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5人の方が、このレビューに「共感」しています。 2015/03/21
単売とボックス全集で、音質が異なるということは、ジンマンのマーラーの単売と全集でもあったのだが、ジンマンの場合、ボックスのほうが音がひどかった。 ところが、このボッシュのブルックナーはボックスのほうが、断然音が良い。 単売のSACDと比較すると、単売のほうは通常CDではないか?とすら思える違いだ。 一般にSACDの音質の特徴である、奥行き、余韻とともに、ひとつひとつの楽器のきめ細かさ(特に弦楽器)、ピチカートなどの弱音の≪芯≫と、立ち上がりがまるで違うので、演奏のテンポ感にまで影響が及んでいる。 とくに、5番の冒頭の低弦のピチカートに乗せて、次第にヴィオラ、ヴァイオリンが、重なってくるところなど、単売SACDでは、ざらついていて、安っぽいのだが、ボックスのほうは、シルキーでしかも、ピチカートの立ち上がりが早く、芯があるので、リズムが良く出ている。 1番のフィナーレなど、音の大きい部分も分離が良いために、団子にならない。 購入の動機は、0番、00番、と従来、通常CDだった7,8番のSACD化につられてのものだったが、これはダブってでもボックスを買うべきだ。 演奏そのもののクオリティーを見直すことになるだろう。
5人の方が、このレビューに「共感」しています。
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3人の方が、このレビューに「共感」しています。 2013/10/24
ペトルーシュカについてのみの感想だが、他のどの演奏よりもメロディーの美しさ、音数の多さが綾なす楽しさなど、音楽的な懐の深さに脱帽するばかりだ。 ただし、学校で譜面から音楽を学んでしまったリスナーには、アンサンブルがあっていないように聴こえるかもしれないが、そういう人は、音楽の譜面の縦のラインを合わせることをアインザッツだと勘違いしている。 このモントゥーを聴くと、一拍と一拍の間にこれほどの『幅』が無ければ音楽の推進力とか、スケール、味というものが出ないということが分かる。 そろっていないのではなく、揃えていないのである。 最近の音楽の演奏はすべて縦に音符がそろってしまっているが、これはジャンルにかかわらず、音楽という名の【信号】にすぎない。 音楽を好きな人、これから音楽を専門に志す人は須らく、こういう、モントゥーのような、変幻自在の拍と拍の間を行き来するリズム感を培うべきなのだ。
3人の方が、このレビューに「共感」しています。
8人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/09/19
驚異的に充実したブルックナーだ。 ハイティンクの遅咲きもここへきてやっと開花した、どころか、この8番を凌駕する録音はちょっと考えにくい。 それはただ一人ハイティンクの今までの録音と比較しても、ということではなく、すべてのブルックナーの8番の演奏の中でこれほどの『響き』を持った録音を他に知らない。 ブルックナーの録音は4つの楽章すべてが満点という録音は皆無に等しいが、ここでのハイティンクは、8番という曲の譜面の天才性を、オケの響きと、音楽としてのスピード感、そして情報量としての多様さをすべて兼ね備えているという今までのハイティンクでは考えられない成果だ。 バイエルンとの8番が5番の素晴らしさに比較すると凡庸だったのに対して、この洪水のドレスデンでの演奏は壮絶でしかも、ヴァントなどと違ってフォルテシモがうるさくないから不思議だ。 実際の音量は相当大きいと思うのだが、音色と同時に大事な要素は、音符のそれぞれに微妙な、そして音楽の推進力に必要な『ずれ』があるのだ。 この『ずれ』がこの巨大な響きを決して重いものにしていないのだ。 かく声部の細かい動きがすべて聞こえるのに『団子』になっていないのは単に録音技術の問題ではない。 ハイティンクがそのように演奏させているのだ。 単純な4分音符がすべて『波を打った』ようにぐんぐん押し寄せてくるこの感じは今まで一度も体験したことのない音の洪水だ。 スケルツォは特に今までのハイティンクがどこにもいない!!こんな素晴らしいトリオは聴いたことが無い。なんなんだこれは。聴いていてどうにかなりそうだ。 