CD 輸入盤

マリヤ・ユージナの芸術(26CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
SC813
組み枚数
:
26
レーベル
:
:
Europe
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


マリヤ・ユージナの芸術(26CD)

マリヤ・ユージナ[1899-1970]は個性派揃いのソ連(旧江戸とはあまり言わないので旧ソ連という表記はやめておきます)のピアニストの中でも突出した人物として知られています。
 哲学や文学・美術に通じ、ドイツ語、フランス語、ラテン語にも堪能で、しばしばエキセントリックとも言われたユージナは、バッハやベートーヴェン、ブラームス、シューベルト、モーツァルトなどドイツ・オーストリア音楽を得意とする一方、20世紀作品もよくとりあげていました。
 今回、イギリスのスクリベンダムから登場するセットは、26枚組という大規模なもので、ユージナの個性的な演奏を一気に手軽に楽しめるのが朗報。録音年代は1947年から1970年の23年間、初期のものには音質の良くないものも多く含まれていますが、演奏の個性は十分に伝わってきます。

【ソ連の人気ピアニスト】
ユージナのソ連国内での人気は、リヒテルやギレリス、ソフロニツキーなどと並ぶものだったといいますが、ユージナとソフロニツキーの2人はソ連国内で活動していたため、存命中の西側での知名度は低く、ユージナの名前が広く知られるようになるのは、ヴォルコフの本『ショスタコーヴィチの証言』に、スターリンとユージナの不思議な物語が紹介されてからのことです。
 1976年にアメリカに亡命した人物により、1979年にまず英語で発表されたというその本の置かれた状況そのものがすでに反ソ連的ですし、内容の方も、ソ連の無名の人間によって書かれた有名人に関するエピソードを中心としたものということで、反ソ連キャンペーン的な性格を帯びるのは仕方のないことなのかもしれません。
 これまでにも個々の話の真偽についていろいろと議論されており、現状ではショスタコーヴィチ本人が発表した文章を転用した部分以外は怪しいということになっているようです。
 中には、プロパガンダを重視していたレーニンが、音楽や演劇を弾圧していたとする明確な事実誤認も含まれていますが、これは、本が書かれたのがスターリン主義者でもあったブレジネフ書記長の時代[1964-1982在任]だったということで、スターリンについてあまり悪く書けなかったという事情があったのかもしれません。
 スターリンがラジオで放送されていたモーツァルトに感動し、高額な報酬を貰ったユージナがスターリンに説教がましいお礼の手紙を書いたという設定にしても、スターリンを美化しかねない筋書きなので、やはり内容については疑問符が付きます。
 しかし結果的にそれでユージナの名前が広まったのであれば、それはそれで良いことと言えるのかもしれませんが、新作ブラック・コメディ映画『スターリンの葬送狂騒曲』にまでそのユージナのエピソードが使われているとなると、コメディとはいえユージナ・ファンには笑えない話なのかもしれません。


【激動のロシア正教会】
ユダヤ系の裕福な家庭に育ったユージナは、19歳のとき、身内の反対を押し切ってロシア正教会で洗礼を受けて改宗、さらに宗派を超えてアッシジの聖フランチェスコにあやかった清貧の生活を心がけるなど強い信仰の人でもありました。また、婚約者を結婚直前に登山事故で失った悲しみから生涯独身を貫き、遺された婚約者の母親の面倒をみるなど困っている人を支援することも多かったといいます。
 ユージナの生きた時代のソ連では、宗教は全面禁止こそされていないものの略奪・弾圧の対象になっていたため、ユージナの強い信仰がトラブルを引き起こすこともたびたびだったようです。1930年には、ソ連政府による憲法の宗教関連項目の改正を批判する文章を小さな新聞に掲載、レニングラード音楽院の教授職を解雇されていましたし、共産党機関紙プラウダからは、彼女と学生たちの様子を、祈祷師とひざまずく信徒たちとして風刺されたりもしていました。
 レーニンにより始められた宗教弾圧の犠牲者は、1939年までに聖職者だけで10万人以上となっており、革命前には5万ほどあった教会の数も1930年には約3万に減少、憲法改正後の1931年からは閉鎖や爆破、収容所への転用がさらに激しさを増し、1939年には、実際に使用されているソ連の教会は僅か数百ほどになっていました。しかもレーニンのつくったチェーカー(秘密警察)による粛清対象には、ユージナのような一般の信徒も含まれていたのです。
 この危険な状態は、1941年にスターリン(神学校出身)がロシア正教会の復活を決めるまで継続し、大きな犠牲を生み出していました。スターリンが教会を復活させた理由は、独ソ戦を乗り切るためとも言われていますが、もしかしたら、教会から奪える財産はほとんど奪ったから復活させたとも考えられます。もともとレーニンが宗教弾圧を激化させたのも、大飢饉によりひっ迫した国内情勢を、教会の財産を奪って建て直すという側面もあり、のちに大量失業対策にユダヤ人の財産を使用することになるドイツ政府とも通じるところがあります。違うのはソ連の場合は後任のスターリンが略奪・殺戮にブレーキをかけ、ドイツの場合は略奪・殺戮がどんどん拡大していったというところです。
 スターリンによりロシア正教会問題評議会が新設され正教会組織が復活、神学校も四半世紀ぶりに再開、何千もの教会が急遽運営されるようになり、逮捕者などはあったものの、1953年のスターリンの死まではそうした状態が継続、教会の数も2万5千ほどに回復していました。
 しかし後任のフルシチョフは無神論者で、再びロシア正教にはつらい時代が到来、1959年には弾圧が強化され、1964年に書記長辞任に追い込まれるまでに計15,000ほどの教会を閉鎖、約5万人の聖職者を殺戮することとなります。
 1964年に着任したブレジネフはスターリン主義者で、宗教弾圧はおこなわず(復活もしませんでしたが)、そのためユージナの晩年の信徒生活は比較的穏やかなものとなっていたようです。


【愛国的ピアニスト】
ユージナはよく「反体制ピアニスト」と言われていますが、反政府的な視点から体制批判をしたことは無かったようで、「宗教」「音楽」「文学」など、自分に関わりの深いものについて、率直に意見(行動)していたというのが実情です。
 1930年の政府批判にしても、宗教に関する憲法改正がおこなわれたことに不満を述べたものですし、禁じられていた西側の現代音楽をとりあげていたのも、その音楽に価値があると考えておこなっていたことであり、政府が禁じたからとりあげたということではありませんでした。
 戦時中は軍のためにも演奏していましたし、そもそもソ連国内に留まって政治的な反政府活動を展開すれば、すぐに逮捕・投獄され、処刑、もしくは収容所送りとなってしまいます。
 戦時中、役人だけでなく、有名音楽家の多くも安全なところに疎開する中、ユージナはモスクワに住み続けてコンサートをおこなっただけでなく、ドイツ軍の大部隊がまだ近くに残っていたレニングラードも訪れ、4か月間に渡って演奏会や放送に出演。市民に音楽を提供し、さらに、軍のために通訳や看護の仕事もおこなっていました(ユージナはドイツ語、フランス語、ラテン語にも堪能)。
 下の画像で一緒に写っているのは赤軍兵士、さらにずっと下って、【年表】の1944年のところの画像は政治将校、1945年のところは海軍将校との写真です。


【同時代音楽】
ユージナの若い頃は、ソ連政府はモダニズムやアヴァンギャルドにも協力的で、音楽、演劇、美術、文学などさまざまな作品が登場していました。中でも音楽は、プロパガンダ活動の一環として、国外からもさまざまな音楽家を招聘、ヒンデミットやバルトーク、ストラヴィンスキー、シェーンベルク等々、のちに禁止されることになる作曲家の作品を多数とりあげており、特にユージナの暮らしていたレニングラードでは、その規模もかなり大きなものとなっていました。
 ソ連建国の1922年からヒトラー内閣誕生直前の1932年にかけて、レニングラードには、ドイツを中心に国外から数多くの指揮者が客演。レーニン/スターリンの社会主義プロパガンダの一環ということもあってか、その人選は非常に豪華で、フリート、クレンペラーアーベントロート、シュレーカー、モントゥーワインガルトナー、ミヨー、ワルター、クライバー、カゼッラ、アンセルメ、クレメンス・クラウス、オネゲル、ツェムリンスキー、クナッパーツブッシュ、ブッシュ、ターリヒなどすごい顔ぶれ。
 さらにソ連の指揮者・演奏家も活躍し、20代なかばだったユージナの弾くバッハを聴いたクレンペラーは深い感銘を受けたと語ってもいました。
 しかしそうした状況は、ヒトラー内閣誕生と独ソ戦の開戦により一気に終息、作曲家同盟が設立され、1934年以降はソ連における同時代音楽の意味合いは、モダニズムから社会主義的なものに変質して行きます。
 そうした時代が20年ほど続いたのち、フルシチョフのもたらした「雪どけ」は、文化・芸術統制が緩和された状況をつくりだしてもいたようで、ユージナも多くの西側同時代音楽を演奏・録音しています。
 とはいえ、保守派の力も根強く、禁止音楽との関わりによって音楽家を処罰に追い込むには、告発者が多くの署名を集めればよかったようで、ユージナも30人の署名入りで告発され、1963年にフィルハーモニー協会主催演奏会への出演禁止処分を受けたりしていました。


