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村井 翔 さんのレビュー一覧 

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/10/17

    来日公演でも圧倒的な名演を聴かせた7番がいよいよ登場。一昔前までは支離滅裂だの分裂症気味だのと散々言われた7番だが、ごく普通に絢爛豪華な大交響曲として聴けてしまうのは、今や技術的にもすこぶる高度、かつ楽想の急転をものともしないゲヴァントハウスのオケとしての一体感ゆえか。最近のこのコンビの特徴は、ここでも明瞭に聞き取ることができるが、テンポは概して速め。特に中間三楽章は15:03/9:21/11:46とかなり飛ばしているが、そんなに落ち着かない印象はなく、楽想は十分に深く掘り下げられている。速いテンポながら第4楽章の繊細さ、ドイツのオケらしからぬ色彩感の豊富さは出色。他には強拍の頭に金管の強奏でアクセントをつける、ここぞという所でのティンパニの強打など、ピリオド・スタイル由来と思われる手口も随所で見られる。映像ではティンパニ奏者がこまめにマレット(ばち)を使い分けているのが確認できるし、終楽章では奏者二人がかりで1セットのティンパニをロール打ちする箇所などもしっかり撮られている。一つ前の9番、その前の5番と比べても、このコンビのスタイルが曲に合っているのは明らかだ。ちなみに、この盤から特典映像、つまり指揮者の語る曲についてのコメントが無くなったが、これはまさに正解。シャイー先生は下手に言葉で語らない方が良い。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/09/25

    やはりディヴィッド・ロバート・コールマン(1969〜)の新補筆版についての評価を真っ先に述べねばならぬだろうが、残念ながら、これが全く評価できない。様式的に違和感があるとツェルハ版で最も評判の悪かった第3幕第1場を全面カットしたほか、プロローグがないなど「ベルク自身の手で完成」とされてきた第2幕以前にも手を入れているが、第3幕第2場前半の明らかに薄いオーケストレーションなど、ツェルハ以上に変で、『ルル組曲』として出来上がっている後半のベルク自身のオーケストラ書法と整合しない。こういうものを新たに出す場合、新補筆者があれこれ自分の考えを述べるのが、最近の慣例であろうが(私の知る限り)これに関しても、驚くほど情報が少ない。少なくとも、シュターツオーパーのHPに掲げられた文章(同じものがDVDの冊子にも転載されている)が言うように、「劇的な緊張を高め、ベルクの意図したオペラの全体構図におけるシンメトリーを強調する」結果には全然なっていない。むしろ正反対なのは否定しようもないと思う。演出は舞台機構もあまり使えない、シラー劇場での上演に配慮したのか、アンチリアルに徹した、象徴的なもの。それなりに面白いが、好みは分かれそう。ルルの二人の分身(ダブル)を使って彼女の過去・現在・未来を同時に表現したというこの舞台、少なくとも筋をあらかじめ知っていなければ、見ても何も分からないだろう。『ヴォツェック』の時はなかなか良かったバレンボイムの指揮も、演出に調子を合わせたのか、あまり積極的な表現意欲が感じられず、手堅いがおとなしい。
    ただし、歌手陣だけはきわめて豪華。エルトマンのルルはほとんど動かない、というか演出家が彼女を動かさないが、やはりこの役で美人はお得。シンボリックな存在感は何にも換えがたいし、技術的にも非常に高度で、至難な「ルルの歌」など完璧だ。フォレのシェーン博士もネミローヴァ演出版に続いて相変わらず良いが、存在感と言えば、長身のポラスキが演じるゲシュヴィッツ伯爵令嬢も抜群。彼女がこの役にこんなに見事にハマルとは思ってもみなかった。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/09/12

