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村井 翔 さんのレビュー一覧 

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     2017/05/11

    演出はジャケ表紙にも見える可動式のガラスの宮殿(実際には透明プラスチックか?)と今や定番のプロジェクション・マッピング(それなりに効果的)以外、特に新味なし。典型的にメトらしい保守的な舞台だ。アントネンコの題名役は確かに素晴らしい声。「トランペットのように咆哮する」というイメージ通りのオテロだ。やや太ったけど、2008年ザルツブルクに比べれば演技もうまくなったと思う。われわれはドミンゴの達者な演技を見慣れてしまったので(しかも大量に映像が残っている)、続く世代の歌手は大変だが、もともと不器用な男という設定だから何とか我慢できる範囲か。ヨンチェヴァの憂いを含んだ美声もデズデーモナにぴったり。問題はルチッチ。声自体は力強く、第2幕幕切れの二重唱などなかなかの迫力だが、盛んに悪ぶってはみても、本質的にイヤーゴのキャラでないのは明らか。こんなマヌケ男に簡単に騙されるオテロがいかにも哀れに思えるが、それはシェイクスピア/ヴェルディの意図するところと違うだろう。
    メトの次期音楽監督に指名されたネゼ=セガン、この録画は指名発表前のものだが、これでヴェルディも問題なく振れることを証明してみせた。彼の音楽作りは重厚というより俊敏でシャープなものだが、『オテロ』にとって特に不都合とも思わない。むしろ私としては、ピリオド・スタイルの洗礼を受けた世代らしい斬新な譜読みをもっと見せてほしいところだが、それはまだ第1幕冒頭など散発的に聴かれるにとどまっている。

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     2017/05/06

    第22番は未完のため、これと室内交響曲第4番 Op.153がヴァインベルクの完成した最後の作品となった。第21番『カディッシュ』は続けて演奏される6つの部分から成る。ラルゴ(17:47)/アレグロ・モルト(7:40)/ラルゴ(5:26)/プレスト(3:00)/アンダンティーノ(7:08)/レント(13:10)。つまり、コントラスト付けのための速い部分はあるものの、ほとんどが緩徐楽章。やや速いシンプルな緩徐楽章(アンダンティーノ)とより遅い楽章(レント)を併置するのは、もともとこの作曲家の常套手段だが、彼の弱点は緊張感のある緩徐楽章を書けず、ユルい音響の垂れ流しになってしまいがちなこと。この曲のアレグロ・モルトから(二度目の)ラルゴへの流れ込みなど、どうしてもショスタコの第8交響曲(第3/第4楽章)を思い出してしまうが、ショスタコはしばしば緩徐楽章にパッサカリアという形式を採用したし、かのグレツキはミニマル・ミュージックの構成原理を導入したわけだが、ヴァインベルクはそういう工夫をほとんどしなかった。だからこの曲など彼の弱点をもろに露呈しているとも言える。彼の作品を全部聞いたわけではないので、暴論を承知で言うわけだが、この作曲家の創作力のピークはやはり1960年代末ではなかったか。歌劇『パサジェルカ(旅客)』、トランペット協奏曲変ロ長調、交響曲第10番イ短調あたりは間違いなく音楽史に残るべき傑作だと思うが、その後の作品は「戦争」交響曲三部作を含めて、あまり買えない。老境に入った作曲家が懐古的な音楽を書きたくなるのは当然とも言えるが、いささか後ろ向きに過ぎる。この曲はまさにその頂点。両端楽章でのショパンの夜想曲の引用、終楽章でのソプラノ独唱(歌詞のないヴォカリーズ)の導入も、いかにもわざとらしいが、さすがに感慨深いことは確か。『カディッシュ』という題名は、バーンスタインの交響曲にも同名のものがある通り、ユダヤ教の祈りの言葉。一方『ポーランドの音』(『ポーランドの調べ』ぐらいの訳の方が良くないか)は遥か昔(1949年)のお気楽な小品。演奏はオケがやや頼りないが、まずは健闘。

