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MISPRISIONER さんのレビュー一覧 

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     2011/12/05

    《チャロデイカ》は、《スペードの女王》の一つ前、チャイコフスキーの最後から数えて3つ目に当たる、交響曲第5番の前年に初演された、作曲者円熟期のオペラ。ロシア語の《Чародейка》(チャラヂェーイカ)は、「魔法使い(の女)」という意味もあるが、それよりも「魅惑的な女性」という意味で用いられることが圧倒的に多い。本編に登場する”魔法使い”は、原作にはなく、チャイコフスキーによるオリジナル・キャラクター。古くはサモスード指揮モスクワ・フィルによるモノラル盤(50年代中頃の録音)があったが、あまり聴かれず、《チャロデイカ》といったら、もっぱら、77年に録音された本盤で聴かれることが多いようだ。いわば、本家メロディアによる待望のCD化ということができよう。プロヴァトロフとモスクワ放送響は、十分にロシア的でありながら、ロシア特有のある種の泥臭さ、あるいは粗野な肌触りと決別している点で、ローカル色に溺れぬ気品と節度を持って、説得力ある演奏を聴かせてくれる。しかし、チャイコフスキーのテコ入れも虚しく、原作のストーリィの弱さは否定できるものではなく、オペラとしての完成度がイマイチなのが残念だ(初演時も、一週間で客数は半減したと伝えられている)。演奏でもっと面白く聴かせようとすることは出来そうで、伸びしろアリということで、評価は星4つに止めた。

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     2011/11/30

    やはり、ポポフ作品のファースト・チョイスといったら本番をおいて他にない。ロシア・アヴァンギャルドの音楽には、殊オーケストラ音楽にあっては主に2つの類型がある。後期スクリャービンのようなネオ・ロマンティシズム派と、ルリエのような新古典派だ。本盤に聴かれるポポフの音楽は、明らかに前者で、交響曲第1番のフィナーレなどは、スクリャービンの《プロメテウス》やグリエールの交響曲第3番《イリヤ・ムーロメッツ》を髣髴とさせる。その素材の多くが、戦争ドキュメンタリー映画『モスクワ近郊におけるドイツ軍の壊滅』(1942年)への深い感銘から製作された、F・エルムレル監督作品『彼女は祖国を守る』のサウンドトラックからとられた交響曲第2番は、1943年の作品で、モダニズム性は大きく後退しているが、音楽の傾向は同様だ。プロヴァトロフは1929年生まれでロジェストヴェンスキーより2つ、フェドセーエフより3つ年上、スヴェトラーノフの1つ下の中堅指揮者(2010年5月3日没)。ショスタコーヴィチのオペラ《カテリーナ・イズマイロヴァ》、プロコフィエフの《3つのオレンジへの恋》、チャイコフスキーの《オプリチニク》など、主にオペラの録音で知られる(かの有名な、ネミローヴィチ=ダンチェンコ音楽劇場の指揮者だったこともあり、その際、《カテリーナ・イズマイロヴァ》を初演した)。コンサート指揮者としては、71年から81年までクイブイシェフ(現サマーラ)・フィルのシェフを務めた他は、主に劇場を活動の場としていた模様。劇場で、様々な作品の初演を手がけたためか、初演以来一度も演奏されたことがないような作品の演奏も実に堂に入ったもの。また、なんといっても、これ以上ないというパワフルなオーケストラのサウンドはこの種の音楽を聴くには最適で、特に両曲のフィナーレで何分も続く、コーダの壮大なコラールのド迫力は、異盤では決して体験することが出来ないものだ。しかし、モスクワ国立響やモスクワ放送響(ロジェヴェン時代の録音)にとっては、これが普通なのであろう。従って、その中には十分感興がこもっており、決してコケ威しでない意欲的な表現に満ちており、造形的にも無理がない。

