CD 輸入盤

パスキエ・トリオの芸術(16CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
AN121
組み枚数
:
16
レーベル
:
:
International
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


パスキエ・トリオの芸術(16CD)

 フランスの兄弟アンサンブル、「パスキエ・トリオ」の名前は、数々の室内楽名盤によってもよく知られています。このセットでは、得意曲のモーツァルトのディヴェルティメントK563の3種類の録音のほか、ランパルとのモーツァルト:フルート四重奏曲集の2種類の録音、マルグリット・ロンとのフォーレ:ピアノ四重奏曲、ヴェイロン=ラクロワとのモーツァルト:ピアノ四重奏曲など、パスキエ・トリオの代表作とされるものを中心に大量に収録。
 ARS NOVAでは、これまで、伝説のフランス弦楽四重奏団パスカル四重奏団マルグリット・ロンジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタンランドフスカフランチェスカッティといったマニアックなフランスのアーティストのボックス・セットをリリース済みで内容も良かっただけに、今回のセットにも期待が持てるところです。


パスキエ・トリオ誕生前夜のフランス経済

 第1次大戦の戦勝国フランスでは、135万人の国民が犠牲になり、巨額の経済的損失も蒙ったことから、敗戦国ドイツによる賠償が待たれていましたが、ドイツも177万人の国民を失い、同じく経済的な損失も甚大だったことから支払うことができず、1922年12月には債務不履行と認定。
 翌1923年1月にはフランス・ベルギー軍が、ドイツの賠償金不払い、および石炭出荷拒否を理由に、ドイツのルール地方を占領。ドイツはこれに対し、通貨の供給量を戦前の2,000倍とすることで、ハイパーインフレを実現し、債務の減少を企図。
 不兌換紙幣の大量発行を背景にした極端な通貨切り下げは債務国の反感を買い、戦前、戦中に続き、戦後のドイツでも利益を上げようとしていたアメリカ(の投資産業)は、事態を収拾すべくドイツ紙幣の信用裏付けとして金本位制に復帰するよう1924年4月に「ドーズ・プラン」を策定、賠償金についても大幅な猶予をおこなうことを提言。
 5千万ポンドのドーズ債(JPモルガンとイングランド銀行)を発行し、アメリカの投資マネーがドイツになだれこみワイマール共和政の好景気を招くことになります(フランスは、JPモルガンなどアメリカに大きな負債があったため逆らえずに承認)。
 フランス政府は借金体制の中、ドーズ・プランの翌月にはパリ・オリンピックを開催。同時に20%の増税(最大72%)もおこなっています。
 ちなみにフランスは、第1次大戦後、紙幣を大量に増刷する一方、1922年から1926年にかけて何度も通貨を切り下げ、フランス・フランの購買力を低下させたため、1928年には信用を回復するために金本位制に復帰、紙幣を不兌換から兌換に切り替えています。
 その間、通貨切り下げにより、インフレ率とGDPは上昇しましたが、資産家の預貯金や発行済みの公債などは切り下げのたびに大きな損失を被ることとなり、イタリア政府など、フランス国債の購入を禁止していたほどです。
 やがてフランス政府はフランス・フラン下落に歯止めをかける名目で、輸入関税の引き上げを開始、1926年中に全品目について30%の引き上げを実施し、輸出を重視した保護貿易体制と海外からの投資の推進体制を確立。
 この時期のフランスの大胆な経済政策には、大統領や外務大臣、文化大臣、宗教大臣などの要職をこなしてきたレイモン・ポアンカレ首相が、一時は財務大臣まで兼務したという特殊な状況もありました。


パスキエ・トリオ誕生

 こうしたフランス経済の流れは、フランス楽壇にも影響を与え、多くの内外資産家や投資機関が現金保有を嫌って投資先を探していたことで、パリ交響楽団やワルテル・ストララム管弦楽団が設立され、また、フランス各地のカジノでオーケストラやオペラの上演が盛んになるなど、フランスの音楽家にとっては願ってもない状況が続くことになり、数多くの室内アンサンブルも結成されています。
 第1次大戦後、パリ・オペラ座管弦楽団に入団していたパスキエ兄弟の3人も、1926年に「副業」として、ワルテル・ストララム管弦楽団で演奏するようになり、その翌年にはさらなる「副業」として、兄弟3人で弦楽三重奏団「パスキエ・トリオ」を結成。
 ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ各1人から成る「弦楽三重奏」という演奏形態は、室内楽の中でもあまり目立たないジャンルとされ、通常の景気であれば、新たに結成される可能性の低いアンサンブル形態ですが、当時のフランスの投資環境と、クラシックの聴衆層の経済状態では十分に成立しうるという判断だったのでしょうか。
 「オペラ・オーケストラ」と、「シンフォニー・オーケストラ」という大きく異なる分野で活動し、さらにそれらと全く異なる「弦楽三重奏」にも熱心に取り組んだパスキエ・トリオの音楽的な経験の豊富さ、語彙の豊かさが、兄弟ならではの息の合ったアンサンブルと繊細なかけあいを実現してすぐにパリで評判となり、ほどなく、ロンドン、ミラノ、ウィーン、ブリュッセルでもコンサートを開催。
 しかし2年後にはニューヨークで株価が暴落して大恐慌が始まり、やがてフランスにも影響が及んで投資マネーが急速に減少し始めると、楽壇の景気も冷え込むようになります。その後、アメリカが大恐慌からなんとか抜け出すようになると、コロンビア・アーティスツからの誘いもあり、フランスをはじめとするヨーロッパの音楽家たちはアメリカに目を向けるようになります。
 パスキエ・トリオも1937年に初めてアメリカ・ツアーを実施して成功を収め、これに自信を得て、翌1938年後半から1939年の前半にかけて、ヨーロッパ・ツアー、アメリカ・ツアーに加えてアジア・ツアーも実施。結成11年目にして世界的な室内楽グループとしての名声を獲得することとなります。
 その後、パスキエ・トリオは、1965年までの30年近くに渡って、何度も繰り返しアメリカ・ツアーを実施し、ときにはランパルも交えて華やかな活動を展開。ワールド・ツアーをおこなったことも何度もありました。


弦楽三重奏プラスアルファ

 知名度を上げたと言っても弦楽三重奏というマイナーなジャンルなので、「専業」で食べていけるわけではなく、3兄弟はオーケストラ楽員やパリ音楽院での教育活動と並行して弦楽三重奏をおこない、その問題にも取り組んでいました。
 弦楽三重奏分野の最大の問題は、何と言ってもレパートリーの少なさにあり、モーツァルトのディヴェルティメントK563という傑作や、ベートーヴェン、ボッケリーニ、ハイドンなどの有名作品があるとはいえ、日々の公演を長期に渡って支えるほどの作品数は無かったため、パスキエ・トリオは、ルーセルやシュミットといった現役の作曲家に新曲を委嘱して作品数を増やしたほか、編曲もおこなったりすることで演奏可能作品の数を増やしてもいます。
 また、まとまった演奏報酬を受け取るには、ある程度長いツアーをおこなう必要があり、そのためには弦楽三重奏曲レパートリーだけでは十分ではなかったことから、「弦楽三重奏+ピアノ」、「弦楽三重奏+フルート」、「弦楽三重奏+オーボエ」などといったゲスト独奏者が参加する室内楽作品も加えることで、プログラムにいろどりを加えてもいました。
 また、そうした独奏者を招いての「外部連携」は、ツアーだけでなく、ふだんの公演やレコーディングにもプラスの効果をもたらすこととなり、やがて、ランパルとの共演は、彼らの活動の目玉として注目を集めるようにもなります。


【年表】
1900年

◆4月、パリ万博開催。


◆7月、パリ・メトロ1号線開通。パリ初の地下鉄で、パリ万博の会場も結びます。

1901年

1902年

●9月14日、ピエール・パスキエ[1902-1986]、フランス中部の古都トゥールに誕生。父親はヴァイオリニスト、母親はピアニストという音楽家の家庭でした。幼少期に父から音楽教育を受けたのち、トゥールの音楽学校で学んでいます。
 パリ音楽院でヴィオラを学び、1922年に卒業。卒業後はパリ・オペラ座管弦楽団のヴィオラ奏者となり、同時にワルテル・ストララム管弦楽団のヴィオラ奏者としても活動し、やがてパスキエ・トリオを結成。1943年にはパリ音楽院で教えるようになり、フォンテーヌブロー・アメリカ音楽院とニースの夏期アカデミーでも指導をしています。
 ピエール・パスキエは風刺画家としても勇名で、音楽家仲間の一瞬を切り取った巧みな絵は人気を博してもいました。ブルーノ・パスキエは息子。



