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100人の偉大なアーティスト - No.11

2003年6月11日 (水)

かつてはジェフ・ベックジミー・ペイジらとともに英国ロック3大ギタリストと呼ばれたり、また「ロック・ギターの神様」とさえ呼ばれ、現在ではロック界最高峰のスーパースターのひとりとなっているエリック・クラプトン。もはや説明不要なほどに優れたギタリストとして認知される彼だが、そのギター・プレイの特徴を一言で言い表すとなると、やはり「ブルース・コンプレックス」という言葉を使わなくてはならないだろう。ヤードバーズジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズ時代は言うまでもなく、60年代後半のロックを牽引する存在のひとつだったクリームでのプレイ、ブラインド・フェイスの全米ツアーで知り合ったデラニー&ボニーの南部ロックへの憧れに始まる後のソロ作から現在まで、直接的であれ、間接的であれクラプトンは一貫して大枠でブルースというスタイルを離れたことはない。1992年のアンプラグド(Unplugged) 大成功後に、全曲ブルースのカヴァー集 フロム・ザ・クレイドル(From The Cradle)を発表したことなどを象徴的な出来事として思い出してもらえば、近年の彼しか知らないという音楽ファンにも、このことはすんなりと想像してもらえるだろう。クラプトンにとってブルースとは、いわば「絶対的なもの」としてあり、「永遠の憧れ」であり、「信仰」であり、常に戻っていける柔らかな「安息の地」なのだ。このことは勿論、良い、悪いの問題ではないのは明白で、個人の信仰といった種類のものに音楽ファンがケチをつける筋合いはないのだが、いずれにしても幼少期のトラウマやドラッグに悩まされた時期もあったクラプトンにとってのブルースとは心の拠りどころとして常に心の中に存在する特殊なものであることは間違いない。そしてまたクラプトン独特のエモーショナルなギター・サウンド自体の良さもさることながら、こうした当たり前の人間臭さや弱さにも通じる部分が、彼の音楽のそこここに見え隠れするところがファンに支持されているということも多分にあるのではないかと思う。

上述したようにエリック・クラプトンは、まず何よりも名ギタリストとして知られている。そしてその存在感あるギターの一方で、やや過少評価されているのではないか、というのが彼のシンガーとしての魅力である。勿論エリック・クラプトンのヴォーカル、特に70年代頃のものは、決して技巧的に上手いというものではないし、ドラッグの影響もあるのか不安定な部分も多い。しかしだからこそ訴えかけてくる歌というのもある。その時期のクラプトンの歌中で、ときに苦しそうに声が裏返りそうなところがあるが、それはこれ以上ないほどにエモーショナルだし、ブルースの安定感といったものとは趣を異にする白人ロック的なリアリティに溢れている。決して同一化できない黒人音楽へのコンプレックスといったものを抱きがちな英国白人ロック・ミュージシャンの歌が、それに憧れつつ対象化しながら作り上げる音楽が、ある種のロック・リスナーの心に切実に響く。上に触れたギターの部分と重複するが、クラプトンの生い立ちや、彼に付随する悲劇的な物語性と相俟って、そうしたパターンの最良のものがここに現われるのだ。

エリック・クラプトンは1945年3月30日、イギリスのリプレイに生まれた。そして当時の親の事情からクラプトンは生後から祖父母に育てられ孤独な少年時代を送ったといわれている。やがて成長したクラプトンはキングストン・アートスクールで学ぶかたわら、17歳でギターをプレイし始めている。その頃のお気に入りはチャック・ベリービッグ・ビル・ブルーンジーで、プリミティヴなロックンロールからR&B、ブルースといった音楽に惹かれていった。クラプトンマンフレッド・マンマクギネス=フリントのトム・マクギネスらとルースターズというR&Bバンドを結成するが、このバンドはまもなく解散。その後1963年アンソニー“トップ”トッパムに替わって、ヤードバーズに参加することになる。ヤードバーズでギターをプレイし、繰り出されるフレーズに比較して手の動きがゆっくりしているという奏法から、「スロー・ハンド」というニックネームを頂戴しながら、ヤードバーズの花形ギタリストとして活躍。しかし1965年には早くもバンドのコマーシャルな方向性を嫌い、クラプトンヤードバーズを脱退してしまう。

ジョン・メイオールの誘いで彼のバンド、ブルース・ブレイカーズに加入し、ここでギタリストとして大きな評価を受けるが、それも長続きはしなかった。ジョン・メイオールのやや堅苦しいとも言えるブルース至上主義に嫌気を感じたクラプトンは、ブルース・ブレイカーズを脱退してしまうのだ。そして1966年いよいよ60年代ロックの重要グループ、クリームの結成。