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     2011/11/24

    交響曲は、スヴェトラーノフとソヴィエト国立響による、同曲セッション録音の2年後の演奏。ちなみに、スヴェトラーノフの同曲録音は、セッション録音の2か月前のライヴも商品化されたことがあり、同盤で3種目のディスクとなる。スヴェトラーノフは、決して「ショスタコ指揮者」といえる存在ではないが(ショスタコーヴィチはスヴェトラーノフの演奏をあまり高く評価していなかった)、気に入った曲は何度も繰り返し演奏していたようで、10番もそういった作品に数えられるだろう。従って、今後、知られざるライヴ録音が商品化されることもあるだろうが、本盤の演奏は、皆が絶賛しているような、スヴェトラーノフの同曲演奏としては決してクオリティの高いものではない。私は、セッション録音前に行われたライヴ録音が、同曲トップクラスの名演だと思っているが、壮絶さでいうなら、本盤のライヴの翌年に行われたカラヤンのモスクワ公演の方が数段勝っている。演奏冒頭のソヴィエト軍のチェコ侵攻に対する抗議も、「とりあえず、やっとく?」程度のもののようで、他の観客の叱責によりすぐに静かになってしまうし(チェコ侵攻も直後で、その悲惨さはまだ伝えられていないので、まだ本気ではない。英国の活動家やフーリガンがその気になったら、抗議はこんな程度では済まない)、ソヴィエトでは演奏前に会場がザワついているのは日常茶飯事だから、スヴェトラーノフも「なんかザワついてるな」程度の気持ちで普通に演奏をスタートしたのだと思う。従って、商品帯の「会場は一触即発の事態」「スヴェトラーノフは果敢にも演奏を続け」という文言は噴飯モノ。また、スヴェトラーノフの指揮は、リズム感やテンポ感に一元的な面が強い。そして、スヴェトラーノフは、それほどスコアを緻密に表現する人ではなく、オーケストラの自発性に任せるようなところもある。良くいえば猪突猛進なのだが、その面に寄りかかったこの演奏では、それが悪い効果をもたらしている。すなわち、演奏全体が極めて単調で食傷気味なのだ。結論としては、ムラヴィンスキーやカラヤンが肉薄したこの曲の理想から、大きく隔たった演奏といわなければならない。c/wのチャイコフスキーとコルサコフも、交響曲と大同小異の単調な演奏で、作品の持つ微妙な味わいが全く失われている。音質は、低音がかなりモワ付くが、アンビエント・ステレオは一応の効果は出していると思う。ひと昔前の擬似ステレオとは大きな違いだ。少なくとも、大きめのシステムで聴くのであれば、それによって、演奏の印象が大きく変わることはないはずだ。

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     2011/11/23

    ポロヴィンキンが死の5年前に書いた交響曲第9番は、このジャンルで作曲者最後の創作となった作品(なお、TOBUの能書きにある「交響曲第9番は1929年から1944年にかけて実に15年という長きに渡って作曲された大作」というのはウソで、「(ポロヴィンキンの)9つの交響曲は、1929年から1944年まで、15年の間に書かれている」が正解)。「戦時の音楽」第16弾(第15弾は何故かストラヴィンスキーの曲集となっている)で聴くことができる交響曲第7番と比べると、数段立派な音楽となっていて、第1楽章は20分もかかり、交響曲全体では演奏に50分を要する(各楽章の比率は3:1:1:2)。作風は、叙情性とスタイルの点で、同窓のミヤスコフスキーの交響曲を彷彿とさせる。不協和音は最小限に抑えられているが、第7番にはなかった重厚さや大胆な響きも随所で聴かれ、聴き応えも十分。しかし、ショスタコーヴィチや3つ歳上のプロコフィエフと比べると聴き劣りがするのも確かで、相当なソヴィエト音楽マニアでない限り、どうしても手元に置いておかなければならないディスクという訳ではないだろう。「戦時の音楽」にシリーズが始まった時は、画期的なシリーズだと思ったが、肩透かしな作品ばかり聴かされて、最近はかなり辟易している。もっと優れた作品もあると思うのだが、何故そういうものが出てこないのだろうか。本シリーズの製作が、サンクト・ペテルブルク政府にサポートされていることを考えると、選曲はお役所仕事で適当に行われているようにしか思えない。この不況下に、なんとも羨ましい話だ。

