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つよしくん さんのレビュー一覧 

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/09/09

    モーツァルトのホルン協奏曲は、不世出の名ホルン奏者と称されたデニス・ブレインをはじめとして、これまで海千山千の名ホルン奏者によって数多くの名演が成し遂げられてきた。そうした名うての錚々たるホルン奏者による名演奏の中でも、テクニックもさることながら、その音色の独特の魅力においては、本盤におさめられたペーター・ダムによる演奏は、最右翼に掲げられる名演奏と言えるのではないだろうか。シュターツカペレ・ドレスデンは、現在でも伝統ある独特の音色において一目置かれる存在であるが、とりわけ東西ドイツが統一される前の1980年代頃までは、いぶし銀の重心の低い独特の潤いのある音色がさらに際立っていたと言える。そうした、名奏者で構成されていたシュターツカペレ・ドレスデンの中でも、首席ホルン奏者であったペーター・ダムは、かかるシュターツカペレ・ドレスデンの魅力ある独特の音色を醸し出す代表的な存在であったとも言えるだろう。ペーター・ダムのホルンの音色は、同時代に活躍したジャーマンホルンを体現するベルリン・フィルの首席ホルン奏者であったゲルト・ザイフェルトによる、ドイツ風の重厚さを持ちつつも現代的なシャープさをも兼ね備えたホルンの音色とは違った、独特の潤いと温もりを有していたとも言えるところだ。モーツァルトのホルン協奏曲は、卓越したテクニックが必要であることはもちろんであるが、それ以上に愉悦性に富む楽想をいかに内容豊かに演奏していけるのかが鍵になるが、ペーター・ダムの場合は、持ち前のホルンの独特の魅力的な音色だけで演奏全体が実に内容豊かなものになっていると言っても過言ではあるまい。ブロムシュテット&シュターツカペレ・ドレスデンも、ペーター・ダムのホルン演奏の引き立て役に徹するとともに、モーツァルトの音楽に相応しい高貴にして優美な名演奏を展開していると評価したい。いずれにしても、本演奏は、ペーター・ダムの全盛時代のホルン演奏の魅力を満喫することが可能であるとともに、モーツァルトのホルン協奏曲のこれまでの様々な演奏の中でも、ホルンの音色の潤いに満ち溢れた独特の美しさにおいては最右翼に掲げてもいい名演と高く評価したいと考える。併録のロンドヘ長調も、ペーター・ダムのホルン演奏の素晴らしさを味わうことが可能な素晴らしい名演だ。なお、ペーター・ダムの魅力的なホルンの音色は、同時期のシュターツカペレ・ドレスデンの演奏、例えば、特にホルンが大活躍するブロムシュテット指揮によるブルックナーの交響曲第4番において聴くことが可能であるということを付記しておきたい。音質は、本リマスタリング盤もなかなかの良好な音質であると言えるが、かつて発売されていたハイブリッドSACD盤が鮮明な素晴らしい高音質であった。ペーター・ダムの息遣いまでが聴こえる鮮明さは殆ど驚異的であり、SACDの潜在能力をあらためて認識させるのに十分なものであったとも言えるところだ。もっとも、現在では、当該ハイブリッドSACD盤は入手困難であるが、ペーター・ダムによる稀代の名演をできるだけ良好な音質で味わいたいという方には、多少高額であっても、中古CD店などでハイブリッドSACD盤を購入されることを是非ともおすすめしておきたいと考える。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 6人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/09/09

    近年、我が国出身の若手女流ヴァイオリニストが世界各国の有名コンクールで優勝する等の華々しい活躍をしている。例えば、チャイコフスキー国際コンクールで優勝した諏訪内晶子(その後、神尾真由子が続く。)をはじめ、パガニーニ国際バイオリンコンクールにおいて史上最年少で優勝した庄司沙耶香など、雨後の竹の子のように数多くの若き才能あるヴァイオリニストが登場してきている。もっとも、彼女たちに共通しているのは、デビュー後数年間は華々しい活躍をするが、その後は影の薄い存在に甘んじてしまっているということだ。諏訪内晶子にしても、近年では相次ぐスキャンダルによって新譜すら殆ど発売されていない状況に陥っているし、庄司沙耶香にしても最近での活躍はあまり聞かれないところだ。神尾真由子なども今後どのように成長していくのかはわからないが、クラシック音楽の受容の歴史が浅い我が国の若手女流ヴァイオリニストが普遍的に世界で活躍するような土壌は、未だに肥沃なものとなっていないと言えるのではないだろうか。五嶋みどりは、特にコンクールなどでは取り立てた受賞歴はないが、14歳の時のバーンスタインとの伝説的なコンサートで一躍世界に知られる存在となったところだ。その後は、1990年代から2000年代の前半にかけて、世界の一流指揮者、オーケストラとともに各種の協奏曲等の録音を行うなど、華々しい活躍を行っていたが、最近では、他の若手女流ヴァイオリニストと同様に活動ややや低調になり、2006年のバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番の録音を最後に新譜が登場していない状況にある。新譜の数自体が激減している昨今のクラシック音楽界の現状に鑑みれば、致し方がない面もあろうかとも思うが、五嶋みどりにしても、かつての輝きを今後も維持できるのかどうか、大きな岐路に立っていると言っても過言ではあるまい。かつての伝説的なコンサートはもはや遠くに過ぎ去った過去の話であり、五嶋みどりが今後も円熟の大ヴァイオリニストとして末永く活躍していただくことをこの場を借りて祈念しておきたいと考える。それはさておき、本盤におさめられたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲とブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番は、五嶋みどりが輝いていた時代の素晴らしい名演だ。五嶋みどりのヴァイオリンは、もちろん技量においても何ら問題はないが、巧さを感じさせないところが素晴らしいと言える。要は、楽曲の美しさだけが聴き手に伝わってくるような演奏を心掛けていると言えるところであり、加えて、畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力が演奏全体に漲っているのが素晴らしい。実演ということも多分にあるとは思うが、五嶋みどりの体当たりとも言うべき渾身の、そして楽曲の美しさを際立たせた演奏は、我々聴き手の感動を誘うのに十分であり、このような力強い名演奏を聴いていると、あらためて五嶋みどりの卓越した才能を感じることが可能だ。一部の女流ヴァイオリニストにありがちな線の細さなどは微塵もなく、どこをとっても骨太のしっかりとした構えの大きい音楽が鳴り切っているのが見事である。このような堂々たる五嶋みどりのヴァイオリンを下支えしているのが、ヤンソンス&ベルリン・フィルによる名演奏である。ヤンソンスは、今や現代を代表する大指揮者の一人であるが、本演奏でも五嶋みどりのヴァイオリンをしっかりとサポートするとともに、ベルリン・フィルを巧みに統率して、重厚な装いの中にも両曲に込められた美しい旋律の数々を感動的に歌い抜いているのが素晴らしい。音質は2000年代前半のライヴ録音であり、従来盤でも十分に満足できるものであるが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は、そもそも次元の異なる極上の鮮明な高音質であった。現在では、当該SACD盤は入手難であるが、五嶋みどりの輝いていた時代の圧倒的な名演でもあり、可能であれば中古CD店などでSACD盤を入手されることをおすすめしておきたい。

