トップ > My ページ > 村井 翔 さんのレビュー一覧

村井 翔 さんのレビュー一覧 

検索結果:582件中1件から15件まで表示

%%header%%

%%message%%

  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2024/09/24

    シュトゥッツマンの指揮者としての実質的なデビュー録音だが、『新世界より』が素晴らしい名演。これまで聴こえなかった対位声部がことごとく掘り起こされており、まさしくすべての声部に血が通っている。振っているのは、もちろん現代楽器を持つ大編成オケだが、HIPのセンスが感じられる。自在なテンポの流動も絶妙。第1楽章主部のアレグロ・モルトというテンポ指示は第1主題のものに過ぎず、第2主題、第3(小結尾)主題と進むにつれてテンポが落ち、コデッタまたはコーダで元に戻るというのが、この楽章についての私の理解だが(譜面には何も書いてない)、これほど見事にそのイメージを実現している演奏は滅多にあるまい。第2楽章ラルゴも中間部では速くなるし、スケルツォも非常に速い主部第1楽想(バーンスタイン/ニューヨーク・フィル並み)、少し遅い副楽想、かなり遅いトリオのテンポ配分が完璧だ。全楽章の主題を総登場させることにこだわって、ゴテゴテした感のある終楽章も上手く聴かせる。アメリカ組曲は気の利いた小品集といったところで、序曲三部作や晩年の交響詩のような重みはないが、アルバム全体のコンセプトは良く出来ている。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2024/09/05

    またしても短命に終わりそうなウィーンでのフィリップ・ジョルダンの治世だが、とりあえずこれが録音されたのは良かった。テンポはほぼティーレマンと同じなので、ブーレーズも真っ青の3時間38分で全曲を振っているオメル・マイア・ウェルバーのようなインパクトはないが、劇的な勘どころのつかみ方のうまさ(特に第2幕)もあり、何よりも響きの明晰さが確保されている点で、このオペラに限れば、ティーレマンよりむしろ好ましい。舞台は配信で見ただけだが、歌詞との若干の齟齬は避けられないとしても、なかなか良く考えられた読み替えで、バイロイトのシャイブ演出などよりは遥かにマシ。映像ディスク化されないのは残念だが、もともと渋いオペラなので、歌手陣の高額なギャラに見合う売り上げは望めないか。というわけで、配役はほぼ理想的。題名役は全曲のちょうど真ん中で性格が百八十度逆転してしまう難しい役だが、カウフマンの重い声はもちろん後半向き。ジラール演出(メト)の頃に比べて、見た目は老けた感が否めず、舞台では常に若い分身(黙役)が一緒に演技しているが、今なお第一人者と言って良いだろう。この後、バイロイトでも歌ったガランチャも素晴らしい。ドイツ語も問題ないし、キャラクターとしても合っている−−この演出では昔ながらのファム・ファタルと言うよりは、もう少し知的な女性になっているが。テジエのアムフォルタスにも感心。こういう役も演じられるとは思わなかった。ヴォルフガング・コッホはこれまで一度も良いと思ったことがなかったが、今回はあまり屈折したところのないストレートな悪役なので、悪くない。ツェッペンフェルトの性格的なグルネマンツもいつも通り。ちなみに、配信用の録画+パッチ・セッションで作られた録音なので、足音などある程度の舞台上ノイズは拾ってしまっているが、第2幕終わりのピストル発射音は録音には入っていない。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2024/09/04

    映像の方を見たので、遅まきながらレビューを。すこぶる華麗、ヴィルトゥオジティも申し分ない演奏で、クールな持ち味のピアニスト+丁寧な仕事をするが派手さのない指揮者の相乗効果で、最初に録音されたパガニーニ狂詩曲以外は、結果として不発と言わざるをえないプレトニョフ/ネゼ=セガン/フィラデルフィアの録音よりは明らかに上。ただし、ごく短い間に一気に録音・録画された演奏なので、すべての曲がいわば95点以上の模範的出来ばえ、もう一歩、突き抜けたものが欲しいという贅沢な不満はある。第2番、第3番、狂詩曲には既に録音があるが、もちろん今回の方が上。前回の3番の録音にも付き合っていたドゥダメルの躍動的な指揮も良い。でもぶっちゃけ、今回が初録音となる第1番がいちばん良く、若き日のラフマニノフらしい「尖った」この曲の魅力を再認識した。余談ながら、3番第1楽章のカデンツァは今回も小カデンツァの方を選択。その「芸術上の」理由をぜひ尋ねてみたいものだ。前述の通り、全曲のライヴ映像(こちらは拍手入り)があり、なかなかの見ものなので−−ユジャは5曲とも、すべて違う衣装で登場−−映像ディスクでの発売も期待したい。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2024/08/26

