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0 people agree with this review 2023/11/18
カラヤンだけでなく凡そドイツ・オーストリア系の音楽家にとって、バッハは特別な存在なんだろうと思う。 カラヤンは、バッハの作品を、キャリアのごく早い段階から演奏してきた。実演の場でも、自らチェンバロを弾きつつ、愉しそうにブランデンブルグ協奏曲を指揮する姿が目に浮かぶ。そう、カラヤンのバッハは「美しく」「愉しく」「温かい」。 カラヤンが最初にブランデンブルク協奏曲を収録したのは、1964年の夏。ウィーンとミラノという欧州の二大オペラ・ハウスに加え、ベルリン・フィルとウィーン・フィル、ウィーン交響楽団、それにフィルハーモニー管弦楽団という要職を兼任し、《ヨーロッパ音楽界の帝王》と称されたカラヤンだったが、同年の5月にウィーン国立歌劇場の音楽監督を辞任し、生涯の伴侶と言うべきベルリン・フィルとの活動に集約せざるを得ない状況になる。しかし、ヨーロッパ各地を転々とする超多忙なスケジュールから解放されたカラヤンは、夏の休暇中には、ベルリン・フィルの主要メンバーを別荘のあるサンモリッツに招待し、その街の小さな教会で、小編成のオーケストラ向けの楽曲のレコーディングをおこなうのが慣例となった。その第一弾として採り上げたのが、バッハの管弦楽組曲とブランデンブルク協奏曲だった。本拠地ダーレムのイエス・キリスト教会で組まれるセッションでの緊張感溢れる雰囲気とは違い、もっとリラックスした、インティメートな空気感の感じられる佳演には他のどのレコードとも異なる魅力が横溢している。カラヤンは最後の砦=ベルリン・フィルとの絆を強固なものにすべく、休暇中にも行動をともにし、1970年代には自身をして「いま私とベルリン・フィルとは最高の状態にある」と豪語するほどの関係を築いたのであった。 マタイ受難曲は、70年代の半ば、カラヤンの絶頂期に、幾度にもわたるセッションの結果、彫塑に彫塑を重ねて完成させた名作である。ここに聴く音楽は、やはりカラヤンらしく穏やかで、温かい。しかし、サンモリッツで収録されたブランデンブルクとは違う。より「シリアス」でしめやかなもの。ダーレムのイエス・キリスト教会での緊張感に満ちた空気を感じる。 当時、「マタイ」といえばカール・リヒターの峻厳な音楽が正統とされていて、イエスが人間の犯した罪を一身に背負って磔になる受難の物語の理想的な再現として認識されていた。 それに対してカラヤンの「マタイ」は、イエスの《復活》、人類の《救済》を信じる「やさしさ」に満ちている。しかし、その「やさしさ」は、それを信じて疑わない、本来の意味での「強さ」に裏付けられるもの。カラヤンの「マタイ」には、そうした強さがある。 リヒターの「厳しさ」とカラヤンの「やさしさ」のどちらもがバッハの音楽の真実であり、これらはどのような角度で作品を見、解釈し、具現化するかの違いでしかないと思う。実際、リヒター盤も、カラヤン盤も、甲乙つけ難い名盤と言わねばなるまい。
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2 people agree with this review 2023/11/14
『カラヤンがマーラーを振る』ということで大いに話題になったものの、リリース時、日本では酷評された。曰く「マーラーにしては美し過ぎる」とか「音楽に没入していない」とか。 当時はマーラーといえばワルターかクレンペラー(作曲者の直弟子)或いはバーンスタインがショルティか、だった。マーラーを理解出来るのはユダヤ系の指揮者だけだ、といった風潮があった。極東の地日本において《本場もの》を有難がるのは無理もないところかも知れないが、同郷人でなければ評価に値しないとまでなると、それは偏狭な考えと言わざるを得ない。また、バーンスタインの独自の芸風がマーラーにフィットすることに依存はないが、狂乱や自己陶酔ばかりがマーラーの解釈とはいえない。 あの頃はブルックナーに関しても、同様な傾向が見られた。『ブルックナーを振れるのは、クナッパーツブッシュかシューリヒト、或いは、ヨッフムか朝比奈くらいのものだ」とされていたのだ。カラヤンはキャリアのごく早い時期からブルックナーを得意とし、重要な節目のコンサートでこれを採り上げ、アメリカ公演や来日公演でもプログラムに組み入れ、聴衆を興奮の坩堝に陥れた。本場ヨーロッパでは、リッカルド・ムーティが述懐しているように、カラヤンのブルックナーは「まるで神の声を聞くようだ」と絶賛された。私も、ブルックナーの8番を、カラヤン以上に見事に演奏し切った例をを挙げるのは難しい。