    6人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/09/09

    本盤には、グリーグ、ビゼー、ムソルグスキーによる有名な管弦楽曲がおさめられているが、セルはこのようないわゆるポピュラー名曲の指揮でも抜群の巧さを発揮していると言える。本盤の演奏は1958〜1966年のセル&クリーヴランド管弦楽団の全盛時代のものである。それだけに、このコンビならではの「セルの楽器」とも称された一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを駆使した演奏の精緻さは健在であり、加えて、曖昧模糊とした箇所がいささかもない明晰な演奏に仕上がっていると言えるだろう。もっとも、クリーヴランド管弦楽団の抜群の機能性が発揮される反面で、ある種の冷たさというか技巧臭のようなものが感じられなくもないが、楽曲がいわゆるポピュラー名曲だけに演奏全体に瑕疵を与えるほどのものではないと言える。各楽曲の聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりも特筆すべきであり、これらの有名曲を指揮者の個性によって歪められることなく、音楽の素晴らしさそのものを味わうことができるという意味においては、オーケストラ演奏の抜群の巧さも相まって、最も安心しておすすめできる名演と評価することが可能であると考えられる(前述のように、各楽曲のオーケストラ曲としても魅力を全面に打ち出した演奏とも言えるところであり、各楽曲の民族色の描出という点においてはいささか弱いという点を指摘しておきたい。)。グリーグの「ペール・ギュント」組曲やビゼーの「アルルの女」組曲については、いずれも第2組曲を全曲ではなく終曲のみの録音とするとともに、特に「ぺール・ギュント」組曲については第1組曲の中に第2組曲の「ソルヴェイグの歌」を組み込むような構成にしているが、これはセルの独自の解釈によるものとして大変興味深いと言える。クリーヴランド管弦楽団の卓越した技量も特筆すべきものであり、とりわけムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」におけるブラスセクションのブリリアントな響きの美しさには抗し難い魅力に満ち溢れていると言える。音質は、今から約50年前のスタジオ録音だけに、従来盤ではいささか不満の残るものであったが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は圧倒的な高音質であり、セル&クリーヴランド管弦楽団による演奏の精緻さを味わうには望み得る最高のものであったと言える。数年前には、Blu-spec-CD盤も発売されたが、SACD盤には到底敵し得ないところだ。もっとも、当該SACD盤は現在では入手難であるが、仮に中古CD店で購入できるのであれば、多少高額でも是非とも購入をおすすめしておきたいと考える。

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     2012/09/08

    ラフマニノフの交響曲や管弦楽曲は、近年ではきわめて人気のある作品であると言える。そして、プレヴィンやアシュケナージ、マゼール、エド・デ・ワールト、デュトワ、ヤンソンスなど、様々な指揮者によって管弦楽曲等を含めた交響曲全集がいくつも誕生するに至っている。これらはいずれも素晴らしい名演であり、客観的な視点で評価すると、プレヴィンの全集が随一の名演との評価に値すると思われるが、好き嫌いで言うと、私が最も好きなラフマニノフの交響曲等の全集は、本盤におさめられたスヴェトラーノフによる二度目の全集である。本盤におさめられた諸曲の演奏は、おそらくはそれぞれの諸曲の演奏史上でも最もロシア的な民族色の濃い個性的な演奏と言えるのではないだろうか。トゥッティにおける咆哮する金管楽器群の強靭な響き、あたりの空気が震撼するかのような低弦の重々しい響き、雷鳴のように轟くティンパニ、木管楽器やホルンの情感のこもった美しい響きなどが一体となり、これ以上は求め得ないようなロシア風の民族色に満ち溢れた濃厚な音楽の構築に成功していると言える。その迫力は圧倒的な重量感を誇っており、あたかも悠久のロシアの広大な大地を思わせるような桁外れのスケールの雄大さを誇っていると言える。このようにどの曲も凄まじいまでの強靭な迫力と熱き情感に満ち溢れているのであるが、一例を掲げると有名な交響曲第2番の第3楽章。スヴェトラーノフは、本楽章を17分というとてつもなく遅いテンポで、ラフマニノフによる最美の名旋律を渾身の力を込めて徹底的に歌い抜いている。その濃厚の極みとも言うべき熱き情感のこもった歌い方は、いささかの冗長さも感じさせることなく、いつまでもその音楽に浸っていたいと思わせるほどの極上の美しさを湛えていると言える。スヴェトラーノフは、1960年代にも、ロシア国立交響楽団の前身であるソヴィエト国立交響楽団を指揮してラフマニノフの交響曲全集をスタジオ録音しており、それらも名演の名には値すると思うが、演奏全体の完成度や彫の深さと言った点において、本盤におさめられた諸曲の演奏には到底敵し得ないと考える。いずれにしても、スヴェトラーノフによる本全集は、例えば音楽之友社発行の「名曲名盤300選」などにおいては、評価の遡上にすら掲げられることがないものであると言える。しかしながら、スヴェトラーノフによる本盤におさめられた諸曲の演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧倒的な迫力と濃密な内容を誇っていると言えるところであり、私としては、かのプレヴィンによる全集にも比肩する名全集と高く評価したいと考える。なお、私が所有しているのはポニー・キャノンから発売された初期盤であるが入手難であり、現在では本輸入盤でしか鑑賞できないようである。しかも、本輸入盤には、ポニー・キャノン盤には含まれていた交響的舞曲などが含まれていないという難点もある。もっとも、音質について言えば、本輸入盤でも全く問題はないのであるが、ノイマンによるポニー・キャノンへの各種の録音がエクストンからSACD化されて再発売されたという実績に鑑みれば、今後、スヴェトラーノフによるポニー・キャノンへの一連の録音も、エクストンによってSACD化することは可能なのではないだろうか。少なくとも本盤におさめられた諸曲の演奏は、スヴェトラーノフによる至高の超名演でもあり、可能であれば、交響的舞曲も含め今後SACD化を図るなど更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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     2012/09/08

