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2016年8月2日 (火)

連載 許光俊の言いたい放題 第249回


 ここ30年以上、日本でももっとも影響力があった音楽評論家は、吉田秀和と宇野功芳のふたりである。これはもう間違いがない事実だ。
 しかし、このふたりは実に対照的だった。吉田の主戦場は新聞と文芸誌と放送。それに対して宇野は音楽雑誌。吉田はいかにもな教養人でインテリだったが、宇野はインテリを嫌った。吉田の評論を好む人は宇野を馬鹿にし、またその逆でもあった。吉田は、「クラシックも聴く教養主義者」にもアピールしたが、宇野はマニアに愛読されることが多かった。意外な共通点は、ふたりとも文中でときたま、自分は体が弱いと言っていたのに、長生きしたことか。
 ふたりとも、自分のスタイル=文体を持っていたが、それも対照的だった。吉田の文章は、息が長い。まず何かテーゼを立て(たいがいは、「世の中ではこう言われている・・・これが通説である・・・」)、それをめぐって展開することが多い。「それは確かにそうで云々・・・しかし」というイエス・バット型で書くのが好きだった。ただし、文章ではそういうふうに書いても、しゃべるときは先に結論を言う。書き言葉と話し言葉の使い分けをしていたのだ。うまい。賢い。
 宇野の場合は、結論を隠さず、先に書いてしまうことが多い。刺激的な比喩が連発される。しかも、「この曲の録音のベスト3は・・・」といった、これ以上なくわかりやすい文章だ。褒めるものは徹底的に褒め、けなすものは猛烈にけなした。吉田がしばしばあえてぬるく書くのとは正反対だった。
 宇野は感覚的人間だったから、時々、誰も指摘しない鋭いことを何気なく書いたが、おそらく本人は、それがどれくらい鋭いか気づいていなかっただろう。他方、吉田は自分が書く言葉の意味をすべてよく知っていたと思う。
 吉田は演奏の全体性を無視できなかったが、宇野は瞬間的な誘惑に思う存分身をゆだねた。人には固有の時間感覚がある。
 このふたりの文章はこれからも長く読み継がれていくことだろう。残念ながら、そう書くことはできない。評論家は、たとえその時代にどれほど影響力があっても、死ねば終わってしまうのが常だ。音楽に限った話でもない。今、野村光一や江藤淳の評論をありがたる人など、ほとんどいまい。読めば読んだでおもしろい。でも、何か古い新聞のようなのだ。知らず知らずのうちに時代は動いている。評論家はその中で生きていてなんぼの仕事である。そこが創作家と違うところだ。
 私はどちらとも個人的に知り合う機会がなかったが、そういう機会を作ろうとも思わなかった。評論家なのだから、文章だけ読んでいればいいのである。

 さて、一度書いておかなくてはと思っていたのが、その宇野が指揮をし、佐藤久成がソロを弾いたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲についてだ。もう1年近く前に発売された盤だ。
 実は私はこの曲が苦手である。チャイコフスキーは好きだが、ヴァイオリン協奏曲は嫌いなのである。聴くのがほとんど苦痛なのである。イライラするのである。理由ははっきりしている。第1楽章でバリバリ弾きまくる独奏、これが私にはほとんど練習(曲)にしか聞こえないのである。左手を鍛えるために、むやみと上がったり下がったり・・・。
 言い換えると、とりあえず音符はたくさん書かれているが、チャイコフスキーはあまり書きたいことがなかったのではないかと思ってしまうのである。言うことがないから、むやみと指の運動にかまけてしまったのではないか。この点が、同じようにロマンティックなヴァイオリン協奏曲として人気があるシベリウスの作品とは全然違う。シベリウスのほうは、まったく無駄を感じさせない。実はチャイコフスキーは、バレエ作品を見ればわかる通り、つじつまを合わせるためにとりあえず音符を書いてしまうことをした人だった。そういうときはいかにも気が乗らない様子が漂う。
 ところが、佐藤の録音は、この曲にはうんざりする私にとって、非常に例外的な演奏だったのだ。今までの彼の演奏を聴いたことがある人なら容易に想像できる通り、大きく伸縮し、細部まで意志を徹底し、意味づけする。そんな方法を小曲ではなく、この規模の曲で行うとどうなるか。実に不思議なことになる。たとえば、最初の登場からしてそうなのだが、基本テンポがわからないという奇妙な錯覚にとらわれる。たとえば、私が現代最高のヴァイオリニストと信じて疑わないムターの場合、どれほど音楽を崩しても、基本テンポが常に生きている。それがあっての逸脱ということがはっきりしている。これが、まずは演奏の王道だろう。ところが、佐藤の場合は、異様にたっぷりと音符を鳴らし、粘り、歌い、G線ではブレーキがかかったようにうなり、思いがけない音が強調されるので、しばしば何の曲を聴いているかわからなくなる。あの19世紀音楽の典型的なスコアが目の前に浮かんでこない。
 まだ始まって数分なのに、時間感覚が失われてしまう。よく知っている曲なのに、今どこにいるかがわからなくなってしまう。オーケストラだけのところになると、いきなり夢が覚めたみたいに普通の音楽に戻るので面食らってしまう。第1楽章の演奏時間は約20分だが、とうてい20分には感じられないはずだ。はっと気づくとまだ終わっていない・・・。退屈というものでもない、この不思議さ。
 第2楽章では、ひとつの音符がひとつの音ではなく、音色や強さを変えていく。最近有名になったヴァイオリニストの中には、まるでピアノのように、すなわち、ひとつの音の複雑さ、微妙な音程の上げ下げに無関心なヴァイオリンを弾く者が少なくない。しかし、それではヴァイオリンの表現力や可能性は大幅に割り引かれてしまう。蟻が這うようなスピードで奏されるソロについていくオーケストラには緊張感が漂う。そりゃそうでしょう。
 この楽章の終わりのほうは、まるでシューベルト「冬の旅」のとぼとぼした歩みのようでびっくりだ。そして、顔を上げると窓には光。幸せそうな笑い声。情けなさにこぼれる涙。そんな私小説的なシーンが連想されてしまう。そう、これはまさしくヴァイオリンによるオペラのアリアなのである。
 フィナーレも音楽を大きく揺さぶる。印刷された白と黒の楽譜ではなく、もっとライヴな音楽の感じがする。おそらく19世紀の演奏は少なからずこのようなものだったのではないか。リスト、パガニーニ、ラフマニノフ・・・大演奏家の演奏は魔法と呼ばれることが多かった。そんなことを思い出させる。

 それにしても、なんだか人がよく死ぬ去年から今年。最近も打楽器のペーター・ザドロ、中村紘子・・・追悼文も追いつかない。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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