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村井 翔 さんのレビュー一覧 

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     2012/04/29

    80分をわずかに切るだけの長時間収録で、シューベルト最後の二つのソナタを収めている。第20番はメジューエワの録音が出たばかりだが、あちらはシューベルトらしい歌の魅力をたっぷりと味わわせてくれる演奏、そうしたアプローチに不可欠な音色の美しさも申し分なかった。それに比べるとヴラダーは各楽章とも幾分テンポが速い。文字通りの絶唱と言うべき第2楽章はもとより、比較的ノンシャラントに奏でられがちな両端楽章も鋭い劇的な緊張をはらんだ音楽になっている。第21番も第1楽章第1主題や第2楽章などでは、たっぷりしたテンポがとられているが、速くなるところは結構速い。それでも全体としては、さほど先を急ぐ感じがしないのは緩急の切り換えがうまいのと、間(ま)のセンスがとてもいいせいだろう。近年は指揮者としても活躍しているらしいヴラダー、使用楽器はモダンだが(この録音ではベーゼンドルファーではなくスタインウェイ)、音楽の身のこなしの俊敏さは、まぎれもなくピリオド様式世代の音楽家だと思う。録音のせいか、タッチの冴えがいま一つ感じられないのは惜しいが、既に名盤山盛りのこの2名作のディスコグラフィに、新たに名乗りを上げる意義は十分にある一枚だと思う。

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  • 6人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/04/08

    さすがはシェークスピア劇の本場、衣装などは無国籍風(黒澤 明風?)だがスタイリッシュな、良くできた演出になっている。赤いターバンを巻いた黒子のような魔女たちがすべての運命を回してゆくという趣向で、マクベスの手紙を夫人に届けるところから始まって、マクベスの頭に王冠を載せる、バンクォーの息子を逃がす、「バーナムの森」(HMVレビューの写真でも見える、赤く塗られた木の棒の武器のこと)を用意する、最終場では死んだマクベスをはりつけにする、これらをすべて彼女らがやる。また舞台中央には、金網デスマッチみたいな檻が持ち出され、ダンカン王の殺害、マクベスがバンクォーの亡霊におびえる、マクベスとマクダフの決闘など重要な出来事は必ずこの中で起こる。キーンリーサイドはカプッチッリやヌッチのようなカンタービレの強靱さはないが、いわば深層心理学的に描かれたマクベス。むしろ弱い男が運命にもてあそばれる様を巧みに描いてみせる。つまりF=ディースカウ、ハンプソンらの路線だが、この二人ほど作り物めいた感じがしないのはいい。モナスティルスカは逆に強靱な声の持ち主だが、弱さを全く見せないコワモテ一辺倒の演唱(顔を見るだけでも怖い)。これではマクベス夫人が「夢遊の場」で罪の呵責におびえるようになる経緯に説得力がない。パッパーノの指揮は手堅く万全。

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     2012/04/08

    録音状態は予想通り、あまり誉められたものではないが80年代のライヴとしては普通の水準。近年のインバル/都響の演奏会ではライヴといっても、重要な楽器の前にはちゃんとマイクが立っているが、そういう準備のもとに録られた録音ではないから、ホールトーン優先で金管や打楽器が弱いのは仕方ない。しかし、録音が少し物足りないとは言っても、このディスクの演奏内容はやはりかけがえのないもの。基本的な解釈はコンセルトヘボウとの録音と似ているが、演奏の様相はかなり異なる。コンセルトヘボウ盤は精度が高く、解釈も彫りが深く、繰り返し聴くにはふさわしい演奏だが、バーンスタインらしい「熱さ」は比較的乏しかった。コンセルトヘボウは彼にとって、そんなに気心の知れた仲とは言えない、客演のオケだったせいかもしれない。それに比べるとこの演奏は一発ライヴゆえ、無傷とは言えないが(どんな楽団でも、このテンポの第3楽章を1回でノーミスで弾き通すのは不可能だろう)、遥かにライヴ感、情念の強さがある。私は幸運にもバーンスタイン指揮による9番のナマ演奏を計3回聴くことができた人間だが、その最後、1985年9月8日のNHKホールでの演奏はおそらくこういうものだったと思う。
    さて、肝心の演奏だが、第1楽章は心持ちおとなしい。これは彼のすべての9番の演奏に見られる特色で、細部にはまぎれもないバーンスタイン印の刻印があるものの、第1楽章のクライマックスはいわば楽譜通りで、あまり大芝居をうたないのはなぜだろうかと常に思ってきた。結局、この比類のない音楽(私はこの楽章について「西洋音楽史全体を見渡しても、これほどの高みに達した音楽を、少なくとも私は他に知らない」と書いたことがある)に対する彼の敬意の現われだったのだろう。しかし、第2楽章からはバーンスタイン節全開。狂ったように突進する第3楽章とイスラエル・フィルの弦が文字通り絶叫し、すすり泣く第4楽章はすさまじい。ちなみに、解説書には1985年8月26日という日付けのイスラエルの新聞記事(英語)が載せられているが、この記事がレポートしているのは9月8日のNHKホールでの演奏だから、日付けは間違いだ。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 10人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/04/05