ところが、日本の評論家諸氏は、カラヤンのブルックナーは「都会的過ぎる」とか「洗練され過ぎる」として批判した。 素人ならいざ知らず、プロの批評家であるならば、好き嫌いを超えて優劣でクリティークすべきと思うが、客観的な判断より主観的な見解を示すことの方が先に立つような評論が罷り通っていた。 話をマーラーに戻す。巨匠の時代が終わりアバドやラトル、マイケル・ティルソン・トーマス等の個性的なマーラーが登場し、また、HIP系の演奏様式が古楽やバロック音楽のみならず、古典派やロマン派の音楽にも適用されるようになると、従来の偏った見方は通用しなくなった。さらに、カラヤンの没後何周年かの企画で発売された「カラヤン・アダージョ」に収録されたアダージェットがヒットし「美しいマーラー」が支持を得るとともに、当盤の価値や意義も見直されるようになった。 こうしてようやく客観的で正当性のある評価判断が下されるようになるわけだが、それでは、カラヤンのマーラーの評価や如何に? と問われれば、当然のことだが、特Aクラスの名演ということになろう。勿論、バーンスタインやワルターも素晴らしい。しかし、マーラーはそれだけではない。近年では、初演時の楽器や奏法を取り入れた演奏も試みられるようになり、多面的な見地からマーラーの音楽にアプローチすることが可能になった。そして、それぞれの演奏の(欠点を指摘し合うのではなく)美点を見出しそれを受容できるというように、聴き手側も成熟を遂げた。 マーラー・ルネッサンス以後、混沌や異型、没入や狂乱といったグロテスクなマーラーばかりではなく、古典的、普遍的なマーラー、精緻に磨き抜かれたマーラーもところを得て、その音楽の理解も一層深まったということなのであろう。喜ばしいことである。
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1 people agree with this review 2023/11/11
作曲者本人も絶賛し、お墨付きを与えたとされるカラヤンのシベリウス。おそらく同郷の指揮者以外ではもっとも早い段階から取り上げていたと思われるが、その後も何度も録音を重ねていくこととなる。 一般には1960年代にDGGからリリースされたものが名高いが、私は断然フィルハーモニア管弦楽団とのものが優れていると断言したい。迸るようなパッションが感じられ鮮度が高い。シベリウスに不可欠の澄んだ空気感、大自然にこだまするかのような壮大さが際立っている。ベルリン・フィルとの演奏は、迫力はあるが少々重厚に過ぎ、とても見事な演奏ではあるけれど、フィルハーモニア盤に比べると爽快感に欠ける。ベートーヴェンやブラームスに爽快感は必要ないかもしれないが、シベリウスには不可欠だ。また、フィルハーモニア時代特有の品位もある。この辺りはレッグの影響かも知れない。 カラヤンの演奏スタイルは初録音の頃から既に確立していたが、実際にレコードを聴けば、フィルハーモニア時代、Decca時代、DGGの60年代、70年代、80年代と、それぞれに違いがある。私は、その違いは、プロデューサーによるものであると理解している。フィルハーモニア時代はウォルター・レッグが、Decca時代はジョン・カルショウが、そしてDGGの60年代にはオットー・ゲルデスが采配を振るっていた。その個性は、単に録音の技術的な問題に止まらず、楽曲の解釈や、レコーディングのコンセプトそのものにも違いを生じさせた。カラヤンは、そうした違いを受け入れる柔軟性と、それを見事に演奏に反映させることが出来るテクニックを有していた。 フィルハーモニア時代の特徴は、LPレコードという媒体に、それぞれの作品の規範となる演奏を刻印していくんだという、レッグの確固たる意志を感じさせるもの。19世紀的なロマンティックで濃厚な個性を誇ったスタイルからノエル・ザッハリッヒカイトという潮流を経た後の新しい基軸を世に示していくに相応しい指揮者としてレッグが白羽の矢をたてたのがカラヤンだった。そして、カラヤンは、その役割を見事に演じた。この時代のカラヤンの演奏には、凛とした気品があった。それは、プロデューサーのウォルター・レッグとフィルハーモニア管弦楽団というレッグが創設した新しいオーケストラの個性を強くてイメージさせるものだった。 ここには、シベリウスの作品のスタンダードたり得んとする気概と気迫が満ち溢れている。それは、DGG時代のベルリン・フィルという世界最高のスーパー・オーケストラと成し遂げた圧倒的な完成度を誇る演奏の素晴らしさとは異なる、若々しさと勢いを感じさせてくれる掛けがえのない作品なのである。
