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100人の偉大なアーティスト - No.18

2003年6月4日 (水)

モータウンが生んだ音楽史上、最も偉大なアーティスト、マーヴィン・ゲイ。1939年、4月2日、キリスト教ペンテコステ派の牧師の息子としてワシントンDCに生まれた。因みに本名はGayeではなくGayである。幼少の頃から父親の所有する教会の聖歌隊で歌い始め、8歳の時に弟のフランキーとゴスペル・デュオを結成、同時にオルガン、ドラムスといった楽器類を独学で習得し始める。’54年、地元のハイスクールに進学したマーヴィンは、オーケストラでピアノとドラムを担当するようになるが、やがて退学し、マーヴィンが志す世俗音楽を快く思わなかった父の勧めで、強制的に軍隊入りさせられてしまう。しかし、そこでの生活に疑問を抱いたマーヴィンは1年足らずで除隊し、’59年頃にはハイ・スクール時代の友人とマーキーズなるグループを結成、本格的な音楽活動を開始した。

その後、ムーングロウズのハービー・フークワに認められ、同グループに参加したマーヴィンは、’61年、DCからデトロイトに移住、モータウン傘下のタイム・レーベルとソロ・アーティスト契約を結ぶ。デビュー・アルバム「ザ・ソウルフル・ムード・オブ・マーヴィン・ゲイ」を発表するも、スタンダード系のナンバーを集めてジャジーな歌唱を聴かせるこのアルバムは商業的に失敗に終わってしまった。’62年、ハードなR&B色を打ち出した"スタボーン・カインド・オブ・フェロウ"がR&Bチャートで最高8位となる初の大ヒットとなったマーヴィンは翌年、同曲を含む2ndアルバム「ザッツ・スタボーン・カインド・フェロウ」を発表、マーサ&ザ・ヴァンデラスを従えたシングル曲"プライド・アンド・ジョイ"はポップ・チャートでも初のトップ10に入るビッグ・ヒットとなって、マーヴィン・ゲイの名はたちまち有名となり、私生活でもモータウン社長、ベリー・ゴーディJr.の姉アンナと’61年に結婚していた彼はその後レーベルのプリンス的存在として君臨する事になる。

シュープリームスとの共演も経て、マーヴィンは’64年,当時モータウンの看板女性シンガーだったメアリー・ウェルズとのデュエット・アルバムを発表、これを期に、’66年にはキム・ウェストン、そして’68年にはタミー・テレルといった女性達と組んで一世を風靡、マーヴィンは押しも押されぬ人気者となり、名実共にスターとしての地位を築き上げた。ソロでも’65年発表の「Moods Of Marvin Gaye」からは初のR&BチャートNo. 1となった"I'll Be Doggone"、"Ain't That Peculiar"といったシングルをリリース、また、彼が最も尊敬するシンガー、ナット・キング・コールに捧げたアルバム等、スタンダードへの拘りは忘れず、他にも2枚のスタンダード集を残している。’68年11月、グラディス・ナイト&ザ・ピップスのカヴァー"悲しい噂(I Heard It Through The Grapevine)"で初の全米No. 1を獲得、続く"Too Busy Thinking About My Baby"も大ヒットとなった。’70年3月、タミー・テレルが脳腫瘍のため死去、その悲しみから1年間は一切の音楽活動を中止し、対人恐怖症に陥り、内省的な日々を過ごした。


そして、彼にとってまさに決定的な転機となったのが、’71年2月に発表したモータウン初のトータル・コンセプト・アルバム「ホワッツ・ゴーイン・オン」だ。ヴェトナム戦争や公民権運動など、当時の社会問題をあらゆる視点から捉え、訴えたこのアルバムは興行的にも大成功を収め、ソウル史に燦然と輝く名作として今尚音楽ファンの胸を熱くさせ、後世のアーティストに歌い継がれている。タイトル曲に加え、"インナー・シティ・ブルース"、"マーシー・マーシー・ミー"等、誰もが耳馴染みの深いナンバーだ。当時流行だった”ブラック・シネマ”のサントラ「トラブル・マン」を経て、’73年には、「What〜 」とがらりと趣を変え、セックス”をテーマにしたもう一つの傑作「レッツ・ゲット・イット・オン」を発表。タイトル曲は5年振りの全米No.1となり、セックス・シンボルとして世の女性達の視線はマーヴィンに釘づけとなった。のちのライヴ・アルバムでも熱唱する「Distant Lover」での彼のヴォーカルもやはり忘れられない1曲だ。同じ年、久しぶりのデュエット・アルバムを発表、そのお相手ダイアナ・ロスと"ユー・アー・エヴリシング"、"ユー・アー・ア・スペシャル・パート・オブ・ミー"等の名唱を残した。


'76年、「Let〜 」路線を極めるアルバム「アイ・ウォント・ユー」を発表。名ソング・ライター、リオン・ウェアが自分自身のアルバムのために書き下ろした曲を、モータウンが買い取ってマーヴィンに歌わせたという経緯ながら、結果的には本作も彼の代表作として位置付けられる傑作に仕上っている。R&Bチャート1位となったタイトル曲でのマーヴィンのヴォーカルはまさにセックス・シンボルを体現するものだった。2ndシングル"アフター・ザ・ダンス"もまたその極み。しかし、実生活においては、アンナとの離婚問題やモータウンとの不和といった事が取り沙汰され、悩み苦しむ日々が続いた。’78年、その印税が全てアンナへの慰謝料となるアルバム「離婚伝説」を発表後、ハワイ、ロンドン、ベルギーと移り住み、一時、音楽シーンから姿を消してしまう。見かねたモータウンが制作進行中だったアルバム 「イン・アワ・ライフタイム」 をマーヴィンの意向を無視して発表した事から、両者に決定的な亀裂となり、遂にレーベルを離脱。’82年、CBS/コロンビアに移籍し、再起第1弾シングル"セクシャル・ヒーリング "をリリース、R&BチャートNo. 1,ポップ・チャートでも3位を獲得する久々のヒットとなった。同年、同曲を収録した「ミッドナイト・ラブ」を発表し、完全復活を遂げ、翌’83年には始めてグラミー賞を獲得する。

しかし、まさにこれから第2のマーヴィン時代到来という時に、あの悲劇は起こってしまう。’84年、マーヴィンの45歳の誕生日の前日の4月1日、両親のL.A.の実家に帰ったマーヴィンは、口論の末、父親に射殺されその短い生涯を閉じる。昨年、彼の生誕60周年を記念して制作されたトリビュート・アルバム「Marvin Is 60」を取り上げるまでもなく、死後もマーヴィンの魂(Soul)を継承するアーティストは後を絶えない。それほどマーヴィンの残した遺産は大きいのだ。

2001年、「ホワッツ・ゴーイン・オン」録音時の未発表音源が発掘され奇跡のCD化(「Deluxe Edition」)となり、ファンを狂喜乱舞させた。
※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

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