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6人の方が、このレビューに「共感」しています。 2013/01/19
バルビローリは、遺された録音に鑑みても極めて広範なレパートリーを誇った指揮者であったと言えるが、その中核をなしていたのはマーラーとシベリウスと言えるのではないだろうか。中でも、本盤におさめられたシベリウスの交響曲全集と主要な管弦楽曲集は、バルビローリが遺した最大の遺産の一つではないかとも考えられる。バルビローリは、本盤におさめられた演奏以外にもシベリウスの交響曲や管弦楽曲の演奏の録音を遺しており、EMIにモノラル録音したハレ管弦楽団との第2番の名演(1952年)やcheskyへのスタジオ録音であるロイヤル・フィルとの第2番の名演(1962年)、数年前にテスタメントから発売された1968年の第5番の名演(ライヴ録音)などもあるが、音質やオーケストラの安定性などを総合的に考慮すれば、私としては本盤におさめられた演奏がバルビローリのシベリウスの代表盤であると考えているところだ。バルビローリのシベリウスは、何と言ってもヒューマニティ溢れる温かさが魅力であると言える。本盤におさめられた演奏は、交響曲のみならず小品においても、どこをとっても人間的な温かさに満ち溢れていると言えるだろう。それでいていささかも感傷的に流れないのはバルビローリのシベリウスの優れている点であり、常に高踏的な美しさを湛えていると言える。そして、その美しさはあたかも北欧の大自然を彷彿とさせるような清澄さを湛えていると言えるところであり、バルビローリのシベリウスは正に人間的な温もりと清澄な美しさが融合した稀有の演奏であると言えるのではないかと考えられる。このような演奏は、とりわけ近年の北欧出身の指揮者による透明感溢れる精緻な演奏などとは一味もふた味も異なっていると言えるが、バルビローリのシベリウスには一本筋の通った確固たるポリシーがあり、シベリウス演奏の一つの理想像として有無を言わせない説得力を有しているものと言える。交響曲第1番については、第1楽章の冒頭においてより鋭角的な表現を求めたい気もしないではないが、終楽章の心を込めたヒューマニティ溢れる旋律の歌い上げなども極上の美しさを誇っており、名演との評価をするのにいささかの躊躇をするものではない。交響曲第2番については、壮麗な迫力と人間的な温もりが高度な次元で融合した、いい意味での剛柔のバランスのとれた素晴らしい名演。交響曲第3番については、第1楽章は誰よりも遅いテンポで開始されるが、その味わい深さは絶品だ。第2楽章の北欧のいてつく冬を思わせるような音楽にも独特の温かさがあり、終楽章の終結部に向けての盛り上がりも申し分のない迫力を誇っていると言える。交響曲第4番における深遠さも、バルビローリの手にかかると、決して救いようのない暗さに全体が支配されるということがなく、血も涙もある温かみのある音楽に聴こえるのが素晴らしい。第2楽章は終結部の唐突な終わり方もあって纏めるのが難しい音楽であるが、バルビローリはテンポの緩急を駆使するなど巧みな至芸を披露している。交響曲第5番については、とりわけ終楽章の有名な鐘の主題をこれほどまでに心を込めて美しく響かせた演奏は他にあるだろうか。少なくとも、この極上の鐘の主題を聴くだけでも本名演の価値は極めて高いと言わざるを得ない。もっとも、第1楽章の終結部において不自然に音量が弱くなるのだけが本演奏の欠点であり、ここの解釈は本演奏をLPで聴いて以来謎のままであるが、演奏全体の価値を減ずるほどの瑕疵ではないと考える。交響曲第6番については、演奏の持つ清澄な美しさには出色のものがあり、その情感たっぷりの旋律の歌い方は、正に「歌う英国紳士」の真骨頂とも言える至高・至純の美しさを誇っていると評価したい。そして交響曲全集の白眉は何と言っても交響曲第7番ではないだろうか。同曲の冒頭、そして終結部に登場する重層的な弦楽合奏の美しさは、正に人間的な温もりと清澄さが同居する稀有の表現でありバルビローリのシベリウスの真骨頂。本名演に唯一匹敵する存在であるカラヤン&ベルリン・フィルによる名演(1965年)における弦楽合奏も極上の絶対美を誇ってはいるが、その人間的な温もりにおいて本演奏の方を上位に掲げたい。第2部から第3部への移行部に登場するホルンによる美しい合奏も、カラヤン盤をはじめ他の演奏ではトランペットの音に隠れてよく聴き取れないことが多いが、本演奏では、トランペットなどの他の楽器の音量を抑え、このホルン合奏を実に美しく響かせているのが素晴らしい。第1部のトロンボーンソロはカラヤン盤がベストであり、さすがに本演奏もとてもカラヤン盤には敵わないと言えるが、それは高い次元での比較の問題であり本演奏に瑕疵があるわけではない。もっとも、弦楽合奏のアンサンブルなどハレ管弦楽団の技量には問題がないとは言えないが、それでもこれだけの名演を堪能してくれたことに対して文句は言えまい。併録の管弦楽の小品もいずれ劣らぬ名演であると言えるが、劇付随音楽「ペレアスとメリザンド」や、現在単独では入手不可能な組曲「歴史的情景」からの抜粋、そして組曲「恋人」、そしてロマンスハ長調は貴重な存在であると言える。ハレ管弦楽団も部分的には弦楽合奏のアンサンブルなどにおいて若干の問題がないわけではないが、これだけの名演奏を繰り広げたことを考えれば文句は言えまい。音質は、ARTによるリマスタリングによって比較的聴き取りやすいものであるとは言えるが、このうち、交響曲全集や一部の管弦楽曲については、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、バルビローリによる素晴らしい名演を、現在望みうる最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎すべきであり、少々高額であるが、可能であれば、SACD盤の購入をおすすめしたい。
6人の方が、このレビューに「共感」しています。
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3人の方が、このレビューに「共感」しています。 2013/01/19