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0 people agree with this review 2023/11/02
カラヤンは、ウィーン国立歌劇場音楽監督時代に、Deccaにオールスターキャストを揃えた《アイーダ》の決定的名盤を遺している。プロデュースはジョン・カルショウが務めた。半世紀以上経過した現在でも、当盤を同演目を代表する名演であるとする聴き手も少なくない。 この頃のカラヤンはベルリン・フィルの常任指揮者であると同時に、シュターツオーパーとスカラ座の音楽監督であり、また、フィルハーモニー管弦楽団とウィーン交響楽団の首席指揮者でもあった。ヨーロッパの主要都市のもっとも重要なポストを兼任するもっとも多忙で人気の高い指揮者であり、ヨーロッパ音楽界の帝王と称される存在であった。カラヤンがタクシーのドライバーに「どちらまで?」と聞かれた際に、「どこでもいい。どこでも私は必要とされているから。」と答えたという有名なエピソードが残っている。おそらくカラヤン自身にとっても、もっとも幸福な時代ではなかったか。 しかし、そうした黄金時代も長くは続かない。1964年にはシュターツオーパーの音楽監督を辞任し、すでにスカラ座もフィルハーモニー管弦楽団やウィーン交響楽団のポストも手放していたカラヤンにとって、残された最後の砦は、ベルリン・フィルの終身常任指揮者だけだった。 カラヤンは、生まれ故郷のザルツブルグの祝祭大劇場が夏の音楽祭の時期を除けば空いていることに着目、オーケストラ・ピットに世界最高のオーケストラ=ベルリン・フィルを入れて、自らの理想とするオペラ上演を実現すべく復活祭音楽祭を創設する。ワーグナーの《指環》四部作を皮切りに《フィデリオ》トリスタン》といった運命のオペラを続々と上演、その後満を持して、《オテロ》をとり上げた。 やがてウィーン国立歌劇場と関係を修復すると、ザルツブルグの舞台にウィーン・フィルを招聘、自ら指揮を執り重要な作品を上演していくようになる。 そして1978年にヴェルディの作品中もっとも人気の高い《アイーダ》の再録音を敢行する。Decca盤に比べると些か軽量化したとはいえ70年代のベストメンバーを揃え、そして何よりカラヤンの卓越したリーダーシップが隅々までいきわたったオーケストラと合唱団の名演奏がここに刻印されることとなった。旧録音も勿論素晴らしいが、新盤の圧倒的な迫力と緻密な設計に基づく精妙な表現の前には、もはや霞んで聴こえるから驚きだ。あのDecca盤以上の演奏が実現可能だったなんて信じ難いことだが、EMI盤ではそれが達成されている。 アバドもムーティーも素晴らしいが、カラヤンの新盤の完成度の高い演奏と比較すると、やや未成熟といった感がする。もちろん若いムーティーの迸る激情や、アバドの規律正しい正攻法の演奏を推薦するに吝かではないが、このオペラの壮大さに匹敵する偉大な演奏ということになると、この盤に止めを刺すことになろう。
0 people agree with this review 2023/10/30
カラヤンは同曲のセッションを映像も含めると4回組んだが、その中で最高の演奏はこのベルリン・フィルとのDGG盤であろう。 ソリスト達の歌唱も素晴らしい。ソプラノのフレーニによればこの曲は運命の曲ということだが、本人がそう断言するだけのことはある理想的な歌が聴ける。ルートヴィヒも流石だ、スカラ座と映像収録した際のコッソットも見事だったが、それに勝るとも劣らない模範的な演奏といっていいだろう。 カルロ・コッスッタはその後どうしたのか分からないが、ここでの活力に満ちた歌唱には驚かされた。ウィーン・フィルとの新盤のカレーラスも優れているが、この当時のコッスッタはそれ以上ではないか。 ギャウロフもこの頃が最盛期ではなかったか。《ボリス・ゴドノフ》も《ドン・ジョヴァンニ》もギャウロフ抜きには上演は出来なかったというくらい、カラヤンにとって必要不可欠なバリトンだった。 そして、何よりオーケストラの奏でる響きに圧倒される。カラヤンはこの頃「私とベルリン・フィルは、いま最高の状態にある」と豪語していたが、まさにそのことを裏付けるかのような完璧な演奏が展開されている。 カラヤンは1930年代から幾度となくこの曲を採り上げてきた。79年の来日公演でも、ソリストも合唱団も引き連れてやって来て壮絶な演奏を披露していった。それはそれで忘れ難いものであったとはいえ、72年盤の完成度の高さは格別だ。アバドもムーティもこの曲を得意とし何種類も録音を遺したが、それぞれの価値を認めつつも(実際、どれをとっても間違いのない名演奏には違いないが)、どれかひとつと問われたならば、私は躊躇なく、このカラヤンの72年盤を推す。敢えて次点はどれかというならば、アバド/スカラ座盤か?
