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Top 50 Singers of All Time - 6位

2006年12月26日 (火)



ビョークは1965年11月21日、アイスランドのレイキャビックに生まれた。1歳のとき両親が離婚。ジミ・ヘンドリックスエリック・クラプトンに影響されたバンドをやっていたというギタリストの継父の影響で、ビョークは幼い頃から音楽に触れ始めた。2歳の頃から『サウンド・オブ・ミュージック』を観ていたというビョークは、5歳で地元の音楽教室に通い始め、ピアノやフルートなどに触れながら基礎的な音楽知識を蓄えていったという。1977年、11歳で早くもビョークはレコード契約し、アルバム『ビョーク』をリリースしている。これはアイスランドでプラチナ・アルバムとなっている。その後はパンク・ムーヴメントの影響を受けたこともあり、彼女はいろいろなバンドを組んだり、渡り歩いたりして十代を過ごしている。13歳でExodus、14歳でTappi Tikarrassというバンドに参加。そして18歳の頃にはパンク〜ゴス・バンドのKUKLに参加。アナーキズムを思想の根源としたイギリスのレーベル、クラスとレコード契約し、1984〜86年の間にバンドとして2枚のアルバムを残した。1986年には男児をもうけ、同時期にKUKLは解散。それを母体とし、3人の新メンバーを迎えて結成されたのがシュガーキューブスだった。

シュガーキューブスは間もなくデビュー・シングル“バースデイ“を発表。その後1987年にイギリスのワン・リトル・インディアン・レーベルから、このシングルの英語ヴァージョンがリリースされたことで彼女達に大きな注目が集まった。同時期、彼女達は故郷のアイスランドでバッド・テイスト・ファミリーというプロジェクトを始動させ、音楽に留まらない総合アート的な活動も行っていく。後にビョークが語ったところによると、この頃の彼女周辺の環境はクリエイティヴで、ボヘミアン的なアート志向に満ちていたという。時間が前後するが、ビョークは1986年、出産2ヵ月後にグリム童話に材を取ったThe Juniper Tree(邦題:ビョークのネズの木)という映画で主演したりもしていた。1988年になるとシュガーキューブスはアメリカではエレクトラ・レーベルと契約。デビュー・アルバム『ライフ・イズ・トゥー・グッド』を発表(イギリスではワン・リトル・インディアンから)。このアルバムが大きな話題を呼び、日本の音楽メディアでもこの辺りからシュガーキューブスの名前が浮上してくることになった。シュガーキューブスは2ndアルバム『トゥデイ・トゥモロウ・ネクスト・ウィーク』(1989年発表)、3rdアルバム『スティック・アラウンド・フォー・ジョイ』(1991年発表)と作品を発表。また演奏しながら、いかにも怪しげな雰囲気をもつ男性ヴォーカルのアイナー・マレックスが、ロリータ風な表情を見せるビョークを追いかける、といったようなユニークなパフォーマンスも見せ、人気を博したが、結果的に2枚のアルバムがデビュー作以上のセールスが挙げられなかった彼らは1992年に解散。その後、グループ解散頃からダンス・ミュージックへと傾倒していったビョークは、1993年、息子シンドリと共にロンドンへ移住し、そこでネリー・フーパーと出会い初のソロ・アルバムを制作することになる。

同1993年にソロ一作目『デビュー』を発表。 ビョークのイノセントで自然体な魅力がシュガーキューブス時代よりも色濃く押し出された『デビュー』は、全世界で250万枚のセールスを記録し、結果的にシュガーキューブス時代よりも彼女の存在が広く世間にクローズ・アップされることとなった。そしてその後の1995年に、前作からのネリー・フーパー、トリッキーハウイーB、とのコラボレーションによるセカンド・アルバム『ポスト』を発表。この作品はビョークの存在感と共に、その音楽性の高さにも注目が集まったが、セールス的にも前作を上回る300万枚という数字を記録する結果を生み出し、アート的な意匠とポピュラリティがビョークにとっては何ら矛盾しないことを強く示した。そうしたビョークの本質的なアート指向を強く感じさせたのが、種々のシングルでの別ヴァージョンや『ポスト』のリミックス・アルバムである『テレグラム』。翌1996年に発表された同作で同時代のダンス系クリエイター達とのコラボレーションは、刺激的なアーティスト、ビョークというイメージをダメ押しした。余談になるが、この時期UK音楽シーンにおけるカリスマとして広く知られるようになっていたトリッキーとのロマンスが報道され話題を集めたことも付け加えておこう。

1997年にオリジナルとしては三作目となる、スペイン録音のアルバム『ホモジェニック』を発表。 前作を上回る完成度を見せた同作は、その強烈なジャケット・イメージも話題となった。そして同年にビースティー・ボーイズの主催するNYで行われた"チベタン・フリーダム・コンサート"に参加。また翌1998年にはFuji Rockフェスティヴァルのヘッドライナーを務める。そして1998年の年末から、ビョークはラース・フォン・トリア監督の映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』サントラ制作、そして主演としての映画制作に入る。翌1999年はその映画撮影のためにほとんどの時間をデンマークで過ごすこととなった。

2000年5月、カンヌ国際映画祭で主演映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』がパルム・ドール(最優秀作品賞)を、そしてビョーク自身は最優秀女優賞を受賞。世界中に大きな話題を振りまいたのはまだ記憶に新しいところだ。その後7月からはソロ四作目となるアルバムのレコーディングをニューヨークにて開始。8月に『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のサントラ盤セルマ・ソングスがリリース。また同時期に“イッツ・オー・ソー・クワイエット”のビデオ撮影を手がけた友人スパイク・ジョーンズ監督の映画マルコヴィッチの穴のエンディングで流れる新曲“アンフィビアン“も話題となり、この時期のビョークは映画絡みの話題に彩られた。そして年末から日本でも『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が公開され、普段音楽を聴きなれない人々の間にもビョークの名は広まることになる。

アートワークに凝ったため一旦延期になったとも言われた五作目のアルバム『ヴェスパタイン』を2001年8月に発表。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』以降を感じさせる、ネイチャー指向を伴ったデジタル感とでもいうべきデコボコとしたイビツな音の粒子に包まれた音像が刺激的なサウンドとなっていた。12月には来日公演を敢行。オーチャードホールでのフル・オーケストラを率いてのライヴはたちまち売り切れ、ただちにチケットはプレミアが付き、お宝化した。

2002年はここまでの軌跡を総括するような年で、ファン投票によるベスト・アルバム、『グレイテスト・ヒッツ』、レア音源なども収録した変則ボックスセットの『ファミリー・トゥリー』、各種DVDを続けざまに発表。ビョークの歴史に一区切りこの後しならく充電期間に入る。

そして2004年、アテネ・オリンピックの開会式のパフォーマンスを行ったビョークは日本人ヒューマン・ビート・ボクサーのDokakaや元RootsRahzelFaith No MoreMr.BungleMike PattonRobert WyattMatmosらが参加した『メダラ』を発表。またもや我々の想像を超えるサプライズを与えてくれた。

※表示のポイント倍率は、
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