本盤にはバルビローリ&ハレ管弦楽団が1966〜1970年にかけてスタジオ録音したシベリウスの交響曲全集からの抜粋である第1番及び第5番がおさめられている。第5番については、数年前にテスタメントから発売された1968年のライヴ録音などもあって、それも名演であると言えるが、音質やオーケストラの安定性などを総合的に考慮すれば、私としては、当該全集に含まれる演奏こそがバルビローリのシベリウス演奏のベストフォームではないかと考えている。第2番及び第7番のレビューにおいても記したが、バルビローリのシベリウスの特色を一言で言えば、ヒューマニティ溢れる温かさということになると言える。本盤におさめられた両曲の演奏においても、どこをとっても人間的な温かさに満ち溢れていると言えるが、それでいていささかも感傷的に流されることはなく、常に高踏的な美しさを湛えている点が素晴らしい。そして、その美しさは、あたかも北欧の大自然を彷彿とさせるような清澄さを湛えていると言える。このように、バルビローリのシベリウスは人間的な温もりと清澄な美しさが融合した演奏であり、他の指揮者による演奏とは一味もふた味も異なっていると言えるが、これぞシベリウスの理想的な演奏であるという有無を言わせぬ説得力を有している名演奏と言える。例えば、第5番の終楽章の有名な鐘の主題をこれほどまでに心を込めて美しく響かせた演奏は他にあるだろうか。少なくとも、この極上の鐘の主題を聴くだけでも本名演の価値は極めて高いと言わざるを得ない。もっとも、第1楽章の終結部において不自然に音量が弱くなるのだけが本演奏の欠点であり、ここの解釈は本演奏をLPで聴いて以来謎のままであるが、演奏全体の価値を減ずるほどの瑕疵ではないと考える。第1番については、第1楽章の冒頭においてより鋭角的な表現を求めたい気もしないではないが、終楽章の心を込めたヒューマニティ溢れる旋律の歌い上げなども極上の美しさを誇っており、名演との評価をするのにいささかの躊躇をするものではない。ハレ管弦楽団も部分的には弦楽合奏のアンサンブルなどにおいて若干の問題がないわけではないが、これだけの名演奏を繰り広げたことを考えれば文句は言えまい。音質は、これまでリマスタリングを繰り返してきたこともあってとりあえずは満足し得る音質であるとは言えるが、先般、カプリングが異なるものの、待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、バルビローリによる素晴らしい名演を、現在望みうる最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎すべきであり、少々高額であるが、可能であれば、SACD盤の購入をおすすめしたい。
3人の方が、このレビューに「共感」しています。
本盤におさめられたシベリウスの交響曲第2番及び第7番は、バルビローリ&ハレ管弦楽団が1966〜1970年にかけてスタジオ録音したシベリウスの交響曲全集からの抜粋である。多くの英国人指揮者がそうであったように、バルビローリもシベリウスを深く愛し、その作品を数多く演奏・録音してきているが、私としては、この全集に含まれる演奏こそがバルビローリのシベリウス演奏のベストフォームではないかと考えている。第7番については、他にバルビローリによる目ぼしい演奏が遺されていないことから議論の余地はない。これに対して、第2番については同じくEMIにモノラル録音したハレ管弦楽団との演奏(1952年)やcheskyへのスタジオ録音であるロイヤル・フィルと演奏(1962年)などがあり、1952年盤の圧倒的な生命力に満ち溢れた豪演などを上位に掲げる聴き手も多いとは思うが、音質面や演奏全体のいい意味でのバランスの良さを考慮すれば、私としては本演奏を第一に掲げたいと考えている。バルビローリのシベリウスの特色を一言で言えば、ヒューマニティ溢れる温かさということになるのではないか。本盤におさめられた両曲の演奏においても、人間的な温かさに満ち溢れていると言えるが、それでいていささかも感傷的に流されることはなく、常に高踏的な美しさを湛えている点が素晴らしい。そして、その美しさは、あたかも北欧の大自然を彷彿とさせるような清澄さを湛えていると言える。このように、バルビローリのシベリウスは人間的な温もりと清澄な美しさが融合した演奏であり、他の指揮者による演奏とは一味もふた味も異なっていると言えるが、これぞシベリウスの理想的な演奏であるという有無を言わせぬ説得力を有している名演奏と言えるだろう。第2番及び第7番ともに素晴らしい名演ではあるが、とりわけ第7番については同曲のあらゆる名演にも冠絶する至高の超名演と高く評価したい。同曲の冒頭、そして終結部に登場する重層的な弦楽合奏の美しさは、正に人間的な温もりと清澄さが同居する稀有の表現でありバルビローリのシベリウスの真骨頂。本名演に唯一匹敵する存在であるカラヤン&ベルリン・フィルによる名演(1965年)における弦楽合奏も極上の絶対美を誇ってはいるが、その人間的な温もりにおいて本演奏の方を上位に掲げたい。第2部から第3部への移行部に登場するホルンによる美しい合奏も、カラヤン盤をはじめ他の演奏ではトランペットの音に隠れてよく聴き取れないことが多いが、本演奏では、トランペットなどの他の楽器の音量を抑え、このホルン合奏を実に美しく響かせているのが素晴らしい。第1部のトロンボーンソロはカラヤン盤がベストであり、さすがに本演奏もとてもカラヤン盤には敵わないと言えるが、それは高い次元での比較の問題であり本演奏に瑕疵があるわけではない。もっとも、弦楽合奏のアンサンブルなどハレ管弦楽団の技量には問題がないとは言えないが、それでもこれだけの名演を堪能してくれたことに対して文句は言えまい。音質は、これまでリマスタリングを繰り返してきたこともあってとりあえずは満足し得る音質であるとは言えるが、先般、カプリングが異なるものの、待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、バルビローリによる素晴らしい名演を、現在望みうる最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎すべきであり、少々高額であるが、可能であれば、SACD盤の購入をおすすめしたい。