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     2011/11/23

    本盤に収録された作品は、いずれも健康的で明るく、重厚で激烈なイメージとはまた別の「ソヴィエト音楽」の側面を垣間見させてくれる。交響曲第7番は、奇しくもショスタコーヴィチの同じ番号の交響曲が初演されたのと同じ年に作られた作品(初演は翌43年、ロジェストヴェンスキーの父、ニコライ・アノーソフ指揮による)。作風はネオ・ロシアティズムとでもいおうか、バラキレフやカリンニコフを彷彿とさせるものがある。ポロヴィンキンといえば、現代音楽協会(ACM)の構成員であり上級スタッフだったことがそのプロフィールを語る際にお題目のように唱えられるが、こういう音楽を聴いていると、彼のキャリアを考える際、1924年から務めたモスクワ中央児童音楽劇場の音楽監督だったことの方が重要であるように思われる。すなわち、ポロヴィンキンが音楽を書く上での姿勢として、子供にはどういう音楽を聞かせてよいのか、という観念が常に念頭にあったのだと思う。モスクワ中央児童音楽劇場は、筋金入りの共産主義者のナターリア・サーツ(Наталия Сац 1903‐1993)が設立し、総監督を務めた劇場で、プロコフィエフの《ピーターと狼》もこの劇場からの委嘱によって生まれた作品だ。本盤に収録された作品の中では、ミツバチの生態を追ったドキュメンタリ映画《陽気な種族》の音楽が、その思想を最もよく体現しているだろう。《英雄的序曲》も、時に大胆な響きを聴かせることもあるが、基本的にはネオ・ロシアティズムの域を出ない音楽で、アレンスキー風の短いアンダンテを経て、アレグロ・ノン・トロッポの主部に入ってからもミヤスコフスキー風の音楽が続く。演奏は、いずれもしっかりとしていて、作品の魅力を余すところなく伝えているが、いかんせん、作品自体に情感に訴える魅力が乏しいところがあり、相当なソヴィエト音楽マニアでなければ、どうしても手に入れなければならないディスクという訳ではないと思う(従って星4つ)。

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     2011/11/18

    2010年の4月14日と同15日に行われたコンサートのライヴ録音。2日で4曲なので、それぞれワンテイクずつの録音ということになるのだろうが、リハーサルのテイクを使ってミスを修正してあるとしても、安定感のある精度の高い演奏にまず驚かされる。録音も、トゥッティ時に本来出るべきところで木管がやや遠めに位置されてしまう場合があったり、強奏時にティンパニの響きが埋もれてしまう場合があるのが気になるが、HMVにあるように、セッション録音と聴き紛う(「デッカの」という枕詞は意味不明だがw)クオリティ。演奏は、全体的に柔らかいトーンでまとめられていて、暖かく丸みがあり、いかにも温厚な紳士の作り上げた音楽といった印象で、彫琢度の高いパフォーマンスを聴かせている。誇張した表現をとらずに自然な音楽的高揚が大切にされ、決して押し付けがましいところのない演奏は、ブラームスの音楽に自然な呼吸を与えている。HMVレビューでは、それを「弦楽パートにレガート奏法を多用させ」ているからだと書いているが、弓全体をたっぷりと使って演奏しているだけで、殊更レガートが強調されている訳ではないように思われ(カラヤンの最晩年のスタジオ録音と比べて欲しい)、あくまで明晰さを失っていない。ジンマンはブラームスを「最もロマンティックな作曲家」と評しているそうだが、ブラームス作品を過度な叙情を排して、交響曲という構築的な音楽として聴かせるのは、注目されよう。

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     2011/10/27

    エヴラーホフの門下には、アンドレイ・ペトロフ、プリゴジン、セルゲイ・スロムニスキーそしてチシチェンコと、そうそうたるメンバがいるが、肝心のセンセイの音楽は広く紹介されてこなかった。そこに、このような録音が登場したことは、誠にありがたい。収録曲は、46年完成の交響曲、同44年の《夜警》、同42年の《協奏組曲》と、作曲年を遡る形で聴くことができるが、私は協奏組曲が一番面白く、交響曲が一番力ない音楽と感じた。エヴラーホフが旧レニングラード音楽院の教官になったのは47年。その年は、革命30周年でもあったから、云わば箔付けのために交響曲が必要となり、急いででっち上げでもしたのだろうか? いずれにしてもこの人、出世作は、音楽院在院中に書いたピアノ協奏曲とのことがだ、41年に同院を卒業してから戦争が終わる頃までに、ショスタコーヴィチの交響曲より少ない数の作品しかしか書いておらず、作曲家というよりも、教育者として記憶されるべき人物だ。それが、このディスクを聴いてよく分かった。このCDに収録されている作品から判断すると、初期のエヴラーホフは、プロコフィエフの音楽から多大なインスピレーションを受けていただろうことが予想される。ただし、ソヴィエト帰国後のプロコフィエフで、バレエ《ロミオとジュリエット》やオペラ《修道院での結婚》のプロコフィエフだ。そういう音楽が好きな人には素敵な一枚になると思うが、エッジの立ったソヴィエト音楽が好きな人には物足りないと思う。演奏は中の上、録音は教会でのセッション録音とのことで、残響は豊かにとられており、弦の音が若干遠めで管楽器や打楽器が全面に出ている音像は、こういった種類の音楽にピッタリ。

