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カラヤン -人生・音楽・美学- 第T章

2008年2月28日 (木)

第T章 1908〜1929年 誕生

「君は指揮者になるだろう!」

文●阿部十三

 1908年4月5日、小雨の降る日曜日の夜、ヘリベルト・リッター・フォン・カラヤンは医師の次男としてザルツブルクに生まれた。父エルンストは甲状腺腫の治療を専門とする開業医で、祖父ルートヴィヒも医者だった。曾祖父テーオドルはドイツ文学の教授で、音楽への造詣も深く、モーツァルトの伝記の作者として有名なオットー・ヤーンとも親交があった。母マルタは感受性が強く、愛情の深い、魅力的な人だったようだ。
 ちなみに、「ヘリベルト」という名前は古いドイツ語を組み合わせたもので、「輝かしい軍隊」を意味するが、後年「ヘルベルト」に改名された。
 父エルンストは音楽愛好家で、クラリネットの演奏を趣味にしていた。息子ヴォルフガングもピアノのレッスンを始めていた。カラヤン家には音楽が溢れていた。
 ヴォルフガングはカラヤンの兄である。カラヤンは後に兄のことをこう回想している。
「兄のヴォルフガングは、1年9ヶ月年上だった。私は彼のことを慕い、彼が習うことの全てを自分でもやりたがった。彼が食べるものは私もまた食べたし、彼が持っているものは私もまた持ちたいと思った。私が3歳半の時、兄がピアノを習い始めたので、私はいつもそのピアノの下に座り、彼が言われたことをよく聞いて、彼のレッスンが終わった後、同じところを真似して弾いてみようとした」
 同じザルツブルクが生んだ天才、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと姉ナネットの関係を思わせる話である。
 両親はカラヤンに音楽的才能があることを知ると、早速音楽の勉強をさせた。4歳の時には初めてオペラに連れて行かれた。演目は『マイスタージンガー』だったが、子供は前奏曲と第一幕の途中までしか見せてもらえなかった。7歳くらいの時には『ワルキューレ』に連れて行ってもらった。しかし、今度は第2幕までしか見ることが出来なかった。
 カラヤンが初めて公開の場で演奏したのは4歳半の時。慈善団体主催の公演で、会場はレストランだった。演奏した曲はモーツァルトの「ロンド」。それからまもなく「神童」という評判が立った。
 家でのカラヤンは真面目で口数が少なく、内向的で、あまり浮かれたところのない子供だった。反面、外では活発だったようで、ヴォルフガングによると「サッカーでは我がもの顔の大将」だった。そのほかにもテニスやスキー、そしてヨットをたしなんでいた。
 第一次世界大戦が勃発した年でもある1914年、モーツァルテウム音楽院に入学したカラヤンは、そこで3人の優れた教師——フランツ・ザウアー(和声学)、フランツ・レトヴィンカ(ピアノ)、ベルンハルト・パウムガルトナー(作曲と室内楽)——から指導を受けることになる。カラヤンに指揮を勧め、「君はピアノ弾きなんかにならず指揮者になるだろう!」と予言したのは、自身も指揮者として名声を博していたパウムガルトナーだった。彼は1917年に30歳の若さで音楽院の院長に就任した後も、カラヤンのことを何かと気にかけ、音楽のみならず芸術全般において影響を与えた。
 父親が高名な医師だったおかげで、カラヤン家は戦後も貧困にあえぐことはなかった。1924年になると、カラヤンは兄ヴォルフガングと共にイギリスへ行き、3ヶ月間滞在し、英語を習得している。また、その後、やはり兄と一緒にパウムガルトナーの運転でイタリア旅行にも行った。