ジャック・ブルースジンジャー・ベイカーというプレイヤビリティの優れたメンバーとともに、クリームは史上最強のトリオと呼ばれるまでの音楽的業績を打ち立てたのだった。しかしクリームはメンバー間のゴタゴタなどもあり、1968年に解散。またもクラプトンは新たな地平を目指し、活動を模索していくことになる。元スペンサー・デイヴィス・グループトラフィックスティーヴ・ウィンウッドらと組んだ「スーパー・グループ」ブラインド・フェイス。しかしこのプロジェクトはアルバムこそ売れたものの、スーパー・グループらしい白熱した内容を期待したファンにはややウケが悪く、結局期待ほどの成果を上げられないままあえなく解散の憂き目を見る。そしてここがクラプトンの本格的なソロ・キャリアの出発点になった。

ブラインド・フェイスの前座を務めたデラニー&ボニーに惚れ込んだクラプトンは彼らのツアーに同行。このデラニー&ボニーとの出会いが、クラプトンのその後のキャリアに大きな影響を及ぼしたともいえるかもしれない。彼らとの共演で歌うことにも興味を持つようになったクラプトンはソロ・デビュー作 エリック・クラプトン(Eric Clapton)を1970年に発表。と同時にこの年、クラプトンデレク&ドミノスを結成。名曲 “レイラ” を吹き込んでいる。

デレク&ドミノスのファースト・アルバム いとしのレイラ(Layla And Other Assorted Love Songs)は全米16位というまずまずの結果だったが、シングルの“レイラ”は1971、72年と二度チャートに入り、最高位10位という記録を残した(その後1974、77年にもチャート・インしている)。

その後、セカンド・アルバムをレコーディングするデレク&ドミノスだが、その途中トラブルであっけなくグループは解散してしまう。ただフィルモア・イースト公演での模様を収めたライヴ作 イン・コンサート(In Concert)はリリースされ、こちらは全米20位というヒットを記録している。

そして同時期だが、エリック・クラプトンは1971年8月に、ジョージ・ハリスンが提唱した「バングラディッシュ救済コンサート」に参加する一方で、デレク&ドミノスの解散、親友デュアン・オールマンの死といった辛い出来事も関係したか再起不能説が流れるまでにヘロインにとりつかれてもいた。そうした中、クラプトンの身を案じたザ・フーピート・タウンゼントロン・ウッドスティーヴ・ウィンウッドらは彼の再起に手を貸し、1973年1月にはレインボー・シアターにてコンサートを催すことにする。なおこの模様は レインボー・コンサート(Rainbow Concert)としてアルバム化された。

エリック・クラプトンが健康と活動への意欲を回復するようになるのは、翌1974年のことだった。彼は新バンドを率いてマイアミで新作のレコーディングを敢行。その作品は 461オーシャン・ブルーバード(461 Ocean Boulevard) というタイトルで同年に発表された。同作品は「レイドバック」という当時の流行語を地でいくような作風であり、またボブ・マーリーのカヴァーであるシングル“アイ・ショット・ザ・シェリフ”はアルバムとともに全米ナンバーワンを獲得するヒットとなった。

1975年、前作の流れを汲んだ作風のアルバム 安息の地を求めて(There's One In Every Crowd) を発表。また同年には エリック・クラプトン・ライヴ (E.C. Was Here) を発表しているが、これは1974〜75年のアメリカ、イギリスでのツアーの模様を収録したものだった。続いて1976年には アルバム ノー・リーズン・トゥ・クライ(No Reason To Cry) を発表。ここではボブ・ディランザ・バンドがゲスト参加しているが、同年のザ・バンドの「ラスト・ワルツ」コンサートにエリック・クラプトンは参加したりもした。

1977年、アルバム スローハンド (Slowhand) を発表。名曲“コカイン”を収録した同作からはシングル“レイ・ダウン・サリー”が全米最高位3位を記録するヒットとなり、アルバム自体もプラチナ・ディスクに輝く。また翌1978年には バックレス(Backless)を発表するが、これも前作に引き続きプラチナ・ディスクとなり、人気のほどを見せつけた。

しかしクラプトンはこの バックレス(Backless)を最後にバンドを一新する。これまでのアメリカ人中心のメンバーから、元ヘッズ・ハンズ&フィートアルバート・リーはじめ、全員がイギリス人というメンバーに替わったのだった。そしてこのメンバーで行われた1979年の通算4回目の来日公演は、ジャスト・ワン・ナイト/ライヴ・アット・武道館 (Just One Night) という二枚組のライヴ・アルバムとしてリリースされた。

