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村井 翔 さんのレビュー一覧 

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/06/11

    イギリス室内管との旧全集は私にモーツァルト/ピアノ協奏曲の凄さを教えてくれた録音。文字通り、LPがすり切れるまで聴き込んでいたので、新しい「後期ピアノ協奏曲集」が8曲まとめてCDで発売された時には、旧全集との違いに正直言って違和感がぬぐえなかった。つまり、旧全集は極度に微細なニュアンスにこだわり、ロマンティックな歌い込みを尽くしたもので、テンポも当然ながら遅めだったのに対し、新全集はスクウェアな、すっきりした造形を優先させたもので、初期の曲では、緩徐楽章などアダージョがアンダンテになった位、テンポも速くなった。今にして思えば、二度目の録音をするのなら最初とアプローチを変えようというピアニスト=指揮者の考えは当然だし、オケが威力抜群のベルリン・フィルだったこともアプローチの変化の理由だろう。さて、この8曲は第21番がパイロット版として1986年11月に収録された後(これのみ、ジャン=ピエール・ポネルが映像監督)、1988年2月に4曲、1989年1月に3曲が録音・録画されたもの。「音」としては問題なくても「絵」的にNGで録り直しということもあったろうから、スケジュールとしてはかなりきつい仕事だが、修羅場になればなるほど力を発揮するというのはバレンボイムのいつものパターン。全集全体としては10番台までの曲では「やっつけ仕事」的な粗さも目立つものだったが、この8曲に関する限り、高品位な仕上がりと言って差し支えない。特筆すべきは、今回のリストアで絵が驚異的に鮮明になったこと。かつてLD4枚を要していたものが、BDでは1枚に入るというのも有り難い時代だ。なお、各曲とも緩徐楽章とフィナーレはほとんど間をおかずに続けているため、BDでは終楽章のチャプターを選択した場合、頭がずれる傾向があるが、致命的な問題ではあるまい。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/05/21

    鬼才ヘアハイムの冴えた演出が断然光る。通常の上演では、タチャーナは現代人としてはあまり共感しにくい「古風な」女だし、オネーギンは第2幕まではクール、虚無的で影がうすいのに、第3幕に至ってタチャーナに突然、熱烈な愛の告白をするのはどうも脈絡がなく、彼女の地位に目がくらんだ軽薄男とも見られかねない。これは台本のみならず、プーシキンの原作にも共通する重大な弱点だった。この弱点をカバーするために演出家が採用したのはハリウッド映画(たとえばジェームズ・キャメロン監督『タイタニック』)でもおなじみの全回想形式。オネーギンがタチャーナに再会する場面を冒頭に持ってきて、第2幕までの出来事はすべて彼と彼女の回想として描かれる。だからジャケ写真にあるように、手紙の場ではタチャーナが歌い、オネーギンが(タチャーナ宛の)手紙を書くのだが、これは第3幕でオネーギンが彼女への思慕を歌う時に全く同じ旋律が用いられることを先取りしたもの。演出家の音楽に対する洞察の鋭さは見事だし、回想と現実の二層構造を描くために、台本の言葉が実にうまく利用されている。さらに回想部分が百年前の帝政末期なのに対し、現実部分は21世紀の現代というギャップも面白く、回想から現実への移行部であるポロネーズでは百年間のパノラマが繰り広げられる。
    スコウフスの題名役は、もはや若くない男という演出コンセプトにぴったり。最高の歌と演技を見せる。ストヤノヴァも若い娘ではないという演出意図から言えば、正解。グレーミン公が台本通りの初老のおじさんではなく、むしろオネーギンより若い男なのは面白いが、ペトレンコの歌も出色の出来だ。特典のドキュメンタリーを見る限りでは、指揮者と演出家の考えは食い違ったままのようだが、ヤンソンスもいつもながらの手堅い職人仕事。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/05/13

