SACD Import

Otto Klemperer / Vienna Symphony Orchestra : The Vox Recordings & Live performances 1951-1963 (16SACD)(Hybrid)

Item Details

Genre
:
Catalogue Number
:
KKC4317
Number of Discs
:
16
Format
:
SACD
Other
:
Hybrid Disc,Import

Product Description


クレンペラー&ウィーン交響楽団ボックス(SACD 16枚組)
1951年のVOXレーベル録音が8枚
1951、1955、1956、1958、1963年のライヴ録音が8枚
最新SACDマスタリングで登場!


クレンペラーがウィーン交響楽団を指揮したライヴ音源8枚と、VOXレーベル音源8枚の計16枚組という本格的なSACD Hybridボックスの登場。輸入盤に、日本語帯と原文解説の完全翻訳を付けた仕様です。

ライヴ音源

以下の10作品が収録されています。可能なものは一晩の公演曲をすべて収録したということで、初CD化音源も含まれるのが注目されるところです。実演で燃え上がるクレンペラーの実力が示された名演揃いです。

●ベートーヴェン:「コリオラン」 (1963)
●ベートーヴェン:交響曲第2番 (1963)
●ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」 (1963)
●ブルックナー:交響曲第7番 (1958)
●バッハ:管弦楽組曲第3番 (1956)
●ブラームス:交響曲第3番 (1956)
●ベートーヴェン:交響曲第7番 (1956)
●モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」 (1955)
●マーラー:交響曲第4番 (1955)
●マーラー:交響曲第2番「復活」 (1951)


VOXレーベル音源

クレンペラーのVOX録音というと、EMI録音との対比効果もあって、速くてドライというイメージが浸透しており、クレンペラー・マニアにしか好まれていないという状況が長く続いていました。
  原因の一つが、LP時代にドイツのINTERCORDあたりが発売していた粗製乱造の再発売盤の数々で、ノイズ対策なのかイコライジングで高域を減衰させ過ぎて情報量が極度に減ってしまい、購入後に落胆された方も多かったとか。
  また、各社から登場したCDでも高音キンキンだったり、高音も低音も無かったりとまちまちな状況だったので、良質なマスタリングを待望されていた方は少なくないと思われます。
  実際のクレンペラーのVOX録音は、古典派から前期ロマン派作品ではなかなか情緒豊かな部分も多く、たとえば「スコットランド」第1楽章ではポルタメントまで駆使して悲痛な情感を示したりしているほどです。
  今回は新たにマスタリングがおこなわれるということなので、VOX本来の音が再現されていることが期待されるところです。
  このセットにはウィーン交響楽団と1951年に録音した以下の11作品が収録されています。

●ベートーヴェン:「ミサ・ソレムニス」
●ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」
●ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番
●メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」
●メンデルスゾーン:交響曲第4番「イタリア」
●ショパン:ピアノ協奏曲第2番
●シューマン:ピアノ協奏曲
●ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」
●マーラー:交響曲第2番「復活」
●マーラー:「大地の歌」


ノヴァエスとの名演

ブラジルのピアニスト、ギオマール・ノヴァエスとクレンペラーは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番、ショパンのピアノ協奏曲第2番、シューマンのピアノ協奏曲の3曲を録音し、この2人の組み合わせならではの毅然とした味わいのある演奏を聴かせています。特にベートーヴェン第4番の第2楽章は凄いことになっています。ノヴァエスについては、こちらに紹介しています。

ボーナス・トラック

このセットはウィーン交響楽団との演奏を集めたものですが、ボーナスとして、クレンペラーが1950年にパリのコンセール・ラムルー管弦楽団を指揮したシューベルトの交響曲第4番「悲劇的」のVOX録音が収録されています。クレンペラーは、シューベルトの「悲劇的」については、なぜかEMIで録音していないので貴重。心地よいテンポ感の演奏で情感もたいへん豊かです。




 各種リンク

【クレンペラー関連】
●VOX社長、ジョージ・メンデルスゾーンとは
●1951年に11点のアルバム制作が集中した理由
●メンデルスゾーン「スコットランド」の謎

【年表】
◆ 誕生〜修業時代 [1885年5月〜1906年5月]
◆ 第1期 (高速傾向) [1906年5月〜1939年9月]
◆ 療養期 [1939年9月〜1940年10月]
◆ 第2期 (高速傾向) [1940年10月〜1951年10月]
◆ 療養期 [1951年10月〜1952年4月]
◆ 第3期 (中速傾向) [1952年4月〜1958年9月]
◆ 療養期 [1958年9月〜1959年9月]
◆ 第4期 (低速傾向) [1959年9月〜1966年8月]
◆ 療養期 [1966年8月〜1967年2月]
◆ 第5期 (超低速傾向) [1967年2月〜1971年9月]

【商品関連】
●商品説明:年表シリーズ一覧

 VOX社長、ジョージ・メンデルスゾーンとは

VOXレーベルを設立したジョージ・メンデルスゾーンは、1912年10月30日にハンガリーのブダペストでメンデルスゾーン・ギョルジとして誕生。9日前には同地にシュテルン・ギョルジ(ゲオルク・ショルティ)が生まれています。
  メンデルスゾーン・ギョルジは、本人によれば、ブダペストのフランツ・リスト音楽院でバルトークらに師事した音楽家でもあるということなので、もしかするとショルティやアニー・フィッシャー[1914-1995]と同じ時期に音楽院に通っていたかもしれません。


記録を調べてみると、その後、メンデルスゾーン・ギョルジは、28歳の1941年2月22日にポルトガルのリスボンを出港し、3月12日に妻と共にアメリカに入国しています。
  下の画像はそのドキュメントで、上から5行目には、ギョルジ・メンデルスゾーンの名があり、職業は実業家で、民族欄にはユダヤ人ではなくマジャール人(ハンガリー人)と記載、ハンガリー語、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語の5か国語が喋れると書かれています。
  ハンガリーはその3か月前の1940年11月20日に三国同盟に調印し、4番目の枢軸国加盟国となっており、反ユダヤ主義もエスカレートしていました。なので、妻と共にアメリカに逃れたギョルジ・メンデルスゾーンは、ユダヤ系のマジャール人ということなのかもしれません。


  入国後、名前を英語風にジョージ・メンデルスゾーンと変更していますが、後年、事業が大きくなると、話題集めのためなのか、ジョージ・H・デ・メンデルスゾーン=バルトルディと名乗るようになり、作曲家メンデルスゾーンの遠い親戚の血筋だと語ったりもしています。
  これは1950年代にスイスの自分の兄弟から得た情報により、ベルリン国立図書館にメンデルスゾーンの2台のピアノの為の協奏曲があることを確信したジョージ・メンデルスゾーンが、自社契約ピアニストのオラツィオ・フルゴーニに調査・交渉・入手させ、レコード制作のほか、実演でも大きな話題となったことが原因のようにも思えます。
  ちなみにVOXレーベルには、サブ・レーベルとして「Turnabout」「Candide」がありました。ジョージ・メンデルスゾーンは、1980年、68歳の時に会社を「MMG(Moss Music Group)」に売却し、8年後の1988年8月31日、西ドイツのデュッセルドルフで癌により亡くなっています。その間、「Pantheon」と「Price-Less」レーベルを興してもいたので、最後まで精力的な人物だったようです。


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 1951年に11点のアルバム制作が集中した理由

VOX設立当初は提携レーベル音源の製造販売
1941年にハンガリーから移民してきたジョージ・メンデルスゾーンは、1945年にVOXレーベルを設立しています。
  VOXは当初、ポリドールやパテ・マルコーニと提携し、それらの音源をアメリカで製造販売することを活動の主軸としていました。

発端はヨーロッパ長期ツアー
ジョージ・メンデルスゾーンは戦前のベルリンで演奏を聴いたことがあるクレンペラーが、1946年3月からコロンビア・アーティスツの采配でヨーロッパ長期ツアーに出かけるという情報を得ると、クレンペラーの演奏を自社から発売すべく、独占契約をするためにロサンジェルスに向かいます。

クイズに答えて無事契約
クレンペラーはある楽譜の一部を見せて、その曲が何かわかったら契約すると言い、ジョージ・メンデルスゾーンは、その曲がブラームスのピアノ四重奏曲第1番であること、ただし酷いオーケストレーションがおこなわれていると答えると、クレンペラーは隣に座っていたシェーンベルクをつついて大笑いして契約に応じたという逸話でも知られています。契約内容は以下の通りです。

●年間4点のアルバムを制作
●他社と録音をする場合には事前にVOXとの合意が必要
●最初の録音はツアー地でもあるパリでおこなう

まだSP時代のことなので、アルバムという名称は本来の「複数枚のディスクを束ねたもの」を意味する言葉でした。なので、たとえば10分の曲でも2枚組となり、「アルバム」の要件は満たしていました。
  また、パリでおこなうことが明記されているのは、フランスの通貨切り下げ政策がアメリカのドルにとっては非常に有利だったからです。

最初の録音はポリドール?
VOX最初のクレンペラー録音は、ラムルー管弦楽団の楽員で構成された「プロ・ムジカ室内管弦楽団」とのブランデンブルク協奏曲全6曲と「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、バッハのクラヴィーア協奏曲、クレンペラーのメリー・ワルツというもので、1946年7月におこなわれており、立ち会ったジョージ・メンデルスゾーンはクレンペラーの仕事ぶりに感銘を受けたのだとか。
  設立間もないVOXは、ポリドールと提携しており、クレンペラーも戦前にポリドールと関係があったことから、実際の録音作業はフランス・ポリドールがおこなったと考えられ、翌1947年に、まずフランス・ポリドールからSP盤で発売、その翌年の1948年になってからVOXがSP盤で発売し、1949年にはVOXがLPで発売するという流れでした。

