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Review List of 村井 翔 

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  • 6 people agree with this review
     2013/11/09

    彼女の協奏曲レパートリーの中核である「本命」2曲のカップリング。ラフマニノフはこの曲らしいロマンティシズムやグランド・マナーなところも、もちろん切り捨ててはいないのだが、20世紀の作品らしいモダンな側面の強調を明らかに志向している。ラフマニノフがプロコフィエフに近づいて聴こえるような演奏と言えば分かりやすいだろうか。その点では、ラン・ランがラトル/ベルリン・フィルとの共演(プロコフィエフ3番/バルトーク2番)で彼としても新次元を開くような精緻な演奏に到達したように、むしろセッション録音した方が良かったのではないかと思うが、とりあえず「第1回録音」はこの拍手入りライヴで、というのが彼女の判断なのだろう。共演相手のドゥダメル/シモン・ボリバル響は相変わらず凄まじい爆発力だが、ライヴではやや粗さが目立つ。体格的にはごく普通の東洋人女性である彼女の音は鋭利とはいえ細身なので、この(おそらく4管編成であろう)オケにフルスロットルでがなりたてられると負けてしまうのだが、録音はうまくピアノの音を拾っている。それでも現時点ではプロコフィエフの方が安心して聴ける。ラフマニノフはまだ「進化」の余地があるのではないかな。

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  • 2 people agree with this review
     2013/10/22

    既にNHK-BSでも放送済みの映像。演奏自体の水準はきわめて高い。ガッティ指揮のウィーン・フィルはシンフォニックかつ繊細。カラヤン、クライバー級の出来と言っても過言ではない。見た目はかなり太ったが、ネトレプコの歌のみずみずしい情感もまだ健在だ。マチャイゼ、カヴァレッティのコンビもとても良い。ベチャワはビリャソンとは対照的な、折り目正しい「草食系」のロドルフォ。私はフレーニ最初の全曲録音(1963年EMI、シッパース指揮)のお相手、ニコライ・ゲッダに慣れているのでさほど違和感ないが、好みは分かれるかもしれない。さらに好みが分かれそうなのは、舞台を現代に移した演出。このオペラにはあまりふさわしくない祝祭大劇場の大きな空間を逆手にとって、コンクリート打ちっぱなしの殺風景な屋根裏部屋を演出しているが、どうしても現代のパリにしなきゃならない必然性が感じられないのが苦しいところ。映画『インセプション』風にパリの街を折り畳んでみせた第2幕はなかなかの新機軸だが、ちょっと「策におぼれた」感なきにしもあらず。第1幕終わりと幕切れでガラスにMimiの文字を描く「神の手」(?)も普通と違うことをやりたいのは分かるけど、あまり好感が持てない。

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  • 3 people agree with this review
     2013/10/07

    前作のシューベルト弦楽五重奏曲では、このクワルテットらしからぬ「熱さ」に驚くとともに、持ち前の精緻さとのバランスが難しいなとも感じた。しかし、このモーツァルトは凄い。最初のバルトーク、ドビュッシー、ラヴェルの時のイメージが戻ってきた。ガット弦を使用してはいないと思うが、ヴィブラートは必要最小限に抑えられており、かなりピリオド・スタイルに近いが、違うのは従来のピリオドとは全く別世界の驚異的な精度。室内楽の基本ではあるが、これだけきれいに揃った合奏を聴かされると、それだけで惚れ惚れしてしまう。反面、この氷のように冴えた演奏からは、これもまた室内楽の醍醐味であったインティメートな雰囲気はもはや望めないが、それは仕方のないことであろう。クラリネット五重奏曲は従来のようなコンチェルタントな妙味は後退して、クラリネットが弦に組み込まれ、同質化したような印象。ニ短調の四重奏曲もかつてのような「ロマンティックな」劇性の強調はないが、新しい意味での表現主義的な演奏。第1楽章アレグロ・モデラートは限りなく「モデラート」に近く、逆に第2楽章アンダンテは速く、半音階的なパッセージは非常に鋭く弾かれる(ピリオド様式の感覚)。対位法的に骨ばった感じのメヌエットに対し、自在なテンポ・ルバートで拍節感を消し、無重力空間を漂うようなトリオは独特。終楽章の変奏もきわめて克明で、パートの隅々まで表出力が強い。