    それなりの年齢になった(でも舞台姿は相変わらず美しい)ゲオルギューにとってアドリアーナはいかにもふさわしい役。彼女ならではの細やかな歌い口はイタリア・オペラとしては反ヴェリズモの優美な美しさを誇るこのオペラにとてもふさわしい。若い頃から彼女の弱点とされたヴィブラートもだいぶ改善されたように思う。ボロディナは2000年スカラ座の映像に続いての登場。ドスの効いた声は健在だが、彼女も年齢を重ねて、一層この役にふさわしくなった。カウフマンは相変わらずイタオペではちょっと違和感があるが、「サクソニアの伯爵」である彼はドイツ人という設定なので、まあ悪くないか。ミショネは誰がやっても儲け役だが、ヴェテランのコルベッリもとても良い。マクヴィカーの演出は全く彼らしからぬ正攻法の出来。何かひねりがあるだろうと期待した第3幕のバレエでも何事も起こらず、エンディング以外、ほとんど工夫らしいものはないが、それでも手堅く見せてくれる。エルダーの指揮は無難。できれば、もう少し新しいセンスを持った指揮者、たとえばパッパーノにこのオペラも振ってもらいたいところだが、それは無理な相談か。

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  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/05/13

    リムスキー=コルサコフのオペラでは一番好きな作品で、ゲルギエフはもとよりスヴェトラーノフ、フェドセーエフ指揮のCDも持っている。同じ上演が先にCD化されているが、この作品のおそらく世界最初の市販映像だと思う(オペラ映画が盛んに作られたソ連時代にもこの曲は映画化されなかったはず)。珍しいオペラの発掘に意欲的なカリアリならではの上演だが、最大の魅力はボリショイの『エフゲニ・オネーギン』でも素晴らしい演唱をみせたモノガローワ。彼女あってのプロダクションだと言ってもいいほどだし、相手役のパンフィロフがロシアのテノールにありがちな喉の詰まったような発声をする人なので、いっそうモノガローワの良さがきわだつ結果になっている。もう一人のテノール、グリシュカ役のグビスキーは好演。演出は比較的簡素な装置ながら、なかなか健闘している。かなり悲惨な話だが、オペラとしてはあくまでメルヒェン的で劇的な緊張が表に出ない作品なので、演出は難しいだろうと思っていたが、『フィデリオ』の最終場みたいなカンタータ・フィナーレで退屈になりがちな第5幕もうまく見せてくれる。最後にちょっと驚くようなアクションがあるが、主人公たちが「もはや決して死ぬことのない」場所はどこかと考えてみれば納得がいく。指揮とオケは無難な出来。望むらくはオケにもっとシンフォニックな厚みが欲しいところで、これに関してはゲルギエフにかなわない。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/05/02

    予想通り、仕上げはきわめて精緻だが、余計な解釈だの色付けだのは排して、スコアの緻密な再現に徹した演奏。いつもより、ややテンポが遅めなのは、オケが弾き慣れていないせいかもしれないが、そのために一層、ニュートラルな印象が強い。パロディと見るかマジと見るか、そういう判断は聴き手にお任せしますというスタンスだ。このCDではじめて7番を聴くという人がいたら、ちょっと「取りつく島がない」と感じるかも。しかし、クレンペラーの再来かと思えるほど重くて濃いエッシェンバッハ/パリ管(ヴィデオ・オンデマンド)から、すべてパロディと腹を括って大乱痴気騒ぎをやらかしたラトル/BPO(デジタルコンサートホールのアーカイヴにある)まで、様々な演奏を聞き飽きた人にとっては、逆にこのストレートさが新鮮に感じられるかもしれない。個人的には、いくらニュートラルと言っても演奏する以上、解釈は避けられないので、どうせならもう少し旗色を鮮明にしてほしかったと思うのだが。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 7人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/05/02