1903年

●8月5日、ジャン・パスキエ[1903-1992]、トゥールに誕生。幼少期に父から音楽教育を受けたのち、トゥールの音楽学校で学び、その後、1922年にパリ音楽院を卒業。1952年にフォンテーヌブロー・アメリカ音楽院の教授に就任。

1904年

◆7月、フランス政府、修道会教育基本法を可決。修道士・修道女を教団から排除。約2,400の教育施設が閉鎖。
◆11月、フランス政府、政教分離法を上程。
◆フランス政府、バチカンとの国交を断絶。

1905年

●5月10日、エチエンヌ・パスキエ[1905-1997]、トゥールに誕生。幼少期に父から音楽教育を受けたのち、トゥールの音楽学校で学び、パリ音楽院を1921年に卒業。パリ・オペラ座管弦楽団に入団し、1930年に首席奏者となり、引退するまで務めあげます。
◆12月9日、フランス政府により政教分離法公布。フランス政府と地方公共団体の宗教予算は全て廃止され、聖職者の政治活動も禁止、宗教的儀式での公的性格も否定され、以後、信仰は私的なものに限定されることとなります。教会財産の管理と組織運営は信徒会の管轄となり、売却なども自由化。



1906年


1907年

◆10月、トゥール洪水。長雨でロワール川の水位が5m60cmまで上昇。シェール川も高水位。



1908年

◆1月、エッフェル塔から初の長距離無線送信。

1909年


1910年

◆12月、トゥール洪水。長雨でロワール川とシェール川の水位が上昇。

1911年


1912年


1913年


1914年

◆5月、ドイツがフランスとベルギーに対して宣戦布告。
◆8月、フランスがオーストリア=ハンガリーに対して宣戦布告。
◆11月、フランス、イギリス、ロシアがオスマン帝国に対して宣戦布告。


◆トゥールにフランス軍の第9軍管区の指令部設置。砲兵連隊、工兵連隊、騎兵連隊、歩兵連隊も駐屯し、軍服、装備、武器、弾薬なども供給。。



1915年

◆10月、フランス、イギリス、イタリア、ロシアがブルガリアに対して宣戦布告。

1916年

◆1月、ドイツ軍のツェッペリン飛行船がパリを爆撃。

1917年

◆4月、アメリカがドイツに対して宣戦布告。アメリカ各地の港に停泊していたドイツ船はすべて政府によって略奪。巨大客船8隻を含む35隻が盗まれ、アメリカ軍で使用することとなり、膨大な数の兵士や物資をヨーロッパに輸送するのに役立てられたほか、戦後はアメリカやイギリスの船会社に売却されて利益を上げていました。
 140万人以上の兵士をヨーロッパ(とロシア)で展開させるため、パーシング将軍[1860-1948]と、部下のマッカーサー[1880-1964]やパットン[1885-1945]が率いるアメリカ外征軍では、工兵部隊がフランス各地に82の停泊地を建設、線路を約1,600キロに渡って敷設、さらに電信電話線を約16万キロ分も新設するという大規模な工事をおこなっており、準備を十分に整えて多くの兵士を前線に送り出していました。ちなみに名将として知られたパーシングは、1944年に登場するアメリカの重戦車にその名前が冠せられてもいました。
◆5月、アメリカで選抜徴兵法施行。
◆7月、トゥールに、アメリカ軍の3中隊が配備されたのち、25,000人のアメリカ軍部隊が到着。トゥールはもともとフランス軍の駐屯地で、軍事飛行学校もあり、その施設をアメリカ陸軍航空軍の飛行学校として使う事情もあって駐屯地、及び中継地としてアメリカがさらに整備。数百の兵舎のほか、軍服製造のための繊維工場、軍装備品の修理工場、陸軍郵便局、アメリカ軍病院などを建設。これらの施設の建設と運用は大規模な雇用も生み出し、各種フェスティヴァルや葬儀、叙勲などの式典、軍のYMCA主催のショーもおこなわれて市民との交流も進みました。


◆12月、アメリカがオーストリア=ハンガリー帝国に対して宣戦布告。
◆12月、ロシア、ドイツと休戦協定を締結。
●ヨーロッパの軍楽隊の演奏水準の高さに驚いたアメリカのパーシング将軍が、軍に同行していた指揮者のウォルター・ダムロッシュ[1862-1950]に対し、アメリカの軍楽隊リーダーがフランス人から教えを受けられるような仕組みづくりを要請。

1918年

◆3月、ドイツ軍の列車砲「パリ砲」でパリへの砲撃を開始(8月まで)。パリから114キロ離れた地点から発射し、成層圏まで達する長距離砲撃で被害は限定的でした。


●10月、パリ音楽院で22年間教えてきたヴィオラ科教授、テオフィル・ラフォルジュ[1863-1918]が急死。モーリス・ヴュー[1884-1951]が暫定教授となって、ピエール・パスキエら学生の指導を引き継ぎます。
◆12月1日、フランス軍、アメリカ軍、イギリス軍などによる「ラインラント占領」開始。1930年6月30日まで、11年7カ月に渡って継続。フランス軍の駐留規模は多い時で約25万人という膨大なものでした。アメリカ軍も当初は約25万人規模でしたが、すぐに約2万人規模にまで縮小しています。



1919年

◆6月、ドイツ、ヴェルサイユ条約批准。
●「音楽リーダー・アメリカ音楽院(Ecole Americaine du Chef de Musique)」設立。2年後に「フォンテーヌブロー・アメリカ音楽院」となるこの音楽院が誕生するきっかけとなったのは、ヨーロッパに派遣された140万アメリカ軍のトップであるブラック・ジャックことパーシング将軍が、アメリカの軍楽隊に較べてヨーロッパの軍楽隊の水準が非常に高いことに驚き、同行していた指揮者のウォルター・ダムロッシュに対して、アメリカの軍楽隊リーダーたちがフランスの音楽家の教育を受けられるよう1917年に打診したことでした。
 終戦後の1919年、ダムロッシュはロベール・カサドシュの伯父フランシスに協力を要請。アメリカ軍の駐留はしばらく続き、生徒の数も多かったので、実際に教えるにあたっては、アンドレ・カプレ[1878-1925]、ジャック・フィロワ[187-1935]の協力も得ています。



●9月、ピエール・パスキエ、パリ音楽院に入学。
●10月、モーリス・ヴュー[1884-1951]がパリ音楽院のヴィオラ科教授に就任。

1920年

◆2月、フランス、ドイツ領だったメーメル(現リトアニアのクライペダ)を占領(現在のドイツ国歌の歌詞でも、メーメルまではドイツのようなことが謳われたままなので、いずれは何とかするつもりなのかもしれません)。
◆3月、ルール蜂起。ドイツの工業地帯ルール地方で、左派の労働者兵士5万人ほどで組織された「ルール赤軍」が蜂起し、「ヴァイマル共和国軍」と戦闘状態になり、1か月ほどで鎮圧されます。ルール地方は3年後、フランス・ベルギー軍に占領されます。

