本サイトはJavaScriptを有効にしてご覧ください。
ゲスト 様
様
プラチナ会員
ゴールド会員
ブロンズ会員
レギュラー会員
本・CD・DVD・ブルーレイ・グッズの通販はHMV&BOOKS online
詳細検索はこちら
トップ > My ページ > 村井 翔 さんのレビュー一覧
前のページへ
次のページへ
検索結果:582件中91件から105件まで表示
%%header%%
%%message%%
1人の方が、このレビューに「共感」しています。 2019/06/22
第14番以降の6曲から始まった、このコンビによるモーツァルト/ピアノ協奏曲シリーズもいよいよ20番台に突入。全集になるかどうかは分からないが、第22番以降の6曲は間違いなく録音されるだろう。モダン・ピアノによる録音だが、ピリオド・スタイルは十分に踏まえられている。第21番では両端楽章でフリードリヒ・グルダのカデンツァを用いているが、これが実に素敵。緩徐楽章の旋律装飾はきわめて大胆だが、ここでもグルダのアイデアが踏襲されていることが分かる(アバドとの録音ではなく1962年録音のスワロフスキー指揮の方。ただし、この盤でグルダがやっているように、ピアノが通奏低音を担当してオケ・パートに加わることはない)。『ドン・ジョヴァンニ』序曲は演奏会用の結尾をつけた版の方。最後の第20番もベートーヴェン作のカデンツァの表現力などさすがだが、バヴゼはそんなに強烈な個性を刻印するタイプのピアニストではないので、ドビュッシーでも初期の作品では端麗な造形と美しいタッチが魅力的だが、さすがに『前奏曲集』あたりになると、もう少し何か主張してほしいという不満が出てくる。第20番も模範的な演奏だが、オケの表出力ともども、少し前に出たチョ・ソンジン/ネゼ=セガン/ヨーロッパ室内管の方が一枚上手。けれども、リーフレットの中で第2楽章中間部の旋律について、バッハの『ヨハネ受難曲』の一節に由来し、シューマンのピアノ・ソナタ第3番終楽章でも繰り返されているとピアニストが言っているのは、なかなかの卓見。マンチェスター・カメラータは10型ぐらいの編成と思われるが対向配置ではなく、近年では珍しくチェロが指揮者の右横にいるのが面白い。
1人の方が、このレビューに「共感」しています。
このレビューに共感する
1人の方が、このレビューに「共感」しています。 2019/06/08
先のレビュアーによれば『悲愴』の第1、第3楽章のクライマックスでリミッターがかかるということだが、わが家の安物装置では全くそんな気配もない。アンプのスピーカー保護機構が働いているのではないか(わが家のアンプは無理な入力があると音量を下げたりせず、音そのものを遮断してしまうが)。もっとも、ネルソンスの録画としては必ずしも最上の出来とは言い難いが。モーツァルトは「昔懐かしい」ふっくらしたスタイルではなく、かなり鋭角的な、もちろんHIPを踏まえた演奏。第2楽章の「あえぐ」ような息苦しさなど出色だと思うが、ヴィブラート控えめとはいえ弦楽器の数が多すぎて、解釈が徹底しきれていない。トランペットもティンパニもないこの曲の場合、8型以下でも全く構わないと思うのだが、オケ側としては室内オケのように扱われては困るという事情もあるのだろう。ちなみに、クラリネットありの版で演奏。管楽器は全く倍管なし、リピートはすべて実施。 『悲愴』は両端楽章がかなり遅いが、バーンスタイン(DG録音)などに比べれば、形式の崩れはほとんどない。細部までこだわりまくりのクルレンツィスを聴いてしまうと、こういう超名曲を王道路線で征服するのは難しいなと痛感する。思い切って情念に身を委ねるか、解釈としてはどちらかに極端に振れてほしいところ。ゲヴァントハウスとの録画では何といってもブルックナー7番が圧巻だったし(これも遠からずディスク化されるのではないか)、同じチャイコフスキーでも来日公演で振った第5番がチャイコフスキー流の感傷を残しつつも、きわめてマッシヴかつ堅牢(つまりバーンスタインとは真反対)な解釈で断然、印象的だった。