1946年にアルバム8点分を録音するものの発売は7点
パリでの録音は、ブランデンブルク協奏曲6曲(組み合わせ:コラール2曲)と「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、バッハのクラヴィーア協奏曲(組み合わせ:メリー・ワルツ)のアルバム計8点分ですが、クラヴィーア協奏曲とメリー・ワルツの発売が見送られたため7点となります。
  しかしその後、録音がおこなわれなかったため、1949年の制作発売点数はゼロで契約は不履行状態。

1950年に4年ぶりに録音をおこなうもののアルバム2点分
1950年には再びフランスで録音をおこなうものの、モーツァルトの25番と36番、シューベルトの4番だけで、しかもLP時代に入ってアルバム概念が変わっていることから2点ということで、年間契約数には2点が不足。
  そしてクレンペラーのアルバムの売れ行きが好調だったことから、EMIが目を付けてきて、レッグがいろいろと打診し始めたこともあり、VOXとしては契約不履行が無い状態にまでもって行く必要がありました。
  VOXの自社音源での活動開始年である1947年を起点とすると、契約履行状態は下記のようになります。また、VOXは1949年からLP発売を始めていますが、当初はSP復刻盤で、テープ録音での発売は1950年からとなっています。


つまり1950年までの契約数16点に対して、制作数は9点ということで、不足アルバム数は7点となり、1951年中に契約履行状態にまでもっていくには、1951年分の4点と合わせて、計11点のアルバム制作が必要となるということです。

VOXの大盤振る舞い
そして、EMIに奪われることを警戒してか、VOXは1951年に急遽11点のアルバム制作をおこなうことを決定。
  その際、クレンペラーが実演で得意としていたマーラー「復活」、「大地の歌」、ブルックナー4番、「ミサ・ソレムニス」といった大曲の録音も承認し、ギャラもまとめて前払いするという極端過ぎるほどの優遇策で対応し、クレンペラーに対して絶大な配慮を示すことになります。
  これは当時のレコード価格が現在と較べると超高額で、現在換算するとSP盤10インチでも数千円、SP盤の大曲アルバムでは数万円という状態が長く続いており、LP時代になってもすぐには下がらなかったため、ミドルプライスLP路線に踏み切ったVOXに勝機があると踏んでのジョージ・メンデルスゾーンの判断だったと思われます。

VOXが3年間録音しなかった背景
VOXが最初のフランス録音のあと、制作をおこなわなかった背景には、その時期のクレンペラーが、ヨーロッパ・ツアーやオーストラリア・ツアーで多忙だったということもありますが、VOXレーベル側も、1948年から音楽ソフト市場でLP発売が増え始めた中で、手間やコストがかかるSP盤はあまりつくりたくなかったものと思われます。
  また、ポリドールのほかにフランスのパテ・マルコーニとも提携して音源を販売してもいたので、当面はプレス中心とし、録音制作はLP市場の拡大まで待っていたというのが実情でしょう。
  そしてSP盤からLP盤への移行が現実のものとなり、アルバム制作の容易なテープでの録音技術が普及し、さらに1950年前後のヨーロッパ各国の通貨政策のもたらす外国為替効果がアメリカ企業にとって非常に有利なものであったため、VOXレーベルもLP路線を本格化、1950年にはクレンペラーとフランスでモーツァルトの25番と36番、シューベルトの4番をテープ録音し、そして1951年になるとEMI対策として、契約不履行状態を解消するため、不足分を補う11曲のクレンペラー録音を一気におこなうことになるのです。しかも報酬は前払いです。
  下の画像はオリジナル発売時のジャケット写真ですが、まだまだ高額商品だった時代なので、後年再発売されたものに較べるとデザインに魅力があります。


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 メンデルスゾーン「スコットランド」の謎

クレンペラーの「スコットランド」VOX録音は、クレンペラーが途中でセッションをやめており、残りはヘルベルト・ヘフナーが指揮して完成させたことでも知られています。

時系列だとこんな感じです。

◆1951年5月、クレンペラーが「スコットランド」のウィーン響とのセッションで第1楽章を完成後、第2楽章のリハーサルを終えて停止。
◆1951年6月、クレンペラーはノヴァエス独奏で、ウィーン響とピアノ協奏曲を3曲セッション録音。
◆1951年6月、クレンペラーとウィーン響はギリシャ・ツアーに出発。
◆1951年、ウィーン響の帰国後、ヘルベルト・ヘフナーが指揮して「スコットランド」の残りのセッションを完成。
◆1951年、VOXがクレンペラーの名前でLPを発売。
◆1951年8月、EMIのウォルター・レッグが3年間の独占契約をクレンペラーに打診。
◆1951年11月、クレンペラーが抗議の手紙をVOX宛に送付。契約解消を通告。

まさかの自前コーダ
上記の時系列で不思議なのは、セッションの時間は翌6月に十分あったにも関わらず、なぜクレンペラーがセッションを再開しなかったのかということです。その疑問を解決してくれるのがクレンペラーのVOXへの抗議の手紙です。

手紙の大意はこんな感じです。

◆自分は終わり方を変えてセッションを完成させるつもりだった。
◆自分が指揮していないものを、自分の名前で発売するのは世間を欺く行為だ。
◆発売されたLPを回収して欲しい。
◆以上の理由から契約を解消したい。

要するにセッション途中で終楽章のコーダを「自前コーダ」に差し替えたくなったため、セッションを中止したというのが真相のようです。
  クレンペラーは9年後の1960年1月、EMIでおこなわれた「スコットランド」のセッションでも「自前コーダ」を用意していてそれがレッグに却下されています。
  しかしその後もクレンペラーの「自前コーダ」へのこだわりには強いものがあったようで、1969年5月、84歳の時にニュー・フィルハーモニア管とバイエルン放送響とのコンサートでようやく演奏を実現させています。
  
代役による完成・覆面発売
上記の事情を鑑みると、LPビジネスが軌道に乗り始めた大事な時期に、そのようなものを出すわけにはいかないということで、急遽、代役のヘルベルト・ヘフナーに完成させて、クレンペラーの名前のままでLPを発売したVOX側の立場には同情の余地もあります。
  代役の人選にしても、現代作品に強いヘルベルト・ヘフナー[1905-1952]を起用して、クレンペラーのイメージからあまり乖離しないように配慮したとも考えられますし。
  もっとも、ここでのクレンペラーは、自前の悲痛なコーダに合わせるためか、ポルタメントまで用いて悲痛な情感を表現しているので、即物的な傾向のヘフナーの指揮とは微妙に方向性が違ってもいるようです。
  ちなみにヘフナーはこの直後、米COLUMBIA(SONY)からシュタイングルーバーとのベルクの「ルル」全曲盤を発売するほどのモダン派ですが、1952年6月に亡くなってしまったことから、VOXでウィーン響、シュタイングルーバー、ヴィーナーと録音したバルトークの「青髭公の城」も没後10年目でようやく発売されるという不運な状況にありました。なお、ヘフナーはピアノも達者で、シュタイングルーバーとのシェーンベルク歌曲集の録音もおこなっています。


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 収録情報

Disc1
● ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調 Op.68「田園」


  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期::1951年3月8-12,15日(VOX 制作音源)
  録音場所:ウィーン

● メンデルスゾーン:交響曲第4番イ長調 Op.90「イタリア」

  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期::1951年3月8-12,15日(VOX 制作音源)
  録音場所:ウィーン

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Disc2
● ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)ニ長調 Op.123


  イローナ・シュタイングルーバー(ソプラノ)
  エルゼ・シュールホフ(コントラルト)
  エーリヒ・マイクート(テノール)
  オットー・ヴィーナー(バス)
  ウィーン・アカデミー合唱団
  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期:1951年3月8-12,15日(VOX 制作音源)
  録音場所:ウィーン





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Disc3
● ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調 WAB104「ロマンティック」(ハース版)


  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期:1951年3月8-12,15日(VOX 制作音源)
  録音場所:ウィーン

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Disc4
● マーラー:交響曲第2番ハ短調「復活」


  イローナ・シュタイングルーバー(ソプラノ)
  ヒルデ・レッセル=マイダン(メゾソプラノ)
  ウィーン・アカデミー合唱団
  ウィーン楽友協会合唱団
  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期:1951年5月14-16日(VOX 制作音源)
  録音場所:ウィーン



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Disc5
● マーラー:交響曲第2番ハ短調「復活」


  イローナ・シュタイングルーバー(ソプラノ)
  ヒルデ・レッセル=マイダン(メゾソプラノ)
  ウィーン・アカデミー合唱団
  ウィーン楽友協会合唱団
  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期:1951年5月18日(ライヴ音源)
  録音場所:ウィーン、ムジークフェラインザール



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Disc6
● マーラー:「大地の歌」


  エルザ・カヴェルティ(アルト)
  アントン・デルモータ(テノール)
  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期:1951年5月20-23日(VOX 制作音源)
  録音場所:ウィーン



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Disc7
● ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 Op.67「運命」


  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期:1951年5月20-23日(VOX 制作音源)
  録音場所:ウィーン