1921年

●「フォンテーヌブロー・アメリカ音楽院」開校。フランシス・カサドシュ(下の画像の左から9人目)とウォルター・ダムロッシュ、そして作曲家のヴィドール(下の画像の左から7人目)らの尽力により、器楽演奏と作曲・和声・理論などをアメリカ人に教えるためのサマースクールとして、フォンテーヌブローのルイ15世の宮殿内に設置されます。
 ロベール・カサドシュ(下の画像の右から3人目)はここで、イシドール・フィリップ(下の画像の右から7人目)の助手として働くようになり、やがて1935年、フィリップの後任として、ピアノ科主任教授に就任すると、初のアメリカ・ツアーを実施。トスカニーニに気に入られたこともあって、以後は毎年のようにツアーをおこなって名声を高め、第2次世界大戦が始まってドイツがフランスに侵攻すると、カサドシュはアメリカに移住する道を選び、「フォンテーヌブロー・アメリカ音楽院」もアメリカに移転。
 戦争が終わった翌1946年にはフランスに戻り、パリで「フォンテーヌブロー・アメリカ音楽院」を再開して院長に就任。3年後の1949年には演奏家として多忙になっていたこともあって院長をナディア・ブーランジェ(下の画像の右から9人目)に引き継ぎ、以後は彼女が音楽院の顔となっていきます。
 1915年に発生したUボートによるルシタニア号撃沈事件は、アメリカ国籍の乗客、およびアメリカと関係のある人々などが多数犠牲になったことで、アメリカ世論が親ドイツから一気に嫌ドイツに変わり、さらに1917年にドイツが敵国となることで、友軍でもあるフランスの文化が好まれるようになり、クラシック音楽の分野でも親ドイツから親フランスへという流れが加速していきます。
 「フォンテーヌブロー・アメリカ音楽院」はそうした時代を象徴する存在でもあります。




1922年

◆2月、ワシントン海軍軍縮条約により、戦勝各国海軍の主力艦保有率を策定。アメリカ5、イギリス5、日本3、フランス1.75、イタリア1.75という数字はフランスには不満の残る数字でした。
●ピエール・パスキエ、ヴィオラでプルミエ・プリを得てパリ音楽院を卒業。成績を競った同じモーリス・ヴュー教授のクラスには下記の学生がいました。()内は卒業後の主な所属先です。
・アンドレ・ジュヴェンサル(パリ・オペラ座、ヴェルサイユ音楽院、コロンヌ管弦楽団)
・エチエンヌ・ジノ(パリ音楽院、パリ・オペラ・コミーク座、ラムルー管弦楽団)
・シュザンヌ・ロバン(フランス国立放送管弦楽団)
・ジャック・デセストル(パリ・オペラ座)

●ジャン・パスキエ、ヴァイオリンのエドゥアール・ナドー教授[1962-1928]のクラスでプルミエ・プリを得てパリ音楽院を卒業。
◆10月29日、イタリアでムッソリーニ政権が成立、ファシスト体制に移行。ムッソリーニは1930年代初頭までは反ドイツ的な姿勢でした。
◆12月26日、ロンドンで、ドイツの戦時賠償支払い義務不履行が、債権各国によって認定。

1923年

◆1月11日、フランス・ベルギー軍が、ドイツの賠償金不払い、および石炭出荷拒否を理由に、ドイツのルール地方を占領。イタリアも技術者を派遣。
◆ドイツでハイパーインフレ策実施。通貨供給量を戦前の2,000倍とすることで、戦費調達などで生じた膨大な国内債務を劇的に削減。国民生活は犠牲になるものの、レンテンマルク導入によりなんとか事態を収拾。

1924年

◆1月25日、フランス・チェコスロヴァキア相互防衛援助条約締結。
◆2月、ポアンカレ首相が財務権限も取得し、JPモルガンから借り入れ。
◆4月、連合国賠償委員会の要請で「ドーズ委員会」開催。8月に「ドーズ・プラン」が合意され、9月に発効。ドイツのハイパーインフレの原因とされたフランス・ベルギー軍によるルール地方占領を終結させると共に、占領の原因となったドイツの賠償問題をいったん白紙とし、ドイツをまず金本位制に復帰させることを目的としたアメリカ副大統領チャールズ・ドーズ主導の経済プラン。政治的問題を利用した経済プランでもあり、フランスのポアンカレ首相は猛反対するものの、イギリスがアメリカ側に付き、フランスもアメリカに大きな負債のある立場上、押し切られる形になります。
 「ドーズ・プラン」では、賠償の基礎となるドイツ通貨の安定を目指してまずドイツを金本位制に復帰させ、ゴルトマルク(金兌換マルク)相場が変動した際には送金を猶予するなど外国為替市場にも配慮、金本位制復帰のための準備金を「ドーズ公債」として証券化し、JPモルガンを中心に販売(イングランド銀行も2割ほど販売)、その資金でドイツが工業生産を再開し、賠償準備ができるように決定。結果としてアメリカ資本のドイツへの莫大な投資が促進され、ヴァイマル共和政下での復興の主軸ともなって、同時にアメリカの投資家に大きな利益をもたらしてもいました。
 もともとアメリカは第1次大戦途中までは、ドイツ側、英仏側の両陣営と取引しており、参戦が遅れたのもドイツへの投資の回収に時間がかかったからで(交戦状態になると財産が没収されてしまうため)、さらに参戦するとアメリカ国内に停泊中の巨大豪華客船などドイツ船を略奪して軍事利用し戦後は売却するという手法で巨額の利益をあげており、その仕上げともいえるのがこの「ドーズ・プラン」でした。
 これにより、英仏がアメリカへの返済で充てにしていたドイツの賠償額がいったん棚上げと決定。さらに「ドーズ委員会」メンバーだったオーウェン・ヤングが主導し、1929年9月に適用された「ヤング・プラン」によってドイツの賠償が59年間の分割払いと決定。
 これは英仏経済に大きな打撃を与えます。両国では戦後の復興事業で発生していたアメリカ業者への支払いに賠償金を充てる計画でしたが、それが自己資金に変更になったということが不安視され、輸出していたアメリカ業者の株価にも影響、翌月の株価大暴落(世界大恐慌)の引き金にもなっています。
 一方で、潤沢なアメリカ投資家の資金によってドイツの工業化が進んだことで、再軍備を支援したという側面もありました。ちなみに1925年から1928年の間に、ドイツの債務は19.7%から43.7%に増加しており、これが世界大恐慌で破綻したことがナチ政権を生み出す要因にもなっていました。


◆5月、パリ・オリンピック開催。ドイツ、ソ連、東欧諸国は不参加。


●エチエンヌ・パスキエ、プルミエ・プリを得てパリ音楽院を卒業。
◆5月、フランス政府、20%増税(最大72%)。
◆5月、フランス総選挙で左派が躍進。
◆6月、フラン切り下げ。フランス政府が戦後復興のため紙幣を大量に増刷してインフレが継続していたことが原因(インフレ率約14%)。これにより資産家の財産や海外からの投資は大きな損失を被りますが、GDPは10.3%増加。
◆イタリア政府、フランス国債の購入を禁止。

1925年

◆4月、フランスの左派活動家(共産主義者)たちが、右派の選挙集会を銃や刃物で襲撃。4人を殺害し約50人を負傷させています。

1926年

◆フランス政府、フラン下落に歯止めをかける名目で、輸入関税の引き上げを開始し、1926年中に全品目について30%引き上げ。ちなみにフランの購買力は、たび重なる切り下げで1922年から1926年にかけて57%下落していました。これは、1915年から1920年までの戦中戦後の購買力下落率が30%だったことを考えるとすごいペースです。
●「コンセール・ワルテル・ストララム管弦楽団」活動開始。資産家らの支援を受け、指揮者のワルテル・ストララム[1876-1933]によって創設。主にパリのオーケストラの楽員の中から選ばれた奏者が副業として演奏する非常設のオーケストラ。パリ・オペラ・コミーク座のマルセル・モイーズ、コンセール・ラムルー管弦楽団のリリー・ラスキーヌ、コンセール・コロンヌ管弦楽団のマルセル・ダリューのほか、パリ・オペラ座管弦楽団のピエール、ジャン、エチエンヌのパスキエ兄弟もよく参加していました。
 現役楽員が多いことから、土曜と日曜の本業の多忙な日を避け、木曜日に開催されることが多かったストララム管弦楽団の公演ですが、レコーディングに関しては日中も利用可能ということで、いろいろな曜日に実施。会場もサル・ガヴォーからサル・プレイエルと移って行き、1928年にはストララムがシャンゼリゼ劇場の監督に就任したことから、以後、ストララムが亡くなるまで、彼のオーケストラの拠点はシャンゼリゼ劇場となります。
 指揮はストララムが中心でしたが、客演も多く、アルトゥーロ・トスカニーニ、トゥリオ・セラフィン、エミール・クーパー、オスカー・フリート、フランツ・フォン・ヘスリンのほか、リヒャルト・シュトラウス、ファリャ、オネゲル、ストラヴィンスキーといった有名作曲家もよく指揮者として出演していました。
 ストララム管弦楽団の活動期間はわずか8年間で、しかも後半は世界大恐慌下の不況の中での演奏活動ということで、厳しい条件ではありましたが、それでも彼らの高水準な演奏は大きな話題となり、電気録音初期の78回転盤の制作も積極的におこなわれていました。