【トラブルと生活】
1899年に生まれ1971年に亡くなったユージナの生きた時代は、ニコライ2世、レーニン、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフが国を治め、秘密警察組織、オフラーナ[1881-1917]、チェーカー[1917-1922]、GPU[1922-1924]、OGPU[1924-1934]、NKVD[1934-1946]、MVD[1946-1954]、KGB[1954-1991]が国民生活を牛耳っていました。
 ロシア革命、内戦、2度の世界大戦、レーニンによる粛清、スターリンによる大粛清、フルシチョフの宗教弾圧という過酷な環境を生き抜いたユージナが、ロシア正教会で洗礼を受けたのは、正教会と資金的にも関係の深かったニコライ2世殺害(=レーニンによるロマノフ家財産没収)の10か月後のこと。
 すでにレーニンによる宗教弾圧(=教会財産没収)は開始されており、無神論教育の普及で少数派となってしまった「信徒」としてソ連国内で生活するのは大変だったようです。しかもユージナは、のちに禁止されることになる音楽や文学にも積極的に関わっていたため、それが多くのトラブルを引き起こすことにも繋がっていました。
 中でも重大なトラブルが「解雇」で、レニングラード音楽院(在職9年)、モスクワ音楽院(在職15年)、グネーシン研究所(在職16年)という著名な学校での要職を、憲法改正批判記事執筆や、禁止音楽の演奏、禁止文学作品の朗読などの理由によってそれぞれ失っており、さらに演奏会への「出演禁止」処分を下されたりもしています。
 1963年には、モスクワのロストフ堤防に建設されたモダンなアパートに転居し、亡くなるまでの7年間はそこを拠点に、コンサートホールや放送局、教会などに出かけ、新聞などへの執筆活動もおこなってたほか、ベヒシュタインの上には大好きな猫がいることも多かったとか。
 また、晩年のユージナは移動の際に、当時ソ連で大流行していたスニーカーを履いていましたが、服の方は相変わらず僧服のような質素な黒ずくめなので、そのミスマッチぶりが揶揄されることもしばしば。しかし、スニーカー着用には、少し足の具合が悪くなっていたという事情もあったようです。


【生涯独身】
ユージナは生涯独身でしたが、それには悲しい理由もありました。1939年の秋、ユージナの婚約者、キリル・サルティコフが登山事故のために25歳で亡くなってしまったからです。ユージナと結婚直前だったサルティコフは、モスクワ音楽院でのユージナの教え子で15歳年下、ピアノと作曲、編曲の勉強をした音楽家でしたが、登山家でもあり、3人のチームでコーカサス山脈のブジェドゥ山(標高4,280メートル)を登っていた際にチームごとクレバスに落下し、全員が命を落としてしまいます。ユージナは悲嘆にくれますが、彼の母親の面倒を見、生涯、独身を貫くこととなります。また、ユージナは彼の編曲したモーツァルトのレクィエムのラクリモサ(涙の日)をレパートリーにもしていました(CD12)


【水辺が大好き】
ユージナは、生まれ故郷のネーヴェリが、美しい湖のほとりの街だったこともあってか、水辺が好きだったようで、レニングラード音楽院教授の時は、ネヴァ川沿いのアパート、モスクワ音楽院とグネーシン研究所の教授の時は、モスクワ郊外の森と池に近い家、晩年はモスクワ川沿いのロストフ堤防に建てられたアパートに暮らしていました。


【芸風】
「私の人生において、太陽のように崇めるピアニストは3人いた。ソフロニツキー、ネイガウス、そしてユージナだ!」と語るリヒテル[1915-1997]は、ユージナについて「常識を逸脱し尋常ならぬ芸術家」と評し、宗教弾圧下でありながら、演奏会で十字を切るという振る舞いに呆れながらも、彼女のバッハやベートーヴェン、ブラームス、ムソルグスキー、シューベルトなどの演奏を称える一方、表現された音楽は作曲家のものではなく、まさにユージナそのものであるとも述べていました。
 ユージナの葬儀では、リヒテルがユージナから褒められていたというラフマニノフを演奏するなどしていました。以下、リヒテルがユージナの演奏について語った言葉です。

■バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻第22番 →「グールドもユージナに較べればかわいいものだ。」
■モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番、シューベルト:即興曲変ロ長調、ブラームス:間奏曲イ長調(Op.118-2) →「彼女のあとに弾く気にはなれない。弾いたらみっともないことになる。」
■リスト:バッハのカンタータ『泣き、歎き、憂い、怯え』の主題による変奏曲 →「天才的な演奏だった。とどろきわたるのではなく、心に染みいるような演奏で、ピアノ曲というよりは、ミサ曲を聴いているようだった。ユージナはまるで儀式を執り行っているようにピアノを弾いた。祝福するように作品を弾くのだ。」


【年表】
西暦年(年齢)の横に長期的な仕事・学業・居住地などについて記載


1899年(0歳) ネーヴェリ
●9月9日、マリヤ・ヴェニアミノヴナ・ユージナは、ロシア帝国の西の端、ヴィーテプスク県(現プスコフ州)のネーヴェリに誕生。シャガールが故郷を描いた絵画「ヴィーテプスクの思い出」でも知られるヴィーテプスク一帯はユダヤ人の多い地域で、ネーヴェリの1910年時点での数字でも、ロシア正教会4、ローマ・カトリック教会1に対し、ユダヤ教会(シナゴーグ)が11ありました。
 ユージナ家もユダヤ系で、医師の父、ベニアミン・ガヴリロヴィチ・ユージンは「労働英雄」で裕福な名士。妻リーザとのあいだには6人の子供が誕生。また、リーザの死後に再婚したセシリアとのあいだには女子が誕生。ちなみにユージンには「ユダヤ人の」という意味があり、ユージナはその女性形です。

・父親:ベニアミン[1864-1943]
・母親:リーザ[1868-1918]
・長女:フローラ[1891-1961 医師]
・長男:レフ[1892-1964 医師]
・次男:ボリス[1894-1986 映画監督・劇作家・脚本家]
・次女:アンナ[1896-1970 科学文献翻訳者]
・三女:マリヤ[1899-1970 ピアニスト]
・三男:
・継母:セシリア[1891-1964]
・四女:ベラ[1926-2004 地質学者]

◆スターリン[1878-1953]がグルジア正教会のチフリス高等神学校を中退。司祭叙任直前という時期でした。以後、気象台職員を経て、銀行強盗や恐喝によってボリシェヴィキのために金を集め続け、1906年にボリシェヴィキが銀行強盗を禁止するまで多額の献金を実施、翌1907年にはロシア社会民主労働党第5回大会にレーニンと共に出席するまでになります。


1905年(6歳) ネーヴェリ
◆1月、ロシア帝国首都サンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」発生。ロシア第1革命へ発展。
●ユージナは、フリーダ・テイテルバウム=レヴィンソンのもとでピアノの勉強を開始。彼女はアントン・ルビンシテインの弟子でした。


1912年(13歳) ネーヴェリ、サンクトペテルブルク音楽院在籍
●ユージナはサンクトペテルブルク音楽院に入学。1921年までの9年間在籍し(うち怪我による休学が2年間)、その間、ピアノをアンナ・エシポワ[1851-1914]、ヴラジーミル・ドロズドフ[1882-1960]、フェリックス・ブルメンフェリト[1863-1931]、レオニード・ニコラーエフ[1878-1942]、理論をマクシミリアン・シテインベルク[1883-1946]、ヤーセプス・ヴィートリス[1863-1948]、ニコライ・チェレプニン[1873-1945]、スコア・リーディングをレニングラード・フィルの指揮者エミール・クーパー[1877-1960]に学んでいたほか、オルガンのクラスでも受講。
 同級生には、ドミトリー・ショスタコーヴィチ[1906-1975]とヴラジーミル・ソフロニツキー[1901-1961]がいました。


