ワーグナー(1813-1883)
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プロフィール

ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner 、1813年5月22日 - 1883年2月13日)は、歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者である。ロマン派歌劇の頂点であり、また「楽劇王」の別名で知られる。ほとんどの自作歌劇で台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼし...

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商品ユーザーレビュー

2623件

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  • 演出のつまらなさについては『ワルキューレ』のところ...

    投稿日:2025/01/04

    演出のつまらなさについては『ワルキューレ』のところであれこれ述べたので、繰り返さない。「ラインへの旅」「葬送行進曲」「フィナーレ」といったオーケストラだけの名場面ではクプファー、コンヴィチュニー、ヘアハイムなど過去の演出を参照した(パクった)と思しきアイデアもあるが、前年に同じベルリンで四部作通しのプレミエが行われたヘアハイム演出と比べると、絶望的なほど見せ方が下手だ。しかし、本作にはストーリーの根幹に関わる読み替えがあり、私は諸手を上げて賛同はしないものの、音楽は圧倒的に素晴らしい『黄昏』も台本は欠陥品であるという事実を改めて思い起こさせてくれた。「怪我の功名」とも言うべきその成果だけは評価しよう。 チェルニャコフ版の読み替えは以下の通り。第1幕、「忘れ薬」という台詞は台本通り、ちゃんと歌われているが、誰かが飲み物に薬を入れるという演技はなく、そもそもジークフリートは飲み物に口をつけていない。第3幕の「記憶回復薬」についても全く同じ。すなわち、この英雄は薬を盛られたわけではないのに、あっさりとグートルーネに心変わりしてしまったのだ。さらに第1幕終わり、グンターに変装した(この演出では見た目、何も変わっていない)ジークフリートはブリュンヒルデを「凌辱」したことが暗示される。前述の通り、私はこの読み替えが成功したとは思わない。けれども、演出の設定では研究施設内で純粋培養された社会性のない人間だとしても、英雄の評価を間違いなく大きく下げる、このような読み替えを演出家が敢行せざるをえなかった理由は、私にはとても良く分かる。 元の台本には明らかにまずい箇所が二つあるからだ。まず第一。前作『ジークフリート』ではミーメの用意した毒の飲み物を飲まなかったジークフリート、どうしてかくも不用意にハーゲンの策にかかって、忘れ薬を飲まされてしまうのか。あまりにもマヌケであり、以後の展開は茶番になってしまう。第二。こちらの方が遥かに問題だが、ブリュンヒルデはなぜ宿敵ハーゲンに夫の弱点を教えるという愚行に走ってしまうのか。夫の言動がおかしいことは、とっくに分かっているはず。なのに、その原因を探ろうともせず、自分の屈辱をぬぐうために「殺してしまえ」という結論にどうして短絡してしまうかな。そもそもこの夫婦の「愛」なんて、こんな程度のものだったのか。これでは「自己犠牲」でどんなにジークフリートの愛を讃えても、後の祭りだ。中世ドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』では、確かにジークフリートは隠れ頭巾で変装して、グンターの代わりにブリュンヒルデを手に入れてやるが、彼とブリュンヒルデとの間には恋愛関係も婚姻関係もない。だから後に変装がばれた時、ブリュンヒルデに憎まれるのは当然だ。ワーグナーのオペラにおける不具合は、『エッダ』に代表される北欧神話の神々たちの物語と『ニーベルンゲンの歌』を接合したせいだが、『トリスタン』の台本では、大昔の叙事詩を現代人をも納得させる不倫物語に作り替えてみせた彼が、『黄昏』に限っては欠陥台本にそのまま作曲してしまったのは、残念と言うほかない。 さて、ティーレマンの指揮はますます好調。本作の特徴であるオーケストラだけの部分もきわめてハイテンションだ。ルイージやジョルダンのようなポリフォニックな見通しの良さ、対位声部への目配りは望めないが、それは仕方ない。特にオペラティックな感興の高まる第2幕の修羅場はとびきりの大迫力。歌手陣では、何と言ってもシャーガーとカンペ。シャーガーは演技も上手く、チェルニャコフ版ではとりわけ強調される子供っぽさ、男という生き物の「業」の表現も完璧だ。カンペも技術的にはほんの少し、危うい瞬間があるとしても、堂々たるヒロインぶり。最終場面ではヴォータンも登場するのに、ストーリーのもうひとつの主軸、彼女が最後に父ヴォータンの望みをかなえてやる、つまり父を殺すというテーマが無視されてしまったのは無念だが、もちろんこれは演出家の責任。

    村井 翔 さん |70代

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  • 演奏自体は、きわめて高水準の『パルジファル』だ。エ...

