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3人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/09/22
これは素晴らしい名演だ。ショルティは、ライナーやオーマンディ、セルなどと言った綺羅星の如く輝くハンガリー系の累代の指揮者の系譜に連なる大指揮者であるだけに、こうした偉大なる先達と同様にバルトークの最晩年の傑作である管弦楽のための協奏曲を十八番としていた。ショルティは、本盤の演奏の前にも、ロンドン交響楽団とともにスタジオ録音(1963年)しており、当該演奏は既にシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤として発売されるなど、圧倒的な名演と高く評価されているところだ。本盤の演奏は、当該演奏から17年の時を経てスタジオ録音されたものであるが、1981年のレコード・アカデミー賞を受賞しているからも理解できるように、再録音の成果が十二分にあると言える素晴らしい名演と高く評価したい。ショルティのアプローチは、これは管弦楽のための協奏曲だけでなく、併録の舞踏組曲についても言えるところであるが、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなく、それ故に演奏全体的な様相は1963年の旧録音にも共通していると言えるが、1980年代に入ってショルティの指揮芸術にも円熟の境地とも言うべきある種の懐の深さ、奥行きの深さが付加されてきたところであり、1981年の本演奏にもそうした点が如実にあらわれていると言える。要は、ショルティを貶す識者が欠点と批判してきた力づくとも言うべき無機的な強引さが本演奏においては影を潜め、いかなる最強奏の箇所に至っても、懐の深さ、格調の高さを失っていないのが素晴らしい。楽曲によっては、ショルティらしい力強さ、強靭な迫力が損なわれたとの問題点も生じかねないが(例えば、マーラーの交響曲第5番)、本盤におさめられたバルトークによる両曲の場合は、そうした問題点はいささかも顕在化していない。そして、本演奏においてさらに素晴らしいのはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。ショルティの指揮にシカゴ交響楽団が一糸乱れぬアンサンブルを駆使してしっかりとついていっているところが見事であり、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮(特に終楽章)していると言える。かかるシカゴ交響楽団の好パフォーマンスが、本演奏を壮絶な名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。音質も英デッカによる極めて優秀なものであり、ルビジウム・クロック・カッティングによって更に鮮明さが増したと言える。もっとも、1963年の旧盤が前述のように既にシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化がなされたにもかかわらず、本演奏が未だにSHM−CD化すらされていないのはいささか不思議な気がする。本演奏は、ショルティの円熟を感じさせる素晴らしい名演であり、可能であれば、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤で発売して欲しいと思っている聴き手は私だけではあるまい。
3人の方が、このレビューに「共感」しています。
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オルフのカルミナ・ブラーナは、近年では多くの指揮者がこぞって録音を行うなど、その主要なレパートリーの一つとして定着しつつある。親しみやすい旋律や内容、そして大規模な管弦楽編成や大合唱団など、現代人を魅了する要素が多く存在していることや、CD1枚におさまる適度な長さであることが、その人気の理由ではないかとも考えられるところだ。音響面だけでも十分に親しむことが可能な楽曲であるだけに、これまでの録音はいずれも水準以上の名演奏と言っても過言ではないが、その中でも、トップの座に君臨するのは、初演者でもあるヨッフムがベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団ほかを指揮した名演(1967年)であると考えられる。これに次ぐのが、諸説はあると思うが、プレヴィン&ウィーン・フィルほかによる名演(1995年)ではないかと考えているところだ。この他にも、私としては、ケーゲルによる名演(2種(1959年及び1974年))などを掲げたいが、更に知る人ぞ知る名演として紹介したいのが、本盤におさめられたオーマンディ&フィラデルフィア管弦楽団ほかによる名演(1960年)である。本演奏の当時は、前述のヨッフムの旧盤(新盤(1967年)は未だ発売されず、旧盤(1952〜1956年)のみが発売されていた。)やケーゲルの旧盤(1959年)以外には目ぼしい録音は存在せず、同曲が現在のように広く認知されている存在ではなかった時期の演奏である。それだけに、オーマンディも、手探りの状況で本演奏に臨んだのではないかと考えられるところだ。それだけに、本演奏におけるオーマンディのアプローチも、きわめて明瞭でわかりやすいものに徹していると言える。各楽想を精緻に描き出していくとともに、オーケストラを壮麗かつバランス良く鳴らし、合唱や独唱をこれまた明瞭に歌わせていると言えるだろう。要は、オルフがスコアに記した音符や歌詞を余すことなく明快に描出した演奏と言えるところであり、当時のフィラデルフィア管弦楽団の卓抜した技量や、徹底した練習を行ったことと思われるが、ラトガース大学合唱団による渾身の大熱唱、そして、独唱のヤニス・ハルザニー(ソプラノ)、ルドルフ・パトラク(テノール)、ハルヴェ・プレスネル(バリトン)による名唱もあって、同曲を完璧に音化し尽くしたという意味においては、正に完全無欠の演奏を行うのに成功したと言っても過言ではあるまい。例えば、ヨッフム盤のようなドイツ的な重厚さや、プレヴィン盤のようなウィーン・フィルの極上の美音を活かした味わい深さと言った特別な個性は存在していないが、同曲が知る人ぞ知る存在で、他に目ぼしい録音が殆ど存在していなかった時期にこれほどの高水準の演奏を成し遂げたことを、私としてはより高く評価すべきではないかと考えるところだ。