
●7月、
ハンガリー国立歌劇場。音楽監督を辞任。前年に一党独裁共産主義国家となったハンガリー政府のたび重なる干渉に嫌気がさしたため。
●7〜10月、オーストラリア指揮ツアー。

●11月、モントリオール交響楽団、パリでラムルー管。
●11月、VOX録音。ラムルー管とシューベルト4番(パリ、サル・プレイエル)
●12月、ベルリンRIAS響に客演。
1951
●1月、コンセルトヘボウ管。
●2月、エルサレムとテル・アヴィヴで指揮。
●3月、VOX録音。ウィーン響と6日間で「田園」、「イタリア」、「荘厳ミサ」、ブルックナー4番。
●3〜4月、コンセルトヘボウ管とメンゲルベルク・メモリアル。
●5月、VOX録音。ウィーン響と「復活」、「大地の歌」、「運命」、「スコットランド(途中まで)」
●5月、ウィーン響とマーラー2番。(Disc5)
●6月、VOX録音。ウィーン響、ノヴァエスと3日間でショパン:ピアノ協奏曲第2番、シューマン:ピアノ協奏曲、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番。
●6月、ウィーン響とギリシャ・ツアー。
●7月、コンセルトヘボウ管弦楽団。
●8月、アルゼンチンとヴェネズエラに客演。
戻る
◆ 療養期 [1951年10月〜1952年4月]
期間 : 6か月(66歳)
症状 : 左大腿骨頸部ほか数か所を複雑骨折。胸膜炎と肺炎の発作に苦しみ、抗生物質の反復投与に弱体化。急性胃痛も。
内容 : 入院、リハビリ。
躁鬱状態 : 軽度の躁 → 軽度の鬱
【軽度の躁】
1951
●10月、モントリオール空港で左大腿骨頸部ほか数か所を複雑骨折。
【軽度の鬱】
●10月、治療回復には時間がかかるため入院。
●11月、クレンペラーがVOXのメンデルスゾーンに抗議の手紙を送付。
●12月〜翌年1月、胸膜炎と肺炎の発作に苦しみ、抗生物質の反復投与に弱体化。急性胃痛も悪化。
戻る
◆ 第3期 (中速傾向) [1952年4月〜1958年9月]
期間 : 6年5か月間(66〜73歳)
躁鬱状態 : 軽度の鬱 → 躁
指揮棒 : 無し
椅子 : あり
宗教 : カトリック
【軽度の鬱】
1952
●車椅子使用。
●モントリオール響。
●ピッツバーグ響。
●LAPO。
●5月、EMIと契約。
●5月、パスポート更新拒否によりアメリカから出国不能に。新法マッカラン=ウォルター法による帰化外国人の海外滞在制限によるものです。当時のアメリカではケネディも支持した「赤狩り」旋風が吹き荒れており、クレンペラーの2年前の職場がハンガリーだったことから共産主義活動の嫌疑をかけられ、また、なぜかナチ疑惑までかけられて、パスポートの更新が拒否。
●7月、シカゴ響。ラヴィニア音楽祭8公演で大成功。楽員も熱狂。
1953
●12月、弁護士によって制限が解除されアメリカを出国。
1954
●車椅子使用。
●1月、レジデンティ管に客演。激痩せ状態。
●1月、デンマーク王立管。
●2月、エッセン市立管。
●2月、パリ。
●2月、北西ドイツ放送響。
●3〜4月、ケルン放送響。
●4月、ベルリンRIAS響。
●4月、フィルハーモニア管。
●5月、西ドイツ国籍を取得。妻ヨハンナはドイツ人でしたがドイツを嫌ったためクレンペラー家はチューリヒに居住。
●5月、ポルトガル。
●6〜7月、コンセルトヘボウ管。
●7月、レジデンティ管。
●10月、ベルリン・フィル。
●10月、ケルン放送響。
●11月、ロンドン響に客演。フルトヴェングラー追悼。
●12月、虫垂炎手術。ほどなく回復。
1955
●車椅子使用。
●3月、前立腺肥大による膀胱感染症。ほどなく回復。
●3月、前立腺良性の腫瘍除去手術。ほどなく回復。
●4月、フィルハーモニア管。
●5〜6月、ケルン放送響。
●6月、ウィーン響とマラ4、ジュピター。
●7月、コンセルトヘボウ管。
●9月、北西ドイツ放送響。
●10月、ケルン放送響。
●11月、コンセルトヘボウ管。
●12月、BBC響に客演。
1956
●1月、ベルリンRIAS響。
●1月、ケルン・ギュルツェニヒ管。
●1月、フィルハーモニア管。
●2月、ケルン放送響。
●3月、ウィーン響とベト7、ブラ3、ほか。
●3月、フィルハーモニア管。
●4月、バイエルン放送響。
●5〜7月、コンセルトヘボウ管。