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     2017/03/31

    肺病で死期の迫った女性が見た幻想という演出の基本構想は少しも新鮮味がないが、ここでヒロインが同一化するのはサーカスの空中ブランコ乗り。幾らなんでもそりゃ無理だろうと思ったが、エラス=カサドの振るピリオド楽器アンサンブルの俊敏かつ生命力みなぎる演奏で聴くと、何と第1幕などはサーカスの音楽としか聞こえないではないか。最近では昔のように幕の間に休憩が入ることの少ない『椿姫』だが、これは全幕休憩なしの通し演奏。ヒロインの分身=黙役(当然ながら空中ブランコのできる女性で、同じバーデン・バーデンでの上演だったヒンメルマン演出/ヘンゲルブロック指揮の『ドン・ジョヴァンニ』でエルヴィーラのメイドを演じていた人だ)を最後まで徹底的に活用すること、父ジェルモンが完全に「石像の男」、つまり生身の人間ではなく家父長制の化身として扱われることなど実に面白い。ここでは全く歌わず演出に専念しているビリャソンの演出家としての才能、侮りがたし。ペレチャツコはもちろん細身の声の持ち主だが、みずみずしい情感にあふれた素晴らしい歌。元気はつらつで肺病で死にそうには見えない(その点ではネトレプコも同じだった)が、実に好ましいヴィオレッタだ。アヤンのお坊ちゃんらしい若さもいい。そしてこの上演の最大の立役者はエラス=カサドのシャープでしなやかな指揮。大歌劇場では今や「博物館入り」の演目と化している『椿姫』を鮮やかにリニューアルしてみせた。

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     2017/03/14

    カティア最初の協奏曲(だけの)アルバムは彼女の中心レパートリーをなす2曲のカップリング。この2曲に期待される「ロシア的憂愁」といったものにはあまり関心のない演奏で、その代わり両曲の華やかなヴィルトゥオーゾ協奏曲としての側面を極限まで追求している。かつてのアルゲリッチ(第3番)や近年ではユジャ・ワンもそうした方向を目指した演奏だったと思うが、ここでのカティアは相変わらず抉りの効いたパーヴォ・ヤルヴィとチェコ・フィル(音色的に派手すぎず、スラヴ的な色彩がほのかに感じられる)という万全のバックを得て、しかもセッション録音であるので、彼女の天馬空を行くようなピアニズムを心ゆくまで発揮している。曲の性格上、第2番の方は少しおとなしめだが、それでも第3楽章は冒頭のピアノの出のパッセージから技巧の冴えを見せつける。名高い第2主題は美しく歌うが、第1主題部はかなり速い。第3番は一段と躁状態の演奏。2011年ヴェルビエ音楽祭での猛烈な演奏がネット上にあって(NHK-BSで放送されたこともある)、まああれはライヴだから特別と思っていたが、あれ以上だったのにはぶったまげた。しかも今の彼女の技術的精度はあの時とは比べ物にならない。ノーカット演奏、第1楽章ではユジャ・ワンと違って「大カデンツァ」を選択しているにも関わらず、演奏時間が39分を切っているのは驚異だ。早くも第1楽章から「マ・ノン・タント」はほぼ無視、ずいぶんテンポが速い。カデンツァもさることながら、その前の展開部の盛り上がりが強烈。第2楽章冒頭はしっかり「アダージョ」だが、中間部やワルツのエピソードでは思いっきりテンポが上がる。そして終楽章は予想通りの快速テンポでぶっ飛ばす。最後の短いカデンツァ前の加速から、曲尾までの凄まじい盛り上がりは、まさしく壮絶。

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     2017/02/15

    4番、3番、6番の順に入っていて、交響曲としてはやや散漫な3番がCD1と2にまたがるようになっているのは、いい工夫。しかし、演奏に関して最もめざましいのは、実は第3番だ。終楽章後半、フーガ風の展開になってから曲尾までの盛り上がりは凄まじく、前代未聞だ。第4番は各楽章とも速めのテンポ(17:25/9:09/5:18/7:50)で、劇的なくまどりが濃い。終楽章は史上最速クラスの快速演奏だが、ここでもコーダの最後での更なるアッチェレランドが鮮烈な印象を残す。一方、第6番は18:44/6:47/8:40/11:38 と第2楽章がかなり速いのを除けば、意外にじっくり型。大暴れがありそうに思えた第3楽章も比較的おとなしい。というわけで、めでたく完結した今回の交響曲全集。第1番から第4番までの非常に生きの良い演奏に比べて、第5番、第6番は少し構えすぎたかなと感じる。将来の再録音に期待しよう。 