    都響とのショスタコ7番には確かに感心したが、ディスクではシベリウスの音楽があまり分からない(特に3番以降)せいもあって、マケラ・ブームにまだ乗り切れずにきた。けれども、ここに至ってパリ管との『ペトルーシュカ』『遊戯』、オスロでのシベリウス/ヴァイオリン協奏曲と私をも唸らせる録音が続き、いよいよ本命登場。このディスクには現在のマケラの良さと物足らなさ、両方がはっきりと聴き取れる。最も良いのは第4番。世界中の楽団員たちに彼が高く評価されるのは、スコアを精密に読み解き、オケの自発性を生かしつつ、バランスを整えて、聞こえるべき声部がちゃんと聞こえるように表出できる能力のせいだと思われるが、4番はそうした美質が生きる曲。第1楽章のプレスト・フーガのような難所の捌き方はお見事。一方、第3楽章の軽音楽的な部分などは「えぐり」が足りず平板。第6番では第2楽章の隅々まで目の詰まった響きが圧巻。しかし、ラルゴのような情念のこもった緩徐楽章はまだ薄味だし、一見、能天気な終楽章のアイロニーもうまく伝わらない。最も不満が大きいのは第5番。一昔前とは正反対に、この曲こそ二重三重に「裏」のある屈折した作品であることが分かっている。第2、第4楽章の『カルメン』の引用をはっきり聴かせる、終楽章の最後ではトランペットのファンファーレより弦の執拗なオスティナートの方が強い、など近年のトレンドはちゃんと押さえた演奏だが、やはり素直すぎる。ヴァシリー・ペトレンコとロイヤル・リヴァプールの方があらゆる点で遥かに上だ。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2024/08/19

    オワゾリール&デッカ・レーベルで中断したままになっていたレヴィンによるモーツァルト・ピアノ協奏曲全集の再開。とりあえず録音されなかったCD5枚分を出すということだが、そんなことを言わず、全曲を再録音してほしいと思わずにいられない。これまでの録音でも、レヴィンは通奏低音を担当してオケ・パートに加わり、緩徐楽章では見事な旋律装飾を披露していたが、今の彼はさらに大胆になり、旋律装飾も全楽章に及んでいるからだ。故ホグウッドに代わってAAMを振るリチャード・エガー(彼自身、鍵盤楽器奏者でもあり、2021年までAAMの音楽監督だった)の指揮も断然、素晴らしい。第21番終楽章でのホルンの強奏など、こうでなくっちゃ。第21番のあまりにも有名な緩徐楽章は、ひところひどく速く弾くことが流行したが、この演奏は5:53と(昔よりは速めとしても)さほどではない。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2024/08/19

    オランダを中心に活躍するオルガ・パシチェンコとイル・ガルデリーノによるモーツァルト・ピアノ協奏曲シリーズの第一弾。実は第二弾が出た機会にこちらも聴き直したのだが、改めて大変感心。第9番では冒頭のアインガング音型2回目で早くも旋律装飾を入れるほか、全楽章とも装飾豊富。第17番終楽章の変奏曲などは特に目覚ましい。フォルテピアノは通奏低音を担当してオケ・パートにも加わるという完全なHIPスタイルだが、緩徐楽章はそんなに速すぎず、しっとりした味わいもある。オケ・パートも申し分なく雄弁。両曲とも、こちらも全集録音進行中の大御所ベザイデンホウトとフライブルク・バロックの録音があるが、旋律装飾に関してはベザイデンホウトはやや控えめなので、生きの良さではむしろこちらが上か。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2024/06/24

    ついに交響曲でもこういう演奏が現われましたね。今のところ緩徐楽章とメヌエットのトリオに限られるが(『ハフナー』終楽章コーダ、全休止の前など何かやれそうだが、何もなし)、同じ旋律が繰り返される箇所では楽譜通りではなく、旋律装飾を加えたヴァリアントを演奏している。18世紀にはこのように演奏されたのだろうが、文字通りインプロヴィゼーション(即興演奏)だったので、残っている譜面はない。団員と相談の上としても、この録音では指揮者のセンス頼り。そのセンスは悪くないし、まだ「おっかなびっくり」、ずいぶん穏健だ。ただし、ソナタ楽章後半の反復はすべて省略、行われているのは提示部のリピートだけで、このあたりは前の世代のHIPとは一線を画そうということらしい。ティンパニの鳴りは華々しいが、弦と管のバランスはかなり伝統的、というか録音がダンゴ状で各声部が明晰に聞き取れない。
    3曲の中では旋律装飾のセンスも含めて『ハフナー』が一番、ついで『リンツ』、ティンパニのない第40番はだいぶ落ちる。両端楽章の疾走感はなかなかだが、逆に単調。緩徐楽章の旋律装飾を最小限にとどめたのは正解だが、単に美しい旋律が流れるだけではない、この楽章の寂寥感は表現できていない。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 0人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2024/06/16

