100人の偉大なアーティスト - No.19
Tuesday, June 3rd 2003
彼にとっては不名誉な事かもしれないが、確かに彼は90年代のロックにおいて最も影響力を誇ったミュージシャンである。ジョン・レノンやポール・マッカートニーとも肩を比べられるほどのソングライティングの才、アンダーグラウンドなインディ・バンドからブラック・サバスやキッス、カーペンターズ、アバなどのメジャーなアーティストまでを同時に好む嗜好、苦みばしった歌声、肩まで伸ばした髪の毛、ヨレヨレのネル・シャツ、ボロボロのデニム、コンバースのジャック・パーセル・・・音楽的なことももちろんだが、彼に纏わるあらゆるもの ―― ファッション、言動、立ち振る舞いにいたるまで彼の影響力は計り知れない。そう、彼の名はカート・コバーン・・・’67年2月20日、アメリカ北西部ワシントン州のシアトル郊外、アバディーンという林業だけで成り立っているような小さな町(イメージとしては米TVシリーズ 『ツイン・ピークス』的な場所)に生まれ育ったカート・コバーン。彼が小学校3年生の時に両親が離婚。それ以降、親戚の家をたらい回しにされた彼はフラストレーションからマリファナに溺れてはエアロスミスやAC/DCを聴き狂う、という思春期を送る。本人が後に語ったように、地方都市近郊のうらぶれた町という閉鎖的な環境も影響していただろう。
そんなカートを救ったのがパンク・ロックだった。特にブラック・フラッグなどUSハードコアにのめり込んだ彼は、一時期はかつて聴いていたAC/DCやキッスなどのアーティストは消えかかるほどのめりこんだようだ。しかし、後のニルヴァーナの活動で判るように、彼はパンクを軸にそれまで聴いてきたハード・ロックの要素を自分達のサウンドに採り入れ、オリジナリティあるサウンドを作るようになる(このパンク〜ハードコアとハードロックを並列に見るというような、サウンド志向の視点は昔からのUSバンドの特徴といえる)。
フェイカル・マターズ、テッド・エド・フレッド・ブリスなど次々とバンドを作っては壊していたカートが、クリス・ノヴォゼリックと出会いニルヴァーナを結成したのは’87年12月のこと。正式なドラマーが居ないままバンドはスタートし、シアトル周辺でライヴ活動を行っていたが、’88年に初代ドラマー、チャド・チャニングが加入し形が整った。後にマッドハニーやパール・ジャムのメンバーとなる人物が在籍した伝説の’ファースト・グランジ・バンド’、 グリーン・リヴァーやサウンドガーデンなどはこの時期既に当地のシーンで活躍していた。のちに”グランジ・ロックの総本山”と呼ばれるようになるサブ・ポップ・レコードは7”シングルを中心に扱う”サブ・ポップ・シングル・クラブ”なるもの(申し込めばリリース毎にシングルを送ってくれる通販のようなもの)を展開し、アンダーグラウンド・ファンに人気を博した。 ニルヴァーナもそのサブ・ポップからデビュー。ファースト・シングルは’60〜’70年代に一世を風靡したオランダのポップス・グループ、ショッキング・ブルー(”ヴィーナス”のヒットで有名)の曲をカヴァーしA面に据えた”Love Buzz / Big Cheese”だった。またグランジのバイブルともいえる有名なコンピレーション、Sub Pop 200に参加したりもした。
そして’89年6月、1stアルバム ブリーチを発表。この頃セカンド・ギタリストとしてジェイソン・エヴァーマンが4人目のメンバーとなるが、即座にクビ。またチャドも抜けた。新ドラマーにはデイヴ・グロールが迎えられ、遂によく知られたあのニルヴァーナのラインナップが揃った。1990年はライヴ音源も含むシングル Sliverなどのリリースもあり、アンダーグラウンドで沸々とヒートアップしていくシーンとニルヴァーナという名前は一部のロック・ファンには知られるようになった(当時、某音楽誌の年間ベストみたいな企画でアングラ大王ソニック・ユースのサーストン・ムーアがTADらと共に名を挙げニルヴァーナはイイ! と言っていた事を思い出す)。
間もなくニルヴァーナはメジャー・レーベルのゲフィンと契約(それ以前にソニック・ユースが契約しており、シングルなどを別のレーベルから出せるといったバンド側に有利な契約をモノにしていたので、それに倣った、とカートは語っていた)。そして’91年、バンドはあの歴史的な一枚 ネヴァーマインド を発表する。プロデューサーはブッチ・ヴィッグ(現在はガービッジというバンドをやっている)。当時先述のシングルなどを聴いてきたファンにとっては、この作品が何か戸惑うようなサウンドだったことは正直告白せねばならない。筆者のようにパンク以降のニュー・ウェイヴの流れを聴いてきた者には、ソニック・ユースやダイナソーJR、ピクシーズといったギター・バンドに比べ頭抜けてハード・ロック色が強いと思われたからだ(日本盤ライナーノーツはクロスビートからBURRN!