    19世紀の聴衆はパガニーニやリストの人間離れしたテクニックに接して畏怖を覚えたに違いない。その後、レコードという便利なメディアのおかげでハイフェッツだろうがホロヴィッツだろうが自宅に招くことができるようになり、19世紀的なヴィルトゥオーゾの伝説も過去のものになったと思ったのだが・・・私はこのCDを聴いて心底、畏怖の念を覚えた。技術的には彼女に比肩すると思うが、どこまでも陽性なラン・ランとは全く違った個性。ヴィルトゥオーゾの「魔性(ましょう)」と「妖気」を現代に蘇らせることのできるピアニストだ。毎度ながら、今回もプログラムは実によく考えられている。まず最初の核となるラフマニノフは、よくもこれだけと思うほど、とびっきりの暗い曲ばかり。それに『オルフェオとエウリディーチェ』『カルメン変奏曲』『糸を紡ぐグレートヒェン』と死のオブセッションに関わる曲を続ける(エウリディーチェは最初から死者だし、カルメンもグレートヒェンも死の運命から逃れられない)。ここに加わると『魔法使いの弟子』のスケルツォすらも死へと駆り立てる音楽のように響くから面白い。後半の核のスクリャービンもかなり暗い曲を並べたあげく『詩曲Op.32-1』(ホロヴィッツの愛奏曲でもあった)で彼岸的な世界に達する。そして最後のシメが『死の舞踏』。これで黒い羽根をつけたジャケ写真に見事につながる。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/05/01

    これはこのコンピが2010年の6月にベルリンのフィルハーモニーでやったブルックナー・ツィクルスの記録。6番と7番の間に休みが二日間あったが、6晩連続の演奏会で後半にはブルックナーの4番以降の交響曲を番号順に並べ、前座にはベートーヴェンのピアノ協奏曲5曲(もちろん弾き振り)とヴァイオリン協奏曲という大変なスケジュール。ブルックナーはすべて録画されており、日本でもクラシカ・ジャパンで観ることができた。こういうハレの舞台でのバレンボイムは良いことが多いが、5番、8番、特に最終日の9番は異常なほどテンションの高い爆演だった。しかし、演奏者としては連日そんなにハイテンションでは身が持たないのも事実。というわけで、残念ながらCD化されたこの7番は「谷間」の「手抜き」演奏の部類。両端楽章最後の加速もほとんど目立たぬ程、遅めのテンポを動かさず、手堅く造形を決めた演奏だが、決して淡々とした演奏ではなく、山あり谷ありなのはいつもの通り。BPO盤ほど歌に傾斜した解釈ではないが、第1楽章第1主題のカンティレーナなどは実に美しいし、ポリフォニーの処理にも抜かりはない(このあたりは、かつての盟友メータに大きく差をつけている)。幸い映像がないので、音楽的事象としては延々たる繰り返しのブルックナーでは指揮者の本番でのお仕事は要所を締めるだけと分かってはいても、あまり露骨に見せられると興ざめするバレンボイムのいつもの「流し振り」を見ずに済むのもありがたい。「手抜き」でもここまでできるのはご立派と誉めるべきかもしれないが、せっかくCDでも出すのなら、9番をCD化してラトル/BPOにぶつけたら面白かったのに。

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  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/05/01

    指揮のコンセプトはN響、東フィルとの共演で聴いたものと同じだが、オケがきわめて献身的で、指揮者との同質性が強いので一段と感銘深い。ソウル・フィルはやや細身でマッスとしての力はいまいちだが、弦は繊細で表出力が強く(両ヴァイオリン・パートの大半が女性奏者なのはこのオケの大きな特色)、管楽器も相当な名手揃いであることは聴いて分かる。さて、マーラー1番は拍節感にこだわらぬ、アンチ・インテンポ主義の振り方をするチョンにとって、絶好の作品と前から思っていたが、この録音はその見事な見本。第1楽章序奏ではホルンの朗々たる歌に舞台裏からのトランペットが全く違ったテンポで割り込んでくるのが早くも衝撃的だが、第1主題の提示も悠然たるテンポで全く歌そのもの。提示部の頭から小結尾まで、さらには展開部最後の「突発」から楽章終わりまでをひとつながりのアッチェレランドと解するわけだが、こういう解釈は定式破りだらけのこの曲の前衛性を鮮やかに切り取って見せてくれる。スケルツォのトリオでも思い切ってテンポを落としてグリッサンドを克明に聴かせるし、終楽章の第2主題では、まるでこの曲に欠けている緩徐楽章を補うかのように、遅いテンポで歌いぬく。EU盤の発売を待ったため、インバル/チェコ・フィルとの聞き比べになったが、巨匠らしさは見えるものの、あまりセールスポイントのないインバルに完勝。