本盤にはバルビローリ&ハレ管弦楽団が1966〜1970年にかけてスタジオ録音したシベリウスの交響曲全集からの抜粋である第5番及び第7番がおさめられている。第5番については、数年前にテスタメントから発売された1968年のライヴ録音などもあって、それも名演であると言えるが、音質やオーケストラの安定性などを総合的に考慮すれば、私としては、当該全集に含まれる演奏こそがバルビローリのシベリウス演奏のベストフォームではないかと考えている。バルビローリのシベリウスの特色を一言で言えば、ヒューマニティ溢れる温かさということになると言える。本盤におさめられた両曲の演奏においても、どこをとっても人間的な温かさに満ち溢れていると言えるが、それでいていささかも感傷的に流されることはなく、常に高踏的な美しさを湛えている点が素晴らしい。そして、その美しさは、あたかも北欧の大自然を彷彿とさせるような清澄さを湛えていると言える。このように、バルビローリのシベリウスは人間的な温もりと清澄な美しさが融合した演奏であり、他の指揮者による演奏とは一味もふた味も異なっていると言えるが、これぞシベリウスの理想的な演奏であるという有無を言わせぬ説得力を有している名演奏と言える。交響曲第5番については、数年前にテスタメントから発売された1968年の名演(ライヴ録音)などもあるが、音質やオーケストラの安定性などを総合的に考慮すれば、私としては本盤におさめられた演奏がバルビローリのシベリウスの代表盤であると考えているところだ。終楽章の有名な鐘の主題をこれほどまでに心を込めて美しく響かせた演奏は他にあるだろうか。少なくとも、この極上の鐘の主題を聴くだけでも本名演の価値は極めて高いと言わざるを得ない。もっとも、第1楽章の終結部において不自然に音量が弱くなるのだけが本演奏の欠点であり、ここの解釈は本演奏をLPで聴いて以来謎のままであるが、演奏全体の価値を減ずるほどの瑕疵ではないと考える。他方、第7番については、同曲のあらゆる名演にも冠絶する至高の超名演と高く評価したい。同曲の冒頭、そして終結部に登場する重層的な弦楽合奏の美しさは、正に人間的な温もりと清澄さが同居する稀有の表現でありバルビローリによるシベリウス演奏の真骨頂。本名演に唯一匹敵する存在であるカラヤン&ベルリン・フィルによる名演(1965年)における弦楽合奏も極上の絶対美を誇ってはいるが、その人間的な温もりにおいて本演奏の方を上位に掲げたい。第2部から第3部への移行部に登場するホルンによる美しい合奏も、カラヤン盤をはじめ他の演奏ではトランペットの音に隠れてよく聴き取れないことが多いが、本演奏では、トランペットなどの他の楽器の音量を抑え、このホルン合奏を実に美しく響かせているのが素晴らしい。第1部のトロンボーンソロはカラヤン盤がベストであり、さすがに本演奏もとてもカラヤン盤には敵わないと言えるが、それは高い次元での比較の問題であり本演奏に瑕疵があるわけではない。もっとも、弦楽合奏のアンサンブルなどハレ管弦楽団の技量には問題がないとは言えないが、それでもこれだけの名演を堪能してくれたことに対して文句は言えまい。音質については、これまでリマスタリングなどが行われたものの、HQCD化などは全く行われず、やや不満な状況にあった。そのような中で、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、バルビローリによる素晴らしい名演を、現在望みうる最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
本盤におさめられたシベリウスの交響曲第4番、組曲「恋人」、そしてロマンスは、バルビローリ&ハレ管弦楽団が1966〜1970年にかけてスタジオ録音したシベリウスの交響曲全集からの抜粋である。多くの英国人指揮者がそうであったように、バルビローリもシベリウスを深く愛し、その作品を数多く演奏・録音してきているが、私としては、この全集に含まれる演奏こそがバルビローリのシベリウス演奏のベストフォームではないかと考えている。バルビローリによるシベリウス演奏の特色を一言で言えば、ヒューマニティ溢れる温かさということになるのではないか。本盤におさめられた両曲の演奏においても、人間的な温かさに満ち溢れていると言えるが、それでいていささかも感傷的に流されることはなく、常に高踏的な美しさを湛えている点が素晴らしい。そして、その美しさは、あたかも北欧の大自然を彷彿とさせるような清澄さを湛えていると言える。このように、バルビローリのシベリウスは人間的な温もりと清澄な美しさが融合した演奏であり、他の指揮者による演奏とは一味もふた味も異なっていると言えるが、これぞシベリウスの理想的な演奏であるという有無を言わせぬ説得力を有している名演奏と言えるだろう。本盤におさめられた交響曲第4番も、そうしたバルビローリの指揮芸術の美質が如実にあらわれた演奏に仕上がっていると言える。同曲は、シベリウスのあらゆる楽曲の中でも深遠にして晦渋とも言うべき渋味のある作品であると言えるが、バルビローリの手にかかると、決して救いようのない暗さに全体が支配されるということがなく、血も涙もある温かみのある音楽に聴こえるのが素晴らしい。第2楽章は終結部の唐突な終わり方もあって纏めるのが難しい音楽であるが、バルビローリはテンポの緩急を駆使するなど巧みな至芸を披露している。ハレ管弦楽団も、部分的には弦楽合奏のアンサンブルなどにおいて若干の問題がないわけではないが、これだけの名演奏を繰り広げたことを考えれば文句は言えまい。他方、併録の組曲「恋人」は、他に目ぼしい演奏がないだけにバルビローリの正に独壇場。清澄な美しさと人間的な温もりが高次元で融合した稀有の超名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。ロマンスも素晴らしい名演だ。音質については、これまでリマスタリングなどが行われたものの、HQCD化などは全く行われず、やや不満な状況にあった。そのような中で、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、バルビローリによる素晴らしい名演を、現在望みうる最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
本盤にはバルビローリ&ハレ管弦楽団が1966〜1970年にかけてスタジオ録音したシベリウスの交響曲全集からの抜粋である第3番及び第6番がおさめられている。多くの英国人指揮者がそうであったように、バルビローリもシベリウスを深く愛し、その作品を数多く演奏・録音してきているが、私としては、この全集に含まれる演奏こそがバルビローリのシベリウス演奏のベストフォームではないかと考えている。バルビローリのシベリウスの特色を一言で言えば、ヒューマニティ溢れる温かさということになるのではないか。本盤におさめられた両曲の演奏においても、人間的な温かさに満ち溢れていると言えるが、それでいていささかも感傷的に流されることはなく、常に高踏的な美しさを湛えている点が素晴らしい。そして、その美しさは、あたかも北欧の大自然を彷彿とさせるような清澄さを湛えていると言える。このように、バルビローリのシベリウスは人間的な温もりと清澄な美しさが融合した演奏であり、他の指揮者による演奏とは一味もふた味も異なっていると言えるが、これぞシベリウスの理想的な演奏であるという有無を言わせぬ説得力を有している名演奏と言えるだろう。本盤におさめられた交響曲第3番及び第6番の演奏においては、いずれもそうしたバルビローリによるシベリウス演奏の美質が十二分に活かされており、おそらくはそれぞれの交響曲の様々な演奏の中でもトップクラスの名演であると高く評価したいと考える。