    投稿日:2025/01/07

    演奏自体は、きわめて高水準の『パルジファル』だ。エラス=カサドは『椿姫』、メンデルスゾーンの交響曲1番と5番など、見事な演奏も何度か聴かせてもらったが、ナマでも(N響とのマーラー5番)ディスクでも(シューマン交響曲全集)ひどい演奏に遭遇したトラウマがあって、まだ本当には信用していない指揮者。しかし、このバイロイト・デビューは素晴らしい成功だ。このオペラでいつも話題になるテンポについて言えば、全体としてほぼ中庸だが、緩急の起伏はかなりある。何よりも良いのは、混濁しがちなあそこのピットにも関わらず、響きの明晰さが一貫して確保されていること。しかも随所で鋭いスコアの読み(特定の声部の強調)を見せる。歌手陣も強力無比だが、誰よりも輝いているのはガランチャ。歌も文句のつけようがないが、演技が本当にうまい。題名役を歌うには、やや年をとった感のあるシャーガーだが、巧みな演技でカバー。ツェッペンフェルトは単なる過去の物語の語り部にとどまらぬ性格的な、気難しそうなグルネマンツだが、これも良い。ウェルトン(アムフォルタス)は安易な絶叫に走らぬ、ひとつひとつの言葉に細かい表情を載せた歌唱。シャナハン(クリングゾール)も良く、こんなに歌手の揃った『パルジファル』は滅多にない。 演出は最悪だった一世代前のラウフェンベルク演出に比べれば、幾らかマシな程度。その前のヘアハイム演出の足元にも及ばない。舞台は人類文明の終末期だそうで、聖杯争奪戦をレアメタル(リチウムやコバルト)の採掘競争に擬している。だとすれば、主人公が聖杯を粉々に破壊してしまうエンディングは、こんな文明は滅びた方が良いというメッセージか。もっとも、これは物語の外側部分に新しい衣装を着せただけなので、演出家がご執心の(もちろん台本には何も書かれていない)グルネマンツとそのパートナー(黙役)との関係以外にストーリーの核心、1)パルジファルとアムフォルタスの同性愛的な共苦、2)異性愛の拒否、にも関わらず生まれてしまうパルジファルとクンドリーの間の愛、3)「さまよえるユダヤ人」クンドリーの運命、にどう向き合うかが本当は重要なのだが。クンドリーとパルジファルの接吻はいかにもありふれたマットレスの上で行われ、その直後に主人公は舞台上に転がっている死体から心臓を取り出してくる。さらに主人公のTシャツの背中にはRemember me、第3幕でのクンドリーの服にはForget meと書いてある、といったキッチュな仕様を見ると、演出家はあまり「真面目に」作品と向き合う気はないようだ。最も残念なのはARゴーグル内の映像が、ついにブルーレイに至っても何も見られなかったこと。そもそもこれがこの演出の目玉ではなかったか。

    村井 翔 さん |70代

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  • ティーレマンがこれだけ高水準の歌手陣で『ワルキュー...

    投稿日:2024/12/26

    ティーレマンがこれだけ高水準の歌手陣で『ワルキューレ』を振るのは2017年のザルツブルク・イースター・フェスティヴァル(ネミローヴァ演出)以来かと思われるが、あの時は手堅いものの、意外におとなしかった。今回はすこぶるアグレッシヴ。第1幕終わりなど、アッチェレランドを仕掛けるタイミングが早すぎ、空回りした感もあるが、とりあえず指揮は好調と見て良い。歌手陣ではフォッレとカンペの二人が抜群。ついに見ることができたフォッレのヴォータン。期待通りの出来だし、年齢的にも苦悩する『ワルキューレ』のヴォータンにふさわしくなった。しかも力押し一本槍ではなく(この演出では槍を持っていないけど)、皮肉や自嘲といった幅広い表現を織りまぜるところがさすが。2017年にはまだ若い印象があったカンペ(若さゆえの良さもあったが)、今や堂々たるブリュンヒルデになった。声の力、表現力ともに申し分なく、ほぼ理想通りの題名役。ワトソン(ジークムント)は声自体には力がありそうだが、今はまだ力任せに歌うばかりで、まだひどく荒っぽい。リトアニア出身のミクネヴィキウテ(ジークリンデ)はこれに比べれば遥かに良いが、見た目が老け顔でジークムントの双子の妹に見えないのが映像ではつらい(後述するように、この舞台にリアリティを求めても無駄だけど)。 というわけで、チェルニャコフ演出だが残念ながら、これまで見てきた彼の舞台のなかでも最も不出来なものの一つ。物語の現代化=矮小化は彼の定番だが、エディプス・コンプレックス(『ドン・ジョヴァンニ』)、エレクトラ・コンプレックス(『エレクトラ』)のように物語構造が普遍的な場合は、矮小化が原作の思いがけぬ側面を照らしだすこともあった。『指環』も所詮はファミリー・プロット、ヴォータンとその子供たち&孫の物語だから、いつもの手で行けると演出家は踏んだようだが、『トリスタン』や『パルジファル』と比べても遥かに外的な事件の多い本作に、いつもの手は通用しなかった。例えてみれば、スマホゲームFGOが一度もタイム・トラベルに出かけず、南極のカルデア本部内だけで完結してしまうようなもの。それでもノートゥングだけはちゃんとあって、小ぎれいな現代の家の壁に剣が刺さっているという仕様はそれだけで笑えるが、では決闘は拳銃を持つフンディングにジークムントが剣で斬りかかるという構図になるかと思いきや、舞台上に見えるのはジークリンデのみ。決闘は茶番に過ぎず、誰も死んでいないというのは、そう言えばチェルニャコフの出世作『エフゲニ・オネーギン』と同じだと思い当たったが、今度は何だかなあ。

    村井 翔 さん |70代

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