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     2011/09/29

    K・Iに何を期待したのかは判らないけど、ソ連の指揮者=爆演というドグマに無根拠に捉われると、本質を見失うことになるので、細心の注意が必要だ。K・Iの録音には、かつては、チャイコフスキー《悲愴》交響曲やR・コルサコフ《金鶏》組曲、同《シェエラザード》など、ムラヴィンスキーもかくやと思わせる、有無を言わせぬ名演がいくつもあったが、今では既に忘れ去られている。そのような状況の中、本盤のような企画が出たことは、K・Iが再評価されるよい布石になってくれるだろう。しかし、先のような思い込みや先入観に捉われている限り、K・Iの演奏の価値を見誤る危険性を孕んでいることは拭えない。しかし、そういったノイズを掃って、ピュアな態度で演奏そのものを聴いていくと、K・Iの様々な非凡な側面がみえてくる。例えば《運命》の第一楽章。K・Iの演奏は、正に「Allegro con brio」そのものであり、ベートーヴェンが楽譜に書いたこと以外の、余計な装飾は一切排除されている。これは73年、ロジェストヴェンスキーがモスクワ放送響の主席指揮者を辞任する直前の録音だが、演奏水準は、ロジェストヴェンスキーが指揮する時よりも数段上。まるで、トスカニーニが甦ったような、(新)即物主義的で真摯な演奏である。それは他の録音についても言える事だが、コンドラシンが主席指揮を辞任した年に録音されたモスクワ・フィルとのスクリャービンの《プロメテウス》は、それに加えて、ゴロヴァーノフばりの濃厚なロマン主義も感じられ、クロースアップされるトランペットの響きがとても印象的だ(K・Iは、音楽教育を正式に受ける前、赤軍の楽隊でトランペットを吹いていた)。星評価は、音質が録音年代以下なので4としたが、鑑賞を妨げる程ではない。

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     2011/08/30

    ブラームスで、ボールトはオーケストラを十分に鳴らしきって、壮大な音の大饗宴を展開している。どの部分の音も暗く沈み込むことはなく、常に健康的な明るさと強さを持っており、ボールトの弾力のある安定したリズムと明快な響きが、各楽章の持ち味を十全に引き出している。もっとも、大きな流れとしてはいいものの、細部の彫琢という点でいまひとつの感があるのも事実だが、BBC響も、あまり細かいことは気にせず、気楽に演奏を楽しんでいるように聴こえ、プロムスならではの演奏といえよう。一部の人々にとってはこちらがメインとなるだろう《エニグマ変奏曲》も、バルビローリやハイティンクと比べると大味な表現の演奏で、大らかで楽天的だ。部分的なニュアンスは少々犠牲にされてはいるものの、全体として堂々とした激性の強い表現が形成されており、決して音の洪水にはならず、どこまでもしっかりとしたフォルムが保たれている。また、ボールトの音楽的語り口を十全に心得て、揺るぎない信頼関係が築かれていた事を、十分に感じさせるオーケストラの鳴り方にも、好感が持てる。また、エニグマの終曲で加わるロイヤル・アルバート・ホールのパイプオルガンは、音源の経年劣化の所為か、ほとんど低音しか聴こえないが、100Hzより下から最低音の60Hzあたりの周波数成分が猛烈に自己主張しており、エニグマでSACDでもこんな重低音、聞いた事がない。なお、音の物理的条件は両曲とも60年代終わりころのもので、水準より少し落ちるのが残念だ。

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     2011/07/14

    正直申して、これまで私は、全くといっていいほどカラヤンのディスクを積極的には聴いて来なかった。誤解を避ける為に明記しておきたいのだけれど、決してアンチ・カラヤンという訳ではない。兎に角、いつでも手に入れられるメジャーどころはことごとく無視していたから、LPからSACDに至るまで、1万数千枚を優に超える私のディスク・ライブラリ中、カラヤンの録音は、コンプリートを目指して蒐集した作曲家や楽曲の塊に僅か十数枚(ひょっとすると1桁台かもしれない)紛れ込んでいる程度。「だから」なのか「にも拘わらず」なのかは定かでないが、このセットは是非欲しいと思った。カラヤンのEMIへの全ての管弦楽曲録音CD87枚が、たったの1万円強で買えるのだ。私がカラヤン好きで、聴きたい音源はみな持っているというのなら、考えたかもしれないが、聴く聴かないは別にして、これを手に入れない理由は見当たらない。数週間前に、本商品の初プレス盤の存在を知った時には、当然在庫切れだったため(”カラヤン”や”karajan”で検索したことなどないのだから仕方ない)、仕方がないので最安値のサイトをあれこれ探していた。そうこうしているうち、プライスダウンしての再発売に巡り合えたのは、本当にラッキーだ。初プレス盤は、最安値でも1万円台前半などでは到底手に入らない訳だし、純正レーベルからの新譜で1万円強という価格は、これまでの常識ではちょっと考えられない。既にオーダーは出してある。到着が待ち遠しい。