両演奏の特徴を記すと、先ず、交響曲第3番については、第1楽章は誰よりも遅いテンポで開始されるが、その味わい深さは絶品だ。第2楽章の北欧のいてつく冬を思わせるような音楽にも独特の温かさがあり、終楽章の終結部に向けての盛り上がりも申し分のない迫力を誇っていると言える。次に、交響曲第6番については、演奏の持つ清澄な美しさには出色のものがあり、その情感たっぷりの旋律の歌い方は、正に「歌う英国紳士」の真骨頂とも言える至高・至純の美しさを誇っていると評価したい。ハレ管弦楽団も、部分的には弦楽合奏のアンサンブルなどにおいて若干の問題がないわけではないが、これだけの名演奏を繰り広げたことを考えれば文句は言えまい。音質については、これまでリマスタリングなどが行われたものの、HQCD化などは全く行われず、やや不満な状況にあった。そのような中で、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、バルビローリによる素晴らしい名演を、現在望みうる最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
6人の方が、このレビューに「共感」しています。 2013/01/14
凄い演奏が登場した。ヴァイトブリックレーベルから発売されているスヴェトラーノフ&スウェーデン放送交響楽団による一連のライヴ録音はいずれも凄い演奏揃いであるが、本盤のブラームスの交響曲全集もそれら既発の演奏に勝るとも劣らないような豪演と言えるであろう。スヴェトラーノフによるブラームスの交響曲全集と言えば、かつての手兵であるソヴィエト国立交響楽団とともに行ったライヴ録音(1981年)がいの一番に思い浮かぶ。旧ソヴィエト連邦時代のオーケストラによる演奏であること、そしていまだ円熟には程遠いスヴェトラーノフ壮年期の演奏であったこともあり、ロシア色濃厚な演奏に仕上がっていたと言える。これに対して、本全集の演奏は、意外にも、その様相はドイツ正統派の演奏とも言うべきオーソドックスなアプローチに徹しているとも言える。スヴェトラーノフが、例えばラフマニノフなどの交響曲などにおいて行うような超スローテンポの演奏など薬にしたくもなく、中庸というよりはむしろ若干早めのテンポで曲想を進行(特に、交響曲第1番)させていると言えるところだ。旧全集よりも約5年程度しか経っていないにもかかわらず、その演奏の性格がかなり異なっているとも言えるが、これは、オーケストラが手兵のソヴィエト国立交響楽団ではなかったことも影響していると言えるのかもしれない。それでも、各交響曲の演奏の細部をよく聴くと、必ずしもオーソドックス一辺倒の演奏になっていないというのはいかにもスヴェトラーノフならではのものと言える。トゥッティにおけるとてつもない強靭な迫力、猛烈なアッチェレランド、緩徐楽章における心を込め抜いた濃密な歌い方、そして、何と言ってもスヴェトラーノフならではのいつ果てることのないフェルマータの強調など、個性的な解釈にも事欠かないと言えるところだ。もっとも、そうした個性的な解釈を随所に施しつつも、演奏全体の造型をいささかも弛緩させることにはならず、ドイツ音楽としての演奏様式の伝統、言い換えれば、いわゆるブラームスの交響曲らしさを逸脱することになっていないのが素晴らしいと言える。これは、スヴェトラーノフが、得意のロシア音楽のみならず、独墺系の音楽についても深い理解を有していたことの証左ではないかとも考えられるところだ。そして、スヴェトラーノフのオーソドックスな中にも随所に個性的な解釈を施した独特の指揮の下、一糸乱れぬアンサンブルを示しつつ見事な名演奏を展開したスウェーデン放送交響楽団の好パフォーマンスにも大きな拍手を送りたい。いずれにしても、私としては、本盤のブラームスの交響曲全集は、スヴェトラーノフによるブラームスの各交響曲の演奏の代表的な名演で構成される素晴らしい名全集と高く評価したいと考える。音質も、1980年代のライヴ録音ではあるが、最新録音とさほど遜色がないような十分に満足できる良好なものと評価したい。
5人の方が、このレビューに「共感」しています。 2013/01/14
カルロス・クライバーは、その実力の割には極端にレパートリーの少ない指揮者として知られているが、本盤におさめられているシューベルトの交響曲第8番「未完成」及び第3番については、その数少ないレパートリーの一つとして稀少な存在であると言える。ひとたびレパートリーとした楽曲については、クライバーは何度も演奏を繰り返したが、ベートーヴェンの交響曲第4番や第7番などと比較すると、シューベルトの交響曲については著しく演奏頻度が低く、その意味でも本盤の演奏は極めて貴重なものと言えるだろう。それにしても、演奏は素晴らしい。未完成について言えば、同曲のウィーン風の情感に満ち溢れた旋律の数々を歌い抜くワルターなどによる演奏が名演の主流を占めていると言えるが、クライバーによる演奏は、それとは異なる性格を有している。テンポはやや早めであり、旋律も歌い抜くという感じではない。むしろ、クライバーの颯爽とした華麗な指揮ぶりを彷彿とさせるような、スマートな演奏であるとも言える。ここはもう少し情感豊かに歌って欲しいと思われる箇所についても、あっさりと通り過ぎてしまう。したがって、一聴すると物足りなさを感じさせるとも言えなくもない。しかしながら、よく聴くと、楽曲の細部にわたって驚くほどの細やかなニュアンスが込められていることがわかるところだ。例えば、未完成の第1楽章においては、第1主題と第2主題のテンポを殆ど気づかれない程度に変えているということであり、これによって、第1楽章の明暗の対比が見事に表現するのに成功していると言える。また、第2楽章も、その様相は決して歌わない演奏ではあるが、各旋律の端々には独特の細やかな表情づけがなされており、書道家に例えて言えば、本演奏こそは正に名人に一筆書きと言った趣きがあると言えるだろう。交響曲第3番については、他に強力なライバル盤が存在しないことから、クライバーの独誕場。クライバーの颯爽とした指揮ぶりも楽曲の性格に符号しているとも言えるところであり、同曲演奏史上最も生命力に満ち溢れた力感の込められた名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。音質については、数年前にSHM−CD盤が発売されるなど、高音質化への不断の努力が行われてきたが、ついに今般、待望のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤が発売される運びとなった。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても超一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である(杉本一家氏がプロデュースしたESOTERICから発売のハイブリッドSACD盤との優劣については大いに議論が分かれるところだ。)。いずれにしても、クライバーによる至高の名演を、現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。