いずれにしても、本演奏は、同曲の魅力を純音楽的に余すことなく表現するとともに、同曲異演盤が殆ど存在しない時期にあって、同曲の魅力を広く認知させるのに貢献したという意味でも極めて意義が大きい素晴らしい名演と高く評価したい。音質は、1960年のスタジオ録音ではあるが、リマスタリングが繰り返されてきたこともあって、従来盤でも比較的良好なものであると言える。もっとも、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は、従来盤をはるかに凌駕するおよそ信じ難いような圧倒的な高音質であり、あたかも最新録音のような凄まじいまでの音圧や臨場感に驚嘆するほどであった。現在では、当該SACD盤は廃盤であり入手難であるが、それを探す価値は十分にあると言えるところであり、中古CD店で入手できるのであれば、多少高額でも購入されることをおすすめしておきたい。
4人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/09/22
4人の方が、このレビューに「共感」しています。
11人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/09/17
本盤には、カラヤンによる最後の来日公演(1988年)のうち、最終日の1日前(5月4日)の公演において演奏されたベートーヴェンの交響曲第4番とムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」がおさめられている。カラヤンは、サントリーホールの建設に当たって様々な助言を行ったが、当初は1986年のサントリーホール開館記念コンサートに合わせて来日公演を行う予定であった。しかしながら、健康状態が思わしくないことから、当該来日公演をキャンセルし、その代役を小澤がつとめることになったところだ。1988年の来日公演も、カラヤンの健康状態が依然として芳しいものでなかったことから、その実現が危ぶまれたところであるが、それでも、カラヤンは気力を振り絞って来日を果たした。私も、当時の新聞の社説に「約束を果たした男」などという批評が掲載されたことを鮮明に記憶している。いずれにしても、心身ともに最悪の状態にあったのにもかかわらず、愛する日本のために来日して公演を行ったという、カラヤンの音楽家としての献身的な行為に対して、心から敬意を表するものである。もっとも、カラヤンが、こうした心身ともに万全とは言い難い状態にあったということは、本盤の両曲の演奏にも影を落としており、本演奏は、随所にアンサンブルの乱れやミスが聴かれるなど、カラヤン&ベルリン・フィルによるベストフォームにある演奏とは必ずしも言い難いものがあると言える。ベートーヴェンの交響曲第4番で言えば、本演奏の11年前にベルリン・フィルとともに来日時に行われたライヴ録音による超名演(1977年)とはそもそも比較にならない。そして、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」で言えば、本演奏の2年前にベルリン・フィルとともに行われたスタジオ録音(1986年)の方がより優れた名演であり、それら過去の名演と比較して本演奏を貶めることは容易ではあると言えるだろう。現に、レコード芸術誌において、とある高名な音楽評論家が本演奏について厳しい評価を下していたのは記憶に新しいところだ。しかしながら、本演奏については、演奏上の瑕疵や精神的な深みの欠如などを指摘すべき性格の演奏ではない。そのような指摘をすること自体が、自らの命をかけて来日して指揮を行ったカラヤンに対して礼を失するとも考えられる。カラヤンも、おそらくは、今回の来日公演が愛する日本での最後の公演になることを認識していたと思われるが、こうしたカラヤンの渾身の命がけの指揮が我々聴き手の心を激しく揺さぶるのであり、それだけで十分ではないだろうか。そして、カラヤンの入魂の指揮の下、カラヤンと抜き差しならない関係であったにもかかわらず、真のプロフェッショナルとして大熱演を繰り広げたベルリン・フィルや、演奏終了後にブラヴォーの歓呼で熱狂した当日の聴衆も、本演奏の立役者であると言える。正に、本演奏は、指揮者、オーケストラ、そして聴衆が作り上げた魂の音楽と言っても過言ではあるまい。このような魂の音楽に対しては、そもそも演奏内容の細部に渡っての批評を行うこと自体がナンセンスであり、我々聴き手も虚心になってこの感動的な音楽を味わうのみである。いずれにしても、私としては、本演奏は、カラヤン&ベルリン・フィル、そして当日会場に居合わせた聴衆のすべてが作り上げた圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。音質は、1988年のライヴ録音であるが、従来CD盤でも十分に満足できる良好なものであると評価したい。
11人の方が、このレビューに「共感」しています。
3人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/09/17
ネーメ・ヤルヴィ&ベルゲン・フィルによるスヴェンセンの管弦楽作品集の第2弾の登場だ。第1弾のレビューにも記したところであるが、ネーメ・ヤルヴィは75歳の高齢であり、近年では息子のパーヴォ・ヤルヴィの華々しい活躍の陰に隠れがちと言えなくもないが、それでも、果敢に新しいレパートリーの開拓に勤しむ飽くなき姿勢には、我々聴き手としてもただただ頭を下げざるを得ないところだ。ネーメ・ヤルヴィに対しては、一部の評論家からは何でも屋のレッテルが貼られ、必ずしも芳しい評価がなされているとはいえないようであるが、祖国の作曲家であるトゥヴィンをはじめとして、ステンハンマルやアルヴェーン、そしてゲーゼやホルンボーなど、北欧の知られざる作曲家の傑作の数々を広く世に認知させてきた功績は高く評価しなければならないのではないかと思われるところである。確かに、誰も録音を行っていない楽曲は別として、一つ一つの演奏に限ってみれば、より優れた演奏が他に存在している場合が多いとも言えるが、それでも水準以上の演奏には仕上がっていると言えるところであり、巷間言われているような粗製濫造にはいささかも陥っていないと言えるのではないだろうか。