LPからCDへの移り変わりは、単に媒体の変化にとどまらず、一部の演奏家が忘れ去られる契機となってしまった。ロシアの指揮者、コンスタンチン・イワーノフもそのような演奏家の一人である。アンチェルやカラヤンと同年代にあたり、1946年以降20年近くにわたりソビエト国立交響楽団の音楽監督を努めた。LP時代には国内盤も含めて多数の録音が出ていたが、なぜかほとんどCD化されておらず、現在ではその名を知らない音楽ファンも多いと思われる。一国を代表するオーケストラの監督を20年近くも努めた指揮者としては異例であろう。残された録音のいずれもが大変優れた内容であるだけに、残念である。
イワーノフの演奏は、ピアニッシモからフォルテッシモまでのダイナミックレンジが大きい点では、いわゆる「ロシアの指揮者」のイメージにあてはまると言えなくもないが、一部のセクションが突出しないよう注意が払われており、音楽の骨格は常にしっかりと保たれて揺るぎない。ロシア的良心を反映したような素朴な解釈に貫かれ、大変力強いが、力で押すようなことは決してしない。このようなタイプの演奏を楽しむには、かなり肥えた耳が必要である。通俗名曲を演奏する際も、その解釈は愚直なまでに芸術的である。
レパートリーとしては、自身の風貌がそっくりであったというベートーヴェンを積極的に取り上げた。イワーノフのベートーヴェンは、伴奏部分をやや強調して旋律と対峙させることにより、一部の楽器を突出させたりテンポを揺れ動かしたりすることなく、厳しい性格を描き出すことに成功している。交響曲の多くを録音しているが、7番(未CD化)の第4楽章など、上記のイワーノフの特徴が功を奏した好例である。大変粗悪なモノラル録音であるが、頑として舞い上がらず、突出せず、たたみかけず、あくまでも旋律と伴奏の対峙により、愚直に同じフレーズを繰り返す中に、ベートーヴェンの執拗なまでの執念と人間性が垣間見えてくる。これはおそらく、ワーグナーが「舞踏の権化」と呼んだものとは全く別次元の表現であるが、しっかりしたベートーヴェン観をもった指揮者だということがよく分かる。61年プラハの春音楽祭におけるオイストラフ・トリオとの三重協奏曲は、音楽祭独特の雰囲気も手伝って、同世代の巨匠四人ががっぷり組んだ堂々の充実を示している。
チャイコフスキーの交響曲も、マンフレッドを含め全曲の録音が残されている。ソビエト国立響との悲愴はとりわけ出色である。特に第三楽章では、通常の演奏より微妙にテンポを落として行進曲としての性格が強調され、さぞ辛く苦しかったであろうチャイコフスキーの人生の歩みへの思いが、聴く者の胸に去来する。聴き手が様々な思いをめぐらす余地の大きい演奏であり、同曲ではターリヒ指揮チェコフィル盤とともに、真に名盤と呼べる内容だと思う。モスクワ放送響との金鶏組曲やアンタールといったR・コルサコフの一連のステレオ録音では、オーケストラの色彩に滋味ある統一感を与え、揺るぎない構成感と自由闊達な表現との見事な結びつきを伴って、これ以上望みようがないほどの出来栄えを示している。このような演奏を聴くと、本物の「色彩感」とは、とりどりの色の単なる塗り重ねを指すのではないということがよく分かる。ストラヴィンスキーのペトルーシュカやプロコフィエフのスキタイ組曲では、春の祭典かと思わせるほど原初的な迫力で素晴らしい高揚をみせ、さながらロシアの平原をカッと照らす太陽のような演奏を楽しませてくれる。
イワーノフは1964年にソビエト国立響と一度だけ来日した。その折のショスタコーヴィチの第11番などには、夜も眠れぬほどの衝撃を受けた方もあったようである。来日演奏家の録音発掘が進む今、イワーノフにも一筋の光が当たることを望んでいる。