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     2012/04/29

    80分をわずかに切るだけの長時間収録で、シューベルト最後の二つのソナタを収めている。第20番はメジューエワの録音が出たばかりだが、あちらはシューベルトらしい歌の魅力をたっぷりと味わわせてくれる演奏、そうしたアプローチに不可欠な音色の美しさも申し分なかった。それに比べるとヴラダーは各楽章とも幾分テンポが速い。文字通りの絶唱と言うべき第2楽章はもとより、比較的ノンシャラントに奏でられがちな両端楽章も鋭い劇的な緊張をはらんだ音楽になっている。第21番も第1楽章第1主題や第2楽章などでは、たっぷりしたテンポがとられているが、速くなるところは結構速い。それでも全体としては、さほど先を急ぐ感じがしないのは緩急の切り換えがうまいのと、間(ま)のセンスがとてもいいせいだろう。近年は指揮者としても活躍しているらしいヴラダー、使用楽器はモダンだが(この録音ではベーゼンドルファーではなくスタインウェイ)、音楽の身のこなしの俊敏さは、まぎれもなくピリオド様式世代の音楽家だと思う。録音のせいか、タッチの冴えがいま一つ感じられないのは惜しいが、既に名盤山盛りのこの2名作のディスコグラフィに、新たに名乗りを上げる意義は十分にある一枚だと思う。

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  • 6人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/04/08

    さすがはシェークスピア劇の本場、衣装などは無国籍風(黒澤 明風?)だがスタイリッシュな、良くできた演出になっている。赤いターバンを巻いた黒子のような魔女たちがすべての運命を回してゆくという趣向で、マクベスの手紙を夫人に届けるところから始まって、マクベスの頭に王冠を載せる、バンクォーの息子を逃がす、「バーナムの森」(HMVレビューの写真でも見える、赤く塗られた木の棒の武器のこと)を用意する、最終場では死んだマクベスをはりつけにする、これらをすべて彼女らがやる。また舞台中央には、金網デスマッチみたいな檻が持ち出され、ダンカン王の殺害、マクベスがバンクォーの亡霊におびえる、マクベスとマクダフの決闘など重要な出来事は必ずこの中で起こる。キーンリーサイドはカプッチッリやヌッチのようなカンタービレの強靱さはないが、いわば深層心理学的に描かれたマクベス。むしろ弱い男が運命にもてあそばれる様を巧みに描いてみせる。つまりF=ディースカウ、ハンプソンらの路線だが、この二人ほど作り物めいた感じがしないのはいい。モナスティルスカは逆に強靱な声の持ち主だが、弱さを全く見せないコワモテ一辺倒の演唱(顔を見るだけでも怖い)。これではマクベス夫人が「夢遊の場」で罪の呵責におびえるようになる経緯に説得力がない。パッパーノの指揮は手堅く万全。

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  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/04/08

