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4人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/12/24
20世紀後半を代表する指揮者の一人であったジュリーニであるが、いわゆる完全主義者であったということもあり、そのレパートリーは、これほどの指揮者としては必ずしも幅広いとは言えない。そのようなレパートリーが広くないジュリーニではあったが、それでも独墺系の作曲家による楽曲も比較的多く演奏しており、とりわけブラームスについては交響曲全集を2度に渡って録音するなど、得意のレパートリーとしていたところだ。協奏曲についても、複数の録音が遺されており、本盤におさめられたピアノ協奏曲第1番についても、2度にわたってスタジオ録音を行っている。レコーディングには慎重な姿勢で臨んだジュリーニとしては数少ない例と言えるところであり、これはジュリーニがいかに同曲を愛していたかの証左とも言えるだろう。同曲の最初の録音は本盤におさめられたアラウと組んで行った演奏(1960年)、そして2度目の録音はワイセンベルクと組んで行った演奏(1972年)であるが、この両者の比較は難しい。いずれ劣らぬ名演であると考えるが、ピアニストの本演奏時の力量も互角であり、容易には優劣を付けることが困難であると言える。本演奏は、録音年代が1960年ということもあり、ジュリーニ、アラウともども壮年期の演奏。後年の円熟の大指揮者、大ピアニストとは全く違った畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力を有しており、ブラームスの青雲の志を描いたともされる同曲には、そうした当時の芸風が見事にマッチングしていると評しても過言ではあるまい。アラウのピアノ演奏は、卓越した技量は当然であるが、派手さや華麗さとは無縁であり、武骨とも言えるような古武士の風格を有していると言える。他方、ジュリーニの指揮は、いささかの隙間風の吹かない、粘着質とも言うべき重量感溢れる重厚な演奏の中にも、イタリア人指揮者ならではの歌謡性溢れる豊かな情感が随所に込められており、アラウの武骨とも言うべきピアノ演奏に若干なりとも潤いを与えるのに成功していると言えるのではないだろうか。いずれにしても、本演奏は、ジュリーニ、アラウともに、後年の演奏のようにその芸術性が完熟しているとは言い難いが、後年の円熟の至芸を彷彿とさせるような演奏は十分に行っているところであり、両者がそれぞれ足りないものを補い合うことによって、いい意味での剛柔のバランスのとれた名演に仕上がっていると評価したいと考える。この両者が、例えば1980年代の前半に同曲を再録音すれば、更に素晴らしい名演に仕上がったのではないかとも考えられるが、それは残念ながら叶えられることはなかったのはいささか残念とも言える。音質は、1960年のスタジオ録音であり、数年前にリマスタリングが行われたものの、必ずしも満足できる音質とは言い難いところであった。ところが、今般、シングルレイヤーによるSACD盤が発売されるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音圧、音場の幅広さのどれをとっても、従来CD盤とは段違いの素晴らしさであり、あらためて本演奏の魅力を窺い知ることが可能になるとともに、SACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。いずれにしても、ジュリーニ、そしてアラウによる素晴らしい名演を超高音質のシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
4人の方が、このレビューに「共感」しています。
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5人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/12/23
モーツァルトを十八番とした巨匠カール・ベームは、モーツァルトのオペラを指揮することの難しさについて指摘をしていたとのことが、故吉田秀和氏の著作の中に記述されている。その中でも、最も難しいのは、登場人物の心理を深く掘り下げて描き出すことが必要な歌劇「ドン・ジョヴァンニ」や、最晩年の傑作である歌劇「魔笛」を掲げるクラシック音楽ファンも多いのではないかと考えられる。私も、その説に賛成ではあるが、本盤におさめられた歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」も一筋縄ではいかない難しさを秘めていると言えるのではないだろうか。歌劇「ドン・ジョヴァンニ」のように登場人物は多くなく、むしろ極めて少ないと言えるが、それらの各登場人物の洒脱と言ってもいいような絡み合いをいかに巧みに描き出していくのかといった点に、その演奏の成否がかかっていると言っても過言ではあるまい。要は、オペラの指揮によほど通暁していないと、三流の田舎芝居のような凡演に陥る危険性さえ孕んでいると言えるだろう。本演奏は、1973年のスタジオ録音であるが、これはショルティがウィーン・フィルとの歴史的な楽劇「ニーベルングの指環」の全曲録音(1958〜1965年)を終え、オペラの録音にますます自信を深めた時期に相当する。それだけに、ショルティも自信を持って、歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」の録音に臨んだことを窺い知ることができるところだ。ショルティの芸風は、切れ味鋭いリズム感と明瞭なメリハリが信条と言えるが、ここでは、持ち前の鋭いリズム感を全面に打ち出して、同オペラの洒脱な味わいを描出するのに見事に成功しているのが素晴らしい。明瞭なメリハリも、本演奏においては見事に功を奏しており、モーツァルトがスコアに記した音符の数々が、他のどの演奏よりも明瞭に再現されているのが素晴らしい。もちろん、ベームやカラヤンによる、世評も高い同曲の名演と比較して云々することは容易ではあるが、これだけ同オペラの魅力を堪能させてくれれば文句は言えないのではないだろうか。歌手陣や合唱団も、フィオルディリージ役のピラール・ローレンガー、ドラベッラ役のテレサ・ベルガンサ、フェルランド役のライランド・デイヴィス、グリエルモ役のトム・クラウセ、ドン・アルフォンソ役のガブリエル・バキエ、デスピーナ役のジャーヌ・ベルビエ、そして、コヴェント・ガーデン王立歌劇場合唱団がショルティの巧みな統率の下、圧倒的な名唱を披露しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。また、必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルも、ショルティの確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮した名演奏を展開している点も高く評価したい。音質も、英デッカによる見事な高音質録音であり、1973年のスタジオ録音とは思えないような鮮度を誇っているのも素晴らしい。