    第1番〜第5番、配信では第7番もリリースされている、このコンビのマーラー・シリーズでは今のところ最も良い録音だと思う。第1楽章では「夏の行進曲」が生彩豊かに奏でられているのが印象的。提示部末尾、練習番号32からのアッチェレランドは痛快だが、譜面の指定通り。一方、楽章最後のコーダではタメるところと畳みかけるところの交替がとてもうまい。20分ちょっとで片づけられることも少なくない終楽章も、最後の拍手を除いて実質25:14ぐらいと、きわめてじっくり型のテンポ。カーチュン・ウォンと日本フィルのような非ロマンティックで「新感覚」の演奏ではなく、従来のイメージ通りのマーラーだが、その中での完成度はすこぶる高い。コーダもラトルのようにテンポを速めたりせず、悠然と進める。最後の頁に「力任せではなく、満ち足りた、高貴な響きで」と書いた作曲者のイメージ通りの演奏。唯一、文句をつけるとすればオケの質、もしくは音の録り方。もちろん決して下手なオケではない。ライヴ+パッチ・セッションの録音だから当然ではあるが、トロンボーンのソロ、舞台裏からのボストホルン・ソロ、終楽章・最終変奏冒頭の金管合奏なども全く危なげない。ただし、明晰で機能的には優秀なオケだが、オーストリアの楽団らしい響きの厚みがあまり感じられない。何となく新日フィルを聴いているみたい。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2024/04/21

    ピリオド楽器オケが19世紀、ロマン派の音楽でも新鮮な演奏を披露することは、昨年大評判になったヴァーツラフ・ルクスとコレギウム1704による『わが祖国』全曲のディスクでも証明済みだが、ムジカ・フロレアによるドヴォルザーク作品の録音もいずれも見事。彼らはこの交響曲第8番を2005年にも録音しており、弦の編成が小さい(今回録音のメンバー表によれば9/8/6/5/3)ことにより、管楽器やティンパニが良く浮き立って聞こえるというHIPらしさは前回録音でも聞かれたが、18年ぶりの再録音はこの間のドヴォルザーク交響曲全集録音(特に第5番、第9番『新世界より』が目覚ましい)を踏まえて、テンポに関して、前回とは全く違ったアプローチを採っている。私にとってはドヴォルザーク交響曲中最愛の作品である第8番は第1楽章冒頭のチェロが主奏する主題に代表されるような、息の長い歌謡主題とリズミックな楽想の織り合わせによってできている名曲。今回、シュトリンツルが採用したのは、楽想に応じてテンポを柔軟に変えるという、曲の要求に応じた、いわば当然な戦略。インテンポという概念は両大戦間の「新即物主義」世代の発明であり、18世紀や19世紀の音楽にはもともとほぼ無かった発想だから、これも「先祖返り」の演奏と言える。たとえば第1楽章では、故意にテンポを落とした展開部からアッチェレランドしつつ再現部に持ち込むあたり、面白いがまことに理にかなっている。コーダも少しタメを作ってから、急速な終結部に突入する。終楽章では自在なアゴーギグが、ホルンのトリルがめざましい例の変奏曲第2楽想でまさしくパロディックな、抱腹絶倒の効果を生んでいる。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2023/11/23