    デセイの声はヴィオレッタを歌うには軽すぎる。そんなことは本人も百も承知の上での挑戦だが、その結果、この役はかつてないほどの繊細さと痛烈さを獲得している。加えて自らの年齢も逆手にとるかのような壮絶な演技(こういう歳になったから、ヴィオレッタが演じられるという計算もあろう)。全身全霊をこめたデセイの演唱にはただただ感嘆あるのみだ。相手役のアルフレードも当然、普通より軽い声だが、カストロノーヴォはテノールらしい輝きを殺してまでも陰影の濃い雰囲気作りに協力している。風貌もいかにも世間知らずのお坊ちゃんだ。ピリオド様式にも通じたラングレの指揮がまた細身でシャープ。さらに日本で見られたローラン・ペリー演出も非常に優れたものだったが、この演出はそれ以上だ。舞台は現代の水商売の世界に移されているが、そこらの読み替えと違うのは演技がきわめてリアルで細かいこと。『椿姫』定番の「演技の型」を破るような斬新なアイデアが山盛りだが、完全にデセイ専用の演出だろう。「花から花へ」を狂乱の場さながらに走り回りながら歌える歌手が彼女以外にいるとは思えない。以上、すべてのファクターが一致協力した結果、この名作からすべての手垢をぬぐい去り、いわば完全にリニューアルすることに成功している。これまでわれわれの観てきた『椿姫』は学芸会に過ぎなかったのかと思わせるほど、強烈で感動的な舞台。

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     2012/04/03

    『タンホイザー』はオペラハウスの通常レパートリーとなっているワーグナーのオペラのなかでは一番「死にかけている」作品だと思う。だって、「清純な愛」対「肉欲」という二項対立、ワーグナーおなじみのテーマだが男の身勝手な妄想でしかない、ヒロインの犠牲死による主人公の救済、どちらも現代の聴衆としては真剣に付き合いかねるようなお題目ばかりだ。この演出は2007年春の東京オペラの森でも見られたもので、NHKでも放送されたからネタばらしをしてしまっても構うまい。ストーリーは裸体画を描く革新的な画家と保守的な画壇アカデミズムの対立に置き換えられている。マネ『草上の昼食』『オランピア』、ピカソ『アヴィニョンの娘たち』など美術史の世界ではおなじみの話だ。つまり、オペラの中心テーマだけを取り出して、残りの要素はすべて捨ててしまった演出だが、ここまでやらなきゃ、もう『タンホイザー』は救えないという演出家の覚悟のほどはリセウ版を再見して一層良くわかった。エンディングなど確かに台本と演出の食い違いは、はなはだしい。タンホイザーもエリーザベトも死なないし、かつては拒まれた彼の絵は画壇に受け入れられ、主人公の大勝利でオペラは終わる。しかし、ヴェーヌス賛歌に「罪」などない、それを罪だと言うのはキリスト教会(ローマ法王)だけだと言うワーグナーの立場から見れば、芸術の価値を決めるのは教会でも教皇でもなく、市場原理だという皮肉な結末を実は作曲家は大歓迎するのではないか。
    映像ソフトではチューリヒ歌劇場の盤についで二度目の登場のザイフェルトだが、やはり見事。タンホイザー役ではルネ・コロ以後の第一人者であるのは間違いない。二人のヒロインではシュニッツァーも悪くないが、ウリア=モリゾンの深く官能的な声が特に素晴らしい。いかにも気弱な芸術家といった風のアイヒェも役にはまっている。手堅いが凡庸というイメージしか持っていなかったヴァイグレだが、この盤でちょっと見直した。後期ロマン派風に肥大化しがちな響きを引き締めて、この作品にふさわしい音を取り戻している。したがって、パリ版によるヴェーヌスベルクの音楽などは迫力不足だが、全体としては好ましいアプローチだと思う。