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     2017/01/22

    ドイツ文学業界では原作戯曲『ヴォイツェック』は悲劇的であると同時に喜劇的な作品とされ、グロテスクな悲喜劇と評されることが多いが、そうした現代の解釈の動向に敏感に対応した演出。舞台は長方形の枠を幾重にも重ね、結果としてひな壇のようになったもので、演技者たちは自由に移動できず、その動きは大きく制約されるが、それはまさに身動きの取れぬ主人公たちの状況にふさわしい。新国立で上演されたクリーゲンベルク演出では大尉、医者、鼓手長ら固有名を持たぬ者たちが戯画化された姿で描かれていたが、ここでは全員が白塗り、戯画化は全登場人物に及んでいる。この演出ではヴォツェックとマリーの子供は人形だが(最終場のみ「声」担当の子供が登場する)、すべての人物が半ば人形化されているので、ごく自然に受け入れることができる。ヴォツェックがマリーを問い詰める全曲のちょうど真ん中、第2幕第3場から第5場にかけてや第3幕第2場、マリーの殺害から第4場、ヴォツェックの溺死にかけては、まさしく悪夢のような見事な舞台。
    ゲルハーエルの題名役が実に素晴らしい。この人物の悲惨と狂気を体現したような迫真の役作りで、これまでに私が見てきたヴォツェックの中でも間違いなく最高と断言できる。バークミンのマリーは普通に見れば「人間味が足りない」と言われかねないが、半ば人間半ば人形という演出コンセプトに沿った演唱だろう。その他、端役に至るまで適材適所の配役。もともと表現主義的な演奏を信条とするルイージにとって、これほどうってつけのオペラもない。最終場前の間奏曲など凄まじい盛り上がりだが、一方、このオペラの凝った構造にも細かく目配りした指揮なのにも感心させられる。日本語字幕にケチをつけるのは、いいかげんやめたいのだが、第1幕第4場のpissen(小便する)がいまだに「咳をする」なのは、どうしたわけか。

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     2017/01/21

    ショスタコーヴィチ『鼻』に続くケントリッジのメト二つ目の演出だが、『鼻』ほど成功していない。映像投影は相変わらずきわめて雄弁で、第2幕真ん中の「オスティナート」間奏曲など見応えがあるが、このオペラではやはり演者たちの絡みが欠かせない。この演出ではプロジェクション・マッピングによって歌手たちの演技負担を軽減しているわけだが、その演技の部分がどうも型通りで凡庸だ。冒頭からルルの分身と言うべきパフォーマーが舞台上にいるが、彼女もあまり積極的に舞台に絡んでこない。たとえば第3幕の最後、この演出ではト書き通りルルの殺される場面は直接見せず、それを投影された手書きアニメーションで表現するわけだが、3幕版初演の際のシェロー演出のように幕切れの時点でルル(正しくはルルの遺体か)が舞台上にいる演出と比べるとやはりインパクトに乏しい。ペーターセンの題名役はさすがに一級品だが、演出のせいもあって、もっと「体を張った」演技をする他のルル役に比べると少々お上品、つまり迫力不足。グラハム、ロイター、グルントヘーバー以下、他のキャストもみな適材適所だが、決定的な魅力には欠ける。指揮はなかなか老練で、水準が高い。

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     2017/01/09

    映像は特に工夫もなく、本拠地テル・アヴィヴでのイスラエル・フィルの演奏会をごく素直に撮ったもの。ドルビー・アトモスという新サラウンドシステムへの対応が売りらしいが、5.1チャンネルですらない、わが家の環境では有難みなし。言うまでもなく、これが映像ディスクになるのはブニアティシヴィリが弾いているからだ。リストのピアノ協奏曲第2番が期待通り圧巻。少し地味な曲だが、リスト得意の主題変容技法を駆使した作品で、人気の第1番にも少しも劣らないと思うが、彼女の演奏は繊細なデリカシーから猛烈な技巧の冴えまで申し分ない。もう一つのベートーヴェン第1番はもちろん名曲だが、現在のカティアの魅力を聴くには少々、役不足な曲。日本で弾いたシューマンなどの方がずっと彼女向きだが、そうしなかったのは共演者を考えて、デリケートな配慮を要するシューマンの管弦楽パートはこの人には無理と考えたせいかもしれない。なぜなら、今のメータはただの優しそうなおじいさんで、音楽的にはそれなりに恰幅が良いが、それ以上の魅力もカリスマ性も感じられないから。でも、協奏曲の伴奏指揮だから、これでも特に不満はない。