0人の方が、このレビューに「共感」しています。 2019/06/07
最初に演奏されたのは昨年が生誕百周年だったツィンマーマンのトランペット協奏曲。1950年代の前衛音楽とジャズ風の曲調をミックスした音楽で単一楽章、15分ほどの曲。黒人霊歌「誰も知らない私の悩み」をパラフレーズした作品でもあるので、マーラー2番の前に演奏するのにふさわしい。世界中でこの曲を吹いているハーデンベルガーのソロも堂に入ったもの。マーラーの2番は全5楽章で演奏時間90分を超える、遅いテンポで細密に描いた演奏。第1楽章展開部真ん中のゲネラルパウゼの長いこと、その後のコントラバスに始まる葬送行進のもったいぶった入りなど、やたら「巨匠風」な解釈は嫌いな人には嫌われそうだ。けれども、スケルツォの緩急の付け方など、ウィーン・フィルの流儀に合わせて「なだらか」になりすぎた感はあるものの、マーラーのなかでは現在のネルソンスのスタイルに最も合った曲であるのは確か(3番もたぶん良いだろう)。バイエルン放送合唱団の神経の行き届いた細やかな歌唱もお見事。12月のベルリン・フィル定期で歌ったライプツィヒ放送合唱団と互角の勝負だ。目下、ベートーヴェン交響曲全集を録音中のウィーン・フィルとも息ぴったり。ティーレマンと並んで、最もウィーン・フィルに好かれそうな指揮者であるのは間違いない。ちなみに、カメラワークはとても細かく、アップを多用していて指揮者の映像も意外に少ない(近年のネルソンスのアクションが以前よりは抑制気味なせいか)。でも祝祭大劇場の客席からは絶対にこういう角度では見られないので、これもまた面白い。
0人の方が、このレビューに「共感」しています。
0人の方が、このレビューに「共感」しています。 2019/06/06
近年の在京オケによるマーラー第9では2019年2月のチョン・ミョンフン/東フィルが圧倒的な名演だったが、これはそれに次ぐ出来。カンブルラン時代の読響ではマーラー1、5、6、7、9番を聴かせてもらったが、6番とこの9番が断然良かった。最近のカンブルランの常で、余裕のあるテンポをとるので、第3楽章の狂騒はだいぶ後退しているが、逆にこの楽章最後のストレッタでも音がダンゴ状態にならず、音楽の構造を明晰に聞き取れるのが、この指揮者の強み。第1楽章展開部末尾のクライマックスでもほとんどテンポを上げないが、トロンポーンの暴力的な強奏から始まる序奏素材の回帰はそれゆえ一段と冷徹、無慈悲だ。終楽章も陰々滅々たる「滅び」の音楽には全く聴こえず、むしろ明るい「新生」の音楽のように響くのは、演奏のクール・ビューティーゆえであろう。すなわちシェーンベルク以下、20世紀音楽の側から振り返ったマーラーで、過去の録音を引き合いに出せばジュリーニ/シカゴやブーレーズ/シカゴに近いアプローチだが、とりわけ後者寄りと言えようか。 読響の演奏は輝かしく申し分ない。特にこの日は指揮者の指示によるのだろう、随所で通常の声部バランス以上の強奏を披露していたホルン・セクションには大拍手。もちろんドゥダメル/ロサンゼルス・フィルなどを聴くと「上には上がある」ことを思い知らされるが、彼らの演奏はあまりにスムーズで、マーラーがこの曲に盛った新機軸とソナタ形式という古い革袋が衝突して生ずる「きしみ」が聴こえなくなるという贅沢な不満もなきにしもあらず。カンブルランは逆に「きしみ」をはっきり聴かせるように振っていたと思う。望むらくば、当日の休憩前に演奏された20分ちょっとのアイヴズ『ニューイングランドの三つの場所』が一緒にCD化されれば、なお良かった。マーラー第9に対するカンブルランの接近の方向を端的に示す秀逸なプログラミングだったので。なお、リーフレットに載った松浦一生氏の曲目解説がきわめて優れた力作であることを付記しておこう。
