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森達也 『死刑』創刊記念インタビュー(3)

2008年2月10日 (日)

無題ドキュメント
森達也


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森達也 『死刑』創刊記念インタビューB
人は人を殺したくないし殺されたくない


 僕はこの制度を支えている一人

--- 今回の『死刑』は、3年間の歳月をかけられたということですが、その3年間を振り返ってみて、どんな時間だったんでしょうか。

森達也
森: ・・・楽しかったか辛かったかって聞かれれば、当たり前だけどいろんな意味で辛かったです。まあでも、書きながら辛いほうがいい作品になる場合は多い。・・・そうでない場合もあるな。筆が進んだほうがよい文章になる場合もあるし。・・・結局はテーマしだいですね。
書くためには実際の処刑をできるだけリアルにイメージしなくてはならない。処刑のスイッチは4つか5つ。これを四人か五人の刑務官がいっせいに押す。なぜなら自分が処刑したという意識を希薄にするために。まずはここから死刑という概念についての考察は始まる。なぜ意識を希薄にせねばならないのか。なぜ目を逸らしてしまうのか。それなのに維持せねばならない理由はどこにあるのか。 あるいは冤罪の可能性も考えなくてはならない。とても多いんです。無罪なのに処刑された人の数は決して少なくないと推察されます。

犯罪抑止についての幻想、治安への希求、不安や恐怖などの感情、個々における命への姿勢、さらには被害者や遺族の応報感情、そういった要素がすべてこの制度には溶け込んでいます。これらの問題を全部クリアしたとして・・・そんなことは有り得ないのだけど、それだけ完璧にシステマティックに死刑にできるとしたら自分はどうなのかってとこまで考えないといけないなって思ったし、だからこそ難しいんですよね、「死刑問題」って。思考テストには格好の素材です。いろんな論理や要素や感情やデータや歴史が絡み合っていて、それを全部自分の中で区分けしていく作業がこの3年間だった気がしますね。

--- 私も自分なりの死刑問題への答えを出そうと、いろんな本や情報を咀嚼しようとしてますが…知れば知るほど本当に複雑で…その区分け作業は相当辛かったのではないですか?

森: はい、辛かった。


--- 森さんが死刑を考えるようになったきっかけは、やはり『A』と『A2』の存在が大きいんでしょうか?

森: そうですね、具体的には『A2』の撮影が終わったあとに、拘置所にいるオウムの元幹部の人たちと会うようになってからです。彼らのほとんどは死刑囚です。いまこうして目の前にいる人が、やがて処刑されるんだということの意味がどうしてもわからなくなってしまって。それ以前にも、例えば映画の『デッドマン・ウォーキング』だとか『ダンサー・イン・ザ・ダーク』などを例にあげるまでもなく、映画の世界では死刑は昔から定番のテーマではあるんです。だからまったく考えてなかったわけではないけれど、やっぱり当たり前だけど他人事だった。でもそれが、実際に処刑される人と会ったことで活性化されたっていうのかな。思ったんです。主権者である僕はこの制度を支えている一人なんだって。


--- 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』では、死刑執行で映画が終わっちゃいますよね。あの結末はすごく衝撃だったというかショックで。ものすごく突き放されたような感覚でした。ああ、死刑ってこういうものなんだなって。映画だし脚色もされているんだろうけど、こんなふうに人が死んでいくんだっていう。こうやることで一体何が残るんだろうかって思いました。

森: 監督であるラース・フォン・トリアーはデンマーク人。30年近く前に死刑を廃止している国です。だから描き方が、いい意味でも悪い意味でもリリカルになってしまう。それとこの映画の場合はいわば冤罪執行なわけだよね。だから死刑の本質以前にこの執行はおかしいって言えるんだけれど…『グリーンマイル』なんかも同じです。結局は勧善懲悪でしょ。執行の残虐さは訴えているけれど、本当の悪とストーリーのうえで規定した囚人はあっさり殺している。その意味ではとてもわかりやすい。

でも例えば、冤罪ではなくて実際に5人殺した人の場合はどうするのか。現状ではあっさり死刑です。でも機械的に5人だから死刑。一人だから無期懲役ではなく、もっと本質を考えたい。人が人を殺すということはどういうことなのか。罪とは何か。そして罰とは何なのか。