    ロトのR.シュトラウスはどれも面白い。従来の演奏伝統を無視して、冒頭のティンパニ連打のくだりから快速テンポで突っ走る『ツァラトゥストラ』も痛快だが、曲との相性という点で言えば、やはりパロディ、アイロニーの気配が最も濃い『ドン・キホーテ』かな(最近では『英雄の生涯』も自己パロディだという声が高いけど)。さて、『ドン・キホーテ』の最終変奏、彼が友人カラスコとの決闘に負けた直後の部分ではティンパニの打ち続けるリズム、弦の主旋律の裏でトロンボーンが派手な下降グリッサンドを奏している。ドン・キホーテ(あるいはサンチョ・パンザ?)の嘆きの声といったところか。これまでの指揮者だって総譜にそう書かれていることは知っていたはずだが、ロトほどこの裏の旋律をはっきり聴かせようとはしなかった。これはいささかはしたない、どぎつすぎる、クラシック音楽の品位に関わるとでも思ったからではないか。これに対して、ロトの演奏姿勢はまことに単純明快であるように見える。そう書いてあるんなら、聴衆に聴かせなきゃ駄目でしょ。まして、この作曲者たるや、「品位」なんぞ蹴っ飛ばしてしまえと思っていた人なんだから。ロトのシュトラウスはまさにそういうスタンス、総譜に書いてあるものなら残らず引きずり出してしまえというスタンスの演奏だ。さらに『ドン・キホーテ』は決して協奏曲ではないにもかかわらず、いわば中途半端な曲だから、大物チェリストを招くと指揮者と独奏者が遠慮し合ってしまいがちだ。このディスクでのソリストは同じオケの首席奏者だから、その点でも遠慮なし。しかもドイツの放送オケは、今やどこも驚異的にうまい。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 15人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/09/12

    セット化に伴ってSACDハイブリッドでなくなったのは残念だが(さもないと誰もバラ売りを買わないだろう)、単売3枚以下の値段で全部手に入るという値段の誘惑には勝てなかった。本音を言うと25番以降しか興味ないんだけど。ちなみに今回、遅まきながら購入に至ったのは、某ミュージック・ストリーミング・サービスに加入したせい。さもなければ、一生この素晴らしい全集を聴かなかったかもしれないと考えると恐ろしい(私の場合、予想に反して加入後のCD購入枚数は激増しており、頭が痛いが)。実際、平均点の高さから言えば、これはモーツァルト交響曲全集の中でも現在、第1位に推されるべきセットだと断言してはばからない。
    確かにこのコンビの演奏姿勢は柔軟だ。使用楽器は現代のものだし、弦楽器はフレーズの真ん中をふくらませて、終わりは弱めるというピリオド・スタイルおなじみのフレージングを随所で見せるが、それに固執はせず、必要とあれば弓をいっぱいに使って強いアタックをかけることも辞さない。反復もすべて律儀に実行するわけではなく、展開部〜再現部の反復はやったり、やらなかったり。稀には第1楽章提示部の反復を省くこともある。しかし柔軟だからといって、演奏が穏健なわけではない。むしろHIPスタイル・モーツァルトでは最過激な部類だ。金管の思い切った強奏、硬いバチによるティンパニの強打などは今やどこでも聴けるが、このコンビは弦楽器の使い方も創意に富んでいる。第33番のメヌエットではほぼグリッサンド。スピッカート(『ハフナー』終楽章では弓で弦を叩いている)からスル・ポンティチェロ(『リンツ』の終楽章ではおそらくやっている)まである。思いついたら、何でもやってみようという実験精神は大歓迎だ。ちなみに、ハイドン交響曲全集も同時に聴いたが、こんなに過激ではなかった。作曲家のキャラクターの差でないとしたら(トーマス・ファイ指揮のハイドンは途方もなく前衛的だ)、指揮者の成熟、もしくはオケの性格の違いか。アダム・フィッシャーの間(ま)のセンスの良さも随所で見られる特徴。『リンツ』の第1楽章提示部では、最後の小結尾主題になだれ込む前に一瞬の休符があるのだが、彼はこの間をやや長めにとる。これは実に粋だ(『ジュピター』第1楽章も同じ)。
    最後に気に入った曲を列挙すると、まず第25番(特に第1楽章は堂々たるスケール)、第28番(もともとチャーミングな曲だと思っていたけど、後半2楽章は圧巻)、第34番(こんなに創意に富んだ面白い曲だと初めて知った。第2楽章は驚くべき快速テンポ)。そして前述の通り、やりたい放題な『ハフナー』と『リンツ』。『プラハ』以後はさすがに競合盤も多いが、最後の『ジュピター』は素晴らしい。アーノンクールの最新盤だと圧倒的な威容を見せる曲だが、私は楽想に応じて柔軟なテンポをとるアダム・フィッシャーの方が好きだ。