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     2017/01/08

    ダ・ポンテ・オペラ三部作の締めくくりにふさわしく、指揮は雄弁きわまりない。早くも開幕冒頭の決闘シーンから、思いがけぬ騎士長の出現によって意に反して犯してしまった殺人が生き残った者(ドン・ジョヴァンニとレポレッロ)にどんなトラウマを残したのかを、余すところなく分からせてくれる。毎度ながら感嘆させられるのは、各ナンバーとそれをつなぐレチタティーヴォとの有機的な絡み合いの見事さ。第2幕「墓場の場」と続く「ドンナ・アンナの家」の間をつなぐフォルテピアノのパッセージなど、まるでモーツァルト自身が書いたかのように天才的だ。今作で特に目立つのは通奏低音楽器(フォルテピアノとリュートを使い分け、色彩の多様さを狙っている)が歌のナンバーにも積極的に加わってくること。ドン・ジョヴァンニの「カンツォネッタ」ではそのためにマンドリンが二つに分身してカノンを演じるかのように聴こえる。
    この記念碑的な録音を彩る歌手陣はティリアコス、パパタナシウ(ギリシア)、プリアンテ、ロコンソロ(イタリア)、ゴーヴァン(カナダ)、ターヴァー(アメリカ)、ガンシュ(オーストリア)、カレス(フィンランド)という国際色豊かな面々。前作までのケルメスの姿は見られないが、『フィガロ』にも『コジ』にもいた場違いな人、つまりミスキャストが誰もいないという点では最高の出来ばえ。どこから見ても星5つ間違いなしの録音なのだが、一つだけ疑念を述べたい。
    この録音にはメイキングの映像があって、クラシカ・ジャパンで見ることができたが、そこから見えてきたのは1)予想通りの指揮者の奇人変人ぶり、すなわち細部に対する異常なまでのこだわりと、2)一見「民主的」に見える指揮者と歌手たちとの関係が、実は勝手な解釈を許さぬ指揮者独裁制であること。カラヤンのオペラ録音だって指揮者独裁制であり、2)は特に非難すべきこととも思わないが、おそらくそのために、この録音には強烈アクセントとささやき声(ソット・ヴォーチェ)の二項対立で音楽を作っていく方法論がワンパターン化しかけている箇所がある。例を挙げれば、第1幕のドンナ・アンナのレチタティーヴォからアリアまでの展開。ここで彼女がオッターヴィオに真実を語っているかどうか、要するにオペラの開幕前に彼女とドン・ジョヴァンニとの間に性行為があったかどうかについては、E.T.A.ホフマン以来、様々な議論がある。それは音だけでは表現しようのないことなのではあるが、聴き手にそういう想像の余地を残すようなデリケートな演奏であれば、なお良かったと思う。結果として、ほぼ同じアプローチで臨んでいるヤーコプスの録音に比べて、本作は「先の読めない意外性」と「指揮者と歌手の解釈がズレつつ重なり合う重層的な面白さ」の二点において、ほんの少し劣るところがあると感じる。もちろん、ごく僅かな不満に過ぎないのだが。レポレッロとツェルリーナの二重唱に至るまで、ウィーン版追加曲のすべてを含む録音。

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  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2017/01/05