ボーナス・トラック

● シューベルト:交響曲第4番ハ短調 D.417「悲劇的」

  コンセール・ラムルー管弦楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期:1950年11月19-20日(VOX 制作音源)
  録音場所:パリ、サル・プレイエル

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Disc8
● メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調 Op.56「スコットランド」


  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮:第1楽章)
  ヘルベルト・ヘフナー(指揮:第2〜4楽章)

  録音時期:1951年5月20-23日(VOX 制作音源)
  録音場所:ウィーン

● ショパン:ピアノ協奏曲第2番ヘ短調 Op.21

  ギオマール・ノヴァエス(ピアノ)
  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期:1951年6月9-11日(VOX 制作音源)
  録音場所:ウィーン


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Disc9
● シューマン:ピアノ協奏曲イ短調 Op.54


  ギオマール・ノヴァエス(ピアノ)
  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期:1951年6月9-11日(VOX 制作音源)
  録音場所:ウィーン

● ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調 Op.58

  ギオマール・ノヴァエス(ピアノ)
  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期:1951年6月9-11日(VOX 制作音源)
  録音場所:ウィーン


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Disc10-11
● モーツァルト:交響曲第41番ハ長調 K.551「ジュピター」
● マーラー:交響曲第4番ト長調


  テレーザ・シュティッヒ=ランダル(ソプラノ)
  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期:1955年6月21日(ライヴ音源)
  録音場所:ウィーン、ムジークフェラインザール

  当日の公演曲目をすべて収録(全曲でのCD化は初めて)


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Disc12-13
● バッハ:管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV.1068
● ブラームス:交響曲第3番ヘ長調 Op.90
● ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 Op.92


  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期:1956年3月8日(ライヴ音源)
  録音場所:ウィーン、コンツェルトハウス

  当日の公演曲目をすべて収録(全曲でのCD化は初めて)

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Disc14
● ブルックナー:交響曲第7番ホ長調 WAB107(ノーヴァク版)


  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期:1958年2月26日(ライヴ音源)
  録音場所:ウィーン、ムジークフェラインザール

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Disc15-16
● ベートーヴェン:序曲「コリオラン」 ハ短調 Op.62
● ベートーヴェン:交響曲第2番ニ長調 Op.36
● ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 Op.55「英雄」


  ウィーン交響楽団
  オットー・クレンペラー(指揮)

  録音時期:1963年6月16日(ライヴ音源)
  録音場所:テアター・アン・デア・ウィーン

  当日の公演曲目をすべて収録(全曲でのCD化は初めて)




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  メーカー情報

アメリカに亡命したユダヤ系ハンガリー人であるジョージ・デ・メンデルスゾーン=バルトルディ(大作曲家メンデルスゾーンの子孫だと称していた)によって、1945年に創設されたアメリカのレーベル、ヴォックス・レコード(VOX 制作音源)。クレンペラーをはじめ、ホーレンシュタイン、ホルショフスキ、ブレンデル、ギトリスといった一流の演奏家の録音を多く残しています。

  今回リリースされるセットは、クレンペラーとウィーン交響楽団による1951年の「VOX」レコーディングと1963年までのライヴ録音を、SACD用にリマスタリングした16枚組SACD Hybridのボックスです。リマスタリング&修復エンジニアのボリス=アレクサンダー・ボールズ氏は「これらの芸術的な価値がきわめて高い歴史的なスタジオ録音とコンサート録音を復刻するにあたって、私たちの主要な意図は、音楽の情報をできるだけ欠陥のない無傷な状態に保ち、劣化する要因を取り除いて最大限に自然な音を提供することにあった。」と語っており、現在の基準に沿った実りあるリスニング体験が得られるよう、細心の注意が払われています。

  最初にクレンペラーが「VOX」に録音したのは、1946年パリでプロ・ムジカ管弦楽団とのバッハの「ブランデンブルク協奏曲」、その後に1950年にはモーツァルト交響曲第25番&第36番を録音。そしてメンデルスゾーンが新たにクレンペラーに提案したのがウィーン交響楽団との録音シリーズです。1951年の「VOX」への録音は、クレンペラーの指揮者としてのキャリアのなかでもきわめて重要な年だったと捉えられています。クレンペラーは、戦後ヨーロッパに戻って行った演奏活動における第1期(1946〜51年)で、戦前の名声を再確立することができました。この時期は、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団との高水準な演奏の数々(伝説的アムステルダム・コンサート1947-1961)と並ぶ魅力的な記録となっています。特にここに収録されているベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」は、レコード化されたクレンペラーのその他の演奏と比べても類をみない演奏となっています。特に晩年クレンペラーは、楽曲の構造をより深く展開し、次第にテンポを遅くするようになります。1946〜51年頃のクレンペラーは戦前のスタイルを引き継いでおり、時として速めのテンポをとるなど、推進力のある演奏を展開しており、そういう意味でも1951年はクレンペラーの演奏の分水界でありました。特に7月に行われたオランダ音楽祭でのマーラーの「復活」はその頂点を極めているといっても良いでしょう。

  1951年の「VOX」レコーディングは3回に分かれて行われました。そして周知の通り3回目の録音の後、クレンペラーは「VOX」と決別することになります。クレンペラーは6月9〜11日にかけて、メンデルスゾーンの「スコットランド」(すべて録り終えることはできませんでした)と、ピアニストのギオマール・ノヴァエスとのピアノ協奏曲の録音を行い、6月14日からウィーン交響楽団とともにギリシア・ツアーに出ています。その後、クレンペラーの予定ではウィーンには戻らずロンドンへ行き、南北アメリカ・ツアーを終えたのち、1952年はじめにウィーンに戻り、残りを録音するつもりでいました。しかし、1951年9月には、クレンペラーが録音したレコードが発売されており、まだ録音し終えていないはずの「スコットランド」はクレンペラー指揮として全曲リリースされていたのです(未録音の楽章は、ヘルベルト・ハフナーによって録音されていました)。それを知ったクレンペラーは「VOX」と関係を断つことにします。

  しかし、その間にクレンペラーにはさらなる災難が降りかかっていました。南米でのコンサートが成功を収め、ニューヨーク経由でモントリオールに戻ったクレンペラーは階段を踏み外し転倒、大腿骨骨折という大怪我を負います。予定されていた北米ツアーは中止、さらには長期にわたり国外に滞在したこと、共産圏ハンガリーでの滞在歴などが重なりパスポートが没収され、1954年1月までヨーロッパに渡ることが出来なくなりました。うつ状態の2年間を過ごすことになったクレンペラーですが、好機も到来します。レコード・プロデューサー、ウォルター・レッグの仲介により「EMI」との新しい契約が締結、後のレコード史に刻まれた名演の数々を生み出すことになります。

  また同時収録されているウィーン交響楽団とのライヴ録音も注目。ウィーン交響楽団とクレンペラーのはじめての共演は1920年12月18日のベートーヴェン音楽祭でのコンサートでした。そして1958年10月1日未明の寝煙草による火災で負った大火傷など度々の災難を経て、1963年6月16日アン・デア・ウィーン劇場でウィーン交響楽団とのコンサートが行われました。偶然かそうでないかは定かではありませんが、クレンペラーが初めてウィーン交響楽団と共演したコンサートと同じく、両者最後の共演となったコンサートもまたオール・ベートーヴェン・プログラムとなりました。1920年の演目は、交響曲第2番、レオノーレ序曲、交響曲第5番でしたが、1963年はコリオラン序曲、交響曲第2番、第3番という順で演奏されました。この演奏会を聴きに来ていたオーストリアの作家フランツ・タッシエがこのように書き残しています。
「ウィーン交響楽団は素晴らしかった。偉大な夜に、偉大な指揮者としか演奏しないかのように振る舞うやり方を、彼らが知っていた」(輸入元)


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 年表

◆ 誕生〜修業時代 [1885年5月〜1906年5月]

  期間 : 21年間(0〜21歳)
  指揮棒 : あり
  椅子 : 無し
  宗教 : ユダヤ教
  躁鬱状態 : なし(通常)




1885
●5月14日、父ナータン、母イーダの子としてドイツのブレスラウに誕生。ほかの兄弟は姉と妹。

1889
●クレンペラー家、ハンブルクに転居。

1891
●ピアノのレッスン開始。
1895
●ヨハネーウム・ギムナジウムに入学。


1901
●フランクフルト・ホッホ音楽院に入学。ヤーメス・クヴァストにピアノ、イヴァン・クノアに作曲と理論を師事し、ほかにヴァイオリンも勉強。ホッホ音楽院はブラームス派の牙城として知られ、1884年に保守派で強硬路線のショルツが院長に就任するとワーグナー派を一掃、クララ・シューマンとその仲間たちの存在の大きさもあって、反ワーグナー派の一大拠点としています。



1902
●フランクフルトでピアニストとしてシューマンのピアノ協奏曲を演奏。ピアニスト・デビュー。
1903
●師クヴァストの転職に伴い、ベルリンのクリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院に転学、クヴァストにピアノを、フィリップ・シャルヴェンカに理論を師事。


1905
●再び師クヴァストの転職に伴い、ベルリンのシュテルン音楽院に転学。引き続きクヴァストにピアノを師事したほか、指揮と作曲をハンス・プフィッツナーに師事。



●オスカー・フリート指揮するマーラー交響曲第2番「復活」のコンサートで、舞台裏アンサンブルを指揮、リハーサルでマーラーと会話。



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◆ 第1期 (高速傾向) [1906年5月〜1939年8月]