    これは、セル&クリーヴランド管弦楽団の全盛期の演奏の凄さを味わうことが可能な圧倒的な名演だ。セルは、先輩格である同じくハンガリー出身のライナーや、ほぼ同世代のオーマンディとともに、自らのオーケストラを徹底的に鍛え抜き、オーケストラに独特の音色と鉄壁のアンサンブルを構築することに成功した。ライナーやオーマンディが、シカゴ交響楽団やフィラデルフィア管弦楽団という、もともと一流のオーケストラを鍛え上げていったのに対して、クリーヴランド管弦楽団はセルが就任する前は二流のオーケストラであったことからしても、セルの類稀なる統率力を伺い知ることが可能だ。セルの薫陶によって鍛え抜かれたクリーヴランド管弦楽団は、すべての楽器セクションがあたかも一つの楽器のように聴こえるほどの精緻なアンサンブルを誇ったことから、「セルの楽器」とも称されるほどであった。もっとも、演奏があまりにも正確無比であることから、その演奏にある種のメカニックな冷たさを感じさせると言う問題点もあったとは言えるが、少なくとも演奏の完成度という意味においては、古今東西の様々な指揮者による演奏の中でもトップの座を争うレベルに達しているのではないかと考えられるところだ。本盤には、ロッシーニの序曲集やオーベールの歌劇「フラ・ディアヴォロ」序曲、そしてベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」がおさめられているが、いずれも全盛期のこの黄金コンビの演奏の完全無欠ぶりを味わうことが可能だ。その演奏の鉄壁さにおいては、かのカラヤン&ベルリン・フィルの演奏をも凌駕するほどであり、聴き手はただただ演奏の凄さに驚嘆するのみである。交響曲などの大曲であれば、前述のようなある種のメカニックな冷たさなどが露呈するきらいもないわけではないが、本盤のような小品集の場合は、かかるセルの演奏の欠点などは殆ど気になるほどのものではないと言える。ロッシーニの序曲集の選曲に際して、有名な歌劇「セビリアの理髪師」序曲や歌劇「ウィリアム・テル」序曲を録音しなかったのは残念とも言えるが、それでも本盤に収録されたその他の序曲は圧倒的な名演であり、あまり贅沢は言えないのではないかと考えられる。音質は、1957〜1967年にかけてのスタジオ録音であり、録音年代がやや古いこともあって、従来盤は今一つ冴えないものであったが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は、これまでの従来盤のいささか劣悪な音質を一新するような、とてつもない鮮明な高音質に生まれ変わったと言える。Blu-spec-CD盤も発売されており、それも十分に良好な音質であると言えるが、所詮SACD盤の敵ではないと言える。もっとも、当該SACD盤は現在では入手難であるが、セルによる素晴らしい名演でもあり、可能であれば、中古CD店などで購入されることを是非ともおすすめしておきたいと考える。

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     2012/09/08

    凄い演奏だ。セル&クリーヴランド管弦楽団の全盛期の演奏がいかに凄まじいものであったのかがよく理解できるところだ。セルは、先輩格である同じハンガリー出身の指揮者であるライナーや、ほぼ同世代のオーマンディなどとともに、自らのオーケストラを徹底して鍛え抜いた。セルの徹底した薫陶もあって、就任時には二流の楽団でしかなかったクリーヴランド管弦楽団もめきめきとその技量を上げ、ついにはすべての楽器セクションがあたかも一つの楽器のように奏でると言われるほどの鉄壁のアンサンブルを構築するまでに至った。「セルの楽器」との呼称があながち言い過ぎではないような完全無欠の演奏の数々を成し遂げていたところであり、本盤の演奏においてもそれは健在であると言える。本盤には、メンデルスゾーンの交響曲第4番や、劇音楽「真夏の夜の夢」からの有名曲の抜粋、そして序曲「フィンガルの洞窟」がおさめられているが、とかく旋律の美しさのみが強調されがちなこれらの楽曲が、セルの手にかかると、引き締まった硬派の音楽に変貌するのが素晴らしいと言える。メンデルスゾーンの交響曲第4番には、同じく硬派の演奏としてトスカニーニ&NBC交響楽団による超名演(1954年)があり、濃密なカンタービレの魅力もあってとても当該演奏には敵わないと言えるが、一糸乱れぬアンサンブルを駆使した演奏の完全無欠さという点においては、本演奏もトスカニーニによる超名演に肉薄していると言えるところだ。劇音楽「真夏の夜の夢」も、この黄金コンビならではの引き締まった名演であると言える。とりわけ結婚行進曲など、下手な指揮者の手にかかると外面的で安っぽい音楽に成り下がってしまいがちであるが、セルの場合は、かのクレンペラー&フィルハーモニア管弦楽団による超名演(1960年)と同様に、高踏的で格調の高い音楽に聴こえるのが見事であると言える。序曲「フィンガルの洞窟」については、もう少し演奏全体にゆとりというか、味わい深さが欲しい気もするが、演奏自体の水準は極めて高いものであり、名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。音質は、1957〜1967年にかけてのスタジオ録音であり、録音年代がやや古いこともあって、従来盤は今一つ冴えないものであったが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は、これまでの従来盤のいささか劣悪な音質を一新するような、とてつもない鮮明な高音質に生まれ変わったと言える。Blu-spec-CD盤も発売(現在では廃盤のようである。)されており、それも十分に良好な音質であると言えるが、所詮SACD盤の敵ではないと言える。もっとも、当該SACD盤は現在では入手難であるが、セルによる素晴らしい名演でもあり、可能であれば、中古CD店などで購入されることを是非ともおすすめしておきたいと考える。