に移った編集の人<逆でしたっけ?>だったという印象も強かったかも)。それはともかくこのアルバムはアメリカ国内を中心にジワジワと売り上げを伸ばしていき(この背景にはバンドの過酷なロード・ツアーの成果もある)遂には’91年暮れの時点で30万枚(この種のバンドとしては異例のことだった)を売った。MTVでシングル スメルズ・ライク・ティーン・スピリット のビデオ・クリップが頻繁にかかるようになる’92年には同曲は全米1位を獲得する快挙を成し遂げた。このヒットの背景にはよく’ジェネレーションX’とかフラストレーションを抱えた無気力世代とか呼ばれる層がアメリカのマーケットの中心になっていたことが言われる。しかし、その需要を満たす条件に適ったバンドは、アートっぽいスマートさを持つソニック・ユースやインテリ大学生臭さ漂うダイナソーではなく、ある種の’ベタさ’と斜陽な地方都市周辺特有の秘めた熱さを持ったニルヴァーナだった。
急速に有名になったバンドとそのカリスマ、カート・コバーンはこうした状況やゴッシプに面喰らい、悩まされた。それでもヨーロッパ中心にライヴ活動は続け、この時期来日も果たしている。オアシスが武道館で演るのを当たり前と思っている若いファンには信じられないだろうが、 ニルヴァーナ>の公演はクラブ・チッタ川崎や名古屋、大阪などのクアトロ系のハコを廻るものだった(どの会場でもパジャマを着てカートは演奏した〜リヴァー・フェニックスが映画で演じた役のように意識と関係なく唐突に眠ってバタンと倒れてしまう病気に罹っているからだとウワサされた)。
’グランジ’という言葉はひとり歩きを始め、一大現象とさえ言えるものとなっていた。グランジ・ロックの名のもと、以前ではメジャー・カンパニーが見向きもしなかったようなバンドが幾つもメジャー・デビューした。それはある種の人には、セックス・ピストルズが出現し隆盛を誇ったUKパンクの状況と似たものに思えた。実際、現在活躍する優れたオルタナティヴのアーティストがこのグランジというムーヴメントを何処かしらで意識せざるを得ない、という状況がそれを物語っている(パンク同様シーンを一掃し、ポスト・パンク的な、より幅広い音楽性を生んだ)。
’92年、カート・コバーンはホールのコートニー・ラヴと結婚、愛娘フランシスを授かる。この頃、ゴシップ・ネタをエスカレートさせるマスコミに対するカートの不満、憤りが頂点に達していたことや、クスリのせいで、カートはむやみやたらと過激な発言・行動をするようになる(同業のバンドへ向けられた批判も…)。またMTVアウォードに出演した際にはのちにイン・ユーテロに収録される レイプ・ミー を演奏しようとして曲目変更を迫られたという事件もあった。入手困難だった初期のシングルなどを集めた編集盤 インセスティサイド を’92年にリリース。
’93年9月アルバム イン・ユーテロ リリース。プロデューサーは元ビッグ・ブラッグ〜レイプマン、現シェラックのスティーヴ・アルビニ。シカゴ・アンダーグラウンドの頑固一徹インディ・オヤジとして知られたアルビニ起用は、行き届いた前作のサウンド・プロダクションの反動とも、へそ曲がりなパンク魂とも言われた。果たして出来あがった作品は’剥き身のサウンド’が気持ちのいい快作となった。11月、のちにアルバム MTVアンプラグドとして音源化されるセッションの番組収録。
イン・ユーテロ の評判も上々で、 ニルヴァーナの次の活動にもリスナーからの注目が集まっていた頃のことだった。’94年に入ってカートがローマの宿泊先でドラッグのショックで倒れたという事故が起こる。またそんな記憶もまだ生々しい4月、さらに衝撃的なニュースが――カート・コバーンがピストル自殺を遂げたというニュースが世界を駆け巡った。死体が発見されたのは4月8日、しかしその6日ほど前から行方不明になっていたため、当初命日は4月1日だろうと言われていたが、現在では公式に4月5日が命日とされている。
カートは心底忌み嫌っていたロックスターに祭上げられ、最終的にはその重圧に耐え切る事が出来ず、銃で自らの命を絶った。そういった経緯だけに注目し「ナイーヴ過ぎる」「弱い人間」という厳しい意見を寄せる者も少なくはないが、彼の弱さや脆さ優しさといったところ全部をひっくるめた「人間臭さ」にはなおさらの共感や親近感を覚えてしまう。いつか何かを諦めたり、妥協していかなければならない、この世知辛い世の中でもオレはまだパンクスで在り続けたいという想い・・・それを青臭いと笑いたければ笑えばいい。そんなカートの青臭さこそが彼をいつまでも忘れられない存在にしているのだ、と思う。
for Bronze / Gold / Platinum Stage.