1927年

●パスキエ・トリオ結成。メンバーは、パスキエ家の長男ピエール(ヴィオラ)、次男ジャン(ヴァイオリン)、三男エチエンヌ(チェロ)の3兄弟。


●3月18日、パスキエ・トリオ、パリでデビュー。
●パスキエ・トリオ、ロンドン、ミラノ、ウィーン、ブリュッセルでコンサート。

1928年

◆6月、レイモン・ポアンカレ首相兼財務大臣が、フランを約5分の1(!)に切り下げ。国内債務の大幅な削減と輸出条件の向上による経済再建策。

1929年

1930年

◆「世界大恐慌」の影響が顕在化。金本位制のアメリカとフランスでの失策や、関税施策、金利施策の失敗が原因ともいわれる「世界大恐慌」には、1930年時点でのアメリカの金準備の世界シェア約38%、フランスの約20%という、2国だけで世界の6割近いシェアのもたらした国際的な資金の極端な移動も背景にありました。といっても、その5年前の1925年時点ではアメリカの金準備シェアは約44%で、5年間で6%減少という流れなのに対し、フランスは1925年には約8%だったので、実に2.5倍に膨らんでいたことになります。これによりパリではいくつもの銀行が倒産し、投資家や資産家たち、さまざまな産業も影響を受けるようになります。
●エチエンヌ・パスキエ、パリ・オペラ座管弦楽団の首席チェロ奏者に就任。引退するまで在籍。

1931年

◆「世界大恐慌」の影響で経済が疲弊していたドイツとオーストリアが2国間の関税同盟を結んで、少しでも経済を活性化しようとしたことに対し、フランス政府は反発、国際連盟や国際司法裁判所に提訴、両国の関税同盟成立を阻止します。

1932年


1933年

●11月24日、ワルテル・ストララム死去。「コンセール・ワルテル・ストララム管弦楽団」も活動を停止。

1934年

●4月、パスキエ・トリオ、ベートーヴェン:弦楽三重奏曲第4番を録音。3枚組アルバム。(Pathé)
●マルチヌー、弦楽三重奏曲第2番を作曲。

1935年

●2月15日、パスキエ・トリオ、マルチヌーの弦楽三重奏曲第2番を初演。
●2月、パスキエ・トリオ、パーセルのファンタジー第3番、ハイドン:メヌエットとフーガ、ボッケリーニ:アダージョ、ドゥランテ:トッカータを録音。(Pathe)
◆3月、ドイツ、徴兵制復活(再軍備宣言)。
●6月、パスキエ・トリオ、モーツァルト:ディヴェルティメントK.563(5枚組)を録音。(Pathé)
●ジャン・パスキエ、エチエンヌ・パスキエ、クルト・ザックス監修のパーセル:ゴールデン・ソナタ、テレマン:四重奏曲の録音に参加。
●ジャン・パスキエ、クルト・ザックスのバッハ:カンタータ第189番『わが魂はほめ讃う』の録音に参加。

1936年

◆2月、仏ソ相互援助条約を締結。ヒトラーはロカルノ条約違反と批判し、自衛のためという理由で、翌月、国境沿いの非武装地帯に軍を進めます。
◆3月、ドイツ、ラインラントへ進駐。
●6月、パスキエ・トリオ、ベートーヴェン:弦楽三重奏のためのセレナーデ Op.8を録音。3枚組アルバム。(Pathé)
◆9月、フランス政府、フランを約28%切り下げ。金兌換停止、および金(ゴールド)の輸出も停止。

1937年

●パスキエ・トリオ、アメリカ・ツアー実施。
●ジャン・パスキエ、エチエンヌ・パスキエ、ダッラーバコ:2つのヴァイオリンと通奏低音のためのソナタを録音。もう1台のヴァイオリンはジャン・フルニエ、チェンバロはルッジェーロ・ジェルリン。(Victor)
●6月、パスキエ・トリオ、ピエルネ:弦楽三重奏のための3つの小品(2枚組)、A.スカルラッティ『くすんだ影』、カヴァッリ『満ち足りた喜びよ』を録音。(Pathé)
●6〜7月、ルーセル[1869-1937]、弦楽三重奏曲 Op.58を作曲。パスキエ・トリオにインスパイアされて書かれた作品。パスキエ・トリオに献呈。翌年4月に初演。
●8月23日、ルーセル、心臓発作のため死去。


●10月、パスキエ・トリオ、モーツァルト:フルート四重奏曲 K.298(ルネ・ル・ロワ)を録音。(La Voix de son maître)

1938年

●4月4日、パスキエ・トリオ、ルーセル:弦楽三重奏曲 Op.58を初演。
●5〜6月、パスキエ・トリオ、ベートーヴェン:弦楽三重奏曲第2番(3枚組)を録音。(Pathé)
●6月、パスキエ・トリオ、ジョゼフ=エルマン・ボナルの弦楽三重奏曲(3枚組)、パーセルのファンタジー第2番(1枚)を録音。(Pathe)
●パスキエ・トリオ、1938/1939のシーズン前半に、ベルギー、オランダのツアーに加え、プラハ、ブダペスト、ベルリンなどで計60回のコンサートを開催。後半にはColumbiaの新作アルバム・プロモーションも兼ねた大掛かりなアメリカ・ツアーに加え、アジア・ツアーも実施。世界大恐慌の不況を乗り越え、結成11年目にして世界的な室内楽グループとしての名声を獲得しています。

1939年

●パスキエ・トリオ、アメリカ・ツアー実施。
●2月、パスキエ・トリオ、ジャン・クラの弦楽三重奏曲(3枚組)、フランセ:弦楽三重奏曲ハ長調(2枚組)を録音。(Columbia)
●パスキエ・トリオ、アジア・ツアー実施。
●6月、パスキエ・トリオ、リセ・ダニエルスと「ブルゴーニュ宮廷の音楽家たち」を録音(L'Oiseau-Lyre)。
●8月25日、オリヴィエ・メシアン[1908-1992]徴兵。メシアンは当時、南仏ペティシェに滞在中でしたが、すぐにパリに戻って第620歩兵連隊に配属。
◆9月2日、フランス、500万人に及ぶ大規模な動員を実施。内訳は、軍に227万4千人、内勤に222万4千人など。内勤の内訳は、70万人が特別任務労働、30万人が教育、25万人が農業、65万人がサービス業などといったもので、兵役忌避者は約3,700名。
◆9月3日、フランスがドイツに対して宣戦布告。
●9月、メシアン、フランス北東部のサルギュミーヌに歩兵として送られ、困難な輸送任務の雑役に就きます。近隣のに看護兵として滞在。
●10月、メシアン、フランス北東部サラルブの病院に看護兵として配属。
●10月29日、メシアン、近隣のビセール村で、作曲家のモーリス・ジョベール[1900-1940]と出会います。当時ジョベールは映画音楽の巨匠として知られる一方で、クラシックの作曲や指揮でも知られていました。メシアンの方は教会オルガニストで、オルガン曲などの作曲もしていましたが、ジョベールに較べれば知名度は低いものでした。
●11月、メシアン、ビセール村の教会のミサでオルガンを演奏。その後、ジョベールと昼食を共にするなどしています。

1940年

●パスキエ・トリオ、アメリカ・ツアーを戦争のためキャンセル。
●4月、メシアン、ヴェルダン第2軍の劇場・音楽センターに配属。パリ音楽院の恩師マルセル・デュプレ[1886-1971]の尽力もあったようです。メシアンは、同センターに先に到着していたチェロ奏者エチエンヌ・パスキエ伍長、クラリネット奏者アンリ・アコカ[1912-1976]、テノール歌手ルネ・シャルルらと交流、音楽活動も再開します。