本盤におさめられたヨハン・ハルヴォルセンの管弦楽作品集の第2弾については、そもそもいずれの楽曲も輸入盤でしか手に入らないものだけに、正にネーメ・ヤルヴィの独壇場。私の所有CDで見ても、交響曲第2番については、ヤンソンス&オスロ・フィルによる名演(1987年)、その他の楽曲についてはアンデルセン&ベルゲン交響楽団による演奏(1988年)しか持ち合わせておらず、比較に値する演奏が稀少という意味において本演奏について公平な評価を下すことはなかなかに困難であると言えるが、本演奏に虚心坦懐に耳を傾ける限りにおいては、いかにもネーメ・ヤルヴィならではの聴かせどころのツボを心得た語り口の巧さが光った名演奏と言うことができるところだ。スヴェンセンは、グリーグとほぼ同時代に活躍した作曲家であるが、国外での活動が多かったこともあって、グリーグの作品ほどに民族色の濃さは感じられないと言える。それでも、ネーメ・ヤルヴィは、各楽曲の曲想を明朗に描き出すとともに、巧みな表情づけを行うことによって、実に味わい深い演奏を行っていると言えるところであり、演奏全体に漂っている豊かな情感は、正に北欧ノルウェーの音楽以外の何物ではないと言っても過言ではあるまい。いずれにしても、本演奏は、第1弾と同様にスヴェンセンの知られざる名作の数々に光を当てることに大きく貢献した素晴らしい名演と高く評価したい。今後は、スヴェンセンが作曲した2曲の交響曲のうちの第1番やヴァイオリン協奏曲なども録音がなされるのではないかとも考えられるが、続く第3弾にも大いに期待したいと考える。音質は、従来CD盤ではあるが、十分に満足できる良好なものと評価したい。
本盤には、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲とショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番という、性格も作曲年代も大きく異なる楽曲どうしがおさめられている。このような意外な組み合わせをしたCDは本盤がはじめてであると思うが、それだけにヴァイオリニストの実力のほどが試される一枚と言えるだろう。このカプリングを主導したのがメーカー側なのか、それともヒラリー・ハーンなのかは不詳であるが、仮にヒラリー・ハーンであるとすれば、それは並々ならぬ自信ということになるであろう。それはさておき、演奏については、やはりメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲が素晴らしい名演だ。1979年に生まれ米国で育ったヒラリー・ハーンは、本演奏の当時はいまだ23歳の若さであったが、楽曲が、メロディーの美しさが売りの同曲だけに、むしろ若さが大きくプラスに働いていると言える。卓越した技量の持ち主でもあるヒラリー・ハーンであるが、それに若手女流ヴァオリニストならではの繊細で優美な情感を交えつつ、同曲の魅力を十二分に味わわせてくれるのが素晴らしい。いささか線の細さを感じずにはいられないところであるが、楽曲がメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲だけに、そのような欠点は殆ど際立つことはなく、同曲の持つ美しい旋律の数々が繊細かつ優美に歌い抜かれているのは見事というほかはない。もっとも、終楽章の終結部においては、畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力が漲っており、必ずしも優美さ一辺倒の演奏に陥っているわけではない点にも留意しておく必要がある。ヒラリー・ハーンによるかかるヴァイオリン演奏をしっかりと下支えしているのがヒュー・ウルフ&オスロ・フィルによる演奏である。必ずしも超一流の指揮者とオーケストラでなく、むしろ軽快とも言えるような演奏を展開しているが、いささか線の細さを感じさせるヒラリー・ハーンのヴァイオリン演奏の引き立て役としてはむしろ理想的と言えるのかもしれない。いずれにしても、本演奏は、ヒラリー・ハーンが気鋭の若手ヴァイオリニストとして脚光を浴びていた時代を代表する素晴らしい名演と高く評価したいと考える。他方、ショスタコーヴィチのヴァオリン協奏曲第1番は、大変美しい演奏であるとは言えるが、今一つ踏み込み不足の感が否めないところだ。オイストラフに捧げられた同曲であるが、その楽曲の内容は、諧謔的かつ深遠であり、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のように、スコアに記された音符の表層を丁寧に音化していくだけでは、到底その真価を描出することはできないと考える。同曲は、旧ソヴィエト連邦という、現在の北朝鮮のような国で、ひたすら死と隣り合わせの粛清の恐怖を味わった者だけが共有することが可能な絶望感などに満たされていると言えるところであり、よほどのヴァイオリニストでないと、同曲の魅力を描き出すことは困難であるとも言える。当時いまだ23歳で、米国で生活してきたヒラリー・ハーンには、同曲のかかる深遠な内容を抉り出すこと自体がなかなかに困難というものであり、ヒラリー・ハーンには、今後様々な経験を重ねてから、再び同曲の演奏・録音に挑戦していただきたいと考えているところだ。いずれにしても、本盤の評価としては、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲が★5つ、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番が★3つであり、全体として★4つの評価としたいと考える。音質は、2002年の録音でもあり、従来盤でも十分に満足できるものであると言えるが、数年前に発売されていたシングルレイヤーによるSACD盤は、当該従来盤をはるかに凌駕するおよそ信じ難いような圧倒的な高音質であり、加えてマルチチャンネルが付いていることもあって、音質の鮮明さや幅広い音場の臨場感に驚嘆するほどであった。現在では当該SACD盤は廃盤であり入手難であるが、それを探す価値は十分にあると言えるところであり、中古CD店で入手できるのであれば、多少高額でも購入されることをおすすめしておきたい。