0 people agree with this review 2023/10/28
カラヤンのワーグナーでもっとも成功した録音ではないか? 《指輪》も《マイスタージンガー》も、《トリスタン》も《パルジファル》も素晴らしいが、この《ローエングリン》は主役のルネ・コロをはじめとして配役に隙がなく、オーケストラのパーフォーマンスもこの上なく洗練されていて、文句のつけようもない出来栄えだ。自身の理想とする楽劇上演を目指して復活祭音楽祭を創設しただけあって、史上空前の水準の演奏が達成されている。今後も、これを上回る演奏が登場することは、まずないだろう。 私はカラヤンの絶頂期は、ザルツブルク復活祭音楽祭を創設した1966年から椎間板の手術を受ける1975年までの10年間だと思うが、オペラに限っては1970年代末まで好調が続く。この期間にリリースされたレコードは、どれもこれも桁違いに素晴らしい。人類のなし得た最高の作品が林立する。 EMIにはジェス・トーマスを主役に立てたケンペ盤があり、SACDで復刻された。これはこれで優れた演奏でリイッシューの意義は計り知れないが、カラヤン盤が再発売されたならば、その反響は比較にならないはずだ。この決定的な名演奏が廃盤とは、なんとも情けない。是が非でもSACDで復刻を望む。
0 people agree with this review 2023/10/27
運命のオペラ『フィガロ』『フィデリオ』『トリスタン』の三作以上にカラヤン向きの『ドン・ジョバンニ』だが、録音には慎重だった。実際、このオペラの上演は難しい。カラヤン自身、「これ以上は不可能だろう」と豪語したというギャウロフを主役に立てた上演の際にも、セッションを組むことはなかった。 レイミーとフルラネットという組み合わせが新鮮だ。何者をも恐れない放蕩者ドン・ジョバンニだが、従者レボレッロが付き従い、エルビーラが心を奪われるだけの魅力をもつという奇想天外な主人公を演じるのに、シエピでは立派すぎるし、ディースカウでは真面目すぎるし、キャウロフではカッコよすぎると思う。その点、レイミーは絶妙だ。立派過ぎず、軽過ぎず、調子の良い色男なのに品がなくはない。理想的ではないかもしれないが、丁度良い。もともとドン・ジョバンニの理想的な歌い手など、望むべくもない。 フルラネットのレボレッロが素晴らしい。おそらく史上最高のレボレッロではないか! バルツァのドンナ・エルビーラ、バトルのツェルリーナも絶品。そして何よりカラヤンとベルリン・フィルの演奏が聴かせる。ジュリーニのEMI盤と並ぶ二大傑作として推奨する。
0 people agree with this review 2023/10/24
小澤の最高傑作ではなかろうか。 小澤征爾の特性からして近代のロシアものやフランスものに名演が多いことは当然と思われるが、ボストン響とのベルリオーズの一連の作品と並んで、この『火の鳥』は素晴らしい。 私が思うに、小澤ともっとも相性の良かったオケはパリ管ではないか? チャイコフスキーの交響曲や管弦楽曲、ワイセンベルクと共演したプロコフィエフとラベルも抜群のリズム感と切れ味を見せていた。かつて新日本フィルを振った『火の鳥』や『ボレロ』の実演にも感銘を受けた記憶があるが、小澤さんの場合セッション録音だとあまりにキッチリとし過ぎてライブの時のような興奮が得られない嫌いが無きにしも非ず。しかしここでは極めて柔軟性に富んだ伸びやかな演奏が展開されていて、小澤さんらしい歌に満ち溢れたクライマックスが形成されている。 個人的には、ラベルやドビュッシー、そして得意のベルリオーズの作品をパリ管と収録してくれていたらと思うが・・・。 小澤とパリ管の録音は、是非ともSACDでリイッシューを出して欲しいと思います。
0 people agree with this review 2023/10/14
