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Top 50 Singers of All Time - 46位

Thursday, November 16th 2006



「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」。偉大なる功績を残したブラックミュージック界の帝王、James Brown

1933年5月3日、サウス・キャロライナ州バーンウェルはずれの貧しい家庭に未熟児で生まれた。売春宿で育ったJBは金品を騙し取ることをを続けながらも、音楽にも興味を持つようになり、46年の13歳の頃にはワレモナ・トリオとしてはじめて音楽活動を始める。しかし、すぐに窃盗で投獄され52年の仮釈放までは中断することとなる。

JBの本格的な音楽活動は、窃盗で投獄され出所してきた52年以降から。自由の身になったJBは、ジョージア州トコアの教会でゴスペルを歌うようになるが、リズム&ブルースを歌うほうが金が儲かるということを知り、Bobby Byrdらと活動。 当時トコアにはLittle Richardというスターがおり、JBたちは彼の公演にも出演し人気を博し、時には彼の代わりにFlamesとして公演をこなしていた。

当時から驚くべきダンス・スキル(直立姿勢からバック転してスプリッツを何度もした)とシャウトで観客を魅了していたJB。彼のシンガーとしての基礎はこの頃ほぼ完成していたといってもいいだろう。

55年にはメイコンにあるラジオ局WIBBで"Please, Please, Please"を録音。King傘下にあったFederalレーベルのタレントスカウト兼プロデューサーのラルフ・バスはこの曲を聴いて身震いし、誰がリード・シンガーかもわからないまま早速契約することとなる。

翌年、FlamesはシンシナシティでKingのハウス・バンドとセッションし"Please, Please, Please"、"I Feel That Olf Feeling Coming On"、"I Don't Know"、"Why Do You Want Me"をレコーディング。しかしKingの実権を握っていたシド・ネイサンはそれが気に入らずバスをクビにしてリリースを止めようとした。

バスはあわててネイサンを説得にかかるが、彼はそんなに駄作か証明したいなら全国発売しろと翻ったという。ところがネイサンの予想は大きく外れ、"Please, Please, Please"はR&Bチャート5位を記録してしまう。

一旦成功してみせたかに見えたFlamesだったがその後放ったシングルはどれも失敗。メンバーは故郷に帰り、残ったJBはミュージシャンを集め南部を中心に活動を続けることになる。

58年、JBを救うことになるポップ・ゴスペル・バラード"Try Me"を後のジャズ界の大物となるKenny Burrellらと共にNYで録音。これまでの南部臭さがいい意味で洗練されたこの曲で、59年1月R&Bチャート1位を獲得。さらにれまでの作品を集めたデビュー・アルバム「Please 、Please、 Please」を発表。

当時のJBはこういった曲に代表されるバラードを多く発表しており、60年代前半にかけ、所謂“アーリー・ソウル・バラード”の代表格としても認知されるようになっていた。

熱狂的なショーでも定評があったJBは、多くの観客(特に女性)の興奮する姿を見てきた体験から、このライヴの体験を再現できるならいくら払ってもレコードにすべきだと考え、62年10月、アポロ・シアターを1週間も予約し録音するが、またもやネイサンの意にそぐわずお蔵入り。

しかし、時代は変化し市民権運動が盛んに。この頃はJBも世界中から注目を集めるアーティストの1人として知られるようになりネイサンも遂には、 「Prisoner Of Love」と共に「Live At The Apollo」のリリースも同意。この力作はあっという間に全米2位を記録してしまう。

この頃からJBのファンキー・ソウルへの移行が顕著となっていく。そのきっかけとなったのが、64年発表の"Out Of Sight"だろう。 さらに翌年、公演中のアドリブを元に作った曲"Papa's Got A Brand New Bag"で 7年振りにR&BチャートNo.1に輝く。 ファンキー路線を極めたJBは続く"I Got You(I Feel Good)"で連続No.1を獲得。勿論、ルーツであるバラードでも多くの名曲を残していたが、この時代のJBは黒人だけが表現できるファンキーなリズムを全面に押し出したナンバーにこそ象徴される存在だったと言えるだろう。

その後も 情熱的なバラード "It's A Man's Man's Man's World"、 多くのミュージシャンの影響を与えた "Cold Sweat"などを発表。 そしてベトナム戦争が勃発してからは、メッセージ性の高い "I Got The Feelin'"、"Say It Loud"などをリリースしナンバー・ワン・ヒットを飛ばす。

しかし69年頃から、鉄壁だったはずのバックメンバーとは違うミュージシャンとのセッションをするようになり、さらに後続のSly & The Family Stoneや変身したIsley Brothers、モータウンのノーマン・ウィットフィールド・プロデュース作品などに追い立てられ、遂にはJBバンドの中核を担っていたMaceoとメルヴィン・パーカー、ジミー・ノーレン等数人がグループを脱退してしまう。

そこでグループに補強されたのが、シンシナシティのバンド、キャットフィッシュ(g)とBootsy Collins(b)兄弟を擁するペイスセッターズだった。新生JB'sを迎えたJBは、重点をホーンからギターに戻し、アフロ・アメリカン音楽を取り入れ基本に戻る。そこで録音された "Get Up(I Feel Like Being Like A)Sex Machine"や"Give It Up Or Turnit A Loose"などで第ニの黄金期に入る。 ここでの衝撃的かつ斬新なビートはその後の音楽シーンに多大な影響を及ぼした。

` ところが、才能のあるコリンズ兄弟以外をないがしろにしていたJBは、ツアー中はホーン演奏者を地元ミュージシャンで代用するようになり亀裂が入る。71年の欧州ツアーを最後に、ブーツィとキャットフィッシュはジョージ・クリントンの元へと去ってしまう。

JBはFred Wesleyをディレクターにし、新しいJB'sをスタートさせ、 "Hot Pants Part.1"、"Make It Funky"、"Talking Loud And Saying Nothing"、"Get On The Good Foot"、"The Payback"(最もサンプリング使用度の高い1曲)、"My Thang"、"Papa Don't Take Ne Mess Part.1"など、Marvin GayeStevie WonderAl Greenら新しい世代のアーティストたちがひしめく中、立て続けにヒットを飛ばし、いつしかJBは「ソウル・ブラザー・No.1」から「ザ・ゴッドファーザー・オブ・ソウル」へと呼ばれるようになる。

70年代中期以降、その勢いにやや陰りが見受けられたものの、JBのパワーは全く衰えを知らなかった。80年代もアルバムをコンスタントに発表し続けたJBが、久しぶりに世界から脚光を浴びたのが、あの映画「ロッキー4」のサントラに収録された"Living In America"で、日本でもこれがJB再評価のきっかけともなって、若いファンにも広く知られるようになった。しかし、本格的なチャート・カムバックという意味では88年の"I'm Real"(R&Bチャート2位)という事になるだろう。

が、その数ヶ月後、JBは交通妨害と逮捕拒否、さらにドラッグ所持等で実刑判決を受け、6年間もの刑務所生活を過ごすことになる。獄中の模範的な態度も認められ、約2年半の91年2月に仮釈放される。

出所後すぐにレコーディングし復帰作となったのが「Love Over-Due」だ。98年には「I'm Back」でも変わらぬパワーを発揮している。最新アルバムは02年の「Next Step」。デビュー50周年となる06年頭には3年ぶりにジャパンツアーのため来日。70歳を超えた今でも恐るべきダンスと歌声でリスナーを魅了してやまない。07年にはニューアルバムの予定も。

* Point ratios listed below are the case
for Bronze / Gold / Platinum Stage.