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     2011/07/14

    かつて、こういう仕事は片山杜秀氏の専売特許だったが(北欧の「ドーナツ文化圏」という言葉は彼から教えてもらった)、どういうわけか氏がこの種の仕事からフェードアウトしてしまって久しい現在、認知度の低さに反比例するように、べら棒に面白い音楽を知る手段として、最適な一冊だと思う。私も、十年近く前大手輸入CDショップで働いていた頃、系列店全店で全くオーダーを出さなかったディスクを自分用に1枚だけ発注して、かなり珍しい音源をいくつも手に入れたが、それでも本書に教えられたことは数多い。尤も、イベリア圏やベネルクス圏は興味の対象外であったのではあるが、本書を読んで聴いてみようと思ったものも少なくない。私がショップ店員をしていた頃には考えられなかった事だが、21世紀も十年以上が経過し、世界のあらゆる地域からディスクを自分自身で購入できるようになった今、本書(本シリーズ)は超個人向けのディスク・ライブラリ構築にまたとないツールになるはずだ。第2弾として「中・東欧篇」も6月に発売されており、第3弾、第4弾と続編で北欧、南米、中央アジア、シベリア、アフリカなどの音楽が紹介されることを大いに期待したい。

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     2011/06/27

    フリッチャイがスイス・ロマンド管と初共演した、デビュー・コンサートのライヴ録音。フリッチャイはジュネーブやチューリヒ、ルツェルンなど、年に何度もスイスを行き来しており(亡くなったのもスイスの病院)、ルツェルン音楽祭の常連でもありました。そんな彼のライヴ録音が、スイスのレーベルから出るのは偶然ではないでしょう。本盤で取り上げられたコンサートでは、他にバルトークの《ディヴェルティメント》も演奏されており、今回いっしょに聴く事ができないのは残念ですが、これまで正規録音のないブラームスの第1が聴けるのは、幸運といえましょう(以前、ルツェルン祝祭管との第1楽章のリハーサル映像が出たこともありました)。とはいえフリッチャイは、短い活動期間の中でブラームスの交響曲も割りと好んで取り上げており(50年代半ばは第1、病中病後の60年前後は後期交響曲が多い)、ファン待望のリリースといえるでしょう。演奏内容は、その期待を裏切ることのないクオリティで、トスカニーニの率直さとフルトヴェングラーのロマン性を併せ持っていると思います。特に例のコーダのコラールで思い切ってテンポを落とした(さらにトスカニーニばりにティンパニの乱打も加えています)フィナーレは圧巻。コンセルトヘボウ管やベルリン・フィルとの同曲演奏も聴きたくなりました(録音が残っていることを期待)。また、チッコリーニとのリストは、モノラル音声のライヴ録音ながら、独奏ピアノの音が前面に出ており、チッコリーニの名妓が十分に堪能でき、作品が秘める内なる力が巧みに表出されています。録音バランスは申し分ありませんが、惜しいのは音質で、50年代初期頃に相当する質に思えます(交響曲で、激しく音揺れする部分が1箇所あり)。