2人の方が、このレビューに「共感」しています。 2019/06/01
エベーヌ四重奏団の元ヴィオラ奏者、マチュー・ヘルツォークが率いる新しい室内オケのデビュー録音。弦は10/8/6/4/3の編成、管楽器はすべて楽譜の指定通り。楽器はモダンだがピリオド奏法、ティンパニは明らかにバロック・ティンパニの響きがする。提示部反復はすべて実行するが、展開部〜再現部のリピートは一切行わない。ピリオド楽器オケと現代楽器アンサンブルの「いいとこどり」狙いと言えるが、彼らの特徴は名前の通り、演奏がきわめてアパッショナート(情熱的)なこと。モーツァルトの三大交響曲はいわば時代を超越した作品であり、実際にはモーツァルトの死後に書かれたハイドン最後のロンドン(ザロモン)交響曲群を追い抜いてベートーヴェンに直結していると指揮者はライナーノートで述べているが、彼らの演奏も、18世紀の様式を踏まえつつも、学問的な考証にはとらわれない。全体にテンポが速いのはHIP以後のスタイル共通だが、彼らは三曲ともメヌエットが速く、リズムのビートが強烈。アーノンクールのように主部とトリオでテンポの落差をつけることもない。優雅な宮廷舞踏会というより、もはやベートーヴェンのスケルツォ、いやロック・ミュージックの乗りだ。『ジュピター』の両端楽章は特に限度ぎりぎりの速さだが(9:45と7:31、前述の通り終楽章後半のリピートはなし)、逆に第2楽章はかなり遅く、歌い口はロマンティックですらある。録音の録り方は各楽器をクローズアップするタイプのものではなく、ホールトーン重視だが、金管楽器やティンパニは十分に雄弁に響く。サヴァールの最新録音を聴いて、ああ彼も老いてしまったなとがっかりしたが、こちらは元気溌剌、きわめて意気軒昂な演奏。
2人の方が、このレビューに「共感」しています。
5人の方が、このレビューに「共感」しています。 2019/05/26
話題の女性指揮者、ミルガ・グラジニーテ=ティーラの(協奏曲の伴奏を除けば)初録音。イエロー・レーベルからのデビューとなったが、彼の「白鳥の歌」と言うべき重要作ながらめぼしい録音がなかったヴァインベルク(今年が生誕百周年でもある)の交響曲第21番『カディッシュ』が選ばれており、慎重に準備されたデビューという印象を受ける。この曲の最初のCDが出た時、私は曲自体も「芸がなさ過ぎる」という旨の批判を書いたが、この演奏は曲の「芸のなさ」を完全に逆手にとっている。ほとんどポリフォニーもない、コントラスト付けのための速い部分を除けば緩徐な楽想が延々と続く曲をきわめて繊細に、心を込めて歌っている。ちょうどアルヴォ・ペルトの音楽のようなアプローチ。こういうやり方で曲に近づくためには不可欠だったのだろう。バーミンガム市交響楽団にクレメラータ・バルティカが加わり、ギドン・クレーメルもヴァイオリンのソロ・パートを担当している。最終楽章のソプラノ・ソロ(歌詞のないヴォカリーズ)はリーフレットには指揮者自身の名がクレジットされているが、さすがにこれは間違いではないか。HMVの[収録情報]通り、ボーイソプラノとソプラノに分担させているように聴こえる。ショパン、マーラー、自作ほか多数の引用を含む交響曲。 一方、第21番の半世紀近く前の交響曲第2番は遥かに普通の新古典派の音楽だが、同じ弦楽のための交響曲でも名作第10番のようにはがっちり書かれておらず、そのナイーヴさがなかなか厄介な作品。こちらも大変美しい。