●9月、モントルー音楽祭でケルン・ギュルツェニヒ管を指揮。
●9月、フィルハーモニア管。
●10月、バイエルン放送響。
●11月、妻ヨハンナがミュンヘンの病院で死去。クレンペラー家とヨッフム夫妻により葬儀。
●11月、フィルハーモニア管。
●12月、トリノRAI響に客演。
1957
●1月、ベルリン放送響。
●2月、コンセルトヘボウ管。
●3月、フィルハーモニア管。
●3月、スイス・ロマンド管。
●3月、フィルハーモニア管。
●4月、デンマーク王立歌劇場管。
●5月、コンセルトヘボウ管。
●6月、ケルン放送響。
●8月、エディンバラ音楽祭に出演。
●9月、バイエルン放送響。
●10〜11月、フィルハーモニア管公演。
1958
●1月、ケルン放送響。
●2月、インフルエンザ罹患。ローマ聖チェチーリア管の2公演のうち1公演をキャンセル。
●2月、ウィーン響とブルックナー7番。
●3月、ベルリン放送響、ベルリン・フィル。
●4月、西ドイツ政府よりメリット勲章授与。
●4月、フィルハーモニア管。
●6月、ウィーン・フィルと「ドイツ・レクイエム」。
【躁】
●6月、イスラエル訪問で躁状態に。
●8月、エディンバラ音楽祭に出演。
●9月、ベルリン・フィルとブルックナー7番。
戻る
◆ 療養期 [1958年9月〜1959年9月]
期間 : 1年間(73〜74歳)
症状 : 瀕死の大やけど
内容 : 手術。入院、リハビリ
躁鬱状態 : 躁 → 軽度の鬱
【躁】
1958
●9月30日から10月1日にかけての夜、チューリヒの自宅で、寝タバコが原因でシーツが燃え、全身の15パーセントに及ぶ大やけどを負って重体に。
【軽度の鬱】
●10月、皮膚移植手術開始。複数回実施。急性良性心膜炎も発症。
戻る
◆ 第4期 (低速傾向) [1959年9月〜1966年8月]
期間 : 6年11か月間(74〜81歳)
躁鬱状態 : 軽度の鬱 → 躁 → 軽度の鬱 → 躁 → 軽度の鬱 → 鬱 → 軽度の鬱 → 躁
指揮棒 : 無し
椅子 : あり
宗教 : カトリック
大やけどから復帰したクレンペラーは、さらに冷静なスタイルになり、EMI録音でおなじみのクレンペラー晩年様式の世界が開かれることとなりますが、それでも実演になるとテンポはいくらか動的になり、セッション録音とは傾向が異なることも多いので、それぞれのライヴ録音には固有の性格が備わっているものと考えられます。
1966
●ハンブルク州立歌劇場のロルフ・リーバーマン監督から「ローエングリン」の指揮で客演が要請されるものの、クレンペラーは半世紀以上前のハンブルクでのスキャンダルを蒸し返されるだろうと考えて拒否。以前、1933年にウィーン・フィルでパレストリーナを演奏した際、宗教関係者からハンブルク・スキャンダルの件で降ろされかけたことが記憶にあったものと思われます。
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◆ 療養期 [1966年8月〜1967年2月]
期間 : 6か月間(81歳)
症状 : 腰を骨折
内容 : 手術、入院、リハビリ
躁鬱状態 : 躁 → 軽度の鬱
【躁】
1966
●8月8日、サンモリッツで腰を骨折。連絡を受けた外科医は、1,500メートルの高地で80代の男性を手術することはできないとし、また、クレンペラーの巨体には現地のヘリコプターは窮屈なことが判明したので、チューリッヒまで救急車で7時間かけて搬送されることになります。
【軽度の鬱】
●8月、手術。一週間後、ベッドの端に座ることができるようになります。
●11月、松葉杖と車椅子無しで歩けるようになります。しかし、外科医は彼が1967年2月まで指揮を再開することを許可しませんでした。
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◆ 第5期 (超低速傾向) [1967年2月〜1971年9月]
期間 : 4年7か月間(81〜86歳)
指揮棒 : あり
椅子 : あり
宗教 : ユダヤ教
躁鬱状態 : 軽度の鬱 → 軽度の躁 → 軽度の鬱
【軽度の鬱】
1967
●1月、ユダヤ教に改宗。
●4月、クレツキの代役として、ニュー・フィルハーモニア管のパリ公演でマーラー9番を指揮。
●5月、ニュー・フィルハーモニア管。
