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カラヤン -人生・音楽・美学- 第VII章

2008年9月5日 (金)

第VII章 1962〜1965年 陰謀の街

文●阿部十三

「退陣〜ウィーンを去る」

 労働争議以降、政府と組合間の溝は深まる一方だった。1962年2月1日、文部大臣のハインリッヒ・ドリメルは、争議が解決しないならウィーン最大の行事の一つであるオペルン・バルを中止すると警告した。その後、政府は争議を支援しているカラヤンが旅行に出ている間に組合側と交渉を開始、2月5日に合意が成立した。
 この一件で政府に出し抜かれたカラヤンは、「芸術監督や歌劇場当局者を故意に除外した上で、妥協的調停案に合意したという事実は、芸術監督の権限に対する重大な侵害です」と辞表を提出。これには多くの人々がショックを受けた。2月8日、歌劇場スタッフはカラヤンのための同情ストライキを行い、翌日にはオーケストラも「カラヤン氏が芸術監督の地位に留まることを熱望する」との声明を発表した。
 様々な駆け引きが行われた末、カラヤンは芸術監督に復帰。3月19日に上演された『アイーダ』は熱狂的に迎えられ、改めてその絶大な人気ぶりを示した。
 1963年1月にはミラノでプッチーニの『ボエーム』を指揮、大成功を収めたが、5月にはウィーンで思わぬアクシデントに直面した。同月13日の演目が変更になっていたことを主役の歌手が知らされておらず、当日になって突然公演中止となったのである。これにより歌劇場のずさんな管理体制が露呈してしまった。
 6月、カラヤンは共同運営者としてエゴン・ヒルベルトを採用することに同意した。ウィーン音楽界のフィクサーで、我が強いヒルベルトの座長就任を、なぜカラヤンが容認したかはわからない。2人は最初からウマが合わなかった。
 11月3日、ウィーンでの『ボエーム』公演初日、カラヤンが呼び寄せたイタリア人プロンプターに反発した組合側が、本番50秒前にストライキに突入。場内は大混乱に陥り、ヒルベルトとカラヤンが舞台に上がって観客に釈明した。その際、ヒルベルトが事前に声明文を用意していたことから、このストは仕組まれたものなのではないかと噂されたが、真相は闇の中である。
 翌年には、ヒルベルトが何の相談もなくカラヤン自身の演出による『タンホイザー』の上演日を、ウィーン芸術週間の演奏会が行われる5月17日に設定。『タンホイザー』の方はオスカー・ダノンが代理で振ることになった。この挑発的な決定に激怒したカラヤンは、5月8日、「健康状態」を理由に辞意を表明した。
 ハンス・シャロウンの設計によるベルリン・フィルハーモニー・ホールの完成、ドイツ・グラモフォンとの専属契約……といったニュースが、ウィーンの音楽関係者たちを複雑な気持ちにさせていた時期の出来事だった。デッカ・ロンドンと契約していたウィーン・フィルも、カラヤンに置き去りにされた気分になり、不快感をあらわにすることがあったという。
 カラヤンは「ウィーンにはもう走らせることのできる馬はいない」と言い残し、ウィーンを去った。後に「毎日が祝祭だった」と言われた国立歌劇場の黄金時代は、こうして幕を閉じた。

「映像分野への進出」

 地位を一つ失ったカラヤンだが、名声が衰えることはなかった。8月にザルツブルク音楽祭でR.シュトラウスの『ばらの騎士』『エレクトラ』を、9月にモスクワで『ボエーム』を、1965年1月にベルリン・フィルのアメリカ公演を成功させ、さらに、3月には新たに設立した映像プロダクション、コスモテル社で『ボエーム』を制作。多大な影響力を持つ映像メディアをいち早く音楽の分野で活用しようとした。この事業に手を貸したのが若きメディア王、レオ・キルヒである。
 それまでは単にコンサートの模様を映すのが主流だったが、映像による音楽表現を追求したいという意欲がカラヤンにはあった。そのために彼は、『恐怖の報酬』や『悪魔のような女』や『ミステリアス・ピカソ 天才の秘密』で知られるフランスの名監督アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの協力をとりつけ、画期的なアイディアに溢れた音楽映画(今で言う“PV”の先駆け)を次々と作り上げていった。
(続く)

1962年から1965年にかけての代表的録音&映像作品

ベートーヴェン 交響曲全集
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

当時はまだ珍しかった分売無しのセット販売で大ヒットを記録。ドイツ・グラモフォンとの絆を深めるきっかけとなった。第九をはじめ気力充実した名演揃い。62年11月完成。
ビゼー 歌劇『カルメン』
L.プライス、コレッリ他

カラヤンに認められ、名声を確立した米国の黒人歌手L.プライスの代表盤。この録音の白眉とも言うべき「カード占いの場面」はプライスが敬愛するケネディ暗殺直後に録られた。63年録音。

ドヴォルザーク 交響曲第8番
ウィーン・フィル

覇気溢れる第1楽章と第4楽章、当時のウィーン・フィルならではの甘美な響きと優美な歌い回しが堪能できる第2楽章と第3楽章など、聴かせるツボを押さえた超名演。61,63年録音。

ブラームス 「ドイツ・レクイエム」
ヤノヴィッツ、ヴェヒター、ベルリン・フィル

カラヤンが最も得意としていた曲の一つ。芸術監督を辞任直後に録音された。磨き抜かれた響きの中に漆黒の憂愁を感じさせる演奏。ヤノヴィッツの類を絶する美声が沁みる。64年録音。
シューマン 交響曲第4番
ウィーン交響楽団

クルーゾー監督との共同作業第1弾。かつての手兵ウィーン響に的確な指示を与えながら、自分の求める音楽を具現化してゆくカラヤンのリハーサル風景は一見の価値あり。65年収録。

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