5人の方が、このレビューに「共感」しています。
3人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/12/23
カラヤンは、特にお気に入りの楽曲については何度も録音を繰り返したが、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」についてもその例外ではない。DVD作品を除けば、ベルリン・フィルとともに本演奏を含め4度にわたって録音(1940、1957、1964、1977年)を行うとともに、ウィーン・フィルとともに最晩年に録音(1985年)を行っている。いずれ劣らぬ名演であるが、カラヤンの個性が全面的に発揮された演奏ということになれば、カラヤン&ベルリン・フィルが全盛期にあった頃の本演奏と言えるのではないだろうか。カラヤン&ベルリン・フィルは、クラシック音楽史上でも最高の黄金コンビであったと言えるが、特に全盛期でもあった1960年代から1970年代にかけての演奏は凄かった。この当時のカラヤン&ベルリン・フィルの演奏は、分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルの下に融合し、およそ信じ難いような超絶的な名演奏の数々を繰り広げていたと言える。カラヤンは、このようなベルリン・フィルをしっかりと統率するとともに、流麗なレガートを施すことによっていわゆるカラヤンサウンドを醸成し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。本演奏においてもいわゆる豪壮華麗なカラヤンサウンドを駆使した圧倒的な音のドラマは健在。冒頭のダイナミックレンジを幅広くとった凄みのある表現など、ドヴォルザークの作品に顕著なボヘミア風の民族色豊かな味わい深さは希薄であり、いわゆるカラヤンのカラヤンによるカラヤンのための演奏とも言えなくもないが、これだけの圧倒的な音のドラマの構築によって絢爛豪華に同曲を満喫させてくれれば文句は言えまい。私としては、カラヤンの晩年の清澄な境地を味わうことが可能なウィーン・フィルとの1985年盤の方をより上位の名演に掲げたいが、カラヤンの個性の発揮という意味においては、本演奏を随一の名演とするのにいささかの躊躇をするものではない。併録のスメタナの交響詩「モルダウ」も、カラヤンが何度も録音を繰り返した十八番とも言うべき楽曲であるが、本演奏も、聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりを伺い知ることが可能な素晴らしい名演だ。音質は、従来CD盤が今一つの音質であったが、数年前に発売されたHQCD盤は、若干ではあるが音質が鮮明になるとともに、音場が幅広くなったと言えるところであり、加えて先般、待望のハイブリッドSACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところである。そして、今般のシングルレイヤーによるSACD盤は、当該ハイブリッドSACD盤をはるかに凌駕していると評しても過言ではあるまい。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても1970年代のEMIによるスタジオ録音とは到底信じられないほどの一級品の仕上がりであり、あらためてシングルレイヤーによるSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、カラヤンによる至高の超名演を、超高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
3人の方が、このレビューに「共感」しています。
本盤には、ノイマンがチェコ・フィルを指揮してスタジオ録音(1971年)したドヴォルザークのスラヴ舞曲全集がおさめられている。同曲は、ノイマンの十八番とも言うべき得意中の得意とする楽曲であり、本盤を皮切りとして、その後も手兵チェコ・フィルとともに、1985年、そして1993年にもスタジオ録音を行っている。3度も同曲をスタジオ録音したのは、現時点においてもノイマンただ一人であり、これは、いかにノイマンが同曲を深く愛していたかの証左であるとも考えられるところだ。それはさておき、ノイマンによる3つに演奏の中で、最も優れているのは1985年の演奏、次いで1993年の演奏であることは論を待たないところであるが、本盤の演奏も、決して凡庸な演奏ではなく、若きノイマンによる素晴らしい名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。本盤の演奏は、3種の演奏の中で最も若い時期のものであるだけに、後年の演奏よりも、躍動感溢れるリズムや畳み掛けていくような気迫においては勝っていると言えるだろう。演奏の持つ味わい深さや彫の深さにおいては、後年の演奏には到底敵わないと言えるが、楽曲がスラヴ舞曲集であるだけに、そうした点は必ずしも演奏全体の瑕疵には繋がらないと言える。それにしても、後年の演奏もそうであるが、ノイマン&チェコ・フィルによるスラヴ舞曲集の演奏は、何故にこれほどまでに魅力的なのであろうか。ノイマンの同曲へのアプローチは、基本的には楽想を精緻に描き出していくというオーソドックスなものと言えるだろう。もっとも、オーソドックスと言っても、それはノイマンがチェコ人であるとともに、チェコ音楽を数多く指揮してきた者として、チェコ音楽が血となり肉となっている指揮者であるということを忘れてはならない。