そしてこれがライブの本領発揮、スケルツォの再現部が提示部と温度差があり、より熱くなっているように聴こえる。 5番の録音でもスケルツォの提示部の最初の店舗と再現部が随分違っていたハイティンクだが、むかしのハイティンクでは考えられない『夢中』さが本当にムジツィーレンしている。 この繰り返しを同じ演奏をしなければいけないと思っている人には聴いてもらいたくない演奏だ。 そのままアダージョに入るが、この振幅の深さ!! ひたすら深く深く、高く高く、広く広く、大きく大きく、そして、包み込むように優しく繊細に。 ブルックナーの交響曲は矛盾だらけなのに、この無理難題を見事に音化させている。 近年のハイティンクおそるべしだ。 いつものところでいつものようにアッチェレランドしている部分もあるのに、昔のようにいきなりそこで聴き手が覚めてしまうようなことが無い。 フィナーレは曲が完璧なので、たいていの指揮者が振っても問題なく感動できるのだが、このハイティンクのフィナーレは聴いていて恐ろしくなるほど、心が持っていかれる。悪魔のフィナーレのようだ。 このCDを埋もれさせてはならない、どのようなコマーシャルな手を使ってでもみんなが聴ける環境で発売してもらいたいものだ。 これは一つのモニュメントだ。
8人の方が、このレビューに「共感」しています。
1人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/09/14
名演であった4番、7番のCDとはオーケストラが違う。いかにも室内オーケストラという弦のプルトの少なさと繊細さが、冒頭からなぜヴァンツァーゴという指揮者がこの室内オケと2番を録音したのかがよく伝わってくる。 なにしろ弦にノンビブラートを要求している。いや、もしかしたら、ピリオド楽器のオケなのかもしれない。そのあたりは全く知識が無いのだが、この指揮者はただものではないことは明らかだ。 この曲は今まで中期、後期の演奏と同じように扱われ、巨大に巨大にと、肥大させられていたような気がする。 ダウスゴーのCDも室内オケを使って成功しているが、このヴァンツァーゴ盤はより徹底しており、ある意味これからのブルックナー第二番の演奏の指標となるものだと思う。 特に木管の役割が表面に出てくる旋律部分だけではなく、内声部分に素晴らしく神経が行き届いている。美しいことこの上ない。 フォルテのうるささが皆無なので、全体になだらかな音量の曲線を描いており、普通ならば単調になって失敗しそうなところだが、この2番の特徴はこれでこそ生かされるという証明のようなアダージョ。 響きがピュアーなので、ドイツ的というよりはもう少し北欧に近い気温のお低さすら感じられるユニークなブルックナーのアダージョだ。第一楽章ほど個性的でない解釈が少し残念だが、第二主題の水滴がつららから滴り落ちるようなピチカートなどはまさに室内楽の長所を最大限に生かした演奏といえるだろう。そのあとのノンビブラートの弦の合の手や、静寂なホルンの応答も最高だ。実に聞く者に集中力を要求するアダージョの後半の解釈だが、今までに体験したことのないブルックナーだ。 それは宗教的とも宇宙的とも違っていて、もっと自然の美しさのような透明さがあるのだ。 さらに驚きなのはスケルツォの諧謔味あふれるリズム感だ。 透明な音色と短く切られた音から繰り出されるまさにスケルツォ感満載の演奏には脱帽。 私はその指揮者が本当にブルックナーに親和性があるかというのは実はスケルツォの演奏で判断できると思っている。 その意味でヴァンツァーゴは満点といえるだろう。 トリオなどはまるで、村祭りのひと時のように素朴で美しく、楽しくもある。 期待のフィナーレだが、展開部など全く別の譜面かと思うような場面もあるのだが、全体にはやや平凡な解釈といえるだろう。 それでもこの解釈自体が全体の流れの中で必然的に導き出されていることも事実で、そのあたりは曲自体の課題というのが露呈しれいるのかもしれない。 なにしろ、ブルックナーファンならマストといってもおかしくない近年にない存在価値の高い第二であった。 0番の録音もあるようだが、なぜだか価格がべらぼうに高いのが気になる。こういうのは音楽ファンとは関係のない流通の話なのだろうから、このレビューで触れるべきではないかもしれないが、あまりにも各番号ごとに値段が違うのはどういうわけだろうか。
1人の方が、このレビューに「共感」しています。