    録音状態は予想通り、あまり誉められたものではないが80年代のライヴとしては普通の水準。近年のインバル/都響の演奏会ではライヴといっても、重要な楽器の前にはちゃんとマイクが立っているが、そういう準備のもとに録られた録音ではないから、ホールトーン優先で金管や打楽器が弱いのは仕方ない。しかし、録音が少し物足りないとは言っても、このディスクの演奏内容はやはりかけがえのないもの。基本的な解釈はコンセルトヘボウとの録音と似ているが、演奏の様相はかなり異なる。コンセルトヘボウ盤は精度が高く、解釈も彫りが深く、繰り返し聴くにはふさわしい演奏だが、バーンスタインらしい「熱さ」は比較的乏しかった。コンセルトヘボウは彼にとって、そんなに気心の知れた仲とは言えない、客演のオケだったせいかもしれない。それに比べるとこの演奏は一発ライヴゆえ、無傷とは言えないが(どんな楽団でも、このテンポの第3楽章を1回でノーミスで弾き通すのは不可能だろう)、遥かにライヴ感、情念の強さがある。私は幸運にもバーンスタイン指揮による9番のナマ演奏を計3回聴くことができた人間だが、その最後、1985年9月8日のNHKホールでの演奏はおそらくこういうものだったと思う。
    さて、肝心の演奏だが、第1楽章は心持ちおとなしい。これは彼のすべての9番の演奏に見られる特色で、細部にはまぎれもないバーンスタイン印の刻印があるものの、第1楽章のクライマックスはいわば楽譜通りで、あまり大芝居をうたないのはなぜだろうかと常に思ってきた。結局、この比類のない音楽(私はこの楽章について「西洋音楽史全体を見渡しても、これほどの高みに達した音楽を、少なくとも私は他に知らない」と書いたことがある)に対する彼の敬意の現われだったのだろう。しかし、第2楽章からはバーンスタイン節全開。狂ったように突進する第3楽章とイスラエル・フィルの弦が文字通り絶叫し、すすり泣く第4楽章はすさまじい。ちなみに、解説書には1985年8月26日という日付けのイスラエルの新聞記事(英語)が載せられているが、この記事がレポートしているのは9月8日のNHKホールでの演奏だから、日付けは間違いだ。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 10人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/04/05

    デセイの声はヴィオレッタを歌うには軽すぎる。そんなことは本人も百も承知の上での挑戦だが、その結果、この役はかつてないほどの繊細さと痛烈さを獲得している。加えて自らの年齢も逆手にとるかのような壮絶な演技(こういう歳になったから、ヴィオレッタが演じられるという計算もあろう)。全身全霊をこめたデセイの演唱にはただただ感嘆あるのみだ。相手役のアルフレードも当然、普通より軽い声だが、カストロノーヴォはテノールらしい輝きを殺してまでも陰影の濃い雰囲気作りに協力している。風貌もいかにも世間知らずのお坊ちゃんだ。ピリオド様式にも通じたラングレの指揮がまた細身でシャープ。さらに日本で見られたローラン・ペリー演出も非常に優れたものだったが、この演出はそれ以上だ。舞台は現代の水商売の世界に移されているが、そこらの読み替えと違うのは演技がきわめてリアルで細かいこと。『椿姫』定番の「演技の型」を破るような斬新なアイデアが山盛りだが、完全にデセイ専用の演出だろう。「花から花へ」を狂乱の場さながらに走り回りながら歌える歌手が彼女以外にいるとは思えない。以上、すべてのファクターが一致協力した結果、この名作からすべての手垢をぬぐい去り、いわば完全にリニューアルすることに成功している。これまでわれわれの観てきた『椿姫』は学芸会に過ぎなかったのかと思わせるほど、強烈で感動的な舞台。