1913年(14歳) サンクトペテルブルク音楽院在籍
●ユージナ、初リサイタル開催。


1914年(15歳) サンクトペテルブルク音楽院在籍
◆7月、第1次世界大戦勃発。ロシア帝国軍は東プロイセンに侵攻するもののすぐに形勢逆転。ドイツ軍の大規模な毒ガス使用などにより膨大な戦死者。国民の不満が蓄積されてやがて3月革命、11月革命、ロシア内戦へと繋がり、1922年にはソ連が成立することになります。
●8月、ユージナのピアノの師、アンナ・エシポワが死去、後任はヴラジーミル・ドロズドフで、その後、親指を負傷して休学する1918年までフェリックス・ブルメンフェリトに師事しています。
●ユージナの通うサンクトペテルブルク音楽院がペトログラード音楽院に改名。これは第1次世界大戦でドイツが敵国となり、ロシア帝国内のドイツ語名詞がロシア語に変更、サンクトペテルブルク市もペトログラード市となったため。


1917年(18歳) レニングラード音楽院在籍
●ユージナの通うペトログラード音楽院がレニングラード音楽院に改名。これはロシア革命により、ペトログラード市の名前がレニングラード市に変更されたため。
◆3月、3月革命(ユリウス暦では2月革命)勃発。ロシア臨時政府樹立。
◆7月、ペトログラードで7月蜂起。50万人のデモがロシア臨時政府により鎮圧。
◆11月、11月革命(ユリウス暦では10月革命)勃発。レーニンが最高指導者を務めるボリシェヴィキ政権樹立。第1次世界大戦と並行してロシア内戦(第1期)が勃発。
◆11月、すべての土地は人民の所有(=政府所有)とする法が発令。教会の土地・財産も没収されます。
◆12月、レーニンによりチェーカー(秘密警察)設立。100人足らずの小組織でスタートするものの、ロシア帝国秘密警察オフラーナのメンバーも含めるなどして急拡大を遂げ、やがて28万人規模にまで成長。初代議長はジェルジンスキー。「組織化された恐怖」をモットーに、聖職者、自由主義者、資産家に関しては、街頭でも手あたり次第に射殺。


1918年(19歳) レニングラード音楽院休学、ネーヴェリ
●3月24日、ユージナの母リーザ[1868-1918]死去。上の写真は、母とユージナ、2人の兄と弟と一緒に写ったもの。
●ユージナは野外作業で親指を負傷し、レニングラード音楽院を休学、故郷ネーヴェリに戻り、2年間を過ごします。
◆1月、レーニンのにより憲法制定議会閉鎖。選挙でボリシェヴィキが第1党になれなかったため、武力による独裁体制に移行。
◆3月、ブレスト=リトフスク条約により、第一次世界大戦の東部戦線での戦闘が終結し、ロシア内戦(第1期)も休戦。
◆3月、ボリシェヴィキは共産党に改名。共産党以外の政党活動を禁じて、共産党の一党独裁制とします。
◆5月、レーニンにより食糧独裁令発令。武装した労働者食糧徴発隊組織により農民たちからの作物の収奪が開始、内戦に繋がって行きます。
◆7月、ロシア・ソヴィエト社会主義共和国憲法制定。
◆7月、ニコライ2世[1868-1917]処刑。一家7人と従僕ら計11人がレーニンの命令によりエカチェリンブルクで殺害。
◆8月、トロツキーによる脱走兵銃殺命令。
◆8月、レーニン暗殺未遂事件発生。社会革命党の女性党員による銃撃。
◆ロシア臨時政府により、ロシア正教会の財産を政府のものにすることを決定、宗教教育も禁止となります。


1919年(20歳) ネーヴェリ
◆3月、ロシア内戦(第2期)勃発。
●5月、ユダヤ系のユージナは、すでに迫害の始まっていたロシア正教会で洗礼を受けます。正教会は楽器演奏が禁じられていたということで、ユージナは聖歌隊に所属して聖歌を歌ってもいました。また、宗派を超えて、アッシジの聖フランチェスコの熱烈な賛美者となり、その清貧思想にあやかって、ユージナも黒い服で過ごすことが多くなります。
●ユージナは、同郷の哲学者・思想家・文芸批評家のミハイル・バフチン[1895-1975]を中心とするネーヴェリの文芸サークルに所属、哲学、文学、思想について大きな刺激を受けることとなります。
◆11月、ロシア内戦(第2期)、ユダヤ系で赤軍創始者でもあるトロツキー率いる赤軍が白軍を撃退。


1920年(21歳) ネーヴェリ、レニングラード音楽院復学
●1918年に負傷した親指が癒えたユージナは、レニングラードに戻り、音楽院に復帰。レオニード・ニコラーエフ[1878-1942]に師事して飛躍的成長を遂げます。
◆4月、ヴランゲリ将軍が白軍の全権を掌握。翌月にはロシア軍と名を改めてクリミア半島を拠点に赤軍と戦闘。ロシア内戦(第3期)勃発。
◆11月、ヴランゲリ将軍が敗北、ユーゴスラヴィアに亡命。ロシア内戦(第3期)終了。
◆内戦は深刻な飢餓も引き起こし、全死者数は800万人とも言われています。
 内戦後の耕地面積は内戦前の62パーセント、生産量は37パーセント、金属製農機具生産量は13パーセントに減少。耕作馬の頭数は350万頭から240万頭に減少、牛は580万から370万に減少。さらに輸送手段である機関車の稼働率も半分以下になっていました。
 為替レートも、米ドル「1ドル=2ルーブル」から、「1ドル=1,200ルーブル」となり600分の1の価値に下落、超ルーブル安となり、輸出競争力が急上昇し、国外からの投資も集めやすくなり、そうした金融環境が、翌年のレーニンによる資本主義的な新経済政策(ネップ)策定に繋がったものとも考えらえます。


1921年(22歳) レニングラード音楽院在籍、レニングラード音楽院講師
●ユージナはレニングラード音楽院を卒業。ソフロニツキーとともにアントン・ルビンシテイン賞の金メダルが授与され、レニングラード音楽院で教職に就きます。
●ユージナはレニングラード・フィルと共演。指揮は音楽監督で、ユージナのスコア・リーディングの師でもあるエミール・クーパー。公演は成功をおさめ、以後繰り返しレニングラード・フィルと共演します。
◆4月、タンボフの反乱。アントーノフ率いる数万人の農民たちを、レーニンの指示により5万人規模の赤軍とチェーカーが、毒ガスなどを用いて6月までに殲滅。
◆ヴォルガ流域を中心に全国規模で飢饉発生。翌年にかけて栄養失調などが原因で農村中心にチフスやコレラが流行、数百万規模の犠牲者が出て、モスクワなど都市部にもホームレスや浮浪児が集まるようにもなります。


1922年(23歳) レニングラード音楽院講師、レニングラード大学在籍
●ユージナ、レニングラード大学で哲学と歴史を勉強。
◆3月、レーニンが「聖職者全員銃殺」を指令。まず翌年にかけて、主教28人、司祭2,691人、修道士1,962人、修道女3,447人のほか、信徒も多数を処刑。財産を没収し、飢饉対策にも使用しました。
◆5月26日、レーニン、最初の脳梗塞発作。5か月間の入院中に回復するものの簡単な計算なども困難な状態に。その間、スターリンは、カーメネフ、ジノヴィエフとのトロイカ体制を確立、有力幹部トロツキーに対抗します(のちにカーメネフ、ジノヴィエフは粛清、トロツキーは国外追放のうえ暗殺)。
◆6月、レーニンが反政府知識人の大量追放を指令し、数万人を強制収容所などに送致。
◆12月、ソビエト社会主義共和国連邦成立宣言。
◆12月16日、レーニン、2度目の脳梗塞発作。右手の麻痺はあるものの仕事は口述で遂行。


1923年(24歳) レニングラード音楽院教授
●ユージナ、レニングラード音楽院教授に就任。ネヴァ川沿いの広く美しいアパートに暮らし、音楽や文学の集まりを盛んに開いていました。
●ユージナ、公式ソロ・リサイタル・デビュー。
●ユージナ、レニングラード音楽院教授。
◆3月10日、レーニン、3度目の脳梗塞発作。回復せず10か月後に死去。その間、スターリンが実権掌握。

1924年(25歳) レニングラード音楽院教授
◆1月、レーニン死去、スターリンが最高指導者に。
◆1月、ソ連憲法制定。


1925年(26歳) レニングラード音楽院教授
●ユージナは、リムスキー=コルサコフの息子アンドレアスの主催するホーム・コンサートで、クレンペラーと知り合い、バッハの演奏を高く評価されます。

1926年(27歳) レニングラード音楽院教授
◆メンジンスキー、OGPU長官に就任。1930年から1931年にかけて粛清を実施。


1928年(29歳) レニングラード音楽院教授
●11月、ユージナはモスクワで初のコンサートに出演。指揮はニコライ・ゴロワノフ。

1929年(30歳) レニングラード音楽院教授
◆ソ連政府により憲法の宗教に関する部分が改正。すべての宗教の社会的・教育的・慈善的活動が禁じられ、宗教団体の拠点も当局指定の建物に限定、布教活動も不可能となり、また、教会を国と切り離して民間団体として扱い、聖職者には重税が課せられることとなりました。1918年には教会の土地・財産は没収されていたので、これで財政基盤が極度に弱体化し、さらに学校では無神論を教えるようになります。
◆トロツキー、国外追放。
◆スターリンによりレーニンの新経済政策(ネップ)否定。市場経済の廃止。