  期間 : 33年3か月間(21〜54歳)
  指揮棒 : あり(欧州) → 無し(米国)
  椅子 : 無し
  宗教 : ユダヤ教 → 無宗教 → カトリック
  躁鬱状態 : 通常 → 軽度の鬱 ↔ 軽度の躁




1906
●1月、オスカー・フリートから手紙で依頼があり、オッフェンバック「天国と地獄」の合唱指揮者を務めることになります。
●5月、ベルリン、シフバウアーダム新劇場。オッフェンバック「天国と地獄」。有名演出家、マックス・ラインハルト[1873-1943]によるプロダクションの準備に、クレンペラーは合唱指揮者として参加。オスカー・フリート指揮による初日は大成功を収めますが、2回目の上演でフリートは主演女優と喧嘩をして、3回目の指揮をキャンセル。困ったラインハルトは合唱指揮をしていたクレンペラーに指揮を依頼し、以後、シーズン終了まで50数回に及ぶロングラン公演の代役を無事に勤めています。
  マックス・ラインハルトは14年後の1920年に、ホフマンスタール、R.シュトラウス、シャルク、アルフレート・ロラーと共同でザルツブルク音楽祭を創設する人物。



●クレンペラーは、前年に知り合ったマーラーに気に入られようと、交響曲第2番「復活」をピアノ用に編曲する作業に打ちこみ、進捗報告かねて何度もマーラーのもとを訪問。この時期、クレンペラーは、『天国と地獄』と『復活』尽くしの日々を送ることとなります。


1907
●マーラーに気に入られたクレンペラーは、マーラーから推薦状を受け取り、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国の主要劇場に送付。


プラハ・ドイツ劇場。指揮者兼合唱指揮者としての契約。マーラーの推薦状効果。着任後3週間でウェーバーの「魔弾の射手」で指揮者デビュー。


1908
●マーラーがプラハを訪れ、チェコ・フィルと交響曲第7番を初演。滞在期間中、クレンペラーは、ワルター、ボダンツキーらと共にリハーサルやホテルでマーラーと過ごします。


1909
プラハ・ドイツ劇場。第2楽長に昇格。ボダンツキーの後任。
●6月、プラハ・ドイツ劇場。「ローエングリン」など。
●8月、バイロイトに行きカール・ムックの「ローエングリン」を見て古色蒼然とした上演に愕然。
1910
プラハ・ドイツ劇場。支配人アンジェロ・ノイマンと衝突して解雇。
ハンブルク歌劇場。指揮者として契約。マーラーの推薦状効果。「ローエングリン」でデビューし、「カルメン」、「リゴレット」なども指揮、大スターのエンリコ・カルーソーや、新進スターのロッテ・レーマンとも交流。


1910
●双極性障害と診断。以後、メンタル面でのトラブルを抱えるようになり、短期間の施設療養をすることもありました。しかし、脳腫瘍摘出手術以降のような極端なことはありませんでした。


【軽度の鬱】
1911
●鬱状態になり、ケーニヒシュタインのサナトリウムに滞在。


●シェーンベルクとの出会い。
●アルマ・マーラーからの資金援助。
●R.シュトラウスと交流し、自作歌曲を認めてもらいます。
1912
●ハンブルク・フィルと自主公演を開催。アルマ・マーラーの援助。
ハンブルク歌劇場。「ニーベルングの指環」、「ばらの騎士」、「フィガロの結婚」、「フィデリオ」など上演。
1913
ハンブルク歌劇場。エリーザベト・シューマンとのスキャンダルにより解雇。
バルメン歌劇場。第1指揮者に任命。「タンホイザー」でデビュー。


1914
バルメン歌劇場。著作権の失効により「パルジファル」ブーム到来。クレンペラーは23回指揮。
シュトラースブルク歌劇場。音楽監督に就任。プフィッツナーの後任。

1915

【躁】
●夏、躁転。ケーニヒシュタインのサナトリウムに滞在。劇音楽「ファウスト」など作曲。
シュトラースブルク歌劇場。「アイーダ」、「トリスタン」、「こうもり」、「フィガロの結婚」、「預言者」、「フィデリオ」、「カルメン」など。

1916

【軽度の鬱】
●夏、プフィッツナーとの衝突が原因で再びケーニヒシュタインのサナトリウムに滞在。
●10月、シュトラースブルク歌劇場。「オテロ」
●11月、シュトラースブルク歌劇場。コルンゴルト「ヴィオランタ」、「ポリュクラテスの指環」、「マイスタージンガー」、「さまよえるオランダ人」
●11月、軍の精神医学顧問ヴォーレンベルクにより、クレンペラーは軍務不適格と診断。
●12月、シュトラースブルク歌劇場。「ワルキューレ」
1917
●1月、ケルン歌劇場。音楽監督に就任。ハンブルク時代に上司だったグスタフ・ブレッヒャー[1879-1940]の後任。「フィデリオ」でデビュー。ケルン歌劇場のオーケストラは、ギュルツェニヒ管としてのコンサートもおこなっており、演奏頻度はオペラ3に対してコンサート1の割合でした。


●1月、チューリヒでシュトラウス指揮する「ナクソス島のアリアドネ」を見たクレンペラーは、ピアノを弾く19歳のジョージ・セルに感銘を受け、シュトラースブルク歌劇場の後任にすることを決めます。

【躁】
●2月、シュトラースブルク歌劇場。「ナクソス島のアリアドネ」のリハーサルで歌手を侮辱し謝罪。
●2月、ケーニヒシュタインのサナトリウムに滞在。
●4月、シュトラースブルク歌劇場。「タンホイザー」、「ドン・ジョヴァンニ」
1918
●プフィッツナーの新著「未来主義者の脅威」が、ブゾーニの著書「新音楽美学構想」を批判する目的で書かれたことを機に巻き起こった論争で、クレンペラーはブゾーニの反論に賛同。
●11月、ケルン歌劇場。「イェヌーファ」をドイツ初演。チェコは交戦国でした。
1919
●2月、ケルン歌劇場。ブゾーニ「トゥーランドット」と「アルレッキーノ」上演。



【軽度の躁】
●4月、ケルンのザンクト・パウル教会でカトリック洗礼。
●4月、自作「ミサ曲」完成。
●4月、ケルン歌劇場。「パルジファル」。
●4月、ケルン歌劇場演奏会。マーラー2番。
●6月、ソプラノ歌手、ヨハンナ・ガイスラーと結婚。
●6月、自作「ミサ曲」試演。
1920
●3月、長男ヴェルナー誕生。
●5月、プフィッツナー演出、クレンペラー指揮による「パレストリーナ」上演。成功に終わるものの、ほどなく発表されたプフィッツナーのユダヤ人攻撃論「音楽的不能の新美学。腐敗の徴候」により、クレンペラーの立場は微妙なものに。
●9月、ケルン歌劇場演奏会。シェーンベルク「ペレアスとメリザンド」。
●12月、ケルン歌劇場。妻ヨハンナのマリエッタ役でコルンゴルト「死の都」。
●12月、バルセロナ、ウィーン、ベルリンなどに客演。
●12月、クレンペラーの助手として、パウル・デッサウ、ヴィルヘルム・シュタインベルク(スタインバーグ)ら3人の指揮者を採用。
1921
●4月、ベルリン・フィル。シェーンベルク:浄夜、ペレアスとメリザンド。
●5月、ベルリン・フィル。マーラー「復活」
●9月、ケルン歌劇場。シュレーカー「宝探し」。
●11月、ケルン歌劇場。ブラウンフェルス「鳥」。
1922
●5月、ケルン歌劇場演奏会。シェーンベルク「月に憑かれたピエロ」。ツェムリンスキー「こびと」、ストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」。
●12月、ケルン歌劇場。音楽総監督に昇格。アーベントロート一派との確執に劇場側が配慮
●12月、ケルン歌劇場。「カーチャ・カバノヴァー」。
●12月、イタリア公演、ファシスト賛歌演奏。
1923
●2月、母イーダが死去。
●2月、自作ミサ曲を上演。
●ベルクが「ヴォツェック」のスコアをクレンペラーに送付。ハイパーインフレ下だったため準備ができないとして拒否。
●11月、ケルン歌劇場。「ボリス・ゴドゥノフ」。
●11月、娘ロッテ誕生。
1924
●2月、ケルン歌劇場。契約解消を発表。各地のオーケストラへの客演が増えたため。
●3月、ケルン歌劇場。シュレーカー「イレローエ」。
●4月、ベルリン・フィル。ハイドン95番、モーツァルト41番、ベートーヴェン7番。
●5月、ヴィースバーデン歌劇場。音楽監督に就任。