    10人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/04/03

    『タンホイザー』はオペラハウスの通常レパートリーとなっているワーグナーのオペラのなかでは一番「死にかけている」作品だと思う。だって、「清純な愛」対「肉欲」という二項対立、ワーグナーおなじみのテーマだが男の身勝手な妄想でしかない、ヒロインの犠牲死による主人公の救済、どちらも現代の聴衆としては真剣に付き合いかねるようなお題目ばかりだ。この演出は2007年春の東京オペラの森でも見られたもので、NHKでも放送されたからネタばらしをしてしまっても構うまい。ストーリーは裸体画を描く革新的な画家と保守的な画壇アカデミズムの対立に置き換えられている。マネ『草上の昼食』『オランピア』、ピカソ『アヴィニョンの娘たち』など美術史の世界ではおなじみの話だ。つまり、オペラの中心テーマだけを取り出して、残りの要素はすべて捨ててしまった演出だが、ここまでやらなきゃ、もう『タンホイザー』は救えないという演出家の覚悟のほどはリセウ版を再見して一層良くわかった。エンディングなど確かに台本と演出の食い違いは、はなはだしい。タンホイザーもエリーザベトも死なないし、かつては拒まれた彼の絵は画壇に受け入れられ、主人公の大勝利でオペラは終わる。しかし、ヴェーヌス賛歌に「罪」などない、それを罪だと言うのはキリスト教会(ローマ法王)だけだと言うワーグナーの立場から見れば、芸術の価値を決めるのは教会でも教皇でもなく、市場原理だという皮肉な結末を実は作曲家は大歓迎するのではないか。
    映像ソフトではチューリヒ歌劇場の盤についで二度目の登場のザイフェルトだが、やはり見事。タンホイザー役ではルネ・コロ以後の第一人者であるのは間違いない。二人のヒロインではシュニッツァーも悪くないが、ウリア=モリゾンの深く官能的な声が特に素晴らしい。いかにも気弱な芸術家といった風のアイヒェも役にはまっている。手堅いが凡庸というイメージしか持っていなかったヴァイグレだが、この盤でちょっと見直した。後期ロマン派風に肥大化しがちな響きを引き締めて、この作品にふさわしい音を取り戻している。したがって、パリ版によるヴェーヌスベルクの音楽などは迫力不足だが、全体としては好ましいアプローチだと思う。

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     2012/04/02

    ジャケ写真のイメージを借りて語るならば、いかにも毒々しい色彩のノリントンと違って、ヘレヴェッレの描く4番は品のよい、淡い中間色で彩られた花園だけど、近寄ってみると何と、すべてはプラスチックでできた造花ではないか。つまり、この曲の人工性、擬古典性をきわだたせようというアプローチで、指揮者と楽団のやりたいことは良く分かった。いつもながら知的で丁寧な指揮者の仕事ぶりには感服するしかないし、ソプラノ独唱のカマトトぶりもお見事だ。ただし、私は彼らのやろうとすることと4番そのもののキャラクターの間に微妙なズレがあるのではないかという疑念をどうしても払拭できなかった。それはつまり、4番という曲をどうとらえるかという問題にかかわるのだが、キリスト教に対する悪意モロ出しのこの曲は、彼らが考えている以上にドギツイ作品ではないかと私は考える。指揮者執筆のライナーノートを字義通りに解するならば、ヘレヴェッレの理解は擬古典的という点では私と一致するが、「天国的」なものに対する悪意という、その先の部分については、どうやら私とは違うようだ。したがって、私の理解にふさわしい演奏は、ノリントンやホーネックのような毒々しく、エゲツナイ演奏だ。

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     2012/04/02

    管楽器のための協奏交響曲はフルート、オーボエ、ファゴット、ホルンを独奏者とするモーツァルトの原曲を誰かがオーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンのために編曲した作品とされている(原曲は紛失してしまった)。この曲にはロバート・レヴィンがフルート以下の元の編成用に「再構築」した版があって、私はそれが大好きなのだが、ここではそんな怪しげな編曲モノは使わないぞというアバドのいつもの潔癖主義が災いした。演奏自体は次のフルートとハープのための協奏曲よりマシだと思うが、いったんレヴィン版が耳になじんでしまうと、この元の版はトロくて聞くに堪えない。次のフルートとハープのための協奏曲は一層、感心しない。もちろんジャック・ズーンの音に金属製楽器を吹く名手達のようなキラキラした輝きは期待していないが、だからといって、これではあまりに芸がなさすぎる。ガロワ/スウェーデン室内管(ナクソス)のように現代楽器でも実に面白い演奏があるのに。ハーピストが終始、控えめなのもこの曲の魅力を大きく減殺している。アバドの指揮も、パユの極度に繊細なフルートに慎重に付けたベルリン・フィル盤の方がまだ良かった。モーツァルト管弦楽団との最初のモーツァルト交響曲集は素晴らしかったのに、アバドのあのつまらないモーツァルトがまた戻ってきてしまったのは残念。

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