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     2012/09/08

    本盤におさめられたシューベルトの交響曲第9番「グレート」は、セル&クリーヴランド管弦楽団による二度にわたる同曲のスタジオ録音のうちの最初のものである。全盛期のセル&クリーヴランド管弦楽団の演奏はそれは凄いものであった。セルは、同じくハンガリー出身の先輩であるライナーや、ほぼ同世代のオーマンディなどとともに、自らのオーケストラを徹底して鍛え抜いた。その結果、オーケストラ史上でも稀にみるような、あらゆる楽器セクションの音色が一つの楽器が奏でるように聴こえるという「セルの楽器」とも称される鉄壁のアンサンブルの構築に成功したところであり、セルは、正に自らの楽器を用いて数々の演奏を行っていたのである。そのアンサンブルの精緻さは、聴き手の度肝を抜くのに十分ではあったが、あまりの演奏の緻密さ故に、メカニックとも言うべきある種の冷たさを感じさせたのも否めない事実であり、名演の名には値するものの、感動という点からするといささかコメントに窮する演奏も多々存在したとも言えるところだ。本盤の演奏も、全体の造型の堅固さ、そして一糸乱れぬアンサンブルを駆使した演奏の緻密さにおいては、同曲の他のいかなる演奏にも引けを取らないハイレベルに達しており、その意味では名演の名に十分に値すると言えるが、最晩年の1970年の演奏と比較すると、ゆとりというか、味わい深さにいささか欠けているのではないかとも思われるところである。したがって、セルによる同曲の代表盤ということになれば、最晩年の1970年盤を掲げることにならざるを得ないが、いわゆるセルの個性が全面的に発揮された演奏ということになれば、本演奏を掲げるのにいささかも躊躇するものではない。いずれにしても、本演奏は、今一つゆとりというか、鷹揚なところがあってもいいのではないかと思われるところもあるが、セル&クリーヴランド管弦楽団の全盛時代を代表する名演として高く評価したいと考える。他方、併録の劇音楽「ロザムンデ」からの抜粋については、1967年というセルの死の3年前の演奏ということもあり、交響曲第9番「グレート」よりも懐の深い演奏に仕上がっていると言えるのではないだろうか。セルも1960年代後半になると、クリーヴランド管弦楽団の各団員に自由を与え、より柔軟性に富んだ味わい深い演奏を行うようになってきたところであり、本演奏においてもそうしたセルの円熟の至芸を存分に味わうことが可能である。各旋律の端々からは豊かな情感に満ち溢れた独特の味わい深さが滲み出していると言えるところであり、おそらくは同曲の演奏史上でも、ベーム&ベルリン・フィルによる名演とともにトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。音質は、録音年代が古いこともあって、従来盤は今一つ冴えないものであったが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は、これまでの従来盤のいささか劣悪な音質を一新するような、とてつもない鮮明な高音質に生まれ変わったと言える。Blu-spec-CD盤も発売されており、それも十分に良好な音質であると言えるが、所詮SACD盤の敵ではないと言える。もっとも、当該SACD盤は現在では入手難であるが、セルによる素晴らしい名演でもあり、可能であれば、中古CD店などで購入されることを是非ともおすすめしておきたいと考える。

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     2012/09/08

    本盤におさめられたシューベルトの交響曲第9番「グレート」は、セル&クリーヴランド管弦楽団による二度にわたる同曲のスタジオ録音のうちの最初のものである。全盛期のセル&クリーヴランド管弦楽団の演奏はそれは凄いものであった。セルは、同じくハンガリー出身の先輩であるライナーや、ほぼ同世代のオーマンディなどとともに、自らのオーケストラを徹底して鍛え抜いた。その結果、オーケストラ史上でも稀にみるような、あらゆる楽器セクションの音色が一つの楽器が奏でるように聴こえるという「セルの楽器」とも称される鉄壁のアンサンブルの構築に成功したところであり、セルは、正に自らの楽器を用いて数々の演奏を行っていたのである。そのアンサンブルの精緻さは、聴き手の度肝を抜くのに十分ではあったが、あまりの演奏の緻密さ故に、メカニックとも言うべきある種の冷たさを感じさせたのも否めない事実であり、名演の名には値するものの、感動という点からするといささかコメントに窮する演奏も多々存在したとも言えるところだ。本盤の演奏も、全体の造型の堅固さ、そして一糸乱れぬアンサンブルを駆使した演奏の緻密さにおいては、同曲の他のいかなる演奏にも引けを取らないハイレベルに達しており、その意味では名演の名に十分に値すると言えるが、最晩年の1970年の演奏と比較すると、ゆとりというか、味わい深さにいささか欠けているのではないかとも思われるところである。したがって、セルによる同曲の代表盤ということになれば、最晩年の1970年盤を掲げることにならざるを得ないが、いわゆるセルの個性が全面的に発揮された演奏ということになれば、本演奏を掲げるのにいささかも躊躇するものではない。いずれにしても、本演奏は、今一つゆとりというか、鷹揚なところがあってもいいのではないかと思われるところもあるが、セル&クリーヴランド管弦楽団の全盛時代を代表する名演として高く評価したいと考える。他方、併録の劇音楽「ロザムンデ」からの抜粋については、1967年というセルの死の3年前の演奏ということもあり、交響曲第9番「グレート」よりも懐の深い演奏に仕上がっていると言えるのではないだろうか。セルも1960年代後半になると、クリーヴランド管弦楽団の各団員に自由を与え、より柔軟性に富んだ味わい深い演奏を行うようになってきたところであり、本演奏においてもそうしたセルの円熟の至芸を存分に味わうことが可能である。各旋律の端々からは豊かな情感に満ち溢れた独特の味わい深さが滲み出していると言えるところであり、おそらくは同曲の演奏史上でも、ベーム&ベルリン・フィルによる名演とともにトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。音質は、録音年代が古いこともあって、従来盤は今一つ冴えないものであったが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は、これまでの従来盤のいささか劣悪な音質を一新するような、とてつもない鮮明な高音質に生まれ変わったと言える。Blu-spec-CD盤も発売されており、それも十分に良好な音質であると言えるが、所詮SACD盤の敵ではないと言える。もっとも、当該SACD盤は現在では入手難であるが、セルによる素晴らしい名演でもあり、可能であれば、中古CD店などで購入されることを是非ともおすすめしておきたいと考える。