1人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/07/02
モーツァルト指揮者がブルックナーに向いていることは多いが、このボルトンもその一人だ。ここでの4番は全楽章にわたって素晴らしく透明感、スピード感のあるブルックナーを成功させている。 ブルックナーにおいて、すべての楽章を成功させている指揮者は皆無に等しく、その意味でこのボルトンは稀有の存在といってもいい。 比較的軽い響きの第一楽章はそのまま譜面を響かせることで難なく通り抜ける。 次のアンダンテはまさにアンダンテ。多くの指揮者がテンポを遅くし過ぎて、重たくなっているのに、ボルトンはさわやかに、しかも朴訥と解釈している。何より後半の二つの楽章が素晴らしい。 スケルツォの躍動感。そしてこの曲で唯一後期の交響曲に匹敵する巨大さを持っているフィナーレもきちんと悠然と鳴らしきっている。 例によって悲惨なジャケットによってまたもや看過されてしまうことが無いように今からでも遅くないので、買う気になるような目を引くジャケットに作り替えて、みんなに聴いてもらいたいブルックナーだ。
2人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/06/19
すっきりとした流れの中に音量の強弱をはっきりとつけたブルックナー。メリハリを素早く切り替えることに主眼を置いているのは第一楽章。各楽章の一番盛り上がる部分に一発勝負をかけたようなフォルテシモを置いているので、そこまでの道程には少しばかりの辛抱、(語弊があれば、集中力と換言しても可)アダージョには特に感情の移入は無いようだが、第二主題には聴くべき歌い回しがある。特に素晴らしいのはスケルツォとトリオ。モーツァルテウム管弦楽団だから...という聴き方はなんの利益ももたらさない。ボルトンはここでは、きちんと自分なりのブルックナーを振っており、リズム感の良さはブルックナーの全曲でも一番成功例が少ないスケルツォを好結果に導いている。その流れはそのまま、フィナーレへとつながっており、これほど不満を残さない7番のフィナーレの録音を聴いたことがない。ここには最初に書いた強弱のメリハリとすっきりとした進行が理想的な形で活かされている。オケが特に上手いわけでも、録音が優秀なわけでもないが、この最悪のジャケットのせいでこのCDが忘れ去られるなら、こんなもったいない演奏は無い。是非、再発の際にはジャケ買いしたくなるような素晴らしいジャケットでまず、人々の目を引きつけてもらいたい。
2人の方が、このレビューに「共感」しています。
1人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/06/10
まず何より、響きが素晴らしい。このような響きはわが国の録音センスからは決して生まれないものだ。なぜか日本のオケの録音はホールの響きを殺してデッドにしてしまうからだ。 このボルトンという人はモーツァルト指揮者ということだが、ブルックナーを得意とする人はモーツァルトとの親和性がある人が多いので、この5番以外にも大いに期待できる。ただ、矛盾するようだが、ブルックナーのすべての曲、すべての楽章を完璧にその性格を分けて振れた人が史上存在していない事実を鑑みるに、過度の期待は禁物だが、この5番に関する限り上々だ。とにかくゲネラルパウゼが多いこの曲にこの残響は強力な武器となって、第一楽章を美しく聴かせる。大伽藍というよりはすっきりとしており、曲の始まりとしては、申し分ない推進力だ。第二楽章はよりボルトンに向いているようで、この楽章の難しいテンポ感を見事に表現している。実際のテンポと、聴こえてくるテンポが異なるのがこの5番の第二楽章の難しさなのだが、そのテンポと、もう一つのテンポ感を大きな二泊三連のリズム感をずらすことで危うい構築物としてのこの楽章の特徴を音化することに成功している稀有な例だ。そしてびっくりするのは第二主題の展開部のテンポを自在に揺らすことだ。こんなカンタービレなブルックナーを聞いたことはかつてなかった。普通は失敗しそうなものを、ボルトンの歌心がそれを可能にしている。スケルツォのワクワク感がまた最高だ。ほとんどの巨匠と呼ばれるマエストロが、ブルックナーのスケルツォの本質を再現できずに終わってしまっている中、スケルツォをこれだけ捉えられる指揮者は貴重。