5人の方が、このレビューに「共感」しています。
2人の方が、このレビューに「共感」しています。 2019/05/11
これまで非常に見事だったこのコンビによるショスタコーヴィチ・シリーズだが、今回はやや不満の残る出来。第7番は前回のバーミンガム市響とのライヴを大変高く買っていたのだが、それに比べると全体にテンポが遅くなり、オケのヴィルトゥオジティもあって一段とグラマラスな印象。この曲の演奏にありがちな酷薄な感じがなく、常にヒューマンな感触があるのは一面ではプラスだが、この曲はやはり「非人間的な」面を持つ作品だと思うので、そういう部分がこの演奏では「おおらか」に過ぎる。第1楽章の「戦争の主題」の苛烈さ、あるいはパロディ性なども前回録音の方が的確であったように思うし、スケルツォ中間部、アダージョ中間部などのやたら好戦的な楽想も、もう少し煽ってほしい。第6番も第1楽章ラルゴは全く素晴らしい。この指揮者の緩徐楽章に対する適性が端的にうかがわれる。しかし、第2楽章以下ではもっとシャープさが欲しい。音楽が脂肪太り気味で「もっさり」し過ぎていると思う。かつてのムラヴィンスキー(1965年録音)もしくはゲルギエフ(マリインスキー・レーベルの再録音の方)が私の理想なのだが。
5人の方が、このレビューに「共感」しています。 2019/03/31
変ロ長調ソナタ第1楽章はモルト・モデラートとだけあって、テンポを変えろという指示は楽譜にはない。でも、第1主題のように動きの少ない歌謡主題から三十二分音符の連続するパッセージまであるわけだから、何かいじってみようと考えるのは演奏家の常。第2主題提示後の三十二分音符で加速、第二提示部と言うべき第1、第2主題の確保は速めのテンポのまま飛ばして、提示部の終わりでア・テンポに戻すというのがこの演奏の基本コンセプト。提示部反復(もちろんあり)や再現部でも同じことを繰り返しているし、展開部でもしばしばクレッシェンドとアッチェレランドが連動してテンポはよく動く。それ以外にも細かなルバートが随所にあり、第1主題は左手を効かせて「重く」弾くなど、音色も実に多彩だ。第2楽章両端部は前代未聞の超スローテンポ(14:32)、孤独な歩みに心が押しつぶされそうになるが、中間部ではテンポを上げて「希望の歌」が奏でられる。一転してスケルツォは妖精の踊りのように軽やか、トリオでは左手sfpの強調で全くユニークな響きを作る。そして名残り惜しげにいったんテンポを緩めてから最後のプレストに突入する終楽章に至るまで、隅々まで創意工夫にあふれた独創的な演奏にもかかわらず、少しも恣意性を感じさせない。即興曲 D899も一曲目(ハ短調)の重いテンポ、スタッカート気味の弾き方以下、すこぶる個性的。ちなみに、ライナーノートに寄せた彼女自身の文章も何とも素敵。この美貌に文才、ピアニストとしてのテクニック、天はいったい幾つの才能を彼女に与えたことやら。今年2月の来日中止で変ロ長調ソナタを含むリサイタルも流れてしまったのは痛恨事だったが、ヨーロッパでは演奏会に復帰しているようなので、来年4月にはぜひラフマニノフ第3協奏曲を弾きに日本に来てほしい。
7人の方が、このレビューに「共感」しています。 2019/03/09