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  • 1 people agree with this review
     2013/10/07

    EMI時代からご贔屓だったフォークトの最新盤だが、27番は2007年10月、21番は2008年10月の録音。つまり、ボルトン指揮で前に出ていた20番/23番と同時期の録音だ。20番などは日本でやったハーディングとの共演(この時は楽器はモダンだが、スタイルは完全にピリオド)の方が遥かに良かったが、今回の2曲はとても良い。そんなに曲を「こねくりまわす」ような解釈ではないが、自発性は申し分ない。このピアニストの武器である弱音部のニュアンスの豊富さと美しさが大いに生きていて、21番第1楽章での短調のエピソードなどはとても味が濃い。第2楽章は素直に歌っていて、かの名旋律が戻ってくるところでは、旋律装飾の代わりに響きを殺したピアニッシモで始めるというのも、実にいいセンス。この曲での大きな楽しみである両端楽章の自作カデンツァも素晴らしいが、老獪な内田/クリーヴランドなどに比べると、彼はまだ素直だ。アラン・タイソンによる自筆譜研究によれば(まだ定説ではないが)、「最後の年」ではなく1788年、つまり三大交響曲や26番「戴冠式」協奏曲と同じ年の作品だという27番も全くストレートに弾かれていて、ここでも第2楽章では旋律装飾を最小限にとどめている。これはこれでなかなかの見識、やり過ぎよりは遥かに良いと思う。

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  • 2 people agree with this review
     2013/10/07

    フランクフルト放送響との1985年録音はマーラー演奏史上のマイルストーンと言うべき画期的な録音。弦楽器のグリッサンドを楽譜通り克明に実施した他、音符ごとの細かい強弱、テンポの急変など可能な限り細密にスコアを再現したものだった。その結果、流麗なひとつながりのカンタービレとして聴こえていた従来の旋律線は楽器ブロックごとに断片化し、ギクシャクしたパッチワークのようになった。一方、都響との2009年録音は力を抜いた草書体の解釈で、もっと普通に旋律の流れを復権させようとしたもの。聴きやすくなったとも言えるが、私には前回のような透徹したアプローチの後退が残念だった。さてそこで、今回の三度目の録音。2009年録音の良さは残しつつも、基本線は1985年録音に立ち返り、両方の「いいとこ取り」を高いレベルで実現した。音符ひとつひとつにつけられたクレッシェンド、デクレッシェンドまで精密に再現され(だから物理的時間は短いのに、テンポは十分に遅く感じられる)、楽器ブロックごとの断片の集積として全体は出来上がっているのに、ちょうど点描画も一定の距離を置いてみればちゃんと風景に見えるように、全体としては大変美しい高雅な「歌」が聴こえる。この至難な解釈を実際の音として実現した都響の技術力には、大拍手。2009年録音の半田美和子のようにナイーヴな歌ではなく、細かく表情をつけて歌っている森麻季も非常に良く解釈に適合している。

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  • 4 people agree with this review
     2013/09/19