この5番のスケルツォの最高の名演はアイヒホルンだが、あのトリオ部分にはかなわないものの、全体に流れるダンサブルな躍動感と切れの良さ、それに相対する、ゆったりとした(決してテンポが遅いというのではなく、ノリが)大きな流れが見事だ。フィナーレも全く滞ることがないのに、複雑なスコアを複雑なまま、スッキリ聴かせるというかつてない録音になっている。これは思うに、ボルトンの指揮はかなりこまかな指示でオケが鳴っているのだが、会場並びに録音の残響との相乗効果でこのような美しくも複雑なブルックナーが実現したのではないか。コラール主題の金管のフレーズの間の撮り方も絶賛に値する。大胆なのであるボルトンは。それがことごとく成功しているのがこの5番だ。この方法がほかのブルックナーの番号にそのままあてはまらないのがブルックナーのおそろしいところだが、ほぼ改訂なしのこの5番でこれだけ触れるのは、ボルトンがブルックナーに対する親和性が強いことを物語っている。フーガも弛緩することが全くない。ずっと聴いていたい巨大な流れも決してうるさくないからなのだ。妙に安価なのと、気絶するほどジャケットが酷過ぎることで、相当損している貴重な録音だ。
2人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/05/04
84番の第2楽章、アンダンテの変奏曲がこれほど色彩豊かに演奏された例を知らない。ハイドンの交響曲はドラティの20世紀風のたっぷりした録音が今でもさすがと言える解釈を随所に聴かせており、こう言ったピリオドアプローチは全曲を通して聴き手を感動させることが難しいが、所々ピリオドならではの楽しさがあり、そこをピックアップして両方楽しむべきだと思う。どちらか一方に決めつける理由なんてどこにもない。その意味でこのヴァイルは奇を衒うことなく自然にわれわれのハイドンに対する固定観念を揺さぶってくれる楽しさがある。ファイの演奏がややアンチテーゼっぽい反骨があるのに対して、このヴァイルには、それはなくて素直にピリオドアプローチでやったらこんなになりました、という感じに好感が持てる。
まず最初にSACDという表記が部分的にされているがこれは大ウソで、HQCDの間違い。 リード・ヴォーカルのイングランド・ダンに隠れて絶妙なハモリを聴かせていたジョン・フォード・コーリーだが、彼自身こんなに歌のうまい人だったことを改めて認識させてくれる。これには彼自身が年齢を重ねて、若いころの細い声から、新のある渋い声に少し変わったことが非常に大きいと思う。音程がバッチリなのは、若い時以上だろう。何よりも一人で歌っているのに聞こえてくるのは≪イングランド・ダンとジョン・フォード・コーリー≫そのものなのだ。これにはいささかびっくりさせられる。つまり、彼らのデュオとしての二人の重要性が聴く側が思っていたよりもずっとジョンの役割が大きかったということだ。演奏はいかにも手作りな感じがあるが、チープになることが無いのは、自分自身の曲である自負からだろうか。彼のピアノの音使いと音質が全くかわっておらず、それもまた彼らのサウンドの一端を担っていたことが再認識される。前作「timeless love songs」とほぼ選曲が一緒だが、ちゃんとした音作りだし、何よりも一曲もっとも重要な『シーモンの涙』をやってくれている。アレンジと歌の譜割が残念だが、贅沢は言うまい。イングランド・ダン亡きあと末永く歌い続けてほしい。
1人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/03/31
ジェイムス・テイラーの最高作と評したい。最高傑作と書かないのは、一つ一つの曲ではほかのアルバムのキャッチーな曲に及ばないし、最高傑作と断言したのでは、いかにも個人レベルの好みに終わっているように受け取られるのがもったいないからだ。このアルバムは非常に短い曲がいっぱい入っていて、セクションがバッキングをしているのもあれば名うてのスタジオミュージシャンが仕事をしている曲もあったり、バラエティに富んでいる。しかし、そのいろいろな曲が、意識的なのか、奇跡的なのかわからないが、見事な統一感を持って「羅列」されているのだ。ポップスの歴史でもまれにみる曲の並び方だと思う。その上、アコースティック楽器の音色がひたすら格調高く、確かな技術に裏付けされたサウンド的にも大推薦盤だ。