ここ一年ほどの間に来日した三つのメジャー・オーケストラに同伴するなど、相変わらず大活躍のユジャだが、アルバムは三年ぶりとは意外。二年前の来日リサイタルでも『クライスレリアーナ』と『ハンマークラヴィーア・ソナタ』を軸にしたト短調/変ロ長調プログラムを弾いたが、ラフマニノフの(これだけは大変ポピュラーな)ト短調プレリュードで始めて、プロコフィエフの第8ソナタで締めるこのディスクもまた、いわばト短調/変ロ長調プログラム。音楽的に最も聴き応えがあるのはスクリャービンの第10ソナタ。彼女がスクリャービン好きであることは知っていたが、まさかいきなり第10番を弾いてくるとは思わなかった。「神秘主義」などという曖昧なものに頼らず、強靱な技巧で押し切ってしまった演奏だ。一方、最も技巧的な凄味を感じさせるのはリゲティの三つの練習曲。デビュー録音で弾いていた二曲とは違う曲を選んでいて、第3番、第9番、第1番を序破急風に並べているが、第1番「無秩序」の爆発力など圧巻だ。実際のリサイタルではここで大拍手になるはずだが、拍手は最後のプロコフィエフのあと以外、うまくカットされている。彼女はプロコの第7ソナタの終楽章をオハコにしていて、しばしばアンコールで弾いているから、第7番より規模は大きいが、やや穏やかな性格の第8番はもはや朝飯前。ちなみに毎度、議論になる彼女のステージ衣装だが、このジャケットのものなど、とても良いではないか(ミュンヘン・フィル名古屋公演ではピンヒールを裾にひっかけてコケかけたけど)。私は衣装の方も断固、支持したいな。
7人の方が、このレビューに「共感」しています。
6人の方が、このレビューに「共感」しています。 2019/02/26
ナマを聴いて、やっぱりこのコンビ「本物」だなという確信が持てた。コパチン姐ちゃんの爆演にも嬉々として付き合う彼らだが、一番凄味を感じたのは、彼ららしい極端なピアニッシモや対位声部の強調はあるものの、曲の造形としては全く崩れのないチャイ4。このマーラーも曲頭の低弦のスタッカートなど、目立つところにはしっかり「刻印」を付けてはいるが、全体としては至極まともな正攻法アプローチ。6番はある意味では「古典的」にがっちりと構成されてはいるとしても、やはり相当に「異形な」交響曲で60年代までの特にライヴでは形の崩れをはっきり示すような爆演が多かった。そこまでやらないスタジオ録音でもバーンスタイン/ニューヨーク・フィルやショルティ/シカゴなどは、きわめてテンションの高い名演だったが、その後はこの曲もオーケストラの通常レパートリーに組み込まれ、演奏もルーティン化していった。クルレンツィスがやろうとしたのは、もう一度スコアと向き合って、譜面の求めているところをちゃんと実行しようという、いわば王道の取り組み。終楽章の第1、第2ハンマー直後の弦楽器の激烈な動きなど、総譜に書いてある通りなのだが、こんなにしっかり弾かせようという指揮者は久しくいなかったのではないかな。その意味では、曲の形は少しも崩れていないのだが、演奏のスピリットとしては、やはり「爆演」だ。
6人の方が、このレビューに「共感」しています。
3人の方が、このレビューに「共感」しています。 2019/02/26
20年以上前、パウントニー演出の舞台を観て以来、ミラノ初演版が『蝶々夫人』最良の稿だと確信していたが、シャイー/スカラ座という最強の布陣によって録画されたのは感無量。この版に慣れてしまうと、通常版(ブレーシア版)は強引にカットされた音楽の「傷跡」が痛々しいほどだ。シャイーの指揮は、劇的な振幅という点ではパッパーノに一歩譲るかもしれないが、音楽のモダンな特質を丁寧に描き出している。三層構造の舞台にプロジェクション・マッピングを加えた演出はとてもデコラティヴで装飾的。舞台は現実の長崎ではなく、西洋人のオリエンタリズム幻想の中の日本であることを強調している。日本人が全員、白塗りかつ歌舞伎風メイクなのも西洋人の幻想の中の人物ということだろう。第2幕前半では蝶々さんが洋装、家の中の調度も洋風なのは新鮮だが、彼女自身が「アメリカの家」と言っているわけだから、これが正解とも言える。 