    10月28日のベルリン・フィル・デビュー公演でも圧巻の指揮を披露したミナージ、手兵アンサンブル・レゾナンツとのモーツァルト録音第2弾も凄い出来だ。まず両曲の性格がはっきりと描き分けられているのに感心する。『リンツ』はハイドン風の軽快で洒脱なシンフォニー、全リピート実施で演奏時間36分に及ぶ『プラハ』は堂々たる重量感のある大交響曲というわけだ。だから同じアンダンテでも『リンツ』の第2楽章はかなり速いのに対し、『プラハ』の第2楽章はテンポの伸縮を含みつつも、そんなに速くはない。『リンツ』の終楽章プレストのめざましい快速に対し、同じプレストの『プラハ』終楽章はさほどでもない。『リンツ』序奏の思い切った畳み込みと自在な緩急に早くも唖然とするが、第1楽章主部もこんなに魅力的な音楽だったかと目の覚めるような思い。しなを作るような最初の楽想の媚態から行進曲テーマの豪快な鳴りっぷりまで、すべてが新鮮だ。『ドン・ジョヴァンニ』での石像の登場を先取りする『プラハ』序奏終盤での低弦の拍動の強調はホラー映画さながら。主部は少し遅めのアレグロながら、同音連打楽想での急迫、第1主題部終わりでの露骨なリタルダンドなど例によって緩急自在。テンポを落とした第2主題はかつてのブルーノ・ワルターを思い出させるが、ノン・ヴィブラート/開放弦でポルタメント気味に歌うヴァイオリンの美しいこと。そしてもちろん小結尾はテンポを元に戻して、火を噴くように盛り上がる。ティンパニはもとより、ホルンもトランペットも目一杯の強奏だ。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2023/11/05

    「ヘアハイム最初の躓き」などとドイツの批評では貶されたが、いや全然ありでしょう。確かに四部作全体を貫く二つの基本コンセプトがあまりうまく機能していないことは私も認めよう。
    1)『ラインの黄金』冒頭に出てくるのは、トランクを抱えた着の身着のままの避難民たち。ドイツ人なら第二次大戦後、ソ連やポーランドに割譲することになった東方領土からの引き揚げ者をイメージするだろう。その後、60年代ヒッピー風のジークムントを経て、『黄昏』のギービヒ家の面々や群衆は完全に現代のファッション。つまり、『指環』物語内の時間経過と戦後ドイツの歩みを重ね合わせようというわけだ。トランクはフンディング家、ミーメの家の壁を形作るなど、以後の舞台美術で活用されるし、群衆(元避難民)は『ジークフリート』最終場で主役カップルの心理を先取り、増幅したりするのではあるが、資本家(神々族)/中産階級(巨人族)/プロレタリアート(小人族)という定番通りの階層区分と併せて、シェロー演出へのオマージュとしても、もはや陳腐と言わねばなるまい。
    2)最初から最後まで舞台上にグランドピアノが置かれ、人物達はしばしばピアノの鍵盤で弾きまねをし、総譜を開きながら歌う。こうすることで、舞台からは観客に、あなたが見ているのは現実じゃない、音楽劇の上演なんだというメタメッセージが発せられ続ける。メイキングで(余談ながら、メイキング映像にも日本語字幕があるのは感心。オペラ本編の字幕も上出来だ)演出家は「観客の現実逃避を妨げるため」と述べている。ピアノの中はセリになっていて、多くの人物がここから出入りするし、ピアノの中はブリュンヒルデの眠るベッド、ジークフリートの棺にもなるのだが、だから何なのよと問い詰められると、どうも苦しいか。
    けれども、以上の二点を除けば、演出はほんのちょっとした小ネタに至るまで実に周到に考えられており、ここぞというクライマックスの見せ方のうまさ、いつもながらの音楽とアクションのシンクロ度の高さはさすが。『指環』上演史上でも屈指の名舞台と評価できる。以下、良いと思うところを列挙。
    1)『ラインの黄金』では例の避難民の一人が白塗りの化粧をしてアルベリヒに「なってゆく」が、白塗りのクラウン(道化)とはつまり「ジョーカー」。一方、ローゲは20世紀の名優、グスタフ・グリュントゲンス演ずるメフィストフェレスのイメージだ。ラインの黄金自体は金色のトランペットで、アルベリヒがそれで黄金のライトモティーフを吹くまねをする、エンディングではノートゥングのモティーフのところでヴォータンが剣を取り出し、投影されたトネリコの樹に突きたてるなど、ライトモティーフとアクションのシンクロは見事。
    2)『ワルキューレ』はすでにフンディングとジークリンデの間に男の子があり、彼女はジークムントと逃げる際に、この子を殺さねばならなかったという読み替え設定。ジークムントの子がお腹にいると知らされるまでの彼女の罪責感は異常で、われわれには理解できないが、これで了解しやすくなった。
    3)『ジークフリート』のミーメはベックメッサーと並んで、ワーグナーによるユダヤ人カリカチュアの典型とされているが、この演出ではベレー帽をかぶった作曲家本人の肖像画通りの風貌になっている。ワーグナー自身にユダヤ人の血が入っているのではという疑惑もかねてから囁かれているわけだが、これはこの作曲家の反ユダヤ主義に対する痛烈なしっぺ返し。
    4)『神々の黄昏』第1幕第2場のモノローグをハーゲンが歌い終えると、アルベリヒが出てきて息子の顔におしろいを塗る。ハーゲンは客席に降りて、最前列中央にいたヴァルトラウテと交代。そのまま客席で第1幕終わりまでの出来事を見ることになる。第2幕第1場のアルベリヒとハーゲンの対話は舞台と客席の間で行われ、その後、ようやく舞台に戻ったハーゲンは「ジョーカー」の顔になっている。第4場の修羅場ではブリュンヒルデが「神々よ」と叫ぶところで舞台後景にいるヴァルハラの神々たちが見えるようになり、槍の穂先での宣誓はハーゲンが奥のヴォータンの所から取ってきた、折れたグングニルで行われる。このあたり、実に良く出来ている。葬送行進曲ではノートゥングのモティーフのところでハーゲンが剣を取り、ジークフリートの首を切り落とす。「自己犠牲」では、ブリュンヒルデが「父よ、安らいでください」と歌うところでヴォータンが後景から降りてきて、ピアノの前に座る。最後の箇所など、当然そうあるべきなのに、これまでそういう演出がなかったのが不思議なほどだ。
    さて、歌手陣について。『ラインの黄金』は全員が歌、演技ともうまく、全体としては最も水準が高い。『ワルキューレ』以降は玉石混淆。それでもステンメのブリュンヒルデがついに三作通して見られるのは有難く、いわば救世主のように公演全体に君臨している。『ワルキューレ』以後のヴォータン、パターソンは小物感を払拭できないが、それでもなんとか健闘。ジョヴァノヴィチ(ジークムント)はキャラとしては合っているが、声自体の輝きが欲しい。タイゲ(ジークリンデ)はしっかり歌えてはいるが、印象薄い。2020年に歌ったダヴィドセン(第3幕の一部のみネット上で見られる)の方が遥かに上だった。愛嬌ある巨体の持ち主、クレイ・ヒーリーには従来ならこの悲劇のヒーローに求められたはずの「陰影」や「深み」がまるでない。しかし、ジークフリートは大人になり損ねた主人公であり、悪ガキのままで殺されてしまったのだと考えれば、こういう役作りもあり得るか。ペーゼンドルファー(ハーゲン)は荒っぽいが、演出のおかげでずいぶん得をしている。
    ラニクルズの指揮は中庸なテンポで、低回趣味とは無縁。しかし劇場的な嗅覚はとても鋭く、一昔前の指揮者ならショルティのようなセンス。この大作を味わうのに不足はない。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2023/07/26