    15人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/08/28

    グリッテンベルク夫妻の装置/衣装がそっくりなこともあって、4年前に映像収録されたばかりのチューリヒ版に印象が似ているが、基本的には別の演出。最後の「毒薬」ネタはチューリヒ由来だが、今回は間違って飲んでしまう人物が違っている。「どんなことでも理性で対処できる」というドン・アルフォンソの啓蒙主義は賭けには勝ったかもしれないが、実はこのドラマにおいては「敗者」という演出家のコメント通りの結末。しかも今回は唐突感を和らげるために第1幕冒頭から伏線を張っている。温室の中のクアハウスみたいな場所が舞台になっていて、第1幕の舞台には小さな浴槽があり、序曲の間に姉妹たちの入浴シーンを見せる(もちろんここで全裸になるのは歌手たちではなく、スタンドインのお二人さんだけど)。でも、ちょっとあぶなそうに見えるのはそこだけ。時代の移しかえも根本的な部分での読み替えもない舞台は、現在のザルツブルクでは最も保守的な演出の一つだろう。しかし、元のストーリーが十分過激なので(だから初演後、百年以上も理解されなかった)、それ以上いじる必要なしという演出家の考えに私は大いに賛同。涙も笑いも盛りだくさんの(ほぼ元ネタがないと言われる)ダ・ポンテの台本が人間の真実を突いたオペラ史上の大傑作であることが改めて確認できるし、それを盛り立てる演出上の仕掛けも申し分ない。
    歌手陣はチューリヒ版そのままのハルテリウス(年齢的にコロラトゥーラは苦しいところもあるが、キャラクターの表現は万全)とヤンコーヴァ(今年の『フィガロ』も楽しみ)以下、一段と強力な陣容。姉との「対比」より「同質性」を重んじたと思われるシャピュイも良いし、フィンリーも予想以上の芸達者。ミッテルルッツナーは軽めのテノールで、私はもう少し情熱的なフェルランドが好きだが、これも悪くない。というわけで、指揮が良ければ満点なのだが・・・ とりあえずチューリヒのヴェルザー=メストと比べてみても、ピットにウィーン・フィルが入っているにもかかわらず、あらゆる点で負けている。残念!

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 4人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/08/27

    個人的な興味の焦点は第9交響曲。1984年のウィーン・フィルとの第1回録音は「第9の呪い」だの「死の予感」だのといった、この曲にまつわる様々な物語を故意に無視するかのような精緻にして冷徹な演奏。そのクールさはショッキングなほどだった。1996年のバイエルン放送響との録画はカメラワークも良く、教えられるところの多い映像だったが、演奏のスタンスは基本的に変わらなかったと思う。「潮目が変わった」と思ったのは2008年6月のニューヨーク・フィルとのライヴ(配信のみ)。32:19/15:39/14:17/27:30と両端楽章のテンポが遅くなり、依然としてクールではあるが、いわば「叙事的」に音がドラマを語るようになった。そして今回の録音の所要時間は、ついに35:48/15:52/15:03/29:09。第2楽章の演奏時間が最初からほとんど変わらないのは面白いが、第1楽章など、遅い部分はさすがにもうこれ以上、遅くしようがないので、提示部終わり、展開部の二度のクライマックスなど本来テンポを上げるべき箇所でテンポがあまり上がらなくなり、ベタに遅くなってしまった。それでも展開部のヒタヒタと押してゆく迫力、再現部以降の「崩壊」感など凄まじい。終楽章もいわゆる「泣き落とし」的手法とは無縁の毅然たる演奏。不死身かと思われたマゼールもあの世の住人となってしまった今、襟を正して聴くべき演奏だろう。
    第7番は遅いと言っても、さすがにクレンペラーほど遅くならないが、クレンペラーと全く違うのは、きわめて色彩感が豊富なこと。マゼールがラヴェルを得意にしていたのを思い出した。第8番のリハーサル時間は十分に取れなかったと推測されるが、それでも手堅くまとめているのは、さすがにこの指揮者の能力の高さの証拠。しかし、べったり遅いだけで、どういう風に曲を作ろうとするのか、指揮者の意図があまり見えない演奏ではある。