    演出は1920年代のイギリス貴族の屋敷に舞台を移した以外、大きな読み替えはなし。第4幕以外は二階建ての館の断面になっていて、メイン・ストーリー以外に別の部屋でアクションが進行しているのを同時進行で見せるというのが今回の目玉。別の部屋で何をやっているかはディスクの特殊機能であるデジタル・オペラ・ガイドで知ることができる。『ドン・ジョヴァンニ』の時は役に立たないオマケだったが、今回はじめて有効活用された。第2幕での伯爵夫人とケルビーノの怪しい仲の描き方も的確だし、第4幕冒頭のバルバリーナは「ピン」以外にも大事なものを失った直後のようだ(この描き方には先例があるが、庭師の娘が野性味満点のキャラになっているのはこの演出オリジナル)。バジーリオが同性愛者でケルビーノを追い回しているというのも笑える(どこかの演出家がやるだろうと思っていたけど、ついに)。観客としては歌っている人物に集中できないのが難点だが、非常に綿密に計算された秀逸な演出。
    歌手陣は今回も水準が高い。ヤンコヴァは期待通り。ヴェルザー=メスト指揮のチューリッヒ版の方がさらに良かったが(ちなみに、こちらの演出もベヒトルフだが、今回とは全く別のもの)、少し老けてもまだ第一級のスザンナ。彼女の魅力で舞台が回っていると言っても過言ではない。プラチェツカは立派な声だが、鈍重で頭の切れそうなキャラに見えないのは残念。でも、かつてのヴァルター・ベリーもこんな感じだったし、この役の一般的イメージとは違うとしても、こういうフィガロもありだと思う。このオペラでは女性陣の方が彼よりも一枚上手なわけだし。ピサローニの伯爵は懸念されたが、もはや絶対権力者ではなく、かなり気弱な領主サマという演出コンセプトに見事にはまっている。フリッチュはアリアでは細身な印象を否めないが、演技もうまく、大変好ましい伯爵夫人。グリシュコヴァも2006年のシェーファーほどのハマリ役ではないとしても、歌・演技ともに魅力十分なケルビーノ。
    問題はまたしても指揮。過去ニ作のエッシェンバッハを降ろしたのは正解だったと思うが、エッティンガーが東フィルを振っていた頃の暴れっぷりとは全く別人、完全に「借りてきた猫」だったのは大笑い。この世代なのにピリオド・スタイルなど一顧だにせず、というのもまずかろう。シュターツオーパーでは既に何回か振っているとはいえ、これが夏のザルツブルク・デビューというわけだから、まあ仕方ないか。今回も指揮さえ良ければ満点なのだが。なお、日本語字幕、デジタル・オペラ・ガイドの訳ともに今回は変な箇所が山盛り。実例は一ヶ所にとどめるが、たとえば伯爵夫人最後の台詞、「勘違いの恨みだった」はいくらなんでも目茶苦茶だ。直訳すれば「私は(あなたより)素直なので」のはずなのだが。

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     2017/01/04

    近年のモーツァルト・ピアノソナタ全集ではメジューエワの手堅いなかに細やかな気配りを盛り込んだ演奏、アムランの洒脱で明晰な演奏などが印象的だったが(後者はまだ未完結)、これは独創的な創意、周到さの両面で断然光る素晴らしい全集。政権そのものは世俗主義をとるものの民衆レベルではイスラム原理主義の圧力が強いトルコでクラシック音楽の作曲家・演奏家として暮らしてゆくのはなかなか大変なようだが、サイ自身にとってもこれまでの活動の集大成となるような録音だろう。1997年に世に出た彼の事実上のデビュー録音で弾かれていた3曲を比べてみると、前のように無闇に装飾音を入れることはなくなり、旋律装飾も穏健でセンスのよいものになったが、解釈の骨格は全く変わっていないとも言える。たとえばイ長調K.331の第1楽章では短調変奏(第3変奏)で突然速い、アクセントの強い演奏になると次の第4変奏では遅くなるという独特の譜読みを見せるが(譜面上ではテンポ変化の指示なし)、前回録音と同じだ。彼自身の代名詞とも言える「トルコ行進曲」も前回同様、打楽器的な表情を持つ快速演奏。
    調別に6枚のCDに分け、すべての曲に演奏者自身がコメントとニックネームを付けているのもユニーク。安易なニックネーム付けは御免被りたいところだが、サイの場合は演奏もコメントも面白いので、許せてしまう。イ短調K.310はかなりテンポが速いが(終楽章はさほどでもない)、激烈というよりは静かな悲しみをたたえた音楽になっていて、サイのつけたニックネームは「シューベルト」。冒頭のアポジャトゥーラを重く扱わないのは近年の解釈通り。もちろんピリオド・スタイルは十分に参照されていて、各曲とも緩徐楽章はテンポ速めだが、ハ短調K.457は速めの緩徐楽章の両端が遅いアレグロで、すこぶる濃密な表情を見せる。ニックネームは「魔王」。ゲーテの詩の三人の登場人物、子供、父親、魔王がこのソナタの楽想で表現されているのだという。なお、このセットでは演奏者の鼻唄、あるいは唸り声がそれなりの音量で(グレン・グールド程度)録音されている。演奏雑音を気にされる方は注意されたい。