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     2012/09/02

    これは凄まじいまでに凝縮化された演奏だ。セルは、トスカニーニを尊敬していたとのことであるが、かのトスカニーニの演奏を評してフルトヴェングラーが言ったとされる有名な言葉、「無慈悲なまでの透明さ」を見事に具現化した演奏と言えるのではないだろうか。このような引き締まった筋肉質の演奏は、外見だけに限って言うと、かのムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる名演(1968年)にも比肩し得ると言えるだろう。巷間「セルの楽器」とも称されたクリーヴランド管弦楽団の一糸乱れぬ精緻なアンサンブルが、かかる演奏の性格を更に助長することに貢献しており、ある意味ではこれほどまでに辛口で微笑まないエロイカは、他にもあまり類例がないのではないかとさえ感じられるほどだ。本演奏を従来CDで聴くと、1957年のスタジオ録音ということもあって、かなりデッドで色気がない音質であることから、血も涙もない無慈悲な演奏にも聴こえるところであった。加えて、当時のクリーヴランド管弦楽団の鉄壁の演奏に、ある種の人工的な技巧臭も感じずにはいられなかった。ところが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤、あるいはBlu-spec-CD盤で聴くと、DSDリマスタリングがなされたこともあって、人工的な技巧臭などはいささかも感じさせず、演奏全体の凝縮化された堅固な造型には変わりがないものの、各フレーズには豊かな情感が込められているのを聴くことが可能であり、必ずしも無慈悲で血も涙もない演奏には陥っていないことがよく理解できるところである。セルの芸術の真価を味わうためには、本演奏に限らず、高音質CDで味わうことが必要と言えるのかもしれない。いずれにしても、こうしたシングルレイヤーによるSACD盤、あるいはBlu-spec-CD盤で聴く限りにおいては、本演奏は、セル&クリーヴランド管弦楽団という稀代の黄金コンビの全盛期の演奏の凄さを味わうことが可能であるとともに、引き締まった造型美と凝縮化された内容の密度の濃さを感じさせる圧倒的な名演であると高く評価したいと考える。併録の「エグモント」序曲 、序曲「コリオラン」、「シュテファン王」序曲の3曲についても、エロイカと同様のアプローチによる引き締まった造型美と内容の充実度を感じさせる圧倒的な名演に仕上がっていると言える。音質は、前述のようにDSDリマスタリングを施した後に、シングルレイヤーによるSACD化、あるいはBlu-spec-CD化が図られたことによって、劣悪な音質の従来CDに比して各段に鮮明な高音質に生まれ変わった。このうち、現在でも入手可能なのはBlu-spec-CD盤であるが、音質はシングルレイヤーによるSACD盤の方が数段上であると言える。本演奏のCDをこれから購入しようとされる方は、可能であれば中古CD店などでシングルレイヤーによるSACD盤を購入されることを是非ともおすすめしておきたい。

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     2012/09/02

    これは凄まじいまでに凝縮化された演奏だ。セルは、トスカニーニを尊敬していたとのことであるが、かのトスカニーニの演奏を評してフルトヴェングラーが言ったとされる有名な言葉、「無慈悲なまでの透明さ」を見事に具現化した演奏と言えるのではないだろうか。このような引き締まった筋肉質の演奏は、外見だけに限って言うと、かのムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる名演(1968年)にも比肩し得ると言えるだろう。巷間「セルの楽器」とも称されたクリーヴランド管弦楽団の一糸乱れぬ精緻なアンサンブルが、かかる演奏の性格を更に助長することに貢献しており、ある意味ではこれほどまでに辛口で微笑まないエロイカは、他にもあまり類例がないのではないかとさえ感じられるほどだ。本演奏を従来CDで聴くと、1957年のスタジオ録音ということもあって、かなりデッドで色気がない音質であることから、血も涙もない無慈悲な演奏にも聴こえるところであった。加えて、当時のクリーヴランド管弦楽団の鉄壁の演奏に、ある種の人工的な技巧臭も感じずにはいられなかった。ところが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤、あるいはBlu-spec-CD盤で聴くと、DSDリマスタリングがなされたこともあって、人工的な技巧臭などはいささかも感じさせず、演奏全体の凝縮化された堅固な造型には変わりがないものの、各フレーズには豊かな情感が込められているのを聴くことが可能であり、必ずしも無慈悲で血も涙もない演奏には陥っていないことがよく理解できるところである。セルの芸術の真価を味わうためには、本演奏に限らず、高音質CDで味わうことが必要と言えるのかもしれない。いずれにしても、こうしたシングルレイヤーによるSACD盤、あるいはBlu-spec-CD盤で聴く限りにおいては、本演奏は、セル&クリーヴランド管弦楽団という稀代の黄金コンビの全盛期の演奏の凄さを味わうことが可能であるとともに、引き締まった造型美と凝縮化された内容の密度の濃さを感じさせる圧倒的な名演であると高く評価したいと考える。併録の「エグモント」序曲 、序曲「コリオラン」、「シュテファン王」序曲の3曲についても、エロイカと同様のアプローチによる引き締まった造型美と内容の充実度を感じさせる圧倒的な名演に仕上がっていると言える。音質は、前述のようにDSDリマスタリングを施した後に、シングルレイヤーによるSACD化、あるいはBlu-spec-CD化が図られたことによって、劣悪な音質の従来CDに比して各段に鮮明な高音質に生まれ変わった。このうち、現在でも入手可能なのはBlu-spec-CD盤であるが、音質はシングルレイヤーによるSACD盤の方が数段上であると言える。本演奏のCDをこれから購入しようとされる方は、可能であれば中古CD店などでシングルレイヤーによるSACD盤を購入されることを是非ともおすすめしておきたい。