--- 『死刑』のサブタイトルの「人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う」って、とても森さんらしい言葉だなって思ったのと、今回は何か今までとは違う結末なのかな、という予感がしたんですが。


森: 今この場であまり説明をすべきではないとは思うけれど、・・・論理と情緒、そして本能という手順を僕は踏みました。そうやって考え続けた。その帰結です。人は善性が強い。そして利他心も実のところとても強い生きものです。群れるからですね。サバンナで単独で暮らす生きものではない。そこから考えました。考えながら多くの人に会い、多くの場に身を置いた。その帰結として、なかなか結論を出せない僕にしては珍しく、ひとつの確信に到達しています。


 非当事者の役割とは


--- 死刑について考えるとき、真っ先に心情として引っかかるのは、命を奪われた被害者や被害者遺族の感情、ですよね。人の命を奪った者は、命で償わなければならない、つまり応報感情のための死刑という考え方。森さんの中では応報感情ってどんなふうに定義されてますか?

森: まずは人が初原的に持つ感情ですよね。何か理不尽なことをされたらやり返したい、っていう当然の感情。同時にこれは、失った人へ残された遺族が抱く贖罪の部分もあると思うんです。残された人は生き続けなければならない。その空白に何かを充填しないことには生き続けられない。憎しみもその一つです。だから応報感情をネガティブなものとして一概に否定などできない。抱くことは当然であると同時に、残された側の辛さや切なさが凝縮した感情でもある。

でもだからこそ、この劇薬のような感情を長く持つことは辛い。誰かが死ぬことを願う人生なんて豊かなはずはない。第三者がそこで機能せねばならない。いかに苦しみを和らげるか。憎しみを希釈するか。それは社会全体が考えねばならない問題です。

でも今のこの社会はメディアと相まって、加害者への憎悪を煽る方向にばかり動いている。とても無責任な第三者性です。憎悪の便乗。そこには被害者や遺族が抱く辛さや苦しみなど共有されていない。もっと言えば共有なんて無理なんです。そこに非当事者の役割がある。この社会はそもそもが当事者性で成り立ってはいない。他者性で成り立っている。だからこそメディアや社会全体の役割があるはずです。


--- この本には、本当にいろんな立場の人たちそれぞれの考えや言葉が登場します。被害者遺族の方、元刑務官の方、教誨師の方、冤罪被害者の方や元死刑囚の方、それぞれに存置や廃止の考えがありました。でもどちらの考えにせよ、本当なら人を殺したくないという心情が行間から伝わってくるような気がしました。

森: たぶん戦争と一緒で、戦争なんて本当はやりたくないと誰もが思っているわけですよね。でもいろんな事情が重なって戦争やむなしって思うときがあるわけでしょ。政治家がそんな決断をするときは国民も同じような意識状態になっている。つまりやらねばやられるという意識です。戦争や虐殺のほとんどは危機管理意識が高揚して起きる。自衛です。自分や家族を守ろうとして気づいたら殺し殺され合っている。互いに相手に脅えながら殺し合う、こんな悲惨でこっけいなことはない。人は人を殺したくないし殺されたくない。その思いをしっかりと両腕で抱きしめる。そこにもっと立ち返れば、意外とそんなに悩ましい問題じゃなくって一番シンプルな解答があるんじゃないのかな。



続く・・・

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  森達也(もりたつや)
森達也 映画監督/ドキュメンタリー作家。
1998年オウム真理教の荒木浩を主人公とするドキュメンタリー映画「A」を公開、各国映画祭に出品し、海外でも高い評価を受ける。 2001年、続編「A2」が、山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。著書に『放送禁止歌』(光文社知恵の森文庫)、『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』、『クォン・デ〜もう一人のラストエンペラー』『世界が完全に思考停止する前に』『職業欄はエスパー』(角川文庫)、『A2』(現代書館)、『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』(晶文社)、『下山事件』『東京番外地』(新潮社)、『池袋シネマ青春譜』(柏書房)、『いのちの食べかた』『世界を信じるためのメソッド』(理論社)、『戦争の世紀を超えて』(講談社)、『ドキュメンタリーは嘘をつく』(草思社)、『王様は裸だと言った子どもはその後どうなったか』『ご臨終メディア』(集英社)、『悪役レスラーは笑う』(岩波新書)など多数。

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