●6月、ケルンで告別演奏会を実施(シュナーベル参加)。
●7月、ブゾーニ死去。
●9月、ヴィースバーデン歌劇場。「フィデリオ」でデビュー。舞台装置はデュルベルク。
●11月、レニングラードとモスクワに客演。トロツキーと会話。
●11月、Polydor録音。ベルリン国立歌劇場管。ベートーヴェン1番と「未完成」、ブルックナー8番アダージョ。弦楽団とアコ―スティック録音。クレンペラー初のレコーディング。アコースティック録音。
1925
●11月、ストラヴィンスキー:ピアノ協奏曲(本人独奏)。
●ハインツ・ティーティエン[1881-1967]がベルリン国立歌劇場の支配人(インテンダント)に就任。ベルリン国立歌劇場と二重構造でクロール歌劇場が新設されるとその支配人も兼務。策士と言われた狡猾な人物で、フルトヴェングラーとカラヤンの確執を生み出したり、クラウスを辞任に追い込むなど多くの指揮者や監督が苦しめられます。ナチの牙城となったバイロイトを13年間に渡って熱心に支えた中心的な人物でもありますが、戦後は再び歌劇場管理者として権力を掌握するなど立ち回りのうまさはさすがです。クレンペラーもティーティエンに悩まされますが、ティーティエンもクレンペラーには困っていた面もあるようです。ちなみにクレンペラーがザルツブルク音楽祭でキャンセルした「ダントンの死」の作曲家アイネムは、歌劇場でのティーティエンの弟子でした。


1926
●1〜3月、ニューヨーク・フィル。10週間に渡って客演。
●夏、ドイツ文化省音楽部長レオ・ケステンベルク[1882-1962]からクロール歌劇場の総監督就任について打診。
●12月、チェコ・フィル。ドビュッシー&ラヴェル・プログラム。
1927
クロール歌劇場。音楽監督に就任。


●1月、2度目のアメリカ・ツアー。

【軽度の鬱】
●9月、クロール歌劇場演奏会。バッハ:管弦楽組曲第3番、モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番(シュナーベル)、ヤナーチェク:シンフォニエッタ。ヤナーチェク本人がリハーサルから臨席。
●11月、クロール歌劇場。「フィデリオ」。舞台装置と共同演出はデュルベルク。
●11〜12月、Parlophone録音。ベルリン国立歌劇場管。ブラームス1番。
1928
●1月、クロール歌劇場。「ドン・ジョヴァンニ」。
●1月、クロール歌劇場の属する組織はウンター・デン・リンデン歌劇場(ベルリン国立歌劇場)との二重組織になっており、そのことに起因する煩雑な運営などからクレンペラーの健康状態が悪化、総監督辞職を願い出るものの却下。代わりに、カッセルの州立劇場で総監督をしていた実務経験豊富なエルンスト・レーガルがクレンペラーの補佐役として着任。その結果、クレンペラーには十分な時間が出来、現代作品のスペシャリストとして、ウニヴェルザール社やショット社から新作の上演依頼が数多く舞い込み、クレンペラーは十分に楽譜を検討したうえで、作曲家と打ち合わせをすることが可能になりました。特にシェーンベルクよりも先に音列作曲に挑んでいたハウアーとの打ち合わせは、具体的な演奏に際してのアイデアをもとに改訂を要求して上演を成功に導いており、クレンペラーの業績が単なる紹介者ではないことを窺わせます。
●6月、クロール歌劇場。ヒンデミット「カルディヤック」。
●10月、クロール歌劇場演奏会。ストラヴィンスキー「兵士の物語」。
●11月、クロール歌劇場演奏会。クレネク:小交響曲、ストラヴィンスキー「ミューズをつかさどるアポロ」。
●12月、クロール歌劇場演奏会。ハウアー:シンフォニエッタ、クレネク「独裁者」、「秘密の王国」、「国家の名誉」。



【躁】
1929
●1月、クロール歌劇場。「さまよえるオランダ人」。ジークフリート・ワーグナーは当惑、その妻でヒトラー崇拝者ヴィニフレートは激怒。ワーグナーの孫のフランツ・ヴィルヘルム・バイドラー[1901-1981]は絶賛。後年のヴィーラント・ワーグナーの演出にも影響を与えることになりますが、新聞は批判的な記事を書き立て世間も騒然となり、これに怒ったクレンペラー自身が新聞社編集部に怒鳴り込んでさらに事態が悪化。
●1月、コンセルトヘボウ管に初客演。
●2月、クロール歌劇場演奏会。クルト・ワイルに依頼した「小さな三文音楽」を演奏。
●2月、クロール歌劇場。オッフェンバック「ホフマン物語」。
●3月、レニングラード公演。ワーグナー「パルジファル」抜粋コンサート。
●4月、クロール歌劇場演奏会。ヒンデミット:管弦楽のための協奏曲。
●4月、コンセルトヘボウ管。マーラー2番、「大地の歌」。
●6月、クロール歌劇場演奏会。ヒンデミット「今日のニュース」、ストラヴィンスキー「結婚」(4人のピアニストのうちの一人はジョージ・セル)、「ミューズをつかさどるアポロ」、ピアノ協奏曲(本人独奏)。

【軽度の鬱】
●7月、スイス南東部のシルス・マリアで休養。
●11月、ロンドン響。ブルックナー8番。ロンドン・デビュー。
●11月、クロール歌劇場。「魔笛」。
●11月、クロール歌劇場演奏会。シェーンベルク「映画の一場面への伴奏音楽」演奏会初演(放送初演はロスバウト)。
●12月、クロール歌劇場演奏会。ヨハネ受難曲。
1930
●1月、ドイツ国家人民党と国家社会主義ドイツ労働者党がクロール歌劇場閉鎖要求動議を議会に提出。
●1月、クロール歌劇場演奏会。ストラヴィンスキー:カプリッチョ(本人独奏)、「妖精の口づけ」。
●3月、クロール歌劇場。クレネク「オレストの生涯」。
●6月、クロール歌劇場演奏会。シェーンベルク「幸福な手」、ハウアー「変化」、マーラー2番。
●11月、議会によりクロール歌劇場閉鎖決定。
●11月、クロール歌劇場演奏会。ストラヴィンスキー「兵士の物語」、ヒンデミット:ヴィオラ協奏曲。
●12月、クロール歌劇場演奏会。ヒンデミット「行きと帰り」。
1931
●1月、クロール歌劇場。「フィガロの結婚」。
●2月、クロール歌劇場。「蝶々夫人」。
●2月、クロール歌劇場演奏会。詩篇交響曲ドイツ初演。
●2月、ロンドン交響楽団。バッハ:前奏曲とフーガ(シェーンベルク編)、ベートーヴェン9番。

【躁】
●3月、ベルリン・フィルハーモニー合唱団。ヨハネ受難曲。
●4月、クロール歌劇場演奏会。ハウアー「サランボ」からの2場面、ヴェーベルン:交響曲、トッホ:チェロと小管弦楽のための協奏曲(フォイアマン独奏)。
●4月、クロール歌劇場。「ファルスタッフ」。
●4月、クロール歌劇場演奏会。ヒンデミット:ピアノ、金管と2台のハープのための協奏音楽(ギーゼキング独奏)、ベートーヴェン9番、他。
●4月、医師のモーゼ・ゴルトシュミットに躁状態についての助言を求めます。29日にブエノスアイレスに向けて出発。
●5月、クロール歌劇場。世界大恐慌の影響により閉鎖。最終公演となるヤナーチェク『死者の家』の指揮をクレンペラーは拒否していました。
●5〜10月、テアトロ・コロン。「ニーベルングの指環」、「マイスタージンガー」、「フィガロの結婚」。オーケストラ・コンサート。「フィガロの結婚」ではチェンバロを弾きながら指揮。



【軽度の鬱】
●12月、ベルリン国立歌劇場。指揮者。モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」。


●12月、パリ公演。
1932
●1月、ベルリン国立歌劇場。「フィガロの結婚」。
●2月、エレクトローラ・レーベルとレパートリーやギャラで対立し契約を破棄。エレクトローラはもともとは英グラモフォンにより1925年にベルリンで設立されていましたが、1931年に英グラモフォンと英コロンビアが合併してEMIになったことで、英グラモフォン系のエレクトローラも、英コロンビア系の大手カール・リントシュトレームを吸収合併する運びとなっていました。
●3月、シュターツカペレ・ベルリン(以下、SKB)。バッハ:マタイ受難曲。
●4月、ベルリン国立歌劇場。「ファルスタッフ」
●4月、SKB。ベートーヴェン9番。
●SKB演奏会でのクライバーの集客が悪いため、クライバーは辞退。集客の多いクレンペラーの指揮が増加。
●10月、SKB。大フーガ、ブルックナー5番。公演前にフルトヴェングラーから曲目を変えて欲しいとティーティエン総監督経由で要望されるものの、すでに何度もそうした要望に応えてきたのでクレンペラーは拒否。ブルックナーの批評は絶賛で埋め尽くされました。