要は、ノイマンが何か特別な個性を発揮したりしなくても、ごく自然体の指揮をすれば、スラヴ舞曲集の理想的な演奏に繋がるということを意味するところであり、ここにノイマン&チェコ・フィルによるスラヴ舞曲集の演奏が魅力的である最大の要因があると言えるところだ。そして、本演奏の録音時点では、ノイマンがチェコ・フィルの音楽監督に就任してから間もない頃ではあるが、ノイマンもチェコ・フィルをしっかりと統率しており、加えて、チェコ・フィルの弦楽合奏をはじめとした音色の美しさが、ノイマンによる本演奏に更なる深みと独特の潤いを付加するのに大きく貢献しているとも言えるところであり、その意味では、ノイマン&チェコ・フィルのその後の実りある関係を予見させるような名演とも言えるのではないだろうか。カプリングされているスラヴ狂詩曲集も、そもそも録音自体が珍しい楽曲であるだけに、ノイマン&チェコ・フィルの演奏は単に名演であるだけにとどまらず、極めて稀少価値のある演奏ということが言えるだろう。そして、今般のSACD化によって、圧倒的な高音質化が図られたことも、本盤の価値を高めるのに大きく貢献していることを忘れてはならない。
マーラーの交響曲第5番は、今やマーラーの交響曲の中でも最も人気が高く、なおかつ演奏機会の多い作品となっていると言えるのではないだろうか。それにはCD時代になって1枚に収録することが可能になったことが大きく作用していると考えられるが、それ以上に、オーケストレーションの巧みさや旋律の美しさ、感情の起伏の激しさなど、マーラーの交響曲の魅力のすべてが第5番に含まれていると言えるからに他ならない。したがって、第5番については、これまで数々の海千山千の大指揮者によって個性的な名演が成し遂げられてきたが、特に、圧倒的な名演として高く評価されているのは、ドラマティックで劇的なバーンスタイン&ウィーン・フィル(1987年)やテンシュテット&ロンドン・フィル(1988年)による名演であると言える。これに対して、本盤におさめられたバルビローリによる演奏は、それらの劇的な名演とは大きくその性格を異にしていると言える。もちろん、軟弱な演奏ではなく、ここぞという時の力強さに欠けているということはないが、演奏全体がヒューマニティ溢れる美しさ、あたたかさに満たされていると言えるだろう。また、バルビローリは、テンポの思い切った振幅を効果的に駆使して、同曲が含有する各旋律をこれ以上は求め得ないほど徹底して心を込めて歌い抜いているが、その美しさには抗し難い魅力が満ち溢れていると言える。第4楽章などは、意外にも早めのテンポで一聴するとあっさりとした表情づけとも言えなくもない。しかしながら、よく聴くと、そうした早めのテンポの中で各旋律を徹底して歌い抜くなど耽美的な絶対美の世界が構築されており、これはかのカラヤン&ベルリン・フィルの名演(1973年)にも比肩し得る美しさを誇っているとも言えるが、カラヤンの演奏が圧倒的な音のドラマであるのに対して、本演奏はヒューマニティ溢れる人間のドラマと言えるのではないだろうか。もっとも、バルビローリのヒューマニティ溢れる指揮に対して、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団は、熱演ではあるもののアンサンブルの乱れが見られるなど、必ずしも技術的には万全な演奏を展開しているとは言い難いと言えるが、技術的に優れていたとしてもスコアに記された音符の表層をなぞっただけの演奏よりは、本演奏の方がよほど好ましいと言えるところであり、聴き終えた後の感動もより深いと言えるところだ。いずれにしても、本演奏は、バルビローリが遺した数少ないスタジオ録音によるマーラーの交響曲の演奏の中でも、ベルリン・フィルとの第9番(1964年)と並ぶ至高の超名演と高く評価したい。併録のリュッケルト歌曲集もベーカーの名唱も相まって素晴らしい名演に仕上がっていると言える。音質は、従来CD盤が今一つの音質であったが、数年前にリマスタリングが施されたことによってかなりの改善がみられたところであり、私も当該リマスタリング盤を愛聴してきた。ところが、今般、シングルレイヤーによるSACD盤が発売されるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音圧、音場の幅広さのどれをとっても、これまでの既発CDとは段違いの素晴らしさであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ(昨年、交響曲第5番についてはESOTERICがSACD化を行っているが、当該ESOTERIC盤との優劣については議論が分かれるところだ。)。いずれにしても、バルビローリによる至高の超名演を超高音質のシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
5人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/12/22
最近では体調を崩し、多くのクラシック音楽ファンをヤキモキさせている小澤であるが、小澤の得意のレパートリーは何かと言われれば、何と言ってもフランス音楽、そしてこれに次ぐのがロシア音楽ということになるのではないだろうか。ロシア音楽について言えば、チャイコフスキーの後期3大交響曲やバレエ音楽、プロコフィエフの交響曲、そしてストラヴィンスキーのバレエ音楽など、極めて水準の高い名演を成し遂げていることからしても、小澤がいかにロシア音楽を深く愛するとともに得意としているのかがわかるというものだ。R・コルサコフの最高傑作でもある交響組曲「シェエラザード」も、そうした小澤が最も得意としたレパートリーの一つであり、これまでのところ3度にわたって録音を行っている。最初のものがシカゴ交響楽団との演奏(1969年)、2回目のものが本盤におさめられたボストン交響楽団との演奏(1977年)、3回目のものがウィーン・フィルとの演奏(1993年)である。いずれ劣らぬ名演であり、とりわけウィーン・フィルとの演奏については、オーケストラの魅力ある美しい音色も相まって、一般的な評価も高いが、演奏全体の安定性などを総合的に考慮すれば、本盤におさめられた2回目の演奏こそは、小澤による同曲の代表的名演と評価してもいいのではないだろうか。同曲には様々な指揮者による多種多彩な名演が目白押しであるが、小澤の演奏は、得意のフランス音楽に接する時のような洒落た味わいと繊細とも言うべき緻密さと言えるのではないかと考えられる。