    ピアノ協奏曲第4番の1808年稿は初演の際に作曲者が即興で入れたアインガングやヴァリアントをそのまま譜面に書き込んでしまったもの。既に耳のだいぶ悪くなっていたベートーヴェンは現場でオケとコンタクトをとることが難しいと考え、全部を楽譜に書いてしまったようだ。初演というのは1808年12月の第5、第6交響曲も初演された有名な演奏会で、作曲者が自作ピアノ協奏曲を弾くのは、これが最後になった。第4番はベートーヴェンの5曲のみならず、古今のあらゆるピアノ協奏曲の中でも、きわだって非ヴィルトゥオーゾ的な曲だと思われている−−余談ながら、アルゲリッチがこの曲だけは絶対に弾こうとしないのも、たぶんそのせい(ご本人はクラウディオ・アラウの演奏に衝撃を受け、それ以来、この曲は弾けなくなったと語っているが)。その第4番に、普通に弾かれる1806年出版譜と全く逆の性格のヴィルトゥオーゾ的な稿があるというのは実に面白いこと。
    これをわざわざ発掘してきて弾くというのは、もちろん独奏者カシオーリのこだわりなわけだが、演奏としてはミナージ指揮のオケが例によって、あまりに凄いので、独奏はオケの一部のように聞こえてしまう(何となくカラヤンとワイセンベルクみたい)。第4番では第2楽章の峻厳な弦と瞑想的なピアノ、それと最大のコントラストをなす終楽章の活気が圧巻。ロンドの第2副主題でテンポを落とすという「いつもの手」を使うが、それが見事にはまっているのには唖然とするしかない。第6番ことヴァイオリン協奏曲のピアノ版も尖鋭かつ繊細。特に終楽章は元のヴァイオリン協奏曲版を含めても、これ以上の演奏を他に知らない。独奏にホルンがかぶってくる所など本来、こう響くように書かれているはずだが、他の指揮者は誰もこのように聴かせてくれなかったのだ。ここでもロンド第2副主題でテンポを落とすが、そのはまり具合もお見事。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2023/07/22