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     2012/09/02

    実に引き締まった筋肉質の演奏であると言える。正に、セル&クリーヴランド管弦楽団の全盛期の演奏の凄さを味わうことができると言えるだろう。セルは、先輩格である同じハンガリー出身の指揮者であるライナーや、ほぼ同世代でハンガリー出身のオーマンディなどとともに、自らのオーケストラを徹底して鍛え抜いた。セルの徹底した薫陶もあって、就任時には二流の楽団でしかなかったクリーヴランド管弦楽団もめきめきとその技量を上げ、ついにはすべての楽器セクションがあたかも一つの楽器のように奏でると言われるほどの鉄壁のアンサンブルを構築するまでに至った。「セルの楽器」との呼称があながち言い過ぎではないような完全無欠の演奏の数々を成し遂げていたところであり、本盤の演奏においてもそれは健在であると言える。モーツァルトの交響曲第39番及び第40番の名演としては、優美で情感豊かなワルター&コロンビア交響楽団による演奏(1959、1960年)(第40番についてはウィーン・フィルとの演奏(1952年))や、それにシンフォニックな重厚さを付加させたベーム&ベルリン・フィルによる演奏(1962、1966年)が名高いと言えるが、セルによる本演奏はそれらの演奏とは大きく性格を異にしていると言えるだろう。むしろ、第39番については、即物的な演奏でありながら随所に繊細な表情づけが施されたムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる名演(1972年)にも通じるものがあるのではないかと考えられるところだ。もっとも、演奏の即物性においては、本演奏はムラヴィンスキーほどに徹底しているとは言い難いが、演奏全体の造型の堅牢さにおいてはいささかも引けをとるものではない。そして、各フレーズにおける細やかな表情づけも、ムラヴィンスキーのように徹底して行われているわけではないが、それでも各旋律の端々からは汲めども尽きぬ豊かな情感が湧き出してきており、決して無慈悲で冷徹な演奏には陥っていない点に留意しておく必要がある。いささかオーケストラの機能美が全面に出た演奏とは言えなくもないところであり、演奏の味わい深さという点では、特に第40番については、クリーヴランド管弦楽団との来日時のライヴ録音(1970年)に一歩譲るが、演奏の完成度という意味においては申し分がないレベルに達しており、本盤の演奏を全盛期のこのコンビならではの名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。併録のモテット「エクスルターテ・イウビラーテ(踊れ、喜べ、幸いなる魂よ)」も、ソプラノのジュディス・ラスキンの名唱も相まって、素晴らしい名演であると評価したい。音質は、録音年代が古いこともあって、従来盤は今一つ冴えないものであったが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は、これまでの従来盤のいささか劣悪な音質を一新するような、とてつもない鮮明な高音質に生まれ変わったと言えるBlu-spec-CD盤も発売されており、それも十分に良好な音質であると言えるが、所詮SACD盤の敵ではないと言える。もっとも、当該SACD盤は現在では入手難であるが、セルによる素晴らしい名演でもあり、可能であれば、中古CD店などで購入されることを是非ともおすすめしておきたいと考える。

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     2012/09/02

    アバドは、私見であるが、これまでの様々な名指揮者の中でも、最高の協奏曲指揮者と言えるのではなかろうか。ベルリン・フィルの芸術監督に就任する前には、ロンドン交響楽団とともに圧倒的な名演奏を成し遂げていた気鋭の指揮者であったアバド。そのアバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになってしまった。カラヤン時代に、力の限り豪演を繰り広げてきたベルリン・フィルも、前任者と正反対のアバドの民主的な手法には好感を覚えたであろうが、演奏については、大半の奏者が各楽器セクションのバランスを重視するアバドのやり方に戸惑いと欲求不満を感じたのではないか。それでも協奏曲の演奏に限ってみれば、ベルリン・フィルの芸術監督就任以前と寸分も変わらぬ名演を成し遂げていたと言える。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番におけるアルゲリッチとの競演(1994年)、そして、レコード・アカデミー賞を受賞したブラームスのピアノ協奏曲第2番におけるブレンデルとの競演(1991年)など、それぞれの各楽曲におけるトップの座を争う名演の指揮者は、このアバドなのである。本盤におさめられたロシアのヴァイオリニストであるマキシム・ヴェンゲーロフと組んで録音を行ったチャイコフスキーとグラズノフのヴァイオリン協奏曲についても、こうした名演に系譜に連なるものとして高く評価したいと考える。協奏曲の演奏に際してのアバドの基本的アプローチは、ソリストの演奏の引き立て役に徹するというものであり、本演奏においても御多分にも漏れないが、オーケストラのみの演奏箇所においては、アバドならでは歌謡性豊かな情感に満ち溢れており、格調の高さも相まった美しさは、抗し難い魅力に満ち溢れていると言える。ここぞという時の力感溢れる演奏は、同時期のアバドによる交響曲の演奏には聴くことができないような生命力に満ち溢れており、これぞ協奏曲演奏の理想像の具現化と評しても過言ではあるまい。チャイコフスキーやグラズノフの協奏曲に特有のロシア風のメランコリックな抒情を強調した演奏にはなっておらず、両曲にロシア風の民族色豊かな味わいを求める聴き手にはいささか物足りなさを感じさせるきらいもないわけではないが、ヴェンゲーロフのヴァイオリン演奏の素晴らしさ、両曲の持つ根源的な美しさを見事に描出し得たといういわゆる音楽の完成度という意味においては、正に非の打ちどころのない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。音質は、1995年の録音ということでもあり比較的満足できる音質であったが、今般、ついにESOTERICによりSACD化がなされることになり、見違えるような素晴らしい高音質に生まれ変わった。音質の鮮明さ、音圧、音場の幅広さのどれをとっても、従来CD盤とは段違いの素晴らしさであり、とりわけヴェンゲーロフのヴァイオリンの弓使いが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的ですらあると言える。あらためて本演奏の凄みを窺い知ることが可能になるとともに、SACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。いずれにしても、アバド&ベルリン・フィル、そしてヴェンゲーロフによる素晴らしい名演をSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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     2012/09/01