同曲には、とりわけロシア系の指揮者に多いと言えるが、ロシア風の民族色を全面に打ち出したある種のアクの強さが売りの演奏も多いが、小澤の演奏はその対極に位置しているとも言える。ロシア系の指揮者の演奏がボルシチであるとすれば、小澤の演奏はあっさりとした味噌汁。しかしながら、その味噌汁は、あっさりとはしているものの、入っている具材は実に多種多彩。その多種多彩さはボルシチにはいささかも劣っていない。それこそが、小澤による本演奏の特色であり、最大の美質と言えるだろう。要は、演奏の表層は洗練されたものであるが、どこをとっても洒落た味わいに満ち満ちた独特のニュアンスが込められるとともに、聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりにも際立ったものがあると言えるだろう。ボストン交響楽団も、小澤の統率の下、見事とも言うべき技量を発揮しており、シルヴァースタインによるヴァイオリン・ソロの美しさも相まって、最高のパフォーマンスを発揮していると高く評価したい。音質は、1970年代のアナログ録音であるが、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって素晴らしい音質に蘇った。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、小澤&ボストン交響楽団による圧倒的な名演を、現在望みうる最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
4人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/12/22
ジュリーニは完全主義者として知られ、録音にはとりわけ厳しい姿勢で臨んだことから、これだけのキャリアのある大指揮者にしては、録音の点数は必ずしも多いとは言い難い。そうした中にあって、ブラームスの交響曲全集を2度にわたってスタジオ録音しているというのは特筆すべきことであり、これは、ジュリーニがいかにブラームスに対して愛着を有していたかの証左とも言えるところだ。協奏曲についても、ヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲のスタジオ録音を行っており、とりわけピアノ協奏曲第1番については、アラウと組んだ演奏(1960年)、ワイセンベルクと組んだ演奏(1972年)の2つの録音を遺している。これに対して、私の記憶が正しければ、ピアノ協奏曲第2番については、本盤におさめられたアラウとの演奏(1962年)のみしかスタジオ録音を行っていない。ジュリーニの芸風に鑑みれば、同曲の録音をもう少し行ってもいいのではないかとも思われるが、何故かワイセンベルクとは第2番の録音を行わなかったところである。いずれにしても、本演奏は素晴らしい。それは、何よりもジュリーニの指揮によるところが大きいと思われる。1962年という壮年期の演奏ではあるが、いささかの隙間風の吹かない、粘着質とも言うべき重量感溢れる重厚な演奏の中にも、イタリア人指揮者ならではの歌謡性溢れる豊かな情感が随所に込められており、正に同曲演奏の理想像を見事に具現化していると評しても過言ではあるまい。アラウのピアノ演奏は、第1番の演奏と同様に、卓越した技量を発揮しつつも、派手さや華麗さとは無縁であり、武骨とも言えるような古武士の風格を有した演奏を展開している。かかるアプローチは、第1番には適合しても、第2番では味わい深さにおいていささか不足しているきらいもないわけではないが、ジュリーニによる指揮が、そうしたアラウのピアノ演奏の武骨さを多少なりとも和らげ、演奏全体に適度の温もりを与えている点を忘れてはならない。いずれにしても、本演奏は、アラウのピアノ演奏にいささか足りないものをジュリーニの指揮芸術が組み合わさることによって、いい意味での剛柔のバランスのとれた名演に仕上がっていると評価したいと考える。この両者が、例えば1980年代の前半に同曲を再録音すれば、更に素晴らしい名演に仕上がったのではないかとも考えられるが、それは残念ながら叶えられることはなかったのはいささか残念とも言える。音質は、1962年のスタジオ録音であり、数年前にリマスタリングが行われたものの、必ずしも満足できる音質とは言い難いところであった。ところが、今般、シングルレイヤーによるSACD盤が発売されるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音圧、音場の幅広さのどれをとっても、従来CD盤とは段違いの素晴らしさであり、あらためて本演奏の魅力を窺い知ることが可能になるとともに、SACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。いずれにしても、ジュリーニ、そしてアラウによる素晴らしい名演を超高音質のシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
10人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/12/15
モーツァルトのホルン協奏曲の名演としては、デニス・ブレイン、ゲルト・ザイフェルト、ペーター・ダム、ズデニック・ティルシャルなど、名うてのホルン奏者による演奏が掲げられるが、いずれもバルブによって音を出す現代楽器(ヴァイヴ・ホルン)によって演奏がなされている。私事で恐縮ではあるが、かつて私も、中学生や高校生の時代にブラスバンドでホルンを吹いていたことがあるが、ホルンという楽器はバルブが付いていても、音を外しやすい難しい楽器である。現在楽器(ヴァイヴ・ホルン)ですら難しいところ、本盤のヘルマン・バウマンは、バルブがない、いわゆるナチュラル・ホルンというオリジナル楽器を用いて演奏している。私は、ナチュラル・ホルンを吹いたことがないが、バルブが付いていないだけに、更に演奏するのが難しいことは容易に予想できるところだ。もっとも、バルブが付いていない分だけ管は長く、うまく演奏できた時の深みのある音は、現代楽器には及びもつかないものがあるとも言えるだろう。そうした、かつてのナチュラル・ホルンによる演奏の魅力を十二分に満喫させてくれる演奏ことは、本盤のバウマン、そしてアーノンクール&ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスによる演奏であると考えられる。