3人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/03/24
自分の中で勝手にブルックナーの音響や解釈を決めてかかっていた自分にとっては、頭をかち割られたようなブルックナーだった。 ロジェストヴェンスキーという指揮者の才能はいろんな録音を聴けば聴くほどその凄さが恐ろしくなる。何しろ駄演がない。シベリウスの交響曲全集もそうだったが、ほかの指揮者が、別にその人でなくてもかまわないような平均的な演奏に終始するのに比べて、ロジェストヴェンスキーはいかなる時も自分の存在意義を崩さない。更に彼がすごいのは、その存在意義を自分のエゴとして表現するのではなく、作品に対する、一人の音楽家としての真摯な対面としての表現なので、一切恣意的なところがない。このソビエト国立文化省交響楽団の録音は、多分聴かないで先入観だけで思っている人は金管がうるさいと思うだろうが、全くそんなことは無く、音色がほかの欧米のオケと異なるだけで、これ見よがしの咆哮など一か所もないのだ。 特に9番のフィナーレの試みは曲そのものはまさかブルックナーがこれをこのまま出版するはずもない霊感の無いものだが、ロジェストヴェンスキーはその限られた範囲内で、最大の貢献をしていると言っても良いだろう。旧来のブルックナーの余計な伝統が無い9番のフィナーレだけに、実に新鮮な新しいブルックナーを聴かせてくれている。 同様に驚くのは、4番のスケルツォだ。さすがにこの場合だけは改訂が正解だっと思わせる4番のスケルツォだが、ロジェストヴェンスキーはここでもやってくれた。テンポを極端におとすことで、フィナーレかとも思えるような、巨大な音楽に仕立て直すことに成功しているのだ。近年4番の初稿をみんな振るようになったが、まだまだ、大胆さが足りない、とこのロジェストヴェンスキーを聴くと、そう思う。
14人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/03/06
以前単売で出ていたオネゲルや弦打チェレなどの音質の改善ぶりには驚く。その他、ステレオ録音で聴けるのはファンにとっては貴重なボックスである。しかし、今の耳で改めて聴いてみると一部(二人)の評論家の偏向した熱狂ぶりが却ってムラヴィンスキーの本質を誤らせている気がする。ここにあるのは完璧なリハーサルによる徹底的な体制側の所産であり、私にとっては自由な音楽鑑賞とはほど遠いものだ。『音楽のミイラ』に聴こえる。今の世代の指揮者やオケのほうが余程音楽的だと思う。確かにこのようなタイプの演奏は今はないかもしれないが、良くないから無いのであって、これこそが音楽だというような先生方のヨイショはソ連の崩壊、ベルリンの壁とともに無くなってほしかった。
14人の方が、このレビューに「共感」しています。
3人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/01/10
ウィーン交響楽団は、ウィーン・フィルがあるせいで、いわれのない差別を受けている(?)が、機能的にはウィーン・フィルを凌ぐ柔軟性を持っている。 そのために指揮者が変わるとオケも音ががらりと変わるという器用さが災いしてウィーン交響楽団独特のトーンというのを持たずにこんにちまで来たような印象がある。 換言すれば個性を持たないことでウィーンフィルに対抗できるレパートリーに対応してきた、ということになろう。 ここで聴かれるプレートルのブルックナー8番もおよそ、ウィーン・フィルという役者でいえば大御所では、ここまで大胆に今までのイメージを変える演技をしてはくれなかっただろう。 ウィーン交響楽団の音色は無個性だが、弦には中音域から低音域がマッシブなイメージがある。 決してシルキーではない。 『武骨』と言ったらいいだろうか。 それが、このプレートルの見事な『演出』による大芝居に見事に適応しているのだ。 なぜか?それはオケに強烈な個性があったら、このプレートルの解釈とは両立しないだろうから。 それほど、プレートルの解釈が≪個性的≫なのだ。 しかし、ここでいう個性的とは、≪恣意的≫とは明らかに違う。 個性とは、内面から必然的ににじみ出てくるもの。 恣意とは、勝手気ままな個人的な考えだから、似て非なる、というよりは実は正反対の結果の場合もある。 