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     2017/01/04

    前の『後宮』に比べると少しおとなしいかなとも思うが、ピリオド様式を十分に踏まえた、ネゼ=セガンのみずみずしい指揮はここでも健在。クルレンツィスは過激すぎるが、古いスタイルにはもう戻れないと思っている人には絶好の演奏。もちろん決して無個性な指揮ではなく、「もう飛ぶまいぞ」の後半、軍隊行進曲になってからの思い切った加速など痛快だ。
    歌手陣はクルレンツィス盤より遥かに強力。特に誉めたいのは、二人の若い女声歌手。クリスティアーネ・カルクのスザンナは類型的なスーブレットではなく、細やかな気遣いのできる頭のよい女性として演じられている。第3幕冒頭の伯爵との二重唱におけるカマトトぶりは絶妙だし、第4幕のアリアでもデリケートな表情が美しい。これを聴いて彼女の歌うR.シュトラウス歌曲集のCDを衝動買いしたほど。ケルビーノは女声歌手にとって、ある程度若い一時期しか魅力的に演じられないと思うが、アンジェラ・ブラウアーはまさにその時期。とても魅力的なケルビーノだし、ほとんど旋律装飾をしないこの演奏だが、「恋とはどんなものかしら」ではセンスのよい装飾をみせる。ハンプソンの伯爵も相変わらず良い。彼の歌では悪達者な饒舌さにうんざりすることもあるが、この役ではほぼ皆無。男性としての「賞味期限」切れが近く、焦っているオジサンというキャラクターも今の彼に合っている。ピサローニはフィガロも器用に演じていて、致命的な不満はないが、私の好みとしては主役だけにもっと柄の大きな歌、近年で言えばアーウィン・シュロットのような存在感が望まれる。ヨンチェヴァは噂通りの美声の持ち主。ただし、芝居は何とも古風で、近頃流行の若作りな伯爵夫人ではなく「ろうたけた貴婦人」風。したがって、アリアは文句ないが、アンサンブルになると彼女の鷹揚さ、もっとはっきり言えば「鈍さ」に終始いらいらさせられる。この役にはミスキャストだったと思う。脇役にも大物歌手を揃えているこの録音。特にめざましいのはビリャソンのドン・バジーリオで、陰湿なイメージを持たれがちな役だったが、彼の陽性なキャラがこの人物自体をリフレッシュしている。第3幕の曲順変更はなし(昔のまま)、第4幕のマルツェリーナとバジーリオのアリアも歌われている。

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     2017/01/04

    トーマス・ファイは2014年秋、自宅での転倒事故で脳に重傷を負い、いまだ指揮台への復帰ができていない(このほどハイドン交響曲全集の新譜が出ることになったが、2016年6月収録分では彼は指揮していない)。アーノンクール亡き後、ホルン、トランペット、ティンパニなど以外は現代楽器を持つオケでピリオド・スタイルを実践するハイブリッド演奏の第一人者だけに復帰が待たれるが、これは事故前の録音。近年の彼の進化(深化)がよく分かる演奏だ。K.466の冒頭主題はしばしば「引きずるように」奏されるが、ファイはインテンポで突進。しかし、ピアノが入ってくる直前のところでリタルダンドする(もちろん楽譜には書いてないが、K.467の第1楽章でも同じ)。両曲の中間楽章もさほど速くないし、K.467ではかの名旋律をノン・ヴィブラートながら、とても美しく歌う。もはや杓子定規に古楽スタイルに従うだけではない。K.466の激烈な終楽章では最後にニ長調に転じてからさらに加速するなど、昔ながらのアンファン・テリブルぶりも健在だ。
    ハイオウ・チャンは粒立ちの良い美音が印象的なピアニスト。弾いているのはピリオド楽器ではない。欲を言えば、より明確な個性の発揮が望まれるが、カデンツァでのセンシティヴな演奏にはその個性の片鱗が見える。ちなみに、弾かれているカデンツァ自体はごくオーソドックスなもので、K.466はベートーヴェン、K.467はエドウィン・フィッシャー作。少なくともラン・ランとアーノンクールの共演よりはうまくいっていると思う。