    フランス音楽の粋とも言うべきドビュッシーの牧神の午後への前奏曲、交響詩「海」、そしてラヴェルのボレロがおさめられているが、本盤の各楽曲の演奏は、そうしたフランス音楽ならではのエスプリ漂う瀟洒な味わいを期待する聴き手には全くおすすめできない演奏であると言える。本演奏にあるのは、オーケストラの卓抜した技量と機能美。正に、オーケストラ演奏の究極の魅力を兼ね備えていると言えるだろう。このような演奏は、とある影響力の大きい某音楽評論家を筆頭に、ショルティを貶す識者からは、演奏が無機的であるとか、無内容であるとの誹りは十分に予測されるところである。しかしながら、果たしてそのような評価が本演奏において妥当と言えるのであろうか。本演奏におけるショルティのアプローチは、例によって強靭で正確無比なリズム感とメリハリの明晰さを旨とするもの。このような演奏は、前述のようなフランス音楽らしい瀟洒な味わいを醸し出すには全くそぐわないと言えるが、印象派の大御所として繊細かつ透明感溢れるオーケストレーションを随所に施したドビュッシーや、管弦楽法の大家とも称されたラヴェルが作曲した各楽曲の諸楽想を明瞭に紐解き、それぞれの管弦楽曲の魅力をいささかの恣意性もなく、ダイレクトに聴き手に伝えることに成功している点は高く評価すべきではないかと考えられるところだ。そして、一部の音楽評論家が指摘しているような無内容、無機的な演奏ではいささかもなく、むしろ、各場面毎の描き分け(特に、交響詩「海」)や表情づけの巧みさにも際立ったものがあり、私としては、本演奏を貶す音楽評論家は、多分にショルティへの一方的な先入観と偏見によるのではないかとさえ思われるところである。それにしても、我が国におけるショルティの評価は不当に低いと言わざるを得ない。現在では、楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつあると言える。これには、我が国の音楽評論家、とりわけ前述のとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、かかる酷評を鵜呑みにして、例えば本演奏のような名演を一度も聴かないのはあまりにも勿体ないと言える。いずれにしても、本演奏は、ショルティ&シカゴ交響楽団という20世紀後半を代表する稀代の名コンビによる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。そして、かかる名演が、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CDによって、ショルティの本演奏へのアプローチがより鮮明に再現されることになったのは極めて意義が大きいと言えるところであり、とりわけ牧神の午後への前奏曲における類稀なるフルートソロが鮮明に再現されていることや、ボレロにおける各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的ですらあると言えるところだ。いずれにしても、ショルティ&シカゴ交響楽団による素晴らしい名演を、現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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     2012/09/01