    4人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/08/20

    第5番は確かに一面では、対位法的にがっちりと組み立てられた純粋器楽交響曲であり、また金管奏者を中心にその名人技を極限まで引き出す「管弦楽のための協奏曲」的な側面もある。そういう構築的な面、あるいはオケの名人技を重んずる人にとっては、この演奏はやや物足りないかもしれない。しかし、曲の内的プログラムを考えれば、この曲はたとえばベートーヴェンの第5番のように「闇」から「光」へのドラマが一直線ではなく、屈折した味わいに満ちている。その点では、これはやはり無視し得ない、説得力に富んだ演奏だ。具体的に言えば、細かい緩急のアゴーギグ、音色の明暗を駆使して曲のプログラムを細密に描こうという演奏。2013年6月のN響定期でも大変感動的だったが、たとえば第2楽章展開部序盤、ティンパニのとどろきを背景にチェロがユニゾンで第2主題をレチタティーヴォ風に奏する部分などは、音楽が止まってしまいそうなほど遅い。柔らかく、繊細きわまりない表情のアダージェットも絶美だし、終楽章では音楽が一気呵成に突っ走ってしまわないように、そのアダージェットから終楽章に持ち込まれた主題が「鎮静」と「異化」の効果を担っているのだが、この楽章での変化に富んだテンポ配分も実にうまい。最後は盛大な拍手入り。

    5人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 9人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/08/20

    ベルリン・フィルからの首席指揮者就任要請を蹴ったと噂されるネルソンス。事の真偽はともかく、「まあ、それも良かったんじゃないの・・・あまり早く頂点に登りつめると、その後の身の振り方も難しいし」と納得できるような、きわめて充実したボストン響との第1弾録音が登場。まずは『ムツェンスクのマクベス夫人』からの「パッサカリア」で強烈な先制パンチを見舞う! そのまま交響曲の第1楽章に入ってゆくが、これは実にいいアイデアだ。第10番の第1楽章は素晴らしい緩徐=冒頭楽章だが、出だしのインパクトという点では第5番や第8番の冒頭ほどではないからだ。第10番は今世紀に入ってからだけでも、数種類の有力録音が出ている超激戦区だが、とりあえずアメリカのオケで比較すると、パーヴォ・ヤルヴィ/シンシナティ響がスリムで鋭角的な演奏なのに比べ、ボストン響はもっと響きがグラマラスで厚みがある。しかし決して脂肪太りではなく、第2楽章など物理的な速さ以上にスリリングでカッコいい。この指揮者の美質は音楽からドラマをつかみだす劇的な嗅覚があるところ、にもかかわらず断じて粗い仕上げにはならず、音楽作りがとても丁寧なところだ。第1楽章の息の長い持続力は見事だし、最終楽章も安易には突っ走らない。半ば大向こう受け狙い、半ばパロディという複雑な味わいをうまく出している。終盤のDSCH音型連打のくだりでは、ショスタコ先生のドヤ顔が目に浮かぶよう。最後には盛大な拍手が入っている。

    9人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/08/03

    アーノンクールとベルリン・フィルの録音はブラームス全集、ブルックナー8番など、あまりめざましいものが無かったが、これは出色の全集。テルデックによって収録されたが、折からのCD不況で発売中止になってしまった録音らしい。交響曲全集では当然ながら前回のコンセルトヘボウとの録音との比較になるが、全体にテンポが遅くなり、表情は一段と濃厚、初期の交響曲ですら音楽の恰幅が良い。弦楽器の人数もかなり多めではないか。舞曲楽章で主部とトリオのテンポが全く違うのは、いつものアーノンクール流だが、今回はトリオがとりわけ遅い。第2番終楽章では第2主題の終わりで毎度リタルダンドするという新解釈。指揮者がロッシーニのパロディだと言っている第6番終楽章では変幻自在のアゴーギグ(これは前回録音と同じ)。『未完成』の第1楽章は提示部反復込みで17:13という恐るべきスローテンポだが、一方の『大ハ長調』はオケの威力を生かして、いつも以上にストレートな解釈で力押ししてくる。最後の音は例によってディミヌエンドだ。これがアーノンクールの録音としては唯一となる『アルフォンゾとエストレッラ』も強力なキャストを揃えた堂々たる演奏。ただ、『フィエラブラス』よりは幾らかマシとしても、このオペラ、聴くたびにストーリーが全く駄目であることを痛感する。歌曲ではあんなにいい詩を選択しているのに、まともな台本作者にめぐり合えなかったのが、オペラ作曲家シューベルトの不幸だ。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/08/01