4人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/09/17
小林研一郎は必ずしもレパートリーが広い指揮者とは言い難いが、その数少ないレパートリーの中でもチャイコフスキーの交響曲は枢要な地位を占めていると言える。とりわけ、交響曲第5番は十八番としており、相当数の録音を行っているところである。エクストンレーベル(オクタヴィア)に録音したものだけでも、本盤のチェコ・フィルとの演奏(1999年)をはじめとして、日本フィルとの演奏(2004年)、アーネム・フィルとの演奏(2005年)、アーネム・フィル&日本フィルの合同演奏(2007年)の4種の録音が存在している。小林研一郎は、同曲を得意中の得意としているだけにこれらの演奏はいずれ劣らぬ名演であり、優劣を付けることは困難を極めるが、私としては、エクストンレーベルの記念すべきCD第1弾でもあった、本盤のチェコ・フィルとの演奏を随一の名演に掲げたいと考えている。小林研一郎の本演奏におけるアプローチは、例によってやりたいことを全てやり尽くした自由奔放とも言うべき即興的なものだ。同じく同曲を十八番としたムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによるやや早めの引き締まったテンポを基調する峻厳な名演とは、あらゆる意味で対極にある演奏と言えるだろう。緩急自在のテンポ設定、思い切った強弱の変化、アッチェレランドやディミネンドの大胆な駆使、そして時にはポルタメントを使用したり、情感を込めて思い入れたっぷりの濃厚な表情づけを行うなど、ありとあらゆる表現を駆使してドラマティックに曲想を描き出していると言える。感情移入の度合いがあまりにも大きいこともあって、小林研一郎のうなり声も聴こえてくるほどであるが、これだけやりたい放題の自由奔放な演奏を行っているにもかかわらず、演奏全体の造型がいささかも弛緩することがないのは、正に圧巻の驚異的な至芸とも言えるところだ。これは、小林研一郎が同曲のスコアを完全に体得するとともに、深い理解と愛着を抱いているからに他ならない。小林研一郎の自由奔放とも言うべき指揮にしっかりと付いていき、圧倒的な名演奏を繰り広げたチェコ・フィルにも大きな拍手を送りたい。中欧の名門オーケストラでもあるチェコ・フィルは、弦楽合奏をはじめとしてその独特の美しい音色が魅力であるが、本演奏においても、小林研一郎の大熱演に適度の潤いと温もりを付加するのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。いずれにしても、本演奏は、小林研一郎のドラマティックな大熱演とチェコ・フィルによる豊穣な音色をベースとした名演奏が見事に融合した圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。なお、併録のスラヴ行進曲は、どちらかと言うと一気呵成に聴かせる直球勝負の演奏と言えるが、語り口の巧さにおいても申し分がないと言えるところであり、名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。音質は、エクストンレーベル第1弾として発売された際には通常CDでの発売であり、それは現在でも十分に満足できるものと言える。その後は、SHM−CD化、DVD−audio化、SACD化などが相次いで図られたが、ベストの音質は何と言っても本SACD盤と考えられる。マルチチャンネルが付いているというのが、いわゆる臨場感において、群を抜いた存在と言えるだろう。DVD−audio盤も同格の音質ではあるが、当該盤を再生できるオーディオシステムを有している者は今や少数派ではないかとも思われるところだ。いずれにしても、小林研一郎&チェコ・フィルによる圧倒的な超名演を心行くまで満喫するためには、是非とも本SACD盤で聴かれることをおすすめしておきたい。
2人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/09/17
マイスキーは、ロストロポーヴィチが亡き現在においては、その実力と実績に鑑みて世界最高のチェリストであることは論を待たないところだ。マイスキーは、チェロ協奏曲の最高傑作であるドヴォルザークのチェロ協奏曲を2度録音している。最初の録音はバーンスタイン&イスラエル・フィルとの演奏(1988年)であり、2度目が本盤におさめられたメータ&ベルリン・フィルとの演奏(2002年)ということになる。これら2つの演奏はいずれ劣らぬ名演であるが、その演奏の違いは歴然としていると言えるだろう。両演奏の間には14年間の時が流れているが、それだけが要因であるとは到底思えないところだ。1988年盤においては、もちろんマイスキーのチェロ演奏は見事であり、その個性も垣間見ることが可能ではあるが、どちらかと言うと、バーンスタインによる濃厚な指揮が際立った演奏と言えるのではないだろうか。晩年に差し掛かったバーンスタインは、テンポが極端に遅くなるとともに、濃厚な表情づけの演奏を行うのが常であったが、当該演奏でもそうした晩年の芸風は健在であり、ゆったりとしたテンポによる濃厚な味わいの演奏を展開していると言える。マイスキーは、そうしたバーンスタイン&イスラエル・フィルが奏でる濃厚な音楽の下で、渾身の名演奏を繰り広げているが、やはりそこには自らの考える音楽を展開していく上での限界があったと言えるのではないかと考えられるところだ。そのようなこともあって、当該演奏の14年後に再録音を試みたのではないだろうか。それだけに、本演奏ではマイスキーの個性が全開。卓越した技量を駆使しつつ、重厚で骨太の音楽が構築されているのが素晴らしい。いかなる難所に差し掛かっても、いわゆる技巧臭が感じられないのがマイスキーのチェロ演奏の素晴らしさであり、どのフレーズをとっても人間味溢れる豊かな情感がこもっているのが見事である。同曲特有の祖国チェコへの郷愁や憧憬の表現も万全であり、いい意味での剛柔バランスのとれた圧倒的な名演奏を展開していると言える。メータ&ベルリン・フィルも、かかるマイスキーのチェロ演奏を下支えするとともに、マイスキーと同様に、同曲にこめられたチェコへの郷愁や憧憬を巧みに描出しているのが素晴らしい。いずれにしても、本演奏は、マイスキーの個性と実力が如何なく発揮された至高の名演と高く評価したい。