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     2016/12/30

    ティーレマンの次はバレンボイムとの共演。普通なら豪華共演者と喜ぶべきなのだろうが、共演者、曲目の選定ともにレコード会社は彼女の美質を分かっていないな。演奏は再録音となるシベリウスの方がベターで、彼女の世界最高と言っても良い美音と美しい歌い回しが味わえる。シベリウスの交響曲をレパートリーとしないバレンボイムだが、ヴァイオリン協奏曲の伴奏録音はこれが三回目。過去二回いずれも悪くないし、今回は特に緻密かつ周到で、この曲をドイツ・ロマン派の音楽と考えるならば申し分ない。けれども、シベリウスに関しては門外漢の私でも(3番以降の交響曲は私にとって「取りつく島のない」ゲンダイオンガクだ)、前回のオラモ指揮フィンランド放送交響楽団と比べると、響きの作り方が間違っていると感ぜざるをえない。チャイコフスキーの方はやはり曲自体が彼女に合っていない。この曲に関しては、私は完全にコパチンスカヤ/クルレンツィスの録音に「毒されて」しまっているのだが、この種のHIPスタイルに対するアンチを標榜した反動的な演奏。過度に感傷的になることは避けつつも、明らかに抒情的な歌に傾斜した解釈で、コパチンスカヤ、いやムターにすらあった俊敏な運動性は失われてしまっている。指揮者のバレンボイムはライナーノートの中で、ないがしろにされがちなこの曲の「構造」を大事にしたと語っているのだが、その構造をぶち壊しにしかねないアウアー版に準拠したカットを第3楽章で採用しているのは、どうしたわけか。それに、かつてなら私自身もそういう印象は持たなかっただろうが、今となっては両曲とも、特にホルン4以外は標準的な二管編成の(トロンボーンもテューバも含まない)チャイコフスキーに関しては弦楽器の人数が多すぎて鈍重かつ明晰さを欠くと感じる。

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     2016/12/16

    ティーレマンが振っているだけあって、音楽的にはとても充実。ほとんどワーグナーのような彫りの深い音楽だ。他にはシュースターの魔女が好演で、怖いと同時に愛嬌も感じさせるキャラクターになっている。でも良かったのはそれだけ。ジャケットを見た時から悪い予感がしていたが、こんなに主役二人に魅力がない『ヘンゼルとグレーテル』は初めてだ。この二人には大人のオペラ歌手が演じながらも子供のように見せなければならない、特にヘンゼルはズボン役なので女性歌手が演じつつ男の子のように見える必要があるという難しい課題がある。ショルティ指揮のオペラ映画で演じていたファスベンダー、グルベローヴァですらこの点では万全ではなかったが、歌・演技の両面で圧巻だったのはチューリッヒ歌劇場のニキテアヌ、ハルテリウス。この盤は指揮、演出、美術すべて満点の素晴らしい出来だった。これに次ぐのがロイヤル・オペラのキルヒシュラーガー、ダムラウ。ここでの演出もオペラでは十分に語られない物語の「暗黒」面を暗示させる秀逸なものだった。これらに比べるとシンドラム、トンカはそもそも子供に見えないし、歌にもさっぱり魅力がない。ノーブルの演出は冒頭(序曲の間)に世紀末(ちょうどオペラ初演の時代)ロンドンでクリスマスを祝うヴィクトリア朝中産階級の子供たち(男の子と女の子)が魔法の扉を通って、グリム童話の世界に入って行くという『ナルニア国物語』みたいな「枠」を付けたのが新機軸。でも、このロンドンの子供たちの物語へのからみ方が中途半端で、せっかくの枠が機能していない。

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