【躁】
●12月、SKB。「英雄の生涯」、ヒンデミット:協奏音楽、モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番(ギーゼキング独奏)。
●12月、ベルリン・フィルハーモニー合唱団。ロ短調ミサ。
●12月、フルトヴェングラーやトーマス・マンらと共にゲーテ・メダル授与。
1933
●Polydor録音。SKB。「小さな三文音楽」
●1月、SKB。ブゾーニ:ヴァイオリン協奏曲、ブゾーニ:母の棺に寄せる男の子守歌、ヤナーチェク:シンフォニエッタ。
●1月、ベルリン放送管。ヴェルディ「オテロ」〜「デズデモナの祈り」、他。
●1月、ハンブルク・フィル。ベートーヴェン・プログラムで大成功。
●2月、ベルリン国立歌劇場。「タンホイザー」でナチの嫌がらせ。
●2月、ゲヴァントハウス管。「英雄の生涯」のリハーサル中、指揮台後部の手すりが突然外れ、クレンペラーは客席床に転落。強い脳震盪と左わき腹の打撲により2日間療養。クレンペラーは後年、これが脳腫瘍の原因と推測。手すりが外れた原因は不明ですが、ナチの活動家が激増していた時期です。
●3月、閉鎖されたクロール歌劇場は、国会議事堂の正面に位置するためドイツ国会の暫定議会場となり、ヒトラーの演説会なども開催。
●3月、ベルリン・フィルハーモニー合唱団。ミサ・ソレムニス。
●3月、ウィーン・フィルのブルクハウザーがベルリンを訪れクレンペラーに出演交渉。クレンペラーは快諾。
●3月、ローマ、ミラノ公演。
●4月、政情不安からチューリッヒに向けてドイツを出国。
●4月、ウィーン・フィル。ベートーヴェン1番、ブルックナー5番。
●5月、ウィーン公演。バルトークのピアノ協奏曲第2番を作曲者の独奏で演奏。
●6月、ベルリン国立歌劇場、クレンペラーの解任を公式に発表。
●6月、ブダペスト公演。バルトークのピアノ協奏曲第2番をケントナーの独奏で演奏。
●8月、ザルツブルク音楽祭。ウィーン・フィルとベートーヴェン1番、ブルックナー8番。


●9月、ウィーン・フィル。パレストリーナ:ミサ「汝らの証聖者」、ブルックナー9番。
●10月、ウィーン・フィル。ベートーヴェン3番、バッハ:カンタータ第21番「わがうちに憂いは満ちぬ」。
●10月、ロサンジェルス・フィル。音楽監督に就任。3年間の契約。


1934
●1月、LAPO。ベートーヴェン5番、「シチリアの晩鐘」序曲、他。
●5月、ウィーン・フィル。「ローマの謝肉祭」、「夜想曲」、「ペトルーシュカ」、「真夏の夜の夢」。
●10月、ニューヨーク・フィル。ブルックナー9番、他。
1935
●フィラデルフィア管。
●10〜12月、ニューヨーク・フィル。ベルク『ルル』組曲、マーラー2番、他。

1936
●5月、プラハ公演。
●5月、ブダペスト公演。
●5月、ソ連ツアー。ショスタコーヴィチがクレンペラーに交響曲第4番をピアノで披露。
●6月、ウィーン・フィル。「エグモント」、ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲(フーベルマン)、「運命」。
●9月、シュトラースブルク公演。
●10月、ウィーン・フィル。ブルックナー7番、5番、「マンフレッド」、ベルク:ヴァイオリン協奏曲(ベルク追悼演奏、クラスナー)、ブラームス1番。


●10月、モスクワ公演。
●ロサンジェルス・フィル音楽監督の契約を延長、更新。

1937
●LAPO。シベリウス4番、「大地の歌」、ヨハネ受難曲など。
●6月、LAPO。ハリウッドボウル公演。「ボエーム」抜粋、「イベリア」、他。
●8月、LAPO。ガーシュウィン・トリビュート・コンサート。7月に亡くなったガーシュウィンを追悼。
1938
●1月、LAPO。クレンペラーが委嘱したブラームス:ピアノ四重奏曲第1番のシェーンベルクによる管弦楽編曲版を世界初演。
●1月、LAPO。「牧神」、「ティル」、「ベンヴェヌート・チェッリーニ」序曲、他。
●2月、LAPO。ジェラルド・ストラング:インテルメッツォ、他。
●夏、LAPO。ハリウッドボウル公演。
●8月、メキシコ・ツアー。ベートーヴェン、シェーンベルク、ブラームス。

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◆ 療養期 [1939年8月〜1940年10月]

  期間 : 1年2か月(54〜55歳)
  症状 : 脳腫瘍
  内容 : 手術、入院、リハビリ
  躁鬱状態 : 躁 → 極度の躁



【躁】
1939
●8月、メキシコで体調に異変。平衡障害に陥り歩行困難、重度の頭痛を発症。帰国後に受診すると脳腫瘍の診断。脳腫瘍について、クレンペラー本人は、6年前の1933年にゲヴァントハウス管の公演で指揮台から客席の床まで転落したことが原因と推測。
●9月、ボストンで専門医による4時間半の手術を受け、小さなオレンジほどの腫瘍を摘出。

【極度の躁】
●9月、入院を終えてニューヨークで療養開始。
●12月、ロサンジェルス・フィル音楽監督を解任。不適切な言動により。
1940
●アメリカに帰化。
●5月、言語障害や半身麻痺はあるもののなんとか歩行可能に。
●8月、スタインバーグがニューヨーク・フィル公演でクレンペラーのメリー・ワルツを演奏してクレンペラーを応援。スタインバーグはケルン時代の弟子でした。



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◆ 第2期 (高速傾向) [1940年10月〜1951年10月]

  期間 : 11年間(55〜66歳)
  躁鬱状態 : 極度の躁 → 躁 → 軽度の鬱 → 鬱 → 躁 → 軽度の躁
  指揮棒 : 無し
  椅子 : 無し
  宗教 : カトリック



【極度の躁】
1941
●1月、LAPO。モーツァルト40番、他
●2月、LAPO。ベート−ヴェン5番、他
●2月、サナトリウムで医師と衝突、怒った医師が危険な精神病患者脱走などと8つの州の警察に虚偽通報。
●2月、クレンペラーはニュージャージー州の警察に26時間収監。鉄格子の中の写真付きで新聞でも報道。

【躁】
●4月、家族の資金でオケを編成、カーネギー・ホールで自主公演開催。
1942
●1月、ニューヨークでナショナル・ユース・アドミニストレーション管。
●5月、ニュー・メキシコでベト5など指揮。アイスラーも絶賛。

【軽度の鬱】
●9月、軽度の鬱状態に。
●12月、「フレンズ・オブ・ミュージック」(コリッシュの移民オケ)。バッハ:管弦楽組曲第2番、他
1943
●アメリカ東海岸ツアー。
1944
●4月、ロサンジェルスの家に帰還。
●12月、両側性胸膜炎発症。入院。
1945
●2月、LAPO。「新世界」、リスト「死の舞踏」、バッハ「御身が共にいるならば」、「ミニョン」序曲、「こうもり」序曲、他。
●2月、LAPO。「レオノーレ」序曲第3番、「ドン・ファン」、コレッリ「ラ・フォリア」(シゲティ)、他。
●ジョージ・メンデルスゾーンがVOXレーベルを設立。まだSP盤の時代でした。
1946
●1月、妻ヨハンナがクレンペラーのヨーロッパ・ツアー実現に向けて、音楽マネジメントのコロンビア・アーティスツと交渉して成功。
●VOXレーベルと契約。社長のジョージ・メンデルスゾーンは戦前にベルリンでクレンペラーを聴いたことがありました。契約内容は、年間4点のアルバムを制作し、もし他社に録音をする場合は事前に合意が必要というもの。最初の録音はパリでおこなうことで合意。
●3月、コロンビア・アーティスツの手配によりヨーロッパ・ツアー開始。
●3月、ストックホルム・フィルに客演。現地にいたピアニストのアニー・フィッシャーと、夫の音楽学者のアラダール・トートに出会い、これが翌年のブダペスト歌劇場音楽監督への就任へと繋がります。
●4月、イタリア各地に客演。ミラノ・スカラ座コンサートで成功。

【軽度の鬱】
●5月、イタリア各地客演、ローマ聖チェチーリア管とマタイ受難曲、ブラームスなどで成功。
●5月、パリ客演。パリ音楽院管弦楽団とフランス国立放送管弦楽団。有名批評家のクロード・ロスタンも絶賛。
●6月、南西ドイツ放送交響楽団。クロール歌劇場時代の仕事の熱心な支持者で、ロスバウトの親友でもある音楽監督で批評家のハインリヒ・シュトローベルによる招聘。バーデン・バーデンはフランス占領軍政府の支配下にあり、爆撃被害も無かったことから文化政策が推進され、湯治施設の楽団を放送オーケストラに拡大していました。
●7月、レジデンティ管。
●7月、コンセルトヘボウ管。
●7月、VOX録音。パリ・プロ・ムジカ室内管(ラムルー管弦楽団員)。ブランデンブルク協奏曲全曲、コラール「いざ来ませ、異教徒の救い主よ」、「汝はわが傍に」(クレンペラー編)、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、パリ、アポロ・スタジオ。他にバッハのクラヴィーア協奏曲とクレンペラーのメリー・ワルツも録音されましたが発売は見送り。

【躁】
●9月、アメリカに戻ると躁状態になり、脳腫瘍摘出手術の後遺症なのか、異常な言動が増加。
●11月、クレンペラーが暴れるためベッドに手足を縛りつけて治療。
●12月、インスリンショック療法実施。これにより極端な症状は収まったものの、高揚した状態は継続。
1947
●パリで1946年にSP録音したブランデンブルク協奏曲6曲とアイネ・クライネ・ナハト・ムジークがフランス・ポリドールから発売(SP盤)。翌1948年にはVOXからもSP盤で登場し、1949年にはVOXからLP化されることになります。
●3月、ロサンジェルスで2人組の暴漢に襲われて負傷。明け方に発見、ロサンジェルス市警によって保護。
●3月、ウィーン響と「ヨハネ受難曲」、ブルックナー7番。
●4月、ウィーン国立歌劇場で「ドン・ジョヴァンニ」を指揮。
●4月、ストックホルム・フィルで第九。リハーサルで衝突し、7年間呼ばれませんでした。デンマーク国立管とは問題なく共演。
●5月、パリ・オペラ座で「ローエングリン」リハーサルで監督と衝突して劇場を25,000ドルで提訴。
●6月、ストラスブール・バッハ祭でメニューインを侮辱。
●6月、レジデンティ管との公演リハーサルでシュナーベルを侮辱。