カラヤンの勝負曲のひとつ「フィデリオ」。オーケストラの指揮者である以上にオペラ劇場のカペルマイスターであることを望んだカラヤンが自らのキャリアの節目に取り上げてきたのが「フィガロ」「トリスタン」であり「フィデリオ」だった。 序曲が始まって、直ぐに金縛りにあったような衝撃を受ける。眩いばかりの輝きに満ちた響き、誰しもここで奏でられている音楽の放つ強烈なオーラに圧倒されるはずだ。この充実しきった響きを耳にしたら最後、他の鳴り方では満足出来なくなるのではないか? この曲をこのように鳴り響かせることが出来るのは、この時期のカラヤンだけ。カラヤンはフィデリオの序曲を何度も繰り返しレコード化したが、このような充足を与えてくれる演奏は、他にはない。これこそ絶頂期のカラヤンとベルリン・フィルの音である。私はもう一つ、これと同等の衝撃を受けた記憶がある。それは、77年収録の「荘厳ミサ」の最初のトニカの響き。完全なる調和。荘厳かつ崇高な、力強くも澄み切った心地よい音楽が鳴っていた。カラヤンが残した奇跡的な演奏の記録を、是非ともSACDで復刻して欲しい。
0 people agree with this review 2023/10/13
カラヤンがバルビローリのボイコットによって急遽代役として振ったということだが、よくぞ引き受けてくれたものだ。すでに作品に相応しいオケとキャストが揃って、もうそれだけでも立派な演奏になるに違いない条件が整っていて、そこに当代随一のワーグナー指揮者に白羽の矢が立ったということか。70年代の初頭にワーグナーのオペラをすぐさま代役として振れる経験を有する指揮者といえば、カラヤンの他にはクレンペラーかベームくらいしか考えつかない。バレンボイムはまだ指揮者を目指すのかピアニストとして研鑽を積んでいくのか決めかねていた時期だし、クーベリックやヨッフムもいたが、この日程とスタッフでマイスタージンガーのセッションにすぐ入ってくれ、というような要請に応えられるタイプの指揮者ではなかったのだろう。何より契約関係の縛りが強く、DGGからの依頼であればともかく、ヨッフムがEMIと契約を結ぶのは、もう少し後のことだった。 あの超多忙なカラヤンが、よくも承諾したものだとも思うが、よく考えてみれば、70年代のカラヤンはウィーンもスカラ座もメットも歌劇場のポストは手放していて、優れたオペラ上演をする機会に飢えていたのかも知れない。 兎にも角にも、カラヤンのマイスタージンガーが聴けることとなった。それも主兵のベルリン・フィルではなくシュターツカペレとの演奏で。カラヤンは共演する相手やプロデューサー、録音会場や技師たちの違いによって、演奏のスタイルや作品解釈やコンセプトも変化させる。ベルリン・フィルとだったら、おそらく更に力感に溢れた演奏になっただろうが、しなやかで味わい深い、人肌の温もりを感じさせるような手作りの織物のような仕上がりになった。もちろんカラヤンならではの精妙な響きや壮大な盛り上がりが紛れもない彼の指揮した作品 であることを認識させる演奏になっているが、シュターツカペレであればこその優れた特徴を活かした名演奏となっているところが素晴らしい。この辺りのところが、カラヤンの凄さで、イタリアのオケを振っても、ベルリンでもウィーンでも、はたまたストックホルムでも、結局はフルトベングラーの音楽になってしまうのとは対照的。ベルリンフィルのティンバニスト、テューリヒェンが「カラヤンの多数ある同一作品のの録音は、技術的進歩の違いを示すのみで、解釈自体の変化はまったくない。」とのべているが、それは事実に反する。逆に、フルトベングラーの方こそ、毎回テンポやフレージングのかけ方、強弱のダイナミックスは異なるが、表現しようとしているものの違いはほとんどないと思うが、如何だろうか? その後、ヨッフムはDGGからフィッシャー=ディースカウ主役のマイスタージンガーをリリースし、これも同作品の代表盤となった。ライブ盤ではあるが、ベームもクーベリックも発売されて、現在では選り取り見取りだが、カラヤン盤とショルティの旧盤(ウィーン国立歌劇場)が両横綱といったところか? ショルティはシカゴ響と再録音したが、カラヤンはしなかった。この演奏に満足していたのではないかと考える。 しかし、バルビローリのマイスタージンガーですか? それも是非とも聴いてみたかった。そうしたら、カラヤンはベルリン・フィルと収録したんだろうな。それはそれで、また、凄い演奏になったんだろうな。
