村上春樹の長編小説「1Q84」に登場する音楽

2009年5月29日 (金)

長年ノーベル文学賞候補とされ、絶大な人気を誇る村上春樹さん。今回の「１Ｑ８４」はBOO1とBOOK2合わせてすでに発売日時点で４刷６８万部で、「海辺のカフカ」３０万部を大きく上回って日本文学史上最高の発行部数となりました。
　村上春樹さんは、さきごろイスラエル最高の文学賞、エルサレム賞を受賞した際、表彰式に出向き、体制を「壁」に、個人を「卵」にたとえて、「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵」を思い浮かべた時、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と発言し、イスラエル政府の軍事力行使と分離壁の建設を批判しています。
　こうした社会的メッセージを伝えるための行動と、オーウェルの「１９８４」の逆照射ともいわれる内容や、「海辺のカフカ」からの期待感もあっての、今回のすさまじい人気ぶりと思われます。

　ということで、クラシック・ファンがまずこの「１Ｑ８４（イチキューハチヨン）」を読んで気になってしまうのが、作品のオープニングが、タクシーの車内でなぜかヤナーチェクの『シンフォニエッタ』を聴くという情景設定であるということでしょうか。『シンフォニエッタ』は、その後も繰り返し現れ、女性主人公「青豆」がジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏によるレコードを購入する場面が登場し、男性主人公「天吾」が小澤征爾指揮シカゴ交響楽団のレコードをかけるシーンも用意されるなど、長大な作品を貫く重要な音楽的要素として大きく扱われます。
　その他、17歳の謎めいた美少女「ふかえり」が、バッハの平均律クラヴィア曲集が好きだといい、さらには彼女がマタイ受難曲第６曲のアリア「悔いの悲しみは」を突然歌いだすという驚きの情景があったり、麻布のマダムが好む音楽として、ダウランド「ラクリメ」、ハイドン：チェロ協奏曲などが登場したり、青豆の部屋でFMラジオからヴィヴァルディのピッコロ協奏曲が流れてきたり、天吾の部屋でFMラジオからテレマンのパルティータやマルセル・デュプレのオルガン曲が流れていたりすることもあり、クラシック･ファンにも見逃せない小説として話題になることはまず間違いありません。
　ジャズでは、天吾の情事相手である年上の女性の愛聴盤として、デューク・エリントンやビリー・ホリデイの名前のほか、「ルイ・アームストロング・プレイズ・Ｗ.Ｃ.ハンディー」というアルバムが登場。ジャズ喫茶経営もしていた村上氏ならではの詳細をきわめた薀蓄が印象的でした。
　その他のジャンルの音楽も登場しますが、中ではローリング・ストーンズの「マザーズ・リトル・ヘルパー」と「レディ・ジェーン」、「リトル・レッド・ルースター」が、天吾の部屋で印象的に使われていたほか、ミシェル・ルグランによるサウンドトラック『華麗なる賭け』がタクシーの中で語られていました。
　今回の「１Ｑ８４」では、これまでの『海辺のカフカ』や『ねじまき鳥クロニクル』といった作品以上に、数々の音楽が効果的に用いられることにより、音楽的なフレーバーがいっそう強化され、視覚的要素の強い村上作品の表現の幅を、さらに広く深くする役割を果たしているものと思われます。

【村上春樹】
1949（昭和24）年、京都府生れ。早稲田大学文学部卒業。1979年、『風の歌を聴け』でデビュー、群像新人文学賞受賞。主著に『羊をめぐる冒険』（野間文芸新人賞）、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』（谷崎潤一郎賞受賞）、『ねじまき鳥クロニクル』（読売文学賞）、『ノルウェイの森』、『アンダーグラウンド』、『スプートニクの恋人』、『神の子どもたちはみな踊る』、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』など。『レイモンド・カーヴァー全集』、『心臓を貫かれて』、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、『ロング・グッドバイ』など訳書も多数。

村上春樹特集

【ヤナーチェク：シンフォニエッタ】
独特の抑揚とシャープなリズム感覚で知られる近代チェコの作曲家レオシュ・ヤナーチェク（ヤナーチェック）[1854-1928]の代表作。
　大オーケストラのために書かれた壮麗な『シンフォニエッタ』は、ヤナーチェクの活動拠点であった都市ブルノについて描いたものとも言われています。長く続いたハプスブルク支配により抑圧された民衆と、解放後の自由な民衆との対比。
　ヤナーチェクは「勝利を目指して戦う現代の自由人の精神的な美しさや喜び、勇気や決意」を表現するために強い愛国心からこの曲を作曲しています。当初は『軍隊シンフォニエッタ』とも呼ばれ、チェコスロヴァキア陸軍に献呈する気持ちもあったのですが、やがて作品名から軍隊を除いて単に『シンフォニエッタ』とし、作品献呈も、イギリスにおけるチェコ音楽の熱心な紹介者でヤナーチェクの擁護者でもあったローザ・ニューマーチに変更されています。

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【バッハ：マタイ受難曲】
バッハの音楽の中でも最高の名作とされるのがこの宗教大作です。キリストの受難の物語を気高く美しく描いたその内容の深さは圧倒的。古今の多くの演奏家たちがチャレンジして素晴らしい成果を記録してきました。透明度高く軽やかな小編成演奏から、スーパーへヴィー級の演奏まで、さまざまなスタイルの演奏が存在しますが、どれも感動的なのは作品の凄さというほかありません。

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【バッハ：平均律クラヴィア曲集】
音楽史上の巨人であるバッハは膨大な作品を書きましたが鍵盤楽器のための作品を代表するのがこの『平均律クララヴィア曲集』です。グノーの『アヴェ・マリア』にも使用された第1曲によって開始される計48の「前奏曲とフーガ」が織り成す巨大な世界は、音楽の旧約聖書として長く人々に愛されてきました。

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