    実に音の美しい、歌い口のうまいヴァイオリニスト。ストラディヴァリウスの名器「カンポセリーチェ」(映像はイザイしかないが、たぶん弾いているのはこれ)を完璧に鳴らす術を心得ている。全楽章とも遅いテンポで終楽章など「優雅」と言うにふさわしいが、節回しがきれいなのでもたれない(その点、ほぼ同時にディスクが出たヴェロニカ・エーベルレとは大違い)。第1楽章は彼女自作のカデンツァが長い(5分近い)せいもあって、27:56という空前の長時間演奏だ。名高いクライスラー以下、五種の第1楽章カデンツァを別収録しているのも、このディスクの特色だが、結局、自分のカデンツァが一番良いだろうと誇っているようなもので、少々厭味ではある。実際、彼女のものに比べるとクライスラーはもはや「甘すぎる」と感じるほどで、作曲家としても相当な腕前のようだ。もっとも、第2、第3楽章のカデンツァにはそんなに感心しなかったが−−そもそも、第2楽章の終わりにあまり長いカデンツァを入れるのは私の好みではない。
    ホーネックの指揮は手兵ピッツバーグ響とのベートーヴェン・シリーズと同じく大編成ながらHIPを加味したスタイル。遅いテンポは独奏者に合わせたものと思われるが、第1楽章カデンツァ後のひときわ遅い入りと最後の一撃、第2楽章でオケがffで入ってくる所のハードな感触など見事だ。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2023/07/08

    期せずしてラルス・フォークトの遺作録音となってしまったが、そういう感傷を抜きにしても、圧倒的に素晴らしい録音。「すっきり爽やか」に奏でられがちな第1番の第1楽章からして、この演奏はすこぶるスケールが大きく、ロマンの深みを感じさせる。心持ちテンポを落とす第2主題の美しさはふるいつきたくなるほどだ。逆に第2楽章はやや速めのテンポ。明らかに子守歌の性格を持つこの楽章だが、リズムの揺れが快い。スケルツォは実に繊細、終楽章は元気溌剌だ。第2番は曲の性格通り、一段と大柄な演奏。名高い第2楽章はリズムの刻みが明確で、葬送行進曲の性格が明らか。中間部の修羅場も凄まじい表現力を見せる。ノーカットかつ提示部のリピートを含めて演奏すると19分台の演奏時間を要する終楽章は難物だが、この演奏は提示部の反復こそ省くものの、ペータース版以来の98小節に及ぶ展開部のカットは復元。かねてより、しばしば採られている折衷案だが、この演奏はアレグロ・モデラートという割にはかなり速いテンポで、音楽がだれないように配慮している。結局、演奏時間は15:17。「天国的な長さ」という印象にはほど遠いが、現代人のための演奏としては大いにありうる解釈だろう。他にはヴァイオリンとピアノのためのロンド ロ短調がヴィルトゥオジティ炸裂、まさしく白熱的な演奏。 

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2023/07/06

    フライブルク・バロック・オーケストラのコンマスであるフォン・デア・ゴルツがソロを担当、ベズイデンホウトがフォルテピアノで通奏低音(当然ながら譜面はない)を弾きながら、全体の統率をとっている。写真を見るとアンサンブルの中心にいるのはゴルツで、ベズイデンホウトはその右、チェロ奏者のとなりにいる。彼とチェロ奏者以外は全員、立奏。弦は5/4/3/2/1という小編成だ。各楽章ともやや長めのカデンツァが弾かれており、その他に楽譜にないアインガングを加えるところもある。カデンツァの作者については記載がないが、おそらくフォン・デア・ゴルツ自作だろう。いずれのカデンツァも初めて聴くが、ファウスト盤のシュタイアー作カデンツァのような違和感はない。ゴルツはソリストとしても実績十分の人で、これらの曲を聴く上では全く不足のない演奏。通奏低音パートはおおむね大人しく弾かれているが、稀にはっとするような即興を聴かせる。第5番終楽章の「トルコ風音楽」パートなどは、かつてないほど強烈。やはりベズイデンホウトの存在感は格別だ。

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに共感する

検索結果:582件中1件から15件まで表示