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     2012/04/02

    ジャケ写真のイメージを借りて語るならば、いかにも毒々しい色彩のノリントンと違って、ヘレヴェッレの描く4番は品のよい、淡い中間色で彩られた花園だけど、近寄ってみると何と、すべてはプラスチックでできた造花ではないか。つまり、この曲の人工性、擬古典性をきわだたせようというアプローチで、指揮者と楽団のやりたいことは良く分かった。いつもながら知的で丁寧な指揮者の仕事ぶりには感服するしかないし、ソプラノ独唱のカマトトぶりもお見事だ。ただし、私は彼らのやろうとすることと4番そのもののキャラクターの間に微妙なズレがあるのではないかという疑念をどうしても払拭できなかった。それはつまり、4番という曲をどうとらえるかという問題にかかわるのだが、キリスト教に対する悪意モロ出しのこの曲は、彼らが考えている以上にドギツイ作品ではないかと私は考える。指揮者執筆のライナーノートを字義通りに解するならば、ヘレヴェッレの理解は擬古典的という点では私と一致するが、「天国的」なものに対する悪意という、その先の部分については、どうやら私とは違うようだ。したがって、私の理解にふさわしい演奏は、ノリントンやホーネックのような毒々しく、エゲツナイ演奏だ。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/04/02

    管楽器のための協奏交響曲はフルート、オーボエ、ファゴット、ホルンを独奏者とするモーツァルトの原曲を誰かがオーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンのために編曲した作品とされている(原曲は紛失してしまった)。この曲にはロバート・レヴィンがフルート以下の元の編成用に「再構築」した版があって、私はそれが大好きなのだが、ここではそんな怪しげな編曲モノは使わないぞというアバドのいつもの潔癖主義が災いした。演奏自体は次のフルートとハープのための協奏曲よりマシだと思うが、いったんレヴィン版が耳になじんでしまうと、この元の版はトロくて聞くに堪えない。次のフルートとハープのための協奏曲は一層、感心しない。もちろんジャック・ズーンの音に金属製楽器を吹く名手達のようなキラキラした輝きは期待していないが、だからといって、これではあまりに芸がなさすぎる。ガロワ/スウェーデン室内管(ナクソス)のように現代楽器でも実に面白い演奏があるのに。ハーピストが終始、控えめなのもこの曲の魅力を大きく減殺している。アバドの指揮も、パユの極度に繊細なフルートに慎重に付けたベルリン・フィル盤の方がまだ良かった。モーツァルト管弦楽団との最初のモーツァルト交響曲集は素晴らしかったのに、アバドのあのつまらないモーツァルトがまた戻ってきてしまったのは残念。

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     2012/03/29

    古楽器オケ「ル・シエクル」を率いるロト。南西ドイツ放送響のシェフになって最初の録音にマーラーの1番を持ってくるとは大胆だ。緩急のアゴーギグについてはわりあい平坦だったノリントン(そう言えば、同じレーベルだ)と違って、第1楽章序奏が非常に遅い以外は速めのテンポで音楽に勢いがある。特にスケルツォ主部と終楽章の第1主題部や終結部は痛快。低弦や金管楽器の強いアクセント、終楽章では硬いバチで叩かれるダブル・ティンパニが強烈だ。錯綜した音楽になればなるほど、それを鮮やかにさばいてみせる、この指揮者の手腕が良く分かるし、終楽章第1主題部終わりの独特な音型に変にこだわったりするのも面白い。一方、ナイーヴさが装われている葬送行進曲の中間部や終楽章第2主題では、ノン・ヴィブラートでマーラー旋律を歌うことの難しさ、課題を感じさせもする。アグレッシヴで意気軒昂な、この曲にふさわしい演奏なんだけどね。