    ティーレマンは本当に演出に恵まれないな。バレンボイムのように(彼だっていつも演出に恵まれるわけじゃないけど)いい演出と指揮がお互いを触発し合う相乗効果なんて全く期待できない。もっともティーレマン自身、音楽さえちゃんとしてれば演出なんてどうでもいい、と公言してるわけだから自業自得だけどね。指揮は第1幕は比較的おとなしい(テンポも遅くない)が、第2幕から本領発揮、第3幕は非常にテンポ遅く、早くも前奏曲からコテコテの「ティーレマン節」を披露。手練手管満載だから嫌いな人には嫌われそうだけど、お見事な出来ではある。歌手陣はそんなには誉められない。文句なしなのは、久しぶりに「普通」のグルネマンツだったミリングぐらい。シュースターはまあまあのクンドリー。二役挑戦のコッホはどちらも不可。指揮者、演出家どちらのアイデアか不明だが、そもそもこのアイデア自体、感心しない。クリングゾールの対人物はティトゥレルでしょうが。ボータは声自体はすばらしいが、舞台に出てきてしまうと、とたんに『パルジファル』が『ファルスタッフ』になってしまう。ヴィジュアル重視、演出偏重の昨今では実に不幸なヘルデンテノールだ。
    さて、問題の演出。少なくとも「分かりにくい」演出ではないと思う。舞台はSF風、聖杯騎士団は疲弊したカルト集団というのは最近の『パルジファル』演出の定番で少しも新味はない。この演出がダメなのは説明過剰なこと。題名役氏が究極の大根で、全く演技できないせいでもあるけど、各キャラの「分身」を繰り出して、とことん状況や心理を説明しようとする。その結果、説明に忙しく肝心のドラマがすっかり空洞化している。その最悪の例が最終場。パルジファルとアムフォルタス(死んでいるようだが、誰からも見向きもされない)そっちのけでクンドリーとキリスト(一人目のキリストは彼女にしか見えない幻覚のようだが、第3幕から二人目が登場)の話になってしまっている。『パルジファル』は宗教という抑圧的な制度の起源についての物語というのが演出家の批判的な「解釈」のようだが、そんな解釈は論文で述べてくれ、舞台上で見せるなよと言われそうだ。去年、二期会が上演したグート演出も似たような解釈だと思うけど、シュルツ演出は遥かに見せ方が下手だ。

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  • 2 people agree with this review
     2013/09/10

    オペラの読み替え演出はジグソー・パズルのピースを本来は入るはずのない場所に押し込むようなものだから、すべてのピースが見事に嵌まった奇跡的な成功例を見せられると(まだソフト化されていないものではグート演出のスカラ座、『ローエングリン』。ヘアハイム演出、バイロイトの『パルジファル』など)「凄いものを見せてもらった」と大感激することになるが、当然ながら失敗のリスクも高い。今回は残念ながら失敗。第1幕フィナーレの乱交パーティー(オッターヴィオとマゼットのキス!)、ツェルリーナの「薬屋の歌」、オッターヴィオの「恋人を慰めて」(普段は何て事もないアリアだけど)など秀逸なシーンもなくはないが、全体としては早くもエルヴィーラ登場のアリア、カタログの歌あたりから無理無理感が募って、見るのが辛い。演出家は家父長制に対する反逆者としてのドン・ジョヴァンニ像を強調しようとして、こういう設定にしたようだが、それって大昔からさんざん言われた話じゃない? 三人の女性たちもレポレッロもジョヴァンニが大好きなのだが、彼の流儀では生きられないからエンディングでは秩序(一夫一婦制)の世界に戻るしかない。これも昨今の演出では定番通りの結末だ。指揮はかなり煽り気味のピリオド・スタイルだが、直線的でヤーコプスのような芸の細かさは期待できないし、歌手たちも、演技にエネルギーを割かれた結果、万全の歌唱とは言い難い。普通の『ドン・ジョヴァンニ』が見たいと思ってこれを買う人はいないだろうけど、演出の特殊なシチュエーションにうまく乗れなければ、他にはあまり見どころ、聴きどころがない。 

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  • 5 people agree with this review
     2013/09/07

    別のところでジョーンズ演出をけなしたので、これだけは誉めておこう。スカラ座来日公演の予習で9種類の『ファルスタッフ』映像を見たが、演出・演奏ともに現状ではこれを凌ぐものがないというのが私の結論(ベヒトルフ演出/ガッティ指揮のチューリヒ版が二番手)。演出は「1946年」という特定の年に時代を設定している。こんど日本に来るカーセン演出は1950年代、ベヒトルフ演出も同じぐらいだから追随者がたくさん現われたわけだが、頭の固い旧世代ブルジョワ(フォード氏)と若者たち(ナンネッタ/フェントン)の葛藤を描くにはこの辺がふさわしいし、最終場の大騒ぎには「戦勝」直後の開放感も影響していよう。1946年を実際に経験した人はもう少ないと思うけど、現地のイギリス人なら思わずニヤリとするような、小ネタも盛り込まれているようだ。演出はそんなに特別なことをしているわけではなく、笑いのネタも定番通りのものばかりなのだが、笑わせられるところでは必ず「がめつく」笑いを取りにくる。第2幕の終わりではファルスタッフが窓から落ちる様を、第3幕の頭では彼がテムズ河から引き揚げられる様をちゃんと見せる、など細部へのこだわりも楽しい。最後の「仮装大会」での各キャラの扮装も秀逸だし、フーガぐらいは歌手たちに突っ立ったまま歌わせてやりたいと思うが、演出は終わりまで手抜きなし。
    ユロフスキの指揮が圧倒的に素晴らしい。シャープかつ繊細、こんなに生命力のはちきれんばかりに詰まった指揮は、バーンスタインの録音以来だ。強弱、緩急の幅も非常に大きいが、鉄壁のアンサンブルは崩れない。歌手陣もスーパースターこそいないものの、全く隙のないアンサンブルをみせる。女声陣のなかでナンネッタが一番太っていたりすると、それだけで見る気が失せるものだが(ロンコーニ演出のフィレンツェ版のこと)、全員がぴったりと適材適所にはまっている。