1930年(31歳) レニングラード音楽院教授
●ユージナはソ連政府による憲法改正を批判する文章を新聞に掲載、レニングラード音楽院の教授職を解雇されます。
●4月、モスクワ。演奏会の前に、ユージナのファンでもあったアレクセイ・ロセフ[1893-1988]の招きでロセフの家で交流。
 ロセフはマルクス主義に反対する哲学者で詩人、小説家で、ヴァイオリニスト志望でもあったため音楽に詳しい人物でしたが、著書『神話の弁証法』が当局から問題視され、4月18日に逮捕、懲役10年の刑を宣告され、シベリアの労働収容所送りとなり、過酷な境遇で健康を害します。しかし政治犯支援団体の議長を務めるエカチェリーナ・ペシュコワ[1887-1965](ゴーリキーの最初の妻)の尽力により1933年なかばにモスクワへの復帰を果たしていました。
 モスクワに戻ったロセフは、さっそくユージナにインスパイアされた小説『思想家としての女性、または女性思考家』を執筆し1934年に発表しますが、内容がユージナの気に入らず、その後、ユージナがロセフに会うことはありませんでした。
◆メンジンスキー統合国家政治局(OGPU)長官による粛清が実施。


1931年(32歳) レニングラード
◆12月、スターリンにより、高さ103メートルという世界最大の正教会建造物である「救世主ハリストス大聖堂」が爆破(ハリストス=キリスト)。教会への弾圧はロシア革命初期の1917年から始まっていますが、それでも1930年にはまだ3万の教会がありました。しかし憲法改正後の1931年からは、閉鎖や爆破、収容所への転用などが本格化し、1939年には実際に使用されているソ連の教会は数百ほどにまで減少しています。
◆メンジンスキー統合国家政治局(OGPU)長官による粛清が実施。


1932年(33歳) レニングラード、トビリシ音楽院大学院講師
●ユージナはグルジアのトビリシ音楽院大学院で講師の職を獲得。
◆ユダヤ系のカガノーヴィチによる民族主義運動抑圧政策でウクライナ国境封鎖。ソ連の輸出を支えていたウクライナ農作物の過剰な収奪により、人工的な大飢饉(ホロドモール)となり、栄養失調により免疫機能の衰えたウクライナの農民たちは、翌年にかけてチフスなどで約700〜1000万人(国連共同声明数値)が犠牲になります。また、民族主義運動の可能性があるということで、ウクライナ人、ウクライナ・ドイツ人の文化人や知識層も追放などされていましたが、ユダヤ系は除外されており、都市部では普通の生活が営まれていました。

1933年(34歳) トビリシ音楽院大学院講師、レニングラード
●ユージナ、モスクワでモスクワ放送交響楽団と共演。


1934年(35歳) レニングラード、モスクワ音楽院教授
●ユージナは、ゲンリフ・ネイガウス[1888-1964]の推薦によりモスクワ音楽院の教授に就任(1951年まで)。
●バッハ:前奏曲 BWV 883、トッカータ BWV 911(CD3)録音。
●労働収容所帰りのアレクセイ・ロセフが、小説『思想家としての女性、または女性思考家』を発表。ユージナにインスパイアされた作品でしたが、ユージナは交流を断絶。
◆9月、ヤゴーダが内務人民委員に就任。任期中の2年間に粛清を進めるものの、スターリンからはあまり好まれず、左遷となります。

1936年(37歳) モスクワ音楽院教授<
◆9月、エジョフが内務人民委員に就任。任期中の2年間に膨大な数の人々を粛清。手始めに前任者のヤゴーダとその家族、親しい隊員など約3,000人を処刑。
◆11月、スターリン憲法制定。官僚制を強化。


1937年(38歳) モスクワ音楽院教授
◆ロシア正教会の聖職者、85,300人が処刑。

1938年(39歳) モスクワ音楽院教授
◆ロシア正教会の聖職者、21,500人が処刑。
◆8月、ベリヤがNKVDの議長代理に就任。スターリンと同じくグルジア正教の家庭の出身。前任のエジョフとその部下を1940年2月に処刑。


1939年(40歳) モスクワ音楽院教授
●秋、ユージナの婚約者、キリル・サルティコフ[1914-1939]が登山事故のため25歳で死去。サルティコフはモスクワ音楽院でのユージナの教え子で15歳年下、ピアノと作曲、編曲の勉強をした音楽家でしたが、登山家でもあり、3人のチームでコーカサス山脈のブジェドゥ山(標高4,280メートル)を登っていた際にチームごとクレバスに落下し、全員が落命。ユージナは彼の母親の面倒を見、生涯、独身を貫くこととなります。また、ユージナは彼の編曲したモーツァルトのレクィエムのラクリモサ(涙の日)をレパートリーにもしていました(CD12)
◆ロシア正教会の聖職者、900人が処刑。
◆8月、独ソ不可侵条約締結。
◆9月、ドイツ軍、赤軍、ポーランド侵攻。
◆10月、ポーランド分割。
◆10月、赤軍、フィンランド侵攻。
◆10月、ソ連、国際連盟から除名。


1940年(41歳) モスクワ音楽院教授
◆ロシア正教会の聖職者、1,100人が処刑。
●4月、カティンの森事件発生。NKVD(KGBの前身)が、ポーランド将校ら2万2千人を銃殺。ベリヤが提案、スターリンと政治局が承認。
●10月、モスクワにチャイコフスキー・コンサートホールが開館。元は前衛演劇のメイエルホリド劇場。同劇場は1938年にメイエルホリド[1874-1940]弾圧により閉鎖、翌年にはメイエルホリド逮捕・投獄、1940年2月に処刑されていました。


1941年(42歳) モスクワ音楽院教授
◆6月、ドイツ軍が不可侵条約を破ってソ連に侵攻。「バルバロッサ作戦」開始。
◆6月、イタリア、ルーマニア、ソ連へ宣戦布告。
◆7月、フィンランド、ハンガリー、ソ連へ宣戦布告。
◆7月、ドイツ軍によるモスクワへの空爆開始。
●9月、ユージナも数多く出演していたチャイコフスキー・コンサートホールの第2シーズン開始。以後、戦時下ながらコンサートが数多く行われ、同ホールでの戦争中の演奏回数は大小合わせて約1,500回。屋根には高射砲が設置され、高射砲部隊のためのコンサートもおこなわれていました。
◆9月、ドイツ軍によるレニングラード包囲戦が開始(レニングラード市の面積は東京23区の2.3倍)。行政と軍の無為無策により、一般市民の疎開は政府系職員の後に細々とおこなわれ、開始時期も厳冬期にずれこんでしまったためなかなか捗らず、1941年12月から1942年3月までの4か月間に膨大な数の人名が失われています。多くは飢餓が原因で、凍死がそれに続き、さらに無差別爆撃や砲撃での犠牲も相次ぎましたが、隣接するラドガ湖が結氷すると輸送ルート「命の道」が開通、ようやく一般市民の疎開も可能になり、氷が融ける4月末までに51万人以上の市民が脱出することに成功しています。もっともその場所は常にドイツ軍の無差別攻撃にも晒されており、犠牲者も多く、「死の道」とも呼ばれていました。
 その後、1942年の夏にはパイプラインも建設して冬季の暖房が使用可能となり、冬には本格的な自動車輸送も開始され、氷上鉄道も開通するなど、市民生活からは最初の冬のような凄惨さは無くなります。
 また、1942年6月には、冴えなかった将軍たちに替わってゴヴォロフ中将がレニングラード方面軍司令官に就任し、砲兵部隊の専門家として次々に実績を上げ、7か月後の1943年1月17日には封鎖をほぼ解除、その後、大規模な補給線を構築して市内に大量の物資や食料を送り込み、軍備も増強してドイツ軍を圧倒、1944年1月27日には完全にレニングラードを解放しています。
 ゴロヴォフ将軍は、市民や兵士の士気の高揚にオーケストラも活用、市街各所のサイレンスピーカーからも音を流すなどしていました。中でも有名なのは、レニングラード交響楽団と軍楽隊員がショスタコーヴィチの交響曲第7番『レニングラード』を演奏する際、ドイツ軍の砲撃がやむように、その前に徹底的に砲兵隊によって攻撃をおこなったというエピソードで、実際に多くの拠点を撃破して効果があったのだとか。
 また、1943年6月には、モスクワに残って市民のために演奏活動をおこなっていたユージナが、ドイツ軍の大部隊がまだ近くに残っていたレニングラードを訪れ、4か月間に渡って演奏会や放送に出演。レニングラード市民に音楽を提供していたほか、軍のために通訳や看護の仕事もおこなっていました。
 なお、レニングラード市は、872日間の包囲戦の中、総人口約320万人のうち100万人近くが犠牲になり、赤軍兵士も40万人以上が落命しています。