5人の方が、このレビューに「共感」しています。
4人の方が、このレビューに「共感」しています。 2013/01/14
本盤におさめられたシベリウスの交響曲第2番及び交響詩「トゥオネラの白鳥」は、バルビローリ&ハレ管弦楽団が1966〜1970年にかけてスタジオ録音したシベリウスの交響曲全集からの抜粋である。多くの英国人指揮者がそうであったように、バルビローリもシベリウスを深く愛し、その作品を数多く演奏・録音してきているが、私としては、この全集に含まれる演奏こそがバルビローリのシベリウス演奏のベストフォームではないかと考えている。バルビローリによる交響曲第2番の録音としては、同じくEMIにモノラル録音したハレ管弦楽団との演奏(1952年)やcheskyへのスタジオ録音であるロイヤル・フィルと演奏(1962年)などがあり、1952年盤の圧倒的な生命力に満ち溢れた豪演などを上位に掲げる聴き手も多いとは思うが、音質面や演奏全体のいい意味でのバランスの良さを考慮すれば、私としては本演奏を第一に掲げたいと考えている。バルビローリのシベリウスの特色を一言で言えば、ヒューマニティ溢れる温かさということになるのではないか。本盤におさめられた両曲の演奏においても、人間的な温かさに満ち溢れていると言えるが、それでいていささかも感傷的に流されることはなく、常に高踏的な美しさを湛えている点が素晴らしい。そして、その美しさは、あたかも北欧の大自然を彷彿とさせるような清澄さを湛えていると言える。このように、バルビローリのシベリウスは人間的な温もりと清澄な美しさが融合した演奏であり、他の指揮者による演奏とは一味もふた味も異なっていると言えるが、これぞシベリウスの理想的な演奏であるという有無を言わせぬ説得力を有している名演奏と言えるだろう。併録の交響詩「トゥオネラの白鳥」も、幽玄とも言うべき深沈たる味わい深さにこの指揮者ならではのヒューマニティ溢れる温かさが付加された稀有の名演と評価したい。オーケストラは、バルビローリによって薫陶を受けていたものの、必ずしも一流とは言い難いハレ管弦楽団であり、ブラスセクションにおける粗さや、弦楽合奏のアンサンブルにおける一部の乱れなど、その技量には問題がないとは言えないが、それでもこれだけの名演を堪能してくれたことに対して文句は言えまい。むしろ、敬愛するバルビローリの指揮の下、持ち得る実力を最大限に発揮した渾身の名演奏を展開している点を評価したいと考える。音質については、これまでリマスタリングなどが行われたものの、HQCD化などは全く行われず、やや不満な状況にあった。そのような中で、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、バルビローリによる素晴らしい名演を、現在望みうる最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
4人の方が、このレビューに「共感」しています。
3人の方が、このレビューに「共感」しています。 2013/01/14
本盤にはバルビローリ&ハレ管弦楽団が1966〜1970年にかけてスタジオ録音したシベリウスの交響曲全集からの抜粋である第1番及び劇付随音楽「ペレアスとメリザンド」がおさめられている。多くの英国人指揮者がそうであったように、バルビローリもシベリウスを深く愛し、その作品を数多く演奏・録音してきているが、私としては、当該全集に含まれる演奏こそは、バルビローリのシベリウス演奏のベストフォームではないかと考えている。バルビローリのシベリウスの特色を一言で言えば、ヒューマニティ溢れる温かさということになると言える。本盤におさめられた両曲の演奏においても、どこをとっても人間的な温かさに満ち溢れていると言えるが、それでいていささかも感傷的に流されることはなく、常に高踏的な美しさを湛えている点が素晴らしい。そして、その美しさは、あたかも北欧の大自然を彷彿とさせるような清澄さを湛えていると言える。このように、バルビローリのシベリウスは人間的な温もりと清澄な美しさが融合した演奏であり、他の指揮者による演奏とは一味もふた味も異なっていると言えるが、これぞシベリウスの理想的な演奏であるという有無を言わせぬ説得力を有している名演奏と言える。交響曲第1番については、第1楽章の冒頭においてより鋭角的な表現を求めたい気もしないではないが、終楽章の心を込めたヒューマニティ溢れる旋律の歌い上げなども極上の美しさを誇っており、名演との評価をするのにいささかの躊躇をするものではない。ハレ管弦楽団も部分的には弦楽合奏のアンサンブルなどにおいて若干の問題がないわけではないが、これだけの名演奏を繰り広げたことを考えれば文句は言えまい。他方、併録の劇付随音楽「ペレアスとメリザンド」は、カラヤン&ベルリン・フィルによる名演(1982年)という強力なライバルはいるものの、いわゆるシベリウスらしさという点で言えば、本演奏の方に軍配を上げたい。各楽曲の描き分けの巧さも特筆すべきではあるが、どこをとっても北欧風の清澄な美しさと格調の高さ、そしてヒューマニティ溢れる温もりが付加されており、ハレ管弦楽団の技量には疑問を感じる箇所が散見されるものの、総体としては、おそらく同曲の演奏史上でもトップの座を争う至高の超名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。音質については、これまでリマスタリングなどが行われたものの、HQCD化などは全く行われず、やや不満な状況にあった。そのような中で、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、バルビローリによる素晴らしい名演を、現在望みうる最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
7人の方が、このレビューに「共感」しています。 2013/01/13