併録のR・シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」も素晴らしい名演だ。本演奏でのマイスキーは、重厚な強靭さから、繊細な抒情、そして躍動感溢れるリズミカルさなど、その表現の幅は桁外れに広く、その凄みのあるチェロ演奏は我々聴き手の度肝を抜くのに十分な圧倒的な迫力と説得力を有していると言えるだろう。タベア・ツィンマーマンのヴィオラ演奏も見事であり、メータ&ベルリン・フィルも、持ち得る実力を十二分に発揮した名演奏を展開していると言える。R・シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」には、ロストロポーヴィチがチェロ独奏をつとめたカラヤン&ベルリン・フィルによる超弩級の名演(1975年)が存在しているが、本演奏もそれに肉薄する名演と高く評価したいと考える。音質は、2002年のライヴ録音であり、従来盤でも十分に満足できるものであるが、数年前に発売されたマルチチャンネル付きのSACD盤がベストの音質であったと言える。SHM−CD盤も発売されてはいるが、到底SACD盤には敵わないとも言える。もっとも、当該SACD盤は現在では入手難であり、当面はSHM−CD盤で我慢せざるを得ないところだ。もっとも、マイスキーによる至高の名演でもあり、今後はシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。
2人の方が、このレビューに「共感」しています。
6人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/09/16
ロシア人指揮者にとってのチャイコフスキーの交響曲は、独墺系の指揮者にとってのベートーヴェンの交響曲のような神聖な存在であると言えるが、ゲルギエフにとっても例外ではなく、これまでウィーン・フィルや手兵のキーロフ管弦楽団とともに、チャイコフスキーの後期3大交響曲の録音を行っているところだ。来日公演においても、チャイコフスキーの後期3大交響曲を採り上げており、これはゲルギエフがいかに母国の大作曲家であるチャイコフスキーを崇敬しているかの証左とも言えるだろう。しかしながら、ゲルギエフのチャイコフスキーの交響曲の録音は後期3大交響曲に限られており、初期の第1番〜第3番についてはこれまでのところ全く存在していなかったところだ。そのような中で登場した本盤の交響曲第1番〜第3番のライヴ録音は、クラシック音楽ファンとしても待望のものと言えるだろう。これまでのゲルギエフによるチャイコフスキーの交響曲の演奏は、旧ソヴィエト連邦崩壊後、洗練された演奏を聴かせるようになった他のロシア系の指揮者とは一線を画し、かのスヴェトラーノフなどと同様に、ロシア色濃厚なアクの強いものであったと言える。そのような超個性的なゲルギエフも、本盤の演奏においては、洗練とまでは言えないが、いい意味で随分と円熟の境地に入ってきたと言えるのではないだろうか。随所における濃厚な表情付け(特に、交響曲第3番第1楽章)や効果的なテンポの振幅の駆使は、ゲルギエフならではの個性が発揮されていると言えるが、前述のウィーン・フィルやキーロフ管弦楽団との演奏とは異なり、いささかもあざとを感じさせず、音楽としての格調の高さを失っていないのが素晴らしい。ここぞと言う時の強靭な迫力や、畳み掛けていくような気迫や生命力においいても不足はないが、それらが音楽の自然な流れの中に溶け込み、ゲルギエフならではの個性を十二分に発揮しつつ、いい意味での剛柔のバランスがとれた演奏に仕上がっているのは、正にゲルギエフの指揮者としての円熟の成せる業と評価しても過言ではあるまい。いずれにしても、本盤の交響曲第1番〜第3番の各演奏は、ラトルやマリス・ヤンソンス、パーヴォ・ヤルヴィと並んで現代を代表する指揮者であるゲルギエフの円熟、そしてチャイコフスキーへの崇敬を大いに感じさせる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。そして、今後、続編として発売されるであろう後期3大交響曲の演奏にも大いに期待したい。また、本盤の素晴らしさは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音であると言える。SACDの潜在能力を十二分に発揮するマルチチャンネルは、臨場感において比類のないものであり、音質の鮮明さなども相まって、珠玉の仕上がりであると言える。いずれにしても、ゲルギエフ&ロンドン交響楽団による素晴らしい名演を、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
6人の方が、このレビューに「共感」しています。
6人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/09/15
凄い演奏だ。このような凄い演奏が遺されていたということは、ザンデルリングのファンのみならず、クラシック音楽ファンにとっても大朗報と言えるのではないだろうか。東独出身のザンデルリングは、旧ソヴィエト連邦においてムラヴィンスキーにも師事し、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲を得意としていた。すべての交響曲を演奏・録音したわけではないが、第1番、第5番、第6番、第8番、第10番、第15番の6曲についてはスタジオ録音を行っており、いずれ劣らぬ名演に仕上がっていると言える。ショスタコーヴィチの15ある交響曲の中で、どれを最高傑作とするのかは諸説あると思われるが、盟友であったムラヴィンスキーに献呈された第8番を最高傑作と評価する者も多いのではないかとも思われるところだ。ザンデルリングも、前述のようにムラヴィンスキーに師事していたこともあり、同曲にも特別な気持ちを持って演奏に臨んでいたのではないか。前述のベルリン交響楽団とのスタジオ録音(1976年)もそうしたことを窺い知ることが可能な名演に仕上がっていたと言えるが、本盤の演奏は、当該演奏をはるかに凌駕する圧倒的な超名演に仕上がっていると高く評価したい。ザンデルリングによる本演奏は、師匠であるムラヴィンスキーの演奏とはかなり様相が異なるものとなっている。