●10月、ショスタコーヴィチ家がレニングラードからクイビシェフ(現サマーラ)に疎開。ショスタコーヴィチはレニングラード音楽院教授だったので、早い時期に政府系の人々と同じ疎開先に行くことができ、安全な環境で交響曲第7番『レニングラード』を作曲、完成直後の12月27日にはパーティーを開いて作品完成について語っていました。
◆10月、モスクワ攻防戦(翌年1月まで)。政府機能をクイビシェフに疎開(1944年まで)。多くの政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者が疎開するものの、市民の多くは残されていたため、ユージナは疎開せずに活動。
●11月4日、ユージナの恩人で同僚のネイガウス、政府による疎開命令に従わず、モスクワに留まったことで、ドイツ軍の到着を待っているという嫌疑をかけられて逮捕。
 疎開命令に従わなかった実際の理由は、ネイガウスの妻ミリツァの78歳の母親が病気で長旅に耐えられない状態だったため、妻ミリツァが疎開を拒否したことでネイガウスも動けなかったというものでした。
 ネイガウスは悪名高いモスクワのルビャンカ刑務所で8.5か月を過ごしています。最初の面会者はマリア・ユージナで、投獄後約6か月後にようやく許可されたものでした。以後、ギレリス、ザーク、リヒテルなどが訪れ、プーシキン全集などの差し入れも提供されました。しかしNKVDによる拷問のような過酷な尋問と劣悪な収監環境は、ネイガウスの健康を蝕み、痩せこけて、複数の歯が抜け落ちてしまうという状態にまで陥っています。



◆11月、赤の広場で軍事パレード実施。これは約410万人のモスクワ市民のうち、疎開できていたのが、主に政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者だったことから、残された市民が近づくドイツ軍への恐怖から暴動などを起こさないよう安心感を与えるためで、同じ理由からロシア正教への弾圧をやめ、ほどなく復活させることを約束してもいました。


◆11月、ドイツ軍、モスクワから8キロの地点まで侵攻。赤軍必死の抵抗。
◆11月29日、ジューコフ将軍による大攻勢が開始。兵力は極東に展開していた赤軍40個師団、約75万人の精鋭部隊で、すでにモスクワへの移動を完了していました。
●ユージナ、モスクワ音楽院教授。


1942年(43歳) モスクワ音楽院教授
●3月、モスクワの東南東約860キロにある安全なクイビシェフに疎開していたサモスードとボリショイ劇場管弦楽団によりショスタコーヴィチ交響曲第7番『レニングラード』が初演。サモスードは終楽章に合唱によるスターリン賛歌を挿入することを提案しますが、ショスタコーヴィチはそれを拒否。
◆6月、スターリングラード攻防戦開始(翌年2月まで)。役人など政府関係者の疎開しか認めず一般市民の疎開は禁じられたため、膨大な数の犠牲が出たと考えられています。
●7月、モスクワの東約2800キロにあるさらに安全なノヴォシビリスクに疎開していたムラヴィンスキーとレニングラード・フィルがショスタコーヴィチ交響曲第7番『レニングラード』を演奏。
●7月4日、ネイガウス、反政府的言動の罪により、5年間、ソ連国内に340か所あった「制限地域」のひとつに住むことを命じられます。ネイガウスは、モスクワから約15,000キロ離れたスヴェルドロフスク州のクラスノトゥリインスクで森林伐採をして5年間過ごすことを選択。スヴェルドロフスク州には、ネイガウスの長男アドリアンが入所していた結核療養所も疎開していました。
●7月19日、ネイガウス、ルビャンカ刑務所から釈放。髪は伸び放題でボサボサ、服もボロボロで著しく衰弱した状態でした。
●ネイガウスの刑を軽減してもらうため、音楽家たちが行動をおこします。ネイガウスの送致先であるスヴェルドロフスク州には、当時、「キエフ音楽院」の教師や学生が疎開して、現地のスヴェルドロフスク音楽院(のちのウラル音楽院)などで活動しており、キエフ音楽院の院長でピアノ科教授でもあるアブラム・ルフェル[1905-1948]が、ネイガウスに音楽院で働いてもらいたいと当局に請願。
 さらに1934年にネイガウスがスヴェルドロフスク音楽院の創設準備に当たった際、自分の弟子だったベルタ・マランツ[1907-1998]と、セミョン・ベンディツキー[1908-1993]を、スヴェルドロフスク音楽院の教師として送り出しており、ほどなく結婚していたその2人の協力も得ることができました(下の画像は1934年にスヴェルドロフスク音楽院が開校した時のマランツとベンディツキー、ネイガウスの姿です)。


 こうしてネイガウスは、スヴェルドロフスクに関わる人々のおかげで、疎開中のキエフ音楽院の教授として働き、ウラル、シベリア地域でコンサート・ツアーをおこなうことも許可されています。
 ちなみにスヴェルドロフスクには、オイストラフやストリヤルスキー、ヤンポリスキー、シェバリーン、カバレフスキー、グリエール、グリンベルクなど有名な音楽家も疎開してきて教育活動に従事したほか、ギレリスやタマルキナが、疎開地をめぐるコンサート・ツアーの一環として訪れたりもしており、ネイガウスが、ツアーで滞在中のギレリスと4手演奏をすることもありました。

●8月、ドイツ軍包囲下のレニングラードで、エリアスベルク指揮レニングラード交響楽団員と軍楽隊員がショスタコーヴィチ交響曲第7番『レニングラード』を演奏。

1943年(44歳) モスクワ音楽院教授、レニングラード
◆1月、赤軍、モスクワ攻防戦に勝利。
◆ロシア正教会問題評議会が設立。
◆ユージナの故郷、ネーヴェリに近いヴィーテプスク近郊で、ドイツ軍と、ドイツ占領地域のウクライナ人やベラルーシ人などで結成されたボランティア団体「警察補助隊」が、ベラルーシ地域の628の農村を襲撃し、民族無差別に子供や女性・老人を大虐殺。
 一連の作戦の中の、ハティニ村の虐殺を描いた1985年のソ連映画『炎628』はその衝撃的な描写で一躍有名になります。もっともウクライナもベラルーシもソ連の同胞だった時代の作品ということで、ドイツ軍が作戦の主役になってはいますが、実際には警察補助隊がメインだったようです。ちなみにベラルーシは、第2次世界大戦中に人口が約920万人から約700万人にまで減少していました。
●6月2日、ユージナの父、ベニアミン・ガヴリロヴィチ・ユージン[1864-1943 医師]が、疎開先のモロトフ(現ペルミ)で死去。
●6月、ユージナは、ドイツ軍の大部隊がまだ近くに残っていたレニングラードを訪れ、4か月間に渡って演奏会や放送に出演。疎開しなかったレニングラード市民に音楽を提供します。また、同地では軍のために通訳や看護の仕事もおこなっていました。
◆9月、スターリンとロシア正教会の首脳たちがクレムリンで会見を開き、教会宥和政策を発表。これにより、総主教制の復活、神学校や神学大学の再開、教会機関誌「モスクワ総主教庁ジャーナル」も復刊されることとなり、「戦闘的無神論者同盟」の解散も決定。


1944年(45歳) モスクワ音楽院教授、グネーシン研究所講師
◆1月、赤軍、レニングラードを解放。
●ユージナ、グネーシン研究所(現グネーシン国立音楽大学)講師。


1945年(46歳) モスクワ音楽院教授、グネーシン研究所講師
◆1月、赤軍、ワルシャワを解放。
◆12月、NKVDのトップ交替。クルグロフがベリヤの後任として内務人民委員に就任。クルグロフはベリヤの部下として、エジョフ派の大量粛清や、チェチェン、イングーシ人の弾圧、ウクライナ民族主義運動活動家の粛清もおこなっていた人物。


1946年(47歳) モスクワ音楽院教授、グネーシン研究所講師
◆NKVDの後継としてソ連内務省(MVD)発足。クルグロフが初代内務大臣として1952年11月まで6年間在任するものの、任期なかばから内務省の権限が国家保安省に大幅に移行され収容所管轄省のような状態になったため、1952年にベリヤが国家保安省を内務省に統合、みずから第2代内務大臣となりますが、翌1953年6月にフルシチョフにより逮捕(半年後に処刑)されたため、クルグロフが大臣に復帰。翌1954年には内務省から分離してKGBが発足、1956年1月にはクルグロフがフルシチョフにより解任、以後、左遷ののち1960年に党から除籍されています。