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     2013/09/03

    最も印象に残ったのは指揮者パッパーノの強力な統率ぶり。一昔前までのコヴェントガーデンのオケはかなり頼りなく、音色のニュアンスなんてまるで期待できなかったが、パッパーノの治世も10年を超え、楽員の世代交代も進んできたのだろう。見違えるほどいいオケになってきた。歌手陣ではガッロが『外套』のミケーレ、『ジャンニ・スキッキ』の題名役という対照的な二役を一晩のうちに演じるのが目玉だが、後者の方がベター。ゴッビ(音だけ)やヌッチ(スカラ座での録画がある)と比べなければ、という条件付きだが。ミケーレの方はウェストブローク/アントネンコという重量級コンビに(体重だけでなく声も)押され気味だ。さて、問題は新国立の『ムツェンスクのマクベス夫人』、スカラ座の『ピーター・グライムズ』、ミュンヒェンの『ローエングリン』、どれも感心したことがないリチャード・ジョーンズの演出。今回もあまり芳しい出来とは言えない。まず三作とも舞台が現代(少なくとも20世紀)に移されているが、読み替えの積極的意義が感じられない。現代のフィレンツェ人に「遺言書偽造がバレたら、手を切られて追放」なんて脅しても無意味だと思うけど、これがいつものジョーンズ流儀なので仕方がない。なかでは『ジャンニ・スキッキ』が比較的まし。いかにもイタリアの大家族らしい雰囲気が出ているし、イギリスの演劇人はやはりこういうのはうまい。ほとんど演出家がいじる余地のない『外套』は可もなし不可もなし。最悪は『修道女アンジェリカ』。主演ヤオの熱演、長身でクールなラーションの存在感など見どころは多い舞台だが、リアルとはいえ何の救いもないエンディングは私には受け入れられない。

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     2013/09/03

    ジョセフ・カーマン著『ドラマとしてのオペラ』は(音楽ではなくドラマとしての)『トスカ』がいかにくだらないかを力説しているが、確かにサルドゥの原作戯曲などは後世に残るはずもない三文芝居に過ぎない。プッチーニの音楽がすべてを変えてしまったのだ。しかし現代の演出家としては、このオペラのストーリー自体のチープさを何とかして救ってやろうと考えるのも当然。カーセンのこの演出はかなりのところまで健闘したものと言えるだろう。第1幕は教会ではなく、椅子が並べられた開演前の劇場の中。第1幕の終わりで幕が開くが、そこには1800年風の額縁舞台の中央にトスカの姿が。テ・デウムで讃えられる神とはディーヴァ・トスカだったという趣向だ。既にここまででカーセン得意の「あれ」かと察しのつく人も多いだろうが、第2幕は宮殿内の一室ではなく、劇場の舞台裏。第3幕はついに、予想通りの場所で演じられる。第2幕でのトスカ対スカルピアのやりとりがいわばゲーム的で一段と芝居がかっているところなど(トスカは自ら服を脱ぎ、スリップ姿になってスカルピアを誘ったりする)、従来の演技の型を破ろうとする演出家の意欲を感じることができるが、じゃあ劇中劇化したことによってどんな新しい局面が見えたのよ、と問われると少々苦しい演出。完全に論理が通っているとも言えず、オケピットに飛び降りたトスカはどうなった? 劇中で殺されたカヴァラドッシは本当は死んでない? などツッコミどころ満載ではある。
    マギーは声だけならさほどでもないが、持ち前の演技力を生かして、この演出に限れば大変面白い。ハンプソンもよくあるお下劣中年男ではなく、貴族性と知性を感じさせる役作り。これも演出に合っている。カウフマンはキャラとしてはふさわしいし、演技が上手いので(どんな演出にも対応できる柔軟性もある)、世界中どこでもカヴァラドッシになってしまうのだろうが、旧三大テノールのような輝かしい声は望めない。