    ベヒトルフの演出はいかにも「青臭かった」チューリッヒ時代のものより遥かに良い。セットとしては奥に階段のあるホテルのロビーを一貫して使うが、黒子役のホテル従業員たちが小道具を用意し、また片づけることによってスムーズに舞台転換する。マゼット/ツェルリーナを従業員同士のカップル、他の人々は泊まり客にすることによって、このような現代化演出では失われがちな、元の設定にあった平民/貴族の身分差を保存しているのも、なかなか秀逸なアイデア。工夫の行き届いた、とても器用に作られた舞台ではあるが、クーシェイ、グートという最近二つのザルツブルクにおける『ドン・ジョヴァンニ』演出(これが全部、映像ディスクで見られるというのも、凄い時代になったものだ)に比べると、強烈なインパクトには欠ける。
    ダルカンジェロ、ピサローニ、コニェチュニの低声陣は盤石。ギャラントな色男で押しの強さも申し分ないダルカンジェロはシェピ以来のドン・ジョヴァンニ像の一典型だろう(もちろん多様な解釈の余地がある人物で、ハンプソンもマルトマンも私は好きだが)。対する女声陣は若い美人揃い。なかでも達者な演唱をみせるフリッチュのドンナ・エルヴィーラが出色だ。ドンナ・アンナは声自体はやや非力だが、演技を含めた役作り(彼女もドン・ジョヴァンニが忘れられない)はなかなかうまい。ツェルリーナは可愛く演じられているが、欲を言えばもう少し「したたかさ」が見えると良かった。一番問題なのはエッシェンバッハの指揮。確かにウィーン・フィルを気持ちよく弾かせているが、前の二人、ハーディング、ド・ビリーに比べると最も微温的だ。これでは今秋のウィーン・フィル来日公演も大いに懸念される。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 3人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/07/12

    ピリオド・スタイルによる『真夏の夜の夢』にはアーノンクール、ブリュッヘン、ヘレヴェッヘなどの録音があったが、いまだ決定打がなかった。リープライヒとミュンヘン室内管弦楽団は指揮者、オーケストラともに日本ではほぼ無名かもしれないが、ロッシーニ序曲集の素敵なディスクを出していたこのコンピによる新録音は素晴らしい。弦の編成が6/5/4/4/2と小編成なので、音像がとてもクリアで各パートの隅々まで良く聴こえる。欲を言えば、序曲冒頭の「妖精の羽ばたき」ではレヴァイン/シカゴのような繊細さがあるとなお良かったが、足どり軽やかな「結婚行進曲」など魅力的だ。ナレーターがいないと間の抜けてしまう「メロドラマ」は含まないが、「妖精の歌」や「フィナーレ」を含む11曲を収録。『イタリア』は一見、爽やかな曲想にもかかわらず、意外にポリフォニックかつ目の詰んだオーケストレーションがされた曲で、演奏はなかなか難しい。トーマス・ファイは過激すぎるが、クリヴィヌではもの足らぬという人には、これが最適の演奏。たとえば第1楽章冒頭の第1主題、ファイの録音ではヴァイオリンの主旋律がリズミックな木管の対位旋律にかき消されがちだが、そのあたり、この録音はとてもバランスがいい。終楽章のサルタレロもファイほど猛烈ではないが、かなり速いテンポ(5:21)で十分にスリリングだ。