第一楽章からまるで、カタストロフィーのど真ん中にいきなりわが身が放り出されたような感じがする。 いま音楽が始まったのではなく、すでに会場もオケも聴衆も熱しきっているところに≪途中参加≫したような、半ば≪置いていかれる≫不安を感じるほどの、考える余裕すら与えられない、音の洪水に襲われる。 こんな第一楽章は初めてだ。 ブルックナーの第8を個性的に振った好例はレーグナーが筆頭だが、レーグナーはブルックナーの楽章内の音楽の段落を見事に把握しているので、段落ごとにギヤーチェンジをすることで、かつてないスピード感を獲得している。 それが、カラヤンのような、フレージングの上滑りに終わっていないのは、全体のリズム感に推進力を持たせていたからで、カラヤンのように低音部は弾きづるようにしておいて、≪歌≫をレガートで歌わせるという、手練手管は使わない。 プレートルはレーグナーがそのスピード感を持ってしてもなしえなかった抽象的な悲劇性を聴き手に与えることに成功している。 一方スケルツォは実に柔軟に各部を描き分けている。 ふつうは音楽が止まってしまいそうになるほど、じっくりとテンポを落として歌う場面があったりと、とても一筋縄ではいかない。 アダージョは反対にドラマ性を極力抑え、しかも美音に走ることなく、(このあたり、ウィーン交響楽団が美音を持ち合わせていないことが皮肉にも幸いしているのかプレートルの計算なのかは判然としないが) この結果どうなるかというと、俄然ブルックナーのこのアダージョが自ら決して弛緩することなく聳え立つことになるのである。 後半の堂々たるフォルテシモは絶対に耳障りになることがなく、どうだろう、このあたりまで聴いてくると、音楽が始まったばかりのころにはプレートルの名前が頭をよぎっていたのが、すっかり消え失せて、ブルックナーの音楽だけが大気を覆い尽くしているではないか。 天才ブルックナーの完成された最後のフィナーレは下手をすると楽想の多様さの乱立になるのだが、プレートルは各楽想を一つ一つへの≪共感≫を味わうかのように確かめていく。 第四楽章の演奏時間は22分強と比較的短いほうだ。 しかし、まったく拙速な印象はない 音楽が共鳴仕切っているからだろう。 ウィーン交響楽団がこの楽章になって、格段に色彩を増しているのも、エンジンの違いを感じさせる。 演奏行為というもののエンディングに向かってのエネルギーの増大加減が一流のオケだとこうも違うものか、と痛感する貴重な体験だ。 演奏に対する緊張感とリラックス加減と、体力とテクニック、それらすべてのバランスを最終楽章に向けてピークにもっていく指揮者とオーケストラ。 この8番は一つの結論だ。
1人の方が、このレビューに「共感」しています。 2011/12/02
これ以上美しいドゥムキーがあるでしょうか。あたかも音楽がそこに既にあったかのごとく、泉のようにわき出てきます。 録音の優秀さは比類がなく、特に素晴らしい点は聴いている自分との距離感です。 奥行きも十分表現されているし、このドヴォルザークの世紀の名曲を一気に聴いてしまいますし、終わるのがもったいないほどです。 反面『大公』は普通です。ドゥムキーだけでもよかったのではないかと思いますが、決して悪くはないので、録音の良い大公を聴きたければ候補になると思います。
5人の方が、このレビューに「共感」しています。 2011/12/02
最晩年の妖怪のようなブルックナーはここには微塵もなく、実にいい意味で恣意的な個性的なブルックナーだと思います。 一人の芸術家が音楽をやる以上その人でなければならない、という必然性がなければなりませんが、このヴァントの全集にはそれが溢れています。 晩年の再録盤はどれもフォルテがうるさくて、耳を覆いたくなるのに対して、このケルン盤は方向が決して感情的に振り切れることがなく、それでいて、限界ぎりぎりなところが素晴らしいです。 つまり全体的にバランス感覚がいいのです。若さゆえの運動神経のよさかもしれません。 ヴァントはわが国である評論家のせいで神格化されてしまいましたが、ここには人間ヴァントがいます。 かつてワントと名前が記されていたヴァントですが、私にとってこのワントのブルックナーは大切なブルックナー録音の一つです。 最晩年のものは廃盤になっても惜しくはないがこの全集だけはどうか絶やさずに発売し続けてください。
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