1947年(48歳) モスクワ音楽院教授、グネーシン研究所講師
●シューベルト:ピアノ・ソナタ第10番(CD14)録音。

1948年(49歳) モスクワ音楽院教授、グネーシン研究所講師
●5月、モーツァルト:デュポールの主題による変奏曲 K573(CD5)録音。
●9月、バッハ:半音階的幻想曲とフーガ BWV 903(CD3)録音。
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番、第23番(CD4)、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番(CD6)、ブラームス:ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ(CD14)録音。

1949年(50歳) モスクワ音楽院教授、グネーシン研究所講師
●9月、ムソルグスキー:夢、瞑想曲、涙(CD19)録音。


1950年(51歳) モスクワ音楽院教授、グネーシン研究所講師
●2月、リスト:バッハのカンタータ『泣き、歎き、憂い、怯え』の主題による変奏曲(CD13)録音。
●4月、ムソルグスキー:スケルツォ(CD19)録音。
●5月、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第5番(CD7)録音。
●7月、ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第6番(CD13)録音。
●9月、バッハ:前奏曲とフーガ BWV 543(CD3)録音(or 1952)。
●12月、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番(CD6)録音。
●バッハ:ヴァイオリン・ソナタ第3番(CD13)録音。


1951年(52歳) モスクワ音楽院教授、グネーシン研究所教授
●7月、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第22番(CD8)録音。
●8月、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第16番(CD7)録音。
●10月、モーツァルト:幻想曲 K475,K397(CD5)録音。
●バッハ:平均律抜粋(CD3)録音(1955年まで)。
●シューマン:幻想小曲集(CD16)録音(1952年まで)。
●ハイドン:ピアノ・ソナタHob XVI:52(CD4)録音。

1952年(53歳) グネーシン研究所教授
●6月、哲学者ミハイル・バフチンがモスクワのグネーシン研究所でユージナの生徒たちのために「バラードとその特性」というテーマで講演。
●7月、プロコフィエフ:ロメオとジュリエット(抜粋)(CD25)録音。
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第29番(CD9)、ブラームス:ラプソディー Op.79(CD17)録音。
●シューマン:予言の鳥(CD16)録音(1952年まで)。
●ユージナ、ライプツィヒ・バッハ・フェスティヴァルに参加。

1953年(54歳) グネーシン研究所教授
◆3月、スターリン死去。
◆3月、ウクライナ人、フルシチョフが最高指導者に。
◆6月、ベルリンで反ソ暴動発生。ソ連軍が鎮圧するものの、この年だけで東ドイツから西ドイツへの流入は30万人を超えます。
◆7月、ジューコフ元帥が戦車部隊2個師団を率いてモスクワに入り、国家保安省本部を占拠、ベリヤとカガノーヴィチを逮捕。
◆12月、ベリヤ処刑(フルシチョフによる粛清)。
●バッハ:平均律抜粋(CD1)録音(1957年まで)。
●タネーエフ:四重奏曲(CD15)、プロコフィエフ:束の間の幻影から、セロツキ:前奏曲の組曲(CD25)録音。


1954年(55歳) グネーシン研究所教授
◆3月、ソ連国家保安委員会(KGB)発足。初代議長はセーロフ。
●4月、ベートーヴェン:創作主題による変奏曲、ピアノ・ソナタ第14番、第17番、bアッハ:前奏曲とフーガ BWV543、プロコフィエフ:束の間の幻影(抜粋)、シューベルト(リスト編):白鳥の歌(CD11)、シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番、ボロディン:小組曲(抜粋)、シューベルト:楽興の時第3番、モーツァルト:レクィエム〜ラクリモサ(涙の日)、ムソルグスキー:展覧会の絵〜古城(CD12)、キエフでのライヴ録音。
●ユージナ、ポーランド・ツアー実施。

1956年(57歳) グネーシン研究所教授
●1月、シューベルト:即興曲3曲(CD13)録音。
◆2月、フルシチョフによる反スターリン演説。
◆6月、ポーランドのポズナニで反ソ暴動発生。ソ連軍が鎮圧。
◆10月、ハンガリーで反ソ暴動(ハンガリー動乱)。ソ連軍が鎮圧。
●シマノフスキ:9つの前奏曲、変奏曲 Op.3(CD13)録音。


1957年(58歳) グネーシン研究所教授
●タネーエフ:五重奏曲(CD15)録音。
◆6月、反党グループ事件発生。反フルシチョフの最高幹部保守派らによるフルシチョフ解任に向けての政治運動。幹部会11人のうち7名が賛成してフルシチョフ解任動議が可決するものの、フルシチョフは中央委員会でなければ解任はできないと時間を稼いで抵抗、ジューコフ国防大臣とセーロフKGB議長の協力を得て、中央委員会を開催し、反対派を抑えることに成功、反対派幹部を政権から追放していました(ジューコフも11月に解任)。
◆6月、ウラル核惨事発生。ウラル山中の原爆用プルトニウム製造工場で、高レベル放射性廃棄物が爆発、周辺住民45万人が被ばく。カラチャイ湖はのちに埋め立て。

1958年(59歳) グネーシン研究所教授
◆6月、フルシチョフ、ブルガーニン首相を解任し、第1書記と首相を兼務。
●6月、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番(CD9)録音。
●7月、メトネル:ピアノ・ソナタ第2番、第3番(CD17)録音。
●9月、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第5番(CD7)、第27番(CD8)録音。
●10月、メトネル:ピアノ・ソナタ第1番(CD17)録音。
◆12月、ソ連国家保安委員会(KGB)議長にシェレーピンが就任。前年にマレンコフらによるフルシチョフ解任計画をつぶして彼らを追放。フルシチョフに重用されKGB議長就任するものの、末期には寝返ってフルシチョフ解任に向けて活動していました。

1959年(60歳) グネーシン研究所教授
●5月、シャポーリン:ピアノ・ソナタ第2番(CD25)録音。
●9月、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第28番(CD8)録音。


1960年(61歳) グネーシン研究所教授
●4月、ヒンデミット:ヴィオラ・ソナタ(CD20)、ピアノ・ソナタ第3番(CD22)録音。
●10月、オネゲル:ヴィオラ・ソナタ(CD20)録音。
●ユージナは、レニングラードで開催した演奏会で、反体制作家パステルナーク[1890-1960]の詩を朗読し、グネーシン研究所(現グネーシン国立音楽大学)を解雇されます。
●シューベルト:ピアノ五重奏曲「ます」(CD16)録音。


1961年(62歳) モスクワ
●ユージナの姉フローラ[1891-1961 医師]死去。
◆4月、元軍人で前大統領アイゼンハワーのキューバ対策を手ぬるいと批判していたケネディ大統領がキューバ爆撃と上陸作戦を実施して失敗。
●4月、ベートーヴェン:エロイカ変奏曲(CD10)録音。
●6月、ベートーヴェン:ディアベッリ変奏曲(CD10)、ドビュッシー:チェロ・ソナタ(CD20)、マルティヌー:端午節、マラケ河岸の花束(CD25)録音。
◆7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定。翌月、ホーネッカーの指揮でベルリンの壁建設開始。
●クレネク:ピアノ・ソナタ(CD26)録音。
◆ソ連国家保安委員会(KGB)議長にセミチャストヌイが就任。


1962年(63歳) モスクワ
●ストラヴィンスキー:ピアノのためのセレナーデ、2台ピアノのためのソナタ、ソナタ ハ長調
◆10月、キューバ危機。
●ストラヴィンスキーがソ連で里帰り公演、ユージナはガラ・コンサートに参加。
●バルトーク:2台ピアノと打楽器のためのソナタ(CD23)録音。


1963年(64歳) モスクワ
●モーツァルト:幻想曲 K540,K511(CD5)録音。
●ドビュッシー:24の前奏曲〜「パックの踊り」「ヒースの荒野」(CD21)、ストラヴィンスキー:2台ピアノのための協奏曲、デュオ・コンチェルタント(CD24)
●ハバロフスクなどを回る極東ツアーの際に講演を実施。ストラヴィンスキー、ヒンデミット、シュトックハウゼンなど禁止された作曲家を称え、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、スヴィリードフには言及しなかったことを問題視した音楽関係者が、当局に30人分の署名入りの非難文書を送り、ユージナはフィルハーモニー協会主催演奏会への出演禁止処分を受けます。
●ユージナは、モスクワ郊外の小さな古い家から、モスクワ中心部のロストフ堤防にあるモダンなアパートに転居。亡くなるまでの7年間の住居となります。


1964年(65歳) モスクワ
●1月、バルトーク:ミクロコスモス〜8つの小品(CD23)録音。
●3月、ストラヴィンスキー:サーカス・ポルカ(CD24)、ルトスワフスキ:パガニーニの主題による変奏曲(CD26)録音。
●6月、ベルク:ピアノ・ソナタ(CD26)録音。
●8月、ジョリヴェ:組曲『マナ』より(CD26)録音。
◆10月、ウクライナ生まれのロシア人ブレジネフが最高指導者に。
●ユージナの兄レフ[1892-1964 医師]死去。
●ユージナの継母セシリア[1891-1964]死去。
●モーツァルト:ピアノ・ソナタK533(CD5)録音。