    3人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2015/07/04

    このオペラに対する「脱神話化」の企ては何度か試みられてきたが、ここまで過激なものはかつてなかったのではないか。この作品、副題は確かに「喜劇」なのだが、演出家はこれを全く字義通りに受け取ろうとしている。喜劇という意匠の下にシリアスなテーマを含ませるというのは、同時代の(音楽の付いていない)喜劇『気難しい男』に端的に見られるようにホフマンスタールの得意とするところだが、演出家はこのオペラにおけるシリアスなテーマ、必然的に「心変わり」や「老い」を招く無情な時間の流れにわれわれ人間はどう対処したら良いか、といったテーマに全く関心がないようだ。オックス男爵をめぐる喜劇的な場面が生彩豊かであるのは、なるほど結構なこと。けれども、この舞台では銀のバラの献呈式における恋人たちの一目惚れシーンなども喜劇的に色付けされており、彼らも戯画化、パロディ化されてオックスと同じ水準に引き下げられている。特にオールド・ファンを激怒させそうなのは元帥夫人に対する扱い。演出家自身が言う通り、夫のいぬ間に愛人をベッドに引き入れている彼女は確かに倫理観の欠けた人物ではあろう。そうは言っても、ここまで「下品に」描かれると、さすがにショックを隠せない。たとえば第1幕冒頭、舞台中央奥が浴槽になっていて、彼女はここで(実際にはボディスーツ着用らしいが)全裸を見せる。カーセン演出に全裸の売春婦が出てくるのとは次元が違う。第3幕でオックスに自分とオクタヴィアンの関係を漏らさぬよう脅迫するあたりも、実に嫌らしい人物として描かれるし、ゾフィーにオクタヴィアンを譲る「美しい」幕切れも、複数の愛人のうち一人を見切っただけであることが露骨にほのめかされると、(確かに実際にはそうかもしれないが)すっかり白けてしまう。もちろん黙役だが、両端幕にはジクムント・フロイト博士も姿を見せる。各幕の装置の歪んだパースペクティヴも不条理な、夢のような印象を強調するかのよう。
    相変わらず好きになれないケイト・ロイヤルの作り物めいた演唱も、この演出ならまあ仕方ないか。小太りで愛嬌のある・・・つまり普通に考えれば、あまりオクタヴィアンにふさわしくないタラ・エロートもうまく演出コンセプトにはまっている。ティチアーティの若々しく俊敏な指揮は魅力的だが、できれば違った演出で聴きたかった。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2015/05/31

    なぜかまだレビューがないが、NHK-BSでは既に昨秋に放送された2014年夏のザルツブルクの目玉公演。『ばらの騎士』21世紀の新スタンダードと呼ぶにふさわしい見事な出来だ。まずは老匠クプファーの演出。かつてのような挑発的な舞台ではもはやないし、20世紀初頭への時代変更も今や定番だが、ヴェテランらしく劇的なシチュエーションの作り方がうまいし、小道具の配置も実に面白い。たとえば第1幕の背景にさりげなく置かれた二輪の白いカラーの花。フロイト的な読み方を知っていれば、性的な含意は明白だろう。解説してしまうと身も蓋もないが、花はもちろん女性の象徴。それが二輪あるのは、ここで恋人を演じるのが実は女性同士、「百合」関係だということだ。黒人のお小姓モハメッドがカーセン演出同様、若い青年で、朝食を運んできた彼が懐から大事そうに取り出したばらの花に口づけして、そこに添えるのも印象的。彼は一番最後のシーンで拾ったゾフィーのハンカチにも接吻する。第2幕ではオックス男爵がゾフィーをつかまえて、例のワルツを歌い始める場面。オクタヴィアンとファニナルの引きつった表情に、思わず吹き出しそうになる。プロジェクション・マッピングで背景に投影される主としてモノクロの風景も美しく、第1幕幕切れの冬枯れの並木道、第3幕三重唱の場面の朝霧のたちこめる野外(ジャケ写真)など秀逸だ。
    歌手陣もすこぶる強力。少し老けたとはいえ、相変わらず最高のオクタヴィアンであるコッホ、可憐だがいかにも芯の強そうなエルトマンももちろん良いが、傑出しているのは元帥夫人とオックス男爵。ストヤノヴァがこんなに見事な元帥夫人を演じるとは思ってもみなかった。ドイツ語のディクションは完璧でないかもしれないが、誰かさんのようにシュヴァルツコップをコピーしようとするのではなく、積極的に新しいマルシャリン像を作ろうとしていることに好感が持てる。実際、この元帥夫人はデカダンで「壊れやすい」女性ではなく、もっと生活力のありそうな、逞しい女性だ。グロイスベックのオックス男爵も豪放さはやや影をひそめたが、貴族らしいノーブルで若々しい役作り。今回はトラディショナル・カットを排した完全全曲演奏だが、復活したのは主としてオックスに関わる場面なので、彼が魅力的なのはありがたい。チューリヒでの録画も素晴らしかったヴェルザー=メストは、あえてティーレマンのようにタメを作らず古典的な格調を重んじた、しかし同時にデリカシーも大いにある指揮。ウィーン国立歌劇場が「黄金時代」を築けそうな指揮者を追い出してしまうのは毎度のパターンだが、またしても逃した魚の大きさを思い知らされる結果になった。