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     2013/09/01

    普通とちょっと違う『ボエーム』が見たいけど、単に舞台を現代に移しただけの読み替え(そう言えば2012年夏のザルツブルクでもそんなのありましたね)は御免だという人に強くお薦めしたい、素晴らしいプロダクション。いかに良くできているかを自分の目で見て実感していただきたいので、細部のネタバレは避けたいが、基本構想は解説しないわけにいくまい。この演出では冒頭シーンでミミが死んでいる。19世紀パリのボヘミアン達の物語は彼女の死を受け止められないロドルフォが逃げ込んだ妄想の世界というのが大枠。しかし、一貫して妄想が続くのではなく、ファンタジーは繰り返し繰り返しリアルに引き戻されてしまう。このあたりの配合の絶妙さは(ネーデルランド・オペラの『エウゲニ・オネーギン』でも感嘆したけど)まさしくヘアハイムの天才のあかし。ミミがかつらを取るシーンがファンタジー/リアルの転換点として繰り返し現われるが、彼女がスキンヘッドなのは抗ガン剤の副作用。つまり、彼女の命を奪う病気はもはや結核ではなく癌である。妄想、現実逃避というと後ろ向きのイメージを抱く人が多いかもしれないが、ここでのファンタジーはロドルフォが現実のミミの死を受け止め、フロイトの言う「喪の仕事」を始めるためのセラピーになっている。さらに、それはオペラという架空の物語にわれわれはどうしてこんなに惹かれるのか、そこにはどんな有用性があるのか、という問いに対する演出家からの答えでもある。『ボエーム』をこんなメタオペラにしてしまうとは、ヘアハイムのインテリジェンスには感服するしかない。他にも同一歌手が演ずる某四役の見事な使い回しなど、書きたいことは山盛りあるが、まずは見てのお楽しみ。

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     2013/08/31

    今やドイツ・リート界を席巻するF=ディースカウ門下のバリトン歌手たちのうちで、ヘンシェルは今のところ一番、「独自のカラー」を打ち出し損ねているように見える。今や「ミクロ的な」歌詞の表情づけ、それを可能にする表情の引き出しの豊富さ、そのいずれでも彼はディースカウを凌ぐほどなのだが、そうであればあるほど「偉大な師匠」の影が背後に見えてしまうのは、ヘンシェルにとって悩ましい事態なのかもしれない。しかし、このディスクは彼にとってもブレイクスルーとなるような、めざましい傑作。その要因はもちろん、伴奏者にベレゾフスキーを迎えたからである。最初の「死んだ鼓手(レヴェルゲ)」がまず圧倒的に凄い。カーネギーホールで一度だけ実現したF=ディースカウとホロヴィッツの『詩人の恋』を思い出したが、これはまさに声とピアノによる協奏曲。ピアニストの圧倒的なヴィルトゥオジティと表現への積極的な関与が曲の様相を一変させている。他にもリアルとファンタジーの交錯する「歩哨の夜の歌」の描き分け、「地上の生活」のクラスター音楽風ですらある(ショパンのピアノ・ソナタ第2番の終楽章みたいな)焦燥感、「美しいトランペットの鳴り渡るところ」のむしろ訥々とした寂寥感、そして再び「高い知性への賛歌」での冴えた名技など、ピアノはいずれも秀逸。ヘンシェルもこれに応じて多彩な表情を繰り出し、最高の歌唱を聴かせる。