フルトベングラー、ベーム、クライバーも素晴らしいが、カラヤンの入魂の演奏も捨て難い。というより、私は、カラヤン盤をもっとも好む。次点はクライバーか。フルトベングラー盤は当時最高のキャストと指揮者の崇高さ(レコード嫌いで有名なフルトベングラーだったが、このセッションにはいたくご満悦で、犬猿の仲であったプロデューサーのレッグに感謝の辞を述べたという)、ベームは絶頂期のバイロイトのスターの精力的な歌唱とライブで燃える指揮者の推進力が感動を呼ぶ。無論、これらの伝説的名盤をトリスタンの代表的な名演とするに些かの躊躇いもないが、フルトベングラー盤は今となっては録音も演奏スタイルも古く、ベーム盤は一直線に突き進む勢いは凄まじいが、何度も聴くと直情的過ぎて含みに欠ける。カラヤンのトリスタンは、それらの名盤と比較してさえ、別次元の奇跡的な記録となった。 全盛期のカラヤンの作品には、時として何かに憑かれたような壮絶な凄演があるが、これもその一つ。特にベルリン・フィルを起用して演ったオペラの全曲盤に、それが多いように思う。オテロ、ボエーム、フィデリオ、ドン・カルロ、トロバトーレなどなど。 完璧なキャスティングで臨んだウィーン・シュターツオーバーとのセッションに対して、ベルリン・フィルとのオペラ作品には主役級の歌手の起用に少なからず疑問がある場合もあるが、そうした問題をものともせずにオーケストラが咆哮し、熱烈に歌い抜く、といった感じで、雄弁極まりないカラヤン節が鳴り響く。完成度の高さよりも、とてつもない《オーラ》を信条とする、全く独自の魅力を放つ演奏が展開されている。従って、作品を聴くというよりも、カラヤンを聴くという印象もなきにしもあらずだかが、カラヤンの魔力、磁力に完全に圧倒され、息を吐く間もない。カラヤンは共演する相手やプロデューサー、録音会場に応じて作成する作品のコンセプトや演奏スタイルを変化させる(ベルリン・フィルの団員でフルトベングラー信者のテューリヒェンの『カラヤンの複数ある同一作品のレコードは録音技術や方式が違うだけで、その内容には進歩も変化もない』という見解には、私は賛同出来ない)が、ベルリン・フィルという世界最高のオーケストラをピットに入れるからには、そのことの意義を何が何でも反映させなければ、と言わんばかりの壮絶な演奏だ。新旧のオテロ、トロバトーレ、トスカやカルメンを聴き比べれば、誰しもその違いを明確に認識出来るはずだ。名将カラヤンと稀代のスーパーオーケストラ=ベルリン・フィルの渾身の演奏に引き摺り回される。 「奇跡の人 カラヤン」と称賛され、ドイツ音楽界の最年少のカペルマイスターとして認知かれるきっかけとなった勝負曲『トリスタン』を全盛期のカラヤンが振って悪かろうはずもないが、自身をして「いま私とベルリン・フィルは最高の状態にある」と言わしめた時期の名作である。必聴の名盤として推薦したい。 バーンスタインのむせかえるが如き粘っこい演奏を良いという方もいらっしゃるし、バレンボイムやティーレマンも健闘してはいるが、まだまだこの4人の域には達していないと思われる。 現在、カラヤン最盛期のオペラ作品(いずれも同演目の代表的名演盤)の多くが廃盤になっている! 何たることか? 一刻も早く、SACDで、オリジナル丁装でリイッシューすべきである。その暁には、我々は、カラヤンとベルリン・フィルというコンビがどれほどの隔絶した存在だったかを、改めて思い知ることになるであろう。
0 people agree with this review 2023/10/12