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     2012/03/29

    第1番は何ということもない曲だと思うけど、第2番は大好き。もう一つの変ロ長調交響曲(第5番)が可憐で繊細なのに対し、スケールの大きな、活力にあふれた交響曲で、第6番までの6曲中では最も素晴らしい作品だと思う。さて、ジンマンはあの素晴らしいベートーヴェン・チクルスからずいぶん回り道をして(このご時世にレコード会社がこれだけ録音させてくれるのだから、まあいいけど)、あれと同じ現代楽器によるピリオド様式に戻ってきた。金管楽器の強いアクセント、硬いバチを使ったティンパニの強打など、とても味の濃い演奏。弦の編成が12/10/8/6/4とやや大きいこともあって、透明度と見通しの良さではブリュッヘン、インマゼールら本物の古楽器オケに及ばないが、音楽の勢いとマッシヴな力では優っている。第2楽章のハ短調の変奏での低弦の力強い動きなど、実にめざましい。第3楽章トリオの木管のメロディに繰り返しで装飾を入れるのも、既におなじみの手法だ。

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  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/03/20

    普通のドイツロマン派音楽ではあまり印象に残らない準・メルクルだったが、昨年11月、緊急代役でN響定期に登場し、マーラーのリュッケルト歌曲集と4番を振るのを聴いて、その鮮やかな手腕に驚嘆した。オケをマッスではなくソリストの集合体として扱い、それぞれの楽器の響きを巧みに浮き立たせることにかけては、天才的な感性の持ち主。まさしくピリオド・スタイル時代の指揮者だし、この資質はドビュッシーに最適。どの曲もマッスの力で押そうとはせず、「海」の第2楽章など遅めのテンポで、波と戯れながら響きの綾を織りなしてゆく。量感はないがクリアなナクソスの録音とも相性ぴったり。このセットには編曲物が多く含まれているのも目玉で、コリン・マシューズ編の「前奏曲」全24曲などは、ピアノ原曲との聞き比べも楽しい。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/03/20

    第20番第3楽章と第26番第1楽章のカデンツァで起こる「大変なこと」については噂に聞いていたが、これで実際に確かめられた。目下、ローザンヌ室内管と弾き振りで新全集を録音中のツァハリアスは「あれは若気の至り」と笑うかもしれないが、若い内はこのぐらい暴れてもいい。何が起こるかは聴いてのお楽しみとしておこう(編集ミスでも不良品でもありません)。この二箇所のお遊び以外は端麗で真面目なピアニスト(この人、生まれはインドなんだけど、やはりドイツ人の血は争えないなと思う)。こんな激安ボックスでは申し訳ないような高品質の音楽で、同時期に録音された内田/テイトの全集などと比べても全く遜色ない出来ばえだ。ここではまだ弾き振りではなく、4人の指揮者と共演しているが、共演相手によってピアノのスタイルも少し変わるのが面白い。一番多いジンマンは後のベートーヴェンでやるようなピリオド風味はまだなく手堅い職人仕事だが、珍しくイギリス室内管を振っている13番/15番だけは押し出しが強い。後の「大巨匠」ヴァントはさすがの貫祿だがピアニストの方がやや萎縮気味。マリナーはいつも通り。一番良いのはマクシミウクとポーランド室内管の機動性の高い音楽作りで、ピアニストも旋律装飾、アインガングの挿入など一番遊びのある解釈をしている。

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     2012/03/17

    2番が先に出たが、録音はこちらの方が早く、2010年7月に収録されたもの。やや速めのテンポで、普段は「埋もれ」気味の声部もガンガン自己主張する攻撃的で、表出力の強い演奏。第1楽章の末尾、終楽章のクライマックスなど、ここぞという所ではかなり思い切ったテンポの伸縮もある。「田園」交響曲的なイメージを持っている人には違和感があるかもしれないが、実は3番は書法としてはマーラー屈指の前衛的な作品なので(特に第1楽章)、こういう行き方も悪くない(個人的にはティルソン・トーマスやホーネックのような、より精緻で構えの大きい演奏の方が好みだけど)。動的な熱いタイプの演奏ではあるが、インバル/都響やフェルツのような粗さがないのはいいし、オケもなかなか精度が高い。シュースターもまるでオルトルートかヴェーヌスのような性格的、オペラティックな歌いぶりで「地母神的」なイメージとは違う。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/03/15