●5月、イスラエル放送管に客演。
1968
●1〜4月、ニュー・フィルハーモニア管。
●5〜6月、ウィーン・フィル。
●8月、エディンバラ音楽祭に出演。
●8月、ルツェルン音楽祭に出演。
1969
●1月、ニュー・フィルハーモニア管。メンデルスゾーンに3番の終楽章コーダを自前のものに変更。
●1〜3月、ニュー・フィルハーモニア管。
●5月、バイエルン放送響。
●10月、ニュー・フィルハーモニア管公演。
1970
●1月、EMI録音。フィガロ。
●2月、ニュー・フィルハーモニア管公演。フィガロ。
●2月、EMI録音。ブルックナー9番。ハイドン95番。
【軽度の躁】
●5月、軽度の躁状態に。重要な公演では薬を投与。
●5〜6月、BBC収録。ニュー・フィルハーモニア管とのベートーヴェン全曲公演。
【軽度の鬱】
●9月、軽度の鬱状態に。
●9月、ボン・ベートーヴェン・フェスティヴァルに出演。ベト1、3。結果的にドイツでの最後の公演。結果的に生涯最後のベートーヴェンの交響曲演奏会。

●10月、EMI録音。ブルックナー盤、ヴォータンの告別。
●11月、ニュー・フィルハーモニア管公演。モーツァルト25、29、40番。
1971
●1月、EMI録音。コジ・ファン・トゥッテ。
●5月、ニュー・フィルハーモニア管公演。マーラー「復活」。
●5〜6月、イスラエル放送管。モーツァルト、バッハ。
●7月、食欲減退。タバコ(パイプ)も吸わなくなります。
●9月、EMI録音。ハイドン92番、モーツァルト:セレナーデ11番。
●9月、ニュー・フィルハーモニア管公演。ベートーヴェン:シュテファン王、ピアノ協奏曲第4番、ブラームス3番。結果的に最後の演奏会に。
●9月、ロイヤル・アカデミーの名誉会員に選出。
●10月、EMI幹部のピーター・アンドリー[1927-2010]がチューリヒを訪れ、1972年の「後宮からの誘拐」、1973年の「ヨハネ受難曲」などを含む新たな2年契約を提示。クレンペラーは署名。ピーター・アンドリーは若き日にオーストラリアに滞在。クレンペラー指揮する「復活」公演でフルートを吹いた経験があります。
1972
●1月、膀胱炎のため、ニュー・フィルハーモニア管公演をキャンセル。ブルックナー7番。
●2月、炭鉱労働者のストライキによりイギリス政府は緊急事態宣言を発出。
●2月、EMI録音の「後宮からの誘拐」は緊急事態宣言により延期。
●3月、膀胱炎と気管支炎で発熱。
●4月、健康が回復。
●7月、子供たちや孫たちとキャンピングカーなどで楽しい2日間を過ごした2日後、体調が悪化。肺炎に罹患。
●8月、肺炎療養。月末に治癒。歩行は出来ず。
●9月、EMIは「後宮からの誘拐」の録音の延期を決定。代案は「大フーガ」「セレナータ・ノットゥルナ」「ハイドン変奏曲」。クレンペラーは同意するもののまだ歩けず。
●10月、小康状態となり、カテーテル付きで歩行可能に。しかし仕事は無理。
●12月、クレンペラーはEMIのピーター・アンドリーに、「後宮からの誘拐」の指揮をすることが体力的にできないと手紙で謝罪。
●12月、クレンペラーの視力が低下。カテーテルも必須の状態。
1973
●5月、クレンペラーの呼吸が困難になり、ほとんど眠って過ごすようになります。
●7月6日午後6時15分、クレンペラーが睡眠中に死去。天候は雷雨で低気圧でした。
●7月10日、遺言に従い、チューリヒを見下ろす丘にあるユダヤ人墓地に埋葬。
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商品説明:年表ページ
【指揮】
●
アーベントロート (ベートーヴェン、
シューベルト&シューマン、
ブルックナー、
ブラームス、
モーツァルト、
チャイコフスキー、
ハイドン)
●
アルヘンタ
●
アンセルメ
●
オッテルロー
●
ガウク
●
カラヤン
●
クイケン
●
クーセヴィツキー
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クチャル
●
クナッパーツブッシュ (ウィーン・フィル、
ベルリン・フィル、
ミュンヘン・フィル、
国立歌劇場管、
レジェンダリー)
●
クラウス
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クリップス