カラヤンがその輝かしいキャリアを築いていく節目には、勝負曲ともいうべき演目が選ばれてきたが、それは、「フィガロ」「フィデリオ」そして「トリスタン」であった。 カラヤンはフルトベングラーの死後、ベルリン・フィル、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン交響楽団の音楽監督、常任指揮者を兼任し、ヨーロッパ音楽界の帝王と称されることとなるが、ワーグナーの聖地《バイロイト》と決別し、ウィーン国立歌劇場のポストを辞任すると、生涯の伴侶ベルリン・フィルの終身常任指揮者に専念せざるを得ない状況となった。オーケストラ指揮者であると同時に、いや、それ以上に、オペラハウスのカペルマイスターでありたいと望むカラヤンにとって、ウィーン国立歌劇場との別離は痛恨の極みであったと思われるが、カラヤンはそうした状況下にあっても、理想のオペラ上演を目指して、ザルツブルグ復活祭音楽祭の創設を構想する。 自らの生地ザルツブルグの祝祭大劇場は、夏の音楽祭が開催されるシーズンを除けば空いている。そのオーケストラビットには世界最高のスーパーオケであるベルリン・フィルを入れる。そしてバイロイトでもウィーン国立歌劇場でも出来なかった、理想のワーグナー楽劇の上演をする。他の何人をもってしても成し得ない、一切の妥協を廃した理想のオペラ上演の実現に向けてひた走ることになる。 私は、ザルツブルク復活祭音楽祭が始まった1966年から椎間板の手術を受ける1975年までがカラヤンの絶頂期と見ている。その間にリリースされた作品には一つの駄作もない。 カラヤン絶頂期の、それも十八番中の十八番、ワーグナーの作品集が悪かろうはずがない。私は、このワーグナーの序曲集とオペラ間奏曲集こそは、カラヤンの最高傑作ではないかと思う。無論、カラヤンのベートーヴェンやブラームス、そしてチャイコフスキーやシベリウスも素晴らしいが、この二作に関しては、どのような苦言をも寄せ付けない圧倒的な名演で、アンチ・カラヤンの論評をも封じるだけのオーラを発している。 カラヤンとベルリン・フィルの至芸が刻印された名盤が、SACDでリイッシューされたことを喜びたい。 EMIさんにお願いしたいことかあります。カラヤンの全盛期のオペラ全曲版を、是非ともSACDで復刻していただきたい。トリスタン、ローエングリン、マイスタージンガー、オランダ人、オテロにアイーダ、ドン・カルロ、トロバトーレ、ベレアス、それからハイドンの四季、ドイツ・レクィエム、荘厳ミサ・・・。EMIさんが出来ないなら、タワーレコードさんか、或いはエソテリックさんで。宜しくお願い致します。
カラヤンのシューベルト? 膨大なレパートリーを誇ったカラヤンだが、シューベルトの作品を聴くのにカラヤンを推すという評者は、少なくとも日本ではいなかったのではないか? 実際、カラヤン自身も「シューベルトは難しい」とこぼしていたというし、フルトベングラーやベームの歴史的名盤も存在することから、ベスト盤はどれか、という単純な図式を当てはめがちな日本では、カラヤン盤という選択肢はあり得なかった。 しかし、全盛期のカラヤンの手にかかると、未完成もグレートも、超弩級の名案が繰り広げられることとなる。未完成の一切の甘さを排した力強い意志を感じさせる力演も、彫塑を尽くした構築物のようなグレートの威容も、カラヤンとベルリン・フィルでなければ成し得ない、現代オーケストラによる最高のパーフォーマンスと言わなければなるまい。 フルトベングラー盤の偉大さ、ベーム盤の堅牢さに敬意を表しつつも、このカラヤンならではのユニークな名演にも、私は相応の評価を与えずにはおれない。 満点の評価に値する、素晴らしいシューベルト。
0 people agree with this review 2023/10/10