この後80年代のエリック・クラプトンのオリジナル・アルバムを追っていくと…1981年 アナザー・チケット(Another Ticket)、ワーナー移籍第一弾の1983年 マネー・アンド・シガレッツ (Money And Cigarettes) 、1985年、ビハインド・ザ・サン (Behind The Sun) 、1986年 オーガスト(August)、1989年 ジャーニーマン (Journeyman)となる。なお厳密にはオリジナル作とはいえないものの、映画「ホーム・ボーイ」のサントラには14曲もの新曲を提供したことも付け加えたい。

90年代に入り、エリック・クラプトンはライヴ活動を精力的に行うようになったが、その成果は1991年10月発表の 24ナイツ〜ライヴ(24 Nights)で聴くことができる。また同年には沈黙していた旧友ジョージ・ハリスンを表舞台へと引っ張り出し、自らがバックアップしてジョージのツアーをお膳立てしたことも忘れられない。12月にはその来日公演も実現した。しかし表向きの活動の充実振りとは裏腹に、クラプトンの1991年は、決して幸せな年ではなかったという。プライベートでは正式な結婚をしないままであったイタリア人女優ロリ・デル・サントとの関係が修復できず、彼女との間の息子コーンと一緒の生活ができないまま孤独な生活を送っていたといわれるし、それから間もなくしてその息子コーンを突然の事故で失ってしまうという大きな不幸にも見舞われている。実はジョージとの共演ツアーもそうした現実から逃げるためでもあったと噂されていたのだった。

1992年2月、全曲をクラプトンが手掛けた映画サントラ「ラッシュ」 発表。中でも天国に召された愛息コーンに捧げた“ティアーズ・イン・ヘヴン”は、全米第二位のヒットを記録。また時を同じくして3月には、のちにアンプラグド(Unplugged) として作品化されるMTVの「アンプラグド・ショウ」にて同曲の演奏を披露してもいる。

1993年春のグラミー賞を6部門受賞し、「アンプラグド・ブーム」を捲き起こしたエリック・クラプトンは、翌1994年に全編ブルース・ナンバーで占められたアルバム フロム・ザ・クレイドル(From The Cradle)を発表。またその後はベイビーフェイスとの共作でサントラに使用された“チェンジ・ザ・ワールド”のヒット、TDFなる打ち込みの覆面プロジェクトなどを経て、1998年にはアルバム ピルグリム(Pilgrim) を発表。またワーナー/リプリーズ時代のベスト盤 クラプトン・クロニクルズ(Clapton Chronicles)をリリースし、90年代を締め括った。

若い世代にも広く知られるきっかけとなったヒット作 アンプラグド をきっかけに、90年代後半を再び充実した活動で締め括ったエリック・クラプトンだが、現在もその好調の波は続いているようだ。2000年にB・Bキングとの競演作 ライド・ウィズ・ザ・キング(Ride With The King) 、2001年には単独のアルバム レプタイル(Reptile)を発表。また余談ながら格闘技好きのクラプトンは、しばしばK-1の試合を観に、来日しているところが目撃されている。

誰もが認める「ギターの神様」エリック・クラプトン。そして、その「のっぴきならない」エモーショナルなギター・サウンドに加え、歌表現まで含めたブルースの追求に目覚めたことが、エリック・クラプトンの音楽に強い訴求力とポピュラリティを付け足したのではないだろうか、と個人的には思う。かつては確固としてあったような黒人ブルースマンの影響を受けた白人ロック・ミュージシャンという図式が壊れてきたのが現在で、例えば ロバート・クレイという比較的最近の黒人ブルースマンは自らの音楽性を築く時点で、既にブルースを消化した白人ロックをその原点に持っているし、クラプトンと共演したベイビーフェイスという広くポピュラー音楽界を見渡す才能が見出したものもそうした図式と無関係ではないものだった。あのヒットした MTVアンプラグド アルバムや チェンジ・ザ・ワールド に息づく「歌の力」は、ブルースをかつてのようにギターのみならず歌込みで追求してきたクラプトンのひとつの大きな結果を示すものであったといえるかもしれない。

ともあれ、最近の作品でクラプトンは、いつになく瑞々しい姿を見せてくれた。下卑た話になるかもしれないが、我々のような、いちリスナーには到底想像もつかない額の財産を既に稼ぎ出しているクラプトンが今後どのような表現をしていくのかは想像の域を出ない(ライヴ活動はもうしないという話もあったし)。しかし一方で「ブルース」という業(カルマ)を常に抱えている彼が、そう易々とその業から逃れられるようなことはない、という気もする。少し残酷な話かもしれないが、そうしたショウビズの世界にある「不幸の構造」を誰よりも体現してきたのがクラプトンであるだけに、今後の展開が読めないところも正直言ってあるのだ。

エリック・クラプトンは今後も自らの歌とギターを中心にして、自分流のブルースとポピュラー音楽との幸福な邂逅を別の形で見せてくれるだろう。そんな気がしてならない。

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