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     2013/08/31

    2番までは非常に冷徹、クールな振り方だった(特に2番は指揮のジェスチュアも抑え目で、体調が悪いのではないかと心配になるほどだった)インバルも、ナマの印象ではこの3番から一気に爆演モード。しかし、視覚的印象を外してCDで音だけ聴いてみると、基本的にはこれまでのクール、冷徹路線とあまり違わないようだ。確かに第1楽章展開部後半の畳みかけ方などは凄いし、ミクロな部分でのメリハリの付け方は堂に入ったものだが、全体としては速いテンポで非常に凝集力の強い、引き締まった演奏。3番は交響曲としては相当に破格な、悪く言えば組曲に近いような奔放な作品だが、インバルの指揮はこれを立派な交響曲として聴かせてしまう、と言えば分かりやすいだろうか。前回、2010年の録音は多少粗いところはあってもライヴの感興を生かそうというやや爆演寄りのアプローチだったのに対し、今回はより精度が高く、スクウェアな演奏だ。終楽章冒頭のアダージョ主題なども「情念」をのせるというよりは、ポリフォニックな対位旋律が克明に表出されて、むしろベートーヴェン後期の弦楽四重奏曲のような器楽的なアプローチがされている。ちなみに、管楽器の難所山盛りの曲ゆえ、さしもの都響もナマでは無傷とはいかなかったが、CDでは明らかな傷はきれいに修正されている。文句なしに世界的水準の高橋敦のポストホルン・ソロ以下、オケは素晴らしい出来ばえ。ただし私が3番にどうしても求めたい「アナーキーさ」と「開放感(のびやかさ)」がどちらも全く満たされないことから、残念ながら私にとっては徹頭徹尾、相性の悪い演奏ではある。

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     2013/08/18

    待望のシューベルト・シリーズ(おそらく)最終巻。8CDのこのシリーズ開始前に録音されていたイ短調 D.845を加えれば、シューベルトの主要ピアノ作品がこれで網羅されたことになる。最終巻ではニ長調 D.850の堂々たる演奏(しかし終楽章はまことに繊細可憐)もさることながら、焦点はやはり最後に置かれた変ロ長調 D.960のソナタだろう。この第1楽章はト長調 D.894と並んで、ソナタ・アレグロと歌謡楽章を融合させた画期的な傑作だが、メジューエワは予想通り、主旋律に偏った甘口の歌には陥らない。絶妙な転調による音色の変化には細かいペダリングで対応し、左手のトリルも実に強靱だ。さらに彼女のここでの大きな武器は、休符の積極的な活用。思い切ってパウゼを長く取ることによって、深淵を覗き見るような不気味な世界を現出させる。すでに数多くの名盤があるこの曲のディスクの中でも、十分に独自性を主張できる素晴らしい出来ばえだ。

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     2013/08/18

    一昔前はディスクの数も貧弱だったシューベルトの初期交響曲。レコード業界不況の昨今でもジンマンの全集録音以下、マナコルダ、ノリントン、ダウスゴーと新譜が絶え間なく出てくる。今やみんなピリオド様式だけど。そんな中でも、とびっきり生きがいいのがこの一枚。強音で始まる楽章では、必ずその前に指揮者が思いっきり息を吸い込む音がしっかり録音されているのはご愛敬だけど、ジャケ写真のイメージと合わせて「気合」の入った演奏のほどは、ご想像の通り。「ロッシーニ風」と評されることもある第3番は快速テンポ、強烈アクセントのピリオド流儀で簡単に畳んでしまえるので、その点では一筋縄ではいかぬ第4番「悲劇的」のほうが面白い。この曲だってゴリゴリのピリオド・スタイルで押し切ることもできるはずだが、そうはしないのだ。まず第1楽章の序奏、アダージョ・モルトがピリオド派としては随分遅い。第2楽章もノン・ヴィヴラートではあるが、意外なほどのしっとり味。不釣り合いなほど短い第3楽章は2分台で片づけられることも多かったが、この演奏では遅めのテンポ(3分28秒)で特徴あるリズムと音型を克明に表出する。この遅めの「メヌエット」とコントラストをなす終楽章は予想通りの疾風怒濤だ。不思議な軽さと風通しの良さが独特な味わいで、何とも魅力的。

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