カラヤン自身が『今、私とベルリン・フィルは最高の状態にある』と豪語していた時代に収録したもの。この頃、カラヤンは、夏季休暇中に、ベルリン・フィルの腹心を別荘のあるサンモリッツに招いて、その街の教会で、バッハやヘンデルなどの小編成のオケ向きの楽曲をレコーディングしDGGからリリースしていたが、突如、モーツァルトの管楽器のための協奏曲集とハイドンの交響曲をEMIの新譜として発売した。この頃の彼等の拠点は、ベルリン・フィルハーモニーホールではなくダーレムのイエス・キリスト教会だったが、休暇中の避暑地でのリラックスした雰囲気で演奏されたこれらの諸作は、通常の緊張感溢れる力作とは、また異なった魅力をもった仕上がりになっている。バイロイトと決別し、ウィーン国立歌劇場の音楽監督をも辞任したカラヤンが終身常任指揮者を務めるベルリン・フィルとの関係にコミットし、そこでの仕事に全精力を投入していたこの期間、すなわち、理想のオペラ上演を目指して故郷のザルツブルクでイースター祭音楽祭を創設した1966年から椎間板の手術を受ける1975年までの10年間を、私は彼等の全盛期とみているが、この間に制作されたレコードにはただ一つの駄作もなく、全てが「人類の至宝」ともいうべき傑作群と断言できる。そうしたなかにあって、サンモリッツでの録音は、独自の光彩を放つ愛らしい佳作揃いで、興味深い。 最愛のオペラ・ハウス『ウィーン国立歌劇場』との別離を経て、世界最高のオーケストラ、ベルリン・フィルを最後の砦と定め、その関係を揺るぎないものとすべく、休暇までをも共に過ごし、蜜月の関係を築き上げようと努力したカラヤン。ベルリン、ミラノ、ウィーン、ロンドンの最高のオペラ劇場と管弦楽団の監督を兼任し、ヨーロッパ音楽界の帝王とまで称された男が、そのほとんどを失って、しかし、それから自らのキャリアの頂点を築くことになる。芸術の世界では、死に物狂いになって、はじめて至高の境地に達することが可能になるということか?
1 people agree with this review 2023/10/09
かつては「カラヤンのシューベルトなんて」、という扱いだったように思うが、70年代の後半に突如として全集がリリースされたのには、私も驚いた。ベルリン・フィルの常任になって15年ほどの年月をかけて、大半のレパートリーを網羅していたDGGには未完成」と「ザ・グレイト」があるのみで、カラヤンも「シューベルトは難しい」とみずから吐露していることなどから、一般に、シューベルトは苦手な演目とみなされていた。 しかし、来日公演でも「未完成」はしばしば取り上げられており、カラヤンなりに愛着のある作品であったのではなかったかと思われるし、カラヤンの全盛期にEMIに収録した「未完成」の素晴らしさは、それまでの既成概念を覆して余りある超弩級のインパクトをもっていた。かつて、これほど力強く歌い切ったシューベルトがあっただろうか? カラヤンの演奏は、質実剛健なベームや端正なセル、或いは熱烈なバーンスタインと比較して、流麗で審美的とされてきたが、この「未完成」の男性的な決然とした表現は、従来のイメージを一変させる。カラヤンらしく、レガートをかけながらじっくりと歌い抜くスタイルは健在ながら、ベルリン・フィルの剛毅な響きが交錯する様は圧倒的だ。 ハイドンも見事だ。カラヤンは、後にDGGにディジタルで「パリ・セット」と「ロンドン・セット」をまとめてリリースするが、その世評の高い再録盤よりも、私はこのEMI盤を好む。「時計」「雌鳥」と共に、この「ロンドン」は、大編成のオーケストラでハイドンの交響曲を演奏するスタイルとしての理想的回答といえるのではないか。ワルターやセルの名演、そしてコリン・デイビスの秀演もあるが、カラヤンが最盛期にEMIに収録した三曲のパーフォーマンスに勝るものはない、と思う。勿論それぞれに優れた演奏であり、他にもお洒落なビーチャム盤や、フレッシュなアバド盤も含めて、聴き逃せないレコードが多々存在するし、昨今のHIPによる活きの良いいくつもの快演も傾聴すべきである。私はそれらのうちのどれがベストかを競うよりも、それぞれの独自の価値を味わい分けることが望ましいと考えるが、この「ロンドン」がカラヤンとベルリン・フィルというコンビが成し遂げたベストフォームを示した一例として刻印されたことを喜びたい。
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