本演奏を聴いて思うのは、いわゆる学術的な臭いが全くしないということである。いわゆるオリジナル楽器やピリオド奏法と言った、かつてのモーツァルトなどが生きていた時代の演奏を再現した近年流行の古楽器系の演奏は、名演もあるが、クラシック音楽ファンのよい演奏、感動を与えるという演奏を行うという本来あるべき姿勢をどこかに置き忘れ、学者の学究意欲を掻き立てることのみに照準を合わせた演奏が跋扈しているという嘆かわしい現状にあると言える。そのような中で、本演奏は、オリジナル楽器やピリオド奏法を行いつつも、同曲の魅力をクラシック音楽ファンに伝えるという姿勢を決して蔑ろにしていないのが見事であり、これぞ、現代における古楽器系の演奏の理想像の具現化と評しても過言ではあるまい。若きバウマンのホルン演奏は、ナチュラル・ホルンの特性を十二分に活かした深みのある透明感溢れるものであり、おそらくは、ナチュラル・ホルンによる同曲の演奏としては、現代においても最高峰に君臨する名演奏と評価したいと考える。アーノンクールは、古楽器系の演奏の指揮者の旗手として、様々なピリオド奏法を駆使した演奏を行ってきているが、本盤の演奏においては、バウマンのホルン演奏とともに、音楽の自然な流れを重視した歌謡性豊かな演奏を心がけており、これまた同曲の古楽器系の演奏の中でも最右翼に掲げるべき名演奏と言えるだろう。いずれにしても、本盤の演奏は、録音から約40年が経った今日においても、モーツァルトのホルン協奏曲のオリジナル楽器やピリオド奏法による演奏の中でもトップの座に君臨する素晴らしい名演と高く評価したいと考える。そして、今般のSACD化によって、圧倒的な高音質化が図られたことも、本盤の価値を高めるのに大きく貢献していることを忘れてはならない。
10人の方が、このレビューに「共感」しています。
5人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/12/15
モーツァルトのフルートを用いた作品を軸に、ハイドンの偽作とされるフルート協奏曲などがおさめられた好企画のCDである。本盤は、そうした選曲の見事さもさることながら、演奏者も今となっては豪華な布陣であると言える。フルトヴェングラーが芸術監督をつとめていた時代の首席フルート奏者であったオーレル・ニコレ、そしてバッハをはじめとしたバロック音楽やハイドン、モーツァルトの作品において比類のない名演の数々を遺したリヒター&ミュンヘン・バッハ管弦楽団など、本演奏の当時(1962年)全盛期にあった者たちが繰り広げた演奏は、正に珠玉の名演とも言うべき至高・至純の美しさを誇っていると高く評価したいと考える。オーレル・ニコレによるフルート演奏は、もちろん卓越した技量を有してはいるが、フルトヴェングラー時代のベルリン・フィルの首席奏者をつとめていただけのことはあって、技巧臭がいささかもせず、徹底した内容重視の演奏を行っていると言える。本盤におさめられた各楽曲のうち、特に、フルートとハープのための協奏曲については、カール・ミュンヒンガーがウィーンの首席フルート奏者などと共に行った素晴らしい名演が存在しているが、当該演奏がウィーン風の情緒に満たされた美演であるのに対して、本演奏は徹頭徹尾ドイツ風の重厚なもの。オーレル・ニコレによる彫の深いフルート演奏、そしてリヒター&ミュンヘン・バッハ管弦楽団による引き締まった造型美を旨とする剛毅な演奏が、演奏全体の様相をそのようなドイツ風の重厚にしてシンフォニックなものとするのに大きく貢献していると言える。そして、ローゼ・シュタインによるハープ演奏が演奏全体に潤いと温もりを付加するのに寄与し、これによって、重厚な中にも優美な美しさを併せ持った稀有の名演に仕上がっていると評価し得るところだ。また、モーツァルトの2曲のフルート協奏曲やフルートと管弦楽のためのアンダンテも、オーレル・ニコレによるいわゆるジャーマン・フルートのいぶし銀の美しい魅力を十二分に満喫することが可能な素晴らしい名演であり、いい意味での剛柔のバランスという点においては、それぞれの楽曲の演奏史上でもトップクラスの名演と高く評価したいと考える。現在では、ハイドンによる作品ではないとされているフルート協奏曲ニ長調や、グルックの歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」からの抜粋である精霊の踊りも、ドイツ風の重厚な中にもジャーマン・フルートのいぶし銀の美しさを感じさせる素晴らしい名演だ。音質は、かつて発売されていた従来CD盤は、1960〜1962年のスタジオ録音であり、今一つの音質であったが、今般、待望のSACD化がなされるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音場の拡がりなど、とても1960年代初め頃のスタジオ録音とは思えないような高音質に生まれ変わったと言える。いずれにしても、全盛期のオーレル・ニコレ、そしてリヒター&ミュンヘン・バッハ管弦楽団ほかによる至高の名演を、鮮明な高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。
4人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/12/09
歌劇「ドン・ジョヴァンニ」は、モーツァルトのオペラという限定付きではあるが、その主要4大オペラの中でも最も劇的な要素を有した作品。ショルティの芸風は切れ味鋭いリズム感とメリハリの明晰さを特徴としているが、主要オペラの中では最もショルティの芸風に適合した作品と言えるのではないだろうか。同曲には、フルトヴェングラーなどによる名演なども存在しており、それと比較して、音楽の内容に深みがないなどと言った批判を行うことは容易ではあるが、本演奏のように、楽想を明晰に描き出していくというアプローチによって、他の指揮者による同オペラのいかなる演奏よりも、メリハリのある明瞭な演奏に仕上がっているという点については、公平な目で評価しなければならないのではないかと思われるところだ。要は、モーツァルトのオペラの場合、音符の数が比較的少なくて様々な解釈を施したくなるものであるが、ショルティのように、特別な解釈を施すことなく、モーツァルトがスコアに記した音符の数々を、一点の曇りもなく明瞭に描き出すことのみに全力を傾注した演奏は、同オペラの演奏としては大変に珍しいとも言えるところだ。