【軽度の躁】
●7月、ようやく高揚状態が収まるものの、激しい「躁」の時の特徴でもある連日の短時間睡眠と少ない食事によって激痩せして健康も悪化。
●8月、ザルツブルク音楽祭の「ダントンの死」をキャンセル。
●8月、ザルツブルク音楽祭の「フィガロの結婚」、マーラー4番とロイ・ハリス3番のウィーン・フィル公演を指揮。


●9月、ハンガリー国立歌劇場。音楽監督に就任。


●11〜12月、コンセルトヘボウ管に多数客演。
1948
●ゲヴァントハウス管。
●3月、フィルハーモニア管に初客演。ストラヴィンスキー:3楽章の交響曲、バッハ:管弦楽組曲第3番、ベートーヴェン3番。
●5月、ベルリン・フィル。マーラー4番、他。
●6月、ハンガリー放送響。「未完成」、他。
●10月、ハンガリー国立歌劇場。「ローエングリン」、「ドン・ジョヴァンニ」。
●11月、ハンガリー放送響。「大地の歌」、「フリーメーソンのための葬送音楽」、他。
●11月、ハンガリー国立歌劇場。「フィデリオ」。
1949
●1月、ハンガリー放送響。バッハ:管弦楽組曲第4番、他。
●1月、コーミシェオーパーでフェルゼンシュタインと「カルメン」
●2〜8月、オーストラリア指揮ツアー。


●11月、フィルハーモニア管に客演。
1950
●1月、VOX録音。パリ・プロ・ムジカ管とモーツァルト36番(パリ、サル・ショパン)。
●2月、VOX録音。パリ・プロ・ムジカ管とモーツァルト25番(パリ、サル・ショパン)。
●7月、ハンガリー国立歌劇場。音楽監督を辞任。前年に一党独裁共産主義国家となったハンガリー政府のたび重なる干渉に嫌気がさしたため。
●7〜10月、オーストラリア指揮ツアー。


●11月、モントリオール交響楽団、パリでラムルー管。
●11月、VOX録音。ラムルー管とシューベルト4番(パリ、サル・プレイエル)
●12月、ベルリンRIAS響に客演。
1951
●1月、コンセルトヘボウ管。
●2月、エルサレムとテル・アヴィヴで指揮。
●3月、VOX録音。ウィーン響と6日間で「田園」、「イタリア」、「荘厳ミサ」、ブルックナー4番。
●3〜4月、コンセルトヘボウ管とメンゲルベルク・メモリアル。
●5月、VOX録音。ウィーン響と「復活」、「大地の歌」、「運命」、「スコットランド(途中まで)」
●5月、ウィーン響とマーラー2番。(Disc5)
●6月、VOX録音。ウィーン響、ノヴァエスと3日間でショパン:ピアノ協奏曲第2番、シューマン:ピアノ協奏曲、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番。
●6月、ウィーン響とギリシャ・ツアー。
●7月、コンセルトヘボウ管弦楽団。
●8月、アルゼンチンとヴェネズエラに客演。

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◆ 療養期 [1951年10月〜1952年4月]

  期間 : 6か月(66歳)
  症状 : 左大腿骨頸部ほか数か所を複雑骨折。胸膜炎と肺炎の発作に苦しみ、抗生物質の反復投与に弱体化。急性胃痛も。
  内容 : 入院、リハビリ。
  躁鬱状態 : 軽度の躁 → 軽度の鬱



【軽度の躁】
1951
●10月、モントリオール空港で左大腿骨頸部ほか数か所を複雑骨折。

【軽度の鬱】
●10月、治療回復には時間がかかるため入院。
●11月、クレンペラーがVOXのメンデルスゾーンに抗議の手紙を送付。
●12月〜翌年1月、胸膜炎と肺炎の発作に苦しみ、抗生物質の反復投与に弱体化。急性胃痛も悪化。


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◆ 第3期 (中速傾向) [1952年4月〜1958年9月]

  期間 : 6年5か月間(66〜73歳)
  躁鬱状態 : 軽度の鬱 → 躁
  指揮棒 : 無し
  椅子 : あり
  宗教 : カトリック



【軽度の鬱】
1952
●車椅子使用。
●モントリオール響。
●ピッツバーグ響。
●LAPO。
●5月、EMIと契約。
●5月、パスポート更新拒否によりアメリカから出国不能に。新法マッカラン=ウォルター法による帰化外国人の海外滞在制限によるものです。当時のアメリカではケネディも支持した「赤狩り」旋風が吹き荒れており、クレンペラーの2年前の職場がハンガリーだったことから共産主義活動の嫌疑をかけられ、また、なぜかナチ疑惑までかけられて、パスポートの更新が拒否。
●7月、シカゴ響。ラヴィニア音楽祭8公演で大成功。楽員も熱狂。
1953
●12月、弁護士によって制限が解除されアメリカを出国。
1954
●車椅子使用。
●1月、レジデンティ管に客演。激痩せ状態。
●1月、デンマーク王立管。
●2月、エッセン市立管。
●2月、パリ。
●2月、北西ドイツ放送響。
●3〜4月、ケルン放送響。
●4月、ベルリンRIAS響。
●4月、フィルハーモニア管。
●5月、西ドイツ国籍を取得。妻ヨハンナはドイツ人でしたがドイツを嫌ったためクレンペラー家はチューリヒに居住。
●5月、ポルトガル。
●6〜7月、コンセルトヘボウ管。
●7月、レジデンティ管。
●10月、ベルリン・フィル。
●10月、ケルン放送響。
●11月、ロンドン響に客演。フルトヴェングラー追悼。
●12月、虫垂炎手術。ほどなく回復。
1955
●車椅子使用。
●3月、前立腺肥大による膀胱感染症。ほどなく回復。
●3月、前立腺良性の腫瘍除去手術。ほどなく回復。
●4月、フィルハーモニア管。
●5〜6月、ケルン放送響。
●6月、ウィーン響とマラ4、ジュピター。
●7月、コンセルトヘボウ管。
●9月、北西ドイツ放送響。
●10月、ケルン放送響。
●11月、コンセルトヘボウ管。
●12月、BBC響に客演。
1956
●1月、ベルリンRIAS響。
●1月、ケルン・ギュルツェニヒ管。
●1月、フィルハーモニア管。
●2月、ケルン放送響。
●3月、ウィーン響とベト7、ブラ3、ほか。
●3月、フィルハーモニア管。
●4月、バイエルン放送響。
●5〜7月、コンセルトヘボウ管。
●9月、モントルー音楽祭でケルン・ギュルツェニヒ管を指揮。
●9月、フィルハーモニア管。
●10月、バイエルン放送響。
●11月、妻ヨハンナがミュンヘンの病院で死去。クレンペラー家とヨッフム夫妻により葬儀。
●11月、フィルハーモニア管。
●12月、トリノRAI響に客演。
1957
●1月、ベルリン放送響。
●2月、コンセルトヘボウ管。
●3月、フィルハーモニア管。
●3月、スイス・ロマンド管。
●3月、フィルハーモニア管。
●4月、デンマーク王立歌劇場管。
●5月、コンセルトヘボウ管。
●6月、ケルン放送響。
●8月、エディンバラ音楽祭に出演。
●9月、バイエルン放送響。
●10〜11月、フィルハーモニア管公演。
1958
●1月、ケルン放送響。
●2月、インフルエンザ罹患。ローマ聖チェチーリア管の2公演のうち1公演をキャンセル。
●2月、ウィーン響とブルックナー7番。
●3月、ベルリン放送響、ベルリン・フィル。
●4月、西ドイツ政府よりメリット勲章授与。
●4月、フィルハーモニア管。
●6月、ウィーン・フィルと「ドイツ・レクイエム」。

【躁】
●6月、イスラエル訪問で躁状態に。
●8月、エディンバラ音楽祭に出演。
●9月、ベルリン・フィルとブルックナー7番。

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◆ 療養期 [1958年9月〜1959年9月]

  期間 : 1年間(73〜74歳)
  症状 : 瀕死の大やけど
  内容 : 手術。入院、リハビリ
  躁鬱状態 : 躁 → 軽度の鬱



【躁】
1958
●9月30日から10月1日にかけての夜、チューリヒの自宅で、寝タバコが原因でシーツが燃え、全身の15パーセントに及ぶ大やけどを負って重体に。

【軽度の鬱】
●10月、皮膚移植手術開始。複数回実施。急性良性心膜炎も発症。


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◆ 第4期 (低速傾向) [1959年9月〜1966年8月]

  期間 : 6年11か月間(74〜81歳)
  躁鬱状態 : 軽度の鬱 → 躁 → 軽度の鬱 → 躁 → 軽度の鬱 → 鬱 → 軽度の鬱 → 躁
  指揮棒 : 無し
  椅子 : あり
  宗教 : カトリック



大やけどから復帰したクレンペラーは、さらに冷静なスタイルになり、EMI録音でおなじみのクレンペラー晩年様式の世界が開かれることとなりますが、それでも実演になるとテンポはいくらか動的になり、セッション録音とは傾向が異なることも多いので、それぞれのライヴ録音には固有の性格が備わっているものと考えられます。