数年前にEMIがフルトヴェングラーの一連の録音のSACD化を行ったのは、フルトヴェングラーの偉大な指揮芸術を多くのクラシック音楽ファンにあらためて知らしめる意味においても、そして、昨今のSACDルネッサンスの起爆剤としても、大変大きな意義を有するものであった。そして、今般、EMIは、フルトヴェングラーの一連の録音の中でも特に圧倒的な支持を集めている、ベートーヴェンのいわゆる奇数番の交響曲を一括して、更に音質面でグレードアップしたシングルレイヤーによるSACD化を行ったのは、2012年のクラシック音楽界を締め括るに相応しい一大イベントとも言うべきものであると考えられる。先般のSACD化の際には、ベートーヴェンの偶数番の交響曲についても対象となっていたが、第2番については、もともとの音質が劣悪でSACD化を施しても大した改善に至らず、全集の体裁を整えるための穴埋め程度のものでしかない。第4番及び第6番は、一般的な意味での名演ではあるものの、前者はムラヴィンスキーやクライバー、後者はワルターやベームの演奏の方に軍配があがるのではないだろうか。第8番も、戦前のワインガルトナーやイセルシュテットの演奏、さらには、かなりのデフォルメが施されているがクナッパーツブッシュの名演なども存在しており、そちらの方にどうしても食指が動く。こうした点を勘案すれば、本セット盤こそは、フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲選集の決定盤と言っても過言ではあるまい。それにしても、音質は素晴らしい。先般発売されたハイブリッドSACD盤よりも更に高音質にあったことは間違いないと言えるだろう。特に、フルトヴェングラーの指揮芸術の生命線でもある低弦のうなるような重量感溢れる響きがかなり鮮明に再現されるようになったことは、極めて意義の大きいことと言わざるを得ない。交響曲第1番については、1954年の最晩年のライヴ録音盤がフルトヴェングラーの決定盤との評価もなされているが、音質面も含めて総合的に考慮すれば、本セット盤も十分に決定盤たりうる価値を有していると言える。交響曲第3番については、本演奏と1944年のいわゆるウラニア盤との優劣が長年に渡って論点になってきているが、今般のシングルレイヤーによるSACD化によって、ウラニア盤のSACD盤を明らかに上回る高音質になった現時点においては、本演奏の方を推薦したいという気持ちに傾かざるを得ない。確かに、本演奏にはウラニア盤にように夢中になって突き進むフルトヴェングラーは聴かれないが、音符の奥底に潜む内容を抉り出そうとする音楽的内容の深みにおいては、断然、本演奏の方に軍配があがることになる。とりわけ、スケールの雄大さには比類がないものがあり、そうしたフルトヴェングラーの崇高な指揮芸術をこのような高音質で聴けるのは何という幸せなことであろうか。交響曲第5番については、音場の拡がりと音圧が見事。先般、戦後の復帰コンサートの初日(1947年5月25日)の演奏がシングルレイヤーによるSACD化されたが、音質面においてはそもそも比較にならない。演奏内容も、その精神的な深みにおいては本演奏の方がはるかに凌駕しており、低弦のうなるような響きや金管楽器及び木管楽器の鮮明さが、フルトヴェングラーの解釈をより明瞭に浮かび上がらせることに繋がり、演奏内容に彫の深さが加わったことが何よりも大きいと言える。交響曲第7番については、1943年盤と本演奏が双璧の名演とされてきたが、今般のシングルレイヤーによるSACD化によって、音質面においては完全に勝負がついたと言える。楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような深みとドラマティックな表現をも兼ね合わせた、同曲演奏史上最高の名演であることは言うまでもないことである。交響曲第9番も素晴らしい高音質。人類の持つ至宝とも言うべき永遠の名演が、今般の高音質化によって、正に名実ともに歴史的な遺産となったと言っても過言ではあるまい。弦楽器のつややかな、そして金管楽器のブリリアントな響きは、ハイブリッドSACD盤以上の鮮明な高音質であるし、我々聴き手の肺腑を衝くようなティンパニの雷鳴のような轟きは、凄まじいまでの圧巻の迫力を誇っていると言える。独唱や合唱も、これ以上は求め得ないような鮮明さであり、オーケストラと見事に分離して聴こえるのには、あらためて大変驚いた。ホルンの音色がやや古いのは、今般のシングルレイヤーによるSACD盤でも改善されていないのは残念ではあるが、これは、録音年代の古さを考慮すれば、致し方がないと言えるのではないか。有名なエンディングについては、かつての従来CD盤で聴くと、フルトヴェングラーの夢中になって突き進むハイテンポにオーケストラがついていけず、それ故に音が団子状態になって聴こえていたが、本盤を聴くと、ハイブリッドSACD盤以上に、オーケストラはフルトヴェングラーの指揮に必死についていっており、アンサンブルもさほどは乱れていないことが明確によくわかった。ハイブリッドSACD盤のレビューにおいても記述したが、これは、正に世紀の大発見であり、交響曲第9番の肝の箇所だけに、SACD化による最大の功績とも言えるのではないだろうか。いずれにしても、本セット盤は、2012年のクラシック音楽界の掉尾を飾るに相応しいものであるとともに、歴史的な遺産とも評価し得る至高の名交響曲選集であると高く評価したいと考える。
7人の方が、このレビューに「共感」しています。
4人の方が、このレビューに「共感」しています。 2013/01/12
本盤におさめられたホルストの組曲「惑星」は、プレヴィンによる2度にわたってスタジオ録音している。最初の録音が本盤におさめられたロンドン交響楽団との演奏(1973年)、そして2度目の録音がロイヤル・フィルとの演奏(1986年)である。いずれ劣らぬ名演と評価したいが、私としては、プレヴィンの全盛期はロンドン交響楽団とともに数々の名演を成し遂げていた1970年代前半であると考えており、本盤におさめられた演奏の方をより上位に掲げたいと考える。プレヴィンは、自らの得意のレパートリーをロイヤル・フィルとともに再録音しているが、例えばラフマニノフの交響曲第2番などにもみられるように、ロンドン交響楽団との旧録音の方がより優れているケースが多いと言えるのではないだろうか。それにしても、本演奏は素晴らしい。何が素晴らしいかと言うと、とにかく奇を衒ったところがなく、組曲「惑星」の魅力を指揮者の恣意的な解釈に邪魔されることなく、聴き手がダイレクトに味わうことが可能であるという点であると考える。同曲はあまりにもポピュラーであるため、個性的な解釈を施す指揮者も多く存在しているが、本演奏に接すると、あたかも故郷に帰省してきたような安定した気分になるとも言えるところだ。プレヴィンは、クラシック音楽の指揮者としてもきわめて有能ではあるが、それ以外のジャンルの多種多様な音楽も手掛ける万能型のミュージシャンと言える。