それは、特に歌手陣への配慮によるところも大きいと言えるところであり、オペラを熟知したショルティの深謀遠慮と言った側面もあるのではないかと考えられるところである。ショルティは、後年にもシカゴ交響楽団ほかとともに同曲を再録音(1996年)するところであり、円熟味や奥行きの深さにおいては後年の演奏の方がはるかに上と言えるが、演奏の持つ明晰さという点においては、本演奏の方に軍配があがると言えるのではないだろうか。もちろん、前述のような音楽の内容の深みへの追及度は著しく低い演奏であると言えることから、同オペラの演奏において、例えばフルトヴェングラーの演奏などのように、各登場人物の心理を徹底して抉り出すなどの彫の深さを希求するクラシック音楽ファンには物足りなさを感じさせることは想定し得るところである。しかしながら、モーツァルトの音楽そのものの美しさを味わうという点においては、十二分にその魅力を堪能することが可能な名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。そして、本盤で素晴らしいのは、何と言っても歌手陣であると言える。さすがはオペラを熟知したショルティならではの考え抜かれた的確なキャスティングと言えるところでであり、ドン・ジョヴァンニ役のベルント・ヴァイクル、ドンナ・アンナ役のマーガレット・プライス、ツェルリーナ役のルチア・ポップ、騎士長役のクルト・モルなど、当代一流の豪華歌手陣が最高の歌唱を披露しているのが素晴らしい。また、必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルも、ショルティの確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮した名演奏を展開している点も高く評価したい。音質も、英デッカによる見事な高音質録音であり、1978年のスタジオ録音とは思えないような鮮度を誇っているのも素晴らしい。
7人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/12/09
クラシック音楽史上最高の黄金コンビとも謳われたカラヤン&ベルリン・フィルも、1982年のザビーネ・マイヤー事件を契機として、修復不可能にまでその関係が悪化した。加えて、カラヤンの健康状態も悪化の一途を辿ったことから、1980年代半ばには、公然とポストカラヤンについて論じられるようになった。カラヤンは、ベルリン・フィルを事実上見限り、活動の軸足をウィーン・フィルに徐々に移していったことから、ベルリン・フィルとしてもカラヤンに対する敵対意識、そしてカラヤンなしでもこれだけの演奏が出来るのだということをカラヤン、そして多くの聴衆に見せつけてやろうという意識が芽生えていたとも言えるところである。したがって、1980年代半ば頃からカラヤンの没後までのベルリン・フィルの演奏は、とりわけポストカラヤンの候補とも目された指揮者の下での演奏は、とてつもない名演を成し遂げることが多かった。そのような演奏の一つが、本盤におさめられたモーツァルトのレクイエムであると言える。ムーティは、先輩格のジュリーニやライバルのアバド、マゼール、ハイティンク、小澤などと同様にポストカラヤンの候補と目された指揮者の一人であり、そうしたムーティとベルリン・フィルが1987年に録音した演奏がそもそも悪かろうはずがない。それどころか、もちろんムーティは実力のある指揮者ではあるが、当時の実力をはるかに超えるとてつもない名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。いずれにしても、このコンビによるブルックナーの交響曲第4番のスタジオ録音(1986年)、マゼールとのブルックナーの交響曲第7番のスタジオ録音(1987年)、アバドとのヤナーチェクのシンフォニエッタのスタジオ録音(1987年)、小澤とのチャイコフスキーの交響曲第4番(1988年)など、当時のベルリン・フィルの演奏は殆ど神業的であったとさえ言えるところだ。それはさておき、本演奏は素晴らしい。最近では円熟の指揮芸術を聴かせてくれているムーティであるが、本演奏の当時は壮年期にあたり、生命力に満ち溢れた迫力満点の熱演を展開していたところである。ところが、本演奏は、むしろ近年のムーティの演奏を思わせるような懐の深さや落ち着きが感じられるところであり、あたかも円熟の巨匠指揮者が指揮を行っているような大人(たいじん)の至芸を感じさせると言えるだろう。ベルリン・フィルの重量感溢れる渾身の演奏もそれを助長しており、演奏全体としては、同曲最高の超名演とも呼び声の高いベーム&ウィーン・フィルほかによる演奏(1971年)にも比肩し得るほどのハイレベルの演奏に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。前述のブルックナーの交響曲第4番と同様に、当時のムーティとしては突然変異的な至高の超名演と言えるところであり、その後、ムーティが現在に至るまで、モーツァルトのレクイエムともども2度と再録音をしようとしていない理由が分かろうというものである。いずれにしても、本盤の演奏は、カプリングのアヴェ・ヴェルム・コルプスともども、ムーティ&ベルリン・フィルがこの時だけに成し得た至高の超名演と高く評価したいと考える。独唱陣も見事であるし、世界最高の合唱団とも称されるスウェーデン放送合唱団やストックホルム室内合唱団も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。音質は、従来CD盤でも十分に優れたものと言えるが、先般、ESOTERICからSACD盤が発売されるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、このような至高の超名演を、高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
7人の方が、このレビューに「共感」しています。
3人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/12/08