    これまでクリストフ・ロイの演出に感心したことはなかったが、これはなかなかの出来ばえ。コンスタンツェがセリムを愛してしまっているという設定は既にチューリッヒのジョナサン・ミラー演出にあったが、この演出は「もうひとひねり」。ブロンデもオスミンを憎からず思うようになってしまっているので、ほんらい啓蒙専制君主へのゴマスリであったご都合主義的なエンディングが、女性が二人とも三角関係に引き裂かれるという感動的な(ドロドロとも言うが)幕切れになっている。第2幕のコンスタンツェの大アリア「ありとあらゆる拷問が」などは、もっと落ち着いて歌わせてやりたいという声もあろうが、ドラマとしては確かに面白い。すべてオリジナル通りのようだが、通常の上演に比べると遥かに台詞の多い舞台になっている。歌手陣ではテノール二人がどうも冴えないが、ダムラウ(ひと頃よりも少しスリムになった)とペレチャツコは歌、演技ともに素晴らしい。ゼーリヒも憎めないキャラを好演。この演出では非常に重要なセリム役、クヴェシュトもチューリッヒのブランダウアーの貫祿には及ばないが、まあ悪くない。ピリオド風味を加えたボルトンの指揮も快調。

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     2012/03/04

    『パルジファル』に関しては、初演百周年の1982年にツェリンスキーという学者が作曲者のコジマ宛て手紙などを引用しつつ、反ユダヤ主義的な作品であるという暴露論文を書いて(少なくともドイツでは)スキャンダルになった。このクプファー演出はバイロイトのゲッツ・フリードリヒ演出(バイロイトがこの演出の映像収録をしなかったのは痛恨事)と共に、ツェリンスキー論文の指摘を真面目に受け止めようとした最初の世代のもの。ナム・ジュン・パイク風の第2幕はさすがに古びた印象があるが、一度は見ておくべき舞台。第1幕・聖餐式の場のカルト宗教めいた、いかがわしい雰囲気、第3幕の最後ではクンドリー(ユダヤ人)でなくアムフォルタスが死に、一同、途方に暮れるというアンチ・ハッピーエンドなど、当時の前衛クプファーの面目躍如たるものがある。ミュージカル『エリーザベト』でもおなじみの可動式オブジェ(本作ではロケットの先端部みたい)の使い方もうまい。歌手陣ではエルミングの主人公は残念ながら私には不可(イェルザレムの方が遥かにマシだと思う)。マイヤー、シュトルックマンはとても良い。トムリンソンのグルネマンツは従来と真逆の役作りだが、完全に演出意図通り(これを含めて、後のレーンホフ演出があちこちクプファーをパクっていることも分かる)。指揮はバレンボイムにしてはおとなしめだが、まあ悪くない。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/01/22

    以下はSACDハイブリッド盤についてのレビュー。私はオペラ以外のカラヤンの録音ではこのセットとワーグナー管弦楽曲集(1974年、EMI)がベストと考えてきた。しかし残念! 録音はSACD化によっても、そんなに劇的に改善されたとは言えない。エコーがかかったような響きで楽器の定位は不明瞭。強奏になると音のひずみ、高域のヒスノイズが盛大。やはりマスターテープにないものは、SACDにしようが取り出せないということか。SQ4チャンネル録音の失敗がつくづく恨めしい。しかし、ほとんど一発ライヴに近い感覚で録られたと思われる、この録音の凄まじい躁状態、マッシヴなエネルギーだけは今回、かつてないほど強烈に感じられた。演奏は5番のみ「不発」だという初発売時の印象は変わらないが(75年DG録音の方が遥かに良い)、4番と6番は全く壮絶。後のウィーン・フィルとの録音など寄せつけぬ高みに達している。6番の一糸乱れぬ第3楽章は、まぎれもなくこのコンピの頂点、ひいては20世紀オーケストラ演奏の頂点をしるすドキュメントだ。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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