◆5月10日、ドイツ、フランスへの侵攻を開始。前年9月にドイツに対して宣戦布告したフランスでしたが、実際にドイツ軍がフランスへの侵攻を始めたのは8か月も後のことで、油断したフランスはすぐに国防の要衝マジノ線を突破されてしまいます。慌てたフランス軍と政府は、パリ市民に対して、そのままパリに留まるよう要請したり、疎開を促したりと、混乱した情報を通告。
 ほどなく市民たちも南下を始め、フランス国立放送管弦楽団など数多くの音楽家たちも南を目指すことになります。その数はごく短期間のうちに100万人を超えるという凄まじいもので、落ち着き先のフランス中部でも南部でも大きな混乱が生じることとなります。


◆5月26日〜6月4日、ダンケルクからの撤退。ドイツ軍の攻勢に押されたイギリス軍(とフランス軍)は退却を決定。約70キロほど離れた対岸のイギリスに、331,226名(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)が駆逐艦や大型船を使って退却した作戦。民間小型船も徴用され、10万人近くを浜辺から沖合の大型船まで運ぶ作業に従事。


◆6月3日、ドイツ軍、パリを爆撃。254人を殺害(ちなみにイギリス軍とアメリカ軍が第2次大戦中に爆撃で殺害したフランスの民間人は約7万人で、フランチェスカッティの弟もアメリカ軍に殺されています)。


◆6月10日、イタリアがフランスとイギリスに対して宣戦布告。
◆6月11日、フランス政府関係者、パリから脱出。トゥール、ボルドーを経て、7月2日には巨大なカジノと数多くの宿泊施設を持つ温泉保養地ヴィシーにまるごと避難。
◆6月13日、フランス軍、パリから撤退。ペタン元帥がラジオで休戦演説。
◆6月14日、ドイツ軍、パリに無血入城。


●6月15日、ヴェルダン要塞陥落、フランス軍敗走。エチエンヌ・パスキエ、アンリ・アコカ、ルネ・シャルル、オリヴィエ・メシアンらは、ヴェルダンの南東80kmほどのところにあるナンシーに徒歩で向かいますが、ほどなくドイツ軍に捕らえられ、シレジアの収容所に移送。しかし、混乱の中、メシアン一行は収容所から抜け出すことに成功、森の中を南に向けて逃走します。


◆6月15日、イタリア軍、フランスへの侵攻を開始。
◆6月16日、内閣総辞職、ペタン元帥が後を引き継ぎ、6月22日に休戦条約が調印。ドイツに降伏したフランスでは、国民は不自由な生活を強いられるようになりますが、当初は、湾岸部やパリなどの北部が「ドイツ軍占領地域」、南東部とコルシカ島が「イタリア軍占領地域」で、ほかはペタン元帥率いるヴィシー政府の管轄する「自由地域」となっていました。
 もっとも、「自由地域」とはいっても、検閲対象が膨大で、警察による監視体制も厳しく、ドイツとイタリアの「占領地」よりもかえって不自由だったとされるのがヴィシー政府管轄地域の都市部でもありました。
◆6月17日、ペタン元帥がドイツに対して休戦の申し入れ。
◆6月17日、イタリア軍、マルセイユを爆撃。143人を殺害。
◆6月18日、ロンドンに逃げたド・ゴールが、ラジオでフランス国民に抵抗運動を呼びかけます。
●6月18日、逃走中のメシアン一行、フランス北東部のバカラで戦闘中の部隊に所属するモーリス・ジョベールと偶然出会いますが、メシアンらは移動を継続。
●6月19日、有名作曲家モーリス・ジョベール、フランス北東部アゼライユの森でドイツ軍兵士から機関銃による銃撃を受け戦死。まだ40歳でした。
●6月22日、メシアン一行、ヴェルダンの北東70kmほどのジェルミニでドイツ軍に捕らえられ、近隣のトゥール(「Toul」、パスキエの生まれたトゥールは「Tours」)の仮設キャンプに俘虜として3週間ほど滞在。メシアンはここで無伴奏クラリネットのための「鳥たちの深淵」のスケッチを開始。この曲は、のちに『世の終わりのための四重奏曲』の第3楽章として使用されます。
◆6月22日、独仏休戦協定締結。発効は25日。
◆6月22日、フランス、「フランス共和国」から「フランス国」となり、遷都先のヴィシーで政府が成立、アメリカ、ソ連など多くの国が「国家として承認」。ド・ゴールの逃亡先であるイギリスは承認せず。
◆6月28日、ロンドンのド・ゴールによって設立された団体が「自由フランス」としてイギリスから承認・命名。「自由フランス軍」は植民地兵を中心とした7千名規模で発足。
◆6月24日、伊仏休戦協定締結。発効はドイツと同じく25日。ドイツとイタリアに降伏したフランスでは、国民は不自由な生活を強いられるようになりますが、当初は、湾岸部やパリなどの北部が「ドイツ軍占領地域」、南東部とコルシカ島が「イタリア軍占領地域」で、ほかはペタン元帥率いるヴィシー政府の管轄する「自由地域」となっていました。
 もっとも、「自由地域」とはいっても、占領軍がいない分、フランス警察による監視への要求は厳しく、言葉が通じるだけに、ドイツとイタリアの「占領地」よりもかえって不自由だったとされるのがヴィシー政府管轄地域の都市部でもあり、ユダヤ人のクララ・ハスキルも1942年9月に警察に連行されたりしていました(すぐに釈放)。

◆7月2日、フランス政府のヴィシーへの移転が完了。
◆7月3日、イギリス海軍、チャーチルの命令により、フランス海軍戦艦1隻を撃沈、2隻を破壊。フランス兵約1,300名を殺害。
◆7月5日、フランス政府、英国との国交を断絶。
●7月15日、メシアン一行、ブラボワ・ヴィレ・ドゥ・ナンシー収容所に移送。
●8月、メシアンらフランス軍俘虜の一団が、ドイツ東部ゲルリッツの第8A収容所まで移送。このナンシーから680kmほど離れたところに新設された収容所には、先にポーランド人とベルギー人が収容。メシアンはここでポーランド人から図書館助手の仕事を与えられたため、労役に就かずに済み、作曲に時間を使うことができました。
  また、戦争初期のため、400席ほどの小劇場風なバラックも設置され、詩の朗読や、ビッグ・バンド・ジャズやクラシックのコンサート、役者による演劇のほか、映画上映などもおこなわれています。



●11月中旬、収容所にピアノが到着。これによってピアノを含む作品の演奏が可能となり、メシアン(ピアノ)、エチエンヌ・パスキエ(チェロ)、アンリ・アコカ(クラリネット)の3人に、新たにヴァイオリンのジャン・ル・ブレール[1913-1999]が加わって、特別に許された1日4時間のリハーサルを続けることになります。
●12月、メシアン(ピアノ)、エチエンヌ・パスキエ(チェロ)、アンリ・アコカ(クラリネット)の3人で、ベートーヴェンのクラリネット、チェロ、ピアノのための三重奏曲を演奏。
●12月中旬、収容所で「ポーランドとフランスの詩と音楽の夕べ≪鳥たちの深淵≫」というイベントが開催。ポーランドの詩人ズジスワフ・ナルデルリ[1913-2006]が『鳥たちの深淵』など13の詩を朗読し、その間に、メシアンが新たに作曲した以下の5つの作品を挿入して演奏。これらの作品は、のちに『世の終わりのための四重奏曲』に使用されるので、カッコ内に該当楽章を記しておきます。
・「世の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ」(第2楽章)
・「鳥たちの深淵」(第3楽章)
・「間奏曲」(第4楽章)
・「イエスの永遠性への賛歌」(第5楽章)
・「イエスの不滅性への賛歌」(第8楽章)
・「世の終わりを告げる天使のための虹の混乱」(第7楽章)
なお、イベントでは、他の人によるトランペットやアコーディオンの作品も演奏されており、客席には、ポーランド人俘虜、フランス人俘虜、ベルギー人俘虜のほか、ドイツ人将校も列席。将校の中には、元弁護士で、フランス語ができることから収容所で通訳をしていたカール・アルベルト・ブリュール[1902-1989]国防軍大尉がおり、メシアンの音楽に感銘を受けた彼は、楽譜や筆記用具のほか、ときにはパンや部屋などもメシアンに提供することになります。
  また、イベントの成功に注目した収容所司令官のアロイス・フォン・ビーラスは、1か月後の1941年1月15日に、メシアンの作品の公式初演となるコンサートの実施を計画。
  準備期間は1か月しかありませんでしたが、メシアンは上記5つの楽曲のほかに3曲を新たに加えて、タイトルも「世の終わりのための四重奏曲」とすることに決定。作曲完成後、公式初演に向けてのリハーサルをおこないます。