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     2015/05/30

    クラシックの名曲の場合、最初に聴いた演奏によって文字通り「刻印を押されて」しまうことは良くおこりがちだが、私の場合、チャイコの5番はまさにそういうケース。私がこの曲を大好きになったのは、1960年に録音されたバーンスタインとニューヨーク・フィルのCBS録音によってなのだ。このLPはたちまちすり切れてしまったのでLP時代に二度も買い直し、今は通算4代目のCDがわが家にある。バーンスタインは例によって最初から最後までやりたい放題やっているが、彼の読みが逆に楽譜通りである箇所も少なくない。この曲には変な演奏伝統があって、たとえば第1楽章第1主題の提示部「アレグロ・コン・アニマ」はたいていの指揮者がテンポを遅くとり過ぎる。バーンスタインの方が正しいのだ。第2楽章中間部「モデラート・コン・アニマ」もまさにそうで、バーンスタインのテンポが正解だと思う。もちろんDGへの再録音も大好きだが、私の場合、とにかくこの曲は彼以外の指揮者ではどうしても満足できないのだ。
    さて、そういうわけでティルソン・トーマスの今回の録音。基本的には21世紀のリファレンスとしての地位を既に確立している、あの輝かしいマーラー全集と同じスタンスのアプローチだと思う。スコアを徹底的に掘り起こして、これまでちゃんと聴こえなかった音楽の姿を明らかにしようというやり方で、第1楽章第1主題の弦の主旋律に、入れ代わり立ち代わり木管がからんでくる所など、ああこういう音楽だったのかと手に取るように分かる。全く楽譜通り、かつ楽譜に書いてないことはほとんどやらない演奏で、終楽章コーダの追い込み部におけるヴァイオリンの細かい動きに至るまで、音楽の姿が克明に聞き取れる。その点では驚くべき高水準の演奏なのではあるが、指揮者自身がやや枯れたのか、マーラーの時ほどの集中力と曲に対するのめり込みは今回あまり感じられなかった。私をバーンスタインの呪縛から解き放ってはくれなかったのだ。フィルアップの『ロメ・ジュリ』はやや精度の落ちる普通の演奏で、最後には盛大な拍手が入っている。

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     2015/05/30

    第9番は2009年6月、第10番(アダージョのみ)は2008年6月、いずれもエーベルバッハ修道院で収録。この素晴らしいマーラー・ツィクルスのほぼ唯一の欠点は、大半の曲がこの修道院での収録になってしまったこと。第9番は非常にポリフォニックな様式で書かれた曲だし、演奏者も複音楽的な線の絡み合いを克明に表出しようとしているのだが、聖堂内の長すぎる残響に災いされているのは明らかだ。けれども、演奏そのものは大変すばらしいと思う。ほぼ一年前の来日公演の時よりも、さらに練れた印象があり、6番、7番と並んでこのツィクルス白眉の演奏と言える。ただし、第9番の演奏と言うと、われわれ聴き手はその指揮者のマーラー解釈の総決算的な出来を期待してしまいがちだが、パーヴォとしてはこの時点でのベストを尽くしたことは間違いないものの、まだまだ発展途上の演奏だと思う。第1楽章は全体としては遅めのテンポを基本にしつつも、提示部の終わり、展開部の二度のクライマックスなど総譜がテンポ上げを指示している箇所での、きわだった加速の仕方が印象的。根本的にはクールなアプローチながら、そのために「熱い」、表現主義的な感触が感じられる。しかも徐々にアッチェレランドするのではなく、デジタル的にテンポが動く。第2楽章は3種類の舞曲の描き分けがテンポ配分とともに実に理想的。第3楽章はポリフォニーに目配りしつつも、一気呵成な速度で進む。しかし、終楽章の先取り部は非常に遅く、アダージョに近い。終楽章も遅めの基本テンポの中に、細かい緩急のアゴーギグを盛り込んだ演奏だ。
    第10番のアダージョは2007年10月、ヴァージン・レーベルへの録音もあったが、やはりこちらの方がさらに熟した印象。遅いテンポによる濃密な表現だが、動きの細かい第2主題では、はっきりテンポを上げるなど、コントラストが鮮やかだ。

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