top 100 most influential artists The List So Far....
- 1. John Lennon
- 2. Miles Davis
- 3. Elvis Presley
- 4. Bob Dylan
- 5. Bob Marley
- 6. Jimi Hendrix
- 7. Louis Armstrong
- 8. Paul McCartney
- 9. Chuck Berry
- 10. David Bowie
- 11. Eric Clapton
- 12. James Brown
- 13. Frank Sinatra
- 14. Aretha Franklin
- 15. Robert Johnson
- 16. Brian Wilson
- 17. Burt Bacharach
- 18. Marvin Gaye
- 19. Kurt Cobain
- 20. Phil Spector
- 21. Jimmy Page
- 22. Billie Holiday
- 23. Antonio Carlos Jobim
- 24. Otis Redding
- 25. John Coltrane
- 26. Stevie Wonder
- 27. Carole King
- 28. Quincy Jones
- 29. Freddie Mercury
- 30. Madonna
- 31. Jeff Beck
- 32. Frank Zappa
- 33. Joao Gilberto
- 34. Curtis Mayfield
- 35. Ella Fitzgerald
- 36. Charlie Parker
- 37. Janis Joplin
- 38. Neil Young
- 39. Hank Williams
- 40. Michael Jackson
- 41. John Williams
- 42. Bill Evans
- 43. Joni Mitchell
- 44. Elton John
- 45. John Lydon
- 46. Fela Ransome Kuti
- 47. Jim Morrison
- 48. George Harrison
- 49. Thelonious Monk
- 50. Duke Ellington
- 51. Ozzy Osbourne
- 52. George Gershwin
- 53. Little Richard
- 54. Keith Richards
- 55. Marc Bolan
- 56. Brian Eno
- 57. B.B. King
- 58. Lou Reed
- 59. Ryuichi Sakamoto
- 60. Cole Porter
- 61. Pete Seeger
- 62. Serge Gainsbourg
- 63. Prince
- 64. Ray Davies
- 65. Sly Stone
- 66. Woody Guthrie
- 67. Bud Powell
- 68. Sam Cooke
- 69. Herbie Hancock
- 70. Ennio Morricone
- 71. Todd Rundgren
- 72. Elvis Costello
- 73. Sergio Mendes
- 74. Tatsuro Yamashita
- 75. Duran Duran
- 76. Kiss
- 77. Ray Charles
- 78. Richie Blackmore
- 79. Muddy Waters
- 80. Nat King Cole
- 81. Haruomi Hosono
- 82. Syd Barrett
- 83. Chet Baker
- 84. Wes Montgomery
- 85. Iggy Pop
- 86. Buddy Holly
- 87. Henry Mancini
- 88. Jerry Garcia
- 89. Sting
- 90. Paul Weller
- 91. Jaco Pastorius
- 92. Sunny Boy Williamson
- 93. Eddie Van Halen
- 94. Norman Cook
- 95. Brian May
- 96. Beck
- 97. Devo
- 98. Charley Patton
- 99. Count Basie
- 100. Captain Beefheart