1941年

●1月15日、第8A俘虜収容所第27兵舎で、『世の終わりのための四重奏曲』が初演。メンバーはメシアン(ピアノ)、ジャン・ル・ブレール(ヴァイオリン)、エチエンヌ・パスキエ(チェロ)、アンリ・アコカ(クラリネット)の4名。劇場風なバラックでの上演で、ビーラス司令官やブリュール大尉などの職員と俘虜4百名が鑑賞。


●2月10日、メシアン、エチエンヌ・パスキエ、アコカ、ル・ブレールの解放が決定。本国送還は医療関係者優先で、さらに彼らが音楽家でもあるということが配慮されたものです。これはメシアンについては、実際にサラルブの病院で看護兵だったので問題無かったのですが、ほかの3名は看護兵の経験が無かったため、ブリュール大尉が書類に虚偽の情報を記入し、ビーラス司令官が署名することで実現。
●2月16日、メシアンとエチエンヌ・パスキエ、収容所からトラックで駅まで移送され、ゲルリッツから鉄道でフランス送還を開始。クラリネットのアンリ・アコカは、トラックに乗りこんだところをユダヤ系であることを理由に降ろされて連れ戻され、ブルターニュの俘虜収容所に移送。また、ル・ブレールはなぜかこのときにの移送に現れず、8か月後に収容所から仲間2人と脱走。しかし3日後にドイツ軍に捕らえられて連れ戻されています。
●2月18日、メシアンとエチエンヌ・パスキエ、リヨン近郊のサトネ収容所に到着。規定により3週間の検疫隔離。
◆3月11日、ルーズヴェルト大統領の提案による「レンドリース法(武器貸与法)」が議会により承認。これは枢軸国と戦う国を支援するという名目こそあったものの、実際には世界大恐慌でダメージを受けたアメリカ経済を復興させるための「経済政策」でした。
 あまり成果の出なかったルーズヴェルトの「ニュー・ディール政策」に較べて、「利益率がきわめて高い」という特徴を持った「武器」を経済政策に利用したことで劇的な効果をあげることができ、アメリカの軍需産業を巨大化させ、800万人を超えていた失業者問題も解決、さらに戦後には、イギリスに314億ドル、ソ連に113億ドル、フランスに32億ドル、中国に16億ドルという巨額の「リース料」も発生(現在換算では十数倍の規模)。武器のコストは実際には安いので、「リース料」の一部減免も可能となり、たとえばイギリスに対して200億ドル免除するなどして大きな「貸し」をつくることもできたというウルトラCの法案でした。
 これにより、戦後のアメリカは、「武器」を各国政府に販売する方向に大きく舵を切り、世界の軍隊にアメリカ製の武器が使われるようになっていきます。
●4月、アンリ・アコカはブルターニュの収容所から再びゲルリッツに移送される途中に列車から飛び降りて脱走、怪我をするものの医師に助けられ、なんとかフランスの「自由地域」まで逃亡。
◆6月、ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻。「バルバロッサ作戦」開始。
◆7月、イギリス空軍とドイツ空軍の戦い「バトル・オブ・ブリテン」開始。
●12月、ジャン・ル・ブレール(『世の終わりのための四重奏曲』初演メンバー)が、ドイツ国防軍ブリュール大尉の手配した偽の「看護兵」の書類によって解放。戦後、ル・ブレールはヴァイオリン奏者から役者に転向、ジャン・ラニエという名前で活躍します。
◆12月、アメリカ、第2次大戦に参戦。
●12月、パスキエ・トリオ、モーツァルト:アダージョ3曲、J.S.バッハ:フーガ、W.F.バッハ:フーガを録音(Les Discophiles Français)。

1942年

●4月、ジャン&ピエール・パスキエ、モーツァルト:二重奏曲 K.423(4枚組)を録音(Les Discophiles Français)。
◆5月21日、アメリカ政府、ド・ゴールの「自由フランス」をフランスの抵抗を代表する機関として承認。レンドリース法(武器貸与法)の対象に認定。
◆7月21日、「自由フランス」が「戦うフランス」と改称。
●12月、ジャン・パスキエ、J.S.バッハ:ヴァイオリン協奏曲 BWV1041(セブロン指揮)を録音。(Lumen)
●12月、エチエンヌ・パスキエ、C.P.E.バッハ:チェロ協奏曲第3番(セブロン指揮)を録音。(Lumen)
●12月、パスキエ・トリオ、ハイドン:弦楽三重奏曲 Op.32を録音。(Anthologie Sonore)



1943年

●1月、ジャン・パスキエ、ジョルジュ・ミゴー:フルートとヴァイオリンのための前奏曲(クリュネル)を録音。(Lumen)
●3月、パスキエ・トリオ、ボッケリーニ:協奏的三重奏曲第6番を録音。(Anthologie Sonore)
●ピエール・パスキエ(ヴィオラ)、パリ音楽院で室内楽の教授に就任(1973年まで)。
●12月10日、ブリュノ・パスキエ誕生。父はピエール・パスキエ(ヴィオラ)。のちにヴィオラ奏者になり、「新パスキエ弦楽三重奏団」を結成。

1944年

◆6月3日、ド・ゴールを主席とする「フランス共和国臨時政府」が、北アフリカのフランス植民地アルジェで発足。しかし承認する国はありませんでした。ド・ゴールの2人のライヴァルのうち1人が暗殺され、もう1人も暗殺を懸念して警戒していたという状況(後に暗殺未遂)がアメリカに知られていたためで、ルーズヴェルト大統領が、ド・ゴールをファシスト的だとして、実際には信用していなかったからでもあります。なお、ド・ゴールのフランス復帰はパリ解放後、安全が確保されてからのことでした。

1945年

●1月、ピエール・パスキエ、ヘンデル:アダージョとフィオッコ:楽章(パリ交響楽団)を録音。(Lumen)
●10月12日、レジス・パスキエ誕生。父はピエール・パスキエ(ヴィオラ)。のちにヴァイオリン奏者になり、「新パスキエ弦楽三重奏団」を結成。

1946年

●4月、パスキエ・トリオ、モーツァルト:フルート四重奏曲 K.285(ランパル)(3枚組)を録音。(boîte à musique)
●5月、パスキエ・トリオ、シュミット:弦楽三重奏曲 Op.105(CD13)を録音。(Pathé)
◆10月、フランス共和国第四共和政発足。
◆12月19日、第1次インドシナ戦争勃発。フランス領インドシナ(現在のベトナム、カンボジア、ラオス)で、1954年8月まで継続。フランス側死者約7万6千人、インドシナ側死者30万人以上。

1947年

●パスキエ・トリオ、アメリカ・ツアー実施。
◆7月、アメリカ国務長官ジョージ・マーシャルが、ヨーロッパ経済の復興のための援助計画「マーシャル・プラン」を発表。翌年から1951年6月まで運用され、金額は総額100億ドル以上。ただし使途は限定され、主にアメリカ企業の機械や食料の購入が対象となるということで、アメリカ企業の国際化を支援するための経済政策と見ることもできます。また、これに対抗する経済政策としてソ連が「モロトフ・プラン」を立ち上げ、冷戦状態が大幅に進行。チェコスロヴァキアの政変も招くなどしていました。
●9〜10月、パスキエ・トリオ、モーツァルト:アダージョとロンド K.617を録音(L'Oiseau-Lyre)。