1965年(66歳) モスクワ
●10月、ショスタコーヴィチ:ピアノ・ソナタ第2番(CD26)録音。


1966年(67歳) モスクワ
●2月、プロコフィエフ:チェロ・ソナタ(CD20)録音。
●モスクワ音楽院でロマン主義に関する講義が繰り広げられました。
●ベルク、オネゲル、ヒンデミット:クラリネット・ソナタ(CD21)録音。
●バルトーク:コントラスツ,クラリネットとヴァイオリン、ピアノのための三重奏曲(CD23)録音。


1967年(68歳) モスクワ
●ムソルグスキー:『展覧会の絵』(CD19)録音。
●10月、バッハ:ゴルトベルク変奏曲を初めて演奏。
●プーランク:クラリネット・ソナタ(CD21)録音。
◆ソ連国家保安委員会(KGB)議長にアンドロポフが就任。


1968年(69歳) モスクワ
●1月、バッハ:ゴルトベルク変奏曲(CD2)録音。
●12月、ブラームス:ピアノ四重奏曲第2番(CD18)録音。
●ストラヴィンスキー:ピアノと管楽のための協奏曲(CD18)録音。


1969年(70歳) モスクワ
●5月18日、モスクワでリサイタル。翌月に怪我をしたためこれが最後の公開演奏会となりました。
●6月、交通事故に遭い右手と鎖骨を骨折。その後、数か月の懸命なリハビリにより演奏可能な状態に回復。
●12月、ムソルグスキー:『ボリス・ゴドノフ』の主題による3つの小品(CD19)録音。


1970年(71歳) モスクワ
●ヒンデミット:2台のピアノのためのソナタ(CD22)録音。
●ユージナの姉アンナ[1896-1970 科学文献翻訳者]死去。
●11月19日、ユージナは急性の糖尿病発作による昏睡から戻ることなく、モスクワの第1聖グラツキー病院で死去。
●ユージナの葬儀では、リヒテルがラフマニノフを演奏。ヴセヴォロド・ドミエトリヴィチ・シピレル司祭[1902-1984]が最後の言葉を述べています。シピレル司祭は、ユージナが通っていた聖ニコラス教会の長で、ユージナの精神的な師でもありました。
●ユージナの遺体は、モスクワのドイツ人墓地であるヴヴェジェンスキー墓地に埋葬。


【収録情報】

CD1
●バッハ:平均律クラヴィーア曲集第2巻より14の前奏曲とフーガ
・第1番ハ長調 BWV.870
・第2番ハ短調 BWV.871
・第3番嬰ハ長調 BWV.872
・第4番嬰ハ短調 BWV.873
・第5番ニ長調 BWV.874
・第6番二短調 BWV.875
・第7番変ホ長調 BWV.876
・第8番変ホ短調 BWV.877
・第9番ホ長調 BWV.878
・第10番ホ短調 BWV.879
・第11番ヘ長調 BWV.880
・第12番ヘ短調 BWV.881
・第15番ト長調 BWV.884
・第21番変ロ長調 BWV.890
Recording: 1953-1957

マリヤ・ユージナ(P)

CD2
●バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988
Recording: 1968/69 January 1968

マリヤ・ユージナ(P)

CD3
●バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻より6つの前奏曲とフーガ
・第19番イ長調 BWV.864
・第20番イ短調 BWV.865
・第21番変ロ長調 BWV.866
・第22番変ロ短調 BWV.867
・第23番ロ長調 BWV.868
・第24番ロ短調 BWV.869
Recording: 1951-1955

●バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903
Recording: 4th September 1948

●バッハ:前奏曲とフーガ イ短調 BWV543 (編曲:リスト)
Recording: 1950 or 10th April 1952

●バッハ:前奏曲 嬰へ短調 BWV883
●バッハ:トッカータ ハ短調 BWV911
Recording: 1936

マリヤ・ユージナ(P)

CD4
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 KV 466
Recording: 1948
セルゲイ・ゴルチャコフ(指揮)モスクワ放送交響楽団

●モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番 イ長調 KV 488
Recording: 1948
アレクサンドル・ガウク(指揮)モスクワ放送交響楽団

●ハイドン:ピアノ・ソナタ 変ホ長調 Hob XVI:52
Recording: 6th October 1951

マリヤ・ユージナ(P)

CD5
●モーツァルト:デュポールのメヌエットの主題による9つの変奏曲 ニ長調 K.573
Recording: 18th May 1948

●モーツァルト:幻想曲 ハ短調 K 475
●モーツァルト:幻想曲 ニ短調 K 397
Recording: 6th October 1951

●モーツァルト:アダージョ ロ短調 K 540
●モーツァルト:ロンド イ短調 KV 511
Recording: 1963

●モーツァルト:ピアノ・ソナタ ヘ長調 K 533
Recording: 1964

マリヤ・ユージナ(P)

CD6
●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op.58
Recording: 1948
クルト・ザンデルリング(指揮)レニングラード・フィルハーモニー交響楽団

●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op.73
Recording: 16th December 1950 live
ナタン・ラフリン(指揮)USSR全同盟放送交響楽団

マリヤ・ユージナ(P)

CD7
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第5番 ハ短調 Op.10 No.1
Recording: 3rd May 1950

●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第12番 変イ長調 Op.26
Recording: 9th September 1958

●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第16番 ト長調r Op.31 No.1
Recording: 22nd August 1951

マリヤ・ユージナ(P)

CD8
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第22番 ヘ長調 Op.54
Recording: 25th July 1951

●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第27番 ホ短調 Op.90
Recording: 8th September 1958

●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第28番 イ長調 Op.101
Recording: 1959

マリヤ・ユージナ(P)

CD9
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第29番 変ロ長調『ハンマークラーヴィーア』 Op.106
Recording: 1952

●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111
Recording: 26th June 1958

マリヤ・ユージナ(P)

CD10
●ベートーヴェン:創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 Op.35
Recording: 7th April 1961

●ベートーヴェン:ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲)ハ長調 Op.120
Recording: 30th June 1961

マリヤ・ユージナ(P)

CD11
●ベートーヴェン:創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO 80
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調『月光』 Op.27 No.2
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調『テンペスト』 Op.31 No.2
●バッハ:前奏曲とフーガ イ短調 BWV543 (編曲:リスト)
●プロコフィエフ:束の間の幻影 Op.22 (抜粋)
I. Lentamente
II. Molto giocoso
III. Inquieto
IV. Dolente
●シューベルト:『白鳥の歌』〜「海辺にて」 D.957 No.12 (編曲:リスト)
Recording: Live in Kiev 4th April 1954

マリヤ・ユージナ(P)

CD12
●シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調 Op. Posth. D.960
●ボロディン:小組曲(抜粋)
●シューベルト:楽興の時 第3番 ヘ短調 Op. 94 D.780
●モーツァルト:レクィエム〜「涙の日」 KV626 (arr. K. Saltykov)
●ムソルグスキー:『展覧会の絵』〜「古城」
Recording: Live in Kiev 4th April 1954

マリヤ・ユージナ(P)

CD13
●バッハ:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第3番 ホ長調 BWV1016
Recording: 1950

●ベートーヴェン:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第6番 イ長調 Op.30 No.1
Recording: 7th July 1950

マリーナ・コゾルポーヴァ(ヴァイオリン)
マリヤ・ユージナ(ピアノ)

●リスト:バッハのカンタータ『泣き、歎き、憂い、怯え』の主題による変奏曲 S.180
Recording: 28th February 1950

●シューベルト:即興曲 変ホ長調 D.899 No.2
●シューベルト:即興曲 変イ長調 D.899 No.4
●シューベルト:即興曲 変イ長調 D.935 No.2
Recording: 15th January 1956

マリヤ・ユージナ(P)

CD14
●シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D.960
Recording: 1947

●ブラームス:ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 変ロ長調 Op.24
Recording: 1948

マリヤ・ユージナ(P)

CD15
●タネーエフ:ピアノ四重奏曲 ホ長調 Op.20
Recording: 1953

●タネーエフ:ピアノ五重奏曲 ト短調 Op.30
Recording: 1957

マリヤ・ユージナ(ピアノ)
ベートーヴェン弦楽四重奏団

CD16
●シューマン:幻想曲小曲集 Op.12
Recording: 1951-1952

●シューマン:予言の鳥(森の情景 Op.82,第7番 ト短調)
Recording: 1952

マリヤ・ユージナ(P)