本盤におさめられたヴェルディの歌劇「椿姫」は、ショルティの最晩年のコヴェント・ガーデン王立歌劇場での公演の歴史的なライヴ録音(1994年)である。同オペラには、トスカニーニなどのイタリア系の指揮者以外の名演が殆ど遺されていない。クライバー&バイエルン国立歌劇場管弦楽団ほかによる名演(1976〜1977年)が掲げられる程度であり、ヴェルディやプッチーニなどのイタリア・オペラを得意としていたカラヤンも、歌劇「椿姫」を苦手にしていた。それだけに、カラヤンと並ぶ20世紀後半の偉大なオペラ指揮者であったショルティの双肩にかかる重責は極めて大きいものがあったと言えるところであり、本盤の演奏によって、ショルティはその重責を見事に果たした言えるだろう。半世紀近くにもわたって様々なオペラを演奏・録音してきたショルティの事績の総決算とも言うべき至高の名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。ショルティの指揮は、切れ味鋭いリズム感とメリハリの明朗さが信条と言えるが、1990年代に入って最晩年にもなると、その指揮芸術にも円熟味が加わり、懐の深さが演奏にもあらわれてくるようになった。マーラーの交響曲の演奏においては、そうした円熟は、かつてのショルティの演奏にあった強烈無比な凄味を失わせることになり、一般的な意味においては名演ではあるものの、今一つの喰い足りなさを感じさせることになったが、その他の楽曲、とりわけオペラの演奏においては、円熟が見事にプラスに作用することになっていると言えるだろう。ヴェルディのあらゆるオペラの中でも、最も美しい抒情的な旋律に満たされた同曲を、ショルティは明朗に描き出している。かつてのショルティのように、力づくの強引さは皆無であり、音楽そのものの美しさをそのまま語らせるような演奏に徹していると言える。正に、人生の辛酸を舐め尽くしてきた巨匠ならではの大人(たいじん)の至芸と言った趣きがあると言えるところであり、これぞ数々のオペラ演奏を成し遂げてきたショルティの老獪とも言える熟達の至芸が刻印されているとも言えるだろう。歌手陣も、オペラを知り尽くしたショルティならではの絶妙なキャスティングであり、主役のヴィオレッタ・ヴァレリー役にルーマニアの新鋭アンジェラ・ゲオルギューを抜擢したのが何よりも大きい。そして、アンジェラ・ゲオルギューも、ショルティの期待に応え、迫真の名唱を披露しているのが本名演の大きなアドバンテージの一つであると言える。また、アルフレード役のフランク・ロパード、ジェルモン役のレオ・ヌッチ、フローラ役のリー=マリアン・ジョーンズなどの豪華な歌手陣、そしてコヴェント・ガーデン王立歌劇場合唱団がショルティの熟達した統率の下、圧倒的な名唱を披露しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。音質も、英デッカによる見事な高音質録音であるのも素晴らしい。
7人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/12/08
本盤におさめられたシューベルトの交響曲第9番「グレート」は、セル&クリーヴランド管弦楽団による2度目のスタジオ録音に相当する。最初の録音は1957年のものであり、本演奏よりも13年前であることもあり、全体の引き締まった堅固な造型が印象的な硬派の演奏であったと言える。セルは、先輩格のライナーや、ほぼ同時期に活躍したオーマンディなどと同様に徹底したオーケストラトレーナーとして知られており、そうして鍛え抜いた全盛期のクリーヴランド管弦楽団は、「セルの楽器」とも称されるほどの鉄壁のアンサンブルを誇っていたところだ。あらゆる楽器セクションがあたかも一つの楽器のように聴こえるという驚異的なアンサンブルは、聴き手に衝撃を与えるほどの精緻さを誇るという反面で、メカニックとも言うべき冷たさを感じさせることも否めない事実であったと言える。したがって、演奏としては名演の名に値する凄さを感じるものの、感動的かというとややコメントに窮するという演奏が多いというのも、セル&クリーヴランド管弦楽団の演奏に共通する特色と言えなくもないところである。もっとも、セルも1960年代後半になると、クリーヴランド管弦楽団の各団員に自由を与え、より柔軟性に富んだ味わい深い演奏を行うようになってきたところだ。とりわけ、死の年である1970年代に録音されたドヴォルザークの交響曲第8番と本盤におさめられたシューベルトの交響曲第9番「グレート」には、そうした円熟のセルの味わい深い至芸を堪能することが可能な、素晴らしい名演に仕上がっていると言えるだろう。本演奏においても、セル&クリーヴランド管弦楽団の「セルの楽器」とも称される鉄壁のアンサンブルは健在であるが、1957年の旧盤の演奏とは異なり、各フレーズの端々からは豊かな情感に満ち溢れた独特の味わい深さが滲み出していると言える。これは、人生の辛酸を舐め尽くしてきた老巨匠だけが描出することが可能な崇高な至芸と言えるところであり、同曲において時折聴くことが可能な寂寥感に満ちた旋律の数々の清澄な美しさは、セルも最晩年に至って漸く到達した至高・至純の境地と言っても過言ではあるまい。シューベルトの交響曲第9番「グレート」の演奏は、どの指揮者にとっても難しいものと言えるが、セルによる本演奏は、演奏全体の造型の堅固さ、鉄壁のアンサンブル、そして演奏全体に漲っている情感の籠った味わい深さを兼ね備えた、同曲演奏の一つの理想像の具現化として、普遍的な価値を有する名演と評価してもいいのではないかとも考えられるところだ。音質は、従来盤が今一つ冴えない音質で問題があり、リマスタリングを施してもさほどの改善が図られているとは言い難いと言える。同時期の名演であるドヴォルザークの交響曲第8番については既にHQCD化が行われ、かなり満足できる音質に蘇ったのにもかかわらず、本演奏についてはHQCD化が図られないのは実に不思議な気がしていたところだ。ところが、今般、シングルレイヤーによるSACD盤が発売されるに及んで大変驚いた。音質の鮮明さ、音圧、音場の幅広さのどれをとっても、これまでの既発CDとは段違いの素晴らしさであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。いずれにしても、セルによる至高の超名演を超高音質のシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