「暗示の力を持つ統率者」

 1926年3月にギムナジウムの卒業試験に合格すると、カラヤンはウィーンへ行き、音楽の勉強をするかたわら、ウィーン工科大学にも通った。工科大学に入ったのは両親の勧告によるものだが、彼自身、“技術”の分野に関心がなかったわけではない。工学を得意にしていた兄ヴォルフガングの影響である。
 しかし、すぐにこの道に背を向け、ウィーン音楽大学の学生として勉強に没頭した。ピアノの練習も続けてはいたが、腱鞘炎を患っていたこともあり、指揮への思いは強まる一方だった。当時彼にピアノを教えていた名ピアニスト、ヨーゼフ・ホフマンはこう言ったという。
「私の考えでは、君は指揮をするために生まれてきたのだと思う。君が思想上からも聴覚上からも満足できることといえば、指揮以外にないと思う」
 カラヤンは指揮の勉強に専心し、ウィーンで毎晩のように行われているコンサート、オペラに足を運んだ。叔父エマヌエルが国立歌劇場の管理責任者を務めていた関係で、カラヤンはリハーサルにも潜り込むことが出来た。オペラを観る前、彼はみっちり予習し、仲間を集め、歌や合唱を適当に割り振り、ピアノで全曲演奏をした。そして夜、オペラを見終わった後も皆で集まり、どこが良かったか、どこが悪かったか、夜中まで議論していた。
 音大生カラヤンの悩みは「作曲」だった。作曲が出来なかったのである。指揮科の学生は全科目で合格しなければ卒業できない。そこへ救いの手をさしのべたのが、学長のフランツ・シュミットだった。「自分の曲が書けないなら編曲の腕を見せてほしい」と言ったのである。カラヤンはベートーヴェンのピアノ・ソナタ第3番を管弦楽用に編曲し、無事に受理された。そのかわり、指揮の最終試験では「ウィリアム・テル」序曲の綿密なリハーサルでフランツ・シュミットを唸らせた。
 ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院大ホールで指揮者として正式にデビューしたのは、1929年1月22日のこと。コンサートは成功に終わり、地元紙は「棒さばきと身のこなしは静かである。熱弁をふるう指揮者ではなく、暗示の力を持つ統率者」と評価した。
 このコンサートを聴きに来ていた観客の一人が、20歳の若者の運命を変えることになる。その男はウルム市立劇場の支配人、エルヴィン・ディートリッヒ。優れた人材を探していた彼は、自分の所で試験的に指揮をしてみないか、とカラヤンに持ちかけたのである。(続く)

カラヤンに影響を及ぼした指揮者たち

ベルンハルト・パウムガルトナー
パウムガルトナー(1887-1971)は、ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院の院長で、モーツァルト演奏の権威。カラヤンが指揮者に開眼するきっかけを作ったのはパウムガルトナーである。彼はカラヤンを何度もリハーサルに連れて行き、自分の横に座らせ、「指揮がどんなものか見ておきなさい」と言った。「単なる先輩という以上に年上の友人のようだった」とカラヤンは後に語っている。また、カラヤンがバイクに熱中したのは彼の影響と言われている。

アルトゥーロ・トスカニーニ
トスカニーニ(1867-1957)は、イタリア出身の大指揮者。若き日のカラヤンは彼の公演があれば駆けつけ、厳格なことで知られるリハーサル現場に潜り込み、多くを学んだという。1930年にバイロイト音楽祭に登場した時も、カラヤンは観に行った。超人的な記憶力で暗譜し(近視だったが眼鏡を嫌ったため)、甘さや感傷を排しながらも無機的にならず、旋律を豊かに歌わせるその指揮スタイルは、計り知れない影響をカラヤンに与えた。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
フルトヴェングラー(1886-1954)は、ベルリン・フィルの音楽監督。トスカニーニとは対照的にロマンティックで主情的な解釈が特徴。ナチス時代、ヒトラーが最も重んじた指揮者でもある。カラヤンは1927年5月に初めてベルリン・フィルの公演を聴き、フルトヴェングラーの指揮に接した(メイン・プログラムはベートーヴェンの「英雄」)。カラヤンにとって憧れの存在だったが、後年、ある演奏評がもとでフルトヴェングラーの嫉妬を買い、険悪な関係になる。
カラヤンの公式デビュー・プログラム

R・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」
カラヤンにとって「ドン・ファン」は、大事なコンサートで取り上げたり、何度も録音したりと、いわば“切り札”のような作品だった。指揮の面でも演奏の面でも難曲だが、彼は相当の自信を持っていたようだ。その自信が老年になっても揺らいでいなかったことは、1984年の素晴らしいライヴ映像からも見て取れる。CDでは、1972年に録音された絢爛たる(かつ重量感のある)演奏が有名。

モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番
モーツァルトのピアノ協奏曲中、最も人気の高い作品の一つである第23番だが、カラヤンの指揮で聴くことの出来る正規録音は一種類、ギーゼキングとの共演盤のみ。絶妙なタッチで奏でられる、玉を転がすような美しいピアノに、カラヤンのしなやかなサポートがマッチしている。デビュー・コンサート時にソリストを務めたのはイェラ・ペッスル。カラヤンとはウィーン音楽大学で知り合ったようである。

チャイコフスキー:交響曲第5番
チャイコフスキーの交響曲第5番も、カラヤンが生涯にわたって振り続け、その度に熱狂的な喝采を浴びた“十八番”である。CDでは、1972年に録音された演奏が名盤として知られており、覇気に満ちていて爽快。デュナーミクのコントロール、フレージング、メロディーの歌わせ方、どこをとっても隙がない。「ドン・ファン」同様、この曲のことなら全部知り尽くしている、という自信があったのだろう。

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