マリア・ホセ・シーリの題名役は細やかな歌唱。日本人にも15歳にも見えないけど、前述の通り、演出がリアリズムを目指したものではないので、これで構わない。ただし、第2幕ではもう少しドラマティックな力も欲しく、ヤオ(コヴェントガーデン)、オポライス(メト)といった現代最高の蝶々さん役に比べると今一歩。この版では一段とダメ男ぶりが際立つイーメルも健闘。カーテンコールでの拍手が少ないのは、まさしく憎まれ役を的確に演じた証拠だ。脇役ではストロッパのスズキも悪くないが、カルロス・アルヴァレスがとりわけ素晴らしい。役名通りの凡庸な男(シャープレス)に見えないほど。
3人の方が、このレビューに「共感」しています。
2人の方が、このレビューに「共感」しています。 2019/01/25
典型的な現代化演出で、第1幕第1場の音楽が始まるまでの黙劇の場面がかなり長い(第2幕第4場の伏線になっているけど)、第1幕と第2幕の間にマリーの子供役が第3幕第1場でマリーが途中まで語る悲惨なメールヒェンの全文を朗読する(したがって子供役は幼児ではなく、十歳ぐらいの眼鏡の少年)など、同じワルリコフスキ演出の『ルル』ほどではないが、情報量豊富な上演。舞台はだだっ広いダンスホールのような所で、小道具の出し入れはあるものの基本的に場面転換なし、第2幕第1場と第3幕第1場は閉まった幕の前で演じられる。マリーが鼓手長の誘惑に屈する第1幕第5場では、本来ここにいないはずのヴォツェックが前の場の終わりの姿勢のまま舞台上にいるなど、なかなか面白い工夫もあるが、問題は演出の様々な仕掛けがドラマの集中力を高める方向に働かず、かえって散漫にしてしまっていること。 マルトマンの題名役は歌・演技ともに巧み。極貧の兵士というよりは気弱なインテリに見えるが、映像があって、それがすべて演出家の意図であることが分かるので、かつてのF=ディースカウのような違和感は逆に少ない。ウェストブレークのマリーもなかなかのハマリ役。こちらは最初から豊満な毒婦風だが、これも演出意図通りだろう。脇役陣ではウィラード・ホワイトの医者がさすがの貫祿。一方の大尉(ベークマン)はもっと性格的であって欲しい。マルク・アルブレヒトの指揮は手堅いが、欲を言えばもう少し表現主義的なシャープさが望まれる。
7人の方が、このレビューに「共感」しています。 2019/01/20
指揮者王国フィンランドからまた新たな逸材登場。協奏曲の伴奏指揮を除けば、これが事実上のデビュー録音だが、日本のファンには東響への二度の客演、タンペレ・フィルとの来日公演などで既におなじみの指揮者だ。緩急、強弱の起伏とも、きわめて大きく、全曲の隅々まで濃密なニュアンスをテンコ盛りにしているのがこの指揮者の特徴。早くも第1楽章第1主題の提示から、弦楽群に考えられないような濃厚な表情をつけている。再現部冒頭の大クライマックスへの盛り上げでは「しゃくる」ような独特なリズムを強調していて、指揮台上で踊るような彼の指揮が目に浮かぶ。一方、その後の第2主題では音楽が止まってしまいそうなほど遅くなる。その後、楽章終結に向けて、再度アッチェレランド。あまりにカロリー満載なので、少し解釈を整理した方がいいと思うところもあるが、若いんだから今は暴れまくっていいじゃないか。もちろん終楽章は彼のために書かれたかのような濃厚、強烈な音楽。『エン・サガ』も北欧的な清澄さとは無縁の、きわめてダイナミックで熱い音楽になっているが、それでも弦楽器の扱いが多彩なので、飽きさせない。彼の手にかかると、どのオケも実に朗々と、力いっぱい鳴るが、これはまぎれもない指揮者としての人徳。かのクルレンツィスを売り出したアルファ・レーベルがさっそく目をつけている。