本盤には、鬼才グールドが1970年代初めにスタジオ録音したバッハのフランス組曲やフランス風序曲がおさめられているが、いかにもグールドならではの個性的な名演と高く評価したい。特に、フランス組曲は、比較的長い楽曲であるだけに、聴き手にいかに飽きさせずに聴かせるのかが必要となってくるが、グールドの演奏の場合は、次の楽想においてどのような解釈を施すのか、聴いていて常にワクワクさせてくれるという趣きがあり、長大さをいささかも聴き手に感じさせないという、いい意味での面白さ、そして斬新さが存在していると言える。もっとも、演奏の態様は個性的でありつつも、あくまでもバッハがスコアに記した音符を丁寧に紐解き、心を込めて弾くという基本的なスタイルがベースになっており、そのベースの上に、いわゆる「グールド節」とも称されるグールドならではの超個性的な解釈が施されていると言えるところだ。そしてその心の込め方が尋常ならざる域に達していることもあり、随所にグールドの歌声が聴かれるのは、ゴルトベルク変奏曲をはじめとしたグールドによるバッハのピアノ曲演奏の特色とも言えるだろう。こうしたスタイルの演奏は、聴きようによっては、聴き手にあざとさを感じさせる危険性もないわけではないが、グールドのバッハのピアノ曲の演奏の場合はそのようなことはなく、超個性的でありつつも豊かな芸術性をいささかも失っていないのが素晴らしいと言える。これは、グールドが前述のように緻密なスコア・リーディングに基づいてバッハのピアノ曲の本質をしっかりと鷲掴みにするとともに、深い愛着を有しているからに他ならないのではないかと考えている。グールドによるバッハのピアノ曲の演奏は、オーソドックスな演奏とは到底言い難い超個性的な演奏と言えるところであるが、多くのクラシック音楽ファンが、バッハのピアノ曲の演奏として第一に掲げるのがグールドの演奏とされているのが凄いと言えるところであり、様々なピアニストによるバッハのピアノ曲の演奏の中でも圧倒的な存在感を有していると言えるだろう。諸説はあると思うが、グールドの演奏によってバッハのピアノ曲の新たな魅力がより引き出されることになったということは言えるのではないだろうか。いずれにしても、本盤のフランス組曲やフランス風序曲の演奏は、グールドの類稀なる個性と芸術性が十二分に発揮された素晴らしい名演と高く評価したいと考える。音質については、他のバッハのピアノ曲がSACD化やBlu-spec-CD化される中で、リマスタリングが施される以上の高音質化がなされていなかったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることにより、見違えるような良好な音質に生まれ変わった。音質の鮮明さ、音圧の凄さ、音場の幅広さなど、いずれをとっても一級品の仕上がりであり、グールドのピアノタッチが鮮明に再現されるのは、録音年代を考えると殆ど驚異的であるとさえ言える。いずれにしても、グールドによる素晴らしい名演をSACDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
9人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/12/08
ここしばらくの間途絶えていたゲルギエフ&マリインスキー劇場管弦楽団によるショスタコーヴィチの交響曲チクルスであるが、15曲の交響曲の中で最大規模を誇る交響曲第7番が登場だ。これまでのマリインスキー劇場管弦楽団の自主レーベルへの録音は、原則として、これまでゲルギエフが録音を行っていない交響曲に限定されていたところであるが、今般の交響曲第7番は、かつてフィリップスレーベル(現英デッカ)において録音を行った演奏(2001年)以来、11年ぶりの再録音ということになる。当該フィリップス盤を評価する音楽評論家も結構多かったと記憶するが、私としては、ゲルギエフの指揮する際の特徴でもある細やかな指の動きを反映したかのような神経質さが仇となって、木を見て森を見ないような今一つ喰い足りない演奏であったと考えているところであり、あまり高い評価をしてこなかった。ところが、本盤の演奏は、フィリップス盤とは段違いの素晴らしさであると言える。演奏時間でも、トータルで約4分近くも長くなっており、これは、ゲルギエフがいかに同曲に対して思い入れたっぷりに演奏しているかの証左ではないかとも考えられるところである。ゲルギエフの指揮芸術の特質でもある細部への徹底した拘りは相変わらずであるが、フィリップス盤においては随所に施された個性的な解釈がいささかあざとさを感じさせ、それが演奏全体の造型を弛緩させてしまうという悪循環に落ちいていた。ところが、本演奏では、ゲルギエフならではの個性的解釈が、演奏全体の造型美をいささかも損なわない中においてなされており、フィリップス盤のようなあざとさ、わざとらしさ、大仰さを感じさせないのが素晴らしい。第1楽章はなどは実にソフトに開始され、その後も鋭角的な表現が減じたように思われるが、ここぞという時の強靭な迫力にはいささかも不足はなく、むしろ懐の深い音楽を醸成し得るようになったゲルギエフの円熟ぶりを正当に評価することが必要であろう。また、第3楽章については、演奏時間がフィリップス盤と比較して1分以上も伸びていることからもわかるように、ゲルギエフは本楽章の美しい旋律を心を込めて歌い抜いているが、陳腐なロマンティシズムに陥ることなく、格調の高さをいささかも失っていないのが素晴らしい。終楽章は、逆に1分程度演奏時間が短くなっているが、それだけに畳み掛けていくような気迫や生命力がフィリップス盤以上に漲っており、終結部の壮絶な迫力は聴き手をノックアウトさせるだけの凄まじいものがあると言える。本演奏を聴くと、ゲルギエフのこの11年間の進境には著しいものがあると評価し得るところであり、今や名実ともに偉大な指揮者の仲間入りをしたと言っても過言ではあるまい。いずれにしても、本演奏は、ゲルギエフの近年の好調ぶりを如実に示すとともに、今後のショスタコーヴィチの交響曲の再録音(例えば、第4番、第5番、第6番、第8番、第9番)に大いに期待を抱かせるだけの内容を有した素晴らしい名演と高く評価したいと考える。音質は、マルチチャンネル付きのSACD盤であり、かつてのフィリップス盤と全く遜色のない、臨場感溢れる極上の高音質録音となっていることについても評価しておきたい。
9人の方が、このレビューに「共感」しています。
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