ムラヴィンスキーによる同曲最高の名演とされる1982年のライヴ録音と比較すればその違いは顕著であり、そもそもテンポ設定が随分とゆったりとしたものとなっている(ザンデルリングによる1976年のスタジオ録音よりもさらに遅いテンポをとっている。)。もっとも、スコア・リーディングの厳正さ、演奏全体の堅牢な造型美、そして楽想の彫の深い描き方などは、ムラヴィンスキーの演奏に通底するものと言えるところだ。その意味では、ショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにした演奏とも言えるだろう。ムラヴィンスキーの演奏がダイレクトに演奏の凄みが伝わってくるのに対して、ザンデルリングによる本演奏は、じわじわと凄みが伝わってくるようなタイプの演奏と言えるのかもしれない。ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。一般に評判の高いバーンスタインによる演奏など、雄弁ではあるが内容は空虚で能天気な演奏であり、かかる大言壮語だけが取り柄の演奏のどこがいいのかよくわからないところだ。かつてマーラー・ブームが訪れた際に、次はショスタコーヴィチの時代などと言われたところであるが、ショスタコーヴィチ・ブームなどは現在でもなお一向に訪れていないと言える。マーラーの交響曲は、それなりの統率力のある指揮者と、スコアを完璧に音化し得る優秀なオーケストラが揃っていれば、それだけでも十分に名演を成し遂げることが可能とも言えるが、ショスタコーヴィチの交響曲の場合は、それだけでは到底不十分であり、楽曲の本質への深い理解や内容への徹底した追及が必要不可欠である。こうした点が、ショスタコーヴィチ・ブームが一向に訪れない要因と言えるのかもしれない。旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家であった東独出身であるだけに、ザンデルリングの演奏も、前述のようにショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにしたものであり、とりわけ最晩年にも相当する本演奏は、数あるザンデルリングによるショスタコーヴィチの交響曲の名演の中でも最高峰の名演であり、同曲の数ある名演の中でも、ムラヴィンスキーによる1982年の名演と並び立つ至高の超名演と高く評価したいと考える。音質についても、1994年のライヴ録音であるが、文句の付けようのない見事な音質に仕上がっていると評価したい。
5人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/09/15
キタエンコ&ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団によるチャイコフスキーの交響曲チクルスの第4弾の登場だ。本演奏を聴いて思うのは、ロシア系の指揮者にとってのチャイコフスキーの交響曲は、独墺系指揮者にとってのベートーヴェンの交響曲のような、仰ぎ見るような高峰に聳える存在なのではないかということだ。というのも、キタエンコと同様に、チャイコフスキーの交響曲全集の録音を進行中のプレトニョフもそうであるが、他の作曲者による楽曲、例えば、プレトニョフであればベートーヴェンの交響曲全集やピアノ協奏曲全集による演奏におけるようないささか奇を衒った個性的な解釈を施すということはなく、少なくとも演奏全体の様相としては、オーソドックスなアプローチに徹していると言えるからである。キタエンコと言えば、カラヤンコンクールでの入賞後、旧ソヴィエト連邦時代のモスクワ・フィルとの数々の演奏によって世に知られる存在となったが、モスクワ・フィルとの演奏は、いわゆるロシア色濃厚なアクの強い演奏が太宗を占めていたと言える。これは、この当時、旧ソヴィエト連邦において活躍していたムラヴィンスキー以外の指揮者による演奏にも共通していた特徴とも言えるが、これには、オーケストラ、とりわけそのブラスセクションのヴィブラートを駆使した独特のロシア式の奏法が大きく起因していると思われる。加えて、指揮者にも、そうした演奏に歯止めを効かせることなく、重厚にしてパワフルな、正にロシアの広大な悠久の大地を思わせるような演奏を心がけるとの風潮があった。ところが、そうした指揮者の多くが、スヴェトラーノフのような一部例外はあるが、旧ソヴィエト連邦の崩壊後、ヨーロッパの他国のオーケストラを自由に指揮するようになってからというもの、それまでとは打って変わって洗練された演奏を行うようになったと言える。キタエンコについても、それが言えるところであり、本演奏においても、演奏全体の外観としては、オーソドックスなアプローチ、洗練された様相が支配していると言えるだろう。もっとも、ロシア風の民族色を欠いているかというとそのようなことはなく、ここぞと言う時の迫力は、ロシアの広大な悠久の大地を思わせるような力強さに満ち溢れていると言える。そして、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団のドイツ風の重厚な音色が、演奏全体にある種の落ち着きと深さを付加させているのを忘れてはならない。いずれにしても、本盤の演奏は、キタエンコによる母国の大作曲家であるチャイコフスキーへの崇敬、そしてキタエンコ自身の円熟を十分に感じさせる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。併録の付随音楽「雪娘」からの抜粋も、交響曲第1番と同様の性格による素晴らしい名演だ。そして、本盤の素晴らしさは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音であると言える。SACDの潜在能力を十二分に発揮するマルチチャンネルは、臨場感において比類のないものであり、音質の鮮明さなども相まって、珠玉の仕上がりであると言える。いずれにしても、キタエンコ&ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団による素晴らしい名演を、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
5人の方が、このレビューに「共感」しています。
3人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/09/14