1948年

●7月、パスキエ・トリオ、ザルツブルク音楽祭に出演。

1949年

●パスキエ・トリオ、アメリカ・ツアー実施。
●6月、パスキエ・トリオ、ベートーヴェン:弦楽三重奏曲第4番(3枚組)を録音。(Anthologie Sonore)
●7月、パスキエ・トリオ、ザルツブルク音楽祭に出演。
◆9月、イギリス政府、ポンドを対ドルで約30%切り下げ。アメリカの原料輸入の大幅削減で生じた過度のポンド売りにより、外国為替市場が閉鎖に追い込まれたことが原因。これにより多くの国が自国通貨の切り下げに踏み切ります。
・約60%:アイスランド
・約53%:オーストリア
・約47%:アルゼンチン
・約36%:南アフリカ
・約30%:デンマーク、ノルウェー、アイルランド、オランダ、スウェーデン、フィンランド、イラク、エジプト、ヨルダン、ローデシア、インド、ビルマ、セイロン、シンガポール、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランド、
・約27%:香港
・約22%:フランス
・約21%:西ドイツ
・約20%:タイ
・約13%:ポルトガル、ルクセンブルク、ベルギー
・約9%:カナダ
・約8%:イタリア
・約7%:イスラエル

1950年

●パスキエ・トリオ、アメリカ・ツアー実施。

1951年

●パスキエ・トリオ、モーツァルト:ディヴェルティメントK.563、4つの前奏曲とフーガを録音(Les Discophiles Français)。
●パスキエ・トリオ、アメリカ・ツアー実施。

1952年

●ピエールとジャンのパスキエ姉弟、「フォンテーヌブロー・アメリカ音楽院」の教授に就任。

1953年


1954年

◆5月、フランス軍、インドシナ戦争のディエンビエンフーの戦いでベトナム民主共和国人民軍に敗北。
◆5月、フランス、1887年から植民地としていたインドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)から撤退。インドシナの面積は約74万㎢とフランスより約10万㎢も広く、天然資源や農産物の交易から得られた収入は巨額。フランス国民の関心も高く、1900年のパリ万博でも「植民地ブース」がつくられていましたし、マルセイユでも1906年と1922年の2度に渡って、大規模な「植民地博覧会」を開催して成功してもいました。
◆11月、アルジェリア独立戦争勃発。1962年まで長期化した戦争で、殺されたアルジェリア独立側の兵士は約14万人、殺されたフランス側のフランス人兵士は約2万5千人、殺されたフランス側アルジェリア人兵士は約5万人、そしてアルジェリアに暮らすフランス民間人約6千人と、アルジェリア民間人70万人以上が虐殺されたと言われています。アフリカ最大級の面積を持つアルジェリアは資源も豊富でした。



1955年

◆5月、パリ協定により、西ドイツ主権回復&再軍備開始。
◆5月、ソ連主導によりワルシャワ条約機構発足。
●ジャン・パスキエ、研究所の形で演習本を出版。
◆フランス領モロッコで暴動発生。
◆フランス領チュニジアで暴動発生。
●パスキエ・トリオ、ラヴェルの弦楽三重奏曲を録音(Erato)。
●ピエール&エチエンヌ・パスキエ、ランパル、ルーセルのフルート、ヴィオラ、チェロのための三重奏曲を録音(Erato)。
●12月、パスキエ・トリオ、マレ:組曲第3番、ボワモルティエ:トリオ・ソナタを録音(Erato)。


1956年

●2月、パスキエ・トリオ、フォーレ:ピアノ四重奏曲第1番を録音(Erato)。
●6月、ジャン&エチエンヌ・パスキエ、メシアン:『世の終わりのための四重奏曲』を録音(Le Club Français Du Disque)。
●パスキエ・トリオ、アメリカ・ツアー実施。
◆西ドイツで一般兵役義務法制定。
◆フランスで緊急事態法成立。予備役も動員し、25万人の軍勢でアルジェリアに越境して大殺戮を実施。
◆10月29日、スエズ戦争勃発。フランス、イギリス、イスラエルが、エジプト国内にあるスエズ運河のエジプト国有化に反対し、空母5隻と戦艦1隻からなる英仏艦隊によるエジプト領内空爆と艦砲射撃、上陸作戦を展開。フランスとイギリスから攻撃を依頼されたイスラエルも17万5千人という大規模な軍勢でエジプト領内に侵攻し、多くのエジプト人を殺害。エジプト側のイスラエル領への攻撃はハイファへの艦砲射撃くらいで、その軍艦もすぐに破壊・曳航されています。
 しかし開戦から11日目には、アメリカのアイゼンハワー大統領が、侵略3国に対して撤退を要請したことで停戦が決定。
 エジプト軍は兵器をチェコスロヴァキアから購入しており(下の画像はチェコスロヴァキアが生産したソ連自走砲SU-100)、チェコスロヴァキアの背後にはソ連が存在し、すでに強硬派のブルガーニン首相は、侵略3国に対してソ連がミサイル攻撃をおこなうと主張していたため、それを抑えるために、アイゼンハワーがエジプトへの支援にまわった結果でもあります。
 エジプト政府は国内にあった英仏の銀行を国有化し、ヨーロッパ利権を排除することにも成功。一方、イギリスはイーデン首相が辞職し、5億ポンドの損失が原因でポンドも下落という悲惨な事態に陥りますが、フランスはイスラエルへの武器販売という強力な経済プランが軌道に乗ったという面もあり、以後、ウーラガン、ミステールに続いてミラージュ戦闘機・戦闘爆撃機が、中東での多くの人命と引き換えにフランスに多額の利益をもたらすことにも繋がっていきます。
 なお、イスラエルがエジプトの制圧地域から撤退を始めたのは、なぜか翌年の3月中旬と4カ月も先のことで、スエズ運河の再開はその直後の4月ということになり、半年近く欧州関連の海上輸送に支障のある状態が続いていたことになります。
 その間、アメリカが国防予備船隊から、223隻の貨物船と29隻のタンカーを各方面にリースし、そこでも大きな利益を上げていました。



1957年

●5月、パスキエ・トリオ、フォーレ:ピアノ四重奏曲第2番を録音(Erato)。

1958年

◆10月、フランス共和国第五共和政成立。ド・ゴールが大統領に就任。

1959年

●パスキエ・トリオ、アメリカ・ツアー実施。
●8〜9月、パスキエ・トリオ、南アフリカ公演。

1960年

◆2月、フランス政府、フランス領アルジェリアで核実験を開始。以後、アルジェリア独立までに計17回の原爆実験が実施されます。また、フランス領ポリネシアでは、1996年までに原爆、強化型原爆に加え、超強力な水爆も含めて計193回の核実験を実施。アメリカ・ソ連に次ぐ核兵器大国として、周囲に睨みを利かせます。

1961年

◆4月、フランス軍退役将軍たちによる「アルジェ一揆」をド・ゴールが鎮圧。ド・ゴールの民族自決政策に反対する退役将軍たちが軍事政権樹立のために起こした反乱でした。ド・ゴールは長引く戦争や核兵器開発で膨らむ財政赤字対策として民族自決政策を打ち出し、世界的な植民地独立の流れに沿う道を選びます。
●パスキエ・トリオ、アメリカ・ツアー実施。ランパルも同行。約3か月の長期ツアー。
◆10月17日、パリ虐殺。パリ在住のアルジェリア人を対象に発令された外出禁止令に抗議する3万人のアルジェリア人による非武装デモを、1万人の警官隊が攻撃。銃撃や殴打などにより約200人を殺害したといわれており、セーヌ川に浮かぶ多くの遺体が目撃されています。発砲を許可したモーリス・パポン警視総監は、第2次大戦中にはドイツ政府に協力してユダヤ人1,690人を引き渡したり、レジスタンス活動家や共産主義者の情報をドイツに提供したとされていますが、戦後1948年にはシュヴァリエ勲章を授与、1954年にはオフィシエ勲章を授与されたのちパリ警視総監に就任し、その7年後には国民議会議員となり、1978年には予算担当大臣も務めた人物。2007年に96歳で死去。
 コルトーのように占領中に音楽家として活動しただけで厳罰に処せられる者もいれば、膨大な数の人間を死に追いやってもお咎めなしで、叙勲までされ、さらに大臣にもなれる人もいるという不公平さがよく示された事件でもありました。



1962年

◆8月22日、ド・ゴール暗殺未遂。パリ郊外で乗車中に機関銃で撃たれるものの頑丈なシトロエンDSのおかげで大統領夫妻らはみな無傷。暗殺を指揮したフランス空軍中佐で技術者のバスティアン=ティリーは翌年3月に処刑。