1966
●ハンブルク州立歌劇場のロルフ・リーバーマン監督から「ローエングリン」の指揮で客演が要請されるものの、クレンペラーは半世紀以上前のハンブルクでのスキャンダルを蒸し返されるだろうと考えて拒否。以前、1933年にウィーン・フィルでパレストリーナを演奏した際、宗教関係者からハンブルク・スキャンダルの件で降ろされかけたことが記憶にあったものと思われます。

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◆ 療養期 [1966年8月〜1967年2月]

  期間 : 6か月間(81歳)
  症状 : 腰を骨折
  内容 : 手術、入院、リハビリ
  躁鬱状態 : 躁 → 軽度の鬱



【躁】
1966
●8月8日、サンモリッツで腰を骨折。連絡を受けた外科医は、1,500メートルの高地で80代の男性を手術することはできないとし、また、クレンペラーの巨体には現地のヘリコプターは窮屈なことが判明したので、チューリッヒまで救急車で7時間かけて搬送されることになります。

【軽度の鬱】
●8月、手術。一週間後、ベッドの端に座ることができるようになります。
●11月、松葉杖と車椅子無しで歩けるようになります。しかし、外科医は彼が1967年2月まで指揮を再開することを許可しませんでした。


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◆ 第5期 (超低速傾向) [1967年2月〜1971年9月]

  期間 : 4年7か月間(81〜86歳)
  指揮棒 : あり
  椅子 : あり
  宗教 : ユダヤ教
  躁鬱状態 : 軽度の鬱 → 軽度の躁 → 軽度の鬱



【軽度の鬱】
1967
●1月、ユダヤ教に改宗。
●4月、クレツキの代役として、ニュー・フィルハーモニア管のパリ公演でマーラー9番を指揮。
●5月、ニュー・フィルハーモニア管。
●5月、イスラエル放送管に客演。
1968
●1〜4月、ニュー・フィルハーモニア管。
●5〜6月、ウィーン・フィル。
●8月、エディンバラ音楽祭に出演。
●8月、ルツェルン音楽祭に出演。
1969
●1月、ニュー・フィルハーモニア管。メンデルスゾーンに3番の終楽章コーダを自前のものに変更。
●1〜3月、ニュー・フィルハーモニア管。
●5月、バイエルン放送響。
●10月、ニュー・フィルハーモニア管公演。
1970
●1月、EMI録音。フィガロ。
●2月、ニュー・フィルハーモニア管公演。フィガロ。
●2月、EMI録音。ブルックナー9番。ハイドン95番。

【軽度の躁】
●5月、軽度の躁状態に。重要な公演では薬を投与。
●5〜6月、BBC収録。ニュー・フィルハーモニア管とのベートーヴェン全曲公演。

【軽度の鬱】
●9月、軽度の鬱状態に。
●9月、ボン・ベートーヴェン・フェスティヴァルに出演。ベト1、3。結果的にドイツでの最後の公演。結果的に生涯最後のベートーヴェンの交響曲演奏会。


●10月、EMI録音。ブルックナー盤、ヴォータンの告別。
●11月、ニュー・フィルハーモニア管公演。モーツァルト25、29、40番。
1971
●1月、EMI録音。コジ・ファン・トゥッテ。
●5月、ニュー・フィルハーモニア管公演。マーラー「復活」。
●5〜6月、イスラエル放送管。モーツァルト、バッハ。
●7月、食欲減退。タバコ(パイプ)も吸わなくなります。
●9月、EMI録音。ハイドン92番、モーツァルト:セレナーデ11番。
●9月、ニュー・フィルハーモニア管公演。ベートーヴェン:シュテファン王、ピアノ協奏曲第4番、ブラームス3番。結果的に最後の演奏会に。
●9月、ロイヤル・アカデミーの名誉会員に選出。
●10月、EMI幹部のピーター・アンドリー[1927-2010]がチューリヒを訪れ、1972年の「後宮からの誘拐」、1973年の「ヨハネ受難曲」などを含む新たな2年契約を提示。クレンペラーは署名。ピーター・アンドリーは若き日にオーストラリアに滞在。クレンペラー指揮する「復活」公演でフルートを吹いた経験があります。
1972
●1月、膀胱炎のため、ニュー・フィルハーモニア管公演をキャンセル。ブルックナー7番。
●2月、炭鉱労働者のストライキによりイギリス政府は緊急事態宣言を発出。
●2月、EMI録音の「後宮からの誘拐」は緊急事態宣言により延期。
●3月、膀胱炎と気管支炎で発熱。
●4月、健康が回復。
●7月、子供たちや孫たちとキャンピングカーなどで楽しい2日間を過ごした2日後、体調が悪化。肺炎に罹患。
●8月、肺炎療養。月末に治癒。歩行は出来ず。
●9月、EMIは「後宮からの誘拐」の録音の延期を決定。代案は「大フーガ」「セレナータ・ノットゥルナ」「ハイドン変奏曲」。クレンペラーは同意するもののまだ歩けず。
●10月、小康状態となり、カテーテル付きで歩行可能に。しかし仕事は無理。
●12月、クレンペラーはEMIのピーター・アンドリーに、「後宮からの誘拐」の指揮をすることが体力的にできないと手紙で謝罪。
●12月、クレンペラーの視力が低下。カテーテルも必須の状態。
1973
●5月、クレンペラーの呼吸が困難になり、ほとんど眠って過ごすようになります。
●7月6日午後6時15分、クレンペラーが睡眠中に死去。天候は雷雨で低気圧でした。
●7月10日、遺言に従い、チューリヒを見下ろす丘にあるユダヤ人墓地に埋葬。

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 商品説明:年表ページ

【指揮】

アーベントロート (ベートーヴェンシューベルト&シューマンブルックナーブラームスモーツァルトチャイコフスキーハイドン)
アルヘンタ
アンセルメ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クナッパーツブッシュ (ウィーン・フィルベルリン・フィルミュンヘン・フィル国立歌劇場管レジェンダリー)
クラウス
クリップス
クレツキ
クレンペラー (VOX&ライヴザツツブルク・ライヴVENIASボックス
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スイトナー (ドヴォルザークレジェンダリー)
スラトキン(父)
セル
ターリヒ
チェリビダッケ
トスカニーニ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベーム
ベイヌム
マルケヴィチ
ミトロプーロス
メルツェンドルファー
メンゲルベルク
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー (ブルックナーマーラーヨーロッパドイツ)
ロスバウト

【鍵盤楽器】

ヴァレンティ (チェンバロ)
ヴェデルニコフ (ピアノ)
カークパトリック (チェンバロ)
カサドシュ (ピアノ)
キルシュネライト (ピアノ)
グリンベルク (ピアノ)
シュナーベル (ピアノ)
ソフロニツキー (ピアノ)
タマルキナ (ピアノ)
タリアフェロ (ピアノ)
ティッサン=ヴァランタン (ピアノ)
デムス (ピアノ)
ナイ (ピアノ)
ニコラーエワ (ピアノ)
ネイガウス父子 (ピアノ)
ノヴァエス (ピアノ)
ハスキル (ピアノ)
フェインベルク (ピアノ)
ユージナ (ピアノ)
ランドフスカ (チェンバロ)
ロン (ピアノ)

【弦楽器】

カサド (チェロ)
コーガン (ヴァイオリン)
シュタルケル (チェロ)
スポールディング
デュ・プレ (チェロ)
バルヒェット (ヴァイオリン)
フランチェスカッティ (ヴァイオリン)
ヤニグロ (チェロ)
リッチ (ヴァイオリン)
レビン (ヴァイオリン)
ロストロポーヴィチ (チェロ)

【管楽器】

デルヴォー <ダルティガロング> (ファゴット)
マンツ (クラリネット)
モワネ (オーボエ)

【声楽】

ド・ビーク (メゾソプラノ)

【室内アンサンブル】

グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
ズスケ四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
パスキエ・トリオ
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
フランスの伝説の弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団

【作曲家】

アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

【シリーズ】

テスタメント国内盤

 エテルナ・オリジナル・マスター・シリーズ

【レーグナー】

●マーラー:交響曲第3、6番 (3CD)
●ブルックナー:交響曲第4、5、6、7、8、9番 (6CD)
●ヨーロッパ作曲家録音集 (5CD)
●ドイツ・オーストリア作曲家録音集 (5CD)
【スイトナー】

●レジェンダリー・レコーディングス (7CD)
●ドヴォルザーク:交響曲全集 (5CD)

【アーベントロート】

●ベートーヴェン:交響曲第1、4、6、9番、R.シュトラウス:ドン・キホーテ(3CD)
●シューベルト:未完成、グレート&シューマン:協奏曲集(2CD)
●ブルックナー:交響曲第4、5、9番 (3CD)
●ブラームス:交響曲第1、3、4番、ハイドン変奏曲 (2CD)
●モーツァルト」交響曲第33、35、38、41番、ディヴェルティメント第7番、ノットゥルノ (2CD)
●チャイコフスキー:交響曲第4、6番、シューマン:交響曲第4番、ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 (2CD)
●ハイドン:交響曲第88、97番、ヘンデル:二重協奏曲、バッハ:管弦楽組曲第3番

【ズスケ四重奏団】

●モーツァルト:弦楽四重奏曲第8番〜第23番 (5CD)

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