1人の方が、このレビューに「共感」しています。 2019/01/19
第一次大戦に散ったバターワースとルディ・シュテファンの歌曲集、アメリカ亡命後のヴァイルが第二次大戦中に作ったホイットマンの詩による歌曲(最後のマーラーに通じる鼓手の歌や戦死者への哀悼歌が含まれている)、そして最後にマーラー『少年の魔法の角笛』からの戦争の歌三曲。英語の歌とドイツ語の歌を交互に配して、触れれば壊れてしまいそうに繊細な『シュロプシャーの若者』から激烈なマーラー歌曲へと、徐々に表現がエスカレートしてゆくようにプログラムが組まれている。『シュロプシャーの若者』はバリトンも好んで歌う曲集だが、私はやはりテノールが好き。ブリン・ターフェルのような悪達者な歌では、この曲集の素朴さを裏切ってしまうと思うからだ。ボストリッジももちろん達者な歌手で、キーワードの表情づけなどさすがだが、ターフェルのような野暮はやらない。第6曲「うちの馬は耕しているか」は死者と生者の対話で、死者は自分の愛した娘の行く末を尋ねているが、ボストリッジのセンシティヴな歌からは、彼が最も愛したのは対話相手の青年であることが痛いほど伝わってくる(詩人ハウスマンが同性愛者であったことは今では広く知られている)。この盤の白眉はもちろんマーラーの三曲で、両端の『死んだ鼓手』と『少年鼓手』では凄まじい表現主義を見せる。ボストリッジの歌では、表情の強さのあまり、歌が語りに近づいてしまうことがあるが、両曲のクライマックスではもはや歌ではなく、ナマな叫び声になってしまっている。当然、これでは「やり過ぎ」という非難も起こるだろう。オケ伴の生演奏(1月15日、大野和士/都響)では全く違う歌い方をしたので、この録音(パッパーノのピアノの表現力も絶大)に限っての表現と言えるが、彼がここまでやらざるをえない気持ちも良く了解できる。
3人の方が、このレビューに「共感」しています。 2018/12/31
ラトル最初のアルト版『大地の歌』録音はやはりコジェナーとの共演になりましたね。奥さんがこの曲を歌えるようになるまで待っていて、だからこれまでバリトン版でしか録音しなかったような気もする。そのコジェナーの歌が別格の素晴らしさ。アルトが歌うとこの曲に必須の寂寥感は申し分なく表出されるが、第2、第6楽章(もともと別の詩を接合したものなので前半、後半とも)は明らかに男性視点の詩なので、バリトンが歌えば自ずと現われてくる歌い手の心情も、いわば「ズボン役」的に歌い出してほしいところ。これはアルト歌手には意外に難しく、かつてのルートヴィヒ、現代ならば(ズボン役は得意だったはずの)フォン・オッター、(声としては理想的な)ラーションなどもクールに過ぎるきらいがあった。ところが、コジェナーはこの両面を完璧に満たしている。特に、友と別れて自然のなかに死に場所を求めようとする男が一人称で歌う終楽章終盤は、魂が震えるような絶唱。 一方のスケルトン、トリスタン役では男臭い不器用さがなかなか魅力的だが、三度目の録音のはずの『大地の歌』でも相変わらず小回りが効かない。カウフマンの超絶的なうまさを知ってしまうと(ただし全6楽章を一人で歌ってしまうのは反対。できるからと言って何でもやって良いものではない)、これでは不満だが、それでもこの曲のテノール・パートとしては上出来の部類か。ラトルの指揮はバーンスタインのように強引に歌手を引き回すものではなく、交響曲と歌曲の中間あたりで、とてもうまくバランスをとっている。金属打楽器やチェレスタを強調して華やかな響きをたてるティルソン・トーマスに対して、むしろ渋めの、枯れた音色で全体をまとめているのはそれなりの見識。
ページの先頭に戻る