1963年


1964年

●4月、パスキエ・トリオ、モーツァルト:ディヴェルティメントK.563を録音(Erato)。

1965年

●パスキエ・トリオ、アメリカ・ツアー実施。

1966年


1967年

◆11月、イギリス政府、ポンドを対ドルで約14%切り下げ。

1968年


1969年


1970年


1971年

◆12月、スミソニアン体制によりドルの切り下げ実施(対円で約14%)。1973年2月までドル固定相場制が継続し、以後は変動相場制に移行、現在に至っています。

1972年


1973年

●ピエール・パスキエ(ヴィオラ)、30年間務めたパリ音楽院の室内楽教授を退任。

1974年


1975年


1976年


1977年


1978年


1979年


1980年


1981年


1982年


1983年


1984年


1985年


1986年

●3月5日、ピエール・パスキエ、パリ近郊のヌイイ=シュル=セーヌで死去。

1987年


1988年


1989年


1990年


1991年


1992年

●ジャン・パスキエ、死去。

1993年


1994年


1995年


1996年


1997年

●12月14日、エチエンヌ・パスキエ、死去。


収録情報


CD1
モーツァルト
ディヴェルティメント変ホ長調 KV 563
録音:1951年

6つの前奏曲とフーガ K404aから
前奏曲 第1番&フーガ 第1番 (after BWV 853)
前奏曲 第2番&フーガ 第2番 (after BWV 883)
前奏曲 第3番&フーガ 第3番 (after BWV 882)
前奏曲 第6番&フーガ 第6番 (after W.F. Bach's Fugue No. 8)
録音:1951年

CD2
ルーセル
セレナーデ Op. 30
ジャン・ピエール・ランパル (フルート), リリー・ラスキーヌ (ハープ), パスキエ・トリオ
録音:1955年2月

フルート三重奏曲 ヘ長調 Op. 40
ジャン・ピエール・ランパル (フルート), エチエンヌ・パスキエ (チェロ)
録音:1950年代

弦楽三重奏曲 イ短調 Op. 58
録音:1950年代

CD3
ラヴェル:ピアノ三重奏曲 イ短調 Op. 70-1
リュセット・デカーヴ (ピアノ), ジャン・パスキエ (ヴァイオリン), エチエンヌ・パスキエ (チェロ)
録音:1950年代

モーツァルト:アダージョとロンド ハ長調 KV 617
リリー・クラウス (celesta), ジャン・ピエール・ランパル (フルート), ピエール・ピエルロ (オーボエ)
ピエール・パスキエ (ヴィオラ), エチエンヌ・パスキエ (チェロ)
録音:1955年

ドビュッシー:フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ L. 137
ジャン・ピエール・ランパル (フルート), ピエール・ピエルロ (オーボエ),オデット・ル・ダンチュ (ハープ)
録音:1955年1月

CD4
フォーレ
ピアノ四重奏曲 第1番 ハ短調 Op. 15
マルグリット・ロン(ピアノ)
録音:1956年2月13日

ピアノ四重奏曲 第2番 ト短調 Op. 45
ジャン・ドワイアン (ピアノ)
録音:1957年

CD5
フォーレ:ピアノ三重奏曲 ニ短調 Op. 120
ジャン・ドワイアン (ピアノ), ジャン・パスキエ (ヴァイオリン), エチエンヌ・パスキエ (チェロ)
録音:1957年

ハイドン:弦楽三重奏曲 Op.32
録音:1951年

モーツァルト:ピアノ三重奏曲 第4番 ホ長調 KV 542
ロベール・ヴェイロン=ラクロワ (ピアノ), ジャン・パスキエ (ヴァイオリン), エチエンヌ・パスキエ (チェロ)
録音:1950年代

CD6
モーツァルト
ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 KV 478
ロベール・ヴェイロン=ラクロワ (ピアノ), パスキエ・トリオ
録音:1950年代

ピアノ四重奏曲 第2番 変ホ長調 KV 493
ロベール・ヴェイロン=ラクロワ (ピアノ), パスキエ・トリオ
録音:1950年代

ピアノ三重奏曲 ニ短調 K. 442〜第2楽章
ロベール・ヴェイロン=ラクロワ (ピアノ), ジャン・パスキエ (ヴァイオリン), エチエンヌ・パスキエ (チェロ)

録音:1950年代

CD7
モーツァルト
フルート四重奏曲 第1番 ニ長調 KV 285
フルート四重奏曲 第2番 ト長調 KV 285a
フルート四重奏曲 第3番 ハ長調 KV 285b
フルート四重奏曲 第4番 イ長調 KV 298
ジャン・ピエール・ランパル (フルート), パスキエ・トリオ

オーボエ四重奏曲 ヘ長調 K. 370
ピエール・ピエルロ (オーボエ), パスキエ・トリオ

録音:1950年代

CD8
ベートーヴェン
弦楽三重奏曲 第1番 変ホ長調 Op. 3
弦楽三重奏のためのセレナーデ ニ長調 Op. 8
録音:1950年代

CD9
ベートーヴェン
弦楽三重奏曲 ト長調 Op. 9-1
弦楽三重奏曲 ニ長調 Op. 9-2
弦楽三重奏曲 ハ短調 Op. 9-3
録音:1950年代

CD10
ジャン・リヴィエ:弦楽三重奏曲
シェーンベルク:弦楽三重奏曲 op.45
録音:1957年10月30日

シュミット:偶然 Op.96 - ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための室内協奏曲
モニク・メルシエ (ピアノ)
録音:1959年5月30日

CD11
モーツァルト:フルート四重奏曲 第1番 ニ長調 KV 285
録音:1956年11月18日

ベートーヴェン:弦楽三重奏曲 ハ短調 Op. 9-3
録音:1961年12月1日

フォーレ:ピアノ四重奏曲 第1番 ハ短調 Op. 15
ジャン・ピエール・ランパル (フルート), モニク・メルシエ (ピアノ)
録音:1962年11月21日

CD12
ジャン・ロジェ=デュカス:ピアノ四重奏曲
ジャン・ドワイアン (ピアノ)
録音:1955年2月12日

モーリス・ジョベール:イタリア風三重奏曲 Op. 54
ジャン・ドワイアン (ピアノ)
録音:1960年6月14日

CD13
モーツァルト
フルート四重奏曲 第1番 ニ長調 KV 285
フルート四重奏曲 第2番 ト長調 KV 285a
フルート四重奏曲 第3番 ハ長調 KV 285b
フルート四重奏曲 第4番 イ長調 KV 298
ジャン・ピエール・ランパル (フルート),
録音:1960年代, stereo

CD14
モーツァルト
ディヴェルティメント 変ホ長調 KV 563
録音:1960年代

ガブリエル・ピエルネ (1863-1937)
弦楽三重奏のための3つの小品から
第1番 「パスキエ兄弟の名前に捧げる」
録音:1953年

CD15
メシアン:時の終わりのための四重奏曲
アンドレ・ヴァセリエ(クラリネット), オリヴィエ・メシアン(ピアノ), ジャン・パスキエ (ヴァイオリン), エチエンヌ・パスキエ (チェロ)
録音:1956年6月

ジョゼフ・ボダン・ド・ボワモルティエ(1689-1755)
トリオ・ソナタ ニ長調, Op. 50 No. 6
ローランス・ブーレイ(ハープシコード) , ジャン・パスキエ (ヴァイオリン), ), エチエンヌ・パスキエ (チェロ)
録音:1952年12月

CD16
モーツァルト:ディヴェルティメント変ホ長調 KV 563
録音:1935年6月

フロラン・シュミット:弦楽三重奏曲 ホ短調 Op.105
録音:1946年5月21&1946年12月3日

パスキエ・トリオ
[ジャン・パスキエ (ヴァイオリン), ピエール・パスキエ (ヴィオラ), エチエンヌ・パスキエ (チェロ)]




商品説明:年表シリーズ

指揮者
アルヘンタ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クラウス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スラトキン(父)
ターリヒ
チェリビダッケ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベイヌム
メルツェンドルファー
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
ヴェデルニコフ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
ソフロニツキー
タマルキナ
タリアフェロ
ティッサン=ヴァランタン
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
ノヴァエス
ハスキル
ユージナ
ランドフスカ
ロン

弦楽器
カサド
コーガン
シュタルケル
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ

弦楽四重奏団
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
伝説のフランスの弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
テスタメント国内盤

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