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     2011/05/05

    《宝玉と勺杖》とバックスの《戴冠式行進曲》はサージェントの指揮で53年録音、《ファサード》はアンソニー・コリンズの指揮、そしてその他のウォルトンの曲(《シエスタ》《ポーツマス・ポイント》《スカピーノ》)はボールトの指揮で54年の録音、ブリスの《ようこそ女王陛下》のみ作曲者の自作自演で57年の録音(以前発売されたCDには59年と表記)。管弦楽は《ファサード》がイングリッシュ・オペラ・グループens、ボールトがロンドン・フィルの他は、全てロンドン響。録音は、《ファサード》以外作曲から間もない演奏で、当然、作曲者臨席の下に行なわれた。勿論、《ファサード》の録音にも作曲者は立ち会っているし、ブリスに至っては自作自演だ。いずれも長い間「定番」として聴かれてきたもの。殊に《ファサード》は、戦前の自作自演盤(詩の朗読もイーディス・シットウェル)を凌駕する名盤として何度も復刻され、今日に至っている。またブリスの《ウェルカム・ザ・クィーン》は、彼が英国王室楽長に就任した翌年に製作された、前年に戴冠したエリザベス女王がイギリス帝国圏内を視察旅行(「コモンウェルス・ツアー」と呼ばれ、半年に渡る長期旅行だった)する姿を追いかけたニュース=ドキュメント映画のオープニング曲(本編の音楽はマルコム・アーノルド)。初録音は54年1月(プロデューサーはW・レッグ)に行なわれたので本盤の録音は再録音になるが、演奏内容はこちらの方が優れている。ブリスの英国王室楽長前任者、バックスの《戴冠式行進曲》は、ウォルトンの《宝玉と勺杖》同様、エリザベス女王の戴冠式のために書かれたもの。中間部以降は、映画「マルタ島G.C.」(1942年)のテーマ音楽がそっくりそのまま転用されており(オーケストレーションはオルガンやベルが加わったりする)、正に映画音楽ならではの極めて感動的な盛り上がりをみせる。この曲の録音はサージェント指揮によるものくらいで、今のところ現役盤では本盤くらいでしか聴けない。音質は、いずれもモノラルだがプアではなく、モノラル後期の極めて出来の良い録音。

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     2011/05/05

    キーワードを入れれば、それに相応するデータがほぼ漏れなく表れる現在とは違い、毎月音楽雑誌に載る新譜リスト片手にショップの店頭を実際に当たるしかなかった前世紀(まあ、今世紀に入っても数年はそんな時代が続いた)。これまで、「こんなCD、誰も買わないんじゃないですか? いいえ、私が買います」的な珍品ばかり追ってきた私だが、もちろんこの「The British Symphonic Collection」も出るたびに買ってきた(本当、他にはどんな人が買ってたんだろう)。しかし、本盤の詳細を見たら、1枚だけ買っていないものを発見。その1枚のためだけにこのセットを買わなければならないのだが、10枚買ってもオリジナル盤の半分以下の価格なのには驚かされたなぁ・・・。2000年前後の録音だから、音質についてグダグダ言うような類の録音ではないが、収録曲のレア度はASVの「イギリス軽音楽曲集」やDUTTONの「エポック・シリーズ」よりは低めになっているので(少なくとも、少しでもイギリス音楽をかじったことがある人なら、誰でも知っているような作曲者名のディスクが殆ど)、入門編を卒業したい人にはピッタリなセットだ。これらの曲が、いつまでも多くの人に聴かれないのが不当か妥当か、是非とも自分の耳で確かめてみては如何か。

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     2011/05/05

    ERATOは、米ソ冷戦時代からロシア(当時はソ連)の音楽家との繋がりが強く、ムラヴィンスキーの未発表録音(日本のVICTORが発掘してきた音源)や、ショスタコーヴィチの《ラヨーク》の世界初演のライヴ録音など、興味深いディスクを多数発売してきた。当時「ロシアのクライバー」と言われた幻の指揮者、アレクサンドル・ラザレフ(及びボリショイ劇場管)と契約を結んだ、西側初のレーベルもERATOであった。このチャイコフスキーの管弦楽曲集は、ロジェストヴェンスキーとその手兵・ソヴィエト国立文化省響がERATOに残した、交響曲を含む管弦楽曲シリーズのうちの一枚。また、《弦楽セレナード》はロジェストヴェンスキー唯一の正規録音である。ロジェストヴェンスキーと文化省響、しかもチャイコフスキーの演奏というと、いかにもドロ臭く無茶苦茶な爆演を繰り広げると思いきや、本盤は「これがあのロジェヴェンと文化省響のチャイコ?」と、耳を疑いたくような美演を聴くことが出来る。例えば《弦楽セレナード》冒頭のヴァイオリンの艶やかな響きとハーモニーは、ロイヤル・コンセルトヘボウ管やバイエルン放送響と聴き紛う程だ。尤も、《フランチェスカ・ダ・リミニ》や《スラヴ行進曲》では激しい部分もあるが、実演的に煽ったり、極端な対比をつける事は極力避け、癖のない正攻法名アプローチで、細部が丁寧に仕上げられている・・・とはいえ、そこはロジェストヴェンスキー、《フランチェスカ・ダ・リミニ》のコーダではそれまで抑えていた情感が爆発し、とんでもないことになっていたりするのだが・・・。

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