●
クレツキ
●
クレンペラー (VOX&ライヴ、
ザツツブルク・ライヴ、
VENIASボックス
●
ゴロワノフ
●
サヴァリッシュ
●
シューリヒト
●
スイトナー (ドヴォルザーク、
レジェンダリー)
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スラトキン(父)
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セル
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ターリヒ
●
チェリビダッケ
●
トスカニーニ
●
ドラゴン
●
ドラティ
●
バルビローリ
●
バーンスタイン
●
パレー
●
フェネル
●
フルトヴェングラー
●
ベーム
●
ベイヌム
●
マルケヴィチ
●
ミトロプーロス
●
メルツェンドルファー
●
メンゲルベルク
●
モントゥー
●
ライトナー
●
ラインスドルフ
●
レーグナー (ブルックナー、
マーラー、
ヨーロッパ、
ドイツ)
●
ロスバウト
【鍵盤楽器】
●
ヴァレンティ (チェンバロ)
●
ヴェデルニコフ (ピアノ)
●
カークパトリック (チェンバロ)
●
カサドシュ (ピアノ)
●
キルシュネライト (ピアノ)
●
グリンベルク (ピアノ)
●
シュナーベル (ピアノ)
●
ソフロニツキー (ピアノ)
●
タマルキナ (ピアノ)
●
タリアフェロ (ピアノ)
●
ティッサン=ヴァランタン (ピアノ)
●
デムス (ピアノ)
●
ナイ (ピアノ)
●
ニコラーエワ (ピアノ)
●
ネイガウス父子 (ピアノ)
●
ノヴァエス (ピアノ)
●
ハスキル (ピアノ)
●
フェインベルク (ピアノ)
●
ユージナ (ピアノ)
●
ランドフスカ (チェンバロ)
●
ロン (ピアノ)
【弦楽器】
●
カサド (チェロ)
●
コーガン (ヴァイオリン)
●
シュタルケル (チェロ)
●
スポールディング
●
デュ・プレ (チェロ)
●
バルヒェット (ヴァイオリン)
●
フランチェスカッティ (ヴァイオリン)
●
ヤニグロ (チェロ)
●
リッチ (ヴァイオリン)
●
レビン (ヴァイオリン)
●
ロストロポーヴィチ (チェロ)
【管楽器】
●
デルヴォー <ダルティガロング> (ファゴット)
●
マンツ (クラリネット)
●
モワネ (オーボエ)
【声楽】
●
ド・ビーク (メゾソプラノ)
【室内アンサンブル】
●
グリラー弦楽四重奏団
●
シェッファー四重奏団
●
シュナイダー四重奏団
●
ズスケ四重奏団
●
パスカル弦楽四重奏団
●
パスキエ・トリオ
●
ハリウッド弦楽四重奏団
●
バルヒェット四重奏団
●
ブダペスト弦楽四重奏団
●
フランスの伝説の弦楽四重奏団
●
レナー弦楽四重奏団
【作曲家】
●
アンダーソン
●
ベートーヴェン
●
ヘンツェ
●
坂本龍一
【シリーズ】
●
テスタメント国内盤
エテルナ・オリジナル・マスター・シリーズ
【レーグナー】
●マーラー:交響曲第3、6番 (3CD)
●ブルックナー:交響曲第4、5、6、7、8、9番 (6CD)
●ヨーロッパ作曲家録音集 (5CD)
●ドイツ・オーストリア作曲家録音集 (5CD)
【スイトナー】
●レジェンダリー・レコーディングス (7CD)
●ドヴォルザーク:交響曲全集 (5CD)
【アーベントロート】
●ベートーヴェン:交響曲第1、4、6、9番、R.シュトラウス:ドン・キホーテ(3CD)
●シューベルト:未完成、グレート&シューマン:協奏曲集(2CD)
●ブルックナー:交響曲第4、5、9番 (3CD)
●ブラームス:交響曲第1、3、4番、ハイドン変奏曲 (2CD)
●モーツァルト」交響曲第33、35、38、41番、ディヴェルティメント第7番、ノットゥルノ (2CD)
●チャイコフスキー:交響曲第4、6番、シューマン:交響曲第4番、ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 (2CD)
●ハイドン:交響曲第88、97番、ヘンデル:二重協奏曲、バッハ:管弦楽組曲第3番
【ズスケ四重奏団】
●モーツァルト:弦楽四重奏曲第8番〜第23番 (5CD)