それ故にこそ、本演奏のようなオーソドックスなアプローチをすることに繋がっていると言えるだろう。楽曲を難しく解釈して峻厳なアプローチを行うなどということとは全く無縁であり、楽曲をいかにわかりやすく、そして親しみやすく聴き手に伝えることができるのかに腐心しているように思われる。したがって、ベートーヴェンなどのように、音楽の内容の精神的な深みへの追及が求められる楽曲においては、いささか浅薄な演奏との誹りは免れないと思うが、起承転結がはっきりとした標題音楽的な楽曲では、俄然その実力を発揮することになると言える。組曲「惑星」も、そうしたプレヴィンの資質に見事に合致する楽曲と言えるところであり、加えて、後年のロイヤル・フィルとの演奏とも異なり、若さ故の力強い生命力も相まって、素晴らしい名演に仕上がったと言っても過言ではあるまい。聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりは心憎いばかりであり、プレヴィンの豊かな音楽性が本演奏では大いにプラスに働いていると言える。クラシック音楽入門者が、組曲「惑星」をはじめて聴くに際して、最も安心して推薦できる演奏と言えるところであり、本演奏を聴いて、同曲が嫌いになる聴き手など、まずはいないのではないだろうか。いずれにしても、本演奏は、プレヴィンによる素晴らしい名演であり、同曲をはじめて聴く入門者には、第一に推薦したい名演であると評価したい。音質は、1973年のスタジオ録音であり、数年前にリマスタリングが行われたものの、必ずしも満足できる音質とは言い難いところであった。ところが、今般、シングルレイヤーによるSACD盤が発売されるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音圧、音場の幅広さのどれをとっても、従来CD盤とは段違いの素晴らしさであり、あらためて本演奏の魅力を窺い知ることが可能になるとともに、SACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。いずれにしても、プレヴィンによる素晴らしい名演を超高音質のシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
5人の方が、このレビューに「共感」しています。 2013/01/06
マーラーの交響曲第9番は、マーラーが完成させた最後の交響曲だけに、その内容にはとてつもない深みがあると言える。その本質的なテーマは、諸説はあるとは思うが、忍び寄る死への恐怖と闘い、そして、生への憧憬と妄執であると言えるだろう。それだけに、他の交響曲では通用するアプローチでも、第9番に限っては、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの演奏では、到底名演になり得ないとも言えるところだ。ショルティは、ロンドン交響楽団とのスタジオ録音である本演奏(1967年)に続いて、手兵シカゴ交響楽団とともに2度目のスタジオ録音(1982年)を行っている。1982年の演奏は、スーパー軍団と称されたシカゴ交響楽団の卓越した技量を見事に統率するとともに、楽曲の心眼にも鋭く踏み込んだ懐の深い円熟の名演であると言えるが、これに対して、本演奏については、今一つの踏み込み不足を感じさせる演奏と言える。今般の一連のルビジウム・クロック・カッティングシリーズの演奏は、第3番を除いて名演の名に相応しい水準を保っていると言えるが、本演奏は第3番と同様に、佳演のレベルにとどまるのではないかとも考えている。ショルティの指揮芸術の特徴でもある切れ味鋭いリズム感やメリハリの明瞭さは、本演奏においても健在であり、同曲の複雑な曲想を明瞭化するにも大きく貢献していると言えるが、スコアに記された音符の背後にあるものへの追及や彫の深さと言った点においては、いささか不足していると言わざるを得ない。演奏の持つ力強さや迫力においては不足がないものの、我々聴き手の肺腑を打つに至るような凄味は感じられないところであり、どうしても、本演奏にはある種の限界を感じずにはいられないところだ。もっとも、1960年代という、いまだマーラー・ブームが訪れていない時期において、マーラーの交響曲の中でも最も演奏が難しいとされる難曲第9番に果敢に挑戦し、少なくとも水準には十分に達し得た演奏を成し遂げたことについては、一定の評価をしておくことが必要であろう。いずれにしても、本演奏は、1982年の2度目の演奏と比較すると、今一つの出来と言わざるを得ないが、本演奏当時はショルティがいまだ壮年期であったこと、そしてマーラー・ブームが訪れる前の演奏であることなどを総合的に勘案すれば、少々甘い気もするが、佳演と評価するには躊躇するものではなく、総体として★4つの評価とさせていただきたいと考える。ロンドン交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っていると評価したい。音質は、1967年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。
6人の方が、このレビューに「共感」しています。 2013/01/06
数年前からのユニバーサルやEMI主導によるSACDルネッサンスの動きは、多くのクラシック音楽ファンにとって大朗報とも言うべきものであった。そうした中で、SACDの提唱者であったソニーがBlu-spec-CDでお茶を濁すという嘆かわしい状況にあったが、こうしたユニバーサルやEMIの成功に触発されたせいか、昨年より、ヴァントの一連の録音のSACD化を皮切りに、過去の名演のSACD化を積極的に行うようになったのは実に素晴らしいことであると言える。先般のリヒテルに続いて、私としてはワルターの一連の録音のSACD化を期待していたのであるが、選定されたのはグールドによるバッハの一連の録音。もちろん、グールドのバッハと言えば、いずれも歴史的な名演揃いであり、私としても何らの不満を持つものではない。SACD盤の発売が開始された頃に、グールドによるバッハのピアノ曲演奏のSACD盤が発売されたが、ゴルトベルク変奏曲など一部の録音に限られていただけに、今般の一連の録音のSACD化は、シングルレイヤー盤ではないという問題点はあるものの、大方のクラシック音楽ファンにとっては大朗報と言えるだろう。本盤には、バッハの長大なピアノ曲集である平均律クラヴィーア曲集がおさめられている。これだけの長大な曲集だけに、グールドも1962年〜1971年という、ほぼ10年近くを要して録音を成し遂げている。