    ショルティは20世紀後半を代表する指揮者の一人であるが、我が国の音楽評論家の間での評価は実力の割に極めて低いと言わざるを得ない。先般、お亡くなりになった吉田秀和氏などは、数々の著作の中で、公平な観点からむしろ積極的な評価をしておられたと記憶するが、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評しているとある影響力の大きい音楽評論家をはじめ、ショルティを貶すことが一流音楽評論家の証しと言わんばかりに、偏向的な罵詈雑言を書き立てる様相ははっきり言っておぞましいと言うほかはないところだ。ニキシュは別格として、ライナーやオーマンディ、セル、ケルテスなど、綺羅星の如く登場したハンガリー人指揮者の系譜にあって、ショルティの芸風は、強靭で正確無比なリズム感とメリハリの明晰さを旨とするもの。そうした芸風でシカゴ交響楽団を鍛え抜いた力量は、先輩格のライナー、オーマンディ、セルをも凌駕するほどであったと言えよう。もちろん、そうした芸風が、前述のような多くの音楽評論家から、無機的で冷たい演奏との酷評を賜ることになっているのはいささか残念と言わざるを得ない。確かに、ショルティの芸風に合った楽曲とそうでない楽曲があったことについて否定するつもりは毛頭ないが、少なくともショルティの演奏の全てを凡庸で無内容の冷たい演奏として切って捨てる考え方には全く賛同できない。ショルティの芸風に合った楽曲は多いと思うが、その中でも最右翼に掲げるべきなのは何と言ってもマーラーの交響曲と言えるのではないだろうか。膨大なレコーディングとレパートリーを誇ったショルティであるが、マーラーの交響曲については特に早くから取り組んでおり、1960年代というマーラーが知る人ぞ知る存在であった時代にも、ロンドン交響楽団と第1番、第2番、第3番、第9番、そしてコンセルトへボウ・アムステルダムとともに第4番のスタジオ録音を行っている。また、第1番についてはウィーン・フィルとのライヴ録音(1964年)が遺されており、既に1960年代にはマーラーの交響曲はショルティのレパートリーの一角を占めていたと言えるのではないかと考えられる。本盤におさめられた1970年のスタジオ録音であるマーラーの交響曲第5番は、シカゴ交響楽団との初のマーラーの交響曲の録音。ショルティは、本演奏を皮切りとして、シカゴ交響楽団とマーラーの交響曲をスタジオ録音することになり、それらをまとめて交響曲全集を完成させることになった。その意味においては、本盤の演奏は、ショルティにとっても記念碑的な演奏として位置づけられるものと考えられる。ショルティのマーラーの交響曲演奏に際しての基本的アプローチは、前述のように、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。こうしたショルティのアプローチは後年の演奏においても殆ど変わりがなかったが、そうしたショルティの芸風が最も如実にあらわれた演奏こそは、本盤の第5番の演奏であると考えられる。それにしても、私は、これほど強烈無比な演奏を聴いたことがない(特に終楽章が凄まじい。)。耳を劈くような強烈な音響が終始炸裂しており、血も涙もない音楽が連続している。正に、音の暴力と言ってもいい無慈悲な演奏であるが、聴き終えた後の不思議な充足感は、同曲の超名演との呼び声が高く、本演奏とは正反対の血も涙もあるバーンスタイン&ウィーン・フィル盤(1987年)やテンシュテット&ロンドン・フィル盤(1988年)にいささかも引けを取っていないと言える。あまりにも強烈無比な演奏であるため、本演奏は、ショルティを好きになるか嫌いになるかの試金石になる演奏とも言えるのかもしれない。加えて、本演奏の素晴らしさはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。いかにショルティが凄いと言っても、その強烈無比な指揮にシカゴ交響楽団が一糸乱れぬアンサンブルを駆使してついていっているところが見事であり、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮していると言える。かかるシカゴ交響楽団の好パフォーマンスが、本演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。なお、ショルティは、同曲をシカゴ交響楽団とともに1990年にライヴ録音するとともに、最晩年の1997年にもトーン・チューリヒハレ管弦楽団とともに録音しており、それらも通常の意味における名演とは言えるが、とても本演奏のような魅力はないと言える。それにしても、ショルティのマーラーの交響曲演奏の代表盤とも言うべき本演奏を今般シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化したユニバーサルに対しては深く感謝したいと考える。今般の高音質化によって、ショルティの本演奏へのアプローチがより鮮明に再現されることになったのは極めて意義が大きいと言えるところであり、とりわけ終楽章の二重フーガの各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的とも言えるところだ。いずれにしても、ショルティ&シカゴ交響楽団による圧倒的な超名演を、現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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     2012/09/01

    ショルティは20世紀後半を代表する指揮者の一人であるが、我が国の音楽評論家の間での評価は実力の割に極めて低いと言わざるを得ない。先般、お亡くなりになった吉田秀和氏などは、数々の著作の中で、公平な観点からむしろ積極的な評価をしておられたと記憶するが、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評しているとある影響力の大きい音楽評論家をはじめ、ショルティを貶すことが一流音楽評論家の証しと言わんばかりに、偏向的な罵詈雑言を書き立てる様相ははっきり言っておぞましいと言うほかはないところだ。ニキシュは別格として、ライナーやオーマンディ、セル、ケルテスなど、綺羅星の如く登場したハンガリー人指揮者の系譜にあって、ショルティの芸風は、強靭で正確無比なリズム感とメリハリの明晰さを旨とするもの。そうした芸風でシカゴ交響楽団を鍛え抜いた力量は、先輩格のライナー、オーマンディ、セルをも凌駕するほどであったと言えよう。もちろん、そうした芸風が、前述のような多くの音楽評論家から、無機的で冷たい演奏との酷評を賜ることになっているのはいささか残念と言わざるを得ない。確かに、ショルティの芸風に合った楽曲とそうでない楽曲があったことについて否定するつもりは毛頭ないが、少なくともショルティの演奏の全てを凡庸で無内容の冷たい演奏として切って捨てる考え方には全く賛同できない。ただ、ショルティのそうした芸風からずれば、ウィーン・フィルとの相性が必ずしも良くなかったことはよく理解できるところだ。フレージングの一つをとっても対立したことは必定であり、歴史的な名演とされる楽劇「ニーベルングの指環」の録音の合間をぬって録音がなされたとされる、本盤におさめられたベートーヴェンの交響曲第3番や、更に後年に録音がなされたワーグナーのジークフリート牧歌にしても、ウィーン・フィルの面々は、ショルティの芸風に反発を感じながらも、プロフェッショナルに徹して演奏していたことは十分に想定できるところだ。膨大なレコーディングとレパートリーを誇ったショルティであるが、ショルティはベートーヴェンの交響曲全集をシカゴ交響楽団とともに2度にわたってスタジオ録音しており、ウィーン・フィルとともに本演奏を含め数曲をスタジオ録音しているなど、ベートーヴェンの交響曲を自らの重要なレパートリーとして位置づけていた。とは言え、マーラーの交響曲のように、ショルティの芸風に符号していたかどうかは疑問のあるところであるが、それでもウィーン・フィルとの一連の録音は、ショルティの鋭角的な指揮ぶりを、ウィーン・フィルの美音が演奏全体に潤いを与えるのに大きく貢献しており、いい意味での剛柔のバランスのとれた名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。もちろん、ウィーン・フィルとしてはいささか不本意な演奏であろうが、それでも生み出された音楽は立派な仕上がりであり、聴き手としては文句を言える筋合いではないと言える。いずれにしても、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さにウィーン・フィルならではの美音による潤いが付加された本演奏は、併録のワーグナーのジークフリート牧歌とともに、若き日のショルティを代表する名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。かかる名演が、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CDによって、ショルティの本演奏へのアプローチがより鮮明に再現されることになったのは極めて意義が大きいと言えるところであり、加えて、本演奏の素晴らしさをより多くのクラシック音楽ファンにアピールすることに大きく貢献するものとして高く評価したい。いずれにしても、ショルティ&ウィーン・フィルによる素晴らしい名演を、現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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