黒澤明監督の映画は、一部の例外を除いて「侍の映画」と言えるのではないか。「侍」が直接的な表題となった映画は、黒澤映画の最高傑作との呼び声の高い「七人の侍」のみであるが、黒澤映画における「侍」とは、我欲には見向きもせず、一定の信念の下に生き、その信念を曲げなければならない時には死をも厭わない者をさすことが多い。「七人の侍」に登場する「侍」も、もちろん食事にありつけたと言う面もあるが、自分とは全く関わりのない村人たちを守るために命を懸けるという者である。「七人の侍」が、30本存在している黒澤映画の中でも世界的に最も賞賛されている映画であるが故に、「侍」のイメージについては、死をものともせずに信念のために生きる者を指すということが今や国際的にも定着していると言える。そして、黒澤映画の「侍」は、いわゆる時代劇に登場する武士の範疇にはとどまらない。時には、現代劇における一般市民すら「侍」となり得る。その最たる例が「生きる」の主人公である市役所の市民課長、渡邊勘治である。長男を男手一つで育てあげ、退職間近まで無遅刻無欠勤で市役所の職員を務めていたある日、胃癌を患っていることを知る。絶望感に苛まれた渡邊市民課長は、死までの短い間に何をすべきか思い悩む。その過程の中で、健康な時には、市民課長として歯牙にもかけなかった公園の整備に余命を捧げることを決意。様々な障害を乗り越えて公園を完成した後、雪の降りしきる中、新公園のブランコで「ゴンドラの唄」を口ずさみながら従容と死んでいく。この渡邊市民課長こそ、「侍」と言わずして何であろうか。「生きる」には、かかるゴンドラのシーンの他にも、胃癌を患っていることがわかり、病院を後にした時の一時的な無音化(渡邊市民課長の絶望感を絶妙に表現)、誕生日のパーティをバックに渡邊市民課長が公園の整備に命を捧げることを決意するシーンなど、映画史上にも残る名シーンが満載であり、かかる決意の後は、渡邊市民課長の通夜の場面に移り、そこから過去の回想シーンを巧みに織り交ぜながらストーリーが展開していくという脚本の巧みさは殆ど神業の領域。諸説はあると思うが、私は、「生きる」こそは、いわゆる「侍の映画」たる黒澤映画の真骨頂であり、最高傑作と高く評価したいと考えている。少年オプーの成長を描いた大河ドラマ、「大地のうた」「大河のうた」「大樹のうた」の3部作で世界的にも著名なインドの映画監督の巨匠、サタジット・レイが、最も好きな黒澤映画として「生きる」を掲げたのも十分に頷ける話だ。
9人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/09/09
朝比奈はブルックナーの交響曲を得意とし、3度に渡る全集を軸として数多くの演奏・録音を行ってきた。それらは、我が国におけるブルックナーの幅広い認知に大きく貢献した偉大なる遺産と言えるが、とりわけ1990年代以降の演奏・録音は、現在でもヴァントによる名演と比肩し得る至高の名演揃いであると言えるところだ。もっとも、本盤におさめられたブルックナーの交響曲第7番は、朝比奈&大阪フィルが1975年のヨーロッパ・ツアーの最中にライヴ録音された演奏であるが、1990年代以降の数々の同曲の名演にも匹敵する至高の超名演と高く評価したい。朝比奈は、本演奏の後にも同曲を何度も演奏・録音し、大阪フィルの技量などにおいてはそれらの演奏の方が本演奏よりもはるかに上であると言えるが、それでも本演奏の持つ崇高な高みにはついに達し得なかったのではないかとさえ思われるほどだ。何よりも本演奏は、ブルックナーの聖地でもあるザンクト・フローリアン大聖堂での演奏、地下に眠るブルックナーに対する深い感謝の気持ちを込めた史上初めての奉納演奏、そして演奏中ではなく奇跡的に第2楽章と第3楽章の間に鳴ることになった神の恩寵のような教会の鐘の音、そして当日のレオポルト・ノヴァーク博士をはじめとした聴衆の質の高さなど、様々な諸条件が組み合わさった結果、朝比奈にとっても、そして大阪フィルにとっても特別な演奏会であったと言っても過言ではあるまい。そして、そのような特別な諸条件が、かかる奇跡的な超名演を成し遂げるのに寄与したと言えるのかもしれない。本演奏終了後、拍手喝采が20分も続く(CDではカットされている。)とともに、レオポルト・ノヴァーク博士が本演奏に対して感謝の言葉を朝比奈に送ったこと、そして、とある影響力の大きい某評論家が様々な自著において書き記しているが、当日の一聴衆であったドイツ人が本演奏に感涙し、朝比奈に感謝の手紙を送ったというのも、本演奏がいかに感動的で特別なものであったのかを伝えるものであるとも考えられる。いずれにしても、本演奏は素晴らしい。朝比奈は、大聖堂の残響に配慮したせいかブラスセクションをいつもとは異なり抑制させて吹かせているが、それが逆に功を奏し、全体の響きがあたかも大聖堂のパイプオルガンのようにブレンドし、陶酔的とも言うべき至高の美しさを有する演奏に仕上がっていると言える。悠揚迫らぬテンポで着実に曲想を進行させていくのは朝比奈ならではのアプローチであるが、とりわけ第2楽章の滔々と流れていく美しさの極みとも言うべき清澄な音楽は、本演奏の最大の白眉として、神々しいまでの崇高さを湛えていると評価したい。なお、昨年には、同じヨーロッパ・ツアーにおいて、オランダで同曲を演奏したライヴ録音が発売され、ブラスセクションの鳴りっぷりはそちらの方が上であり、聴き手によっては好みが分かれると思われるが、演奏全体の持つ独特の雰囲気など、総合的な観点からすれば、本演奏の方をわずかに上位に掲げたいと考える。これだけの歴史的な超名演であるにもかかわらず、いまだにSHM−CD化などの高音質化が一切図られていないのは大変残念な気がする。我が国の歴史的な音楽遺産とも言うべき至高の超名演でもあり、今後はXRCD化やSACD化を図るなど、高音質化を大いに求めておきたいと考える。
9人の方が、このレビューに「共感」しています。
4人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/09/09