よほど慎重を期して録音を行ったと言えるが、演奏全体に録音年代による大きな違いは存在していないと言える。バッハの平均律クラヴィーア曲集は、ピアノ音楽の旧約聖書とも称される楽曲であるだけに、海千山千の大ピアニストによる名演が目白押しである、先般、SACD化されて再び脚光を浴びることになったリヒテルによるオーソドックスな名演もあるが、グールドによる本演奏は、例えばアファナシエフによる演奏などと同様に、ピアニストの個性が全面に出た超個性的なアプローチによる演奏と言えるだろう。長大な楽曲であるだけに、聴き手にいかに飽きさせずに聴かせるのかが必要となってくるが、グールドの演奏の場合は、次の楽想においてどのような解釈を施すのか、聴いていて常にワクワクさせてくれるという趣きがあり、長大さをいささかも聴き手に感じさせないという、いい意味での面白さ、そして斬新さが存在していると言える。もっとも、演奏の態様は個性的でありつつも、あくまでもバッハがスコアに記した音符を丁寧に紐解き、心を込めて弾くという基本的なスタイルがベースになっており、そのベースの上に、いわゆる「グールド節」とも称されるグールドならではの超個性的な解釈が施されていると言えるところだ。そしてその心の込め方が尋常ならざる域に達していることもあり、随所にグールドの歌声が聴かれるのは、ゴルトベルク変奏曲をはじめとしたグールドによるバッハのピアノ曲演奏の特色とも言えるだろう。こうしたスタイルの演奏は、聴きようによっては、聴き手にあざとさを感じさせる危険性もないわけではないが、グールドのバッハのピアノ曲の演奏の場合はそのようなことはなく、超個性的でありつつも豊かな芸術性をいささかも失っていないのが素晴らしいと言える。これは、グールドが前述のように緻密なスコア・リーディングに基づいてバッハのピアノ曲の本質をしっかりと鷲掴みにするとともに、深い愛着を有しているからに他ならないのではないかと考えている。グールドによるバッハのピアノ曲の演奏は、オーソドックスな演奏とは到底言い難い超個性的な演奏と言えるところであるが、多くのクラシック音楽ファンが、バッハのピアノ曲の演奏として第一に掲げるのがグールドの演奏とされているのが凄いと言えるところであり、様々なピアニストによるバッハのピアノ曲の演奏の中でも圧倒的な存在感を有していると言えるだろう。諸説はあると思うが、グールドの演奏によってバッハのピアノ曲の新たな魅力がより引き出されることになったということは言えるのではないだろうか。いずれにしても、本盤の平均律クラヴィーア曲集の演奏は、グールドの類稀なる個性と芸術性が十二分に発揮された素晴らしい名演と高く評価したいと考える。音質については、他のバッハのピアノ曲がSACD化やBlu-spec-CD化される中で、リマスタリングが施される以上の高音質化がなされていなかったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることにより、見違えるような良好な音質に生まれ変わった。音質の鮮明さ、音圧の凄さ、音場の幅広さなど、いずれをとっても一級品の仕上がりであり、グールドのピアノタッチが鮮明に再現されるのは、録音年代を考えると殆ど驚異的であるとさえ言える。いずれにしても、グールドによる素晴らしい名演をSACDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
7人の方が、このレビューに「共感」しています。 2013/01/03
ハンガリー弦楽四重奏団は、1934年にブダペストにて結成された歴史的な団体。創始者は、シャードル・ヴェーグであり、当初は第1ヴァイオリンをつとめた。その後、バルトークの友人であり、ヴァイオリン協奏曲第2番の初演や、弦楽四重奏曲第6番の作曲にも委嘱の形で加わったセーケイ・ゾルターンが第1ヴァイオリンに就任(ヴェーグは第2ヴァイオリンとなった。)し、弦楽四重奏曲第5番の初演を行った。1940年には、ヴェーグの退団(ヴェーグは、自らの名前を冠したヴェーグ弦楽四重奏団を結成)によってメンバーが固まり、以後、米国を拠点に1972年まで活動を行った。このように、ハンガリー弦楽四重奏団は、バルトークと極めて縁が深いだけに、その演奏もバルトークへの深い愛着と思慕があらわれたものとなっているのは自明の理であると言えるところだ。バルトークの弦楽四重奏曲全集の様々な団体による名演の中でも極めて名高い存在であるアルバン・ベルク弦楽四重奏団の演奏(1983〜1986年)と比較すると、そして、当該演奏を聴き込んだクラシック音楽ファンからすると、バルトークの弦楽四重奏曲において特徴的な不協和音や、強烈なバルトーク・ピッツィカートなどを徒に強調していない本演奏には、その角の取れた刺激のなさに物足りなさを感じるかもしれない。しかしながら、奇を衒わない正攻法のアプローチによって、各楽器間のバランスに留意しつつ豊饒な音色を醸成した本演奏は、聴けば聴くほどに心に染み込んでくる演奏と言える。このようなハンガリー弦楽四重奏団の演奏を一言で言えば、同曲に込められたハンガリーの民謡を高度に昇華させた旋律の数々に徹底して光を当てた演奏と言えるのではないだろうか。バルトークの心の中を覗き込むような、マジャール人の血のたぎりを感じさせる演奏と言えるところであり、同曲を前衛的な要素を多分に持った現代音楽として位置づけるのではなく、むしろ、19世紀の終わり頃から隆盛期を迎えた国民楽派の系譜に連なる音楽として位置付けているような趣きさえ感じさせる演奏と言っても過言ではあるまい。これほどまでに、同曲の持つ美しさや民族楽的な要素に徹底して光を当てた演奏は類例を見ないとも言えるところであり、いささか極論に過ぎるかもしれないが、弦楽四重奏曲が数多く作曲されていたハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンなどいわゆる古典派の時代に回帰するような演奏と言えるのかもしれない。いずれにしても、本演奏は、同曲に込められたハンガリーの民族色を大いに感じさせてくれるとともに、その根源的な美しさ、そして、弦楽四重奏曲の原点を想起させてくれる古典的とも言うべき名演と高く評価したいと考える。諸説はあると思われるが、私としては、同曲をはじめて聴く者には、先ずは、アルバン・ベルク弦楽四重奏団による演奏を聴いた上で、本盤のハンガリー弦楽四重奏団による演奏を聴くと、同曲への理解がより深まるのではないかと考えているところだ。音質は、1961年のスタジオ録音であるが、リマスタリングがなされたこともあって、十分に満足し得る良好なものと評価したい。
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