●シューベルト:ピアノ五重奏曲 イ長調『ます』 Op.114 D.667
Recording: 19th November 1960

マリヤ・ユージナ(P)
ウラディーミル・コメンコ(コントラバス)
ベートーヴェン弦楽四重奏団のメンバー

CD17
●ブラームス:間奏曲 Op.116 No.2 イ短調
Recording: 1968

●ブラームス:間奏曲 Op.117 No.1 変ホ長調
Recording: 1968

●ブラームス:間奏曲 Op.117 No.2 変ロ長調
Recording: 1968

●ブラームス:間奏曲 Op.117 No.3 嬰ハ短調
Recording: 1951

●ブラームス:間奏曲 Op.118 No.1 イ短調
Recording: 1952

●ブラームス:間奏曲 Op.118 No.2 イ長調
Recording: 1968

●ブラームス:間奏曲 Op.118 No.4 ヘ短調
Recording: 1952

●ブラームス:間奏曲 Op.118 No.6 変ホ短調
Recording: 1966

●ブラームス:間奏曲 Op.119 No.2 ホ短調
Recording: 1968

●ブラームス:間奏曲 Op.119 No.3 ハ長調
Recording: 1952

●ブラームス:ラプソディー ト短調 Op.79
Recording: 1952

●メトネル:ピアノ・ソナタ第1番 変イ長調Op.11-1
Recording: 30th October 1958

●メトネル:ピアノ・ソナタ第2番ニ短調 Op.11-2
Recording: 7-12 July 1958

●メトネル:ピアノ・ソナタ第3番ハ長調 Op.11-3
Recording: 13-21st July 1958

マリヤ・ユージナ(P)

CD18
●ブラームス:ピアノ四重奏曲第2番
Recording: 10th December 1968

マリヤ・ユージナ(P)

ドミトリー・ツィガノフ(Vn)
フョードル・ドルジーニン(Va)
セルゲイ・シリンスキー(Vc)

●ストラヴィンスキー:ピアノと管楽のための協奏曲
Recording: 1968

マリヤ・ユージナ(P)
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(指揮)モスクワ放送交響楽団

CD19
●ムソルグスキー:夢
●ムソルグスキー:瞑想曲
●ムソルグスキー:涙
Recording: 9th September 1949

●ムソルグスキー:スケルツォ 嬰ハ短調
Recording: 4th April 1950

●ムソルグスキー:歌劇『ボリス・ゴドノフ』〜主題による3つの小品 (編曲:カメンスキー)
Recording: 8th December 1969

●ムソルグスキー:組曲『展覧会の絵』
Recording: 1967

マリヤ・ユージナ(ピアノ)

CD20
●ドビュッシー:チェロ・ソナタ ニ短調
Recording: 12th June 1961
ナターリア・シャホフスカヤ(チェロ)マリヤ・ユージナ(ピアノ)

●プロコフィエフ:チェロ・ソナタ ハ長調 Op.119
Recording: 21st February 1966
Lev Evgrafov(チェロ)マリヤ・ユージナ(ピアノ)

●オネゲル:ヴィオラ・ソナタ H.28
Recording: 12th October 1960

●ヒンデミット:ヴィオラ・ソナタ ヘ長調 Op.11 No.4
Recording: 28th April 1960
フョードル・ドルジーニン(ヴィオラ)
マリヤ・ユージナ(ピアノ)

CD21
●ドビュッシー:24の前奏曲〜『パックの踊り』(クラリネットとピアノのための編曲版)
●ドビュッシー:24の前奏曲〜『ヒースの荒野』(クラリネットとピアノのための編曲版)
Recording: 1963

●ベルク:クラリネットとピアノのための4つの小品 Op.5 (1913)
Recording: July 1966

●オネゲル:クラリネットとピアノのためのソナタ H 42
Recording: 1966

●ヒンデミット:クラリネットとピアノのためのソナタ 変ロ長調
Recording: July 1966

●プーランク:クラリネット・ソナタ 変ロ長調 FP.184
Recording: 1967

マリヤ・ユージナ(ピアノ)
レフ・ミハイロフ(クラリネット)

CD22
●シマノフスキ:9つの前奏曲 Op.1
Recording: 1956

●シマノフスキ:変奏曲 Op.3
Recording: 20th January 1956

●ヒンデミット:2台ピアノのためのソナタ
Recording: 1970

マリヤ・ユージナ(P)
マリーナ・ドルズドヴァ(P)

●ヒンデミット:ソナタ第3番 変ロ長調
Recording: 2nd April 1960

CD23
●バルトーク:ミクロコスモス〜8つの小品23.
No. 128. Peasant Dance: Moderato
No. 132. Major Seconds Broken and Together: Adagio
No. 137. Unisono: Moderato
No. 142. from the Diary of a Fly: Allegro
No. 144. Minor Seconds Major Sevenths: Molto Adagio Mesto
No. 145. Chromatic Invention (The 2 Versions Played at the Same Time): Allegro
No. 146. Ostinato: Vivacissimo
No. 149. Dance No. 2 of the 6 Dances in Bulgarian Rhythm
Recording: 8 January 1964
マリヤ・ユージナ(ピアノ)

●バルトーク:コントラスツ,クラリネットとヴァイオリン、ピアノのための三重奏曲 Sz.111 BB 116
Recording: 1966
マリヤ・ユージナ(ピアノ)
レヴ・ミハイロフ(クラリネット)
ヴィクトル・ピカイゼン(ヴァイオリン)

●バルトーク:2台ピアノと打楽器のためのソナタ
Recording: 1962
Maria Yudina piano; Victor Derevianko piano; Valentin Snegiriov & Ruslan Nikulin percussion

CD24
●ストラヴィンスキー:サーカス・ポルカ(若い象のための)
Recording: 3rd March 1964

マリヤ・ユージナ(P)

●ストラヴィンスキー:2台ピアノのための協奏曲
Recording: 1963

マリヤ・ユージナ(P)
ヴィクトル・デレヴヤンコ(p

●ストラヴィンスキー:デュオ・コンチェルタント
Recording: 1963

マリヤ・ユージナ(P)
ヴィクトル・ピカイゼン(ヴァイオリン)

●ストラヴィンスキー:イ調のセレナーデ
Recording: 3rd February 1962

マリヤ・ユージナ(P)

●ストラヴィンスキー:2台ピアノのためのソナタ
Recording: 1962

マリヤ・ユージナ(ピアノ)
マリーナ・ドルズドヴァ(ピアノ)

●ストラヴィンスキー:ピアノ・ソナタ ハ長調
Recording: 1962

マリヤ・ユージナ(P)

CD25
●シャポーリン:ピアノ・ソナタ第2番 ロ短調 Op.7
Recording: 23rd May 1959

●マルティヌー:端午節 H.318
●マルティヌー:マラケ河岸の花束 H.319
Recording: 21st June 1961

●プロコフィエフ:ロメオとジュリエット〜抜粋
Recording: 24th July 1952

●プロコフィエフ:束の間の幻影 Op.22
Recording: May & July 1953

●セロツキ:前奏曲の組曲
Recording: 1953

マリヤ・ユージナ(P)

CD26
●ベルク:ピアノ・ソナタ ロ短調 Op.1
Recording: 10th June 1964

●クレネク:ソナタ Op.59
Recording: 1961

●ジョリヴェ:ピアノ組曲『マナ』〜La Chevre La Vache La Princesse de Bali
Recording: 24th August 1964

●ショスタコーヴィチ:ピアノ・ソナタ第2番ロ短調 Op.61
Recording: 5th October 1965

マリヤ・ユージナ(P)

●ルトスワフスキ:パガニーニの主題による変奏曲
Recording: 3rd March 1964

マリヤ・ユージナ(ピアノ)
マリーナ・ドルズドヴァ(ピアノ)




商品説明:年表シリーズ

指揮者
アルヘンタ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クラウス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スラトキン(父)
ターリヒ
チェリビダッケ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベイヌム
メルツェンドルファー
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
ヴェデルニコフ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
ソフロニツキー
タマルキナ
タリアフェロ
ティッサン=ヴァランタン
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
ノヴァエス
ハスキル
ユージナ
ランドフスカ
ロン

弦楽器
カサド
コーガン
シュタルケル
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ

弦楽四重奏団
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
伝説のフランスの弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
テスタメント国内盤

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偽書とは言われているが、とても関心深く読...

投稿日:2019/06/20 (木)

偽書とは言われているが、とても関心深く読めるヴォコフの「ショスタコビッチの証言」に出てくるピアニスト。このHMVの演奏家の解説にあるように、劇的な一生を送った人間。この素晴らしい解説を読んで、(いつもHMVの写真入り解説は、素晴らしい。否、素晴らしすぎる!!つまらないパンフレットに金を使うくらいなら、集めて単行本にすうべきだ!)ユヂーナに関心を持ったら、お金を捨てるつもりで買うべきだ。どのCDにも、驚きが詰まっている。

牡牛座 さん | 東京都 | 不明

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