正に強烈無比な演奏だ。フルトヴェングラーはトスカニーニによるベートーヴァンの交響曲の演奏を指して、「無慈悲なまでの透明さ」と評したとのことであるが、従来CD盤のような劣悪な音質で本演奏を聴く限りにおいては、そうした評価もあながち外れているとは言えないのかもしれない。ドヴォルザークの交響曲第9番と言えば、米国の音楽院に赴任中のドヴォルザークのチェコへの郷愁に満ち溢れた楽曲であるだけに、チェコの民族色溢れる名旋律の数々を情感豊かに歌い抜いた演奏が主流であると言えるが、トスカニーニは、そうした同曲に込められたチェコの民族色豊かな味わいなど、殆ど眼中にないのではないかとさえ考えられるところだ。演奏全体の造型はこれ以上は求め得ないほどの堅固さを誇っており、その贅肉を全て削ぎ落としたようなストレートな演奏は、あたかも音で出来た堅牢な建造物を建築しているような趣きすら感じさせると言えるだろう。そして、早めのテンポを基調とした演奏の凝縮度には凄まじいものがあると言えるところであり、前述のように音質が劣悪な従来CD盤で聴くと、素っ気なささえ感じさせる無慈悲な演奏にも聴こえるほどだ。しかしながら、音質については後述するが、本XRCD盤で聴くと、各フレーズには驚くほど細やかな表情づけがなされているとともに、チェコ風の民族色とはその性格が大きく異なるものの、イタリア風のカンタービレとも言うべき歌心が溢れる情感が込められているのがよく理解できるところであり、演奏全体の様相が強烈無比であっても、必ずしも血も涙もない無慈悲な演奏には陥っていない点に留意しておく必要があるだろう。そして、このようなトスカニーニの強烈無比な指揮に、一糸乱れぬアンサンブルを駆使した豪演を展開したNBC交響楽団の卓越した技量にも大きな拍手を送りたいと考える。いずれにしても、本演奏は、トスカニーニの芸風が顕著にあらわれるとともに、ドヴォルザークの交響曲第9番を純音楽的な解釈で描き出した演奏としては、最右翼に掲げられる名演と高く評価したいと考える。音質については、従来CD盤が様々なリマスタリングやK2カッティングなどが行われてきたところであるが、前述のようにいずれも劣悪な音質で、本演奏の真価を味わうには程遠いものであったと言える。トスカニーニ=快速のインテンポによる素っ気ない演奏をする指揮者という誤った見解を広めるには格好の演奏であったとさえ言えるところだ。ところが、本XRCD盤の登場によって、ついに本演奏の真価のベールを脱いだと言っても過言ではあるまい。音質の鮮明さ、臨場感、音圧の凄まじさのどれをとっても、従来CD盤とは別格の高音質であり、トスカニーニの演奏が、決して無慈悲な演奏ではなく、各フレーズにどれほどの細やかな表情づけが行われているのか、そして情感が込められているのかを理解することが漸く可能になったと言えるところだ。いずれにしても、本XRCD盤は、トスカニーニの演奏に関する前述のような誤解を解くに当たっても大変意義の大きいものであると言えるところであり、トスカニーニによる同曲の圧倒的な名演を、このような高音質のXRCD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
3人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/09/09
モーツァルトのホルン協奏曲は、不世出の名ホルン奏者と称されたデニス・ブレインをはじめとして、これまで海千山千の名ホルン奏者によって数多くの名演が成し遂げられてきた。そうした名うての錚々たるホルン奏者による名演奏の中でも、テクニックもさることながら、その音色の独特の魅力においては、本盤におさめられたペーター・ダムによる演奏は、最右翼に掲げられる名演奏と言えるのではないだろうか。シュターツカペレ・ドレスデンは、現在でも伝統ある独特の音色において一目置かれる存在であるが、とりわけ東西ドイツが統一される前の1980年代頃までは、いぶし銀の重心の低い独特の潤いのある音色がさらに際立っていたと言える。そうした、名奏者で構成されていたシュターツカペレ・ドレスデンの中でも、首席ホルン奏者であったペーター・ダムは、かかるシュターツカペレ・ドレスデンの魅力ある独特の音色を醸し出す代表的な存在であったとも言えるだろう。ペーター・ダムのホルンの音色は、同時代に活躍したジャーマンホルンを体現するベルリン・フィルの首席ホルン奏者であったゲルト・ザイフェルトによる、ドイツ風の重厚さを持ちつつも現代的なシャープさをも兼ね備えたホルンの音色とは違った、独特の潤いと温もりを有していたとも言えるところだ。モーツァルトのホルン協奏曲は、卓越したテクニックが必要であることはもちろんであるが、それ以上に愉悦性に富む楽想をいかに内容豊かに演奏していけるのかが鍵になるが、ペーター・ダムの場合は、持ち前のホルンの独特の魅力的な音色だけで演奏全体が実に内容豊かなものになっていると言っても過言ではあるまい。ブロムシュテット&シュターツカペレ・ドレスデンも、ペーター・ダムのホルン演奏の引き立て役に徹するとともに、モーツァルトの音楽に相応しい高貴にして優美な名演奏を展開していると評価したい。いずれにしても、本演奏は、ペーター・ダムの全盛時代のホルン演奏の魅力を満喫することが可能であるとともに、モーツァルトのホルン協奏曲のこれまでの様々な演奏の中でも、ホルンの音色の潤いに満ち溢れた独特の美しさにおいては最右翼に掲げてもいい名演と高く評価したいと考える。併録のロンドヘ長調も、ペーター・ダムのホルン演奏の素晴らしさを味わうことが可能な素晴らしい名演だ。なお、ペーター・ダムの魅力的なホルンの音色は、同時期のシュターツカペレ・ドレスデンの演奏、例えば、特にホルンが大活躍するブロムシュテット指揮によるブルックナーの交響曲第4番において聴くことが可能であるということを付記しておきたい。音質は、本リマスタリング盤もなかなかの良好な音質であると言えるが、かつて発売されていたハイブリッドSACD盤が鮮明な素晴らしい高音質であった。ペーター・ダムの息遣いまでが聴こえる鮮明さは殆ど驚異的であり、SACDの潜在能力をあらためて認識させるのに十分なものであったとも言えるところだ。もっとも、現在では、当該ハイブリッドSACD盤は入手困難であるが、ペーター・ダムによる稀代の名演をできるだけ良好な音質で味わいたいという方には、多少高額であっても、中古CD店などでハイブリッドSACD盤を購入されることを是非ともおすすめしておきたいと考える。
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